バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

ひげ、上から剃るか? 下から剃るか?

 ひげ剃りって、どんな感じでやってます? というのも、ひげを剃るときって、みんなそれぞれ決まった順序があると思うんですね。だってそりゃ、肌に刃物をあてるわけですから、無秩序にはやってられないでしょう。私の場合、あ、私の場合どうするかをお話ししていいですか。すみません、私の場合は、まず顎からいきます。顎というか、喉仏のあたりから、剃刀を逆さに持って、ゆっくりこう、すいっといくわけです。というのも、私はいまだにT字剃刀を使っていまして、T字剃刀というものは、逆さにしたほうが切れ味が出るからなんですね。ひげが生える角度に対して、逆目にいくわけです。しかし実際のところどのくらいなんでしょうかね、T字ではなく電動を使っているひとの割合というのは。私も電動がいいかな、電動のほうがいいんだろうな、とは思いつつ、ただただ惰性でT字剃刀を使い続けていますね。失礼、脱線しました。とにかく、私はT字剃刀を逆さに持って、こう、顎をすいっといきます。それで、顎の頂点まで達するんですね。頂点というか、なんですか、顎先とでも形容しましょうか。そこから今度は、えらにいくわけです。右のえらから、頬へ。外側から内側へと、これも剃刀を逆さに持ってすいっといくんです。そして今度は左のえらから頬をすいっと。そして次に人中をいきます。人中というのは、ここ、鼻と唇の間のここですね。すみません、もしかするとご存じだったかもしれません。しかし私は私のひげ剃りについてひとに語るとき、いつもこの人中の説明をしてしまうんです。というのも、ご存じないひとが多いのですよ、ここを人中と呼ぶことをね。まあ私にしたって、人中と呼ぶということを知ってるだけであって、意味や由来は知りませんので、偉そうなことはいえないのですけれども。それで、まあなんですか、この人中をすいすいっと剃るわけです。そして最後に眉毛のあたりを整えるなら整えて終わり。これが私のひげ剃りの一部始終です。これを全部、T字剃刀を逆さに持ってやっているわけですね。しかし、このひげ剃りルーティーンのなかで、実は剃り残しが出てしまっているんです。というのも、私は左利きなのですが、左手でT字剃刀を逆さに持って、こう、すいすいっと顔のうえを動かしていくなかで、どうしても手首の構造上剃りにくい場所があるんですよ。それが、先ほど顎先といいましたこの顎の先の、ちょっと左、ここですね。私は割れてないのであれですが、仮に顎が割れているひとでしたら、左の山ですね。いわゆるけつ顎の、左の山です。私はここを毎回剃り残して、そのまま気づかずにお風呂を出てしまいます。結果、どういうことが起こると思いますか。そう、剃り残されたこの部分のひげだけが長く長く伸び続けていくんですね。見ていただければわかると思いますし、さわっていただいてもけっこうです。このひげがどうも、なにかの仙人みたいだということで、私は知人の間では、すけべ仙人と呼ばれています。

 僕の目の前に座っている男は、そこまでいっきに話すとレモンサワーをすすった。彼がさっき身振り手振りを交えながら話していた間に、仙人みたいだというその細長いひげの束が少し漬かってしまっていたレモンサワーだった。
 僕と彼は面識がなかった。僕と彼がどうして一緒のテーブルにいるのか、僕にはよくわからなかった。店内でサッカー日本代表の親善試合にさほど興味のない客が、このテーブルになんとなく自然に集まったのかもしれない。でも僕はサッカー日本代表にまったく興味がないわけではない。いまの代表が歴代でもトップクラスに強いことくらいは知っているし、目の前の男が顎を突き出してエア剃刀をすいすい動かしている間、奥のテレビをぼんやり見て、青のユニフォームの選手が攻めているときには少し前のめりになっていたのだ。それなのに僕は、いつのまにかこのテーブルに集められて、知らない男の知らない話を聞かされていた。一緒に店に来たはずの住岡くんは、前のほうでポロシャツをぴちぴちに着たお兄さんたちとがっしり肩を組んで試合を見ていた。
 目の前の男の、仙人みたいだというその細長いひげの束を僕は見た。毎日のひげ剃りルーティーンのなかで剃り残しになり、そこだけいつまでも剃られないまま気がつけば長く伸びてしまっていたというそのひげの束は、しかしそうとは思えないほど小ぎれいに整えられていた。およそ三十本ほどの黒く美しい毛は、長さもよく揃えられ、さっき先のほうがレモンサワーに浸かってしまっていたとはいえ、清潔な艶もあり、毎日しっかりケアされているに違いなかった。なにより、全長二十センチほどあるひげの中央のあたりが、ピンクのかわいらしいゴムで束ねられていて、そうなるともう「毎回つい剃り残しちゃう」という男の話はまったく信用ならないのだった。

 いや、あんたそのひげしっかり整えてますやん、と僕じゃないひとがいった。うちの髪よりきれいやわ。ひげの男の話を僕と同じように聞かされていた女性だった。メッシのシュートくらいきれいやん、知らんけど、と彼女は続けた。メッシのシュートがどれくらいきれいなのか僕も知らなかった。ひげの男も知らなさそうだった。サッカーのことをあまり知らない三人がこのテーブルに集まっていた。三人ともサッカーを知らないし、お互いのことも知らないのだった。うちサッカー興味ないのよ、と彼女は僕に向かっていった。そうなんですか、と僕は思った。サッカーよりよっぽどこの仙人のひげのほうに興味あるわ、と彼女はいった。それについては、悔しいけれど僕も同意見だった。
 いやあね、私としても不本意なんですよ、このひげを整えるのは、と男がいった。最初から整えていたわけではないんです。さっきの話のとおり、最初は剃り残しでした。剃り残しているうちに、いつの間にか伸びて長くなっていた。自分でも気づかぬ間に。そこまではほんとうなんです。でもね、あるときふと、知人にいわれました。なにその仙人みたいなひげ、というふうにね。そこで私も気づいたわけです。あれ、なにこの仙人みたいなひげ、とね。その時点でもう十センチくらいになっていたんでしたっけ。もう立派な仙人になっていたんですよ。しかし、気づいてしまってはもうしょうがない。あくまで剃り残しということにしながら、伸ばしていくしかないわけです。一箇所だけ長く伸びて、すけべ仙人だなんて呼ばれて。ようするに、「おいしい」と私は思ってしまったわけですね。剃り残してしまった結果、仙人と呼ばれ、みんなに愛されているというこの状況が。そうなるとこのひげは非常に大切です。私に仙人の地位をもたらしたわけですから。顎の左側だけでなく右側も伸ばしたらもっと仙人の雰囲気が増すでしょうが、そうなるととたんに剃り残し感がなくなってしまう。このアンバランスな感じも、親しみやすさを生んでいるのでしょうね。ですので、あくまで左側だけ剃り残すようにしています。あくまで自然な感じで。そうやって、剃り残してしまっている感じをナチュラルに残したいのですが、しかしどうしてもかわいくてかわいくて。だから毎日シャンプーとリンスで洗って、やさしくドライヤーで乾かして、ときどきこんなふうにゴムで束ねているんです。これくらい許されると思いませんか。
 うーん、わかんないけど、やっぱりゴムで束ねてると自然じゃなくなっちゃってますよね、と女性がいった。シャンプーとかリンスとかくらいだったらいいと思うけど。
 そうか、そうですよね。ゴムはやめます。ありがとうございます。そういうと男はピンクのゴムを外して、アロハシャツの胸ポケットに入れた。どうですか、自然な感じ、出ていますでしょうか。出ていますかね、ありがとうございます。それでね、実はここからが本題なのですけれども、と彼は今度は僕に向かっていった。あなた、ひげ剃りって、どんな感じでやってます? というのも、あなた、かなり剃り残してるんですよ。
 え、ほんまや、きみ、めっちゃひげあるやん! 毛量やば! こんな生える? なんで気づかんかったんやろ。やば。
 そう。この方の剃り残し、やばいんですよ。
 仙人どころやないやん。
 ええ、悔しいですが、正直私なんかとは比べものになりませんね。入店したとたんに目に飛びこんできました。なんだ、あの異様な風体のお方は、とね。
 異様どころやないよ。モリゾーやん。
 モリゾー、ですか。すみません、私はモリゾーを存じ上げないのですが、あなたがいうとおりおそらくモリゾーなのでしょうね。しかしあなたがこちらのモリゾー様に気づかなかったのも無理はありません。剃り残しというのは、剃り残され、忘れられているものであるわけですから、まずモリゾー様ご本人も気づいていないわけです。そうなると、周りの人間もなかなか気づきにくい。なにせご本人が平気な顔をして暮らしているわけですから。ほら、私ひげ生やしてますよ、かっこいいですよね、というアピールがまったくなされないまま、そのひげは生えているわけですから。よほどふだんからひげに興味を抱いて生活しているひとでないと、ひと目で気づくのはなかなか厳しいでしょうね。
 そういうもの?
 ええ、まあ、そういうものです。
 そんできみもなにかいいなさいよ。
 いえ、おそらく、モリゾー様はショックで固まっておられるのでしょう。なにせこんなにすさまじい量のひげがご自身に生えているなんて思ってもみなかったでしょうから。
 かわいそ……。
 モリゾー様、さっき私がひげ剃りのルーティーンの話のなかで、人中について少ししつこく言及していたのを覚えてらっしゃいますか。あれ、伏線だったんですよ。
 なんであんた側が伏線張んねん。ヒントやろ。
 そう、ヒントですね。私からモリゾー様に、人中にすさまじい量のひげ生えてますよ、剃り残しちゃってますよ、というヒントを出していたわけです。しかしまあ、これだけの量になるまで剃り残していたお方だ、それしきのヒントではお気づきになられませんでしたね。
 この量生やしてて気づかんことある?
 実際お気づきでなかったわけですからね。ほんとうにこのお方は仙人どころではない、大天使のポテンシャルがありますよ。
 剃り残しの量に比例して位が高くなるシステム?
 まあそういうことになるでしょうね。いまはショックで固まっておられますが、これからも剃り残しつづけて、大天使の道を突き進んでいただきたいものですね。しかしもう気づいてしまったわけですから、あくまで自然にね。
 気づかせたのあんたやねん。あんたが教えなかったらそのまま大天使道を爆走してんねん。
 ははは、大天使モリゾーですね。
 なにがやねん、もうええわ、ありがとうございました。

 そういって僕に向かって一礼すると、ふたりはテーブルを去っていった。僕は漫才コンビ誕生の瞬間を見せつけられたのだった。マジなことをいうと、ショックで固まっていたわけじゃなくてひげが邪魔で口を動かせなかったのだった。あの仙人は大天使の道を突き進めとかいってたけど今日帰ったらすぐ剃るつもりだった。僕は自分のべしゃり一本でやっていきたいのだった。こんなひげがあってはしゃべれない。大天使の地位なんていらない。僕はべしゃりで生きていく。べしゃりでいいグルーヴを生む。あのふたりの掛け合いはまだまだ荒削りだったが、たしかにあの時間、このテーブルにはいいグルーヴが生まれていた。いいコンビになると思う。僕も早くグルーヴを生みたい。だから帰ってすぐ剃る。剃るし、今後はぜったい剃り残しがないようにマジで気をつける。住岡くん、僕、先帰るね。がんばれ日本代表!