バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

日記(食べることについて1)

 牛丼の味を覚えているか? 僕はもう牛丼の味を覚えていない。牛丼を食べれば僕は牛丼の味を思い出すだろう。しかし僕は牛丼を食べることができない。頭のなかの牛丼を司る部分が弱いのだという。牛丼を食べようと思って牛丼屋に行くところまではできる。メニューを見るまでは僕は牛丼を食べようと思っている。何も冠されていないもっともオーソドックスな牛丼を食べたいと思っている。しかしメニューを見たとたんに僕の意識は非オーソドックスな牛丼に向かってしまう。非オーソドックスな牛丼にはいろんなものが載っておりいろんな味がする。それはそれでおいしけれどそれは僕の食べたかった牛丼とは似て非なるものだ。似てすらいないかもしれない。しかし僕はいつの間にかその似非牛丼の名を口にしている。いや似非はひどい。亜か。亜だ。僕は亜牛丼の名を口にしやがて亜牛丼が運ばれてきて僕の前に置かれる。亜牛丼はおいしい。僕は亜牛丼をもりもり食べる。もりもり食べられる度合いに関しては牛丼と比べてもなんら遜色ない。僕は亜牛丼をあっという間に完食し支払いを済ませてごちそうさまをきちんと言って牛丼屋を出る。僕は牛丼を食べていないことに気がつく。僕はまたしても牛丼を食べることなく牛丼屋を後にしてしまっている。これを何度も繰り返している。それほどまでに亜牛丼の魅力には抗いがたく僕の頭のなかの牛丼を司る部分は弱い。もしもメニューが牛丼のみの牛丼屋があったなら僕は牛丼を注文することができるのだろうか。僕はそんなくだらない妄想をする。

 


 「MOWとハーゲンダッツを食感や味だけで区別することはできない」というのはよく知られた話だけれど、アイス界にはもうひと組、区別のつかないものがある。爽とフラペチーノだ。よく冷えたクリームの中に混ざる非常に粒の細かい氷を、舌先から奥に運び、上下の歯で挟む。砕く、と、溶かす、のちょうど中間。しゃり、と心地のいい音が頭蓋に響き、冷たさと甘さが鼻腔まで広がる。その食感において、爽とフラペチーノはほぼ同じである。いまここで目隠しをされて爽のカフェラテ味とフラペチーノを順番に口に突っ込まれたとして、どちらがどちらであると言い当てることは僕にはきっとできない。それとも簡単に言い当てることができるのだろうか。正直わからない。僕はいまこの文章を当てずっぽうで書いている。二週間ほど前に爽を食べたとき、ほぼフラペチーノだ、となんとなく感じた覚えがあった。フラペチーノのほうも飲んで確かめたわけではない。食べたのは爽だけだ。そのなんとなく感じたことのみを頼りにこうして書いている。文章にすればするほどに自信がなくなってゆく。

 


 いんげんを「隠元」と表記している本を立て続けに読んだ。隠元
 隠元は、江戸時代の前期に明の僧・隠元が日本に伝えたことからその名がついたという。Wikipediaにそう書いてある。Wikipediaによると隠元は82歳まで生きたそうで、これは長生きの部類だろう。Wikipediaにはっきりと「長生きである」と書いてあるわけではないけれど、間違いなく長生きだと思う。Wikipediaによると隠元には良静・良健・独癡・大眉・独言・良演・惟一・無上・南源・独吼など二十人ほどの弟子を連れて長崎へ来港したそうで、さすが僧というべきか、ひとり残らず名前がかっこいい。豆の名前とするには弟子たちの名前はいささかかっこよすぎ、隠元でよかった、と僕は思う。隠元もじゅうぶんかっこいいが、いんげんとひらがな表記にしたときのやさしさがある。これがどくげんとか、むじょうとか、どっくとかでは、手に取ろうとは思わない。

 ところでWikipediaには隠元が日本に伝えたから「隠元」という名がついた、ということ以上の情報は載っていない。具体的にどういうシチュエーションで、どのような流れで伝えたのか、そこまではわからない。僕は隠元師に想いを馳せる。帆を大きく膨らませた船のデッキにしっかり立ち、ようやく水平線上にその姿を現してきた東の小さな島国をまっすぐ見つめる隠元師。その手には、淡い緑の細長い鞘をしっかりと握りしめている。拳を視線の高さまで上げ、空と海のあいだに揺れる小さな島国の姿と鞘を重ね合わせる。海面には日光が幾重にも乱反射し、目の前に掲げた鞘をちらちらと縁取る。ここでカメラは大きく引いて、船の全貌、雲ひとつない青空に高く浮かぶ太陽、そしてはるか向こうの水平線を映したところで、オープニング曲(山下達郎「SPARKLE」)がイン。タイトル『隠元 ~豆を伝えし者~』が画面中央に浮かび上がる。

 


 多ければいい、の時代ではもはやない。濃ければいい、の時代ではもはやない。丼ものやピザにもいえるが、ラーメンにおいてもっとも顕著である。「濃いめ固め多め」の時代は過ぎ去り、「固め」のみが残る。やがて「固め」もどうしていっていたのかよくわからなくなり、「ぜんぶふつうでお願いします」になる。ふつう、の時代である。ご飯大盛り無料でできますけど。あー、ふつうでお願いします。焼き加減いかがしましょうか。あー、ふつうでお願いします。食前と食後どちらにお持ちいたしましょうか。あー、ふつうでお願いします。