バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

卵を焼く(二)

卵二個朝来るたびに焼いて巻く この真面目さがローマを築く

レシピ見てサラダをごまに置き換えし吾はごま油万能論者

全日本殻割り大会予選落ち 力かげんが未だ分からぬ

なにもせず今日も明日もただ焼かれ 向上心のなき卵焼き

信じがたき朝の光 卵焼きとまだ起きぬひとに平等に注ぎ

 

 

 毎朝卵焼きを作るようになってから、毎朝卵焼きを作っています、と僕は周りにいってまわった。あたかもずっと前から続けている規則正しく健康的な習慣であるかのように。もし僕がマッチングアプリをやっていたならアピール欄に載せていただろう(「#卵焼いてます」)。もし僕が就職活動中だったなら履歴書に書いていただろう(「資格・免許等:資格というわけではありませんが、毎朝卵焼きを作っています。」)。それほどまでに僕は僕の卵焼き作りを吹聴していた。僕の卵焼き作りは世間の人びとの広く知るところとなり、やがて小さなウェブメディアでの連載が始まることとなった。一回あたり原稿用紙一枚から二枚程度の短い文章のなかで、僕は卵焼きを軸に僕なりの料理論や人生観を開陳し、超現実的な想像を繰り広げた。テーマは多岐にわたったが、僕のなかでの線引きとして、卵焼きを利用して世相を斬ったりはしない、というものがあり、その一点をもって僕は卵焼きにたいする高潔さを保っていた。卵焼きは俗世と切り離すべきであり、云々。僕の連載(『卵焼きを作ることについて語るときに我々の語ること』)は、しかし好評を博すことができず、僕は僕の高潔さを保ってなどいられなくなった。僕は卵焼きとからめてばんばん世相を斬っていった。なんでもいいからとにかく世相を斬れば人気が出るだろうという思惑だ。しかしそんな取ってつけたような理由では世相をうまく斬ることができず、僕の連載はけっきょく好評を博さないまま終了した。僕は卵焼きにたいする高潔さも失った。それでも僕の卵焼き作りは続く。

 

 

「西沢さんは卵焼きがお得意なんですってね」
「そう……、そうなんです。僕は毎朝卵焼きを作っておりまして」
「毎朝作ってらっしゃるの!」
「あ、そうですね、毎朝というか、ほぼ毎朝ですね。基本平日に作ってます。すいません、土日はあまり作ってないですね。あとあれか、卵を買い忘れたときも作れてないですね。でもそれ以外の日は基本的に作っています」
「あら、じゃあ毎朝ってわけではないのね」
「……あ、でもまあ、いちおうほぼ毎朝って感じですね」
(『徹子の部屋』より)

 

 

卵焼き、玉子焼き(たまごやき)は、溶いた鶏卵を食用油脂を引いた調理器具で焼き上げた日本の料理(和食)。

一般的には、四角い専用の鍋で厚みのある方形に巻き上げて整形する厚焼き卵を意味することが多い。

なお、地域や世代、業種などによっては、厚焼き卵と薄焼き卵の総称、あるいはもっぱら薄焼き卵を指す言葉として、また目玉焼きなども含む卵を用いた料理全般を指して「卵焼き」という表現を用いる場合もある。
ウィキペディアより(*太字強調は筆者による))

 そんなことをいったらあれもこれも卵焼きってことになっちゃいますけど!
 そんなことをいったらスクランブルエッグなんて卵焼きの最たるものだし、オムレツだって、ニラ玉だって、と列挙していこうとしたところでさっそく限界が訪れ、僕は自分の知識不足が悲しい。こういう文章においては列挙されているもの(あるいは、いくつも列挙されている、ということ自体)が説得力を生み、ひいてはおもしろみに繋がるのであり、スクランブルエッグとオムレツとニラ玉だけではどう考えても役不足だ。それにスクランブルエッグとニラ玉なんてほぼ同じだし。けっきょく僕は卵焼きしか作れない卵焼き専用マシンに過ぎず、卵料理のことなどこれっぽっちも知らないのだ。しかしせっかくウィキペディアまで引用してこうやって文章にしようとしているのだから、架空でもなんでもいいから列挙すべきである。ポテ玉(ペースト状にしたじゃがいも、ながいも、やまいもを卵と混ぜて強火で一気に焼く)、友玉(卵仲間である鶏卵とたらこをマヨネーズと混ぜ合わせ、強火で一気に焼く)、フィリ玉(スクランブルエッグをベースにフィーリングで調味料を加えていく)、熊玉(大暴れしていたヒグマがこれ一発でおとなしくなるほどうまい)、二死玉(死んでいたひとが生き返るほどうまいが、あまりのうまさにそのひとはまた死んでしまった)、暮れ玉(朝ごはんとして食卓に出ると、あまりのうまさにおかわりを求め続けてあっという間に日が暮れてしまう)、オリ玉(あまりにうますぎるため、オリンピックのように四年に一度しか作ってはいけないとされている)、これらはすべて卵焼きである。

 

 

 人類ではじめて納豆を食べたひとはすごい、みたいな話題がよくあるが、それでいうとはじめて卵焼きを作ったひともすごい。卵をただ薄く伸ばして焼くのみならず、あのように成型するという並々ならぬ発想力。火を通した卵のほろほろとした食感に加え、巻くことで自然に空気が内包され、朝昼晩どのシーンにもふさわしい柔らかさが出る。上下左右どの角度から見ても隙のない、愛らしく美しいデザインも、その食べ心地にひと花添えているといえよう。こんなにも完成度が高くオールラウンダーな料理の発明は、いやしかし、どう考えてもひとりの業ではあるまい。はじめて卵を溶いたひと、それをはじめて薄く伸ばして火を通したひと、はじめて巻いてみたひと、はじめて何度も巻いてみたひと、はじめて四角く成型してみたひと。きっと何十年何百年にもわたる試行錯誤があり、何代にもわたる師弟関係があってようやく誕生したはず。いや、あるいは琳派のように、時代を越えた断続的な継承によって発達していったものかもしれないですよね。なんかそんな気がするな。そのほうがロマンがありますよね。
 それは違うんじゃないかしら、と目の前の徹子さんはいう。だって琳派には後世に残るものとして先人たちの作品があったじゃない。尾形光琳俵屋宗達の作品を見たから私淑できたわけでしょ。でも卵焼きって後世に残らないじゃない。その日の食卓限りのものなんだから。だから卵焼きの場合、時代を越えた私淑は無理なんじゃないの。
 ししゅ……? すいません、ししゅく……? すいません、ちょっとわからないです、と僕はいう。

 

 

 卵を切らしていたり、頭が痛かったり、起きるのが遅かったりで、卵焼きを作れない日が頻出する。もはや「(ほぼ)毎朝作っている」とはいいがたい状態になる。卵焼きを作っているなかでのなにがしかの実感が得られにくくなり、その実感に基づいた文章を書こうとしても、書こうとすればするほど実際の感覚から遠ざかっていき、ありもしないことが書かれていく。僕は『徹子の部屋』にゲストとして呼ばれるもはまらず、小さなウェブメディアでの連載を持つも短命に終わらせてしまい、ありもしない卵料理の名を叫び続ける。
 卵焼きにたいする実感を取り戻すためには、卵焼きを作り続けるしかない。しかし、ただ作り続けるだけではもうだめだった。先ほどは書かなかったが、実をいうと僕と卵焼きとの関係は完全なマンネリに突入しており、それも僕が卵焼き作りをすっぽかす一因となっているのだった。べつに僕が銀座で三百年続く老舗割烹の料理長のように卵焼きを極めたというわけではない。そうではなくて、毎朝作るなかで、できあがりの美しさに差はあれど、その他の面における成長がひと段落し、さらに上のフェーズを目指すためのとっかかりを見つけられずにいたのだ。僕の卵焼き作りは作業のようなものへと接近していた。そういうマンネリのなかから新たな実感が見出だされるはずなんてないんですよ。
 なにか混ぜてみればいいんじゃないかしら、と目の前の徹子さんはいう。
 なるほど! たしかにそれはそのとおりで、溶き卵の段階でなにかを混ぜることによってこのマンネリは打破できそうだった。ほうれん草なり、しらすなり、たらこなり、混ぜればよさそうなもののいくつかはすぐに思い浮かべることができたし、グーグルで検索すればきっと百も二百もご提案していただけるのだろう。
 でもね、徹子さん、やっぱりいきなり混ぜるのは怖いです。マンネリって安定でもあるし。僕と卵焼きとのこの穏やかな関係を揺さぶることが怖いんです。
 じゃああーた、一回他の料理でも作ってみれば? と目の前の彼女がいう。彼女は徹子さんではない。徹子さんはいつしか僕の前から姿を消している。
 あれ? 徹子さんは?
 徹子さんなんていないよ。
 あれ?

 というわけで、僕は卵焼き以外の料理にも進出する。肉じゃがと筑前煮とカレーは、構造的にはほぼ同じだということに気がつく。
 料理を作るうえで、自分で味や食感をコントロールできている感覚というものが大事だと僕は気がつく。それは単純に料理の完成度に直結しているし、うれしさや楽しさといった感情にも繋がる。たとえばある日、僕は麻婆豆腐を作っていた。終盤で片栗粉がないことに気づいたが、「とろみのない麻婆豆腐=硬派」ということにして事なきをえた。隠し味に中本のカップ麺についている辛旨オイルを入れた。豆板醤、甜麺醤、砂糖、醤油、料理酒、中本の辛旨オイル。甜麺醤を入れすぎた感はあるがおいしかった。どれがどういう風味に寄与しているかがなんとなくわかるような気がして、僕はうれしかった。うれしいのとおいしいのとで、白米がぐんぐん進んだ。まだ麻婆豆腐が残り三分の一ほどあるかというところでお茶碗の米が尽きてしまい、万事休すかと思われたがここは家である、ジャーにはまだ米がある。
 片栗粉がなくてもおいしく仕上がるだろうという確信。中本の辛旨オイルを入れたらさらにおいしいのではないかという機転。これらは定型のレシピからの逸脱であり、以前の僕にはなかったものだった。大通りから裏道へと逸れて近道を発見するような、あるいは遠回りだが好きな建物があるだとか、においがいいとか、そういう道を開拓するようなきもちよさがあった。
 定型をおさえたうえで逸脱することの楽しさを、卵焼き作りに持ち帰ればよろしいのではないか、と僕は思った。なにも混ぜないプレーンな卵焼きを定型とするならば、ほうれん草を混ぜた卵焼きは逸脱となる。やがてほうれん草入り卵焼きが定型となり、じゃあ他の野菜ならどうでしょうか、と試してみたものが逸脱となる。野菜じゃなくてしらすならどうでしょうか、と試すことで逸脱の枝分かれが起こり、もしよかったならその枝はさらに伸びていき分かれていく。定型と逸脱を繰り返すことで、僕と卵焼きとの関係は転がり続けるだろう。そんな予感を抱えながら、いまはまだプレーンな卵焼きを作っている。



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卵を焼く

 卵焼きの作り方を僕は知らなかった。せっかく毎日作ることになりそうならきちんとした料理本を買ってもよかったが、しょせん卵焼き、と思っている節もあり、事実、ググっていちばん上に出てきたクックパッドのレシピのままに作ってみても、きちんとおいしいのであった。クックパッドにどこかの主婦の方がアップして人気を博しているそのレシピには「これで完ペキ♡」や「黄金比!」というようなことが謳われていた。実際そのレシピどおりに僕が作った卵焼きを、彼女は「完璧です」といって食べてくれた。「黄金比!」とはいわなかった。「黄金比!」はもしかすると卵焼きではなく肉じゃがのレシピに書いてあったフレーズだったかもしれない。僕は肉じゃがのレシピもクックパッドで見ていた。卵焼きの完ペキ♡なレシピはもう覚えたのでクックパッドを見ることはないが、肉じゃがのレシピはまだ覚えきれていないところがあるのでたぶんあと一回は見る必要があった。醤油、みりん、砂糖、料理酒を入れればいいことはわかっているが、どれをどれくらい入れればいいのかをまだ覚えきれていなかった。目分量や感覚で入れてもよかったが、まだその段階ではまだないと思っていた。まずはレシピにもう一度目を通して忠実に作りたかった。レシピを見るときに「黄金比!」と書かれているかどうかも確かめようと僕は思った。
 卵焼きの話をしようとしたのに、肉じゃがの話として終わってしまった。次は卵焼きの話をしたいと僕は思った。

 

 

 卵焼きを毎日作ることになったのだった。毎日作るには習慣化しなければならないわけだが、僕はなにかを習慣化するということをすこぶる苦手としていた。でも彼女は僕になにかを習慣化させる方法を心得ていた。ようするに、ごみ捨てや皿洗いや歯磨きや入浴のように、もっといえば食事や睡眠のように、生活のなかの当然の一部として組み込んでしまえばよいのだ。習慣であるとかルーティーンであるとか意識する間もなく、当然の如くこなしているもの。卵焼きを作るということをそういうものとしてしまえば、僕はきちんと毎日卵焼きを作れるようになるのだった。朝起きたら、カーテンを開ける。うがいをして水を一杯飲む。卵焼きを作る。朝の僕の一連の行動のなかに挿し込めばよい。彼女にとってそれはプログラミングに近かったかもしれない。実際、ほとんどそれはプログラミングといって差し支えない。僕の左膝の裏には小さな蓋があり、それを開くとこれまた小さなキーボードとスクリーンが引き出される。スクリーンには僕の一日の習慣が書き出されている。彼女は、「水を一杯飲む」と「トイレに行く」との間に一行挿入して「卵焼きを作る」と新たに書き込む。動作確認をして大丈夫であれば、キーボードとスクリーンを奥にしまって、蓋を閉める。そうするだけで僕は毎日卵焼きを作れるようになった。なぜ膝の裏などにその装置があるのかというと、僕を作った博士が「人間は考える葦である」の「葦」を「足」と勘違いしたからだ。口承のよくないところであり、おもしろいところでもある。

 

 

 卵焼きといっても大きく分けて二種類ある、しょっぱいか、甘いか。実家にいたとき、母はどちらも作ってくれた。だいたい交互に味が変わっていたような気もするが、実際どうだったかは思い出せない。交互でもなんでもなかったかもしれない。しかし、もししょっぱいのと甘いのと両方作るなら、僕ならなんとなく交互にしそうな気がする。僕は変なところでまめだといわれる。バスタオルは三つ折りにしたい。本の栞紐はきれいなままにしたい。画像加工をするときは中央線を必ず意識したい。そういうまめさが発揮されて、僕はしょっぱい卵焼きと甘い卵焼きを交互に作りそうな気がする。しかし、そのまめさが卵焼きにおいてはまったく発揮されないという可能性もある。その場合僕はしょっぱい卵焼きと甘い卵焼きを交互に作れないだろう。塩と砂糖のどちらでも、そのときたまたま近くにあったほうを取ってボウルに入れるだろう。ということはもしかするとずっとしょっぱい卵焼き、あるいはずっと甘い卵焼きが続くことになるかもしれない。もっとひどいと、作り終えて口に入れるまで自分が作ったのがしょっぱい卵焼きなのか甘い卵焼きなのかさえわからないかもしれない。まめさが発揮されるかされないかは、そのときにならないとわからない。しかしそのときはやってこない。僕はいまのところしょっぱい卵焼きだけを作ればいいことになっている。なので、卵焼きに関して存在するかもしれない僕のまめさが日の目を見ることはない。

 

 

 卵焼きを作るとき、卵焼き器を使っている。「卵焼き器」というとまるで卵焼き専用の特殊な器具のようだが、その実、ただの長方形の小さめの鍋である。僕が特殊な呼び方をしているというわけでもなく一般にもそう呼ばれていると思う。たしかにその名のとおり卵焼きを作るのに最適な幅だと思う。僕は日本中のいろんな台所に置かれた卵焼き器を想像する。やわらかな光がさしこむそれぞれの台所で毎朝それぞれの卵焼きが作られる。それぞれに味付けやアレンジは違えど、どれもサイズはまったく一緒である。なぜなら卵焼き器の大きさはどれも同じだからだ。まったく同じサイズの卵焼きが、四等分、六等分、あるいは三等分や五等分、八等分のひともいるかもしれない、に切られ、ほのかに湯気を上げながら、食卓に並べられる。卵焼き器製造会社が独自の調査に基づいて決定した理想のサイズ感で、卵焼き器というものは作られている。「いまこの瞬間、頭のなかで卵焼きをイメージしてみてください。みなさんひとりひとりがイメージした卵焼き、実はサイズがすべて同じになるんです」と開発担当者は語る。僕たちが手にしている卵焼き器は、僕たちが頭のなかでイメージする概念としての卵焼きのサイズを象って作られたものだという。そんな非現実的な開発秘話があってたまるかと僕は思うが、事実そうなのだから認めざるをえない。「そうか、だからこんなにおいしく作れるんですね」と僕は感想を述べて、なんだか媚びたような感じになってしまい恥ずかしくなる。

 

 

 卵焼きを作りながらいろんなことを考える。たとえば、なんの脈絡もなく大浴場のことが思い出される。温泉旅館でも銭湯でもなく、ビジネスホテルの大浴場のこと。備え付けの寝間着に着替え、タオルと替えのパンツを持って部屋を出る。カードキーをうっかり忘れないように気をつける。エレベーターに乗り大浴場のある階で降りる。乗り合わせたひとたちも同じく大浴場を目指している。脱衣所にはひとびとの肌から発せられる湿気とせわしなく回る扇風機からの冷風がせめぎあっている。なるべく奥まったシャワーの前に座り、頭と身体をさっと洗う。シャンプーやボディソープを洗い流すためにシャワーのボタンを何度も押す。ひとの少ないほうの湯船にゆっくり浸かる。「あー」と「えー」の間の音を小さく発する。新たにひとが浸かってきて「あー」と「えー」の間の音を大きく発する。サウナに設置されたテレビになにかのドラマがぼんやり流れている。河川敷のようなところで誰かが誰かにぼんやり話しかけている。裸眼だとそれが誰だかわからず、さらに熱気のせいなのか耳まで遠くなった気もし、話している内容もよく聞き取れないまま僕はテレビをぼんやり眺めている。ぼんやりした感じを引きずったままサウナ室を出て外の椅子に座る。露天風呂にも少しだけ浸かり、もう一回サウナに入り、シャワーをさっと浴びて脱衣所に戻ってきてもなおぼんやりした感じは引きずられている。廊下に出ると先に出てきていた彼女が冷たい飲み物を持って座っている。「サウナ暑くて一瞬で出ちゃった」といっているこのひとのためにいま僕は卵焼きを作っている。

 

 

 卵焼きをうまく作れるひとこそ真に料理がうまいひとである、というようなことがいわれてはいないだろうか。よい書道家は「一」という文字にこだわる。アパレルブランドの理念はそのブランドが出している黒いアイテムの黒さにあらわれる。というようなことと同じような並びで、料理家の腕を見るには卵焼きを作らせればよい、という格言があったりしないだろうか。おそらくあるだろう。卵焼きには料理のすべてが内包されている。繊細さと大胆さの奇妙に美しいバランスのうえに成り立っている。銀座で三百年続く老舗割烹に弟子入りしたひとは、最初の十年、毎日卵焼きのみを作るという。ひとによってそれは二十年にもなる。いまの十四代目料理長は十八年それを続けたのちに他の料理を作ることをはじめて許されたという。彼の卵焼きはメニューには載っていないがお願いすると作ってくれる。「先代に比べると自分なんてまだまだです」と彼はいうがその卵焼きから立ち上る湯気にはほのかに矜持が混ざっている。というようなことがあったりしないだろうか。おそらくあるだろう。僕はそんなことを想像しながら、十八年毎日卵焼きのみを作る、という行為の時間的質的厚みに圧倒される。それに比べたら僕の卵焼きなんて塵のようなもの、とも思うが、僕は僕で矜持を持って卵焼きを作っている。矜持は大げさだっただろうか。自信、いや、誠実さ、いや、真面目さ。そう、真面目でないと卵焼きは作れない。卵を丁寧に巻いてゆく工程には真面目さが求められる。その真面目さのはるか先に十四代目料理長の十八年があり、老舗割烹の三百年がある。

 

 

 卵焼きを作るという毎朝の行いを料理と捉えるかそれとも作業に近いものと捉えるか、そのはざまに僕はいた。卵を二個割ってボウルに入れ、塩を振り、顆粒だしを少量まぶし、箸でかき混ぜる。卵焼き器を火にかけ、ごま油を垂らし、卵焼き器をてきとうに傾けて延ばし、そこに卵を注いでゆく。ここまでの工程は完璧に身体に染みつき、寝起きのストレッチのような目覚ましの効果さえ発揮していた。そこに創意工夫ややりがいの入り込む余地は、少なくとも僕にとってはない。できることといえばせいぜい味つけを変えるくらいだが、彼女からは塩で味つけするように命ぜられており、僕の主体性の出る幕はない。しかしいっぽうで、卵焼き器に卵を注ぎ、固まってきたら箸で上端を持ち上げてくるりと内側に折り、そのまま手前に巻いてゆき、できたものをまた卵焼き器の奥に持っていって卵を注ぐ段階においては、クオリティや美しさという観点が登場する。完成した卵焼きは完成させた僕によって主観的に評価される。きれいかきれいではないか。きれいに巻けたときはうれしいし、きれいに巻けなかったときは悲しい。評価に感情が合わさる。作ったものによって感情を動かされるのなら、それは作品と呼んで差し支えないものであり、料理と呼ぶにふさわしいものだと思う。つまり僕の卵焼き作りにおいて、卵を卵焼き器に注ぐ以前の段階は作業に近いものであり、注いで以降は料理といえるものだということだ。僕は僕の卵焼きをもっと料理にしていきたいと思っている。油の垂らし方や、卵のかき混ぜ方、塩の振り方にもやがてこだわっていって、卵焼き作りにおける料理の割合を増やしていきたいと思っている。思うだけなら自由だ。


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フミコちゃんのゲーム2

 フミコちゃんがひとの自転車のライトを勝手に点けるゲームにはまってしまって、わたしはひやひやする。コンビニの外、焼肉屋の外、スパゲッティ屋の外、まいばすけっとの外、いろんな店の外に止まっている自転車のライトを、昼も夜も関係なく、フミコちゃんは点けて歩く。それはゲームとはいわないよ、とわたしは思う。フミコちゃん、それはゲームとはいわないんじゃない、とわたしはいう。「え、なんで」とフミコちゃんはいう。「なんで。こいつらがルール違反してるんじゃん。歩道に自転車止めちゃいけないでしょ。邪魔だし、つまずいて怪我したりしたらさいあくじゃん。だからわたしはライトを点けて罰を与えてる。ちょっとでも電池消費させたらわたしの勝ち」。そういいながらフミコちゃんは鍵屋の外に止まっている自転車のライトをさらっと点ける。歩道に自転車を止めてるひとたちが悪いとして、フミコちゃんにそれを断罪する権限はないんじゃない、とわたしは思う。わたしはそのことを口にしかけて、でもやっぱりやめる。フミコちゃんだってそんなことは百も承知で、そのうえでこれをゲームとして楽しんでいるのだ。フミコちゃんがこれをゲームとして心底楽しんでいるのだということは顔を見ればわかる。なにかに熱中しているとき、フミコちゃんは下唇の片端を咬む癖がある。フミコちゃんの下唇はいま猛烈に咬まれて、歌舞伎のひとみたいになっている。

 フミコちゃんがひとの自転車のライトを勝手に点けてゆくのなら、わたしはそれを消してゆこう、とわたしは思う。だって味方と敵に分かれてこそ、よいゲームじゃないの。点けるフミコちゃん、消すわたし。幼なじみのふたりが敵対してしまうという設定も、いかにもという感じがして楽しいじゃないの。

 フミコちゃんが千円カットの店の前に置いてある自転車のライトを点ける。ふははは、むだだよ、なんていいながらわたしはそれを消す。悪役の笑い方じゃん、と自分でおもしろくなって、わたしはちょっと吹き出す。頭のなかから悪役に関する乏しいイメージを引っ張り出して、架空のマントをはためかせたりしてみる。ところがフミコちゃんはちっともおもしろそうじゃない。フミコちゃんは「は?」といってわたしが消したライトを再び点ける。わたしはそれをすぐさま消す。むだだといっておろうに。「は? マジでそういうのいらないんだが」とフミコちゃんがいう。フミコちゃんは若干キレている。あ、マジか、とわたしは思う。

 フミコちゃんごめん、と、わたしは反射的にフミコちゃんに謝る。ライトを消すために伸ばした左手が、行き場をなくしてゆらゆら揺れる。フミコちゃんはライトに手をかけたまましばらく黙っている。わたしにはその時間がとてつもなく長いように感じられる。ラーメン屋さんの麺固めぐらいだったら茹で上がっちゃうよ、というほどの時間が流れ、やがてフミコちゃんがため息混じりに口を開く。「スズリちゃん、こっちこそちょっと大きな声出してごめん、でもわたし、ときどきスズリちゃんがなにしたいのかわかんなくなる」とフミコちゃんはいう。ふむ、とわたしは思う。ようするに、これはフミコちゃんのゲームであって、わたしのゲームではなかったのだ。フミコちゃんと、自転車の持ち主たちとのゲームだ。わたしの入る隙は端からない。フミコちゃんごめんね、とわたしはもう一度フミコちゃんに謝る。「まあいいけど」とフミコちゃんはいう。「二度とやらないでね」

 フミコちゃんってときどきいいすぎるところがあるよな、とわたしは思う。二度とって。え、じゃあ次やったらどうなるの、とわたしは思う。絶交? でもわたしはフミコちゃんと絶交なんてしたくないので、もうやらない。それからフミコちゃんとわたしは黙ってただ歩く。フミコちゃんが世界中の自転車のライトを点け終えたとき、わたしはフミコちゃんの横で亡霊となっている。最後の自転車の隣で、フミコちゃんは感慨に浸る。遠い水平線上にいま朝日が昇ろうとしている。いままで点けてきた自転車のライトをすべて合わせたくらいの眩しさだ、とフミコちゃんは思う。亡霊のわたしもそう思う。フミコちゃん、全クリおめでとう、とわたしは思う。

2021年よかったもの

 2021年よかったものを振り返っていくコーナーです。

 

 

■よかったYouTube

 

 サジェストをきれいなままにしておきたくて、ふだん見ないタイプの動画はシークレットモードで見るようにしている男・西沢です。といっても音楽とお笑いとNFLくらいしかサジェストされませんが……

 今年YouTubeでよかったのはなんといってもSQUALAYさんです。いろんな曲を自分の声だけで再現する"but its just my voice"シリーズに心を奪われました。


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 そんなの聴いてないで原曲を聴けばいいじゃないの、と厳しいご意見もあるかもしれませんが、"but its just my voice"でしか達しえない独特の高みにあるような気がしています。最初は笑って聴いていたのですが、Tyler, the Creatorの"IGOR"をアルバム丸ごと再現している(半年かかったようです)のを聴いてふつうに感動しました。なんだろうな、方向性としては、あのなんでしたっけPentatonixとか、そういう技巧派系ではなくて、どちらかというと小学生のいう「デュクシ」とか「ドゥンドゥン」の延長線上にある感じなのです。インターネットミーム的な粗さのなかに、人力ならではのエモーションが訪れる瞬間がよいです。


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 "RUNAWAY"や"BOUND 2"など、カニエさんの曲シリーズもグッとくるものあり。ちなみにこの"but its just my voice"系の動画はYouTubeには多く上がっているようで、僕が聴いたなかだと、"OK Computer"を再現している動画も、単純にめちゃくちゃクオリティが高くてよかったです。


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 Tyler, the Creatorが作ってアップしていた"THE REALLLLY COOOOL CONVERSE CLUB"という動画もかなり好きでした。


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 自身のブランドでコンバースとのコラボを展開してきたタイラーが満を持して出したコンバース大好きクールクラブのコメディ。「コンバース以外を履いてはならない」という掟に反した古参メンバーが断罪される様子を描いたこの動画は、僕自身が書いていきたい短編のひとつの理想形といっても過言ではありませんでした。タイラーはこの動画だけでなくアルバム"CALL ME IF YOU GET LOST"向けのMVもよかった。彼は完全にパステルカラーをものにした感じがありますね。ロラパルーザでのライブ映像もめちゃくちゃよかった。ファンです。

 せいやの個人チャンネルも好きで、ときおりのぞいています。ものまねの目の付け所が抜群にいいし、うまい。粗品は怖くてあまり見ていません。そういえば今年はジャルジャルをぜんぜん見られてないな。 

 その他よかったMV;

  • GENER8ION, 070 Shake - Neo Surf
  • Lucy Dacus - Hot & Heavy
  • Cassandra Jenkins - Hard Drive
  • LIL NAS X - INDUSTRY BABY
  • KEVIN ABSTRACT - SIERRA NIGHTS FEAT. RYAN BEATTY
  • Shygirl ft. Slowthai - BDE
  • 長谷川白紙 - わたしをみて(ライブビデオですが)
  • MUNA - Silk Chiffon feat. Phoebe Bridgers
  • Vince Staples - ARE YOU WITH THAT?
  • Billie Eilish - Happier Than Ever
  • Doja Cat - Kiss Me More ft. SZA

 

 

■よかった音楽

 

 2021年よかったアルバム;

  • Clairo - Sling(当代最高のシンガーソングライターのひとり。前作のよきUSインディー感から今作でマジのソフトロックにまで振れて、それでもまぎれもなくClairoだと感じさせるのがすごい。憂いを帯びた声がやっぱり唯一無二です。二転する"Harbor"が好きです)
  • Tyler, the Creator - CALL ME IF YOU GET LOST(よい集大成感)
  • 折坂悠太 - 心理(ライブ行きたかったね)
  • Lucy Dacus - Home Video(どこか後期シャムキャッツ感もあり)
  • Cassandra Jenkins - An Overview on Phenomenal Nature
  • Kacy Hill - Simple, Sweet, and Smiling(かなりよいポップ)
  • Joy Orbison - still slipping vol.1(ひんやり)
  • Men I Trust - Untourable Album(曇り空)
  • Tirzah - Colourgrade
  • Little Simz - Sometimes I Might Be Introvert
  • Vegyn - Like A Good Old Friend - EP(だいぶよい)
  • Billie Eilish - Happier Than Ever(1stより好きです)
  • Pink Siifu - Gumbo'!
  • John Carroll Kirby - Septet
  • 石橋英子 - Drive My Car Original Soundtrack(映画のよさで補正かと思いきや単体でよいアルバム)
  • Nite Jewel - No Sun
  • Amine - TWOPOINTFIVE
  • Adele - 30(年齢をアルバムタイトルにするのかっこいい)
  • Rostam Batmanglij - Changephobia("MVOTC"期のVampire Weekendも彷彿とさせ最高)
  • Faye Webster - I Know I'm Funny haha
  • Indigo De Souza - Any Shape You Take(みんな大好きなインディー感)
  • Low - Hey What(吹き荒ぶ嵐)
  • boylife - gelato
  • slowthai - TYRON
  • Sam Gendel - Fresh Bread(神出鬼没すぎる。このアルバムは2周くらいしかしていませんが)
  • Doja Cat - Planet Her(チャキチャキ系ラップとスイートなボーカルが同居している器用さがいい)
  • Matt Maltese - Good Morning It's Now Tomorrow(いいブリットポップ感)
  • Drake - Certified Lover Boy(ちょいちょい出てくる甘い声の持ち主こそがDrakeだとやっと認識しました)
  • James Blake - Friends That Break Your Heart
  • Arlo Parks - Collapsed in Sunbeams
  • Trippie Redd - Trip At Knight(たまに聴きたい)
  • KIRINJI - crepuscular
  • Alice Phoebe Lou - Glow
  • Park Hye Jin - Before I Die
  • black midi - Cavalcade(ポストパンク系も何枚か聴いたけどこれが好きでした。King Crimson感がありいい)
  • Kanye West - Donda(曲単位ではよく聴いていたけどアルバムでは……)
  • Black Country, New Road - For the First Time

 

 どういうわけか、けっきょく女性シンガーソングライターの作品を好きになりがちでした。去年もPhoebe Bridgersだったし……。どういうわけなんだ?

 

 

■よかった小説

 

 読んだ順に、北野勇作『100文字SF』*、リチャード・パワーズ『われらが歌う時』*、滝口悠生ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』、大前粟生『おもろい以外いらんねん』、乗代雄介『旅する練習』*『最高の任務』、ショーン・タン『内なる町から来た話』、ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』*、山下澄人『月の客』、ミシェル・ウエルベック『地図と領土』*、リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』、滝口悠生『高架線』*、遠野遥『破局』、乗代雄介『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』*、アーサー・C・クラーク幼年期の終り』*、コーマック・マッカーシーザ・ロード』、松田青子『女が死ぬ』、アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』*、コルソン・ホワイトヘッド『ニッケル・ボーイズ』、乗代雄介『皆のあらばしり』がよかったです。「*」をつけたものは特に好きでした。

 去年からの継続的テーマである積ん読消化ができたかというとそうでもありません。小説を一冊読むごとに、読みたい本が少なくとも二冊増える。読書というのはそういうものであり、そうである以上、積ん読が減る、という事態は本質的にありえません。今年は図書館をけっこう活用したのですが、それにも功罪があると思っています。図書館を活用しはじめると、図書館に置いてある本も実質自分の家の本棚に置いてあるのと同じだと認識してしまうため、積ん読がさらに増えました。もっというと、本屋に置いてある本も、いずれ買うのならば、けっきょく家の本棚にあるのとほぼ同じなんですよね。遅かれ早かれ、というだけの話であって。このように、積ん読は空間的にも時間的にも拡張しました。

 今年は乗代雄介という作家に出会ったのが大きかったです。『旅する練習』、『最高の任務』を続けざまに読み、ブログ「ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ」とそこから抜粋した同名の単行本を読み、そのユーモアと、書くという営みへの信念のようなものにやられました。

norishiro7.hatenablog.com

 「ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ」、ほんとうにおもしろいので皆さんもぜひ読んでみてください。単行本の表紙を描いているポテチ光秀的なノリというか、インターネットだ、という感触がありよいです。僕ももっとインターネットを通ってくればよかった。インターネット、皆さんはどこで通ってきたんですか。

 あとはルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』がよかったな。文章がめちゃくちゃかっこいい。生々しくて埃っぽいところも叙情的なところも、上っ面じゃない、真に実感を伴った文章だというのが伝わってきました。あと、話の導入? 枕? が心地よくて、一見関係ないところからいつの間にか本編が始まってる感じや、終わりかたもかっこいいのが多かった。小説うんぬん以前に、単純に話(トーク)がめちゃくちゃ上手なひとだったのだろうな、と思いました。

 

 

■よかった漫画

 

 読んだ順に、熊倉献『ブランクスペース』*、森つぶみ『転がる姉弟』*、藤岡拓太郎『大丈夫マン 藤岡拓太郎作品集』*、スケラッコ『大きい犬』、岡崎京子『pink』、町田メロメ『三拍子の娘』、斎藤潤一郎『死都調布』、和山やま『女の園の星』*、宮崎夏次系『僕は問題ありません』*『ホーリータウン』、大山海『奈良へ』*、大橋裕之『太郎は水になりたかった』*、にくまん子『いつも憂き世にこめのめし』、INA『つつがない生活』*、川勝徳重『アントロポセンの犬泥棒』がよかったです。「*」をつけたものは特に好きでした。この量だとめっちゃ「*」ついちゃうな。

 去年も書いていましたが、けっきょく今年も『A子さんの恋人』を積ん読にしたまま終わってしまいそうです。本棚のすぐに取り出せる位置に置いてあるというのに……。どうやら僕は続きものというか、巻数の多いものが苦手のようです。リアルタイムで追えているものならまだしも、あとから30巻とか40巻とか追うのはきつい。そんなに続いているのならぜったいおもしろいのに……

 

 

■よかった映画

 

 2021年に観たよかった映画;

  • 『オールド・ジョイ』(旧作)(Yo La Tengoが劇伴だというのもありますが、USインディーロックの具現化のような映画。昔とは決定的に現在地が違ってしまっていることをわかりながら、やがて静かに温泉に浸かるふたり。車窓を流れる景色が千葉~茨城くらいのフィーリングにも似てて、個人的にそれもよかった。あと犬がめちゃよい。あ、てかこれもドライブ映画ですね。ドライブは単に空間の移動というだけでなく心の移動にもなる)
  • 『ドライブ・マイ・カー』(これを観たあとに『きのう何食べた?』のドラマ見て、西島さんが同じすぎてウケました)
  • 『DUNE/デューン 砂の惑星』(シャラメがまたオラついた歩き方をしており、よい)
  • 『偶然と想像』(濱口作品はユーモアがもっとあればよりいいと思っていたところだったので、だいぶよかったです。濱口作品で劇場に笑いが響くとは思いませんでした。本来交わらないはずの/もう交わらないはずだったひとたちが交感する濱口全開の短編集だったのと、喜劇が悲劇に直結し、それでありながら軽やかに着地するバランスがすごくよかった。ほんとは『ドライブ・マイ・カー』より上かも)
  • アメリカン・ユートピア
  • 『逃げた女』(よいズームあり)
  • 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
  • 『エターナルズ』(僕は好きでした。古から地球を守りし者たちの映画なのにコミュニケーションが大学のサークル並みなのがよかった。壮大な設定とオフビートなノリの共存。白人スーパーマン系ヒーローであるイカリスの最後も批評性があり、よい)
  • サウンド・オブ・メタル』(技術的な方法論と映画の主題が密接に結びついたいい例。コミュニケーションのあり方がとても豊かでした)
  • 『リバー・オブ・グラス』(旧作)(どこにでも行けそうでどこにも行けない閉塞感。気だるさ、眩しさ。まさに90年代USインディーの質感)
  • 『サマーフィルムにのって』(伊藤万理華、さいこう。ドラマ『お耳に合いましたら。』もかなりよしでした)
  • ノマドランド』
  • 『17歳の瞳に映る世界』
  • 『街の上で』(大橋ユーモアがかなりよい)
  • 『パリのランデブー』(旧作)
  • 『お嬢さん』(旧作)
  • 『DAU. ナターシャ』
  • 『あのこは貴族』
  • 『プロミシング・ヤング・ウーマン』
  • 『ラストナイト・イン・ソーホー』
  • 『ザ・スーサイド・スクワッド
  • 子供はわかってあげない』(観返してみなきゃですが『菊次郎の夏』感あり、よかったです。上白石萌歌もさいこう)

 

 今年はなんといっても濱口竜介だったな……、と思いながら並べたらなぜかケリー・ライカート『オールド・ジョイ』がいちばん上に来てしまいました。オフビートなノリ大好き人間なので……

 どうしてオフビートなノリが好きなのか考えてみたのですが、はっきりした答えはわかりません。人間どうしのコミュニケーションって本来オフビートなものじゃん、というもっともらしい説明は思いつくのですが、ほんとうか?という気もし……。でも、たぶんそういう面で、僕は「無駄のない脚本」みたいなものは苦手です。『パラサイト』くらいやってくれれば逆にいいけど、でもあれもユーモアありの映画だったですものね。無駄がなく、かつ真面目一徹だと個人的にきついかもしれません。

 

 

 以上です。

お引越し!

 引っ越しをした。

 長いアーケードのある町か、中央線沿いに住んでみたかった。おそらくいろんなものからうっすら影響を受けてそのふたつに憧れがあった。友だちがひとり暮らしを始めるにあたって阿佐ヶ谷を検討しているというのでついていった。阿佐ヶ谷にはとんでもなく長いアーケードがあり、かつ中央線沿いだった。正解の町だ、と思った。正解の町じゃん、と友だちもいっていた。友だちは正解の町に住むことを決めた。僕はけっきょく正解の町には住まず、もともと住んでいたところの近くに引っ越した。けっきょく怖気づいてしまったのだった。正解の町に引っ越すには僕はまだ若すぎたようだった。それとも遅すぎたのだろうか。

 築五十年超のところから築二十年のところへと引っ越した。昭和から平成へと時代は流れた。築二十年のところもけっして新しい!という感じではなかったけれど、少なくとも水回りははるかにきれいになった。築五十年超のところでは僕たちは照明をつけずにお風呂に入っていた。築二十年のところでは照明をつけてお風呂に入ることができそうだった。そもそも照明をつけなければ真っ暗でとても入れそうになかった。その点でいうと、築五十年のところでは風呂場に窓があり、照明をつけずとも外からの光でお風呂に入ることができていた。風呂場がきれいじゃないからという理由でそうしていたにせよ、外から差し込んでくるぼんやりした光のなか、ラジオを流しながら狭い湯船に浸かっている時間は好きだった。尊い、とすら思っていた。築五十年のところには築五十年のところなりの尊さがあった。夕方になると西日が窓から差し込んで、玄関横の壁を強烈な橙色に照らした。ベランダから見える向こうの家がなんとなくアメリカの郊外の家のようで、Yo La Tengoがよく似合った。雨の日、階段が図書館のようなにおいになって好きだった。住んでみてわかる尊さがあった。今度の築二十年の家にも尊さがあるのだろうか。いまのところ、ベランダに出たときの月明かりが、築五十年のところよりも明るい気がしていいなと思っている。月明かりは驚くほど明るい。ベランダに手すりの影が落ちている。

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西日

 

 築二十年のところでM-1を見た。築五十年のところで見たM-1もおもしろかったけれど、築二十年のところで見るM-1もおもしろかった。築年数に関わらずM-1はおもしろくていいですね。

 個人的に好きだった決勝ネタは、ランジャタイとモグライダーと錦鯉(二本目)でした。三組とも、四分間のネタ中に一貫して野性が噴出しているように見えて、実はかなり知性的に組み立てられたネタだと思いました。そういう漫才が僕は好きだと思ったし、審査もなんとなく野性のおもしろさを高く評価する傾向があったような気がしました。

 漫才というのは知性と野性のバランスだと思います。

 知性というのは、どこに笑いどころを持ってくるか=なにをおもしろいとするか、あるいは、笑いどころに持ってゆくためになにを前提とするか、ということ。これまでのすべての漫才師の、すべての漫才によって形作られたもの。そのなかには漫才における前提のようなものも含まれるだろうし、そのうえでそれを裏切ることも許される。たとえば、漫才においては、「ウィーン」といいながら両手を開けることはコンビニに入店することを示すし、それを踏まえたうえで、「いや少年合唱団かよ!」とボケツッコミをすることも、まったく脈絡なくどこかの宮殿や宇宙ステーションに入っちゃうこともできる。そしてそのどれもが即座に観客にも伝わる。これまでのあらゆるネタのなかから好きなように切り取って、フリに使うことができる。それが漫才における知性だと思います。

 漫才における野性というのは、身体のこと。ツッコミのひとがボケのひとの頭を叩いていい音がするとか、床に転げまわるとか、ツッコミのひとの声がいいとか、思わぬミスがウケるとか、ネタ中に五時の鐘が鳴ってウケるとか、そういう、漫才師自身にまつわることや、ネタ中の偶然がもたらすものを、僕は漫才における野性と呼んでいます。そしてさっきも書いたように、漫才というのは知性と野性のバランスだと思っています。

 今回のM-1決勝でいうと、たとえばモグライダーは、ともしげさんがまごついたりミスしたり成功したりする、そういう野性=偶然性・身体性をあらかじめネタのなかに織り込んであるすごく知性的なネタだし、かつ、それを受ける芝さんの佇まい、声、言葉選びやタイミング、すべての野性にぞくぞくさせられました。ランジャタイはなにをおもしろいとするかが非常に練られているようで、圧倒的に身体が重要なネタでした。錦鯉は、バカなひとが一貫してバカなことを繰り返す、というまさに知性と野性がくっついたようなネタで、バカを極めた先の美しさに涙しました。三組とも知性的なネタだけど、表出しているのは圧倒的に野性のほうでした。(逆に、野性の裏に知性がちらついてしまうと個人的にはそこまでウケることができなかったかもしれません。インディアンスはおもしろいけどボケ数を増やすべくして増やすようにきちんと作ったネタだという感じがちらついてしまう。作られた野性というか。ゆにばーすもそうかも。ハライチは、いちファンとして、ああこれやりたかったんだろうなあ、という感慨はあったけど、新ネタなだけあって、岩井の転げまわり方や発声が未成熟だった感じがありました。むしろ真空ジェシカみたいに知性でぐいぐい引っ張ってくれるとすごくおもしろい*1。すみません、ぜんぶめちゃくちゃ偉そうにいってます。)

 なにがおもしろいか、なにをおもしろいとするか、というのはものすごく複雑になってきている気がします。去年マヂカルラブリーが優勝したのも大きいのかしら。漫才師たちはこれまでのネタをフリにしながらその裏をかかなければならないし、裏の裏とか、裏の裏の裏とか、逆に表とか、いろんな方向に自分たちのネタを持っていかなければならない。漫才における知性がどんどん複雑化するしていく一方で、漫才における野性というのはけっこうずっと単純で、僕たちはけっきょく大きな声を出されると笑っちゃうし、天然ボケに笑っちゃうし、おじさんが寝転がっていると笑っちゃう。繊細に積み上げた知性を、巨大な野性が蹂躙していく。それが漫才のよさだとも思います。そしてそれをさらに超える、時代を変えるほどの知性が出てくるのもまたおもしろい。

 僕は自分でも漫才の台本とか書いてみようかなと思っていましたが、けっきょく漫才ってやらなければなにもわからないな、ということを実感させられたM-1でした。ということは僕は漫才の台本を書くだけでは意味がないし、いや、意味はあるかもしれないけど、でもやっぱりやらなければひとを揺らすほど笑わせることはできないし、やるためにはM-1に出たほうがいいのかしら……、別にM-1じゃなくてもいいのかもしれないけど、きっかけとしてもっともわかりやすい。僕のなかにどういう野性があるのかということを知るためにも……。まあまずは書いてみることですね。

*1:ちなみに個人的にM-1後もよくYouTubeでネタを見ているのは真空ジェシカモグライダーです。真空ジェシカはやっぱり知性のネタだという感じが強い。前提知識として想定されているものの多さ、そこからさらに崩すボケとツッコミ。まさにYouTubeで見たい感じの漫才です。

フミコちゃんのゲーム

 フミコちゃんがスマホのゲームにはまってしまって、わたしはつまらない。ぷにぷにした玉を集めて消すゲームとか、落ちてる銃を拾って撃ち合って殺し合うゲームとか、なんかそういうみんながやってる感じのゲームならまだしも、誰もやってないようなゲームだから余計にむかつく。

 フミコちゃんの操作する棒人間が道に落ちてるバナナの皮を避けながら走る。フミコちゃんの操作する棒人間はだいたいジャンプでバナナを避けて、あとは左右にステップを踏んで避ける。

 2020年代だとはとても思えないゲームにかじりついて、フミコちゃんは「くそ!」とか「は?」とか「いま押しただろ!」とかぶつぶついっている。ふだんはぜったいそんなこといわないのに、といいたいところだけど、実際フミコちゃんはふだんも「くそ!」とか「は?」とかいっているので、なんともいえない。でも少なくともゲームをやっているときの「くそ!」や「は?」のいい方にはどこか不健康なものが感じられて、わたしはそれをフミコちゃんに伝える。フミコちゃんは「ごめん」と謝ってくれつつも、「でもちょっとやってみてよ」とスマホを渡してくる。わたしはむかつきながらも、スマホを受け取って一度プレイしてみる。走り出してすぐにわたしの棒人間はバナナの皮に引っかかってしまって、GAME OVERになる。「え、ちょっと待って……」、わたしはもう一度プレイする。棒人間が転ぶ。「あれ?」、棒人間がバク天して転ぶ。「ちょ……」、棒人間がバレエの動きで転ぶ。「あ……、フミコちゃんこれ、」これ、転ぶのがメインのゲームじゃない? 転び方を、GAME OVERのなり方を競うゲームじゃない? わたしの棒人間はその後も美しいターンを決めて転び、まっすぐ力強く転び、カンフーの動きで転ぶ。どんな転び方をしたところで得点になにか反映されるわけではない。でもこれは転び方を極めるゲームだと、わたしは開発者の想いを受けとめる。明確にそのように作られていると感じる。

 けどフミコちゃんにとってはそうではない。フミコちゃんは「スズリちゃん、ごめん」とわたしからスマホを取り上げる。「ごめん、そんなにやるとスコア下がっちゃうから……」とフミコちゃんは申し訳なさそうにいう。その目はほんとに申し訳なさそうで、そしてほんとにスコアが下がってしまうことを気にしてそうで、わたしはなんだか泣きそうになる。誰もやってないゲームなんて思ったのはよくなかったと思う。誰もやってないゲームなんかじゃない。フミコちゃんがやってるゲームだ。

バナナ・フットボール

 恵比寿ビアファイターズ対日暮里イケイケボーイズ、立ち上がりからタッチダウンに続くタッチダウンで名試合の予感! ロングパスにはロングパスで返す! ベテランからルーキーまで、全オフェンス躍動! 両者一歩も譲らぬまま、前半終了時点で三十五対三十五! しかし後半はどちらもディフェンスを立て直し、一ヤードたりとも許さない! パント、パント、パントに次ぐパント! そんな膠着状態を打開したのは恵比寿ビアファイターズ、第四クォーターに入り、トリックプレーでフリーになったレシーバーにクォーターバックが弾丸パス! そのまま四十ヤードを走り抜いてタッチダウン

 七点差を追う展開となった日暮里イケイケボーイズ、ランで堅実にヤードを削りながら、ポイントでショートパスを通す! そしてエンドゾーンまであと二十ヤード、試合時間は残り一分四十秒、タイムアウト残り一回。野球でいえば九回裏……! サッカーでいえば残り五分……? しかしなんとここでクォーターバックの僕、トイレに行きたくなってしまう……!

 まずい……!

「ご、ごめん、トイレ行ってもいいかな……」

 僕は横にいるキンジシくんに伺いを立てる。キンジシくんからすれば、僕のトイレ事情なんて知ったこっちゃない。目の前の試合に集中している。彼は僕のほうを見ずに「いいんじゃない」と、ほとんど口を動かさずにいう。そりゃ試合の方が大事だろう。僕がトイレに行こうが行くまいがどっちだっていいに決まっている。試合終盤のこんな大事な場面で僕に出番が回ってくることなんてあるわけがない。なにせ僕は控えのクォーターバックなのだから……

「ご、ごめん、じゃあ僕、トイレ行くね!」

「うっす」

 僕は冷えたお腹をおさえながら、グラウンドから少し離れたところにある仮設トイレに向かう。試合の行く末は気になるけれど、いまの僕には、サイドラインで固唾を呑んで見守っていることなんてできない。呑んだ固唾が最後のきっかけとなって、もれちゃうかもしれないから。チームのみんなには申し訳ないけどいまの僕はこうするしかない。そもそもサイドラインっていうのはお腹が冷えるんだ……

 僕がトイレでうんうん唸っているととつぜんドアが叩かれる。

「ヨコバエくん! ヨコバエくん出てきて!」

 ハラマキくんの声だ。ハラマキくんもサイドラインにいてお腹を冷やしてしまったのだろうか。

「ハ、ハラマキくん」

「ヨコバエくん! いますぐ出て!」

「ごめんハラマキくん、僕もお腹痛くて……」

「ヨコバエくん違う! ヨコバエくん、いますぐ試合に出てもらわないと!」

「え?」

「コミダシくんが怪我したんだ!」

「え、僕たちのエースクォーターバック、コミダシくんが……」

「だからヨコバエくん、早くトイレから出て、タッチダウンパスを投げてくれ……」

「そ、そんなこといわれても、そんな、すぐには出られないよ……」

「ヨコバエくん、頼むから……!」

 でも、そんなすぐには出られないよ……! だって、サイドラインで冷えきった僕のお腹はまだ回復していないし、アップだってしていないようなものだし……、土壇場の同点タッチダウンパスなんて決められるわけないし、そもそも試合出るつもりで来てないし……、あと、今日のさそり座はぶっちぎりの最下位だっていうし……。まさか僕たちのエースクォーターバック、コミダシくんが怪我するなんて……、いったいどうして……

「ハ、ハラマキくん……」

「ヨコバエくん、まだ? 頼むよ、時間ないよ!」

「でも僕……」

「ヨコバエくん! こんなときのために練習してきたんだろ!」

「でもお腹が……、あ、ハ、ハラマキくんだってクォーターバックの練習してたじゃない……」

 そういってしまってから、僕はしまったと思う。「あ」と思わず声を漏らしてしまったけれど、それが仮設トイレの壁に反響して、外のハラマキくんにまで聞こえたかどうかはわからない。僕は息をひそめる。ちょっと離れたグラウンドのざわめきと、このトイレのすぐ外に立っているはずのハラマキくんの沈黙が聞こえる。沈黙が聞こえるだなんて、我ながら詩的な表現をしてしまったものだと思うけど、でもそうとしかいえないんだ、この沈黙は……

「ハ、ハラマキくん……」

「………………」

「ハラマキくん、僕、そんなつもりじゃ……」

「………………」

 

 けっきょくそのままハラマキくんが沈黙を破ることはなく、僕がトイレから出ることはなく、フミハラくんが代理でクォーターバックに入って、でもそんな急ごしらえのクォーターバックタッチダウンパスが決められるわけもなく、日暮里イケイケボーイズは負けた。でも、僕が出ていたところで負けていただろうし、もちろんハラマキくんならもっといわずもがなだ。僕たちのエースクォーターバック、コミダシくんが怪我をしてしまった時点で、もうイケイケボーイズの勝ちの線は消えていたのだ。ちなみにコミダシくん、どういうわけかフィールド内に落ちていたバナナの皮で足を滑らせて怪我してしまったらしい。なんの因果か、僕がその日の朝食べて、おそらく腹痛の原因のひとつとなっただろうものもバナナだった。教訓;バナナを侮るなかれ。