7/1
梅雨特有の、なのか、このところ仕事をしていても午後三時頃になると決まって眠くなる。頭がぐっと重くなる感覚がある。ふつうに寝不足という線もある。連日、寝ぐるしさを感じている。寝ぐるしさが夢の内容にも反映されている。といってもどんな夢を見たか覚えてはいない。
7/2
夜、ラーメンを食べて、食べた直後からとても後悔し、店を出て、さいわい雨も降っていなかったので同居人が帰ってくるまで散歩した。閑静な住宅街に入ると、いまが夜ではなく夜明け前で、私は夜どおし散歩していたのだと思えなくもない。明かりのついている部屋にはずいぶん早起きなひとが住んでいる。

7/3
『HUNTER×HUNTER』の最新巻を買うにあたって、細かい話をなにも覚えていないので、せめていまの王位継承戦編の部分だけでも紙で買ってもう一度読もうと思ったが、同じことを考えているひとがいたのか、本屋の棚から32巻以降がごっそりなくなっていた。仕方なく39巻を買って、ちらっとめくったけれど、なにかの話の途中すぎてなにもわからない。なにも覚えていない。第なん王子がなんなんだっけ? てかヒソカもいるんだっけ? なんとなくクラピカが暗躍していたことだけは覚えている。あと、お腹をぶん殴った相手の腹のうちの本音が吹き出しのかたちで表されるという念能力の使い手がいたこと。あと、幻影旅団の成り立ちが描かれるなかで、ひとつ前のページに描かれたクロロが、次のページの余白に透かしのように浮かび上がってきている演出がかっこよかったこと。しかし覚えていることといえばそれくらいのものだ。村上春樹の『夏帆』も買おうかと思ったが積ん読が多いので今日はやめた。
7/4
スマホで漫画を読む習慣がないから『HUNTER×HUNTER』の無料公開の波に乗ることもあきらめていたが、やはりちょっとだけ読もうと思って開いたら、そのまま65話まで読んでしまっていた。あまりにもおもしろ。あらためて、キャラクターのただならない感じを演出するのがうますぎる。ゴンはもちろんだがキルアもヒソカも。そして同じくただならぬ雰囲気があったのにすぐに散ってしまったカストロ……。解体屋ジョネスもか。いや、解体屋ジョネスのときは明らかにそのあとのキルアのターンのためのフリの感じがあった。しかしカストロにはけっこう強者の感じがあったのに……
それにやはり幻影旅団という名前はかっこよすぎる。団員ひとりひとりが〝クモ〟を背負っているのもかっこいい。漫画とはかっこいいネーミングと設定の集積なのだと思わせられる。(なおかつ幻影旅団は彼らじしんがかっこよさそうで強そうだと自認しながら名乗っていそうなのがいい。)
で、今日はほとんどそのまま終わってしまった。曇天の眠気もあった。同居人は明日からお母さんと、もともと八ヶ岳に行くつもりだったが悪天候のため諦めて金沢に旅行に行くという。
7/5
同居人が朝早くに家を出て東京駅へ行くのに合わせて私も家を出、渋谷で『スーパーガール』を観て、そのあと時間がちょうどよかったから『口に関するアンケート』も観た。『スーパーガール』はふつうに楽しめた。太陽の色によって主人公カーラの身体のエネルギーが大きく上下し(そしてそれは月経の表象ではなかろうか、という意見をネットで見て、私はその解釈に至らなかった自分の緩慢さにも愕然とする)、それによって物語も停滞するわけだが、しかしべつに停滞して何が悪いのか、とも思う。というかそもそも作品全体が停滞からの覚醒を描いている。個人的な目的を遂げるつもりが、いつしか少女を帯同し、やがて女性たちを救出し──ここが「連帯」というほどにはならないのもこの主人公カーラらしいといえる──、男たちをぶっころす。熟考するというよりは目の前のピンチを解決するために覚醒する、その場当たり感もあって、大きなカタルシスに欠けてはいるのだが、いわれているほど悪い映画じゃないと思えたのは単純にミリー・オールコックが魅力的だったからか。ヒーロー映画はけっきょく主人公を魅力的だと思えるかどうかというところにかかっているといえる。『口に関するアンケート』もふつうにおもしろかった。『近畿地方』と同じように映画を観ること(あるいは原作小説を読むこと)じたいが呪いを広げることに繋がる、というギミックになっていて、拡散・シェア的な文化と相性もいいのだろうと思う。タイプロに出ていた西山くんが好演していて驚いた。……しかし『スーパーガール』も『口に関するアンケート』もべつに余韻の残らない映画だった。
映画館を出ると、街のあちこちに貼られた『HUNTER×HUNTER』のキャラクターたちに思いがけず出くわしてうれしい。まずマークシティのエスカレーター下にパクノダたちがいた。109前を横断してセンター街に突入するとゴンとキルアがいて、これだけでもいいと思ったが、もう少し進むといわゆるゴンさんも貼り出されていて、それならばもっと見つけてみよう、という気になる。たくさんのひとがビルの壁に向かってスマホをかざしている、それを観光客が不思議そうに見ている。ハンズ前のボマーたちを通過した奥にはもうなさそうだったので、フット後藤のいうところの「キラー交差点」のほうに抜け、ユーロスペースのほうに坂を上がろうとしたらハンター試験編のひとたちがひとまとめに並んでいて、解体屋ジョネスがどこか悲しそうな顔で混ざっている。O-EAST前にはネフェルピトーが掲示されていて、ネフェルピトーくらいならまだ覚えているのだが、その先に貼られたカキン王国の王子たちはひとりも名前を覚えていない。けっきょく私はキャラクター名を覚えていないので、そこまで熱心に探してもしょうがない。もういいや、とマークシティに入ろうとした、その信号の前にクロロがいて、真正面から撮りたいひとのすごい行列ができている。クロロはさすがにうれしいが並ぶのは変なので斜めから撮って(というかこの手の企画はあまりきちんと撮らないほうがいいという美的感覚がある)、ならばもう少しだけ、と道玄坂を少し下りたところに十二支んがいて、私は十二支んにはぜんぜん思い入れがないので、今度こそもういいや、ときっぱりやめられた。

そのあと夕方から『ロングウォーク』を観るべく池袋に向かって、ルノアールで大江の『河馬に嚙まれる』を、これいつまで読んでるんだ、と思いながら読んで待った。『ロングウォーク』は今日観たなかでいちばんよかった。結末があれでいいのかはわからないが、途中の時間が素晴らしかった。原作の『死のロングウォーク』は、私が中学生のとき、地元の古本屋に通いはじめた当初に買って読み、強烈に記憶に残っていた本。その思い出もあっていい映画だと思えたのかもしれない。ほとんどみんなが死ぬデスゲームなのに爽やかさがある。本物の友情の話でもある。よかったなあ、と思いながら、気づけばジュンク堂で『夏帆』を買って帰ってしまっていた。夜は同居人がいないのでひとりでテレビを見て過ごした。同居人は今日、金沢で充実した一日を過ごしていそうだった。


7/6
昨日の夜はけっきょく『河馬に嚙まれる』を読み進めて、読み終えた。あまりに期間を長くとってちょびちょび読んでしまったせいで私のなかで連作感が薄れてしまったが、まずまずおもしろかった。いまさらながら大江は小説の始めにいつも「これからどうしてこの小説を書くのか」ということを書き手として説明してくれるのでいい。そのたいていはもちろん私的な理由であるわけだが、それを開陳してくれることに、あるいは開陳しないと書き始められないのだと大江じしんが考えていることに、小説家としての誠実さを感じる。その『河馬に嚙まれる』を、終盤はエセル・ケインの昨年のアルバムを流しながら読んだわけだが、どうしてここでエセル・ケインが出てくるかというと、大江との繋がりというよりは、むしろ夕方に観た『ロングウォーク』からの連想のほうがずっと強いのだった。五十人の少年たちがアメリカの中部をひたすら歩きつづけるあの映画において、エセル・ケインはいうなれば車道の脇から少年たちを眺めている地元住民の側にいる。歩きつづけることしかできない少年たちと、そこに留まることしか知らない少女、そのような対比を思い浮かべながら、どこまでも陰鬱に広がりつづけるアルバムを聞いたのだった。
『ロングウォーク』という映画はそのほとんどが歩くシーンで構成されていて、もちろんそれぞれの少年に来し方があり、それが徐々に語られる厚みがあり、その少年たちの命が次々と奪われてゆく悲劇が常に並列しているわけだが、基本的に映っているのはいま歩いているこの瞬間である。(というところで、つまりこれも「いま/ここ」の映画なのだ、といいたくなるがしつこいか。)映画のテーマとしてはわかりやすく反戦でありMAGA批判であるのだろうが、正直そんなことよりも、歩いている時間の美しさに心を奪われる映画だった。(というか反戦というのはことさらに言及するまでもない大前提として観客にも共有されているのであり、その共有があるからこそこういう物語をおもしろく描けるという、物語の効能というのもあるかもしれない。)
今日も同居人がいなかったので、わりあい遅くまで仕事をした。同居人から、兜が金ピカの前田利家像の写真が送られてきてウケた。
7/7
昨日の夜は、先週からよくも悪くも話題の「水ダウ」の最新回を見て、ふつうにおもしろかったのだが、はっしーはっぴーの謝れなさや責任回避のあり方にはひとごととは思えない感じもあった。バラエティとして見るとほとんど百点満点の返しを連発していたはっしーはっぴーの発言において、特にみなみかわにミスの連発を指摘されたときの「今日ですか?」という「空質問」と、カップラーメンの蓋が床に落ちていることを指摘されたときの「醤油だったら僕ですね」という(いうなれば)「空仮定」には、正直私も身に覚えがあると思った……
──というのを経て、今日金沢から帰ってきた同居人がやはり「水ダウ」を見ておもしろかったといっていたので、私は「僕は正直ひとごととは思えなかったよ……」といいつつ、もう一度一緒に見て笑った。同居人は、二泊三日はやや長かったものの金沢はいいところだったといっていた。話を聞くかぎりたしかにとてもいいところのようだった。私も大学生のときにSとMと行ったことがあったが、そのときはまだ物心がついておらず、金沢のよさをほんとうの意味で感じられていなかったのだと思う。前田利家が愛されているということもわかった。その流れで前田利家のことを調べると、YouTubeにいまなお続く前田家当主の家督承継の式典の動画が上がっていて、新しく当主になった六〇歳くらいの前田さんが「まあ当主になるのは私の物心ついたころからの既定路線でしたので……」とえらく落ち着いた話ぶりでおもしろかった。もちろんその内心はわからないが……
7/8
頭の痛い一日だった。ヨークシン編まで読んだ。同居人も今日まで有休で、ふたりでダラダラと過ごした。
7/9
細野晴臣の新曲を聞いて、まず「若っ!」と思った。若い音だ。同時にかなりいいとも思った。
朝から暑くてまいった。今年は梅雨がわりあいしっかりと梅雨らしく続いていたように思ったが、それも終わりでしょうか。とはいえ夕方になるとほんのり風が涼しい。気温でいうと夜のほうがやや下がるのだろうが、不思議と夕方のほうが涼しく感じる、というあるあるを提唱させてもらおう。夜、NHKの「SONGS」でマイケル・ジャクソン特集をやっていたので見ていたら、やはり大泉洋が「マン・イン・ザ・ミラー」のモノマネをやっていて、やはりウケてしまった。
まったく話は変わるが、昨年の『スーパーマン』と今年の『スーパーガール』のカラーグレーディングを比較したポストをXで見て、たしかに思い出してみると『スーパーマン』にてちらっと登場したスーパーガールと『スーパーガール』のスーパーガールとでは印象がずいぶん違う。それは監督の作風ということでもあるだろうし(とりわけジェームズ・ガンには特有の「薄鮮やか」とでもいえそうなカラーがある)、作劇上の要請ということでもあるかもしれない。……と、とくにどこにも繋がらない話のなかで、この十年でもっとも優れたカラーグレーディングをもつ映画とは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』なのではないかとふと思う。(それで調べてみたら『怒りのデス・ロード』は二〇一五年の映画だった。「この十年」の映画ではないです。)
7/10
私がふつうに仕事してる平日の午後二時なんかにいろんなものごとが改悪されてゆき、いつのまにか仕事どころではない非常時に突入してしまうのではないかという、嫌な予感がある。(しかしそれらの「改悪」も彼らからすれば平日の午後二時にふつうに仕事した成果なのだ……)それにしても中道改革連合とかはなにをしてるの?と思う。いずれにせよ衆院では与党が絶対多数なのだからどうせ可決はされるのだろうが、中道がどうしたくて賛成しているのかわからない。
夜は内田有紀とtimeleszのテラが主演の『ラストノート』というドラマの第一話と、蒼井優と中島歩の『Tシャツが乾くまで』の第一話を見た。『ラストノート』はかなり変なドラマで、テラが微妙な顔をするたびにウケてしまいつつ、悔しいが続きがちょっと気になる。『Tシャツが乾くまで』はさすがにおもしろそうだが、ところどころに小さな違和感はあった。中島歩が最後にカマしてきた。
7/11
暑いのなんの!
舞城王太郎の『みんな元気。』を一昨日くらいから読んでいて、今日の午前中に読み終えた。舞城らしいといえばらしいのかもしれないが、とにかくガチャガチャしていて、というか意図的に混沌がもちこまれていて、そのなかに祈りのようなもの(「愛は祈りだ。」)を見いだせもしながら、食傷気味にザザッと読んでしまった。読み終わってから、いやでもけっこうよかったかも、と思った。それから『きれっぱしの愛』を観に行くべく外に出て、観る前にお昼を食べるつもりだったのだが、うまく店に入れず、同居人に八つ当たりしてしまい、嫌な感じになってしまった。私が主体的に選ばず店に並んだのが悪い。その延長線上で観た『きれっぱしの愛』においても、けっきょく主体的に行動することができずにいる元夫の姿が印象的で、身につまされる感じがあった。いい映画だった。監督みずからの子どもたちや愛犬が出ていて、ほとんどその成長記録であるようなシーンもあり、日記性のようなものと物語性というべきものが境界なく混ざり合っていたように思う。ごく私的な話であるにもかかわらず、小品、という感じがしないのは、アイスランドの美しく雄大な自然が常に映っているからだろうか。
映画を観ている時間を経て、それから落ち着いて定食屋で食べている間に、同居人とはなんとなく仲直りしたような雰囲気にもなって、反省をしなければいけないのはもちろんなのだがほっとした。(と書いて、あとで同居人に見られてどう思われるだろうか。)そのまま浜松町に移動して、Gくんがくれたチケットで劇団四季の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のミュージカルを見た。一昨日くらいにGくんから連絡があって、行けなくなったから代わりにどう、と提示された席がえらくよさそうなところだったので、せっかくなら、と買わせてもらったのだった。しかしGくんはGくんで同じく劇団四季の『アナ雪』をひとつ上の階の劇場で見るとのことで、謎ではあった。浜松町でGくんと合流してから、Gくんが先に『アナ雪』を見に行って、私たちの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が始まるまでにも時間が微妙にあって、そこもうまく過ごせず危ういところだった。ミュージカルは楽しかった。いい席だったからだろう。さまざまに場面転換のある映画を舞台にするにあたって、舞台装置やプロジェクションを駆使した演出がまずもっておもしろいし、目の前で大勢のひとたちが歌って踊るので単純に迫力がある。マーティ役のひとが絶妙にナイスだし、ドクはやや朗々としすぎているがかっこいい。マーティの父であるジョージ役のひともハマっていて、遠目には高良健吾っぽくも見えたが、あとで同居人にいわせると九条ジョーっぽかったという。つまり高良健吾と九条ジョーが遠からずということでもある。ビフは、若かりし頃はなだぎ武すぎたし、歳をとってからはキモい髪型のときのオードリー春日すぎておもしろかった。
とはいえ八〇年代のアメリカ映画を、いま、日本で、日本人キャストが、日本語のミュージカルで再現するということの無理性のようなものが終始付きまとってもいる。前に見た『ライオンキング』でその無理性を感じなかったのは、動物を題材にしているから、すなわち演じ手と題材との距離がかけ離れているからということかもしれない。
ミュージカルが終わって、会場を出るときに階段で左足首をグキッた。痛くて、変なポーズをしながら思わず爆笑して同居人を驚かせ、驚いた同居人がやはり爆笑しながら私を一発パンチしてきた。その爆笑しながらの流れでGくんとまた合流して、熱烈中華食堂で食べて解散した。Gくんの中高時代の写真も見せてもらった。私もだが彼もやはり中三か高一くらいの段階で癖毛になっていた。……というのはどうでもいいか。家に帰ってからは松村北斗主演の『告白─25年目の秘密─』というドラマの第一話を見て、かなり変でウケた。地上波のドラマって、もしかしたらかなり変なのかもしれない。松村北斗はがんばっていると思った。
……昨年観た『みんな、おしゃべり!』という映画でケバブ料理屋の店主を好演していたムラト・チチェクさんというトルコ国籍のクルド人のひとが警察に勾留されている間に亡くなったという情報をXで見て、その経緯にかんしてはさまざま真偽不明のポストが拡散されていてまだ確実といえないと思うのだが、ともかく亡くなったということは間違いなさそうで、ほんとうに信じがたく、やりきれない。
7/12
朝からノルウェー対イングランドの試合を見た。ここ数日、私のXのタイムラインにノルウェーのハーランドの動画がよく流れてきて、まあそれは私がそのぶんハーランドに「屈強で素敵だ♧」と関心をもっているからなのだろうが、いくつも動画を見ることで私のハーランドへの関心は高まりを強いられ、ついに今日、時間がちょうどよかったから試合をフルで見てしまったのだった。そのハーランドは延長の途中で交代し、ノルウェーは負けてしまった。しかしイングランドの二得点決めたベリンガムという選手もよかった。シンプルに二得点とも美しかったのと、ずっとキビキビ動いていて好印象だった。私はサッカーに詳しくないので、選手を好印象かそうじゃないかでしか見ていない。
サッカーのことはわからないが、次にどこにパスするかを予想しながら見ると試合はわりとおもしろい。私ていどの目でも、あ、いまミスったな、とか、うますぎる!とかがわかる。しかしこの「わかる」感覚もあくまでビギナー的なものであること、すなわちあの有名な知の曲線でいうと最初の山に過ぎないのだということを鑑みなければならない。というか私が知っている事柄なんて、たいていが最初の山に属している。私のなかで最初の山を下山しはじめている、すなわちいわゆる「無知の知」ゾーンに入りつつある事柄なんて、散歩と小説くらいのものだろう。たとえば漫画はまだまだ最初の山を登っている途中だ。そもそも漫画を読んできた絶対数が圧倒的に少ないなかで、『HUNTER×HUNTER』がいちばんおもしろい、と思っている。今日はグリードアイランド編をようやく読み終えた。このあたりから作品内のゲーム性が顕著にあらわれてくるわけだが、これだけルールの多いゲームを漫画のなかでおもしろく成立させているのがほんとうにすごい。そのおもしろさゆえに、細かい設定をてきとうに読み飛ばしながらでも読めてしまう。しかしおそらくこのグリードアイランド編でしっかり細かく読む習慣をつけておかないと、王位継承戦編でついていけなくなるというわけだ。じっさい私は王位継承戦編を雰囲気で読んでわからなくなった身だから、二周目の今回はグリードアイランド編もきちんと読もうと決意していたが、いざ読み進めるとぜんぜん真面目に読めない。やはり雰囲気でおもしろいと思いながら読んでいる。
夕方に、三軒茶屋の昭和女子大学人見記念講堂へ柴田聡子のライブを見に行った。素晴らしかった。アルバムでいうと『ぼちぼち銀河』あたりの骨太な曲が中盤に配置されていて、いまの気分としてはそのゾーンにいちばん惹かれた。人見記念講堂はいかにも講堂然としたかしこまった佇まい、かつ座席指定の会場だということもあって、きほん着席してライブを見ることになる。傾斜もそんなにないから、立つと後ろのひとに迷惑かも、と思う。会場に蔓延するそんな気持ちを汲んでか、柴田聡子の煽りも「ぜんぜん立っちゃってもいいし、もちろん座っててもいいし」とややぎこちない。しかしライブが進むと会場に一体感が出てき、「ぜんぜん立っちゃってもいいし、もちろん座っててもいいし」という言葉のとおりになってきて、私もアンコールのワンコロメーターではさすがにいいっすよね、と思いながら立った。というかその時点ではもうかなり多くのひとが立っていた。もちろん座っているひともいた。アンコールが三回もあって、三回も「ワンコロメーター」をやって、三回とも違うアレンジで楽しかった。吉田さんちのワンコが三回も行方不明になって、三回とも見つかった、ということでもある。それにしても柴田聡子のバンドのフロントマンとしてのパフォーマンスに年々磨きがかかってきていて、意外なほど活発にステージ上を動き回るその姿が離れた席からでもはっきり捉えられる。動き回るぶん、柴田聡子の眼鏡が明滅して見えたのがおもしろい。ライブのあとは同居人と歩いて、物事を決められるようになるための練習だということで、私が夕飯の店を選ばなくてはならなくなり(選ばせていただくこととなり)、どうにか入ったタイ料理屋は、まあ、ふつうだった。
7/13
グリードアイランド編の最後には、ゲームクリアを祝うパレードが執り行われる様子がほんのちらっと描かれる。こんなにわずかしか描かないのならそもそも描かなくていい(そもそもパレードが開催されることじたいに言及しなくていい)はずなのだが、そうした作劇上の都合より物語上の摂理が優先されている感じがして、なんとなくうれしい。あれだけ島全体をあげて運営されているゲームをクリアする者がついに現れたのなら、盛大なパレードが開かれないわけがないのだ。
それにしてもヨークシン編とグリードアイランド編における時間の流れ方の違いもおもしろい。かたやたった数日のことを描くのに数十話を要し、かたや数週間の修行がたった一話で描かれる。なにを描いているのか、その内容が話数の伸び縮みを要請している。(いまの王位継承戦編にいたっては、漫画内の時間経過の伸び縮みに、現実世界における休載期間の伸び縮みがかけ合わせられ、さらに漫画内の文字の多さによってじっさい読むのにかかる時間も際限なく伸びてゆき、ゆーっくり進む巨大客船のなかでもはやまっすぐ立ちつづけることは不可能に近い。)
また、そうした伸び縮みの感覚とは別に、新たな「編」に突入するときの、なんそれ、という初読時の感覚もよみがえってくる。というのもいまキメラアント編に入るにあたって、でっかい蟻が急に現れるのにやはり笑ってしまったからだ。あんなにおもしろかったグリードアイランド編を経ての新章が、でっかい蟻の登場によって開幕していいわけがない。奇妙すぎ。そしてそのように奇妙なかたちで開幕した新章が結果として大傑作になるのも、やはり奇妙なことだと思う。
……今日はやたらと蒸し暑かったが明日はもっと蒸し暑いらしい。夜になっても蒸し暑くて、いよいよ夏、という感じがする。柴田聡子も昨日「夏、来たねー」といっていた。とうぜん汗をかくわけだが、そうなると逆に、夜、もうあとはシャワーを浴びるだけという状態で一度外に出て、思いきり汗をかきながら散歩するという楽しみもある。同居人といろいろ話しながら近所を大きく一周した、その終盤にすれ違った陽気な男性たちが「てか海行きてー」といっていて、しかもいかにも「てか海行きてー」といいそうな雰囲気のひとたちだったので、かなりよかった。
7/14
朝から夜までねっとりしつこい暑さがある。どうせ帰っても暑い、という意識もはたらいただろうか、会社にわりと遅くまで残った。基本的には早く帰るに越したことはないが、夜、数人しか残っていないオフィスでゆっくり仕事して「あーなるほどね」となにかタスクが解決する、そこにちょっとした快感があることも認めなければならない。帰宅してもまだ同居人が帰ってきていなかったので、食べたいといっていた豚ロースの生姜焼きを作って待った。二十分ていど漬け込んでから焼いたらえらくおいしく作れた。火が通ったところで止めないで、肉の表面に少し焼き目がつくくらいまでいくとよろしい。同居人が帰ってきてから一緒に食べて、『すいか』という二〇〇三年のドラマの一話を見た。傑作のにおいがする。私が知らなかっただけか。
こないだ書いた小説をChatGPTに批評してもらったら、まず「面白い着想と語り口が先行していて、小説としての人物・時間・感情が、その仕掛けに十分追いついていない」といわれ、続けて「最初に思いついた面白い呼称を、作品が手放せなくなっている」、「読者に一度足場を失わせるほどの構造的複雑さに対して、その見返りがあまり大きくない。批判的に言うなら、時制を複雑にしたこと自体が作品の技巧として前に出ている」、「異常な行動を描きながら、その異常さが人物の倫理や関係を傷つけないように保護している。もっと怖くなりうる小説なのに、笑いの側へ安全に着地している」などと、どれもしごく真っ当と思える指摘が入って、ぞくぞくした。少しうれしいくらいだった。
7/15
昨日の蒸し暑さはねっとりと肌にまとわりつくようだったが、今日はぬるぬると掴みどころのない、コーラを飲んだあとの前歯の裏のような暑さだ。三連休にどこかに行こうと調べたがどうも雨らしい。『すいか』の第二話を見た。
7/16
今日は西向きの小さな和室の押入れに隠れ、誰にも見つからないまま、わずかに開いたふすまからその時間ちょうど射してきた西日が空気中の小さな埃を照らして驚くほど黄色い筋を作るのを眺めるうちに三時間も経ってい、あれ、おかしい、と気づいてようやく押入れから出たとたんに部屋は真っ暗、そしてそもそも考えてみれば私は誰ともかくれんぼなどやっていなかったのだった、──というような感じの暑さだった。夜に、LUUPの自転車を借りてあたりを一周した。ほとんど散歩のつもりでサイクリングした。散歩とは通り過ぎる道や路地の日常を覗き見る行為であり、それと同時に、よく見るような光景のなかに非日常を見いだす行為でもある。と、サイクリングしながら思ったのだったが、あとから考えるとよくわからない。散歩は、散歩している時間のなかにしかない。散歩の延長で──そして新曲「Globster」も聞いた延長で──、ceroの『e o』も久しぶりに聞いた。相変わらず最高のアルバム。この種の音楽にしては(と書くとceroに失礼か)驚くほど「住宅街」のにおいがするのだ。
家に帰ってから『HUNTER×HUNTER』を読み進めた。無料期間が目まぐるしく過ぎてゆくおかげで、ここ一週間ほどは他に本を読めていない。しかしおもしろいのだから仕方がない。宮殿に突入する作戦の是非にかんしては正直ゴンと同程度にしか理解できていない(と書くとゴンに失礼か)いっぽう、コムギと王が互いの名前をたずねあうシーンにはやはりグッとくる。短絡的な連想だが『君の名前で僕を呼んで』みたいな官能を感じる。王=メルエムの名前はけっきょく最初のたずねあいにおいては判明しないわけだが、しかしこれがのちのち効いてくるというのは有名な話であって……。それとテレビでバレーをやっていたので見た。私は知らなかったが、バレーの男子代表はいまかなり強いらしく、今回のリーグ戦でも今日含めて十連勝しているという。同居人にあとで聞いてみると、男子代表がかなり強いことを既に知っていた。同居人は同居人のお母さんから聞いていたという。その同居人は今日は会社の同僚とケンティー主演の『ラブ≠コメディ』という映画を観てから帰ってきた。この前の舘ひろしの『免許返納⁉︎』と同様に、好感のもてる映画だったという。
7/17
昨日は「宮殿に突入する作戦の是非にかんしては正直ゴンと同程度にしか理解できていない(と書くとゴンに失礼か)」と書いたが、これはほんとうにゴンに失礼だった。ゴン、申し訳ございません。いざ作戦が決行されてからのゴンの状況把握度は決行メンバー中でもずば抜けている。そしてそのゴンのずば抜け具合も含め、短時間で同時多発的に進む闘いの全容を、実況者として臨場感たっぷりに伝えてくれる冨樫先生にも感謝しなければならない。何日か前に日記に書いた時間の伸び縮みの技術がここにきて極致に達している。それぞれの思惑と感情が交差し、一瞬先すら予想できない展開が、さまざまにタッチの違う画で描かれる、たしかにこれは、漫画表現のひとつの頂点なのではないかと思いたくなるし、「天才」という言葉を使いたくもなる。──たとえば重傷を負ったコムギを抱きかかえる王の真っ暗な顔や、怒りで肥大化したユピーの異様な姿。「世界より大切なものがある」というシュートとナックルの「誤算」……
今日はリビングのテーブルに常温で置かれっぱなしになっていたミルクレープのような暑さ。ほんのり涼しくもある。ケーキじたいを潰さないようにふんわりかけられたラップの内側が細かく結露していて、あの水滴は甘いんかな、と試してみたくなる。夜に『トイ・ストーリー5』を観た。とても楽しく観た。私は過去作にさほど思い入れがないぶん単独で楽しめたというのもあるだろう。私はチョロいので、バズの大群が出てくるたびに笑ってしまった。

7/18
同居人が会社の同僚からも『ロングウォーク』をおすすめされたと話していたのが一昨日くらいで、しかし私としては同居人がひとりであの映画を観られるか気がかりだなあ、と思いながら映画のことを思い返すうちに、なんだかもう一度観てもいいかも、という気分になって、今日の朝、一緒に新宿まで観に行った。あらためて観てもいい映画、というかいい時間が流れている映画だと思った。劇中でピーター・マグヴリーズがいうように、いまこの瞬間を一緒に歩いていることがすべて、なのだ。ひとが死ぬたびに劇伴も大きく流れるとかは、かなりわかりやすい演出でもあるのだが、それも嫌な感じはしない。同居人は最初のうちこそビビりながら観ていたようだったが、途中からはびしょびしょに泣いていた。鼻の先を真っ赤にした同居人とバルト9を出て、紀伊國屋書店の地下のうどん屋で食べ、そのまま本を何冊か買った。同居人がなかば仕事としてさまざま本を読んだほうがよさそうだということで、私にも便乗する機会がとつぜん与えられたのだった。青木淳悟の初期作集や舞城王太郎の『深夜百太郎』も欲しかったが、二つともあまりに分厚い。たんに物理的な意味で積ん読とするには厳しいと判断し、今日は諦めた。それに青木淳悟といえば家にはまだ『憧れの世界』が読まずに積まれている。まず先にそちらだと思った。今日は他にも映画を観ようかというつもりだったが、『ロングウォーク』で疲れ、また蒸し暑さにも身体が慣れきっていないというのもあって、あまり出歩きすぎずどこかで本を読もうということになり、同居人が出したのは五反田のスシローという案。それはいい。五反田であればTSUTAYAで『キッズ・リターン』も借りられる。若林の『青天』に紐づけてちょうど久しぶりに見たいと思っていた。
昼食、というには遅い時間のスシローはふだんよりずっと空いていた。ちょうどいいあんばいの隅っこのテーブル席にご案内され、限定メニューのたこ焼きを注文したりした。私はスシローに来るといつも期間限定のメニューを試すのだった。これは同居人にいわせれば「安全圏で遊んでいる」に過ぎない行為なのであって、それはこの前ChatGPTが私の短い小説について述べた「もっと怖くなりうる小説なのに、笑いの側へ安全に着地している」という文を思い出させる批評だともいえた。……というのはいま日記を書くにあたって後づけした連想だ。スシローのテーブル席で私は石田夏穂の『我が友、スミス』を読んだ。真顔でユーモラスなことをいいつづける語り手に読者として笑わされるが、その間もずっと語り手は真顔だった、みたいな小説で、「女性」性についての真摯な話でもあった。同居人は『文藝』26年秋号の大前粟生「いつか、僕のしたことをきみに話せるだろうか」を読んで、また涙していた。戦時下の日記小説。日記らしくなんでもないことを書いていた「僕」がいつしか戦地に赴き──、という内容らしく、私もあとで読もうと思った。
帰宅して、TSUTAYAで『キッズ・リターン』と合わせて借りた柴田恭兵主演の『チ・ン・ピ・ラ』という映画を途中まで見た。同居人のお母さんがこれを見て柴田恭兵が好きになったという映画で、たしかに柴田恭兵はかっこいい、というか声がいい。いまでいう高橋一生のようなよさであった。チンピラなのにシティボーイ的な佇まいがあるのもいい。それにしてもこの前見た松田優作の『暴力教室』といい、七〇〜八〇年代の日本映画においては当たり前のように男が女に性的暴行をはたらく。それがほんとうにいただけないのと、たんに眠くなったのもあって、途中で一度寝たが、夜にまた続きを見るとやはりなんとなくシティボーイ的な雰囲気があって、とうてい「任侠もの」(としてTSUTAYAでは分類されていたのだ)とは思えない新鮮な感覚もある。オールロケで八〇年代の渋谷の浮ついて華やかな光景が映される、その撮影のかっこよさもある。これはこれでけっこういいかもしれない、と思えてきたところで同居人が寝落ちしたので止めた。
7/19
大学のときに法を学んで、その1%も身についたとは思えないいっぽう、リーガルマインドと呼ばれるようなものが頭に浸透した感覚があった──そのリーガルマインドが、このところの国会における法案の強行的可決のあり方を「おかしいんじゃない?」と感知しているわけだが、それは置いておいて──、それに似た感覚が一昨日ようやく読み終わった『置き配的』からももたらされたといえる。内容の半分も理解しているといいがたいが、「シットとシッポ」を副読本的に聞きながら、福尾さんのいう〈疎〉マインドが私の身にも浸透していった感じがある。
「シットとシッポ」で福尾さんもいっていたように、第10回は本書における白眉だといえる。「蛙化現象」から村上春樹の短編「眠り」に繋がり、他者性やゾンビを経由して(と、あいまいにまとめている時点でやはり半分もわかっていないということが露呈してもいるのだが)親密さの話になる。
親密さとは、私のあずかり知らないところで私が分け持たれることにおける疎外と譲渡の不可分性が、相互的なすれ違いにおいて編まれることを指す。
(福尾匠『置き配的』(講談社)p.217)
──ここだけを抜粋するとなんのこっちゃという感じなのだが、ここである種定義文のように書かれた親密さの具体例が、このあと福尾匠みずからの日記から抜粋される形で示される。その日記もまたいいのだ。今日は『チ・ン・ピ・ラ』を最後まで見て、大江原作・伊丹十三監督の『静かな生活』も途中まで見て、映画館で『オブセッション 災愛』を観た。『オブセッション 災愛』のあとにオリヴィア・ロドリゴを聞いたらいい感じだった。あと『HUNTER×HUNTER』も会長選挙編まで読んだ。あとSydとSteve Lacyのそれぞれの新譜も聞いた。いずれも素晴らしくて、The Internetの再始動が楽しみになった。これから山に向かう。
7/20
それにしても『オブセッション 災愛』はよくできていた。映画館を出て、怖かったねー、のあと、あの主人公の優柔不断さや身勝手さを批判したり、あるいはまったくもって他人事とは思えずに我が身を省みたり、いずれにせよ「恋バナ」が盛り上がるように作られている。その点で拡散力がある。また、そもそも自分の好きなひとが自分のことをものすごく愛してくれるようになるという設定そのものが、まずベタにうれしい。そのように共感を呼ぶ作りになっている映画の、まさしく屋台骨ともいえるのが主演のInde Navarretteの魅力だった。身の毛もよだつかわいさ。映画を観てからというもの、私のXのタイムラインにはInde Navarretteの画像や動画がたくさん並んでいる……
Inde Navarretteをカタカナで表記するとしたらどうなるのか? インデ・ナヴァレット? インディ・ナヴァレッテ? あるいはスペイン語ふうに「va」が「バ」となりナバレッテなのか? 名前を覚えられるかどうかというところに私の不安はあった。このところ覚えたはずの名前を思い出せないということも続いていた。私はジョシュ・オコナーの名前を何度も忘れていた。また、昨日の朝に同居人と『名探偵プリキュア』の最新話を見ていて、キュアエクレールにたいして並々ならぬ感情を抱いている様子のキュアアルカナ・シャドウの姿に、私は「あの子みたいだね、『まどマギ』の、ほら、あの子──」と暁美ほむらの名前を思い出したかったのだが、どうしても紺野ぶるまが邪魔をしてなかなか出せなかったのだった。(というのは正確ではなく、ほんとうは暁美ほむらの名前をすぐに思い出せていたのだが、そのとき私は鹿目まどかの立ち位置にいる人物として暁美ほむらを思い浮かべており、「ほら、あの、暁美ほむらを助けようとして何度も同じ時間を繰り返してた子──」といいながら紺野ぶるまの名前ばかりが候補に上がっていたのだった。つまり、ほんらい暁美ほむら→鹿目まどかという人間関係であるはずのところを、紺野ぶるま→暁美ほむらという関係を新たに作ってしまっていたのだ。)
「いやいや、ほむらちゃんがまどかを助けたかったんでしょうよ」
と同居人による訂正を受けたのが、今日の茶臼岳の下山中のこと。けっきょく昨日の夜は二十三時半くらいに寝て、今日の一時半くらいに起き、レンタカーで那須高原へと向かった。考えてみればゴールデンウィーク以来の登山だった。久しぶりということもあって、そこまで難易度が高くなく、かつ涼しく、そして百名山でもある茶臼岳が選ばれた。東北道をびゅんびゅん飛ばし、車内で流していたボーズ・オブ・カナダのもっとも美しいタイミングに合わせて東の空が明るくなる、その偶然にも感動しながら、到着した標高およそ一五〇〇メートル地点の駐車場はちょうどカナダなのかと思うほどに涼しい。背後の稜線から現れた太陽が、目の前にそびえる山を赤く照らした。岩肌の露出した山である。木々にさえぎられることなく吹く風が涼しい。とにかく見晴らしがよく、たえず「おお……」「ビューティフォー……」と漏らしながら登った。ごろごろした岩場を抜けながら、私はいつのまにか「アンダー・ザ・シー」を口ずさんでいて、オーバー・ザ・マウンテンなのに、と思った。
じゅうぶん縦走できる時間帯だったが、単純に寝不足もあって、茶臼岳のみにとどめた。そうすると下山してもまだ朝の九時。調べれば山のふもとのほうに十時からやる温泉施設があったので向かった。「令和の湯」という、新元号にあやかりすぎている施設ながら、館内に貼られた紹介文によれば作りにはこだわっているようで、なかでも自信があるという庭はたしかに素晴らしい。露天風呂に隣接するかたちの大きな芝生の庭、その奥に林がある。庭の中央にも一本の若木が植えられている。熱い露天風呂に浸かりながら、視力に乏しい裸眼で庭に目をやり、蝉の声や鳥のさえずりに耳をすませる。排水口に水が当たる音までもがカリンバのようにやさしく響く。庭の奥の林がそよ風に揺れるのをぼやけた視界におさめながら、あれはもしかするとただの林ではなく巨大な「森」と呼ぶべき規模のものかもしれない、と想像をはたらかせるその時間は、今度いつか裸眼で散歩してみようかな、とも私に思わせた。裸眼だからこそ見えるものがあるかもしれなかった。庭のおかげでものすごくととのったように思いながら、次は車で少し行ったところにある、U字工事もおすすめだという「焔(ほむら)」というラーメン屋に行ったところ、開店前から長蛇の列が成されていて、しかも炎天下、さっきととのったばかりの首筋に汗をダラダラかきながら、あわや大惨事かと思われたが、ようやく食べられたラーメンがおいしくて事なきを得た。登山し、温泉に入り、ラーメンを食べ、眠くなる要素しかないがどうにか運転して東京に戻った。ガムを噛みまくった。
朝にはカナダかのように思われた那須だって昼には暑くなったのだから、東京の暑さといったら……。信じがたいほどの熱気に包まれながらどうにか帰宅し、洗濯を回し、シャワーを浴びて、完。『静かな生活』の続きを見た。ひととひととが現実ではあり得ないほどの至近距離に立って会話する、いい映画だった。眠すぎるので寝る。




7/21
高市の近況報告ツイートのなかでは「半端ない情熱を注いでいました。」という部分に思わず笑わされてしまった。
7/22
アド街で山田五郎が冠している「街に詳しい」という肩書きはかなりかっこいいものだった。街に詳しいことのかっこよさを教えてくれたひとりだった。私のもっている街についての知識といえば、コンクリは夏暑い、ということくらいだ。木を増やしてくれ。あるいは無許可で植えようか。『静かな生活』に映っている街は、木々が多く、したがって木漏れ日も豊かで、とても涼しそうだった。まず単純にその涼しそうな街がうらやましい映画だった。
大江の著作を書かれた年代順に読もうと試み、いまはまだ八四年の『いかに木を殺すか』に突入したばかりである私にとって、九〇年の『静かな生活』は未知のゾーンであるが、映画を見るかぎり、そこに描かれているのは『新しい人よ眼ざめよ』期の生活の長女視点での語りなおしのようである。『新しい人よ眼ざめよ』にならい、『静かな生活』の原作もやはり連作短編集であるらしく、映画もやや細切れのエピソードが連なるような印象がある、しかしそれがかえって軽やかさを生み、大江光の牧歌的なピアノ曲や渡部篤郎演じる「イーヨー」の穏やかな発声も相まって、寓話的穏やかさが漂う。黒地に白文字で「次の日」と書かれて日が切り替わるようなことが平気で行われたり、あと昨日の日記にも書いたが、ひととひととが現実ではあり得ないほどの至近距離に立って会話するのも、なんとなく映画的でない感じがして、かえって好感がもてる。「イーヨー」が祖母の年齢を聞いて「では、もう死んでしまいますね。元気を出して死んでください!」といったという、私と同居人の好きなエピソードも映像化されていてうれしかった。しかし後半の「新井」にまつわる展開はそうした穏やかさとは対照的で、「イーヨー」&「マーちゃん」vs世界、とでもいえそうな対決が描かれ、二人の生活は大打撃を受ける。その大打撃を乗り越えるからこそ、最後に「マーちゃん」の描いた絵日記の題名をどうすべきか尋ねられた「イーヨー」が「『静かな生活』というのはどうでしょうか?」と返すことの感動がある。
7/23
先週の「シットとシッポ」を聞いたら荘子itが熱量高く『急に具合が悪くなる』の話をし、それにたいして福尾匠が興味を示しつつ、自分も映画館に観に行くかどうかは保留していそうな受け答えをしていて、これぞ〈疎〉だ、と思いながらちょっとウケた。(今回の場合、ユマニチュードやケアが絶対的にいいものだとされる雰囲気にたいし異を唱えたい福尾匠、という文脈でもあるので、一概にそうだといいきれないかもしれないが、)これぞ〈疎〉、というのはつまり、相手の話にはノりながらも観に行くかどうかはまた別、という姿勢というか、話題になってるから/流行ってるから観に行くのではなく自分が観たかったら観に行く、という姿勢というか……、とにかく、ノるかノらないかは自分で決める、それが〈疎〉なのだ。いや、そのように断定すると、自己決定論のような雰囲気を帯びてしまって、それはそれで違うなあ。このように長々と書いてしまっている時点で、やはり私は『置き配的』に書かれている内容を「理解」しているとはいいがたく、あくまで「浸透」なのだ。しかしそのようなことをちょうど今日ツイートしたところ、福尾さんから引用されて、いわく「理解より浸透のほうが嬉しいです。」ということなので、よかろう。
同居人は仕事が連日遅くまである。いつもなら私のほうが遅くまで仕事している印象なのだが、先週今週と同居人のほうが帰りも遅く、へとへとになっている。もちろん暑さゆえのへとへともある。朝、家を出た段階からありえないほどの日差しに突き刺される。日本の暑さの原因は湿気であるなあ、とつい二週間ほど前まではのんきなことを思っていたが、なんのなんの、真の原因は日差しである。
7/24
毎年のことだがフジロックに行かずに東京で働いている。配信も見ていない。MステにZAZEN BOYSが出ていたので見た。向井秀徳とタモリが重なって見えた。椎名林檎からコメントが寄せられていたが、珍しく横書きになっていた。
『キッズ・リターン』を久しぶりに見て、かなりいいと思った。思いのほか群像劇だった。とはいえ中心はやはりシンジとマーちゃんなのであって、シンジ(安藤政信)の無造作に切られた直毛が、風に吹かれて揺れる感じと、マーちゃん(金子賢)の、顎をくいっと上げながらイキる、そのときセンター分けしたさらさらの髪が跳ねる感じ。マーちゃんの家の前で自転車のチリンチリンを鳴らしつづけるシンジ。ヤクザになってから久しぶりにボクシングジムに来て、リング上で舎弟とじゃれるマーちゃん。周囲が白けるなか、マーちゃんをまっすぐ見つめるシンジ。それぞれ違う場所で、時を同じくしてボコボコに殴られるシンジとマーちゃん。「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな」とこのときだけタメ口になるシンジ。「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」とはにかみながら返すマーちゃん。二人でしばらくへらへら笑って、久石譲の青いビートが鳴って、エンドロール。……最後、少し長めにへらへら笑う二人がものすごくいい。フリオチの短い編集に貫かれてきた映画の最後に、たったコンマ数秒かもしれないが青春が延長されている。
7/25
映画の冒頭、シンジとマーちゃんが二ケツした自転車で高架を走る、その姿にカメラは並走する。カメラの水平が保たれたまま、ふいに自転車が上り坂にさしかかると、二人の姿は画面の上に消え、代わりに高架の白が画面を埋めた瞬間、青い「Kids Return」の字が現れる。しかしそこでカメラは止まらない。自転車が走りつづける限り、それにカメラは並走し、青いビートが鳴りつづける。(すなわち、映画の最後と同様に、冒頭においても青春が停止することなく延長される。)やがて高架が下がってきて、自転車と二人の姿が再び画面に入ってくる。──というひと繋ぎのショットが、『悪は存在しない』において親子が森を歩くショットと似ていて、まあこれは似ているだけかもしれないが、どちらもかっこよく、ものすごく映画だ、と思う。
(それと、何日か前の『静かな生活』にも「マーちゃん」という名前の子が出てきたことを思う。が、これはほんとうに偶然で、映画的というわけでもない。どちらかというと日記的偶然だ。)
そこまで複雑な映画ではないにもかかわらず記憶から抜け落ちているものが多いのにも驚いた。ものというよりひとか。「強いやつは酒飲んでも強いんだよ」とのたまって、シンジがつぶれるきっかけを作るボクシングジムの先輩・ハヤシ。そして喫茶店の女の子に恋し、不器用にアプローチし、やがて就職と結婚を経たのちに社会に揉まれ、タクシー会社に転職し悲劇的な顛末をたどる真面目で内気なヒロシ──、彼らの顔を、いたなあ、という感慨とともに私は見た。久石譲の鮮烈なテーマ曲のことさえも、冒頭でいきなり流れるまで、私は思い出さずにいたのだった。そのようにさまざまに抜け落ちていながらも、何年も前の初見のときにいだいた「感じ」が即座によみがえってき、泣くというよりはむしろなぜか笑いそうになりながら見た。
映画を観たときから時間が経つほどに、その具合的な内容の鮮度がうしなわれ、その映画を観ていたときの「感じ」だけが残っていく。映画そのものがもともと備えているというよりは、それを観た私の側に残る、そうとう漠然としたある「感じ」。その意味で、映画を観るというのは、物語を楽しんだり、ショットを分析したりすること以上に、なにか「感じ」を得るための行いだともいえる。たとえば北野武の映画についてよくいわれる《キタノブルー》というのだって、じっさい画面は明らかに青いのだから事実ではあるのだが、つきつめれば青い「感じ」のことである。とりわけ『キッズ・リターン』のことを思い出そうとするとき、なんだか青い「感じ」の映画としてその印象が浮かび上がってきていた。そしてその「感じ」は今回の再見によって強化された。いっぽう再見することで「感じ」が弱まる映画もある。昨年『親密さ』を観たら初見時の静かに切迫した「感じ」は弱まった。ハマリュウ史上の名シーンであるはずの橋の長回しも、二回目は拍子抜けするくらいあっけなかった。そのように強まったり弱まったりする「感じ」は、さっきも書いたように映画そのものが備えているのでなく観客である私のなかに生まれる、ようは私のコンディションにも簡単に左右されるものなので、映画のよしあしとは関係がない。映画じたいがそんなにいいと思えなくても「感じ」が強く残る場合はある。……とはいえよかった映画は「感じ」も強いことが多く、逆は少ないか。
今年の上半期ベストといえる『マーティ・シュプリーム』と『急に具合が悪くなる』についてだって、私のなかですでに内容の鮮度はうしなわれはじめ、よかった「感じ」が勢力を伸ばしている。まだすっかり忘れてしまう前だからこそ、内容と紐づいた具体的な「感じ」がある。とくに『急に具合が悪くなる』のホワイトボードのシーンにたいしての「感じ」が、いま強い。ホワイトボードに書かれる講義内容がどうこうというよりは、ああやって真理がホワイトボードを持ち出し、マリー=ルーが身を乗り出して受講するにいたる、あの奇跡的な出会いの夜の「感じ」。ああやってほとんど初対面のひとと公衆の面前で親密な会話を交わして、同じ名前であることがわかって、夜まで街を歩いたら橋の下で踊っているひとたちがいて、そこにしばらく混じって、川面がきらめいていて、──という夜になら、盛り上がった末にホワイトボードが持ち出されることだってあるだろうと想像できる「感じ」。真理だって始めから講義するつもりだったわけじゃなく、会話が弾みに弾み、いてもたってもいられずに気づけば板書していたのだ。たまたまそれが資本主義にかんする話だったというだけだ。──と、二人の会話をある種矮小化してしまいそうにもなる「感じ」。
ところでこういう「感じ」というのは映画だけでなく小説にもあるし、散歩や、天気にだってある。しかし天気にかんする「感じ」は奇妙だ。天気というより季節か。私は毎年、夏にたいして間違った「感じ」をもってしまっている。「感じ」というのがあくまで主観的なものであることを踏まえれば、合ってるも間違ってるもないはずなのだが、夏にたいする「感じ」だけは明確に間違っていると断言できる。というのも私はいつも冬や春になると夏をなにかいい「感じ」のものだと捉え、それを修正しないまままた次の夏に突入しては激しい裏切りにあっているからだ。夏がいい「感じ」のものであるはずがない。毎年いやというほど実感しているはず……。それなのにどうして何度もいい「感じ」をいだいてしまうのかといえば、やはり夏を描いた映画や小説や音楽のいい「感じ」のせいなのであって、そういうフィクショナルな「感じ」が連鎖して偽りの夏のいい「感じ」を生み、それにだまされつづける私だった。
今週はひどく暑かった。私はもう二度と夏のいい「感じ」にだまされないと誓いたい。しかし今日の夕方、空ににわかに分厚い雲がかかって、夕焼けの橙色と曇り空の灰色が拮抗し、グレイッシュオレンジとでもいうべき微妙な色に空が変わって以降の涼しさは、またほんの少し夏のいい「感じ」がよみがえってきそうな性質のものだった。こういう日があるから夏はいいんだよなあ、などといってしまいそうになる涼しさだった。それに今日は夕方まで仕事だったので、昼間の暑さをさほど味わうことなく涼しい夕方を迎えてしまった。こういう日にこそ気をつけなければならない。同居人が友だちと『ちいかわ』の映画を観に行って、そのまま別の友だちと飲みに行っていたので、私は散髪し、外でご飯を食べてから、少し遠回りの電車に乗って日記を書いた。『キッズ・リターン』のタイトルバックのシーンについて詳細に書きながら、もう一度見たくなったので、帰宅してから再生してみたら、私の記述から受ける印象よりずっと短いショットだった。昨日の今日ですでに記憶の改竄が始まっている。「感じ」が幅を利かせはじめている。やがて同居人が帰ってきて、『キッズ・リターン』の話をまた少しするうちに、明日の朝までにDVDを返さなければいけないことを思い出して、LUUPの自転車を借りてTSUTAYAまで返しに行った。その道中もやはり風が気持ちよくて危なかった。TSUTAYAの近くでビルの工事をしていて、ちょうど巨大なクレーンが巨大なパーツを二〇メートルていどの高さまで持ち上げるシーンに立ち会って興奮した。国がキモくてもビルは建つ。帰宅してから、『Tシャツが乾くまで』の第三話のほんの一部を見た。中島歩がシャツにカレーをこぼすシーンがあって、私がぜったい好きだと思うから、ということで同居人が見せてくれた。私は洗濯剤のCMでシャツにカレーをこぼすシーンで必ず笑ってしまうのだ。『Tかわ』のカレーこぼしもなかなかに豪快で、やはり笑ってしまった。こぼしたことに気がついて「あーあー」といいながら、しばらくスプーンを動かせずにいる中島歩がいい。しかしちゃんとあらためて全編見ようとも思った。

7/26
朝から『名探偵プリキュア』を見ていたら激アツ展開に突入した。もはやふつうに楽しんでいる。それから家を出て、近所のカフェでパンを食べコーヒーを飲んでから、池袋に移動して、星乃珈琲店でやはりコーヒーを飲みながら私は『夏帆』の続きを読み、同居人は田中小実昌の『ポロポロ』を読んで、同居人がときおり抜粋して音読する『ポロポロ』の一節がとてもよく、正直『夏帆』を読んでいるよりそれを聞いているほうがいいくらいだった。『夏帆』はまだ途中なのでなんともいえないが、すごくグルーヴ感があるような感じはしない。相変わらず読みやすいのはすごいが、とはいえ春樹の文体も歳をとったなあ、と思う。
東京芸術劇場に移動して、プレイハウスで『NORA』という演劇を見た。黒木華と瀧内公美が出ているという理由で同居人がどこからか見つけてきて、私たち二人ともちょうど演劇に興味が湧いている頃だったので行ってみることにしたのだった。原作はイプセンの『人形の家』。演出はティモフェイ・クリャービンというひと。主にスマホのメッセージのやり取りで演じるという大胆な翻案だった。舞台の上半分に、主要人物四人のスマホの画面が大きく投影され、俳優たちのリアルタイムでの文字入力によってLINEやMessenger上でやり取りが行われる。舞台の下半分はガラス張り(いわゆるマジックミラー)になっている、その向こうで俳優たちが日常の場面場面を演じながら、同時にスマホを操作しつづける。台詞のほとんどがスマホ画面上でのやり取りに代わっているため上半分のスマホ画面を常に凝視することが求められ、また下半分の俳優たちの動きにも注目しなければならないため、最初はとにかく見づらい。たとえばこの前の劇団四季に比べると圧倒的に「不親切」な演劇だと感じる。しかし「不親切」であることはよしあしに繋がらない。見ているうち、おもしろい試みだと思えた。
登場人物たちの名前は原作どおりのようだが、彼らが使用するスマホ(iPhone)やLINEやMessengerやGoogleやChatGPT(らしき会話型AI)や言語や絵文字は現代の日本のものであり、彼らがスクロールするFacebookのタイムラインには日本の地名も散見される。しかし物語はあくまで原作準拠で進むので、作中のリアリティ・ラインがどこに置かれているのかがわかりにくい。というか、舞台上半分と下半分で意図的にずらされているようにも感じる。また観客から見やすくするための苦肉の策だろうが、トーク画面の文字サイズがでかいのも、あの登場人物たちの年齢にしては奇妙である。しかしリアリティ・ラインどうこうというよりは、スマホ画面を通して感じられる俳優たちの身体──打ち直しとか、打ち淀みとか、打ち損じとか、入力できなさにいらついてボイスメモに移行する感じとか、ひとと一緒に過ごしている時間にもスマホをいじりつづける感じとか、一緒にいるひとから見えないように太ももの陰で器用に文字入力を続ける感じとか、娘たちと愛おしい時間を過ごすと同時にスマホ上で物騒なやり取りを続ける感じとか、黒木華はキーボード入力派なんだ、とか、鈴木浩介はポチポチ入力だからちょっと遅いんじゃないのか、とか、そうしたスマホ上のあれこれ──こそを現代的な個性として味わうことに、この演劇の真髄があったようにも思う。その点でいい演劇だった。逆に第二幕でふつうに台詞劇に移行しかけて、ちょっと拍子抜けしたほどだった。
いっぽうでこの物語を現代的に翻案するならSNSも登場させたほうがより真に迫るのではないか(いや、舞台上でやるには現実的に厳しいのはわかるが)、と思ったりもした。映画やドラマで変にSNSが出てくると、なんだかなあ、と文句をいうくせに、出てこないなら出てこないで、やはりなんだかなあ、と感じる私だった。というか、突き詰めて考えれば、今回の方法じたいはおもしろいと思いつつ、ではこれが『人形の家』である必要があったのか、という疑問にも繋がる。古典を現代的に翻案する、という試みであるのだろうが……、これはけっきょく『人形の家』を読んでみないことにはわからない。
帰ってから、フジロックの配信でFrikoを見ているうちに、窓の外の空がものすごく曇ってきて、これもやはり夏らしいと思った。変な時間に少しだけ寝てから、変な夕食を食べて、変なふわふわした感じになった。Massive Attackも配信で見た。Mitsukiも一瞬見た。そっか、日本語話者なのか、と思った。
7/27
マッシヴ・アタックの(ライブを配信で見て、スクリーン上に投影されているメッセージはいずれも真摯なものだったし、「ラディカル」で「リベラル」であることと心中しようという不退転の姿勢に感動もしたし、途中の妙に精度の高いフェイクニュース乱造には笑ったが、配信ではカメラがさまざまに切り替わり、パフォーマンスやメッセージを一貫性のあるものとして受け取りにくいと思った、が、それは配信で見ているからだ。)曲もいまあらためて聞くとかっこいい。いまあらためて、というのは久石譲にもいえる。『キッズ・リターン』のサントラの一曲目「MEET AGAIN」は主旋律が繰り返される後ろで前半は久石譲好みのトライバルな太鼓が静かに響き、一度それも静まったかと思えば、今度は四つ打ちの大きなビートが始まって、ギターも加わってくる。全体としていなたいが、同時に美しいとも思う。ストロークスの新譜も、これはこれで、と思いながら聞いている。前作で幕を閉じたバンドの、そのあとのアルバムという感じがする。ジュリアン・カサブランカスにとってオートチューンは延命装置であり酸素マスクであるかのようだ。それに比べてチャーリーXCXのなんと器用なことか。
今日はとても過ごしやすかった。こういう日があるから夏に騙されるのだ……。仕事のあと、『ネネットとボニ』を観た。説明は排され、とにかく顔、視線、身体ばかりがクローズアップされる。一昨日くらいの日記に書いた話に寄せれば、『ネネットとボニ』は、観ている最中からもういい「感じ」が湧き出てくるような映画で、ある意味もっとも純粋な映画体験のようでもある。いうなれば、純映画。あまりに美しい。帰宅してからは松村北斗主演のドラマ『告白』の第三話を見て、さすがに無理がありすぎる、とウケた。『ちいかわ』のアニメも途中から途中まで見た。『ちいかわ』って、日記に近いかもしれない。
7/28
今日は昨日よりは暑い、が、これくらいならぜんぜんウェルカムですよ、という感じの暑さ。昔って夏でもこれくらいだったよなー、という話をしたいときに、ちょうどいちばんいい「これくらい」の暑さ。そういえば『NORA』では登場人物たちがiPhoneを使っていたのもたいせつなポイントだと思った。というのもiPhoneの日本語入力では、打ち損じても予測変換で勝手に修正してくれるということが頻繁に起きるからだ。よそくへんかんにたよらずひゅうりょくしたとしたら、ど」すらいまちがえるだろうか。わたしのばあいまいにちのにっきできたえているつもりではあるが、もおもとにゅうりょくはにがてなほうであるから、じゅうよじにいちもじていどはうちそんじるのではないかとおよう。さっき、きょうのあつさについてかいたときにだって、よそすへんさんがきをしかせてくれた、そのことで『NORA』のiPhoneのことを思い出した。舞台の上半分に主要四人それぞれのiPhoneの画面が投影され、俳優たちの文字入力がリアルタイムで反映される。そのなかで打ち損じてもあるていど予測変換で修正されるのが、じっさいの発声による会話とは異なる発話なのだと感じさせたのだった。また、Messengerでは相手が入力していると「・・・」と表示されるのにたいし、LINEではなにも表示がない。そのため、話者は自分がまだしゃべっている途中であることを示すために、長い文章を細切れに送信する。「それに、」とか「え、」とか。このようなアプリごとのUIの違いも、iPhone上での会話の形に影響するのであって、そういうものが、意図してからせずかはわからないが、結果として演劇のなかに表れていたのがおもしろかった。
『NORA』は、いうなれば方法論そのものが舞台の形になっているような演劇で、だからこそ観客としてああだこうだいいやすい。いっぽうで昨日の『ネネットとボニ』はとにかくすごいと思うが、どうすごいのか(あるいはどうしてすごいのか)がわからない。なんでこのショットとこのショットを繋げようと思ったの、というようなことがずっと続く。変な映画だったなあ、と思いながら、今日はTindersticksというバンドによる『ネネットとボニ』の劇伴を聞いている。そういえば昨日は東野圭吾が亡くなったニュースもあった。個人的に近作を読んでいることはなかったが、小学生や中学生の頃、読書の楽しさを教えてくれた作家のひとりだった。私にとって、同じ枠に伊坂幸太郎とスティーブン・キングがいる。
……また熊本で大地震が起きた。また、というが、記憶にある熊本の地震は二〇一六年のものだった。やはり、また、だ。すごく心配だ。特にイオンモールのところ、夏休みということもあるし。……今日は同居人が具合悪そうに帰ってきて、『ちいかわ』のアニメを流しながらあっという間に寝た。
7/29
職場で仕事の話をしているところから人格的な話になっていった(その話は心理的安全が確保されたなかでなされたのであって、まったく嫌ではなくむしろかなりありがたい)。その内容を逐一日記に書いても仕方がないのでざっくりまとめると、私という人間には真剣味がなく、ひとに興味がなく、したがって周りのひとの気持ちにも興味がない。自分がこう思っているから周りもきっとそうだろう、と決めつけるような(あるいは強いるような)「暴力性」がある。──このように大ざっぱに書いた内容が、まあ遠からずだと思えてしまう時点で、へらへらしている場合ではない。私がひとの気持ちを考えられていないというのは日記からも読み取れるのであって、このところ観たものの感想といっても方法や形式の分析のようなことばかりを書いていて、それを観て私じしんがどう思ったかとか、登場人物たちがどんな気持ちだろうかとか、そういう方向に書き手として向かえていない。
このところ日記をChatGPTに送って対話するということをたまにやっているのだが、何日か前からの日記をまとめて送って、私が書いた『NORA』の感想についてもコメントをもらった、その内容が──私が書いた日記にたいするコメントなのでそう感じるのも当たり前なのだが──けっこう的確だと思えたので一部抜粋すると、
「上半分の文字と下半分の身体を同時に追わせる構造は、観客に明らかな負荷をかける。しかしその見づらさを、ただ欠点として処理しない。むしろ、スマホを見ながら目の前の人間とも過ごすという、現代の日常そのものが、そもそも注意を二分される「見づらい」経験なのではないかとも思えます。
画面上の会話を読んでいるあいだ、俳優の身体を見逃す。身体を見ていれば、文字を読み落とす。その取りこぼし自体が、作品の主題や方法と結びついていた可能性があります。あなたが感じた「不親切さ」は、この演劇にとって偶然の不備ではなく、かなり本質的なものだったのかもしれません。」
ということだそうなのだが、このような対話だって、けっきょく方法や形式の分析のようなことに終始し、気持ちの話ができていない。もちろん、気持ちの話をするべき/したほうがいい、というような規範があるわけではないのだが、私にはあまりにも足りていない。『ネネットとボニ』だって、登場人物たちの気持ちの面から考えるとショットとショットの繋がりも自然に思えるのではないだろうか。あるいはそもそもこの「ショット」といういかにも分析的な言葉を、よく知りもしないで使うのをやめるところから始めるべきではないだろうか。
7/30
いつのまにかまた暑さが戻っている。これだから夏は、という気分になる。夜、崔洋一監督の『刑務所の中』という映画を見た。主演の山﨑努のドキュメンタリーを同居人が見て、この映画にかんする言及があったので見てみようとなったのだった。刑務所生活をエッセイ的な手ざわりで描いた映画で(というのも原作がエッセイ漫画なのだそうだ)、小さなエピソードがピアノの小曲で繋げられて連なる感じはこの前の『静かな生活』を思わせた。そういえば『静かな生活』でマーちゃんとイーヨーの父であり作家であるKを演じていたのも山﨑努だった。庭の排水管の詰まりをうまく直すことができずに家族の面前でうなだれ、しおれきって首吊りまでしようとするKをやっていた山﨑努が、今度は、ひょんなことから受刑者となってしまった変な語り手として登場する。終始おもしろくて、いい映画だった。なんといっても山﨑努の真面目な不真面目さがおもしろい。有名俳優も多く出ていて、若かりし松重豊がおいしそうにご飯を食べる姿に、後年の『孤独のグルメ』を早くも見出すことができた。
途中、受刑者たちが免業日(=作業をしなくていい日)に映画を見るシーンがある、その映画が『キッズ・リターン』で、これまた私もさいきん見たばかりだという偶然がうれしかった。体育館のような場所に用意されたスクリーンに映し出される『キッズ・リターン』をカメラが映す。冒頭の自転車と並行するカメラのショットと、最後のへらへらした二人のショットが引用されていて、まあ単純に映画の最初と最後だから使ったということでもあるのだろうが、どちらも私がこの前見て感動した部分だったので、こんなに偶然が続くのか、と密かに興奮した。そしてそんな興奮以上に驚かされたのは、私がこの前の日記に書いた、
「映画の冒頭、シンジとマーちゃんが二ケツした自転車で高架を走る、その姿にカメラは並走する。カメラの水平が保たれたまま、ふいに自転車が上り坂にさしかかると、二人の姿は画面の上に消え、代わりに高架の白が画面を埋めた瞬間、青い「Kids Return」の字が現れる。」
という描写における「青い「Kids Return」の字」という記述に誤りがあったことだ。じっさいは高架の白の上に白い文字で「Kids Return」と出る。この記憶違いを、まさか別の映画のなかで訂正されることがあろうとは思わなかった。マーちゃん、俺の記憶力ってもう終わっちゃったのかな? バカヤロー、まだ始まっ……、いや、もう終わりかもね。え、マーちゃん……
7/31
昨日書きながら思ったが、『キッズ・リターン』のマサルも「マーちゃん」だが『静かな生活』のマーちゃんもやはり「マーちゃん」なわけで、そうなると、字面だけ見れば、「シンジとマーちゃんが二ケツした自転車で高架を走る」という描写における「マーちゃん」がマサルではなく『静かな生活』のマーちゃんだという可能性もある。その場合イーヨーも一緒にいるだろうというのが自然に想像できる。ということはシンジはマーちゃんとイーヨーという大人二人を乗せて自転車をこいでいることになり、二ケツでなく三ケツになる。いつもまぶしそうに目を細めて余裕げにこいでいるシンジだが、三ケツとなるとさすがに厳しかろう。座りこぎのままではきついが、後ろに二人を乗せたまま立ちこぎするわけにもいかないから、ひたすら歯を食いしばることになろう。マーちゃんもイーヨーもシンジにとって年上だから、「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったんすかね」と少し丁寧にもなろう。もちろんシンジも、マーちゃんもイーヨーも、終わってなどいない。しかしそれをマーちゃんより先に答えるのはイーヨーかもしれない。「いえ、シンジさんは終わってなどいません!」「イーヨー、私たちだって終わってないわ」──そのまま三人でしばらくにこにこ笑って、暗転。(この三人ならば「へらへら」よりは「にこにこ」といった感じになろう。)
そんなパラレルワールドの『キッズ・リターン』を、体育館に集められた受刑者たちが見ている。
上映が終わって、彼らがそれぞれの房に戻ると、部屋で待機していた他の受刑者たちが「映画、どうだった?」と迫ってくる。いやあ、途中までは少年二人の話だったのに、最後だけ謎の少女と青年が出てきて、三ケツしてるんだよ、あれは変だったなあ──「いやあ、アルフォートとコーラが出たよ、甘くて最高だった……」
「アルフォートとコーラ! いいなあ……」
と、房の一同がそれぞれのアルフォートとコーラを想像しながら、恍惚の表情を浮かべる。

































