バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二四年二月の日記

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 朝、会社への道中に感じた妙な暖かさは、昼に外に出たときにもまだ残っており、あるいは朝よりもさらに存在感を増しており、〝少し寒めの春〟といわれればそんな気もしてくるほどだったが、夜になって会社を出る頃にはすっかり冬らしい寒さを取り戻していて、惜しいようなうれしいような妙な気持ちになった。妙な気候というのはこちら側の気持ちまで妙にさせる。夜、同居人と集合した際にも天気の話になったが、朝が妙に暖かかったというのは同居人も首肯するところであったものの、昼も同じように暖かかったという僕の証言にかんしては異議申し立てがあり、同居人いわく昼には既に寒かったとのことである。

 

2/2

 病院に行くための有給だった。病院というのは待ち時間が多い。長いというよりも多いという印象が強い。検査と検査の合間、検査の受付をしてから呼ばれるまでのちょっとした時間、進みの遅いエスカレーターの段の上に立っている時間。そんな合間合間で『ブラッド・メリディアン』を読み進めた。

炭火に不吉な予兆が見えていたとしてもグラントンにはどうでもいいことだった。ともかく生きて西の海を見るつもりでいるしそのあと何が起ころうと立ち向かえるつもりでいるのは何時いかなるときでも彼は完璧だからだ。自分の進む道がほかの人間たちや諸国家の進む道と一致していようがいまいが関係ない。こうすればどうなるだろうと思い煩うことはとうの昔に断固やめてしまった男でありどんな人間の宿命も予め定まっていると認めた上でなおこの世界で自分がなり得るものとこの世界が自分にとってとりうえう姿はすべて我が身のうちにあると豪語したとえ自分の権限は原初の石に書きこまれたものに限られるとしてもそこに自分の力も働いたのだと主張し公言するそんな男なのでありまるで道などどこにもなく人間もその上で輝く太陽もまだなかった遥か昔に自分自身で秩序づけたのだとでもいうように悔恨など一切しくない太陽を最後の暗黒の死まで駆り立てていくつもりでいるのだった。

コーマック・マッカーシー著/黒原敏行訳『ブラッド・メリディアン』)

 今日のところは特に異常な数値はなかったがまた来週にも別の検査をすることになった。たぶん大丈夫なんですけどねといわれながら検査の予約をする感じは、いつか読んだブッツァーティというひとの「七階」という、七階建てで下の階に行くにつれて重病患者として分類されていく病院において最初は健康そのものだった主人公があれこれ検査を受けさせられたり病院側の都合だったりでどんどん下の階に移動させられいつの間にか一階で死を待つ身になっているという短編を思い出させた。まさかね、と思いながら検査の予約をした。

 診察を終え、午後が空いたので、映画でも観ようかと調べたらイメフォでカール・テオドア・ドライヤー特集がまだやっていて、今日はちょうど観たいと思っていた『奇跡』の上映があったので観に行った。ある村の地主農家の三兄弟の次男が自らをイエス・キリストであるといい出し、周囲にはかわいそうに勉強のしすぎでおかしくなってしまった人物として扱われるが、その彼が最後にはその信仰心ゆえに〝奇跡〟を起こすというのがだいたいの話の筋で、室内でもロングコートを着たままうろうろし、上ずった声で主のお言葉をひとりごち続ける次男の姿をはじめ、忘れがたいショットがたえず続くすごい映画だった。映画の冒頭、家の裏の丘に登り、両手を天に掲げて現世の民への言葉を唱える次男と、それを少し離れたところから見守る父と兄弟たちの構図からはなんとなく大橋裕之の漫画のような哀愁あるコメディを想起したが、そんな彼が最後に〝奇跡〟を起こすシーンまでの物語は、基本的に室内劇であるにもかかわらず「遠いところまで来た」と思わせられるもので、次男の周囲の人びとだけでなく観客である僕たちまでもがその〝奇跡〟の目撃者となり、後日談っぽいものもないままビシッと終わる構成もかっこよかった。

 仕事を終えた同居人と合流して帰り、YouTubeフット後藤が天下一品を語る動画、刑務所を取材した動画、『不適切にもほどがある!』の第二話、「恋のマイヤヒ」の動画などを見たりした。

 

2/3

 同居人の週末特有の早起きにつられる形で僕も早めに起きた。午前中は細々とした買い物をし、同居人がネイルサロンに行っている間に僕は昨日ざっくりYouTubeを見た影響で天下一品を食べに行った。「天一は実質野菜ポタージュなので身体にいい」という噂を免罪符にしてスープをけっこう飲んだ。

 横浜で用事があるという同居人についていく形で僕も横浜に行き(僕は意味もなく同居人についていく癖がある)、せっかく行ったので西口方面のディスクユニオンに入ってユーミンの『MISSLIM』などの中古のレコードを買った。そのあと東横線で渋谷へ。気になっていたバス・ドゥヴォスというベルギーの監督の『Here』という映画の、監督と主演俳優のトークショー付きの上映に行った。

 ベルギーで働くルーマニア出身の男性(シュテファン)が、バカンスに入る前に冷蔵庫の中身を処理するためのスープを作って知り合いに配り歩く。車を修理してもらっている工場のひとたちにスープをあげに行った帰り、大雨に降られて入った中華料理屋で、シュテファンは若い中国系の女性(シュシュ)と出会う。シュシュは大学で苔の研究をしていて、その中華料理屋は彼女のおばさんの店だった。

 日が変わって、シュテファンは修理してもらった車を取りに行く。とにかく歩きたがりなシュテファンはその日も工場まで徒歩で行くことを選択し、森のルートを通る。森のなかではシュシュが苔の調査をしていて、二人は互いに気がついて挨拶する。苔に興味を示すシュテファンは、車を取りに行かなくちゃいけないんだけどといいながらもシュシュの後について森を散策する。画面に大写しになる美しい苔。靴ひもを結び直すシュシュを待って、手を差し伸べるシュテファン。その手を自然に取って起き上がるシュシュ。

 すっかり暗くなった森に大雨が降る。

 後日、シュシュがおばさんの中華料理屋に行くと、カウンターにスープのタッパーが置いてある。男性が来て彼女のために置いていったという。思わず笑みがこぼれるシュシュだが、互いの名前も知らないことに気がついてはっとする。……という話の流れは間違いなくあるのだが、そういう物語である気配を漂わせることなく映画がいつの間に始まっていて、いつの間に二人が出会っているという感じが強く、劇中の人物たちと同様に、観ている僕も世界の美しさを再発見していくような感覚があってとても心地よかった。名前も知らない他人に手を引っ張り起こしてもらうことについての映画でもあって、世界を新たに発見し続ける眼差しに貫かれていた。なんというか二〇二〇年代の映画を観ているという感覚も強くあった。同監督の『ゴースト・トロピック』も観たいと思った。トークショーもよかった。帰宅し、しばらくすると同居人も帰ってきた。今日も『ブラッド・メリディアン』を読み進めて、もう少しで読み終わるというところまで来たが、ここまで来ると逆にもったいなく、今日は読み終えずに寝る。

 

2/4

 昨日の夜ずっと座椅子に座ってこたつに入っていたのがよくなかったのか腰が痛かったり、いやな感じの咳が出たり、寒い冬の日という趣の強い一日だった。

 

2/5

 昨日からいやな感じの咳が出ていたので今日は細心の注意をはらい、咳止めのシロップも買って飲んで、ほとんど咳をすることなく過ごすことができたのだが、それとはまた別に一昨日の夜から腰痛もあって、そちらは軽減されることなく、かといって重症化することもなく、現状維持の状態で一日を終えた。ドラッグストアで鎮痛シートのようなものを買って風呂上がりに腰に貼り、いまこうして日記を書きながら腰のあたりに清涼感が沁み渡っていっているのだった。いっぽうで今朝までさかのぼると僕は寒さ対策として腰のあたりに服の上から貼るカイロを貼って過ごしていたのであり、今日の僕の腰は温められたり冷やされたり、忙しない一日を過ごしている。

 どうして今日に限っていつも貼らないようなカイロを貼っていたのかといえば今日が予報によれば寒く、雪まで降るといわれていたからで、果たしてどうだったかというと予報どおり寒く、雪も降った。仕事を終える頃に同居人から

「鍋?

 おでん?

 いい肉買ってすき焼き?

 焼き鳥も買っていい?」

 とLINEが来た。たしかにそれくらいはしゃいで然るべき雪が降っていたのだが、そのあと「はしゃぎがパターン化されててやーねえ」とも来て、それもたしかにと思った。けっきょくいい肉は買わず、おでんと焼き鳥で慎ましくはしゃいだ。ときどき窓から外の様子を見たり、雷鳴にびびったりしながら、NHK田中角栄の番組を見た。いまでも田中角栄の故郷・新潟県柏崎市を流れる川には四つの橋がかかっていて、それぞれの橋の名の真ん中の漢字を繋げると「田中角栄」になるというプチ情報が番組の大オチのようになっていて笑ってしまった。

 それにしても月曜日という日には週末の余韻がまだ残っている。今日でいうとまずバス・ドゥヴォス監督の『Here』の素晴らしさを振り返らずにはいられない。あの映画で描かれていたのは、ひとつは世界の美しさに目を向けるということで、それだけであれば(作品が実際にそういう要素を内包しているかどうかとは別に、いまの僕の受容のモードとして)『PERFECT DAYS』のときと同じようにわざとらしさを嗅ぎ取ってしまいそうになっていたかもしれないが、もうひとつ作品を際立ったものにしていたのは、やはり、偶然出会った他人の手を引っ張り起こすこと、あるいは逆に手を委ねて引っ張り起こしてもらうということの美しさだと思う。メインの登場人物が二人ともアウトサイダー的な性質を持っているというのも物語の説得力を増す方向に機能していて、それも作為的といってしまえばそうなのだが、なぜかこれはわざとらしくは感じないという都合のよさを僕は持っている。

 あと、昨日読み終えた『ブラッド・メリディアン』の余韻もまだ続いている。あんなに読みにくかったのにすぐにでも二周目を読み始めてしまいたくなる、やはり神話的と形容したくなる魅力がある。読みにくいこと自体が小説を読むよろこびに繋がっているという稀有な体験。

雪を被った燃えるゴミの袋がアザラシの群れのようにも見えた

 

2/6

 寒かった。夜、YouTubeアヴリル・ラヴィーン「コンプリケイテッド」、テイラー・スウィフト私たちは絶対に絶対にヨリを戻したりしない」、ワン・ダイレクション「ホワット・メイクス・ユー・ビューティフル」などのミュージックビデオを見た。途中でおすすめ欄に何度もバックストリート・ボーイズ「アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ」が出てきて、再生したくてたまらなかったのだが、こういうふうにちょっと昔の曲のミュージックビデオを再生する流れになるたびに僕が「アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ」を選ぶのでもういい加減にせえという空気が同居人にはあり、今日は自粛した。特に今日の同居人は仕事で疲れて帰ってきており、僕が「アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ」のビデオに合わせてエインナッティンバラハーエイ~なんて口ずさもうものなら蹴られそうな雰囲気があったのである。

 

2/7

 どういうわけかさいきんではエイフェックス・ツインをよく聴いていて、今日はその流れというわけでもないけどダフト・パンクを聴いて、最初はイヤホンで流していた『ホームワーク』の、ちょうど途中で入浴することにして、続きを風呂場に置いてある小さなスピーカーで流したんだけど、やっぱり楽しさがぜんぜん違うっていうか、音質的にはイヤホンのほうがぜったいにいいし、風呂場のスピーカーで流すっていってもたいした音量は出せないからしょぼいんだけど、それでもイヤホンより楽しくて、やっぱりこういう音楽っていうのは耳にうどんやきのこの山やアポロチョコみたいなのを突っ込んで聴くより、なんかしらのスピーカーで流したほうがいいもんなんだなってことをあらためて認識した。

 

2/8

 眠いので寝る。

 

2/9

 先週の金曜日の続きで病院の検査があり、しかも先週と同様に二つの病院でそれぞれ午前午後に分かれる形での検査だったため、一日有給を取った。午前と午後でそれぞれ違う箇所のエコー検査をはしごするという稀有な体験となったが、病院で小耳に挟んだ周りのご老人方の会話内容から察するに、エコー検査のはしごなんてのはご老人界隈では当たり前の話なのかもしれない。そのうち午前午後で手術のはしごなんてこともありえたりしちゃって。というのは置いておいて、今日のところは念のための検査という感じで、特によくない兆候がある感じでもなさそうなのでよかった。

 それにしてもエコー検査、特に心エコー検査というのは変な気持ちになるもので、暗い小部屋のなかで服をまくり上げてベッドに横たわる僕と、傍らに座って僕の胸に器具を押し当てる医師の間には無言の時間が流れ、ときおり増幅されて「ゴキュン、ゴキュン」と響きわたる心音が自分のものとは思えないまま、僕はどういうわけかそこが狭い宇宙船の内部であるかのような不思議と浮遊感のある気分になってくるのだ。宇宙船っぽさの五割はおそらく部屋が暗くなっていることに起因するもので、残りの五割は「ゴキュン、ゴキュン」のせいだろう。でもこの「ゴキュン、ゴキュン」という擬音表現が、あの謎の音を的確にいい表せているかはわからない。以前心エコー検査を受けたときには「ゴキュン、ゴキュン」だと思ったものだが、今日、横たわって器具でみぞおちのあたりをぐりぐり押されながら、それが果たして「ゴキュン、ゴキュン」なのか、それとも「ボスキュ、ボスキュ」とか「ゴルチュン、ゴルチュン」みたいな、まだこの世にないような音として表現されるべきものなのか考えていた。そんなわけで「ゴキュン、ゴキュン」であるという先入観を捨てて聞いてみると、それは「ボスキュ、ボスキュ」のときもあれば「ドゥクチュ、ドゥクチュ」のときもあり、かと思えばやはり「ゴキュン、ゴキュン」もあり、やはり均して代表させるとすれば「ゴキュン、ゴキュン」なのかもしれなかった。

 今日は病院の待ち時間で後藤明生の『首塚の上のアドバルーン』を読み進めた。脱線を繰り返す文章に笑ってしまった。脱線ということでいうと、そもそも文章単位でなく本全体が脱線でできているような雰囲気すらあり、最初は千葉県の団地に引っ越してきた語り手がベランダからの眺めのなかにこんもり存在感を放つ丘を見つけ、そこまで歩いていってみたら知らない武将の首塚があったという話だったのが、京都旅行に行ったときに思いがけず新田義貞首塚に辿り着いた話、その近くにあった瀧口寺という寂れた寺について、『平家物語』と『瀧口入道』における瀧口入道という人物にかんする描写の差異について、『平家物語』における首の描写についての話、『太平記』に一瞬登場する兼好法師についての話へと脱線し、もはやこれが脱線なのか、そもそも完全に別の話として語られているのかわからなくなったところで、終章で最初の丘の上の首塚の話に戻ってきて、やはり脱線だったのだと思う段階に来ている。もう少しで読み終わる。

 エコー検査があったために今日は朝食、昼食を食べてはならず、夕方に検査が終わったときにはひどく空腹で、それでも同居人が仕事から早く帰ってくるなら一緒に食べようかと、やはり『首塚の上のアドバルーン』を読んで待っていたのだが、遅くなるとのことだったので先に松屋に行って食べた。なぜ松屋かといえばさいきん復活したシュクメルリ鍋定食というのが気になっていて、それを食べるつもりで行ったのだが、食券を買う段階でなぜか躊躇して別のを頼んでしまい、今日はいったん偵察に来たということにしてそのまま別のを食べた。店内では目測でおよそ八割のひとがシュクメルリ鍋定食を食べていて完全にアウェイだった。食べ終わるくらいのタイミングで同居人が帰ってきて、それならもう少し待ってもよかったかと思った。

 

2/10

 同居人が友だちの結婚式のために出かけるタイミングで僕も家を出て、ビクトル・エリセの『瞳をとじて』を観た。(教訓:パーカーを着て映画館に行くのは避けるべし。座席についたときに行き場をなくすフードを、左右にナンのごとく広げて逃がす形になるが、そのせいで首の後ろに暖かい空間ができ、たえずうっすらと眠気を誘ってくることになる。しかし首に沿って広がったフードが、逆に程度のいい頭の置き場として機能するというプラスの側面もあって、「座り心地はいいのに頭の置き場がいまいち決まらない」という映画館の椅子あるあるを解消してくれもする。とはいえどちらかというとマイナスの面のほうが大きいため、パーカー自体着ないほうがよし。)観終わってからしばらくぼーっとしてしまうほどには変な映画で、しばらく歩いてから、やはり傑作だったという結論に至った。老いた映画監督が、同じく老いたかつての映画製作の仲間や昔の恋人を訪ねながら、二十年前に行方をくらまし、まだ生きているとすればやはり老いているであろう映画俳優かつ親友の姿を探す。話の筋そのものはわかりやすく、展開もある程度予測できてしまうのにもかかわらず、次に何が映されるのかわからずワクワクさせられる感覚が常にあり、それはやはり主人公やその周りの人びとがみな老いていることに起因するものなのではないかという気がした。映画についての映画であると同時に、老いを描いた映画であり、老人が老人をケアすることを描いた映画でもある。特にケアについては長尺を割いて描かれている印象があり、それが冗長ともとれるが、必然的な長さだったようにも思う。

 映画監督が俳優の前で映画を流し、俳優がスクリーンに映る自分の姿を目撃する、という展開は奇しくも昨年の『フェイブルマンズ』と似ていて、そのことが俳優に何を及ぼすかということについて二つの映画は大きく異なるが、スクリーンに映写された映画ほど強く心を揺さぶるものはないという信念、あるいは祈りのようなものは両者に通底しているような気もして、老境に至った監督たちが長い旅の果てにそれぞれの映画についての想いをフィルムに焼きつけているということにも心を揺さぶられた。「ドライヤー亡き後、映画で奇跡は起こっていない」という劇中のセリフがフリとなったかのように最後に奇跡が起きたと取るか、あるいはそうではないと取るかは、この映画を観た僕たちそれぞれの自由だが、それがどちらでもいいと思えるほどにいいラストシーンだった。あと個人的にこの前ちょうどドライヤーの『奇跡』を観たばかりだったので、いい偶然じゃん、と思った。こういう偶然すらも映画の持つ力だと思ってしまうのはさすがにやりすぎでしょうか。

 さっきも書いたように映画館を出てからはしばらく歩いたのだが、そのあと帰宅し、読書し、昼寝し、テレビを見、ついに出たカニエのアルバムを聴き、外に出てラーメンを食べた。後藤明生首塚の上のアドバルーン』を読み終えた。話の脱線っぷりに笑っていたのだが、最後にはなぜか感動してしまった。団地の十四階のベランダから見える景色が、パウル・クレーモンドリアンの絵のように見えてきたというところから、逆にその絵のなかに、新しく建設されてゆく巨大な倉庫も、幹線道路も、中世の知らない武将の首塚も同時に存在するということが浮かび上がってきて、そこから首をめぐる長い脱線の旅が始まり、最後には元のベランダの景色に戻ってくるという、美しい円環構造。僕たちが目にするすべての景色には、古代から現代このときに至るまでのすべての歴史や時間が蓄積して、同時にひとつの絵となって存在しているという、世界の豊かさ。しかしその豊かさにただあいまいに浸るのではなく、きちんと文献にあたって首塚のことを掘り下げるのが後藤明生のえらいところだ。

 そのうち同居人が帰ってきた。

 

2/11

 またもや休日特有の同居人の早起きにつられる形で僕も早く起きた、とはいうものの前日の夜に洗濯機が朝回るように予約しておいたので、計画どおりではあった。

 午前中はアマプラで『バーバパパ』を見進めた。土のなかから生まれたバーバパパが生まれた瞬間から「バーバパパ」なのと、身体を変形させることを「バーバ変身」と呼んでいるのと、しばらく人間と共に暮らすがどうしようもなくさびしくなり、バーバママを探す旅に出て、世界を巡り、果てには宇宙にまで行くが、特に成果を上げずに帰ってきた元の家の庭からバーバママが出てくるのがおもしろかった。

 昼前に家を出て『夜明けのすべて』を観に行った。傑作。三宅唱への信頼がより高まった。ひととひととがケアし合い、互いを思いやり合う心地よいあり方が描かれ、フィルムの質感を活かした光の映画でもあると共に、画面のなかに映っているすべての人間がきちんと息をしている誠実な映画だった。人びとの日々の営みへの穏やかで力強いまなざし、その極めつけはなんとエンドロールの背景に流れる映像で、主人公たちが働く栗田科学の工場から次々とひとが出てきて、あるひとはキャッチボールを始め、あるひとは花に水をやり、それを撮影する中学生たちがいて、少し遅れて出てきた松村北斗が「コンビニ行きますけど、なにか買ってきますか?」と皆に声をかけてから、自転車で去っていく。ふたりの社員がキャッチボールを続けている。やがてボールが高く逸れ、画面手前側の車道を横切っていき、社員が車道の左右確認をしてからそのボールを取りに来るところで終わる。そんななんでもないある日の風景が、この映画を経た最後に流れることで、そこに映っている人びとが実際に生きているであろうひとたちとして強く胸に迫ってきた。このなにげない映像さえもおそらくきちんと狙って撮られているものなのだろうと思えるほどに、全体的に映画がうまいと思った。会話も仕草も光も。

 いったん帰宅してゆっくりしてから、夕方に家を出て歩いていると、道中、雑に折られた千円札が二枚落ちていて、前を歩くひとが落としたかと思って話しかけたところ、たぶん私より前にいた白いパーカーの方ですよ、とその男性は教えてくれて、白いパーカーのひとを探したが、日曜日の夕方の駅前というのは白いパーカーのひとを見失うのにうってつけの環境だった。そのまま二千円を持っているのもなんだか落ち着かなかったのと、一度やってみたかったので交番に持っていった。日曜日の夕方の交番というのは存外暇なのか、ふたりの警官はかなり前のめりで預り書を作成してくれた。三ヶ月後までに持ち主が現れなければその二千円は僕のものになるが、警察署まで取りに行く必要があるという。

 その二千円のためだけにわざわざ警察署に行くのも、それはそれでいいかもしれないと思いながら、『ゴースト・トロピック』を観に行った。この前の『Here』と合わせてバス・ドゥヴォス監督作品をふたつ観ることができてよかった。このひともまた信頼できるまなざしを持った監督だと思った。移民女性によるやむなしの真夜中ひとり歩きは、文字どおり地に足をつけながらも、そこではないどこか("Get lost")への気配を常に漂わせ続け、その浮遊感は道中に置いてきてしまった犬の行く末に想いを馳せるときピークに達する。おそらくは何十年も前に移民してきてずっと真面目に働き続けてきたのであろう女性の、一夜の冒険の旅であり、解放の過程でもあるように思った。

 帰ってきてからは録画していた『光る君へ』を見た。柄本佑が弓を放つところが変で笑ってしまった。

 

2/12

 スポーツというものが資本主義と分かちがたく結び付いているのだと実感させられる、その最たるイベントであるナショナル・フットボール・リーグの第五十八回スーパーボウルが日本時間の本日朝から行われ、幸いにも休日だったために家のテレビで観戦することができた。いい試合だった。しかしやはり試合外の資本主義ゲームみたいな側面がかなり強くて、それもこのスーパーボウルという祭りのひとつの魅力であるのだが疲れてしまった。同居人は同居人で、今日は午前中から昼過ぎにかけて仕事があって疲れて帰ってきた。そんなわけで、今日はふたりとも疲れて、昼ごはんを食べてから二時間くらい昼寝した。同居人は『バーバパパ』を見るとかなりすっと入眠できるらしく、今日も昼寝の前に見進めた。

 

2/13

 一昨日観た『夜明けのすべて』のエンドロールに流れる映像の豊かさについては、同じく三宅唱が何年か前に恵比寿映像祭で展示していた《ワールドツアー》というインスタレーションにヒントがあるような気もしている──なんてふうに書くと僕があたかも『夜明けのすべて』を観たことですぐさま《ワールドツアー》を想起したかのようだが、そんなことはまったくなく、まじでたまたま今日恵比寿映像祭のポスターを見かけたためにふわっと思い出しただけなので、書き方が少しずるかったかもしれない。それはともかくとして、《ワールドツアー》という展示、そしてそこに掲示されていた制作日記のなかには三宅唱の映画にたいする思想の一端が見てとれる。

 《ワールドツアー》という展示は、三宅監督が山口情報芸術センターと共同で進めていた映画制作プロジェクト(これが結実したのが『ワイルドツアー』という、これまたあまりにもみずみずしい作品だ)の過程で生まれたもので、鑑賞者の目の前に三つのスクリーンが互いに隣接する形で置かれ、そこに三宅唱やその周りのスタッフらが撮りためた、なんでもないような日常の断片的な映像がランダムで流される。それぞれのスクリーンに別々の映像が流れたと思えば、ひとつの映像が三つのスクリーンにまたがって流れることもあり、映像が切り替わるタイミングも揃っていたりまちまちだったりするが、なんの脈絡も文脈もないように見えるその断片の集まりが、どういうわけかずっと見ていられるものになっており、鑑賞者は三つのスクリーンの前でいつの間にか床に座ったり、寝転がったりしながら映像をずっと眺めてしまっている。なんでもない映像の断片の連なりを楽しく見てしまっている。どうしてそんなことが可能なのかといえば、そもそも流されている映像の断片がランダムでもなんでもなく、三宅監督による途方もない編集を経てそこに流れているからであり、そのことについては展示場所の壁に掲示されていた制作日記にて三宅監督が自ら種明かししている。

2018年3月23日(金曜日)

ずっと「ワールドツアー」の編集をしている。「一体どういうカットが使われたり使われなかったりするのか」と尋ねられる。たとえば、実際に体験した方が明確に面白そうなイベントごとを映像でみるのは、なかなか面白くない。むしろ、実際に目でみただけならまるで気がつかないかもしれない瞬間や風景を、映像でみることではじめて面白いと思えること。例えば空き地とか。カメラや映像によってその場所の潜在的な可能性が示される、という感じ。映画が役に立てるとしたら、こういうことではないか。(中略)映像と映像の間には、撮られなかった無数の瞬間、無数の出来事がある。

 というこの制作日記をなぜ僕が記録しているかといえば、数年前の僕がその場でスマホにメモしたのが残っていたからで、それをこうやって僕の日記に転載するのがいいのか悪いのかはわからない、というかいいか悪いかでいえば悪い寄りではあると思うが、ほんとにいいことを書いていると思ったのでこうやって書き記している。もともとのメモが(中略)されていたからそのまま(中略)しているが、元の日記がどうなっていたのかをいまとなっては知ることができない。

 光、アングル、長さ、音、動き、……映像作品を撮るときに本来ならば考慮されるべきいろんな要素が抜け落ちた、なにげなくスマホで撮影した映像の、「潜在的な可能性」を示すために並び順を考える。そうやって並べたものが脈絡や文脈を──いっけんそういったものが存在しないかのような雰囲気で──持つようになって、「はじめて面白いと思える」。おそらくは途方もない編集を経て僕たちの前に差し出されたのが《ワールドツアー》という展示である。大仰なクライマックスを避けた、禁欲的ともいえる作劇がされていた『夜明けのすべて』には、そうはいっても《ワールドツアー》と比べるとずっとわかりやすい物語があり、映画本編という文脈が与えられた上で、エンドロールに流れる「実際に目でみただけならまるで気がつかないかもしれない瞬間や風景」を観ることによって、そこに映る、見知らぬようでよく知っているような気もする人びとのなにげない営みが、とてつもない豊かさを持って僕の目をうるませた。

 

2/14

 べつに連日そのことばかり考えているわけではないのだが、今日もたまたま『夜明けのすべて』を観たひとの感想を読んで、エンドロールの映像の光石研がとてもよかったということが書かれており、僕は光石研がじょうろで花に水をやっているところまでは覚えているのだが、そのあと彼がどうしていたかはわからず、もう一度観たい気持ちになっている。あの、いっけんなんでもないようで、映画本編を経た目にはとてつもなく豊かに映る映像を……。R.E.M.の"Imitation Of Life"のミュージックビデオのように、ズームアップとアウトを繰り返し、何度も再生し、巻き戻しながら、あのエンドロールの映像に映っていたあらゆるものを確かめたいという気持ちになっている。

 

2/15

 眠い! と僕が日記に書くのは、きちんと調べたわけではないがなんとなく木曜日が多い気がする。しかし今日は日記を「眠い!」だけで終わらせるのではなく書いておきたいことがあって、それはなにかというと、今日の奇妙な暖かさについてだ。単に暖かいというよりはぬるいという表現が似合うような、焦点の合わない、ぬぼっとした気候、そして目を細めたくなるような風の強さ、それらはいずれも春の気配を感じさせるもので、本来であれば喜ばしいことであるはずなのだが、一方でなんとなく飲み下しにくいような、あるいは楽な姿勢がいつまでも見つからないような、奇妙な落ち着かなさがあったこともたしかで、僕にとってそれはオブラートに包まれたボンタンアメを舐めるときのような感触に近い。ボンタンアメなんて久しく舐めてないけど。

BE 納豆

 

2/16

 やや東南を向いている僕たちの家の窓からは、朝晴れていて、なおかつ太陽の軌道が低い冬ともなれば、カーテンを開けた途端にとんでもない量の光が差し込むので、たとえば今朝のように、白米、納豆、インスタントのスープというような朝ごはんがテーブルに並んだ場合には、米一粒一粒に光沢が宿り、茶碗から立ち上る湯気の一筋一筋がやわらかく揺れ、納豆をかき混ぜた箸にしぶとくぶら下がっていたがとうとう切れて空中に舞った糸すらも美しく照らされる。糸は光のなかに昇っていくように舞い、それを見た同居人が「龍みたいだね」といっていてかなりウケた。たしかに糸の舞う姿は見れば見るほどに龍で、僕はニンテンドースイッチの『ゼルダの伝説』シリーズにおいて特定の時間に特定の場所に行けば見ることができる龍を思い出した、そういえば『ゼルダの伝説』をさいきんまったく進められていない、なぜなら同居人が会社の同僚にニンテンドースイッチを貸してしまっているからで、僕も頻繁にプレイしていたわけではなかったからべつにそれでもよかったのだが、今朝のように龍に似すぎている納豆の糸を見てしまっては、プレイしたくなる気持ちがあらためて芽生えてくるのも無理はない。

 そんなどうでもいいことで爆笑してしまった朝、家を出て会社までの短い距離にVampire Weekendの新曲を聴いて、あまりのよさに今度は泣きそうになった。明らかに"Modern Vampires of the City"の頃のフィーリングがそこには存在していて、メロディラインにかんしてはもはや手癖ともいえてしまうような部分もあったが、それでまったく構わないと思えるほどに冬の朝の光にマッチしていたのだった。昼休みにはMk.geeのアルバムを聴きながら少しだけ散歩した。聴けば聴くほどに不思議なバランスで成立しているアルバムだと思う。

 

2/17

 平日の夜に翌日の仕事のことを思って義務感から眠りにつくのとはまるで違う、休日の昼間に訪れる眠気に導かれるままに眠ることのうれしさ! 洗濯物を干し、朝ごはんを食べ、本をぱらぱらとめくり、スマホをいじっているうちにだんだんと姿勢が崩れ、いつの間にソファで横になって毛布をまとい、身体が温かくなって目を閉じる一連の流れのうれしさ。しかしそうやって始まった昼寝が長引きすぎると、それはそれで目が覚めたときに悲しいので、目を閉じる直前にスマホのアラームを二、三十分後に鳴るようにセットする。さいきんはそのアラームをやり過ごさずに目を覚ますことができるようになってきており、だいたいアラームで起こされた直後は身体もまだ異様に温かく、何度も眠りに引き戻されそうになるのだが、しばらく枕元のスマホをいじり、目をしばたかせ、足の指なんかを動かしてみているうちに身体を起こせるときが来る。

 今日はそんな短い昼寝を午前と午後に一回ずつやって、午後の昼寝のあとには少し頭が痛くなった。

 同居人は友だちの結婚式のために朝から出かけていて、僕は特に用事がなかったので午前中からその昼寝をし、昼前に家を出て目黒シネマに『暗殺の森』を観に行った。序盤から現在と過去が入り交じりながら進む構成に最初は戸惑いつつも、慣れてしまえばなんてことなく、終盤に至って二つの時制が合流するところでにやけきった。ときに作為的であることを隠そうともせずに全編を通じて完璧にコントロールされきった色彩。うつろいゆく光と影、ふと目が合い、そらす瞬間を克明に記録し続ける撮影。ドラマチックすぎてときに笑ってしまいそうになる劇伴。それらの高等技術が下支えとなって、過去にトラウマを抱えたひとりの男が、〝ふつうの強い男〟であろうとしてファシズム政権下のイタリアでもがく姿が映される。暗殺任務を背負った秘密警察の一員としてきびきび動いているかと思えば、声を不安げに震わせながらキョドったりもしていて、ひとりの人間のなかのそういうブレがすべて画面内に見てとれてしまうのは、やはり色彩も撮影もコントロールされているからこそ物語や人物に集中できるということだろうし、もちろんジャン=ルイ・トランティニャンという俳優のうまさでもあるのだろうと思った。

 他でいうならば、アンダーワールドの曲において、一定のビートが刻まれ続けているからこそ、カール・ハイドの声が非常に生きて聞こえる、というようなことと同じかもしれない。

 違うかもしれない。

 それにしても主人公の妻と、新婚旅行兼任務遂行の地として訪れたパリで出会う暗殺相手の妻が非常に魅力的で、特にふたりがダンスホールで踊るシーンはほんとによかった。ふたりの女性から始まったダンスの輪が、やがてそこにいたひとたちみんなに広がって、ノれずにいる主人公を取り囲むところはウケたし、主人公の心理描写にもなっているようでうまかった。あとはラストシーンも凄みがあってよかった。……なんてふうに映画を反芻しながら、松屋で気になっていたシュクメルリ鍋定食を食べた。おいしかったが、同じにんにく系でいうと、うまトマハンバーグ定食のほうが好きかも。そのあとは散歩してから帰宅し、読書し、昼寝し、テレビを見、外に出てそばを食べ、散歩し、同居人が帰ってくるのを待った。

 本はいま千葉雅也の『デッドライン』を読んでいる。青春小説なのだが読み味はかなり変わっていて、ゲイの性生活や哲学で論文を書こうとしている院生であることなどの内容が珍しいというのもあるが、書かれていることの順序が変というか、あえて理路整然とせず、まるで思い出した順に書いていっているような感触があって、楽しく読んでいる。

 

2/18

 昼頃までゆっくりと過ごしてから、「オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム」を見るために外に出た。僕たちは映画館でのパブリックビューイング勢だったのだが、一緒に行く友だちが東京ドームの周りも一度見てみたいそうで、早めに集合してドーム前の盛り上がりを見た。老若男女すごい人数のひとがいて、こんな大盛り上がりのイベントなんて昔のハスっている若林だったらやるわけないんじゃないかとも思うし、僕も申し込んでおきながら若干ハスる気持ちがないわけではなかったが、いざ行ってみるとラジオなんかのイベントにあれだけのひとが集まるのはすごい。感動的ですらあると思った。その後映画館に移動してパブリックビューイングで見た。東京ドームから日比谷の映画館まで歩いて移動したらかなりちょうどいい時間に到着し、しかしあまりにちょうどよすぎたために飲み物を買う時間がなく、喉カラカラの状態でライブに突入してしまったのだが、同居人が合間を見計らって途中で飲み物を買ってきてくれてかなり助かった。干からびるところだった……。

 ライブは観客全員がリスナーであることを前提に、いつものラジオの構成そのままに進んでいくのがうまいし美しいと思ったし、若林も春日もさすがにこの日のために強いフリートークをしっかり準備してきていて、「ラジオの〝神回〟を見ている」という感覚が強く、それを同じく〝神回〟であった若林の結婚発表回を車のなかで一緒に聞いた友だちとまた集まって目撃できているのは、それこそ今日のオープニングムービーではないが、ラジオと僕たちの暮らしや時間が並走しているような気持ちにもなった。もともとすごく熱心なリスナーではないうえに、さいきんはなんとなく徐々に心が離れつつあって、今日のライブでいったん個人的な区切りとしてもいいかもしれないと思っていたところを、ガツンと揺り戻され、この二人と並走していきたいと思わせられるライブだった。スター性と強靭な身体を兼ね備えた春日対フワちゃんのプロレス、そして大スター星野源の登場、とクライマックスが続いたあとに、いつも通りの「死んでもやめんじゃねーぞ」のコーナー。そこまででラジオとしては一度締めたあと、中央のステージにセンターマイクが表れる演出は、もちろんみんなの予想通りではあるし、もちろん漫才のなかで若林はボケに混ぜてほんとうのことをいおうとするだろうというのもわかってはいたが、ちゃんと笑わせられつつ感動させられてしまった。漫才の神性のようなものを信じた漫才だったと思った。よかった。疲れた!

旗を抜きにしてもいい写真(木と観覧車)

 

2/19

 朝から小雨で空気もぬるいという明らかによくなさそうな感じの日で、案の定徐々に頭が痛くなっていき、昼過ぎに会社を早退したところ、今日は朝から同じように調子がよくなかった同居人が会社を休んで家におり、僕はベッドで、同居人はソファで昼寝した。同居人は休日にもよくソファで昼寝しており、そんなにソファでの昼寝はいいものなのかと思って僕も一昨日の午前と午後に一回ずつソファで昼寝したのだが、ベッドより狭いぶん、短い睡眠をとるのならむしろスムーズに入眠できる感じがあった。起きるときもまずは足から床に下ろし、徐々に身体を起こして背もたれによっかかる、という手順を踏むことができ、段階的に覚醒していけるため、昼寝にはうってつけの場所なのかもしれない。というか、そもそもこのソファは僕が一人暮らしを始めたときに、クッションを置けばソファになるし、クッションをどけてマットレスを引き出せばベッドにもなるという、いわゆるソファベッドとして買ったものであり、実際にこの上で二年近くは寝ていたので、寝やすいのは当然というべきかもしれない。いっぽういまのベッドはローベッドというやつなのか、とにかく床からの高さがなく、眠りにつくにはいいのだが、起きるときにはいったん足を床に下ろすということもできない高さのため、一息に身体を起こす必要がある。十分に寝た朝はそれでもいいが、今日のような昼寝の場合にはいつまでも身体を起こせないということになる。さらにいまのベッドは枕が窓のほうに向いていて、今日のような天気だとベランダに雨が落ち、跳ね、ちょろちょろと流れる音が、まるで小川のほとりに寝ているかのように克明に聞こえるため、それもまたいい睡眠導入の材料となって僕を昼寝から逃さなかった。逃さなかった、といってもそもそも今日の僕は頭痛で早退して帰ってきているため、たくさん寝るべきなのでそれでよかった。

 

2/20

 気温が高く、曇っていても明るさがあって、遠くを走る電車の音や雲が動く音がよく聞こえ、春っぽいにおいもするとなれば、それはもう、春の気配ではなく春そのものである。二月に春。となれば季節への欲求はさらに刺激され、今日という日の春の空気のなかにその次の季節、すなわち梅雨や夏の気配さえもかぎ取ってしまいそうになる。じっさい、今日の昼間、ためしにベランダに立ってみたときの眩しさには夏がもう含まれていたように思った。

 夜が近づくにつれて気温は徐々に下がったが、春っぽいにおいはいつまでも続いていて、僕はそのなかに無限に春っぽさを感じながらも、さっきから「春っぽい」とバカっぽいいい方でしか表現できていないこのにおいの正体がなんなのかいつまでもわからずにいた。毎年わからずにいる。でも僕はこれが春のにおいだと知っている。小さな頃から毎年かいできたように思う。その証拠、というほど大げさなものではないが、このにおいをかぐと春の記憶がひとりでに思い出されてくる。

 たとえば、中学生のときに入っていた天文気象部はその名のとおり天文と気象のことをやる部活で、部員ひとりひとりにアルファベット二文字のコードネームのようなものが割り振られ、旧校舎のほうの理科実験室を部室代わりとしており、その屋上には小ぶりだが立派な天文台があって僕たち部員だけが入ることを許されているという、いま考えればけっこう青春っぽい要素にまみれた部活だったのだが、僕としては当番制で担当しなければならない太陽の黒点観測と百葉箱の記録がめんどくさく、天文の部活の本番ともいえそうな夏と冬の合宿にも二回くらいしか行かず、ふだんの部会からも徐々に足が遠のき、けっきょく中高一貫校なのに中学生まででやめてしまったのだった。百葉箱の記録当番は土日にも割り振られていて、日曜日にわざわざ電車に乗って学校に行き、中学校舎と高校校舎を結ぶ階段の半ばに設置されている百葉箱を開いて、記録用紙にボールペンで書き記し、最後に自分のコードネームを書くというだけのことを、中学一年生か二年生の春にやった。それを今日の空気のにおいで思い出した。

 ほんとにそんなアナログな記録をするためだけに日曜日に学校に行ったのか。そのあとまっすぐ帰ったのか。ひとの少ない日曜日の校内を散策するなどしなかったのか。あるいは屋上の天文台のなかで寝転がってiPodで音楽を聴くとか、グラウンドで声を張り上げている野球部の同級生を望遠鏡で見てみるとか、そういうことをせず、ただ百葉箱のためだけに日曜日に学校に行くなんてことがあり得るだろうか。いまとなってはわからない。とにかく今日は、百葉箱のためだけに日曜日に学校に行った、という思い出し方をした。

 個人的にはにおいと同様に音楽も記憶を呼び起こすもので、たとえば僕はMGMTのファーストアルバムを聴くたびに、高校生くらいの休みの日の夕方、あのアルバムを聴きながら、地元の沼沿いの遊歩道を自転車で走ったことを思い出す。沼の向こうへ沈んでいく夕日に背を向け、家の方向へ自転車を漕ぎながら、しかし水面に西日がきらめく美しい景色を見たくて、ときどき自転車を止めて振り返った僕の、ポケットから耳へとだらしなく伸びたイヤホンからは"Electric Feel"が流れていた。さっきの百葉箱と同じで、この記憶も思い出されるたびに少しずつ違うのだろうが、大枠としてはだいたいそのとおりあった。でもときに、初めて聴くのに記憶が呼び起こされる音楽というのもあって、たとえば今日聴いたシカゴのFrikoという若いバンドのアルバムは、高校生の僕が地元を自転車で走っていたときに同じく聴いていたとしか思えない感触にあふれていて、やはり沼の向こうに消えていく夕日がきれいなのだった。そしてそれもやはり今日のような春めいた日のことに違いなかった。

 

2/21

 夜が更けるにつれて気温が下がり、寝ている間に寒くなった。同居人が悪夢を見たとかで僕も夜中に二回起こされたが、そのときにはもう寒くて、布団を顎の下まで被って再び眠りについた。悪夢のなかでは僕がよくないことをしたそうで申し訳なかったが、夢のなかの僕の行動にまで僕に責任があるのかというとやや疑問だった。でもふつうは見た本人しか知りえず、その本人でさえも目を覚ましてからは忘れてしまうものである夢というものが、こうやって起きざまに共有されることによって、長く記憶されるものになりえるというのは、もしかすると素敵なことじゃないかとも思った。今回は悪夢だったのがよくなかったが……

 僕も夢を見たような気がしたが、忘れてしまった。

 

2/22

 仕事で疲れ、激ネムになった。同居人によれば僕は仕事で疲れて帰ってきたときには足が臭いらしいが、今日はどうだっただろうか。靴下は臭かった。足まで臭かったかどうかはわからない。身体が硬いから。靴下が臭ければ足も臭いだろうという推定が当然はたらくが、実際にかいでみなければわからない。

 同居人が会社の同僚に貸していたという『女の園の星』がおよそ一年ぶりくらいに帰ってきたので読み返した。おもしろいのはもちろんだし、余白がとてもうまい。(絵のことではなく話の内容の観点で)描くことと描かないことのバランスが抜群に優れていると思う。内容としてはコメディに分類されるだろうし、ともすればギャグ漫画ともいえそうだが、ウケるために描きこむのではなく、余白を持たせることで笑いを取っているこの低体温な作風は、まさしく和山やまの発明といえると思うのだが、僕はべつにそんなに漫画に詳しくないのでわからない。

 余白という言葉で表されるものとはちょっと違うかもしれないが、『相席食堂』で千鳥のふたりがVTRを見ながら「これだけで終わったらおもろいぞ」みたいなことをいうのも、欲張りすぎないという観点では似ているような気がする。欲張りすぎないこと。動きすぎないこと。拾いに行きすぎないこと。かといって繰り返しすぎないこと。……と思ったが、「ここで終わったらおもろい」というのは、単純に「逆をやる」的な発想のような気もする。でもそうやって既存のテンポを崩すやり方──反骨精神やカウンターというわけでもなくそうしたほうがおもしろいと思うからそうするやり方というものが、これまで文学や映画や音楽を動かし続けてきたのだろうと想像すると、僕は「ここで終わったらおもろい」というのがただの逆張りであるとは思えない。それはたしかにおもろいからそうするのだ。

 

2/23

 激ネムネム・スギス。グッナイ智則。

 

2/24

 日記というのは自分自身があとから見て振り返るためのものであるというのが第一義としてあると思うので、自分で見てなんのこっちゃという部分はなるべくなくしたほうがよく、そのためにおもしろくないことをあえて説明すると、昨日の「ネム・スギス」というのは元を辿れば「サム・スミス」がいて、寒い日に「サム・スギス」と僕がよくいっているのを、さらに変形させて「ネム・スギス」にして書いたものだった。こういう解説を、日記というものだからこそきちんと書き残しておく必要がある。

 昨日は仕事のあとに友だちたちと新年会だった。「明けましておめでとう」という乾杯から始まるのであればいつだって新年会だ。友だちのひとりは「オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム」のトレーナーを着ていて、よかったよね、という話になった。ゲストで登場したフワちゃんと星野源のスター性もすごかった。スターというのはここぞというときに決めてみせる。でも、ここぞというときに、という話でいうと昨日の友だちも負けてはいなくて、焼き鳥屋で串を入れる筒に既に何本か串が入っていたのを見て、即座に「前のセーブデータが残ってる」と表現したのには痺れた。そのあとは、『夜明けのすべて』をぜひ観てほしいという話、さいきんどうですかという話、独りで死ぬ可能性についてビビっているという話、恋人になにをどこまで共有するか、鮭ハラス串がうまい、町田康の『告白』がすごい、自炊して弁当まで作っているひとはかっこいいという話などをした。あとはなんだったろうか。昨日書けばよかった。店を出たらまじで寒かったということは覚えている。そこでもたぶん僕の口から「サム・スギス」が出たと思う。

 今日は晴れて昨日よりは暖かかった。今日は僕の友だちの妻、と書くとどうも不思議な気持ちだが、友だちの、以前は恋人であり、現在は妻であり、しかし僕や同居人ももう何度も会っているのでもう僕や同居人の友だちでもあるので、もう友だちと書くが、とにかくその友だちと昼ご飯を食べる約束をしていて、以前会ったときにはロイヤルホストで食べたので、次回もチェーンのレストランで食べましょうという話になっていたので、今回はバーミヤンに行った。昨日の別の友だちたちとの新年会でも話題に上ったのが、家の近くにほしいチェーン店はなにか、という話で、単独一位はもちろんミスド。しかし僕にとってその次くらいに浮上してくるのがバーミヤンで、ここ何年か行っていないのだが、前回行ったときにとてつもなくおいしかったという記憶があり、今日は久しぶりに行けてうれしかった。午前中からカーシェアで車を借りて同居人と向かい、集合したのは友だちが住んでいるところの近くのバーミヤンで、駅前にあったのだが、同じく駅前にはミスドもあって、正解の町だと思った。

 友だちの夫、つまり僕の友だちが海外に留学というか研究というかに行っていたのが、もうすぐ帰ってくるらしく、そのこと関連の話をしたり、もっと時を遡って話したりした。『夜明けのすべて』をおすすめした。バーミヤンでは餃子やレタスチャーハンなどいろいろを注文して、どれもふつうにおいしかったが、僕の記憶にあるほどのすさまじい感動はなかった。ガストと同様に猫みたいな顔をしたロボットが料理を運んでくるシステムになっていたのだが、そのことがバーミヤンすかいらーくグループであるということを思い出させ、べつにそれ自体は悪いことではないはずなのだが、僕の記憶のなかでノーマルなファミレスから大きく逸脱した存在となっていたバーミヤンを、どこにでもあるファミレスの枠内に収めることとなってしまったのかもしれない。

 バーミヤンを出てからはミスドでドーナツを購入し、工具箱的な細長い紙箱で持ち帰った。あの細長い紙箱のうれしさというのは何にも代えがたい。友だちを車で家まで送るついでに「ドーナツも買ったし」ということで家に上がらせていただき、コーヒーまで出していただきながら三人でドーナツを食べた。同居人は「ドーナツやくざ」だと表現していた。ドーナツもたくさん買うてもうたさかい、上がらせてもらうで。コーヒーでも出してや。あらまあ、ええ家に住んでますな。ほな、コーヒーいただくで。うま。あんがとさん。また来ますわ。……同居人はバーミヤンにいたときから鼻水がえらく出てきてしまったそうで、目もしばしばし、花粉症かもしれないといって、その後ずっと鼻をかんでいた。待望のミスドにも集中しきれておらず、かわいそうだった。鼻水は帰りの車内でも続き、帰宅後は少し収まったのでやはり花粉症なのかと思いつつ、そのままぐったりして寝てしまっていた。

「オールドファッションこそがドーナツである」と信ずる僕のオールドファッションが、同居人のポンデリングに圧されている

 

2/25

 あと、昨日は「オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム」のオープニングにて春日がパロディを披露していた映画『メジャーリーグ』を家で観た。人種や宗教にかんする差別、女性蔑視、ホモソーシャルなノリに満ち、肝心の野球シーンもどうも緊張感に欠ける映画で、ずばりいうとぜんぜんいい映画ではないのだが、不思議と嫌いになれない感じがあり、それはおそらく、八十年代なんてこんなもんだったんだろうね、という意識が頭にあるからだろう。しかし公開年を調べてみるとなんと一九八九年で、八十年代といってももう終盤なのだった。

 昨日鼻をずびずびさせて早めに寝ていた同居人が今朝は早く起きて、コーヒーを用意してくれていたので、僕も起きて昨日のミスドの残りを一緒に食べた。それからしばらく二度寝してから昼前に起き、昼ごはんからの映画といういつもどおりの休日のコースを辿るべく家を出た。昼は初めて行くおでんと牛たんの店へ。牛たんは当たり前にうまく、おでんで身体も温まった。日本酒の熱燗も少しだけ飲んだ。

 電車で映画館の近くの駅まで移動し、上映までまだ時間があったのでコメダ珈琲に入店。僕も同居人もそれぞれ読書したり、同居人はしばしの昼寝をしたりして過ごした。僕は西村賢太の『苦役列車』を読んだ。西村賢太は読んだことがなかったのだが、濃厚な私小説の磁場に引き寄せられて一気に読み進められた。私小説とは単に赤裸々であればいいというものではなく、主人公を俯瞰で見る視点ありきの文章のおもしろさも備わっているべきなのかもしれないと思った。

 コメダを出て『落下の解剖学』を観た。作家の女性が夫を殺したのか否かというサスペンスを軸に展開していくのかと思いきや、法廷の内や外での会話は徐々に、当事者たちの意図や気持ちや行動を当事者ではないひとたちが一意的に断言してゆくことの奇妙さについての話へとスライドしていき、単純に事件が解決するカタルシスとはまったく異なる地点へと導かれた感覚があっておもしろかった。当事者でないひとたちが断定することの奇妙さは、映画内で描かれる裁判という場を超えて、現代のSNSのことも射程に入れて描かれているようにも思えたが、思い込みでしょうか。主人公の聡明な息子による「真相がわからないことについて、それぞれが心のなかで一通りに真実を決めて語らないといけない」というような台詞が、この映画を端的に表しているようでもあった。あとは犬の演技も素晴らしかった。名犬!

 帰宅して『光る君へ』を見、そのあとのNHKスペシャルのウクライナ兵たちへのインタビューと実際の戦争の映像の特集を見た。兵士それぞれのスマホや上空のドローンのカメラによって記録された映像を目にするのは非常なショックを伴うが、まずはせめて見るだけでもしなければならない。

 

2/26

 よく晴れていて、朝のニュースでは花粉がどうのこうの話していた。僕もなぜか鼻水が出るし、なぜかほんの少し目もしばしばするような気がした。でも一昨日、同居人の花粉症っぽい症状がひどかったときに、僕はよく散歩で外に出ているから花粉にたいする耐性がある、と豪語したばかりだったので、ここは平静を装わなければならない。

 帰ってきてから『希望のかなた』を観た。すごい映画だった。無表情で無愛想に突っ立っている人びとの姿が、どうしてこうも生き生きとしているように見えるのか。どうしてこうもリアルに感じられるのか。魔法としかいえないような空気が流れていて、『枯れ葉』に続き、胸を動かされた。辛く残酷な世界において、どうやってひとはひとを思いやり、希望を持つことができるか。僕もせめて善意のひとであろうと思った。

 

2/27

 仕事した。越前リョーマでなくとも「まだまだだね」といわれてしまうようなていたらくであった。帰ってきて風呂に入っている間に柴田聡子のアルバムが出ていたのでこれから聴いて寝る。今日は昼頃に病院にこの前の検査の結果を聞きに行って、心エコーの映像なんかも見たのだが、自分の胸のあたりに入っているであろう奇妙な器官が、粒の荒いモノクロの映像のなかで奇妙なダンスを踊っている様をぼーっと眺めながら、「ほら、動いているでしょう」「動いてますね」なんてふうに奇妙な会話を交わすのは、とても奇妙な気分がするものだった。ということをいま思い出して、せっかく思い出したので書いた。柴田聡子やばい!

 

2/28

 柴田聡子の『Your Favorite Things』は、先行曲、ジャケット、アルバムタイトル、本人のコメントから醸成された「すごいかも」の雰囲気をはるかに超えるマジの凄みがありながらも、生活のなかにしっかり根を張ってくれそうな傑作で、昨日の夜日付が変わってから一周聴いた段階で思わず涙が出そうになった。週末のライブも楽しみ。これまでのライブでの気の抜けた「センキュー」が似つかわしくないほどの境地に達してしまっている気もするが、今回のアルバム発売に寄せての本人のコメントからはこれまでと変わらぬ調子も感じられ、たぶん今回は今回なりの「センキュー」を聞かせてくれるのだろうと思う。だけどほんとにセンキューをいいたいのはこちらのほうです。柴田聡子特集の『ユリイカ』も買った。まだぜんぜん読めていないが、最初のほうのadieu(上白石萌歌)との対談で萌歌が「柴田さんの歌って揺蕩っているんです」と端的にいい表現を使っていて、萌歌への信頼も同時に高まることとなった。僕はなぜか上白石姉妹のことを勝手に名前で呼び捨てしてしまっていて、昨日も会社で同僚に『夜明けのすべて』の話をちらっとしたときに「萌音もかなりいいんですよ」と呼び捨てにして同僚に「モネ?」と聞き返された。

 

2/29

 会社で「よくある話題で、うどんとそばとラーメン、これから死ぬまで一種類しか選べないとしたら、ってやつあるじゃないですか」といったら「初耳です」といわれた。家に帰ってから同居人に「うどんとそばとラーメンどれかひとつ選ぶなら、ってやつあるよね」と聞いたら「あるよ」といわれてよかった。うどんとそばとラーメンから一種類を選ぶ話題が消失した世界から、私は生還したのである。

二〇二四年一月の日記

1/1

 どういうわけか異様に眠くなってしまったので、早めに寝る。

 

1/2

 今日もニュースや駅伝を見ながらかなりぼんやり過ごした。同居人は今日も鼻をずびずびさせつつ徐々に快方へと向かっているようだった。

 ふいに『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』への熱意が復活して、二、三時間プレイした。三ヶ月ぶりくらいにやったんじゃないかと思う。僕の記憶ではもう半分くらいは進めたと思っていたのだが、久しぶりに開いてみるとたぶんまだ序盤のほうで、マップもすべて開放されていないし、四つある中ボスのうち一つしかクリアしていないし、ようするにリンクはなにも解決せずにこの三ヶ月間ぷらぷらしていたのだった。でももし実際に僕がリンクの立場だったとしてもそうしていただろう。前回のブレワイには一刻も早く敵をやっつけなければ国が滅ぶというような切迫した感じがあったが、今回のティアキンにはそこまで急を要する雰囲気が感じられない。期限を設けられなければ事を進めることができないというのは夏休みの宿題でも国の一大事でも同じことなのだ。

 朝には昨日作ったカレーの残りを、昼にはご飯と納豆と焼き魚を食べ、朝と昼、逆だなと思った。夕方に余った野菜で味噌汁を作ってから五反田のTSUTAYAに行って『アウトレイジ 最終章』を借り、夜に観た。TSUTAYAに行くには家の近くのバス停からバスに乗って行くルートが好きで、今日も時間がちょうどよかったのでそうした。正月休みということもあってか今日のバスにはひとが少なく、途中駅でぱらぱらと降りていくので、このまま僕ひとりになっちゃったりして……、なんて思っていたところ目的地に着かずに「終点」と表示されてしまい、あれよあれよという間に降ろされてしまった、というのも、どうもバスのルート上にある寺で縁日をやっているために通れないらしく、今日に限ってはその寺を除いたルートにて運行しているそうで、寺の向こうのバス停から乗り継ぐためのチケットを渡されたが、肝心のバス停の位置がわからず、仕方なくそこからTSUTAYAまで歩いた。そうなるともちろん縁日をやっている寺の境内も通るわけだが、正月休みの夕暮れどき、弛みきった人びとの顔の美しさよ!

 

1/3

 電車で実家に帰ると、僕がふだん〝郊外〟と呼んでしまっている風景、家々、道、木々のひとつひとつが揺るがぬ固有性を持っていることを思い出させられる。車窓を流れる景色はまぎれもなく、僕がおよそ十年間にわたって電車通学していた頃からそこにあったもの、あるいは過去にはなかったがいまはあるもの、あるいは過去にはあったがいまはないものであり、景色のひとつひとつ、一秒一秒が〝郊外〟という言葉からフレームアウトして、それをぼんやり眺めている僕のほうに迫ってくる。

 その景色のなかにはひとが住んでいる。たとえば今日の僕んちのように:昼頃に実家に着いて昼ご飯をいただくとちょうど炊飯器が壊れたそうで、午後になぜか家族全員で車に乗って電気屋に新しい炊飯器を買いに行った。炊飯器にはそれぞれ「◯◯炊き」みたいなキャッチコピーがついていて、僕はなぜか「炎舞炊き」というものだけ覚えていたのだが、どうも「炎舞炊き」と名乗っている炊飯器は高級品のようだったので家族にスルーされていた。僕がなぜ「炎舞炊き」だけ知っていたのかは「炎舞炊き」の炊飯器を見てわかった。「炎舞炊き」のCMキャラクターは阿部寛だったのだ。阿部寛がやっているCM覚えがち、というのは僕のなかにあって、さいきんだとクックドゥーの辛くて本格的な麻婆豆腐の素やいろはすが該当する。

 

1/4

 実家を出て暮らしている時間が長くなると、実家では当たり前だったもの/ことに違和を感じるようになるということが往々にしてあるようで、今回の(というかここ何回かの)帰省でいうとそれは枕の高さであった。僕はいまの生活において、比較的厚みがあり柔らかな枕を使って寝ている。たいして実家の僕の部屋の枕は薄くて柔らかい、そうなると厚いか薄いかというだけの違いのようにも思われるが、こと枕においては、その違いというのは寝心地に著しく直結する。実家にいた頃どうやって寝ていたのかまったく想像がつかないほどに頭の位置は定まらず、いつもどおり仰向けで寝ようにもなんとなく耳元が涼しい気がするし、かといって気分転換で横向きになろうにも、枕が低いために肩がこりそうになる。……なんてふうに低い枕への違和感を並べてみたものの、やはりさすが実家という感じで、気がつけば夜は熟睡しており、今日だって午前と午後にそれぞれ昼寝した。

 年末年始には昼寝というものが正式に許容されている感じがあり、今日も朝ごはんを食べてからすぐ「じゃあ寝ようかな」と冗談でいったつもりが、母に「あっそう」というふうにあしらわれ、昼寝する運びとなった。それと午前中は弟と共にブックオフにも行った。水木しげるの鬼太郎の漫画と戦争の漫画、あとはソローが散歩について書いたという本を買った。漫画で読む鬼太郎はやはり見た目もしゃべりも珍妙な子どもで、いまの漫画にはこういう主人公はあまりいないような気がするし、それとも単に僕が漫画をあまり読んでいないからそう思うだけのような気もする。西洋からやってきて日本の妖怪と敵対するドラキュラがレイザーラモンRGに見えてウケた。

 東京に戻る電車ではカート・ヴォネガットスローターハウス5』を読み進めた。何年か前に読んだときに感じたのとおそらくあまり変わらない感銘を受けながら読んでいる。カート・ヴォネガットみたいな文章は書こうとして書けるものではない。家に着くと同居人が寝転がっていた。また少し咳が出るそうで、かわいそうだった。

レイザーラモンRG似のドラキュラくん

 

1/5

 激ネムのため、寝ます。

 

1/6

 昨日会った友だちに「日記って毎日書いてるの?」と問われ、「その日のうちに書くようにしてるよ」と、だってそれが日記というものなのだから当たり前だろうという偉そうな態度さえ言外に滲ませながら答えたにもかかわらず、昨日は「激ネムのため、寝ます。」とだけ書いて寝てしまった。というわけで昨日のことから書く。昨日から仕事だった。年末年始によるボケもあってか頭が重かった。夜には友だちたちと会った。一年に一回か二回くらいしか会わない友だちたちであるのに、お互いの近況報告的なことはほぼせず、かといってここ一年や半年の間に観たり聴いたりしてよかったものの話も最小限にとどめ、ただテレビやYouTubeを見てあれこれコメントをいうだけの時間が流れ、しかしそれでもなんとなく楽しい奇妙な集いなのだった。見たもの:「やりすぎ都市伝説」(やりすぎかどうか以前に説明不足すぎてやばい。やるならもっと説明したほうがいい)、「金曜ロードショー」の『千と千尋の神隠し』(細部までアニメーションが躍動していてやはりすごい。やんややんやいいながら見るのにうってつけ)、世界のいろんな街のドライブ動画(これ僕らもできるんじゃないの?)、山道をものすごい速度のスケボーで下る動画(なぜそんなことを?)、狂気のウォータースライダー動画(なぜそんなことを?)、高いところから水に飛び込む動画(なぜそんなことを?)、サーフィン動画(サーフィンはなぜか「なぜそんなことを?」とはならない)。

 猫がいたのもよかった。しかし僕の足元の不注意で猫の餌を散らかしてしまい、友だちと猫の両方に申し訳なかった。

 それで今日は午前中から同居人がネイルをやりに出かけたため、僕は『スローターハウス5』を読み進め、読み終えた。やはりいい小説だと思った。そもそもカート・ヴォネガットの語り口は散漫であるところが魅力だと思うのだけど、こと『スローターハウス5』においては、主人公ビリー・ピルグリムが「けいれん的時間旅行者」であることと行きつ戻りつする文体が見事に噛みあって、ひとりの人間の人生と戦争、そして二十世紀アメリカというものの一端まで重層的に描き出されているようだった。それと同時に、実際にドレスデン爆撃を捕虜として体験したカート・ヴォネガットからしてみると、ランダムな振り子のように時間をさまよい続け、終盤にかけてついにドレスデン爆撃に辿り着くという今作のやり方でしかその凄絶な体験を描くことはできなかったのかもしれないと、勝手に想いを馳せもした。でもそれはまったく僕の勝手な想像だ。作中で何度も繰り返される「そういうものだ。(So it goes.)」に諦念だけでなく人類への一縷の望みも含まれていると考えるのも、同じく勝手な想像だ。でも勝手な想像というものによって読書は成り立つ。

 同居人がそのまま友だちと出かけに行ったので、僕は『PERFECT DAYS』を観に行った。役所広司はよかったし、話としていい部分もあったと思ったが、居酒屋でのやり取りとか、姪との会話とか、細かいところに作為性を強く感じてしまい乗り切れずだった。作られた清貧、というか。そこにドキュメンタリータッチの手持ちっぽい撮影が乗っかるのでまたズレが生じていたようにも思う。あとはどうしても作品外の要素も含めた印象になってしまうが、やはり渋谷のトイレのプロモーションビデオの雰囲気があり、ようするに、多様な人びとが自然と集まってくるきれいでユニークなトイレ、そしてそのきれいさを作っているのは清貧で足るを知る清掃員、という物語を大人たちが話し合って作っている構造がちらついてしまってよくなかった。でも最後の役所広司の顔はよかった。あと柴田元幸が出ていておもしろかった。

 映画を観終わってからは、実家に帰ったときにブックオフで買ったソローの『ウォーキング』というエッセイを読んだ。散歩というか「ウォーキング」、訳語を借りれば「そぞろ歩き」について語られるエッセイなのだが、ウォーキングの話をしているのは序盤だけで、あとは飛躍してひたすら「文化・社会・政治・知識から離れて野生へ飛び込め」、「森に入れ」、そして「西へ行け」という話が語られ、その勢いがよかった。これが書かれた一八五〇年代という時代のことを考えると、この前観た『ファースト・カウ』の森の風景が思い出されて、あの二人の友情にもあらためてぐっときた。

 以下、『ウォーキング』から抜粋。ふだん散歩好きを名乗っていることを反省すべし。

たしかに近頃の私たちはみな、これといって不退転の決意をもって永続的事業に取りくむことのない、ただの根性なしの十字軍戦士、いや単なる歩行者でしかない。探検と称して単なる日帰り旅行に出かけ、スタート地点の古い暖炉のそばに夕暮れには戻っているというていたらくである。しかも、そのウォーキングの半分は、過去の歩みを辿るものにすぎない。たまには、たゆまぬ冒険心を胸に、香料で防腐処理をほどこされた心臓だけを主なき王国に遺物として送り返す覚悟で、たとえ短くても戻ることなど考えずに徒歩旅行におもむくべきだ。両親や兄弟、妻子や友人から離れ、二度と会わない覚悟を決め、借金を完済し、遺言をしたため、問題をすべて片付け、一人の自由人となってこそはじめてウォーキングにでかけることができる。

天啓を得た友だちの家の猫

 

1/7

 今年の、いや去年もその前も、いやもしかしたらもっと前からの継続的な、もはやライフワークといっても差し支えない目標として積ん読の消化ということが挙げられる。消化という表現はよくないかもしれない。僕んちの本棚に積まれている本はそもそも僕や同居人がおもしろそうだと思って買った本なので、僕のなかに存在するのはただそれらを早く読みたいという無垢な気持ちであり、それを消化だなんて呼んでしまっては積まれている本たちも浮かばれないだろうと思うのだ。ではなぜ、早く読みたいという気持ちがあるにもかかわらず、実際の積ん読の数は増えていってしまっているのか。これはいっけん怪奇現象のようだが起こっていることはシンプルで、まず、ひとは本を一冊読む間に、その影響元や類似作品、あるいは同作家の別作品として二冊か三冊新たに本を読みたくなる。そんな折にたまたま入った本屋の棚にその本が並んでいたとなれば、これ幸いとばかりに買ってしまわざるを得ない。となると、家にある本を一冊読むたびに一冊から多くて三冊本が増える。そんなことが続けば自然に本は増える。そしてもちろん、本屋には意図していない偶然の出会いというものも無数に転がっている。僕たちがまったく知らない本が予想だにしない角度から飛び込んでくる。僕たちはその本も持ち帰ることになる。そうなるとますます家に本が増える。絶え間なく増えていく本に対して、僕たちの読書スピードはあまりに非力だ。その差が積ん読になる。(というような話を僕は何度もしてしまう。しかし同じ内容を書くのでもその文章は書くたびに変わるだろうし、文章によって書く内容も変化するだろうから、書くしかないのだ。)

 どんどん降り積もる山を小さなスコップで切り崩そうとする、その非力さに打ちひしがれようとも、やらないよりは幾分かましだろう。ということで僕は今日、家の本棚からコーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』を抜き出して読み始めた。心理描写を排した、なんというか鉄やチタンを思わせるメタリックな文体が、ちょうど昨日読んだ『ウォーキング』のなかでソローがいっていた野性的な神話のようでもあり、しかも物語の舞台がちょうどソローの生きていた十九世紀半ばであったので、奇妙な符合にうれしくなった。その符合に意味があるわけではない。ただ僕にとってうれしいだけだ。

 今日は同居人が同窓会だったので見送ってから、家で少し仕事し、TSUTAYAに『アウトレイジ 最終章』のDVDを返しに行き、そのあとカール・テオドア・ドライヤーの『吸血鬼』を観に行った。美しく、怖ろしく、映像的な挑戦にあふれた素晴らしい映画だった。影で見せる描写、合成によって主人公が幽体離脱する描写、棺のなかからのショット、そしていかにもこの監督らしい顔のアップ、どれもほんとにすごくて、これがたとえば二〇二〇年代にA24かどこかの作家性の強い映画として発表されたとしてもまったく驚かない。映像的な美しさに重きを置いているのか、それともこの映画が作られた一九三〇年代には今日的な作劇がまだ成立していなかったということなのか、話の導線が整理されていないような感じもして、それが余計にこの映画の夢か現実かわからないような幽玄な雰囲気を高めているのだった。これにもソローのいう野生の物語、神話的な物語の佇まいを感じてまたうれしくなった。

 主人公の青年アラン・グレイの珍妙な行動もツボだった。知らない村にやってきて、知らない老人が怪死するところを目撃し、そのままその老人の城に居つき、老人が遺した吸血鬼についての本を読む。なにか事件が起きるたびに真っ先に現場へと駆けつけるが、あっさりと放り出して読書へと戻る、その反復がウケた。なんにでも首を突っ込みたがる性分なゆえに幽体離脱までして、自らが棺に入れられて運ばれるところを目撃し、同時に棺のなかからも外を見ている。ここの一連の流れがいまいちよくわかっていないが、とにかく美しかった。

 

1/8

 一日中なんとなく眠い日だった。午前中は水木しげるの戦記漫画『敗走記』を読み、午後はドトールで『ブラッド・メリディアン』を読み進めようとしたが、かなりうとうとしながらでほとんど進まなかった。昼寝してからスーパーに買い物に行き、夕飯の支度をし、同居人と食べ、『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』を少しやり、入浴し、Netflixで『雪山の絆』を途中まで観、寝た。冬っぽい寒さを感じている。

 

1/9

 この週末、外を歩いているときにはOMSBの"ALONE"を聴いていた。これは一昨年リリースされたときに聴いていなかったことが悔やまれるほどいいアルバムで、そのビート感覚に当てられてか昔のヒップホップが聴きたくなって、昨日から今日にかけてはデ・ラ・ソウルやア・トライブ・コールド・クエストやアウトキャストを聴いている。でもこういうときにいわゆる文化系などと評されるようなラップしかしらないということがどうも悔しい。ギャングスタっぽいラップがごっそり抜け落ちている。でもそれもさもありなんということもいえて、なぜなら僕が生きてきた環境や僕自身のあり方がどうしてもギャングスタ的なものとは遠いところにあるし、言葉を知らないというのもある。……しかし考えてみれば言葉を知らないというのはべつにギャングスタラップを聴いてこなかった理由にはならない、というかべつに文化系のラップを聴くにしても言葉を知っていたほうがいいはずなのに僕は知らなくて、ようするに僕は彼らがなにをラップしているのかを知らずに聴いているわけだが、これは態度としては実は非常によくないのではないかということを、この週末に日本語でラップされているOMSBの"ALONE"を聴いて、その言葉をしっかりと聞き取ってまさに思ったところだった。

 たとえばデ・ラ・ソウルなんかと同じく〝文化系っぽい〟ラップであるスチャダラパーを聴くときには僕はラップの内容含めて楽しんでいるわけで、そういう楽しみ方を英語のラップにおいてもできるようになれば、それはさぞかし楽しいだろうと思うのだ。

地平線の意味 ありとあらゆる単位 空気の密度 火そのもの しあわせの構造 音 うわの空 石のドラマ 正気の沙汰 記憶のかなた 諸悪の根源 点と線 原点 じゃんけん 人間 それら全てがついさっき繋がった ぼくはすべてを把握した ここにこなけりゃぼくは一生 わからずじまいで過ごしていたよ あんがい桃源郷なんてのは ここのことかなってちょっと思った 君もはやく来たらと思う それだけ書いて 筆を置く

スチャダラパー「彼方からの手紙」)

 

1/10

 昨日はそういえば、友だちが年始の一週間について書いた日記を読ませてくれた。ある程度の文量のある日記はやはり読んでいて楽しい。僕が書いている日記とまったく同じ日付なのにまったく違うことが書かれている。それは単に僕と彼が違う一日を過ごしているというだけでなく、もし仮にまったく同じ一日を過ごしたにしても日記として書かれる文章はまるで違うものになるだろうと確信させられるような、物事の取り上げ方の違いに、日記の個性ともいうべきものが紛れもなく滲み出ているのが楽しいのだ。彼の七日間の日記に頻出するのは、彼が何を食べ、何を飲み、何を聴いたかという話であり、いっぽう僕の日記に頻出するものを挙げるとすれば天気の話(と書きながら振り返ると、さいきんは天気のことを書けていないことに気がつく。このところ寒い晴れの日が続いており、「比較的寒い」とか「比較的暖かい」くらいの差はあるものの、それらは僕にとってただ寒い晴れの日、日記に書き残すほどでもない日としてまとめられてしまっているのだ。思えば夏の暑い日のこともただ暑い日としてひとからげに捉えてしまっているようなところがあり、つまるところ僕は夏や冬がその真価を発揮するような暑さや寒さにたいして、一日ごとの違いを細やかに捉えて語る言葉を持っていないということなのだ。しかし日本に住んでいる以上暑さ寒さは避けて通れないものなので、一日一日の天気の機微をしっかりと描写できるようにならないとせっかくの日記の意味がない。今後はがんばりたいと思います)、観た映画の話、読んでいる本の話だろう。しかしそれだけでなくたとえばテレビで何を見たかとか散歩中何を聴いたかということも書いたほうが日記としてはより充実するのではないか、と彼の日記に感化されて思った。

 そういうわけで書こうとしたときに思い出したのは、ちょうどその彼とも会った先週末の新年会のような集まりにおいて、YouTubeで世界のいろんな街のドライブ動画や狂気のウォータースライダー動画と並んでBoiler Roomを見たことだった。新年会のBGMになるかと思って再生したKAYTRANADAのDJイベントの様子は、そのノリのいいトラックとともに、KAYTRANADAの周りで踊る様々な人びとの人間模様でもって僕たちの目を釘づけにした。中心にいるのは気がよさそうなスキンヘッドの白人男性で、あまりパーティー慣れしていなさそうなナードな雰囲気を持つ彼の周りにはいかにもパーティー然とした人びとが行き交い、大声で話しかけたり、肩を組んだりして絡み続ける。しかしそんな絡みにひるむことなく、むしろ楽しそうに受け入れる様子さえ見せながら、ナードっぽい白人男性は終始気持ちよさそうに揺れ、ときに場を盛り上げるように手を振り、画面の中央よりやや右の絶好のポジションを守り続ける。僕たちはそんな彼の姿の虜になってしまったのだった。それがもう十年以上前の動画であることもまた、見ている僕たちの心をつかんだ。気持ちよさそうに揺れていた白人男性とその周囲の人びとは、現在どこにいるのだろうか。あのとき黙々とDJをやっていたKAYTRANADAは、いまでも気持ちのいい音楽を作り続けている。

 あとは昨日たまたま見た「秋山ロケの地図」というテレ東の番組がよかった。市井の人びとが秋山の前で張り切っている姿と、それに全力でノッてみせる秋山の姿がなんともよくて、僕もたぶん秋山の前だったら張り切ってしまうだろうと思った。「べつにファンというわけではないけど秋山のロケは楽しく見てしまう」という話を同居人ともした。ロケの舞台が茨城県取手市だったのもよかった。

 テレビ番組について書くという流れでいうと、昨年特に楽しかった記憶があるのは「ガキ使」で、ランジャタイ国崎の七変化などキレキレの回もあるいっぽうで、弛緩しきった内輪ノリでしかないようなグダグダの回もあり、ダウンタウンの二人も含めて全員ポンコツのおじさんになってしまっているテレビの終わりのようなスタジオだからこそ生まれる珍妙な笑いがツボだった。「ガキ使」においてはダウンタウンの二人がココリコや山崎方正にたいしてパワハラチックに絡み続けるのがお決まりのノリとなっていて、それが単なるノリだとしてもそういう様子をテレビで流すのはよくないのではないか、しかしいま「ガキ使」を見ている層なんて十分ゾーニングされているだろうし、なんてことを思いながらも楽しんでしまっていたわけだが、いまはそういう〝ノリ〟を見られない気分になっている。松本人志の性加害の報道の内容についてはいま時点でまだ語ることができない(事実なら相当ひどい)としても、そのあとのツイートの感じが単純にあまりにもダサく、天才と称されたひとの終焉を目撃している感覚がある。

 といっても、僕が物心ついたときにはもう松本人志は金髪マッチョになっていたような気がするし、コメントやボケに切れ味を感じることはあっても、革新的な天才としての姿を見る機会はなかったように思う。そこはやっぱりリアルタイムで見てきたひととは違うのだろう。しかしいまのお笑い界における彼の影響はやはり絶大なのだろうとも思う。以前読んだ杉田俊介『人志とたけし:芸能にとって「笑い」とはなにか』という本において、「松本人志はお笑いを文脈から切り離し、その場でもっとも笑いを取った者が勝つという価値体系を浸透させた」というようなことが語られていたが、そういう松本人志的な評価軸がM-1キングオブコントなどの大会に結実していることは間違いなく、そのあり方のなかで僕もこれまで散々楽しんできたし、これからも大会が続く限り楽しむのだろうと思う。でもそこに松本人志の姿は今後はもうないかもしれないし、それでいいともいまは思っている。

 今日も一昨日からの流れでアメリカのヒップホップを聴いている。今日はウータン・クランモス・デフを聴いた。初めて聴いたモス・デフの"Black on Both Sides"はすさまじく充実した内容で、こんなモンスターアルバムがまだまだあるかもしれないことに震えている。しかし相変わらず何をラップしているのかはわからない。同居人が会社の同期と飲んでいて、遅くなるというので日記を長々と書いた。

 

1/11

 朝から寒く、昼間にも盛り上がりを見せることなく、けっきょく夜まで同じように寒いという、音楽であればそういう曲もありかもしれないけど天気でそれはないだろ、といいたくなる一日だった。同居人と外で夜ご飯を食べ、以前から欲しいと思っていた姿見を買って帰った。持って帰ってきたはいいもののちょうどいい置き場がなく、仕方なしに玄関近くの空間に置いたのだが、そこは寝室のドアを開けた際にぶつかる場所でもあるためやや危なっかしい。しかし他に置きようがなく、どうすべきか悩んだ挙げ句、とりあえずそのままそこに置くことにしてドアの開け閉めに気をつける、という対策をとることにした。すべての対策はつきつめれば「気をつける」に通ずる。

 溜めに溜めている「ことばの学校」の聴講期限が一月中であるという旨のメールが来て戦々恐々とした。すべてのものには期限がある。

小さくあることに強い意志を持っていそうなワセリン

 

1/12

 仕事を終えて帰宅すると同居人が料理を作ってくれていたので、ありがたくいただいた。今日食べる分だけでなく作り置きまで作ってくれており、僕が感謝の弁を述べながらそれを冷蔵庫にしまおうとすると「冷めてからね」と、なぜか冷めてからしまうことに情熱を注いでいた。たしかに冷めてからしまったほうがいいに決まっているのだが、それにしても「冷めてからね」の熱量が妙に高かった。ありがとうございます。「金曜ロードショー」で『ハリー・ポッターと賢者の石』をやっていて、やいのやいのいいながら見た。動物園でケージから出てきた蛇がハリーにお礼をいうシーンの字幕が「ありがとスー」じゃなかった。延々と送りつけられるホグワーツからの手紙に嫌気がさしてダーズリー家が避難する家があまりに孤島すぎる。……と序盤は楽しく見ていられたのだが、ハリーがホグワーツに行ってからは、スリザリンの扱いがひどすぎる(そりゃグレるよ)のと、マグルと魔法使い、あるいは魔法使いのなかでも純血か否かみたいな階級意識が露骨すぎて、いま思い出ゼロで見ていたとしたらいいとは思えないかもしれないと思った。マルフォイ一派ほど意気込むことなくふつうにスリザリンに組み分けされて、こつこつと学び、廊下を走ることもなく、学期最終日には寮の窓のアルミサッシにたまった埃まできれいに掃除しているような生徒のことを思った。

 

1/13

 雪が降って、同居人の鼻がこの前のバカリズム脚本のドラマにおける菊地凛子くらい赤くなっていた。『窓ぎわのトットちゃん』を観て外に出たら雪はやんでいて、同居人の鼻も元どおりになったが、今度は映画で流した涙のために目元がほんのり赤くなっていた。赤くなるのもさもありなんという傑作アニメーション映画だった。『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』や『この世界の片隅に』を彷彿とさせる豊かな表現と、エピソードごとに暗転するシーンの連なり方が、子ども視点での語りとして真に迫るものを成しており、それゆえにトットちゃんと周りの人びととの交流が本当に美しかったし、戦争に突入していく描写が怖ろしく感じられたのだった。

 ホルモン焼肉屋に行って七輪で暖まってから帰路につき、家に着いてからは『光る君へ』の第一話の再放送を録画していたものを見た。エアコンの暖房をつけているのに部屋がいつまでも寒くて、同居人は早くこたつを出せといっていたが、僕のなかではこたつというのは昼間に出すものなので(というか家具の入れ替えとか衣替えとか掃除とか、家のなかにまつわる事柄というのは昼間にやるものだと思っている)明日出すことにしようといったら同居人はベッドに潜ってしまった。

 雪が降る前、午前中には雲ひとつない空だった。しかし昼過ぎくらいから雲が出てきて、あっという間に空は覆われ、あたり一帯があまりに暗くなったものだからにやにやしてしまった。本降りになる時間帯にはカフェにいて、『ブラッド・メリディアン』を読み進め、そのあとは店内のフリーWi-Fiで「ことばの学校」の聴講を進めた。雨が降る前には歩きながら21 Savageの新しいアルバムを聴いていた。最初の何曲かのビートとラップの入り方がかっこよくて、それだけで心を掴まれてしまう。相変わらず低めの「トゥニワン……」もよい。

 

1/14

 朝起きてまずこたつを出した。僕たちの部屋はやや東南を向いているため、今日のようによく晴れた冬の朝にはまばゆいほどの光が射しこんで、こたつを出すという一仕事をやるにはうってつけなのだ。やがて起きてきた同居人とウィンナー、目玉焼き、パンを食べ、午前中は読書をしたりYouTubeをなんとなく見たりして過ごした。年末くらいから家でちょこちょこと読み進めていたジャン=フィリップ・トゥーサンの『カメラ』を読み終えた。主人公がのらりくらりと過ごす前半はいまいち乗り切れず、そのためさほど分量がある小説でもないのに年を越すような形でちんたらと読んでしまっていたが、後半に入り、主人公ののらりくらりの裏に人生にたいする諦念や怯えや怒りのようなものが存在しているということが徐々に、そして饒舌に語られるようになってくるところで、切実さのようなものも滲んできて、終盤はかなりいいと思いながら読めた。

電話ボックスの暗がりに坐り込み、コートで体をくるんで、じっとしたまま考えをめぐらせていた。そう、考えにふけったのである。目をつむり、身を落ち着けて、別の生のこと、この生と同じ形をし、同じ息を呼吸し、同じリズムを刻んで、あらゆる点でそっくりでありながら、しかも傷つく心配などなく、攻撃も苦痛もありえないような、遠い別の生のこと、外部の現実が衰亡し廃墟と化したただ中に花開き、そこではまったく別種の、内的な、意のままになる現実が、過ぎゆく毎瞬と同じようになめらかに動いていくような、超然たる生のことを想像したのだが、そのときぼくの頭には、言葉も、イメージもなく、お馴染みのつぶやきのほかには音も聞こえず、ただ、いろいろな形をしたものが、心の中で、まるで時間の運動そのもののような運動を、変わらぬ晴朗な、果てしない明確さで繰り広げていたのであり、ぼくはその捉えがたい輪郭をした、震えるものが、穏やかに、なめらかに続く、無益で壮大な流れの中を、音もなく流れ去るに任せた。そう、ぼくは考えにふけり、恩寵は汲めども尽きず、あらゆる恐怖は収まり、不安は消え去って、心の奥に熱く刻み込まれた防衛本能も、徐々に薄れ始めた。時間はむらなくなめらかに経過し、それぞれの思考のあいだには、感覚的な、液体状の網の目が張り巡らされて、まるで不可思議な、複雑な諸力の働きに従っているかのようで、その諸力のおかげで、ときおり思考が心の中の一点に静止して手で触れられるかのような気持ちになったり、あるいは思考と流れが一瞬ぶつかり合ったかと思うと、またすぐに元通りになって、穏やかさを取り戻した心の中で、ふたたび果てしなく流れ続けたりした。

ジャン=フィリップ・トゥーサン著/野崎歓訳『カメラ』)

 YouTubeで見た「META TAXI」という、夜の東京を走るタクシーに乗っているという設定のなかで二人が対談するチャンネルの動画がよかった。タクシーの客や運転手はアニメなのだが車窓に流れる景色にはおそらく実際に撮影したものを使っていて、夜のドライブ気分も味わいながら好きなひとたちの話を聞けるという、なかなかうまい企画だと思った。今日見たなかではダ・ヴィンチ・恐山となか憲人さんの「二〇二四年は移動・着手・損が流行る」という話が楽しかった。恐山のいっていた「この先十年くらいかかる何かに着手したい」という話もわかる。

 午後は「ことばの学校」を見進めて、夕方から『カラオケ行こ!』の映画を観に行った。聡実くん役の齋藤潤さんがよかった。映画自体はなんとなく期待しすぎた感じもあったが、よくまとまっていて悪くはなかった(偉そう!)。帰ってきてから『光る君へ』の第二回を見た。

 

1/15

 「フットボール」の名を冠しているにもかかわらずボールを蹴ると反則を取られ、それどころかボールに一切触れてはならないポジションすらある無茶苦茶なスポーツが人気を博す奇妙な国アメリカにおいて、ナショナル・フットボール・リーグはレギュラーシーズンの日程をすべて終え、プレーオフに突入していた。プレーオフ初週の今日は僕の応援するロサンジェルスラムズデトロイト・ライオンズによるワイルドカードの試合が行われた。ロサンジェルスラムズデトロイト・ライオンズは、三年ほど前にそれぞれのチームのクォーターバックをトレードしたのだが、ライオンズのマシュー・スタッフォード一人にたいしてラムズからはジャレッド・ゴフに加えて複数のドラフト権がトレードの条件として付され、ようするにそれくらいしないと選手としての価値が釣り合わないと判断されたというわけであるが、これはジャレッド・ゴフにしてみれば屈辱的ともいえる仕打ちだったはずで、彼にとって今日のプレーオフの試合は古巣のチームにたいしての仕返しという側面もあったかもしれない。それに加えて、デトロイト・ライオンズはもう三十二年もの間プレーオフにおける勝利から遠ざかっているらしく、レギュラーシーズンを十二勝五敗という好成績で終えた今年は長年の雪辱を果たす絶好の機会というわけだった。

 三年前にはリーグ最弱ともいわれていたデトロイト・ライオンズをついにプレーオフまで導いたジャレッド・ゴフを僕は応援していた。もちろん僕はいちおうファンをやっているロサンジェルスラムズのほうこそを応援すべきなのだが、同い年であり、ジェイミー・エックス・エックスにも顔が似ていてなんとなく線の細さがあるジャレッド・ゴフの肩を持ちたくなってしまうのだった。

 試合は二十四対二十三という接戦の末にデトロイト・ライオンズの勝利に終わった。ロサンジェルスラムズも健闘しつつ、ジャレッド・ゴフが勝利するという、僕にとってもバランスのいい結果だった。ラムズにかんしていえば、一年を通して活躍していたプカ・ナクアというルーキーのレシーバーが今日も非常な好成績を残していて、来年に向けた芽も感じられたのでよかったのではないでしょうか。

 ところで、昨年十月の日記を少し読んでいると「今年ベスト級の天気」という表現が出てきた。たしかに十月頃の過ごしやすさというのは格別のものだった。でもそれはあくまで僕にとってはという話に過ぎず、もしかしたら今日みたいな天気こそをフェイバリットに挙げるひとだっているかもしれない。風こそ冷たいが、空気は澄んでいるし、冬至から数週間が過ぎて徐々にではあるが日も長くなってきており、春の気配を無理やりにでも感じ取ろうとすれば感じられなくもない天気。しかし僕や同居人にとっては風が冷たいというところばかりが目についてしまい、正直にいって「ベスト級」からは遠いのだった。さいきんは暖房をつけても湯船に浸かっても真に暖まった気がせず(だからこそこたつを出したのだが)、同居人は湯船に入ることをついに「寒いのにわざわざ裸になってびしょびしょになること」と評してしまっていた。明日は同居人を満足させられるような最高の湯を張りたい。

 

1/16

 昼頃に会社の外に出たら風が冷たすぎてびびり散らかした。夜に風が冷たいよりも昼間に冷たいほうがびびる。なぜなら昼間というのは暖かくあるべきだから……

 

1/17

 さいきん連日のように慌てて聴講していた「ことばの学校」の聴講期限を一ヶ月延長しますというメールが来て、たいへんありがたかった。メールによると「延長の希望がありました」ということだそうで、僕のようにぎりぎりまで溜めてしまっていたひとなのか、真面目に聴講したうえでさらに繰り返し見たいという熱意あるひとなのかはわからないが、とにかく声を上げたひとがいるということであり、その行動力に敬意を示しつつ僕もありがたく恩恵を受けさせていただくことになる。声を上げることの大切さは他にも実感したばかりで、一ヶ月ほど前から僕たちの住んでいる部屋のインターホンが鳴らないという不具合が起きており、それなりに困りはしていたのだが大家さんに連絡するほどではなく、鳴らないなら鳴らないでまあどうにか暮らしていこうというモードになっていたのだが、ある朝マンションの入り口に貼り紙があり、曰く「一部の部屋でインターホンが故障しており、近日中に修理に伺います」ということだそうで、これはおそらくだが住人のどなたかが大家さんに連絡を入れないと発覚しない事態であるはずで、そうやって声を上げてくれたどなたかに僕もタダ乗りさせていただく形となっていたのだった。こんなふうに書くと僕がいつもタダ乗りばかりしているようだが、実際、生活の様々な局面において自発性が足りないことは否めない。生活におけるきちんとした手続きのようなものをなにもしないで散歩ばかりしている。

 Vegynと柴田聡子の新曲が非常によくて、来たるアルバムに大きな期待が寄せられている。Vegynの新曲"The Path Less Traveled"はグリッチっぽい音を効かせつつ昨年の"Halo Flip"にも似た開放的なビートのモードが続いていて泣きそうになってしまう。街角で踊るひとたちを映すミュージックビデオも相変わらずよく、遠い地で同じ曲を再生していること、イヤホンをしてVegynの新曲を聴くという内的な行為が地球の裏側の誰かとシンクロしているであろうことに勝手に奇跡みたいなものを見出だして、僕も自由に身体を動かしてみようとするが、それは珍妙な発作じみたものにしかならない。柴田聡子の新曲「素直」も実にいい。というか柴田聡子ほどのひとが広く国民的に聴かれていないのはおかしくて、三月のライブだって楽しみだが、それも同じで、柴田聡子ほどのひとのライブのチケットが取れてしまうことはおかしい。あとAdrianne LenkerやFaye WebsterやKim Gordonの新曲もよい。いい春を迎えられそうな気がする。あとはやはり21 Savageのアルバムにはついつい再生してしまうよさがあって、序盤の"redrum"にハマっている。サンプルブレイクダウンを曲自体のなかでやっているように始まるビートがかっこいい。"redrum"は"murder"の逆さ綴りだそうで、日本語でいえば「殺し」を「シーコロ」といっているようなもので正直かっこいいとオモシロのどちらに入るか微妙なところだと思ってしまうが、映画『シャイニング』で息子のダニーが連呼していたのが初出だということで、それならまあかっこいいのかもしれない。でも21 Savageには「シーコロ」を連呼する切実さのようなものがあるのかもしれなくて、それをインターホンが壊れていたってなにもしようとしない僕がかっこいいかオモシロか分類しようとしてしまっていることは申し訳ない。

 

1/18

 寒さのなかにもほんのり暖かさを感じる日だった。寒いは寒いのだが、どことなく過ごしやすさすら感じられるような。こんなふうに冬は寒さのなかで繊細にバリエーションを提示してくれる。いっぽう夏という季節はただただ暑い。暑さの種類というのはなくて、ただ暑い。だからどちらがいいということもないのだが……

 

1/19

 頭痛のために会社を休み、寝たりだらだらYouTubeを見たりやはり少しだけ仕事をしたりして過ごした。カミナリがスーパーファミコンドンキーコングをプレイする動画をまた見た。サントラを聞きたいからゲームをプレイするという、既存のゲーム実況の枠からずれた企画ではあるが、それがずらそうとしてずれているのではなく、純粋に音楽を楽しみたいという素直な欲求から来ているのが気持ちいい。……今日はそれくらいです。

 

1/20

 鳴らなくなっていたインターホンの交換に来ていただくのが業者さんだけかと思っていたら大家さんもいらっしゃって、「すみませんね、ご迷惑かけて」「いえいえ」「もう機器が廃番になっていましてね、メルカリで買ったんですよ」「メルカリってなんでもあるんですね」という会話をした。とにかくインターホンがまた鳴るようになった。

 同居人が早稲田で長めの用事があるというので僕も同じタイミングで家を出て、映画でも観ようかと調べたところ、新宿で午後『君たちはどう生きるか』をやるようだったのでチケットを予約し、しかし上映まで時間があり、新宿で過ごすのもなんとなくいやだったので、中央線沿いのどこかの本屋に行くことにした。中央線沿いには僕が住んでいる辺りにはないよさそうな本屋がいくつもあり、あこがれが止まない。本屋だけでない。商店街もある。人類はやがて中央線沿いに集約されていくのかというほどに友だちたちが中央線沿いに引っ越していく。でもそれほどの魅力があるのもわかる。僕がいま住んでいる街には商店街も独立系本屋もない。僕の好みからは遠い街だ。それなのに住んでいる。かといって、それなのに住んでいる、ということをオモシロにできるほどでもない。

 そんなわけで今日は三鷹のりんてん舎という古本屋に行って、小説を三冊買った。小説ばかり買ってしまう。いい本屋だった。前から気になっていたサルバドール・プラセンシア『紙の民』などを買った。道中でスチャダラパーの『5th WHEEL 2 the COACH』を久しぶりに聴いてやはりいいと思った。「サマージャム'95」の「食ってないねーアイス 行ってないねープール 行ったねープール」のところが「(さいきん)食ってないねーアイス 行ってないねープール (そういえば前に)行ったねープール」の意であると即座に伝わるのがすごいし、これで伝わるだろうと思ったBOSEやANIの判断もすごく、しかしそれは受け手のことを信頼しているということでもあり、勝手に勇気づけられた。ということが以前にもあったのを思い出した。

 それから新宿に戻って『君たちはどう生きるか』を観た。夏に観て以来いつか観たいと思っていた二回目をついに観ることができた。一回目にはあまり感じなかったが、お父さんの声はたしかにキムタクだった。映画館を出てからは早稲田で用事が終わった同居人と合流し、つけ麺を食べて帰宅した。今日は深夜から渋谷で『ストップ・メイキング・センス』の上映プラストークプラスDJのイベントに行くので、いったん寝ようとしている。

 

1/21

 公開後にいろんなひとがいろんなことを書いているのを斜め読みしたりこの前の「プロフェッショナル」を見たりしてから昨日もう一度観た『君たちはどう生きるか』は、むしろ素直に、描かれているあれこれの意味についてあれこれ考えず楽しむことができて、やはりいい映画だと思った。もちろん内容について語るのも楽しいが、あえてそうせず、映画がスクリーンに映され、それを僕たちが観ているその場一回一回限りの物語として楽しむというやり方も、この映画にはふさわしいのかもしれない。

 昨日の夜は渋谷のSpotify O-EASTの『ストップ・メイキング・センス』の上映プラストークプラスDJのイベントに行った。ライブハウスの爆音で、みんなで揺れ、踊り、歓声をあげながら観る『ストップ・メイキング・センス』はこれ以上ないほどに最高で、場内に響く拍手が映画内の一九八三年のアメリカの観客のものなのか二〇二四年の僕たちのものなのか判別しがたいほどライブとしての一体感を感じた。『アメリカン・ユートピア』で相変わらずの運動神経と体感のよさを見せていたデヴィッド・バーンは一九八三年時点でももちろん素晴らしいパフォーマンスを披露しているのだが、彼だけでなくステージ上のメンバー全員が輝いていて、トーキング・ヘッズはここでバンドとしての頂点を迎えていたのだろうと思ったし、逆にいうともう「トーキング・ヘッズ」というバンドとしてできることはこの時点で極めてしまって、だからこれが最後のツアーになったのかもしれないとも思った。

 そういうわけで昨日の上映はまるでライブであるかのような特殊な体験になったわけだが、そのことを差し置いてもやはり『ストップ・メイキング・センス』というのはひとつの映画として素晴らしかった。ラジカセを持ってステージに現れるデヴィッド・バーンを足元から映す最初のカットから、このコンサートの記録を「映画」にするという明確な意志が感じられ、そのあとも順々にメンバーが増えていったり、バックスクリーンにメンバーの影が大きく投影される演出によって、映像そのもののかっこよさが保たれ続ける。バンドメンバーたちも(少なくともビッグスーツを着てくねくね踊るデヴィッド・バーンは)いま自分たちがやっているライブが未来永劫最高のコンサートフィルムとして残されることを承知し、撮影スタッフと一体となって映画としてのかっこよさに加担しているように見える。熱狂のなかライブが終わって一度幕が閉じ、すべてのセットが撤収したあともう一度上がるカーテンに追従する形で流れるエンドロールも美しい。

 朝になってから帰宅し、昼前まで寝て、午後も家でだらだら過ごした。夕方に同居人が高校の友だちたちと集まるために出かけたので、僕も同じタイミングで家を出て、映画でも観ようかと調べるとイメージフォーラムでカール・テオドア・ドライヤー特集がまだやっていて、観たいと思って劇場の前までは行ったのだが、なんとなく気分が乗らずやめた。なんとなく『枯れ葉』みたいな映画が観たい気分だった。『枯れ葉』の二回目もありかと思ったがちょうどいい上映回がなく、今日はそのままトーキング・ヘッズを聴きながら歩いた。渋谷周辺の混んでいなさそうな道をぐるりと回ってから電車で家の最寄り駅に戻ってうどんを食べ、サンマルクに入って読書し、帰宅して同居人の帰りを待った。

スカート澤部さん、KID FRESINO

 

1/22

 なんとなく頭が重くて仕事を早めに切り上げて帰り、同居人もほぼ同じタイミングで会社を出たというので一緒に夕飯でもと考えていたところ、同居人の友だちが近くまで来ているということらしく、三人で食べることとなり、月曜日から焼き肉に行った。幼少期の記憶についての話になり、同居人とその友だちが非常に多くのことを記憶しているのにたいして僕はあまり思い出せることがなく、一番古い記憶として小三くらいの授業参観のときのこと──その日の授業参観が体育のあとだったのだが、当時授業中によく手を挙げる少年だった僕がいつもどおりよく手を挙げていたところ、授業の半ばほどまで過ぎた段階で、自分が着替え終わっておらず肌着のまま授業を受けていたことに気がつき、とても恥ずかしくなったという記憶──を挙げたのだが、そのあと話しているなかでもっと古い記憶──幼稚園の年長のときに階段に額をぶつけて縫うほどの出血をしたのだが、そのあと小学校低学年の頃に『ハリー・ポッターと賢者の石』が発売され、ハリーと自分の額の傷の位置が似ていたために重ね合わせたという記憶──が蘇ってき、記憶というのは会話のなかで蘇ってくるものだということを実感した。しかしそうやって自分の記憶として話している話が、実際に生の記憶として頭のなかに残っていたものなのか、それとも後々の自分によって編集が加えられたエピソードとしてのものなのか、正確には判別しがたい。もっといえば記憶というものは思い出されるたびになんらかの編集が加えられることから逃れられないものとして考えるべきかもしれない。だからこそその日一日のことをこうやって日記として残したほうが記憶の鮮度は保たれるが、これすらも編集が加えられているということを忘れてはならない。

 同居人の友だちはドラマの『silent』にいたく感激したらしく、一話で離脱してしまった僕と同居人をもそこまでいうなら見ようかという気にさせるほどの熱量で語ってくれた。逆に僕たちからは坂元裕二のドラマ、特に『最高の離婚』をおすすめしたが、その裏には『silent』よりぜったい『最高の離婚』のほうがいいだろうという先入観があったことは否めず、反省すべきかもしれない。

 

1/23

 頭痛のため会社を休む。なにか慢性的なもののような気もしてきて、まずは再び区民ジムに通うことを決意する。

 寝て、起きて、うどんを茹でて食べた。いつか買って積んだまま(いつものことではあるが)になっていた、しゃんおずん『飛行文学』を読んだ。これはトーチwebで連載されていたという二ページ~八ページほどの超短編漫画を一冊にまとめたもので、僕はトーチコミックスに好きなものが多いのでこれも買い、最初の数編を読んであまりの散文性の高さにびびっていったん積んでおいたのだが、今日みたいな日に読んでみるとかなりよかった。二人の女の子が主人公のようで、彼女らの通学路や放課後の風景を中心に、ときに時間も空間も画風も飛び越えてゆき、語り手さえも軽やかに変化し、それぞれの話がゆるやかな連なりを持っている気持ちのいいテンションのなかで進んでいく。日常をおもしろがる眼差しが全体に貫かれていて、ひとつひとつにはオチも展開もないような話を、日記のようなものだと思って読むととてもいい。前に川上弘美か誰かの短編集を読んだときにも思ったけれど、奇想っぽい短編というのは、日記の裏返しのような気がしてくる。日常から高く浮いていると同時に、しっかり地に足は着いている。というか、奇想そのものが日常全体を高く浮かび上がらせるのかもしれない。

 同居人がおかずを買ってきてくれたので、炊いておいた白米と一緒に食べ、『光る君へ』の第三回を見た。大河ドラマってリアタイで見ないともう見なくなっちゃうよねというあるあるをいまのところ乗り越えて見ることができている。

 

1/24

 今日も仕事中に頭が痛くなってきて、仕事を終えたらすぐに会社を出た。帰宅してしばし休んだあと、友だちとジムに行く約束があったため同居人も一緒に三人で行った。ZAZEN BOYSの新しいアルバムを聴きながらマシンでトレーニングをした。この前『ストップ・メイキング・センス』を観たばかりだったのでZAZEN BOYSTalking Headsの延長線上にいるように思え、さらに途中でThe Smithsみたいな曲もあって楽しかったが、調子に乗ってトレーニングしているうちになんだか疲れてきて、ベンチに座って休んでいるうちにめまいがしてきてやばかった。友だちが隣に座って近況報告をしてくれていたが「へえ、よかったね」くらいのそっけない返事しかできなかった。エアロバイクをやり終えた同居人が近づいてきて、僕の唇が白くなっていることを指摘し、そのまましばらく三人で座って休んだ。やがてめまいは治まり、友だちが鉄分のウィダーインゼリーみたいなのを買ってくれてそれを飲みながら外に出た。友だちの近況報告にたいして先ほどはそっけない反応をしてしまったのでやり直してもらい、「おお、よかったね!」くらいの反応はできた。帰り道に味覇が落ちていて謎だった。冷凍都市の味覇

 

1/25

 昨日の僕のめまいやばかったよね、という話を同居人にして、ああ、こうやって昔の話を武勇伝みたいに語るおじさんが誕生していくんだね、といわれた。しかしやばかったのは事実で、視界に砂嵐がかかったようにぼやけ、指先まで痺れてくる始末だったのだ。おそらく脳に酸素が不足していたのだと思うが、もしこのまま気を失いでもしたらどないしましょと昨日はほんとうに思って、でもしばらく座って息を吸ったり吐いたりしていたら徐々に落ち着いてきたのでよかった。……というふうに昨日の今日だからわりと誇張せずに書けているが、これがたとえば一年後、五年後、十年後に振り返ってしゃべるという段になったら、たしかに、たいそうな武勇伝であるかのように語ってしまうのかもしれない。「いやー、あんときほんまにやばくて、まずジムに行くの自体久しぶりやってん、ほんでマシンな、がーやってん、で、久しぶりやから疲れるやん、腕も足もパンパンやねん、血管もぶわー浮き出てな、息も切れてんねん、やばー思て、ベンチあってん、とりあえず座るやん、ほんならそのうち目の前がくらくらしてきてな、周りの声も聞こえんくなって、手もびりびり痺れんねん、あかんー思てるうちに、なんかだんだん、遠くに象みたいなん見えんねん、象や、思て、そしたら象の下にでっかい亀おんねん、これあれやん、これ昔のひとが思てた地球やん、思て、でもそれだけやなくて、象の上にひと乗ってんねんな、誰や思て、ちゃんと見ようとしてもめまいやからはっきり見えへんねん、わからんわー思て、もっと近づいてくれや思て、見てたら、象近づいてくるねん、そしたらひと見えてな、誰やったと思う、な、誰やったと思う、スネイプ先生やねん、スネイプ先生が、我輩我輩いうて近づいてくんねん、ほんなら僕も、我輩やん、いうて、それでめまいがおさまってん」

 

1/26

 仕事を終える頃にちょうど大学のときのサークルの友だちから連絡が来て、近くまで来ているので飯くわん?といわれたので誘いに乗って集合し、ぷらぷら歩いてから長崎ちゃんぽんメインの居酒屋に入った。注文したしゅうまいがでかくてウケた。近況報告、文フリ、写真と文章の自意識、商店街のある町、古本屋、団地、アメフト、来日アーティストのライブ、渋谷の再開発などについて話し、その流れで渋谷まで歩いた。東京の道は上り下りが激しく、うねりもあるため、歩いているうちにいつの間に方角が変わっているという話もしながら、桜丘町のほうから渋谷に到着した(個人的にはこのルートは渋谷に〝裏から入る〟感覚があって楽しいが、その〝裏〟である桜丘町の辺りがまさしく再開発エリアになっているので悲しい)。渋谷に着くまではさほど寒さも気にならなかったのに、高いビルがそびえ立っているエリアに突入すると途端にビル風で寒く、やっぱり再開発なんてするもんじゃないねと思った。しばらく渋谷駅のなかをうろうろしていると、ちょうど渋谷で別の友だちと飲んでいたという同居人が来たので、そのまま移動して三人でバーっぽいところに入った。そこは僕たちの最寄り駅の近くのバーで、サークルの友だちはなぜか来たことがあるらしかったが、僕と同居人はそんなところにそんないい感じのバーがあったなんて知らず、この町に馴染めていないという事実を再確認させられることとなった。バーではクラシックギターの生演奏もしていて、それを聞きながらウィンドウズやマックのスクリーンセーバーの話をした。

 

1/27

 今日は仕事だったので、朝早く起きて洗濯してから行った。昨日から繰り返し聴いているザ・スマイルのアルバムを、洗濯物を干しながらまた聴いていい気分になった。とてつもなく広くて心地のいい密室のような音が鳴り続ける傑作だ。バンドの近影を見たらジョニー・グリーンウッドは相変わらず前髪が重くてよかった。前髪が重いことをもうおそらく三十年近くも貫き続けているのだと思うとすごい。眠いので寝る。

 

1/28

 昼頃まで家でゆっくり過ごした。昨日の夜にスマホで見た天気予報だと曇りのち晴れだったので、朝に回るように洗濯機を予約しておいたのに、いざ今朝洗濯物をベランダに干してみてからもなかなか晴れ間が見えず、もう一度天気予報を確認してみるとしれっと曇りに変更されていた。変更があるならいってくれ。午前中は『ブラッド・メリディアン』を読み進めた。今月の上旬から読み始めているのにまだ半分くらいしか読めていない。寺尾聰の『Reflections』のレコードを流した。寺尾聰の低い声は演奏と完全に一体化していて耳心地がとてもいい。地震があって、本棚を押さえた。こんなに揺れて震度3とか4なのだっけかとビビり、アマゾンで本棚の上に設置するためのつっかえ棒を即購入。

 午後は『哀れなるものたち』を観に行った。設定も映像も奇想天外ではあるが、話自体はすんなり飲み込めるというバランスのよさがあっていい映画だった。序盤から繰り返される魚眼レンズとズームイン、ズームアウトは、ともすれば散漫な印象にもなりかねないはずなのだが、この奇妙な解放の物語においては馴染んだものとして機能していて、コミカルさを誘っていたように思った。大きなシステムや環境や構造そのものを変えることは叶わないかもしれないが、自分自身と自分の周りだけは変えてゆけるということを身を持って証明していくベラの物語の、ラストシーンについてはまたあらためて考えてみなければならない。あとずっと楽しめはしたが少し長いとも感じたことも忘れずに書いておこう。

 最寄り駅の近くにさいきんできたっぽいラーメン屋に入って食べたらあまりおいしくなくて、同居人が、日曜日の夜ごはんなのに、としょぼくれていたので、そのあと何度か行ったことのある焼き鳥屋にも行って少しだけ食べて帰宅した。『光る君へ』を見る前に風呂に入ってしまおうかと湯船にお湯を張ろうとしたらいつまで経ってもお湯が出ず、そういえば以前にも地震があった際に給湯器が停止したというのを思い出して、玄関横のガスメーターの復帰ボタンを押しに一瞬外に出た。もう入浴する気まんまんで薄着だったので寒かった。

 

1/29

 あまり調子がよくなかったので少し遅れて会社に行った。地道に読み進めている『ブラッド・メリディアン』はようやく半分を過ぎた。灼熱の太陽に照らされる乾ききった大地を進み続けるインディアン討伐隊(作中表現に則る)の姿が、本を開くたびに眼前に現れる。読点のない長い文章(原文でもカンマやピリオドが用いられず"and"でひたすら長く一文が続いているという)は、けっして容易く読ませてなるものかとばかりに僕の視線をページの上で行きつ戻りつさせ、その文章を読むという行為自体がまるで灼熱地獄を歩かされているかのような感覚に陥る。感情表現を排した文章がまるで神話のようであるという印象は冒頭から変わらず、美しい風景描写がときおり胸を打ち、不意に訪れる暴虐行為に息が詰まる。

 ネイティブ・アメリカンを討伐するという目的でメキシコの州政府に雇われていた討伐隊が、戦闘的なアパッチ族から平和なティグア族の村まで皆殺しにし、果てにはメキシコ人たちをも見境なく射殺していき、今度は自分たちが懸賞金をかけられることになる。本の真ん中あたりまで来て際限のない暴力へと突入している感じがあり、描かれていることがどんなに残虐で、非人道的で、最悪であろうと、わくわくさせられてしまっている。なにより博覧強記を誇り、誰よりも躊躇がなく、体毛が一本もない青白い巨体のホールデン判事という人物にカリスマ的魅力があり、このひとの行く末を見届けたいという気持ちがある。

 さいきんは同居人が寒さのせいかそれとも仕事のストレスのせいか頭痛をうったえることが多く、頭痛にいいっぽいということで夜にコーヒーを淹れて飲んだ。コーヒーに合うだろうということでセブンイレブンで甘いお菓子も買ってしまった。加えてアイスも買ってしまった。アイスなんて頭痛にはむしろ悪いだろうに。コーヒーを飲み、お菓子を食べながらネットフリックスで『女王陛下のお気に入り』を観た。おもしろかった。

 

1/30

 朝起きると頭痛があるということが頻出していて、慢性的ななにかかとも思って病院にも行くことにしたのだが、それまでにもとりあえずできる対策からしておこうと思い、ひとまず今日は「いつもより早く起きる」というのをやってみた。それが対策になるのかどうかは微妙なところだけど、早く寝るだとか寝る前に水を飲むだとかをやっても朝目が覚めると頭が重いということがままあり、けっきょく事前の対策なんてしようがなく、その日頭痛があるかどうかは朝起きてみるまでわからないという出たとこ勝負の状態になってしまっているので、せめて事後の対策をしようということで「いつもより早く起きる」というのが選ばれたわけである。早く起きることで、万が一頭痛があったとしても会社に行くまでに治まるだろう、治まればいいな、治まらなかったらどんまいだね、というわけだ。

 幸い僕たちの家は南東の方角に窓があるため、晴れた朝はよく陽が射し込んでくる。夜寝る前にリビングの側のカーテンを開けておけば、朝起きる頃にはまぶしい光がリビング中を照らして、ほどよく温まり、目もしゃきっと覚める。ここ数日のように空気もよく澄んでいれば、窓を少し開けて深呼吸をしてみてもいいかもしれない。

 そんなわけで今日は少し早く起きてみて、幸い頭痛もなく、洗濯までしながら爽やかに過ごすことができた。しかし早く起きたことで会社に行くまでに余裕ができすぎてしまい、家を出る寸前に少し眠くなってしまった。むずいっすね。

 

1/31

 仕事終わりに同居人と友だちと焼き鳥を食べた。男子校ってどんなところだったの?という話になり、男子校に通っていた僕と友だちがそれぞれの学校の話をした。まあいいところとよくないところがあるよねという話をしながら、僕も友だちも割り箸の箸袋を小指にはめて遊んでいたので、男子校に通っていた者のとりあえずの特徴として「割り箸の箸袋で遊ぶ」という点がピックアップされた。

2023年よかったもの

 たぶん二月のどこかという中途半端な時期から書くようになった日記というものはけっきょくそのまま一日も欠かすことなく続いていて、書くことがない日やとにかく眠い日には「寝ます。」とだけ書いてよしとしているという一面はあるものの、しかしそれだけで僕がこんなにも習慣化できていることのえらさが損なわれるということはない。日記を書くこと自体はべつに少しもえらいことではないが、何かを習慣化するということには一抹のえらさがあると思うのです。

 トイレに行ったら手を洗わないと気持ち悪いみたいな話と同じで、いまとなっては日記を書かないで寝ることができない身体になってしまっている。こういうのは一日でも途切れると途端に駄目になってしまうので、「寝ます。」だけでもいいから書くようにしている。とにかく毎日書く。もう三百日近く書いてきて、そろそろ日記を書くということについての一家言でも出てくるかと思ってこうやって文章を書き始めてみたけれど、特に何も出てこない。僕はまだ日記というものについて語る言葉を持っていないようだ。三百日程度ではまだ何にもならないということかもしれない。とにかくまだ書き続けなければならない。

特に何というわけでもない、まさに僕の日記というものを表しているかのような写真

 ここからは、2023年よかったものを振り返っていくコーナーです。

 

■よかったアルバム

 

  • Sam Wilkes "DRIVING"(聴くたびに風景が開けるような傑作!)
  • Lil Yachty "Let's Start Here"(「ちょっとやってみました」の範疇を遥かに超える傑作。フニャフニャ声もクセになる。今年のLil Yachtyはアルバム以外のシングルも素晴らしくて、ワクワクしています)
  • Sufjan Stevens "Javelin"(号泣)
  • 君島大空 "no public sounds" / "映帶する煙"(2枚ともよくてすごい)
  • Black Country, New Road "Live at Bush Hall"(今年はいくつかのライブに行きましたが、BCNRが最もよかった。音楽が生まれる瞬間に立ち会っているようなあの感覚が、このライブアルバムにも宿っている気がします)

    youtu.be

  • cero "e o"(リリース当初からいいと思う気持ちが続いているところに、秋~冬にかけてさらにもう一層のよさが乗っかってくる、2種類の塩を使ったポテチみたいな最高のアルバム)
  • Metro Boomin "Spider-Man: Across the Spider-Verse (Soundtrack)"
  • Tirzah "trip9love...???"(強風の夜に聴いた思い出あり)
  • Yo La Tengo "This Stupid World"(ライブ補正あり)
  • Lil Uzi Vert "Pink Tape"(リルウジさんの声が好きなので、いろんな声を出してくれてうれしい)
  • Headache "The Head Hurts but the Heart Knows the Truth"
  • NewJeans "NewJeans 2nd EP 'Get Up'"
  • Sampha "Lahai"
  • Oneohtrix Point Never "Again"
  • King Krule "Space Heavy"
  • ANOHNI "My Back Was a Bridge for You to Cross"
  • PinkPantheress "Heaven knows"
  • Mitski "The Land Is Inhospitable and So Are We"
  • Wilco "Cousin"
  • Travis Scott "UTOPIA"
  • James Blake "Playing Robots Into Heaven"
  • Noname "Sundial"
  • Summer Eye "大吉"
  • 北里彰久 "砂の時間 水の街"
  • Hotline TNT "Cartwheel"
  • ゆるふわギャング "Journey"
  • Itallo "Tarde no Walkiria"
  • スピッツ "ひみつスタジオ"
  • never young beach "ありがとう" 
  • deathcrach "Less" 
  • Olivia Rodrigo "GUTS"
  • Toro y Moi "Sandhills - EP"
  • Animal Collective "Isn't It Now?"
  • Buck Meek "Haunted Mountain"
  • Disclosure "Alchemy"
  • Joanna Sternberg "I've Got Me"
  • boygenius "the record"
  • Drake "For All The Dogs"(SZAさん頼みみたいなところがあるが……)
  • George Clanton "Ooh Rap I Ya"
  • くるり "感覚は道標"
  • Lana Del Rey "Did you know that there's a tunnel under Ocean Blvd"
  • John Carroll Kirby "Blowout"
  • Daniel Caesar "NEVER ENOUGH"
  • Wednesday "Rat Saw God"(ギタリストのMJ Lendermanさんのソロ作にハマってから聴き直すとかなりよかった)
  • Overmono "Good Lies"
  • Gorillaz "Cracker Island"
  • Blur "The Ballad Of Darren"
  • Eddie Chacon "Sundown"
  • Nia Archives "Sunrise Bang Ur Head Against Tha Wall"
  • Sam Gendel "AUDIOBOOK"
  • Shame "Food for Worms"
  • 曽我部恵一 "ハザードオブラブ"
  • ML Buch "Suntub"
  • Ogawa & Tokoro "Mutual Mutation"

 

■よかった映画

 

  • 『メーヌ・オセアン』(旧作)(最高だった。日記より感想を抜粋:「ほんとに最高の映画で、終始にやにやし、ときに泣きそうになりながら観た。初対面同士のてきとうな口約束が果たされ、場当たり的に展開していく旅。物語の焦点はずれ続け、ひとがだんだん増え、サンバの即興合奏が延々と繰り広げられる最高の夜を境にだんだん減り、最後にはひとりになる。大橋裕之の漫画のような空気が漂っていると思った。途中でとつぜん現れて会話の中心に割って入ってくる怪しいアメリカの興行主とか、いかにも大橋作品のような人物造形だ。」(8/14))
  • 『トルテュ島の遭難者たち』(旧作)(「愛すべき最高のグダグダ映画でほんとによかった。あ、ヴァカンスってこれでいいんだ、映画ってこれでいいんだ、という瞬間が常に訪れ続け、かと思えば急に現れる美しい瞬間に息をのまされる。グダグダといっても、いろんな計画や思惑が重なった結果としてすれ違いが発生するパターンと、なにも考えず行き当たりばったり的に行動して当然そのままなにもうまくいかずに終わるというパターンがあり、前者をブラックコメディ的に描くような作品はよくあるような気がするが、『トルテュ島の遭難者たち』は後者のようなノープラン系グダグダを描いたうえできちんとおもしろくしているのがすごいと思った。」(8/6)……自分の8月の日記を見ると『メーヌ・オセアン』と『トルテュ島の遭難者たち』の話が何度も出てきてしつこい)
  • 『aftersun/アフターサン』(遠い昔の記憶と想像についての映画だったため、観てから日が経ち、この映画を観たこと自体が僕の記憶になっていくことで、さらによさが増してくるという魔性の性質がある)
  • 『フェイブルマンズ』(これも記憶についての映画ともいえる)
  • 『王国(あるいはその家について)』(旧作)(映画が映画に、物語が物語になる前の瞬間を映し出した映画だともいえて、だからこそその断片が徐々に物語を構成していくことで、観ている僕たちもそれを体験しているような気にさせられてくるすさまじい映画)
  • 『首』(みんなで『首』のものまね大会やりましょう)
  • 『TAR/ター』
  • 『枯れ葉』
  • 『ファースト・カウ』(『枯れ葉』も『ファースト・カウ』もよすぎる!)
  • 君たちはどう生きるか』(まじで2回目観に行きたいと思っていたが時は流れ……)
  • 『EO』
  • 『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』
  • スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』
  • 『ノースマン 導かれし復讐者』
  • ジョン・ウィック:コンセクエンス』(階段落ちすぎ!)
  • 『アル中女の肖像』(身勝手でまったく倫理的でもないが美しくあり続ける姿のかっこよさ)
  • 『ベネデッタ』
  • エドワード・ヤンの恋愛時代』(旧作)
  • 『パリ13区』
  • 『Rodeo ロデオ』
  • 『ザ・キラー』(冒頭、ためてためてからのオチが最高)
  • 『バーナデット ママは行方不明』
  • ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』
  • 『雨にぬれた舗道』(旧作)

 

■よかった小説

 

 バルガス・リョサ『緑の家』、町田康『告白』、フォークナー『響きと怒り』、乗代雄介『それは誠』、リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』、保坂和志『季節の記憶』、井戸川射子『ここはとても速い川』、レアード・ハント『優しい鬼』、アンダソン『ワインズバーグ・オハイオ』、リディア・デイヴィス『話の終わり』、ジョン・ケネディ・トゥール『愚か者同盟』がよかったです。小説についてはなにもいえないです。昨年より読んでいない気がするし、昨年は一昨年より読んでいなかった気がします。年々読む量が減っていっている。でも小説というものは好きで、心を動かされる度合いでいえば音楽や映画よりも小説かもしれないとすら思っています。それなのに読んでいないとは、これいかに。それと今年は映画美学校の「ことばの学校」の聴講生にもなったのですが、これが実はまったく受講できておらず、溜まりに溜まってしまっています。なんでも後回しにする僕の性分が、こと小説という分野において遺憾なく発揮されてしまっているようです。積ん読ももちろん解消されていません。家のなかの本をすべてリストアップして読んだ/読んでいないで仕分けをし、それを月一なり四半期に一回なり更新していくということをやったほうがいいとは思っているのですが、思っているだけです。思っていることがすべて実現できるのならそもそも小説なんてものも必要がないのかもしれません。──なんてふうにそれっぽいことを書いてみたところで積ん読は減らない。

 

■その他よかったもの/こと

 

ライブ:Phoebe BridgersとArctic MonkeysとBlack Country, New RoadとTHE 1975とあらばきロックフェスティバルとSONICMANIAYo La TengoサンボマスターとAlex Gのライブに行きました。なかでもBlack Country, New Roadのライブには〝音楽が生まれる瞬間〟みたいなものが明確に何度も存在した感じがして、ずっとへらへら笑いながら泣いていました。

文フリ:また文フリに出店できたのはよかったです。(でも準備の仕方は明らかによくなくて、次に出すときにはもっと早めに入稿する。もし一週間前までに手元に製本されたものが用意できていなければ出ないくらいの気持ちでやろうと思います。それはさておき、)今回も初めてのひとに手に取っていただいたこと、そしてなにより、前回、前々回も買って今回も探してきてくださったひとがいたことにグッときました。読むひとが少なかろうと勝手に書いていたつもりでしたが、やはり「読んでいます」といってくれるひとがいるというのは実はかなりうれしい。その心の動きが僕のなかにあったということにもあらためて気づかされて、「来年も出るのでぜひ」といってしまいました。

note.com

 

遠出:旅行というほどのことはできていないものの、ドライブで遠出するのは楽しかったです。台風が近づく夜に静岡のほうに行った日が特によかったです。海沿いの駿河健康ランドという最高の宿泊施設に泊まって、がらがらのサウナに入り、屋外の椅子で台風の気配を感じながらぼんやり座っていた時間。「海風は台風の気配を多分に含んでいて、目を閉じてそれを全身に受けていると、荒廃した世界に唯一残された大昔の施設で、人類最後のととのいを経験しているような気がしてきた。ここに住むひとたちは外の世界との交流を断って来る日も来る日もととのい続けていたが、あるとき外から来た僕たちによって、世界がまもなく滅亡しようとしていることを知らされてしまうのだ。」(日記より抜粋)

静岡のバベルの塔

二〇二三年十二月の日記

12/1

 一年のうちに外の気温がどんなに上下しようとオフィス内の室温にはさほど変化がないであろうという発想のもと、寒くなってきたからといって何枚も重ね着をするのではなく、長袖シャツ一枚の上に分厚いアウターを着るという方式で出社している。会社に着いてアウターを脱いでしまえばもう他の季節とあまり違いはなく、長袖シャツを着ているのだって、寒いからそうしているというよりは季節感を重んじているというだけで、ほんとは半袖ポロシャツだっていい。しかしこの方式だと少しだけ困るのが、たとえば昼休みにちょっとだけ外に出るときなんかに長袖シャツだけだと寒いということで、かといってそこでアウターを着るのも大げさなのでこの寒さは基本的には我慢をするしかない。我慢といっても、中庭っぽいところをちょいと横切るだけみたいなものなのでへっちゃらなはずなのだが、そんなわずかな間でも身体は冷える。学生の頃と比べて身体の冷えに敏感になった気がする。昔だったら寒くてもあとで暖まればすぐに回復するという感覚があったし、実際アメフトをやっていたときなんて信じられないほど薄着で何時間も外にいたはずなのに、いまでは仕事の昼休みにほんの数十秒程度外に出るだけで身体が冷え、しかもその冷えは屋内に戻ってからもしつこく残っている気がする。これが〝老い〟だといわれればそうなのかもしれないが、どちらかというといままでが〝若さ〟だっただけで、感覚が平常化したにすぎないのだと思う。そう思います。

 今日は会社を出てから同居人とリドスコの『ナポレオン』を観に行った。なんだか中途半端だという印象を受けてしまった……。十一月の末の日記で書いた、タイトかそうでないかという話でいうと、タイトではなかった。

 

12/2

 いい天気! さほど寒くもない! となれば散歩に出ざるを得ない。五反田のTSUTAYAに行って『アウトレイジ』を返却し『アウトレイジ ビヨンド』を借りた。TSUTAYAでは「今年よかったゲームについてインタビューしている」というテレビ局のスタッフのひとに話しかけられ、僕も同居人もゼルダくらいしか思い浮かばなかったのでそう答えたところ、どんなところがよかったですかと深掘りされたため、めちゃくちゃ薄い返答をした。そのあとは同居人がYouTubeさらば青春の光が行っているのを見たという居酒屋兼定食屋のようなところに行き、僕は麻婆豆腐定食、同居人はポテサラやメンチカツを頼んで食べた。おいしかった。

 同居人がジムに行ってみたいといいだし、僕も久しぶりに行って少し運動したほうがいいとちょうど一昨日くらいから思っていたため、五反田からの帰り道で同居人の屋内用のスニーカーやトレーニング着など一式を買い揃え、いったん帰宅してちょいとだけ昼寝してから区民ジムに行った。

 心地よい疲労感を伴いながらジムを出ると夕焼け空が広がっていて、鍋の具材でも買って帰ろうかという話をしてスーパーに寄り、ビニール袋から長ネギとニラを覗かせて帰った。帰ってから鍋を作るつもりだったが、なぜかマックを食べたくなってしまいデリバリーで注文してしまった。阿呆である。……と書いたのはここ数日町田康の『告白』を読み進めており、そのなかによく「あかんではないか」とか「阿呆である」とか出てくるからで、その語りのテンポのよさゆえに僕も思わず使いたくなってしまったのだ。『告白』はえらく分厚い文庫本だがとにかく語りのドライブ感が素晴らしいので、さも薄い短編集であるかのようなノリでちょっとした隙間時間にも読めてしまう。いつ開いても饒舌な語りがとたんに再開される感覚があり、ハリー・ポッターの映画で出てきた、押さえつけていないと噛みついてくる本みたいだなとも思いながら読み進めている。

 

12/3

 今週末には「加湿器をちゃんと洗って使えるようにする」のと「こたつ布団を干してこたつを使えるようにする」という二つのミッションを抱えていたが、けっきょくどちらともやらずじまいになってしまった! 特に今日の午前中なんて、同居人がネイルなどをやりに行っている間にいくらでもやれたはずなのだが、ちんたら過ごしてしまった。まあ、いうは易し行うは難しともいいますし……

 そんなふうにだらだら過ごしたくせに昼からホルモン屋に入ってタンや塩ホルモンをおいしくいただいてしまい、そのあと新しいスニーカーも買ってしまい、新宿のバルト9で『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観てしまった。『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』はなかなかおどろおどろしい話で、アニメ表現のすごさというよりは単純な話のすごさでヒットしているようだった。きちんと劇場版アニメっぽい盛り上がりや見せ場を作りつつ、戦中戦後日本の暗部にも触れていてなかなかの挑戦だと思ったし、妖怪たちは人間のことを忘れないが人間は妖怪たちのことを忘れてしまうという描写から、そんな妖怪たちのことを描き続けた水木しげるという作家のことにも思いを馳せることとなった。

 その後下北沢に移動して、同居人の会社の同僚の友だち、ようするに同居人の友だちでもあるのだが、そのひとが主催しているという映画のトークイベントに行った。一年を振り返れてよかった。一年を振り返りまくる時期だ。

 

12/4

 同居人が今月は運動をがんばりたいというので、仕事のあとジムに行った。上半身にはまだ一昨日の筋肉痛が残っていたため、今日は足と腹筋を少しやってからランニングマシンに乗ってみた。ランニングマシンに乗るのは初めてだった。ジムの外には広い世界があっていくらでも歩けるというのにどうしてマシンなんかに乗らなきゃいけないんだと思ってこれまで乗ってこなかったが、いざ乗ってみたところ、きちんと前を向いて歩き続けないと落ちそうになり、その強制性みたいなものがミソなのだろう。操作画面には距離や消費カロリーやその消費カロリーに該当する食べ物のイラストが表示されていて、それを見るのも楽しかった。表示される食べ物がまずかき氷、そしていちご、そしてワイン、そして目玉焼きと変化していったところで今日は歩き終えた。カロリー順に並んでいるのだろうが、そのせいで独特なストーリーを感じさせるラインナップになっていた。かき氷、いちご、ワイン、そして目玉焼きの順に食べたり飲んだりする一日というのはどういう一日か。そんなことを考えてみようとも思ったが、疲れたのでこのまま寝てしまうだろう。

 

12/5

 かき氷、いちご、ワイン、そして目玉焼きの順に食べたり飲んだりする一日というのは、きっとこんな感じではないだろうか:かき氷といちごを食べてからしまいにワインを飲む夢を見て、寒さで震えながら目を覚ました。布団がいつの間にめくれていて、なにもかけずに寝ていたのだった。足も手も冷えきっていた。靴下をはき、フリースを着て台所に行って、目玉焼きを作って食べた。その日はもう、それだけしか食べなかった。

 

12/6

 同居人は今日ダニエル・シーザーのライブに行った。十八時過ぎに会社を出て順調かと思いきや途中で電車が遅延、仕方なく京橋駅から国際フォーラムまで歩いた。ライブは楽屋からステージへと出てくるダニエル・シーザーをカメラで追った映像がステージ背後のスクリーンに映されるという演出で始まり、それを聞いた僕はM-1っぽいなと思った。溜めに溜めて発した第一声から素晴らしく、じっくりと聴きいりたかったが、周囲のひとたちがところどころ合唱していて正直うるさかった。わたしはダニエル・シーザーの歌を聴きに来てるんすわ、てかあんたらもそうじゃないんかい、と思った。そこまで強くは思っていないかもしれない。いずれにせよライブは進み、心地よい歌声に包まれて身体が自然に揺れた。ステージ上の光る床の上に寝転がって歌っている時間帯があり、寝転がっていても歌がうまくておもしろかったのと、アンコールがなぜか楽屋からの映像でお届けという形式でウケた。──ということらしい。僕も行きたかった。僕はというと仕事をしていた。そういえば今日仕事をしているなかでたどり着いた山梨のぶどう農家のインタビュー記事がとてもよかった。おぼろげだが、正直みんなシャインマスカットばっかり作っててつまんないんすよ、自分で品種改良してなんぼっしょ、おれはおれのぶどうでみんなとガチで喧嘩したいんすわ、みたいなことをしゃべっていてかっこよかった。しずるのKAƵMAみたいだと思った。べつにぶどう農家のひととはこういうものだという固定観念があったわけではないはずなのだが、今日読んだインタビューのひとは、僕のなかにどうやら存在したらしい見えない枠のようなものから外れた力強い輪郭を持っていた。──という話を同居人にしようと思っていたのだが、ダニエル・シーザーのライブの感想には勝てなかった。

 

12/8

 同居人のジムへの熱量はまだ続いていて、今日も行った。僕も行った。僕は同居人ほどの熱量を持てていないのだが、行くか行かないかでいうと行ったほうがいいものではあるし、上半身の筋肉痛ももうなくなってしまっていたので、行かない理由はなかった。行かない理由がないから行くなんてなんだかすかした中学生のようなことをいってしまっているが、いざ行ったら行ったでちゃんとトレーニングする、そんなところに僕の真面目さが表れる。というか僕は基本的に真面目で、今日もジムから帰ってきたら洗濯物がそこそこ溜まっており、もうすぐ週末だからそれまで待ってから洗濯するでもよいのだが、今日洗濯することにした。夜に洗濯機を回すということはその後ハンガーに吊るすなどして浴室乾燥をする必要があるのだが、これがどうもめんどくさい。僕にとって洗濯のピークは、洗濯物を洗濯機に放り込み、洗剤をかけ、柔軟剤を入れ、蓋をして「入」を押すところにあるのかもしれない。干すのも取り込むのも畳むのもめんどくさい。こんなふうにピークが序盤に来てしまうことは他にもあって、代表的なものでいうとたとえば本を買うという行為である。僕としてはそんなつもりはまったくないのだが、僕にとって本というのは買うところがピークなのではないか、だってせっかく買ってきた本を積んでばかりいるではないか、と同居人によく指摘される。そのたび僕はまあ本っていうのはタイミングがあるからねと偉そうに返し、実際そう思っているのだが、たしかにこのまま僕の本棚に積まれっぱなしでこの先何十年も眠り続ける本があったらドイヒーだ。

 

12/9

 仕事から帰ってきて、YouTubeM-1の準々決勝の動画をぱらぱらと見たりした。やっぱり漫才というものはすごいと思った。漫才というものは途方もなく巨大な図体を大きくうねらせながらものすごい勢いで前に進んでいて、その個々の結実としてそれぞれの漫才師たちのネタがあるのだった。しかしたえず進み続けるものであるがゆえに取り残されてしまいそうになっている(というのはあくまで僕の感じ方だけど)部分もあって、たとえばボケのひとの変なセリフに対してツッコミのひとが一度や二度「なにいってるかわからない」や「どういう意味?」などと受けて説明し直させるようなやり取り、これも数年前までだったら丁寧なフリとして機能していたと思うのだが、いまやちょっとやそっとの奇妙なボケでは観客側も「なにいってるかわからない」状態にはならず、早く次に進んでボケを転がしていってほしいのに、ツッコミのひとだけが「どういう意味?」と立ち止まってしまう、意地の悪い表現をすれば盛り下げてしまうという現象が起きている。テレビドラマなんかで主人公が「そういえばあのとき……」と呟いた瞬間画面が切り替わり、つい十分前に見たばかりのシーンが彩度を落とされセピア調になって流されるような、この回想いらないから早く次に行ってくれという状態にも似ている。

 でもべつにこれは観客側のリテラシーが上がったとかではなくて、単にそういう丁寧なやり取りを省いたネタをする漫才師が決勝に上がることが増えてきたがために慣れたということなのだと思う。こと競技性の高いM-1という大会においては、説明しなくても伝わることはわざわざ説明せずに次に行ったほうが効率がいいのであり、実際今回決勝に進んでいるメンバーもくどくど説明しないネタをするひとたちが多い気がする。真空ジェシカとか令和ロマンとか、平成のネットミームをめいっぱい吸収しながら育ってきたであろうひとたちには特にそれを感じる。

 一方でそういうやり取りがどうこうとかとはまったく関係のないところでネタをやっているひとたちもいて、特に今日見た準々決勝の十九人というコンビがかなりよかった。ツチノコハンターをやっているというボケのひとが、実演するのでツチノコをやってほしいと相方にお願いし、相方もいわれるがままに身体をすぼめてツチノコっぽくなろうとするのだが、その姿はツチノコハンターにいわせればちっともツチノコではないらしく、実演に入らないまま「こいつツチノコのふりをしてわたしたちのこと騙そうとしてないか?」とわめき続ける。コントに入らずにメタな部分で笑いを生もうとする知性と、とにかく尋常ではないほどわめき続けるという野性のバランスがすごくてかなりウケた。どこに向かっているのかはわからないが、漫才というものは進み続けている。

 

12/10

 同居人が川崎で友人と集まる用事があり、僕も暇だったし、同居人の用事の間にひとりで川崎の駅前を散策してみてもいいと思ったのでついていった。今日はよく晴れていた。日差しは白く眩しいのに、あらゆる建物や木々や人びとの影は長く伸びていて、冬というのはなんというかちぐはぐで美しい。川崎の駅前を歩くのは初めてだった、と思いながらそのときは歩いていたが、僕はほとんど記憶はないのだが幼少期に川崎に住んでいたので、あの駅前にももしかすると幼き僕が通った道があったかもしれない、といま日記を書きながら思った。幼き僕も冬の白い日差しに目を細めただろうか。二十分くらいさまよって町中華に入ってチャーハンを食べた。チャーハンはふつうだった。

 駅前の商業施設のなかにはブックオフもあって、もちろん吸い寄せられるように入店した。ブックオフに向かう途中でゲーセンの階を通り過ぎた際に、UFOキャッチャーで巨大なぬいぐるみをうまく掴まえてまさに持ち上げんとしているひとがいて、ぬいぐるみはいいところまで持ち上がったのだが落ちてしまった。知らないひとがUFOキャッチャーで惜しいところまでいっている瞬間に出くわすというのが、なんとも知らない町を散歩しているということの象徴のようにも思えた。というか知らない町に限らずとも、あるいはUFOキャッチャーに限らずともそういう瞬間というのは無数にあって、知らない人びとが何かをしている瞬間というのが無限に積み重なって町というものができあがり、それらの瞬間に出くわし続けることこそが散歩なのだと思う。ブックオフではレジで前に並んでいたひとがポケモンカードを買っていた。店員さんは慣れた手つきでカードを数え上げてレジ打ちしてから、カード用のものすごくちっちゃな袋にそれらのカードを入れてお客さんに渡していた。

 おれ現金持ち歩かないでカードだけで生活してんねん、といって、あのちっちゃな袋からクレジットカードを取り出したらウケるかもしれない。

 ブックオフを出てからまた漫然と歩いていると異国情緒あるエリアにたどり着いた。行ったことはないが存在を知っているチネチッタという映画館はどうやらそのエリアにあるようだった。おもろ、と思いながらその辺のベンチに座って、町田康の『告白』を読み進めた。そのうちひんやりしてきたので近くのサンマルクに入って読み進めた。そのあと同居人と合流し帰宅して、THE Wを見てからも読み進めて、読み終えた。すごかった!

 

12/10

 町田康の『告白』のなにがすごかったかって、文体と内容が見事なまでに噛み合っていたことで、主人公の熊太郎の心理描写のなかに語り手のツッコミが混ざる地の文が、抜群のドライブ感をもって進み続ける様子がとにかく楽しく、夢中になって読み進めるうちにいつの間にか熊太郎は村のひとたちを十人殺してしまっていたのだった。読んでいる側が思いつきそうなところの何段階も奥まで心理描写がなされ、その地の文の饒舌さとは裏腹に熊太郎は自らの考えをうまく口にすることができない。いっけん重要ではなさそうな挿話も熊太郎という人物の遍歴であり、ひとつたりとも削れそうなところはなく、文庫にして八百ページ超えという分厚さもしかるべきものなのだった。

 だらだらと悪いほうへ悪いほうへと転がってしまう熊太郎の姿にはしかしどうしても共感してしまうところが多々ある。たとえば熊太郎自身が幼き頃からたえず罪の意識とその罪が露見することへの恐怖を抱え続けた「御所」での出来事、そこに大量に置いてあった財宝には手をつけてはなるまいと固く誓っていたにもかかわらず、一度手をつけて味を占めてしまってからの熊太郎は、困ったら財宝、困ったら財宝、というふうにあっという間に使い果たしてしまう。そのどうしようもなく歯止めのきかない感じはいわゆる〝わかりみが深い〟というやつに違いなく、これだけではなく小説全体にわかりみが深い箇所が多いのだが、それならばなぜ熊太郎は十人ものひとを殺してしまったのか、その理由を八百ページかけて体感していくのがまさにこの小説で、構造なんて考えられていないかのようにひたすら饒舌に語られる文の連なりが、熊太郎の生き様そのものと重なっていたことがすごいと思った。

 今日は午前中に北野武の『Dolls ドールズ』を観た。たけしっぽい編集のかっこよさは感じるものの、きつめな映画だと思った。午後はだらだらと、断続的に昼寝をしながら過ごした。夜は常夜鍋を作って食べた。

 

12/11

 ところで僕は一昨日の日記で「ブックオフではレジで前に並んでいたひとがポケモンカードを買っていた。店員さんは慣れた手つきでカードを数え上げてレジ打ちしてから、カード用のものすごくちっちゃな袋にそれらのカードを入れてお客さんに渡していた。」と書いたのだが、「ものすごくちっちゃな袋」という表記に納得がいっておらず、なんかいいいい方がないか探していたところ今日になって思い至ったのが「ポチ袋」という言葉である。そう、あれはまさしくポチ袋の大きさだった。ブックオフの濃紺のレジ袋をそのまま小さくしたようなポチ袋。あれにもレジ袋代というのはかかるのだろうか。それを確かめるためにはブックオフで実際にポケモンカードを買ってみるしかない。

 ところでポチ袋の「ポチ」というのは「これっぽっちですが」から来ているらしい。そのことを書いたところでべつにそれ以上話が発展することはないのだが、それでも書いてしまうのが日記というものであり、これがせっかく仕入れた知識の備忘として書き記しておこうという気持ちによるものであればまだわかるのだが、僕としてはそんなつもりもないのでほんとにただ意味もなく書いているだけだということになる。──というこの話自体にも意味はなく、そもそも一昨日の日記の内容を反芻するところから始まった今日の日記全体に意味がない。

 ところで今日は同居人とNetflixの『ザ・キラー』を観た。僕は一度映画館で観ているのでよりウケた。極めて真面目ではあるが、かなりウケる映画だと思う。ターゲットが出てくるまで車で待ち続ける。嘘のパスポートや嘘の車のナンバープレートを丁寧に選ぶ。証拠を隠滅するためにあちこちに移動する。必要な道具をAmazonで注文し、専用ロッカーで受け取る。そういう地味で現代的な工程が省略されずに描かれ(〝省略されない〟というのはまさにこの映画の肝だとも思う)、そこに「計画通りにやるべし」だの「油断は禁物」だの「俺は常に用意周到」だのモノローグが乗っかる。無口でスマートだが、モノローグでしゃべりすぎているためにまったくクールだと思えない主人公の姿は、同居人からいわせると『結婚できない男』の桑野(阿部寛)と重なるそうで、たしかにそう思って観るとなおさらおもしろい。

 

12/12

 懐かしいねえ、といいながらアマプラで再生した『チャーリーとチョコレート工場』をけっきょく最後まで観てしまった。これと『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』が僕の子供の頃のベストムービーだったかもしれない。

 

12/13

 昨日に続いて今日は一九七一年の『夢のチョコレート工場』を観た。後半、子どもたちがひとりひとり減っていくくだりが駆け足ぎみでウケた。随所に手作り感あふれるセットでの撮影によってCGよりもむしろサイケデリックな雰囲気が醸されていて、そもそもこの映画に限らず六十年代や七十年代のサイケデリックな空気というのはノーCGであることによる要素も大きいんじゃないかと思った。先にティム・バートン版を観ていたからというのもあるが、こちらのウィリー・ウォンカはバックグラウンドが見えない分、目をきらきらさせた狂人といった趣が強く、自分は冗談ばかりいっているくせにこちらが放った冗談はまったく通じなさそうだった。それはそれでおもしろい。

 

12/14

 僕が働いている会社はけっこう高さのあるオフィスビルのそれなりに高いほうの階に入っていて、行ったり帰ったりするにはエレベーターに乗る必要がある。実際の階数をこんな日記で発表してもしょうがないので、ここでは仮にそのオフィスビルが百階建てで、僕の会社が六十七階にあるとしよう。ひとつのエレベーターが二階から百階までのすべての階に停まるというわけではなく(そんなことしたら日が暮れてしまう!)二階から十一階、十一階から二十一階、二十一階から三十一階、……という形でエレベーターごとに階数が振り分けられており、それぞれの振り分けごとに八基あるので、オフィスビルにエレベーターは全部で八かける十の八十基ある。八十基のエレベーターが絶えず上下し続ける、オフィスビルという怪物。その腹のなかに僕は毎朝収まりに行っている。

 僕は六十七階に会社があるので六十一階から七十一階に停まるエレベーターに乗る。朝は他に入居している会社のひとたちもだいたい通勤のタイミングが被るためにエレベーターは混む。他のひとたちが降りる階は当然まちまちで、六十七階に到着するまでにだいたい六十一階、六十二階、六十五階、六十六階という感じでぱらぱらと停まることとなり、朝、出社が定時ぎりぎりになってしまったときなんかにはやきもきする。比較的余裕があるときなんかには、ここの階にはどんな会社が入っていて、どんなひとたちが働いているのだろう、と答え合わせされることのない疑問を浮かべたりする。

 六十一階から七十一階に停まるエレベーターだけでも八基あるので、エレベーターの混み具合にはかなりばらつきがある。八基もあるというのになかなかやって来なかったりすると、ロビー階にはひとがあふれかえることとなる。そんなふうに溜まりに溜まったひとがやっと来たエレベーターに押し合いへし合い入っていったあと、次のエレベーターが意外とすぐに到着したりして、がらんと空いたまま上階まで一気に行けたりする。そんなタイミングの妙が重なると、朝だというのにごくたまに僕しか乗っていないエレベーターなんていうのも生まれたりして、そんなとき、一気に六十七階まで行けてしまうので、それはそれで奇妙な感覚に陥る。一階から六十七階というのはなんだか奇妙に長い。どこか途中で停まるのが当然であるところを一気に行けてしまうのが気持ち悪い。そんなふうにうまく事が運んでしまったがゆえの居心地の悪さが、エレベーターにはある。──という話を日記に書き記すことになんの意味があるのかはわからないが、今日がたまたまそんなエレベーターの日だったので書いた。ほんとはこんな話を書くんじゃなくて、昨日の夜寝る前に読んだ売野機子『インターネット・ラヴ!』がよかったという話とか、AマッソがYouTubeで「8番出口」というゲームのプレイ動画を挙げていて思わず見てしまった話とかを書くべきだったのだが、もうエレベーターの話を書いてしまったので、今日はこれ以上書く余地がない。

 

12/15

 夜が進むにつれて風が強くなるとともに外気温が徐々に上がり、果てには屋内より屋外のほうが暖かくなるというきもすぎる夜だった。春のようなにおいもした。春のにおいを敏感に感じ取ったところからさらに季節の情趣に想いを馳せることもできたが、僕はいまから来年の夏の暑さを想像することを選んでしまった。こんなに冬が暖かくては次の夏はやばいのではないか! 僕は今年の夏に友だちとサウナに入った際に友だちがいっていた「このままどんどん夏が暑くなるとそのうち屋外がふつうにサウナくらいの蒸し暑さになるんじゃないか」という話がなんだかリアルに想像できてしまって以来怖くて仕方がないのだ! 息もできないほどのむせかえるような暑さ! 蒸気がゆらゆら揺れ、コンクリートがきしむ! 鶴瓶の麦茶を飲みまくれ!

 

12/16

 今日は仕事だった。帰り際に同僚と「昨日の夜の暖かさきもかったですよね!?」という話ができてよかった。昨日の夜はマジできもかった。でもああいうきもい夜がまたあってもいいと思う。今日の夜は「プロフェッショナル 仕事の流儀」の宮﨑駿の回を見た。けっこう編集にも気合いが入っていて(ときにそれがうるさいタイミングもあったと思ったが)いい回だった。宮﨑駿が高畑勲に愛憎入り交じった想いを抱えていたという話はごくたまにツイッターなんかで見るような神話じみたエピソードとしてなんとなく知っていたけどそれが宮﨑駿本人の口からこれほどまでに語られるとは、という驚きと、そんな話を引き出すまでに密着できている「書生」ことNHKの取材スタッフにも恐れ入った。亡くなった高畑勲に対しての「悲しいだけじゃなくて、残酷な勝利感というのもある」という言葉、しかしそんなふうにいってからも高畑勲の影が消えることはなく、〝大叔父〟との対話を描けないまま制作は遅れ続ける。長い通夜を経て、脳のフタを開き、大叔父が作り上げた完璧で美しい世界を去っていま自分が生きているこの世界へと戻ってくる眞人の姿を描くことで高畑勲と決別するというストーリーはきわめて真っ直ぐな話で、ふつうに涙ぐんでしまった。『君たちはどう生きるか』という映画がやはり宮﨑駿の私的な要素を多分に含んでいるという解釈が今回「プロフェッショナル」で語られたところで、あらためて観てみたいと思いました。

 

12/17

 ジムに行ったほうがいいよねーという気持ちを抱え、実際に口にも出しつつ、家から出ることができないまま、断続的に寝ながら午前中が過ぎた。宮﨑駿よろしくめんどくさいめんどくさいと繰り返しましょうかね。それはよくないか。駿はめんどくさがりながらも描いてるわけですからね。僕はなにもしていない。なにもしていないまま午後になり、同居人が友だちの家に行くというので同じタイミングで家を出て『ポトフ 美食家と料理人』を観た。料理シーンを美しく撮れば映画になんねん、といわんばかりのすごい料理映画であり、美食家と料理人のふたりにしかない関係性を描いた作品でもあって、豊かな時間が流れるいい映画だった。映画館を出てから歩いて本屋に向かい、いがらしみきお『IMONを創る』(石原書房)を買った。石原書房国書刊行会で乗代雄介の『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』を編集した石原さんという方が独立して立ち上げた出版社で、その最新刊がこの『IMONを創る』という本の復刊なのだそうだった。なんでこの本かというとこれもやはり乗代雄介が非常に感銘を受けた本だそうで、石原さんも同じく感銘を受け、復刊の運びになったという。僕も僕で『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』を読んでその創作への態度に感銘を受けた者であり、その乗代雄介の創作態度に多大な影響を与えたという本であればやはり買わない手はないというわけだった。そんなふうに巡り巡る。そのまま早足で歩き、電車を乗り継いでポレポレ東中野で『王国(あるいはその家について)』を観た。

 これがすさまじい映画で、二時間半の上映時間の大半はある物語映画のリハーサル風景が映されることで構成されている。それもわかりやすい映され方ではなく、同じシーンの練習が幾度となく繰り返されながら映画は進む。そんな変則的な映画であるにも関わらず二時間半ずっとおもしろく観られたのは、まさに編集の妙だと思う。ジグソーパズルの全体像を最初に見せるかのごとく、映画冒頭で物語のあらすじが(刑事による供述調書の朗読という形で)示される。それがあるからこそ、その後の長いリハーサル風景もそれぞれどこのシーンをやっているのかがなんとなくわかるし、シーン同士がやがて繋がっていくなかでの、まさしく物語映画的な楽しみもある。

 幾度も繰り返されるリハーサル風景のなかで、俳優たちの声、顔、身体が変化していく様が克明に映され続ける。そのすべてのバリエーションが、その後撮影され完成するであろう映画の変異体である(というか僕たちがふだん観ている映画もこうした無数の変異体のなかから選び取られたひとつであるということに気づかされる)。映画が映画になっていき、俳優が物語の登場人物になっていく制作過程そのものを映画にしてしまうというすごい構造だが、撮影したリハーサル風景を単に並べただけではおそらくつまらず、その並べ方こそがこの映画の肝だと思う。たとえば抑圧的な夫に妻がたじろいでしまうシーン。テイクを重ねるごとに夫役の足立智充さんの声には断定的な硬さが滲み、妻役の笠島智さんの顔にはこわばりが見えてくる。次はこっちからも見てみたい、というような観客側の欲望に応じるかのように、次のテイクでは異なる角度から同じ会話が映される。そういう繰り返しのなかに、見たいすべてが映っているとすら思えてくる。

 徐々にシーンとシーンが繋がり、終盤に通しでの本読み風景が映されることで、観ているこちらもいつの間にか物語に没入している。家族や家という特殊な〝王国〟を扱ったこの物語自体も、繰り返し俳優たちによって演じられることによってその切実さが浮かび上がってくるようになっていて、通しでの本読みには観ているこちらも息が詰まってくる。そういう感情の起伏も含めて、優れたドキュメンタリー映画であることと物語映画であることを両立しているともいえて、そのクロスポイントともいえるシーン=お互いがそれぞれの〝王国〟にとっての客人から闖入者へと転じていくシーンが最後にもう一度繰り返されるのもすごくよかった。

 

12/18

 このところよく夢を見る。眠りが浅いのか。夢にはいろんなバリエーションがあり、たとえば一昨日は知り合いのおじさん──といっても現実には知らないひとで、おぼろげだが、なんとなくこの前の「水曜日のダウンタウン」のスベリ-1GPに出ていたエンジンコータローさんっぽい顔つきだった──がおかしな事件に巻き込まれたというので、それを解決するべく僕と同居人が埼玉県まで赴くという話が展開されていて、僕たちは情趣豊かな旅館のような場所を取材したり、歩道橋の防犯カメラの録画を確かめたりしたあげく、おじさんが実はある日を境に宇宙人に身体を乗っ取られているということを突きとめ、それを本人に確認しようとしたところで目を覚ましたのだった。

 こんなふうに夢のなかの出来事を書いてみたとしてもそれはもちろん実際の内容とは異なり、おそらくある程度話として通じるように改変が加えられているはずだし、そもそも夢は実際に起きたことではないので〝実際の内容〟なんてものもそもそも存在しないともいえて、そうなると僕はいまなにを書いているのかという話になるが、とりあえず書いている。

 今日の夢は、なにかの業界のフィクサーっぽいおじいさんに「いまから大阪に行くから車を出してくれ」といわれ、おそらく僕は「でもいま夜中の一時ですよ」などと応えたと思うのだが、それでも行くといってきかなかったので仕方なく行くことにし、しかしさすがに準備があるのでおじいさんには先に家──なぜかそこは僕の母方の実家だった──の外に出てもらって、早くしなきゃと思いながらもどういうわけか準備に一時間もかかってしまい、しかもレンタカーで行くというのに車の予約もできておらず、タイムズのカーシェアのアプリを開いて最寄りで借りられそうな車を探そうとしたところ、アプリ上のマップを縮小するのに連れて僕自身の身長が大きく伸び、僕はそのまま巨木のように天まで伸びきって、上空から真夜中の町を見下ろしているのだった。

 今日はさらに、どこかの片側三車線くらいの大きな車道沿いを散歩していると街路樹からセミの鳴き声が聞こえ、かわいそうにこんな時期に出てきてしまったのか、冬が中途半端に暖かいせいだな、と思ったところで目が覚めると実際にはセミなんて鳴いていなかった。

 起きて読んだよしながふみ『環と周』がとてもよかった。夜には加藤拓也監督・門脇麦主演『ほつれる』を観た。夫役の田村健太郎というひとがとてもよかった。

 

12/19

 M-1の公式YouTubeチャンネルにて配信されている「M-1ラジオ」という企画にてマヂカルラブリーの野田クリとランジャタイの国崎さんが漫才についてしゃべっていて、国崎さん曰く、ステージの中央にマイクが置いてあり、「どうもー」で始まって「ありがとうございました」で終わるものが漫才だということだったけれど、それでいうと、というかべつに「それでいうと」という話でもないのだが、昨日Travis Scottの"UTOPIA"を聴き返していた際、四曲目の"MY EYES"というSamphaやらBon IverやらVegynやらが参加している最高の曲に差し掛かったときに、この曲みたいな漫才も見てみたいと思ったのだった。

 この曲はおよそ四分あるうちの二分過ぎくらいまではわりあいゆったりとした曲調で進むのだが、二分半ほどが経過した時点で新たなビートが差し込まれてき、そこからは繊細かつ浮遊感のあるトラックのなかでTravis Scottがまくし立てるようにラップをするという構成になっており、それはまるで一度「もうええわ」でしめたかのように思われた漫才のその先が実はあって、それまでのゆるいテンポがすべてフリだったかのように、後半では高速のかけ合いが披露されている、そういう漫才のネタのようなのだ。「もうええわ」や「ありがとうございました」で終わらず、その続きがある漫才。

 

12/20

 会社を出てから駅前のケンタッキーに行った、というのも今週末のM-1の日にはうちに友だち何人かが来て一緒に見る予定、というかちゃんと確認はしていないがずっと前にした口約束ではそういうことになっているので、ふだんは食べないようなフライドチキンの特大セットみたいなのを注文しちゃってもいいんじゃないの? しかもなんかクリスマスイブってやつだし? ということで注文すべく行ったのだが、時すでに遅し、いまから二十四日の夕方~夜の出来上がり分が注文できるなんていう甘い話はなく、失意のなか店を出た。しかしそうやってせっかく駅前まで行ったし、そのうち同居人も帰ってくるだろうと思ったので、駅周辺で待つこととしたのだが、本もなにも持っていなかったので、駅ビルの本屋に入り、山田太一の『異人たちとの夏』を買った。こうやって気まぐれに本を買い続けることが結果として積ん読を次から次へと生むことに繋がっているらしい。でも僕は今日買った『異人たちとの夏』をもう読み始めており、このまま読み終えるはずなのでこれは積ん読にはならないはずだ。したがって僕自身の感覚としては、積ん読を増やしているつもりはない。しかしそういう感覚とは別に、現実として積ん読は増えていっている。

 駅近くのドトールで半分近くまで読んだ『異人たちとの夏』は心情描写がとてもよくて、どこでもいいのだが、たとえば序盤の「やや無理にでもそう思いたい気分が私の中にあり、ロビーの隅のソファへ乱暴に腰をおろした。」というところの「やや無理にでもそう思いたい気分」というくだりがなんだかじんわりきた。やはりこのひとの書いたドラマを見てみようと思った。読んでいるうちに同居人が帰ってきたので一緒にラーメンを食べて帰った。

 

12/21

 一週間か二週間ほど前に実家からりんごが送られてきた、といってもなにも僕の実家がりんご農家だというわけではなく、ふるさと納税でもらったりんごをおすそ分けしてくれたというわけなのだが、それをここさいきんは一個一個剥いて食べていっている。一個を六切れにカットして包丁で皮を剥き、中央の芯の部分を三角に切り抜く。剥いたものを同居人にもすすめるが、同居人は「じゃあ食べようかな」といってだいたい一切れしか食べないので残りは僕が食べている。

 

12/22

 眠い! 寝ます。

 

12/23

 雲ひとつない快晴!

 朝からいろんな用事──たとえば、およそ一ヶ月前に同居人が会社のエレベーターの隙間に落としてバキバキに割れたもののどうにか使えていたiPhoneが、ついにいきなり電源が切れるなどだめになってきたようなので、アップルストアに行って修理なり交換なりをしてもらうという用事など──がことごとくうまくいった日だった。アップルストアの待ち時間には周辺で昼食を食べ、散歩をし、なんとなく立ち寄った古着屋で同居人の服を買ったりもできた。服は二着、いずれもNFLの、グリーンベイ・パッカーズのスタジャンとシカゴ・ベアーズのスウェットで、パッカーズの緑&黄とベアーズの紺&橙は重ねて着てもよささうな組み合わせだと思ったのだが、よく考えるとこの二チームはNFLの同地区に属しており、熾烈なライバル関係にあるため、重ね着なんてしてはいけないかもしれない。

 用事を済ませたあと帰宅し、しばしゆっくりしてから、同居人は友だちとの飲みへ、僕は『TALK TO ME/トーク・トゥ・ミー』を観に出かけた。常に楽しませてくれるサービス精神あふれる映画だったし、ふつうに怖かった。ただ主人公の行動に思慮深さが感じられず、しかもそれがメンタルヘルスのせいで致し方ないというような弁明があり得る描き方だったため、個人的にはノリきれなかった。メンタルヘルスが中心的なテーマなのかといわれればそうではないような気もしたし、おもしろくするための一材料に過ぎないくらいだったので、よくも悪くもエンタメに振り切っていたように思う。友だちと解散した同居人と合流し今度は『ファースト・カウ』を観に行った。素晴らしい映画だった。物語はあるにはあるが非物語的に描かれるというか、どう転がっていくこともあり得た話が今回の映画のなかではたまたまこのように着地した、とでもいうような感触の映画で、とても豊かな時間が流れていたように思った。森のなかで育まれる男性二人の友情というところからは当然『オールド・ジョイ』が連想され、今回はさらに冒頭と終わりが(映画自体のではなく物語内の)長い時間を経て繋がることによって、あり得たかもしれない遠い過去への想像がどこまでも広がっていく感じがしたのだった。

 

12/24

 昨日は眠くて寒くて入浴せずに寝たので朝風呂した(風呂場から出るときに膝の皿を壁に強打して痛かった!)。湯船に浸かりながら『ファースト・カウ』のことを考えた。昨日も似たようなことを書いたかもしれないが、あの映画の素晴らしさというのは、ことさら物語が始まったかのような顔をせずにいつの間にか昔のオレゴン州に戻っていて、いつの間にか森のなかで二人が一緒に暮らし、いつの間にかドーナツを販売して好評を博し、いつの間にか終わりを迎えていたという、まるで自然発生的で作り手が意図していないかのような話が展開されていたこと、ようするに「むかしむかし……」という包装がされていないように感じられたことだと思う。冒頭の描写によって二人が最後どうなるのかはわかっているのだが、そこまで描くことなく「少し休もう」というところで終わることによって、幕は閉じられたが物語は閉じていないような感覚、かなり小さな話が、「むかしむかし……」という文言で包まれることなく、時間的な厚みを伴っていまに繋がってくる感覚を覚えたのだった。

 それで今日はM-1で家に友だちを呼んで一緒に見ることになっていたので、部屋を掃除して、ピザの配達予約もして、そんなこんなでいつの間にか三時になって敗者復活戦が始まった。ネタが終わるたびの「サバイバルジャッジ……」というフレーズがなんだかウケた。敗者復活戦は徐々に日が暮れていく時間帯というのもあって単純に楽しめた。特に楽しかったのはママタルトとトム・ブラウンだった。ママタルトは二人とも運動神経がいい。一般的な運動神経もだけど、漫才における運動神経のようなものがいい気がする。自分たちの身体を活かした楽しいショーの果てに、センターマイクを軽々と持ち上げるという革新的な仕草があって感動した。トム・ブラウンはとにかく爆笑してしまったが、よく考えるとなにがそんなにおもしろいのかはあまりわからないというのがすごい。彼らのすごみは年々増している。相手の首を折ってから「大丈夫ですか!」と話しかけるなど、徹頭徹尾論理的ではないということ自体におもしろみの一端がある気がして、狂気とは作り出せるものなのだということが身に染みた。楽しかったのはその二組だけど、それでもシシガシラの敗者復活は納得で、ああいう静かな革新性とでもいうべきものがきちんと評価されて勝ち上がることができる今回の新システムというのはいいと思った。

 決勝戦が間髪なく始まるのでビビった。ウエストランドが寒そうなビルの屋上でスベらされていてかわいそうだった。毎年思うことですが、敗者復活戦の段階でめちゃくちゃおもしろいのに、決勝は決勝でちゃんと敗者復活戦を上回っておもしろいのでほんとにすごい。勝ち上がるべくして勝ち上がったひとたちが漫才をやっている。決勝の感想も書いておきたいけど今日はもう眠いので寝る。

 

12/25

 今日もトム・ブラウンのネタを思い出して笑ってしまった。首を折ってから「大丈夫ですか!」と話しかける。矢、二本。クロロホルム。セルフタイマーで自撮り。首に穴が空いて声が出ないので、その穴に鍵盤ハーモニカの管を刺して演奏する。数珠。ダイナマイト。破綻した行動を繰り返すみちおに対しての布川のツッコミもどこか間違っていて、そのことに自覚的であるかのように途中から「だめー」しかいわなくなるというのもおもしろく、そもそもなにをしているのかもよく聞き取れないほどに高速化していき、そうやってツッコミさえも省略されるミニマルかつ過剰な反復の果てに、いつの間にか「成功」ということになってネタが終わる。すべての行動に論理性がないのに明確に笑いどころがあるというすごさ。

 

12/26

 会社の昼休みに少しM-1の話になって、同僚いわく「おもしろかったけど疲れた」ということだったけれど、たしかにそれはそうかもと思わせるくらいボリューミーだったような気がする。〝年末の楽しいお笑い特番〟という枠組みからは大きく外れ、芸人人生を賭した大会としての意味を持ちすぎ、なおかつ番組側も過剰なまでにそういう方向性(〝人生、変えてくれ。〟)で打ち出し続けた結果としての七時間生放送という暴挙! そうやって番組自体の競技性が高まることで、出場者たちも四分という制限のなかでいかに〝爆笑が、爆発する。〟かを考えた結果、ネタはどんどん先鋭化していき、笑い疲れるという結果に……。そういう意味で、なんとなく昔ながらの漫才コントの雰囲気を漂わせ、(もちろんその裏にある無数の試行錯誤や創意工夫に敬意を払ったうえで)何も考えずに見ることができるマユリカヤーレンズが決勝にいたのはよかった。ただおもしろい、というのもすごいことだと思う。でも、競技性がとことん高まったM-1において、笑いの言語化と客観視に長け、鬼のような分析力とその分析を具現化する運動神経のよさを兼ね備え、生粋のM-1オタクでもある令和ロマンが優勝したというのも実に気持ちがいい。それも、ハックしてやるとか攻略してやるみたいなのじゃなくて、楽しみたいし盛り上げたいという気持ちからだったのがすごい。

 

12/27

 仕事が納まらず!

 

12/28

 ところで何週間か前に僕と同居人が五反田のTSUTAYAに行った際にテレビ番組のスタッフだという若者にインタビューされ、年末に放送されるんですけどもしかしたら使わせていただくかもしれないです、と彼がいうその番組がちょうどこの前の日曜日、M-1のあとに放送されていたので、まさか使われないだろうと思いながらいちおう見てみたらなんと僕と同居人のへらへらした激薄コメントがしっかり使われていて驚いた、ということがあって、「あとから読んだときにその日のことを思い出せるように書く」という日記の性質を考えるなら日曜日の日記に書いておいてもよさそうな出来事ではあったのだが、なにせ使われていたコメントの内容が薄すぎて恥ずかしかったというのもあって書かずにいたところ、今日、同居人の会社のひとがその番組を見た際にインタビュー映像に映る人物に思い当たる節があったらしく、同居人に個人宛てでメールを送ってきたという。これって◯◯? ……なんだかんだと聞かれたら答えてあげるが世の情け、ということで同居人は正直に白状していた。

 

12/29

 会社の餅つきだった。毎年かなりの量をつくのでまじで疲れるし、ちゃんとうまい。帰宅してシャワーを浴びてから寝た。起きたら同僚から打ち上げのお誘いが来ていて、行こうかなと思いつつもなぜか家を出るタイミングを見失い、長々と検討する形になってしまった。冬の寒さが検討を長くさせる。検討している間に昨日の令和ロマンの番組を見た。永野がおもしろかった。そのあと打ち上げに行ったのも結果的によかった。健やかに楽しんで、そこまで遅くならずに帰ってきた。

 昨日から、というかもっと前からだけどVegynの"Halo Flip"という曲ばかりを聴いている。高らかに鳴るビートと朗々と歌い上げるゲストボーカルという組み合わせは"Let Forever Be"を思わせ、そこにいかにもVegyn風味のベースや木琴っぽい音が合わさってくる中盤以降の、ぱっと視界が開けたような開放感は今年リリースされたあらゆる楽曲のなかでも随一で、七分という尺すらも心地よく、今日の行き帰りにも聴いたのだった。この曲はミュージックビデオもよくて、どこかの河原で三人の若者がいつまでも戯れたり気ままにダンスをしたりしている動画の、水面のきらめきがなんとなく僕の頭のなかに焼きついていて、そういう散歩についての話を書こうと思っているのだがなかなか進められていない。

 

12/30

 年末年始休暇に突入────。ぼんやりしていると午前中はあっという間に過ぎ去り、慌てて準備してユーロスペースに『枯れ葉』を観に行った。アキ・カウリスマキの映画を観るのは初めてだった。最高だった。ベタそのもののような話なのかもしれないが、だからこそ顔や仕草、細部に感情が宿る。あらすじにしてしまえばつまらなさそうなのに映画そのものはどこまでも豊かであるというのは、監督が敬愛するという小津の特徴でもあるし、どんなに暗い室内であっても顔と手にはライトが当たっているというのは同じく敬愛するというブレッソン的でもあるといえて、──なんてふうになんとなくで書いてしまえるけれどもそんなのは些末なことで、とにかく色彩やぶっきらぼうさや愛おしさ、そして常に市井の労働者視点であることに、きっとこれがアキ・カウリスマキの映画であるということなのだろうと思える瞬間が噴出し続けており、心を強く動かされたのだった。(さらにいえばロシアのウクライナ侵攻も映画のなかに大きな影を落としていて、そのことについても考えたいと思った。)

 夜は同居人の友だちが来たので一緒に居酒屋に行った。ぶりしゃぶというものを初めて食べた。最高だった。数ある魚のなかでもなぜぶりがしゃぶしゃぶの材料として選ばれているのか、その理由がわかった気がした。脂の乗り具合、艶やかな身の厚み、赤から白へと身の色が変化する楽しさ、そしてぶりしゃぶという言葉自体の、「ぶ」で始まり「ぶ」で閉じる円環構造の美しさ。食べ物として非常に整っていると思った。そのままうちに泊まる友だちと同居人と僕の三人でニンテンドースイッチもやった。せっかくなのでということで『スーバーマリオブラザーズ ワンダー』を購入して三人でプレイした。情報の洪水のようなゲームでやばい。なんの説明もなしにキャラクターが象になって、鼻で敵を蹴散らしまくる。

 

12/31

 昨日プレイした『スーバーマリオブラザーズ ワンダー』はなんの説明もなしにキャラクターが象になるのもやばいし、ステージ中にある「ワンダーシード」と呼ばれるアイテムを取るとステージ上のすべての要素が強調されてハイになるのもやばく、しかしそんなことよりも断然やばいのがクッパで、そもそも今回のゲームの筋というのが「クッパに乗っ取られた城を取り返そう」というものなのだが、クッパは自分自身が城と合体するという形で乗っ取っており、けっこう怖いビジュアルになって空に浮かんでいる。しかしその奇妙さにクッパ自身もマリオたちも気がついておらず、そうなると当然ゲームをプレイしている僕たちにも説明がないまま話が進んでいく。とにかく情報量が多いのだがそれらがなにひとつ説明されないまま進んでいくというやばいゲーム。

 それで今日の午前中は、昨日うちに泊まった同居人の友だちとその『スーバーマリオブラザーズ ワンダー』の続きをプレイして、昼頃にその友だちを駅まで送り、代わりに同居人の別の友だち二人がやってきて、家の近くの公園に行った。公園には緑のネットで囲われたボール遊び用の空間があり、同居人とその友だち二人でキャッチボールをしているのを、僕はネットの外からスマホで撮影した。実際に撮影してみると、大きな変化なく続いているように見えるキャッチボールにも動画として楽しそうな回とそうでない回があり、さらに動画としての楽しさはスマホを構える僕がどこに立つか、どれくらいズームするか、ボールをどの程度まで追うかということによっても大きく左右される。それをひとつひとつ決定し、なおかつナマモノであるキャッチボールのなかから映画的な瞬間を捉え、そうやって集めた素材をコンマ秒単位で編集して繋げるのが映画作りというものだとすれば、あまりに途方なさすぎる……とべつに映画を作るわけでもないのに勝手に想いを馳せてしまったのは、やはり先日『王国(あるいはその家について)』を観たからだろう。

 しかしなんとなくだけれど、キャッチボールというものが動画的魅力にあふれているのも事実で、これがサッカーのパス回しだったらこうもいかないだろうと思う。ボールが手から離れ、空中を進み、また別の手のなかに収まるという一連の動きにおいて、カメラは必然的に上を向くので、特に今日みたいな日差しが白い日には、ボールもそれを投げているひとたちも白い光に包まれたようになって美しい。物語が描きやすそうなのもやはりパス回しではなくキャッチボールだよね、みたいな話をこのまえ会社でしたような気がした。あとカラオケシーンがある映画はやっぱりいいよね、と昨日『枯れ葉』を観たあと同居人としゃべったことも思い出した。

 キャッチボールのあとは駅のほうに行って開いている居酒屋に入り、そのあと解散して僕と同居人はスーパーで買い出しして帰宅した。紅白を見ながらいい肉で鍋をしようという算段だったのだが、どういうわけか僕も同居人もそのタイミングで微熱を出し、ぼーっとしてしまった。長期休暇恒例の風邪かと思いきや、僕の熱は徐々に下がって回復し、しかし同居人はいつまでも鼻をずびずびさせていてかわいそうだった。紅白では星野源「生命体」と寺尾聡「ルビーの指環」とYOASOBI「アイドル」が特によかった。全体的に楽しく見た。

 年が明けてからずっと近所のどこかの犬が吠えている。

2023年のキャッチボール

二〇二三年十一月の日記

11/1

 ここ三週間くらいの文学フリマの準備をしている。正確には文学フリマの準備のなかにいるといったほうがいいかもしれない。大きく見れば準備をしているといってもいいのだが、平日はもちろん、土日も準備をしていない時間のほうが長いので、準備のなかにいる、といったほうがニュアンスが近いのだ。こういうことは日常において他にも頻発していて、たとえば……、そう、僕はこういうときにパッとたとえが出てこないのが玉に瑕なのだけど、いつもそうやって自己言及することでなあなあにしようとする癖も持ち合わせており、自分でもよくないことをしているという自覚はあるので、今回はちゃんと具体例を出せるまで粘ろうと思う。たとえば、「休みの日ってなにしてますか」とひとから聞かれたら「散歩してます」と答えるけれど、べつに一日中散歩しているわけではないじゃないですか。散歩という大きな状態のなかにいるというか……、ちょっと違うか。すみません、今日は出ないです。すみません、後日必ず提出いたします。

 

11/2

 眠いので寝ます。

 

11/3

 一日中仕事をして、アツい気持ちにもなった。しかし文フリは進まず!

 

11/4

 原稿を進め、入稿作業に入り、なんかいけそうな感じがしてきたので、夜いったん映画を観に行った。おそらく今週観ないともう観ないのではないかという気がしたので『ゴジラ−1.0』にした。思っていたほど悪くなかったが、なんだかみんなセリフ回しが変だったのと、佐々木蔵之介の演技がなんかずっと変でウケた。帰宅し、入稿作業を進めた。いったん寝ます!

 

11/5

 文フリの製本は前回も前々回もBCCKSというサービスを利用している。わりと簡単に入稿できるうえ、日曜日の夜までに注文すれば次の金曜日に発送してくれるという単純明快な仕組みのため、デザインやページ割りに強いこだわりがないのなら非常に使いやすい。しかし文フリは来週の土曜日に迫っており、そもそももうぎりぎりなのだが金曜日に発送してもらえればどうにか間に合う、だがそれにしても今日の夜までに入稿して造本の注文をしなければならず、かつ入稿したレイアウトが実際の造本のレイアウトに変換されるのにおよそ一時間から六時間程度かかるといわれているため、造本レイアウトを見てから修正したくなる可能性があることを考えると今日の朝までには第一次入稿を済ませておいたほうがよく、昨日の夜がんばって四時頃に入稿を終わらせた。そのあと八時頃に目を覚ましてパソコンを確認すると造本レイアウトが終わっており、ぱらぱら見てみてよさそうだったのでそのままそれで造本の注文をし、一件落着となった。あとは金曜日に発送されるのを受け取るだけだが、なんと今度の金曜日はヨ・ラ・テンゴのライブがあるため受け取れないかもしれない。土曜日の朝、営業所に直接取りに行ってそのまま文フリの会場に向かう感じになるでしょうか。

 今日は眠気もあっておおむね家にいた。昨日『ゴジラ−1.0』を観たので、そういえば『シン・ゴジラ』ってどんな感じだったっけと思い同居人と観た。夕方に同居人がスシローの炙りサーモンバジルチーズが食べたくなったといい、しかしどうも元気がないということで、僕が五反田のスシローまで取りに行く運びとなった。のこのこと向かう道中で、せっかく五反田に行くならTSUTAYAに寄りたいと思い、かねてより見たいと思っていた『古畑任三郎』を借りることとした。TSUTAYAは何ヶ月か前にレンタルしたDVDを見ることなく延滞してしまってただ料金だけがかかったという苦い経験以来自粛していたが、もうみそぎの期間も済んだと判断し、久しぶりに入店した。

 お目当ての『古畑任三郎』は第一話~第三話が既に借りられていて置いていなかったが、一話完結型のようだったのでとりあえず第四話~第六話までを借りて帰った。僕は勝手に古畑というのはクールな天才だと思っていたのだが、実際はけっこう幼稚で身勝手で変なねちっこいしゃべり方をする猫背の賢めのひとという感じで、こんなんモノマネされるに決まってんじゃんと思いながら楽しく見ることができた。田村正和の仕草と、捜査のなかでごく自然に挿入される無駄な会話がとてもよい。犯人が先に視聴者に明かされるスタイルなうえに、トリックやギミックもそんなに複雑でなく、加えて古畑も毎回早々に犯人を疑ってかかるため、推理よりは古畑と犯人の会話に重点が置かれているドラマであることがわかった。古畑は空気を読まず、ことあるごとに犯人に「んーーー、二、三質問してもよろしいですかねえ」と話しかける。当世風にいえばウザ絡みやダル絡みなどと呼ばれそうなその会話にウケながら見ていた。特に鶴瓶が犯人の第四話はかなりウケ狙いなのだが、狙いどおりふつうにかなりウケてしまった。第五話と第六話はそれに比べれば真面目なトーンなのだが、第六話で犯人が木の実ナナであることを古畑が確信するきっかけが、古畑がその前に食べてポイ捨てしていた魚肉ソーセージの値札だったのでウケた。

 

11/6

 聞くところによればいまの世の中には映像配信サービスというものがあるらしく、昨日僕が五反田のTSUTAYAで借りた『古畑任三郎』もFODというところに上がっており、しかもあろうことか昨日借りることが叶わなかった第一話~第三話がちょうど無料で配信されているという。おったまげ!

 第一話の犯人は中森明菜なのだが、これが中森明菜か!とあらためて圧倒されてしまうほど美しいひとでおったまげた。古畑とのやり取りにもたった一夜の親密さが感じられ、中森明菜が演じる少女コミック作家が描いた作品を古畑が読んで涙するというだけの、本筋とは関係ないような美しいシーンもありつつ、全体的な時間の流れ方がゆったりとしていて、実は第十話くらいなんじゃないかと思ったが、これがほんとに第一話だというのだからすごい。今日はさっそく同居人に古畑のものまねを披露したが、まったくささらなかった。んーーー、そうですねなんといいますか、精進の必要がありますねえ。

 

11/7

 今日の早朝? それとも未明頃? 正確な時刻はわからないがすごい強風が吹いていたということを、いま日記を書いている夜になって思い出した。風が窓を揺らす音で幾度となく目が覚め、眠りをひどく乱されたというのに、いまになるまで忘れていたのだ。こうやって日記を書く習慣がなければ、あんなに強く吹いていた風を永遠に忘れ去っていたかと思うと恐ろしいです。それでいうと、今日の気候に関してもうひとつ忘れていけないのは、朝の雨上がりのなんともいえないぬるさが、捉えようによっては春のようにも思えたことだ。濡れたアスファルトから立ち昇るにおいが鼻腔に充満し、風が前髪を飛ばし、来たる夏の気配さえ感じられた今朝の様子は、まぎれもなく春のそれであり、今日が実際には秋であることを思い出させるのはただひとつ日付だけなのだった。そのことも忘れないうちに日記に書いておきます。

 

11/8

 仕事終わりに渋谷の東急ハンズに行って、文フリ用に黄色い布とポスターハンガーみたいなのを買った。ポスターハンガーという名前が正しいのかはわからない。セリフ体の「T」の字のような形で、テーブルの上に立てられ、Tの上の傘の部分に紙をはさんで吊るせるようになっているので、ポスターハンガーという呼び方はおそらくいい線をいっているのではないかと思ったのだが、買ってきたものをいま実際に確かめてみたところ「POPスタンド」という名前だそうだ。POPは思いつかなかった。そんなふうに、僕の身の回りには名前がわからないものが多い。今日だってほんとうはそのポスターハンガーだかPOPスタンドだかの他にも、A4のチラシを入れるための硬めのクリアファイルみたいなやつというか、中に紙を入れて下敷きみたいに使えるやつも欲しかったのだが、それの名称はけっきょく最後まで分からず、買えずに東急ハンズを後にした。代わりに「簡単ラミネート」というやつを買った。「お店のメニューやお気に入りの写真・イラストを、機器を使わずすばやく簡単にラミネートできます」とのことで、とても頼れる。探しているときにこそなぜか思い出せなくなる言葉というのがあって、この「ラミネート」というのもいかにもそういう類いの単語なのではないかという気がする。ラミネートラミネート。あのーー、ほらなんというんでしたっけ、ほらあのーー、紙の上からフィルムみたいなのを貼り合わせるような加工のことをなんとかっていいましたよねえ、と古畑が迷っているときに、横からすばやく、古畑さんもしかして「ラミネート」じゃないですか、と助け舟を出せるように、何度も書いて身体に染み込ませる。

 

11/9

 文フリがいよいよ迫ってきた。当日ブースの上に飾るつもりのチラシみたいなやつ、フライヤーっていうんですかね、を昨日の夜に作って、同居人に会社でプリントアウトしてもらい、持って帰ってきてくれたものを昨日買ったラミネート加工でしっかり挟み、同じく昨日買ったPOPスタンドに付けてみたらいい感じ! しかしここではたと気づく、五百円玉がない! 明日は仕事の合間に自販機やコンビニで千円札崩しチャレンジをします。

 

11/10

 仕事のあとヨ・ラ・テンゴのライブに行った。これがほんとによくて、涙ぐみつつ、笑顔になりつつ、絶えず揺れ、気がついたら二時間半くらい経っていて足がかなり疲れた。〝インディーズバンドを四十年続けるということ〟の一端に触れられたような気もして、ほんとに感動した。どんなにギターを弾きぐるい、みずみずしくて美しいノイズを鳴らしても、間奏が終わればすっとマイクの前に戻る。職業としてのインディーズバンド、職業としてのヨ・ラ・テンゴ。ところで明日は文フリなのだけど、販売する予定の新刊は明日の午前着予定で配達されるそうで、ぞくぞくしている。激ネムなのでとりあえず寝ます。

1984年にニュージャージー州ホーボーケンにて結成されたヨ・ラ・テンゴ

 

11/11

 文フリで販売予定の新刊は今日の午前着、すなわち八時から十二時のどこかで届くことになっていたのでぞくぞくしていたのだが、たいへんありがたいことに九時頃ピンポンを鳴らしていただけた。受け取った冊子も発色よく仕上がっていて、日本のみなさんありがとうという気持ちになった。というわけでせっかく早く受け取れたのに、そのあとダラダラしているうちに十一時前になってしまい、慌てて家を出たが、よく考えれば僕は今日までにけっきょく五百円玉を二枚しか用意できておらず、さらにお金を受け渡すトレーも、以前使ったものが家のなかのどこかにあるはずだというところで話が終わっていて、見つけずじまいになっていた。それがひとにものを売る態度なのか、だいたい私にもブースに座っていてほしいとお願いしたのか、お願いされた覚えはないぞ、当たり前のことだと思ってないか、と同居人に道中怒られながら会場へ。

 開場のぎりぎり前に到着して、コンビニで物資を買い、五百円玉も三枚に増やすことができた。開場してからは大学の後輩や会社の同僚が来てくれて勢いづき、そのあととてもうれしかったのは、二年前、一年前と僕たちのブースを訪れていただいていたという方が来てくださり、既刊で好きだったところを述べていただきつつ新刊も買ってもらえたことで、これには令和の鉄仮面と呼ばれる僕も思わず涙ぐんだ。その方に必ず来年も出しますと約束したので、少なくとも僕はその方に読んでもらえるように来年以降も書かなければならない。書くということのなかにそういう力学が含まれていく。僕の書くがひとの読むに繋がる。かなり久しぶりの高校の後輩も来てくれてブログも読んでますといってくれたり、他にも既刊を買っていただいたという方がいたり、何回か出ているとそういううれしいことが起きる。インターネットで繋がっているひとたちにも来ていただいて、とてもありがたく思った。実際に対面できるということのうれしさは技術がどんなに変化しようと損なわれない。

バナナ倶楽部

 終わったあとは来てくれていた友だちたちと庄やに行った。漫画やイラストを描いている友だちたちの創作についての話、生活の話、いろんなことを話しながら、僕の態度のやばさにも話題が及んで、へらへら笑いながら反省した。新刊がまあまあ売れたことは結果オーライでしかなく、態度はあらためないとならない。

 態度はあらためつつ、ささやかでもずっと制作を続けていくことが大事なのではないでしょうか。ヨ・ラ・テンゴのように!

 

11/12

 同居人が今日から泊まりがけで出かけるため朝から見送った。息が白い。昨日はぎりぎり秋だと思えたが、息が白くなってしまうともう擁護のしようがない。冬です。冬の日曜日というのは家でぬくぬくしていると一瞬で終わってしまうものなので、今日は朝家を出たそのままの勢いで渋谷に向かい、ユニクロで会社用の服を少し買い足してから、ヒューマントラストシネマ渋谷ゴダールの『軽蔑』とデヴィッド・フィンチャーの『ザ・キラー』をはしごで観た。『軽蔑』は映画館で観るとメインテーマが爆音でひたすらにリフレインするのがおもしろ悲しい。愛情が軽蔑に変わる瞬間が克明に映し出されていて、軽蔑されるミシェル・ピコリにはなぜ自分が軽蔑されたのかわかるようでわからずじまいなのだが、スクリーンの前の僕たちはそれをすべて目撃しているのでそのすれ違いも悲しいし、ミシェル・ピコリはよりによって二回も同じことをするので「あんたまじで……」と思いながら観た。でも僕だって同居人の教育によってこういう機微がわかるようになっただけなので、あまりえらそうなことはいえない。というかいまでもあまりわかっていないかもしれない。『ザ・キラー』は冒頭から主人公のこだわりのルーティンと、それに被せる形で仕事の流儀にかんするモノローグがおよそ十分ほど続き、フリを大きく作ったところで任務失敗するというオチがやってくるという無駄のなさに感嘆した。デヴィッド・フィンチャー流の引き締まった美しい映像のなかで地味な殺し屋の仕事が淡々と描かれるが、現実世界で無口な主人公はモノローグではずっとなにかしらを喋っており、仕事も基本的にはよくできるのだが不測の事態には弱く、作業用BGMとしてザ・スミスを聴き続ける、いっぷう変わったトーンの殺し屋映画でよかった。

 映画館を出てから中高の同窓会に行った。卒業以来会っていなかったひとも多く、とても全員とは話せそうになかったのでだいたいは遠目に見るだけだったが、話さずともみんなで一堂に会するというのはなんとなくよい。とはいえ大人数で疲れたので、終わってからは同じ組だった友だち二人とラーメンを食べるだけにして早めに解散し、しかしせっかくなのでそのあと散歩してから帰った。疲れたのに散歩するとはこれいかに、しかも寒いのに、と自分でも思ったが、動き出した足は止められない。せっせと歩いてみれば徐々に身体も暖まってきて、この冬の散歩の充実を予感させた。

 

11/13

 会社を出てから友だち三人と集まって、みんなで今年よかったものを話しながら飲んだ。おばあちゃん店員さんたちの腰があり得ないくらい低すぎて、こちらが申し訳なくなりつつも思わず笑ってしまう、かなりいいお店だった。その店員さんがポテサラの代わりにとおすすめしてくれた新じゃがの素揚げは、ポテサラの代わりにはなっていないような気はしたものの、たしかにおいしかった。食べながら今年よかった映画や音楽の話をした。音楽は下火で、いまは芸人と短歌の時代なんすよ、と友だちがいい切りながら、ワッチャイーティーエー、ワッチャイーティーエー、と歌うでもなくただ連呼していてウケた。音楽については各々の好みもあるのであーそれもいいよねーという感じで話が落ち着く場合が多いが、映画については意見が割れることがあって楽しい。けっきょくは音楽と同じく好みの問題ではあると思うのだけど、それでも楽しいのだ。たとえば『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』については、僕ともうひとりはよかった派、あとのふたりはつまらなかった派だったが、僕がよかったと思い、ふたりがよくなかったと感じたのが、同じくディカプリオの演じる人物の言動の一貫性のなさについてだったので、そこで意見が割れること自体が映画というもののおもしろさだとも思った。映画は画面に映っているものがすべてではないというか、観ているこちら側の考えや好みや体調、あるいは映画館の椅子の硬さや周囲の観客、そういうものがすべて混ざりあって物語となる。

 あとは、僕の文フリの新刊を読んでくれた友だちが文体を褒めてくれたのがとてもうれしかった。僕なりに文体にはこだわったつもりだったので、それが伝わっていることがうれしかった。こういう文体でもっと長い小説になったときにどうなるのか気になると友だちはいってくれて、僕もそれが気になるんだよね、となんだかえらそうな返しをしてしまったが、それは本心なので仕方がないというか、もっと長いものを書けるようになりたいというのがまさしく僕の今後の目標なので、なにはともあれまずは溜まりに溜まっている「ことばの学校」の授業をちゃんと受けようと思いながら帰ってきて、いったんだらだらして、けっきょく今日はそのまま寝る。読みたいもの:『近畿地方のある場所について』。

 

11/14

 泊まりがけで出かけていた同居人が帰ってきたので、土産話などを聞いた。ひとしきり話したあと、あっという間に寝てしまった。同居人は寝つきがかなりいい。僕はというと日記を書きながら〝無許可バナナ〟に想いを馳せている。福岡県久留米市の道路の中央分離帯に植えられていた三本のバナナの木、通称〝無許可バナナ〟が今日伐採された。中央分離帯でバナナを勝手に栽培する行為は道路交通法違反に当たるという。近隣に住む男性が二年前に植え、毎日欠かさず水をやり続けて大きく育った三本のバナナは今日、バナナをここまで育ててきた男性自らの手で伐採された。男性はまだ青い実をひと口食べて、「口のなかの水分持っていかれる」といってすぐに吐き出してしまった。伐採されたうちの二本は同市内の八十代男性宅へ。「家族に自慢したい」と語る八十代男性。残る一本は、バナナを植えて伐採した男性から知人男性のもとへ。「誕生日プレゼントだといわれて受け取ったらバナナだった。バナナに罪はない」と語る知人男性。バナナが紡ぐ友情。心なしか筆が乗っているように思えるニュース記事を見て、これは「バナナ倶楽部」を名乗って文学フリマに出ている僕が書くべき物語だったのではないかと思った。でも〝無許可バナナ〟は物語ではなく現実に植えられ、既に伐採されてしまった。僕がちんたらしているうちにこんなことが起こってしまった! 書け、現実に追いつかれる前に!

 

11/15

 今日も〝無許可バナナ〟のことを考えていた。あらためてすごい話だと思った。景観をきれいにしたいという理由で車道の中央分離帯に三株のバナナを植え、その後毎日欠かさず水をやり続けていたという男性が、最後には市に伐採を命じられ、「切腹するような、涙がちょちょぎれる」といいながら三本ともきれいに伐採したあと、ためしに一本食べてみてすぐに吐き出し、「口の中の水分取られますね、乾ききったスポンジ食べてるみたい」とつぶやくまでの二年間。同居人は「映画すぎる」といっていたが、まさしく二時間くらいの映画になりそうで、その映画はまず男性が三株のバナナを手に入れたところから始まる。男性がどうして中央分離帯を選んだのか、その理由が語られることはなく、彼が毎朝家でじょうろに水を汲み、家から少し離れた車道の真ん中までそれを持っていく姿が丹念に描かれる。車道は車通りも多く、秋には台風がいくつも通過し、冬の寒さはバナナにとって厳しすぎる。しかし男性の不断の水やりによって三本のバナナは順調に育ち、二年目を迎え、いかにも南国の木らしい大きな葉をつける。

 男性は毎朝の水やりのあとどこかへ仕事をしに行っているようだが、それが描かれることはない。映画はあくまでバナナを中心に進む。バナナにとっても暑いのではないかと思うほどの夏を迎え、ついに青い実が上に向かってなりはじめる。しかしここで映画は急展開を迎える。ある朝、男性はじょうろの代わりにはさみを手にしている。「ごめんなあ」、涙を流しながらはさみを動かす男性に、しかしバナナたちが言葉を返すことはない。水やり同様に丁寧な伐採によって、中央分離帯にはすっきりとした見晴らしが戻る。道路脇に横たえられたバナナからまだ青い実を取り、ゆっくり剥いてかじる男性。しかしすぐに吐き出して、「口の中の水分取られますね、乾ききったスポンジ食べてるみたい」と、まるで横にカメラがあるようにつぶやく。暗転。

 そのまま終わるのかと思いきや、また画面が明るくなる。カメラは件の中央分離帯を映している。男性はもういない。バナナの木ももうない。ひっきりなしに車が通る。やがて車の速度が速くなる。映像は早送りされている。いくつもの夜が訪れ、朝が訪れる。夜と朝の訪れさえもやがてコマ送りになり、尋常ではない早送りのなかで、徐々に周囲の建物が荒廃していくのが見える。やがてなにもなくなった荒野、ずっと昔に中央分離帯だったその場所に三本の木が生えてくるところで映画は終わる。許可もなにもない世界に三本のバナナだけが生えている。──そうやって映画は終わる。きっと賛否両論分かれることだろう。賛否両論分かれるとき、僕はだいたい賛のほうなので、きっとその年のマイベストテンに入れてしまうことだろう。

 ところで同居人は今日会社から出るときにエレベーターの隙間にスマホを落としたらしい。その旨を社用携帯から連絡してきたので、さぞ落ち込んでいるだろうと急いで帰ったが、意外にけろっとしていた。その後エレベーターの運転を停止してスマホは救出されたそうで、もうバキバキに割れておそらく使い物にならなくなってしまっていたのだが、そのショックよりも、まだ上司が帰っていないのにエレベーターを止めてしまって申し訳なく思う気持ちが勝っていそうだった。でもそんなこともすぐに忘れて、〝無許可バナナ〟の記事を再読しながらめちゃくちゃ笑い、あげく涙ぐんでいたのでたくましいと思った。

 

11/16

 昨日エレベーターの隙間に落とし、バキバキに割れてしまっていてもうだめかと思われた同居人のスマホだったが、なんと電源がついたらしい。スマホケースに入れていたプリキュアのカードが守ってくれたのかもね♪というのが同居人に会社のひとの見解だった。たしかにそうかもしれない! ちなみに僕のスマホのケースにはポケモンカードワンリキーが入っており、これまた衝撃に強そうなのであった。

 

11/17

 仕事を終えてからディズニーランドへ! というのも僕の父がいつしかチケットに申し込んでくれたらしく、でも父も母も弟も行かないというので僕と同居人のところに回ってきた、そのチケットが今夜の日付だったためありがたく行かせてもらったのだった。僕が最後にかの地へ赴いたのはたぶん中学生の頃のこと、同居人も高校生だか大学生だかのとき以来行っていないとのことでふたりともずいぶん久しぶりの訪問だったが、同居人はどのあたりになんのアトラクションがあるかだとかアトラクションの流れだとかを不思議と覚えていて、まず「カリブの海賊」に乗ったときにはモブキャラのような金髪のおじさん海賊を見て「あ、このひと懐かしい」といったり、そのあと「スプラッシュマウンテン」に乗ったときには隣で僕が「もうこのあとめっちゃ落ちるよね?」と何度もいうのを「いや、次も小落下だから」と制したり、異様な記憶力を見せつけてき、僕はとても感心した。僕が感心したのは同居人の記憶力だけでなくて、やっぱり日本一有名な遊園地というだけあって、キャストの皆さんのプロっぷりや細部まで作り込まれた設備に「おお」と声を上げ続けながら回った。電気代もすごいだろうなと思って「電気代──」まで口にしたところで同居人に制された。ディズニーランドは電気ではなく魔法で動いているのだ。

 僕が前に来たときにはたぶんまだなかったであろう「美女と野獣」のアトラクションはすごくて、城に入ってしばらくは城内をぐるぐる歩いてストーリーを見るくだりがあるのだが、そのまま最後まで見学して終わりかと思いきや、そのあとティーカップ的なものに乗れる運びとなっており、カップひとつにつき十人ほど乗り込んでいざ出発、カップは巨大なルンバのような構造になっていて、どうやってプログラミングされているのかうまく互いを避けながら回転しつつ進んで、ストーリーを最後まで見せてくれるのだった。ガストンのくだりが丸々カットされていたのはさびしかったが、アトラクションとしてはとてもよかった。そのあとは「バズ・ライトイヤーアストロブラスター」を楽しんだ。僕たちのひとつ前はストイックな雰囲気を醸したロン毛のおじさんで、ただ者でないに違いないと見ていたのだが、案の定とんでもない高得点を叩き出していて、令和に生きる武士かと思った。うかつに刀を抜くことのできない令和の世において、「バズ・ライトイヤーアストロブラスター」は武士の憩いの場となっているのだった。

誰もいないようだ……

 

11/18

 仕事のあと同居人と友だちと三人でロイヤルホストへ行った。ロイヤルホストはその名のとおりロイヤルな気分を味わえるので僕と同居人は特に三連休の初日の朝などに愛用していたのだが、夜に行くのは実は始めてだった。夜もやはりロイヤルな気分が味わえてよかった。ハンバーグに胡椒がきかせてあったり、フライドポテトにもなんだかほんのりコンソメっぽい風味を感じたり、パスタのもっちり具合が絶妙だったり、細々としたところの満足度が高かった。座席のふかふか具合もよく、ドリンクバーに行って戻ってくるたびに尻が思ったより沈みこむ感覚があり、最後帰るときにはむしろ少し腰が痛くなっていた。しかしその痛みもまたロイヤルなのであった。

 友だちとは互いの近況、といっても僕と同居人には話すべき近況なんて特になく、急に寒くなってきたなどという天気の話になってしまったのだがそれを話したり、さいきんの休日の過ごし方や、歳を取ることについて話したりした。歳を取ることについて、僕は同居人の考え方が好きで、同居人は映画や小説のなかで年上のひとが楽しそうにしているとその年齢が楽しみになるという。その感覚が顕著に出てきたというのが『ハッピーアワー』を観たときのことで、あの映画で描かれていたことの素晴らしさに感じ入ったのももちろんだが、三十七歳くらいの女性たちが生き生きと過ごしている姿のを見て、自分も三十七歳が楽しみになったという。さらにさいきんではヨ・ラ・テンゴのライブを見て、六十六歳のおじいがギターを弾きぐるっていたうえ、少しふらつきながらもそのギターを頭上に掲げて振り回していたのを見て、同居人だけでなく僕も、六十代もよさそうだと思ったのだった。──というのは余談だが、とにかくそんな話をしたりして楽しく過ごした。次はバーミヤンに行きましょうという約束をして解散した。

 帰宅すると家のなかも寒くて思わずエアコンの暖房をつけたが、まだ本格的な冬でもないのに(というか僕はまだぎりぎり秋だと思っている)暖房に頼っていてはだめだという考えから設定温度を控えめにしているために、部屋はなかなか暖まらず、同居人に除湿になっていないか疑われた、というのも昨日僕は暖房のつもりで除湿をつけており、同居人をがたがた震えさせてしまったので、疑いの目が向けられるのもやむなしという感じだったのである。間違えて除湿をつけていたのに同居人にいわれるまで気がつかなかったというのもやばいが、少しでも暑ければ冷房や除湿をがんがんにつけるくせに、寒いときの暖房は控えめにするなんて、いかにも男性の冷暖房ハラスメントという感じであまりよくない振る舞いなので、明日からはもっとちゃんと暖房をきかせようと決意した。

 

11/19

 激ネムのため、寝ます!

 

11/20

 さいきんは湯船に浸かるのがとても楽しい。いまの家の風呂は手動、それも水とお湯の蛇口をひねり、うまいこと調節することで適温を導き出さなければならない仕組みになっていて、湯船にベストなお湯を張るのには熟練技術が必要なのだが、僕と同居人のうち湯船に浸かりたい気持ちがより強いほうがお湯張り担当というルールのもと、この二年間僕が湯船にお湯を張り続けたところ、見事お湯張りのゴールド免許を取得することができ、毎晩極上のお湯を張ることができている。

 湯船に浸かって「エァ~」なんて声が出てきたらそれはもう冬の始まりであり、おじさんの始まりでもある。そういうことでいうと季節はもう冬であり、僕はもうおじさんになってしまった。でも実際のところ湯船で「エァ~」という声を出すのはなぜだかとても心地よく、そういう健康法なのではないかとすら思う。たまたま名付けられていないからおじさんの仕草のように思われているだけで、なんたらデトックスみたいな名前があれば誰もが遠慮なくできるのではないでしょうか。

 ところで、昨日は同居人の友だちが顧問をしているという中学校の部活が大会に出るといい、せっかくなので同居人と僕も見に行った。同居人とは高校の部活が同じだったというその友だちは、大学入学後は教師を目指し、教師になったあかつきにはぜったいにその部活の顧問をやりたいと思っていたほどの筋金入りの顧問で、毎週末を返上して顧問をやることをたいへんだとは感じつつも、基本的に前のめりで顧問をやっているようだった。サングラスをかけ、椅子に座りながら部員たちに指示を出し、ときに檄を飛ばすその姿は、同世代とは思えないほどに顧問そのものなのだった。試合が重要な局面を迎えると立ち上がってジャージを脱ぎ、部員たちと同じユニフォーム姿になるそのふるまいも、まさしく顧問だった。

 あまり日記に具体的なことを書きすぎてもよくないので、そのスポーツの内容は少し変えて書こう。そのスポーツは、マウンドと呼ばれる場所に立ったピッチャーというポジションの子が、少し離れた場所に座ったキャッチャーと呼ばれる子のほうに向かってなにかしらの曲の冒頭を歌い、その曲がなんなのかキャッチャーが答えるまでの間に、相手チームのバッターというポジションの子がその続きを歌うことができたら塁に出ることができるという競技で、ピッチャーとキャッチャーが事前に相談することがないよう、課題曲は試合開始の際に両チームに伝えられる。今回の課題曲は「ビートルズ(ただし各メンバーのソロ活動は除く)」で、ようするにビートルズの曲であればなんでもよく、試合序盤、ピッチャーはバッターとの駆け引きだけでなく、自分のキャッチャーがどこまで知っているかということも探らなければならず、まずは「ヘルプ!」あたりから攻める。バッターが続きを歌えず、キャッチャーが曲名を答えられた場合はストライク、キャッチャーも答えられなかった場合はボールとなり、バッターはスリーストライクでアウト、しかしボールが四つ出れば塁に出ることができ、ここらへんのルールは他のスポーツとも似ている。顧問をやっている友だちは「最初は歌われてもいいから、『赤盤』でとにかくストライクゾーンを狙え」と指示を出し、回が重なってリードし始めると「『ホワイト・アルバム』で攻めろ」といっていた。部員たちは「はい」と返事をするが、中学生の「はい」ほどあてにならないものはない。ピッチャーの子は『ホワイト・アルバム』を知らないようで、代わりに『イエロー・サブマリン』の収録曲を歌っていたが、それはそれで渋い選曲で、バッターに間違って歌わせ、アウトを取っていた。終盤には相手チームのフォアボールが重なり、押し出しでリードを広げたところで、時間切れとなり試合終了となった。試合に時間制限があるなんて僕は思ってもみなかったが、顧問の友だちは最後は時計とにらめっこをしていたそうで、そういう試合運びも同世代とは思えないほどに巧みだった。素晴らしい顧問っぷりだった。無事勝利となりよかった。

 

11/21

 昨日の夜に見た何週間か前のガキ使がおもしろくて今日もまた再生してしまった。久里浜駅周辺でおすすめスポットを聞き取ってベスト3を決めるという企画で、企画自体はもう何度もやっているものなのだが、今回は松ちゃんが浜ちゃんに向かって「始まる前ウンコしてたな」と振る冒頭からどうでもいい話が続き、ふつうの番組ならカットされていそうなやり取りが残されているというか、むしろそれだけしかないロケになっていて、独特のオフビートな雰囲気があった。特に、五人が久里浜の人びとにおすすめされたペリー公園に向かい、記念館に入ろうとしたタイミングでどこからか「マヨ、マヨ」と鳴く声が聞こえてきて、その正体を探るべく周辺を探したらその正体はカラスで、鳥に詳しいというココリコ田中にどうしてカラスが「マヨ、マヨ」と鳴いているのか訊ね、田中が「知りまへん」と即答したところでかなり笑ってしまった。いまこうして文字にすると少しもおもしろくないのですごい。同じように文字にするとおもしろくなさそうなのに映像だとすごくよかったのがYouTubeにアップされているマユリカと紅しょうがの湯河原旅行の動画で、居酒屋でたくさん注文した食べ物がテーブルに届くたびにじゃんけんするのがとてもよかった。文字にするとおもしろくないものをいかに文字にするか。そこに来年の文フリの種があるような気もする。

 

11/22

 柴田聡子の新曲が素晴らしい! アレンジのかっこよさもだが、実際に柴田聡子の家の付近にある白い椅子をモチーフにしたという歌詞の、詳しい内容はまだ咀嚼しきれていないものの〝近所の白い椅子をモチーフにした〟ということ自体になんとなく感動してしまい、それもう保坂和志じゃん……と思ったのであった。たくさん本を読もうと思った。さいきんはあまり本を読めていない。一ヶ月以上前に図書館で借りた『愚か者同盟』をまだ読み終わらずにいる。内容はとてもおもしろいし読みにくいわけでもないのだが、特に十月半ばくらいからは文フリの原稿を書いていたりなんとなく仕事が忙しかったりで読み進められず、文フリが終わってからもぼーっとしており、それに加えて本自体に物理的な重量があるということもあってページをなかなかめくれずにいる。平行して読んでいる『ワインズバーグ・オハイオ』はゆっくりとしかし着実に読み進められてはいてあと少しで終わる。今週末に両方とも読み終えられればいいなと思う。そのとき読んでいる本をいつまでも読んでいたいという気持ちと早く読み終わりたいという気持ちが相反しないものとして共存している。

 ところで今年はこうやって毎日日記を書くことが習慣づいてきたのに加えて、十月半ばからは文フリの原稿を書いていたこともあり、小説を書くということにも気持ちが向いている。日記と同様に文フリの原稿もGoogleドキュメントで書いていたのだが、「2023年秋のバナナ」と題していたそのドキュメントに書き足そうにも、季節はいつの間にか冬になってしまっているため、「2023年冬のバナナ」という新たなドキュメントを作成せざるを得なくなってしまった。バナナについての次の短い話を書こうと思って、なんとなく思った筋が、スチャダラパーの「彼方からの手紙」に似ていると思ったのであらためて聴いたらすごくいい曲だった。というか「彼方からの手紙」が収録されている『WILD FANCY ALLIANCE』全体が、実は僕が志向しているユーモアと感傷の理想的なバランスなのではないかという気もしてきて、とりあえず書こうと思っている話の仮の題名を「バナナからの手紙」とした。

 

11/23

 過ごしやすし! 同居人が朝から友だちと陶芸体験に行ったので、僕はテレビを見たり、仕事をしたり、本を読んだりした。『愚か者同盟』を読み終えた。最後までドタバタコメディでおもしろかったうえに最終頁に至ってはどういうわけか爽やかさを漂わせていてよかった。小賢しい屁理屈ばかりを垂れ流す肥満の主人公・イグネイシャスの姿が、僕のなかではずっと空気階段の鈴木もぐらに重なっていたので、最後も空気階段のコントのように愛を感じられてうれしかったというのもある。読み終えてから外に出て中華定食屋で小ラーメンと麻婆豆腐ご飯のセットを食べ、歩いて隣の駅まで行って本屋で町田康の『告白』を買った。その後陶芸体験から戻ってきた同居人と合流し、どうだったか訊ねたところ、教えてくれる職人さんがけっこう職人気質が強く、違う、そうじゃないです!といわれ続けて一緒に行った友だちはしゅんとなってしまい、同居人は怒られそうになったらすぐに席を立って職人さんのやりたいようにやってもらうという方式をとったところ、最終的に一番きれいな作品になってしまって恥ずかしかったという。上島珈琲に入ってカフェラテを飲んでから『首』を観に行った。

 『首』はざっくりいうと生真面目な明智光秀が不真面目で小賢しい秀吉たちにそそのかされてガキ大将・信長を襲うに至るという話が暴力と笑いをもって描かれるのだが、予告編で感じていたよりも暴力要素は少なく、むしろだらだらとした笑いのほうが多く描かれていて、初期の北野武監督作品にあったようなキレのある緩急とまではいかないものの、暴力と笑いが表裏一体であり、命は等しく儚いものであるという感覚は今回にも貫かれているように感じた。ノリノリの加瀬亮もいいのだが、個人的には西島秀俊がいつもの西島秀俊でしかないのがツボで、「すまん」のいい方は『きのう何食べた?』のシロさんだし、ふと遠くを見つめる姿は『ドライブ・マイ・カー』の家福さんだしで、どの映画においても西島秀俊になる(なってしまう)というようなある種の生真面目さのようなものがまさしく今回の明智光秀という役にぴったりで、ビートたけし大森南朋浅野忠信のおふざけ三人衆にいいくるめられる姿がかわいそうで笑ってしまった。

 そういう映画外の笑いの要素も含みつつ奇妙なバランスで成り立っている映画で、あらすじや予告編からは当然クライマックスになると予想されていた本能寺の変はなんだかあっさり終わり、その後も続く暴力と笑いは上滑りしている感じがあるのだが、これが意図してのことのようにも思えたといったら北野武を擁護しすぎでしょうか。ようするに信長(加瀬亮)がいい放っていたように「人間生まれたときからすべて遊び」という世界観が終盤にかけて強まり、暴力も笑いもすべてが遊びに収束していっていたように思ったのだ。映画冒頭から執拗に描かれる生首の重要性や価値がどんどん下落し、最後には意味なんてないと断言して終わるというのもまさに象徴的だった。昔のようにひりついたキレのある緩急を演出できなくなった北野武が、それならばぜんぶ遊びにしてやろうじゃないのと開き直って作った映画のようにも思えて、個人的には好きだった。観終わって帰ってからはおでんを食べ、日プ女子を見た。

 

11/24

 朝から頭が痛くて仕事を休んだ。午前中は寝て、お昼にはきしたかのパワプロ栄冠ナインプレイ動画をぼんやり見、午後も寝、そのあと仕事を少しして過ごした。あと洗濯もした。いかなるときも洗濯はする。

 

11/25

 朝ゆっくりしながら『ワインズバーグ・オハイオ』を読み進めて読み終わった。ひとが一生に一度どうしようもなく走り出したり叫び出したりする瞬間、あるいはそうしなかった瞬間がいくつも描かれ、それぞれの記憶のなかだけに秘匿されてきた思い出がぽつりぽつりと語られ、その集合がオハイオ州のワインズバーグという架空の小さな町を形作っていくすごい短編集だった。町の人びとの告白の聞き手として複数の短編にまたがって登場する若き新聞記者ジョージ・ウィラードが、ひとに心を開かせるなにかを備えていることは間違いないのだが、それでいて俗っぽいところもあるのがなんともよかった。ジョージ・ウィラードがワインズバーグを去って都市に向かう終章における「身を起してもう一度窓から外を眺めたときには、ワインズバーグの町は見えなくなっており、彼がそこで送ってきた生活は、これからの大人としての夢をその上に描き重ねていくための、ただの背景になってしまっていた。」という締めの一文(短編集全体の締めでもある)が、逆説的に作者アンダソンのワインズバーグへの愛あるまなざしを示しているようで、それもよかった。

 昼前に家を出て、友だちと遊びに行くという同居人を見送り、僕は図書館へ『愚か者同盟』を返却しに。その後渋谷に出て散髪してから『ゴーストワールド』を観た。退屈な町で誰にも理解してもらえないし全員クソだと悪態をつき続ける主人公イーニドの姿はとてもユニークかつ普遍的で、この映画を観るひとなら誰しも共感してしまうようなキャラクターなのだが、そんなふうに安易に共感してしまう僕たちのような輩こそイーニドからすればクソであり、そういう自己言及的な閉塞感とほんの少しの希望をはらんだ終わり方からは、この映画が九十年代~〇〇年代のアメリカのインディーズっぽい感触を持った映画群のなかにおいても特に支持を得ている理由がわかるような気がした。あとはなんといってもダニエル・クロウズの原作が読みたいと思った。何年か前にエイドリアン・トミネのグラフィックノベルを読んで感銘を受けて以来、同じくグラフィックノベルの人気作家だというダニエル・クロウズも読んでみたいと切望している。この『ゴーストワールド』再上映を期に復刊されて手に入りやすくなったりしないですかね。

 映画館を出てからは、来たる月曜日の来日公演に向けてAlex Gを聴きまくりながら歩いた。

 夜は同居人と再集結し、同居人の弟、そして今年大学生になったばかりという従弟と一緒に焼き肉を食べた。特に従弟くんからしたらなぜ知らないおじさんがいるのかという話だったろうが、そんなことはおくびにも出さず、僕ともにこやかに話してくれてよかった。弟くんは何度も会ったことがあるので勝手知ったりという感じだった。初めて会う従弟くんはこれ以上ないほどの好青年で、大学、サークル、バイト、寮生活すべて充実させており、希望に満ち満ちていて眩しかった。あまりにも明るい未来が待ち受けていすぎるので、逆にさいきんなんか悩んでることある?と聞いたところ、うーん、うーん、としばらく眉をひそめた彼がようやく絞り出した答えは、この前実家に帰ろうとしたら現金をぜんぶパスモに入れちゃっていて、新幹線の切符を買うためにわざわざコンビニでお金を下ろすはめになってしまい悲しかった、というもので、僕も同居人も爆笑してしまった。イーニドだったら悪態をついていたであろうが、まじでいい青年なのであまり悪くいわないでほしい。

 

11/26

 家のなかで季節の変化を最も感じられる場所はトイレではなかろうか、と、都内在住で今朝トイレに入ったひと全員が思ったはずである。冬の朝のトイレはとにかく厳しい。

 寒いうえに小雨も降っているとなると出かけることなんてできず、昼頃までだらだらと過ごした。そのまま終日だらだらするという手もあったのだが、これまでの経験上、日曜日の午後というのは家でだらだらしていると爆速で過ぎ去るものなので、一念発起して家を出て近所にお昼を食べに行き、そのまま美術館の無料の展示を見たり、喫茶店に入ったりして過ごした。喫茶店では同居人が今年よかったものをスマホや紙にまとめている間、僕はバーナード・マラマッドの『レンブラントの帽子』(夏葉社)を読んだ。これは昨日渋谷で『ゴーストワールド』を観てから散歩していた折に、奥渋谷の本屋SPBSで本棚に陳列されていたのを買ったのだった。というのもちょうど昨日読み終えて感嘆していた『ワインズバーグ・オハイオ』と翻訳者(小島信夫、浜本武雄)が同じだった(正確には『レンブラントの帽子』にはさらに井上謙治も共訳者として名を連ねている)ため、運命ですやん、と思って買ったのであり、僕だってなにもむやみやたらに本を買っているわけではない。そうやって昨日買って帰った本を今日は読んだ。

 同名の短編集から三つをセレクトして復刊したという本のなかで、さほど親しくない二人のささやかで大きなすれ違いを描いた表題作ももちろんだが、個人的には二つ目の「引出しの中の人間」がよかった。アメリカからソ連に旅行に来たユダヤ系作家の主人公が、タクシーでたまたまユダヤのあいさつを交わした運転手と懇意になる。運転手は実は小説を書き溜めているといい、いまのソ連では出版できそうにないのだが、自分の小説は必ず広く出版されるべきだと信じており、ヨーロッパかアメリカに持っていって出版してもらうよう取り計らってくれないかと主人公に頼む。主人公は出国の際にスパイ疑惑をかけられることを心配して断るが、渡された原稿には確かに素朴な力強さがあり、もしかするとほんとうにいい小説なのかもしれないと逡巡する。そのあとは主人公が悩み続け、タクシー運転手もめげずにお願いし続けたり業を煮やしたりして原稿は二人の間を行き来し、最後には……、という話なのだが、小説の最後にその運転手が書いた短編四つのあらすじを紹介して終わるという構成から、この世界のどこかに誰の目にも触れていないすばらしい小説が無数に存在するかもしれない、と思わせられてじーんときた。

 帰ってきてからは鍋を食べて、『呪術廻戦』のアニメを見た。アニメの表現はすごいと思った。しかしひとがどんどん死ぬのは、〝劇的な展開〟を作るための展開のようにも思える。

 

11/27

 仕事のあと"Alex God"ことAlex Gを見てきました。ルーズさとタイトさが理想的なバランスで噛み合ったライブでした。ほんとうによかったです。

(Sandy) Alex G

 

11/28

 昨日のAlex Gのライブのなにが素晴らしかったかって、インディーっぽいルーズさとバンド演奏のタイトさが共存していたところなんだな。途中で声が枯れちゃって思わず自分でも笑ってしまう姿と、観客に背を向け足を大きく開いてギターをかき鳴らす姿、そんな二つがひとりの人間の姿として連続して現れるんだから、まったくまいっちゃった。音源よりダイナミズムあふれるタイトな演奏を牽引していたのは間違いなくドラマーのひとで、彼が身体全体を揺らしながらこぢんまりと、しかし一音一音力強くドラムを叩き続けることでバンド全体が引き締まっていた。Alex Gはいかにもアメリカのインディーっぽいローファイなノリを引き継ぐアーティストだと思うけど、ルーズであることと未熟であることは違う。ルーズであることとタイトであることは両立する。それは映画でも小説でもいえそうなことだと思う。そんな大切なことを教えてくれたAlex Gとそのバンドに向かって「アレックス・ゴッド!」とかけ声を発していたひとがいたのも無理はない。ところで今日は仕事を終えてから同居人と五反田のTSUTAYAに行って、『アウトレイジ』を借りて帰った。『首』を観たから『アウトレイジ』も観返さない手はないと思ったのだ。『アウトレイジ』の頃のたけしには凄みがあって、やはり『首』はその凄みを失ったいまの彼がいまの方法で作った映画だったのだと再確認した。俳優としての凄み、監督としてのキレはもうないかもしれないが、それならばそれで、「すべて遊び」の映画を作ることはできる。いまできることをやる。Alex Gさん、北野武さん、大切なことを教えてくださりありがとうございます。

 

11/29

 Alex Gのライブについて「インディーっぽいルーズさとバンド演奏のタイトさが共存していた」というふうに書いたけど、「ルーズさ」というのはともかく、「タイトさ」という表現がそぐわしいのかどうかはわからない。しかし一昨日Spotify O-EASTでライブを見ながら僕は確かに「タイトだな」と感じたのであり、そうである以上、いちおうこのまま「タイトさ」という言葉を使う形で進めさせていただくべきだろう。

 タイトであるということはようするに引き締まっているということだ。これが技術的熟練を意味しているかというと、もちろんある程度の相関関係はあるだろうが、それだけではない。演奏が下手でもタイトに聞こえるということはあり得る。だって一昨日のAlex Gも、べつに下手というわけではないにしろ、既に書いたとおりインディーっぽいルーズさを持ち合わせていたのであり、それでも「タイトだな」と感じたということは、これは演奏の聞こえ方の話だけでなくて態度の話も含んでいるということなのではないかと思う。思い返してみれば同じくこの十一月に見に行ったYo La Tengoのライブも多分にルーズさを含んでいたにもかかわらず、同時にタイトでもあった。これについては僕自身が十一月十日の日記にて

「どんなにギターを弾きぐるい、みずみずしくて美しいノイズを鳴らしても、間奏が終わればすっとマイクの前に戻る。職業としてのインディーズバンド、職業としてのヨ・ラ・テンゴ。」

 と書いていて、これを「プロ意識」なんてふうに呼ぶとどうも仕事論みたいな方向性に行ってしまうような気もするので、やはり単語にするとしたら「タイトさ」なのだ。ライブがタイトであることは素晴らしい。ライブは一回一回が一回きりのものであり、演奏するひととそれを聞くひとがその日ライブ会場に集まって相互に作用しながら一体となって作り上げていくものであるがゆえに、ルーズであり同時にタイトであるという事態がいくらでも起こり得る。

 いっぽうでたとえば映画になると、一回一回の上映は一回きりで、その日映画館のスクリーンの前に集まったひとたちに向けて上映されるという一回性のようなものはライブと同じではあるけれど、ライブと決定的に違うのは、映画というものが既に撮影され編集され完成されたものとして上映されるという点であり、これが観客の目にタイトなものとして映るためには、映画そのものにタイトさが内包されていなければならない。ここで思い浮かぶのは、僕が今年最も好きだった旧作映画である『メーヌ・オセアン』のことだ。あの映画って、話の内容自体は間違いなくルーズでグダグダだ。でもただルーズでグダグダなだけの二時間超の映画なんて観ていられない。ルーズでグダグダなのにだれることなくずっと楽しめたのは、やはりあの映画がタイトだったからだと思う。そのタイトさが何によってもたらされていたのかといえばなにより編集だ。ルーズでグダグダなように思えた物語は、さりげない省略や小気味よい転換によってそう思わされていたのであり、その裏にはタイトな編集があった。Alex Gのライブにおいて、身体全体を揺らしながら力強くドラムを叩き続けるドラマーの彼がバンド全体の演奏のタイトさを牽引していたのと同じように。……そんなふうに無理やりAlex Gの話に戻してみたところで、「タイトさ」という単語がだんだんあいまいで概念的なものになってきていることは否めず、僕がライブで「タイトだな」と感じたときのもうちょっと具体的な感覚とはずれてきてしまっているような気もするので、この話はここでやめて、今日のことを書いて終わろう。

 今日は仕事を終えてから同居人と集合し、漫画や小説を買って帰った。帰路にも鼻をすすっていた同居人だが、家についてからはいよいよずびずびになってしまい、「顔面を取り替えたい」と嘆きながらベッドに入っていった。僕が寄り道して帰りたい素振りを見せたせいで寒いなか歩いたというのもあったので、申し訳ないことをしたと思った。しばらくしてから、無事に寝られたか確認しようと思って顔にかかっていた布団をちらっとめくったところ、まだ起きてスマホを見ており、申し訳ないけど少しだけ笑ってしまった。──というのが今日のことである。

 

11/30

 寒すぎ!

二〇二三年十月の日記

10/1

 図書館で借りた『愚か者同盟』を、家にいるときに少しずつ読み進めている。国書刊行会の本のご多分に漏れず非常に重量感のある単行本のため外出時には持っていけない。そのため家にいるときは『愚か者同盟』、外に出るときは講談社文芸文庫の『ワインズバーグ、オハイオ』という形で並行して読み進めている。『愚か者同盟』の主人公イグネイシャスは引きこもりで肥満で、口を開けば屁理屈か言い訳か皮肉しか出てこない最悪の人物なのだが、それゆえに台詞のドライブ感がすさまじくてかなり笑ってしまう。丁寧語で屁理屈を並べてゆく様は空気階段の鈴木もぐらがラジオでよくやっている笑いに近い気もして、僕のなかではイグネイシャスともぐらが自然に重なっていっている。朝は白米と納豆と卵焼き、昼はルーカレーを食べ、その間に読書したり洗濯したり少しだけ寝たりして過ごした。

 午後は早稲田松竹に行ってロバート・アルトマンの『雨にぬれた舗道』を観た。これがほんとうにすごい映画だった。特に中盤まではとんでもなくおもしろい映画を観ているという興奮が止まらず、そこから終盤にかけての物語の展開については、こっちに行くのかい、と戸惑いもしたものの、しかしあの〝長い一日〟の夜──産婦人科に行って待合室での露骨に静的な会話や男性医師による診察で削られ、社交クラブでだらだらと続く付き合いに削られ、そのあと執拗に家まで送ってくるうえに「きみには愛が足りない」とのたまってくる老齢の男性に削られ、そうやって削られきった夜──に、ベッドで眠る青年に向かって最後の助けを求めるかのようにすべての心情を吐露し、「あなたに抱いてほしい」と告白して布団をめくると青年の姿がなく、代わりにまるでおちょくるかのような人形が置かれていたというのは、主人公の女性が精神を失調するにはおそらく十分すぎるほどで、そう思えば終盤の展開もうなずけてしまう。というかうなずかされてしまう。しかもそれを、ことさらホラー風味を強調するでもなく、あくまで前半までのトーンの延長線上で描いてみせ、終盤まで話の行き着く先がわからないまま進んでいたのもすごい。ジャンル分けするとすればサイコスリラーとかホラーとかということになるのかもしれないが、演出や撮影はジャンルを拒否しているようにも思えた。特に撮影は素晴らしくて、室内でズームイン/アウトを繰り返し、動き回る人物を常に追い続け、感情が動く決定的な瞬間の表情を捉える。あるいは孤独な女性の姿を室外から覗き見るように撮りながら、女性を疎外して展開される周囲の会話を観客に聞かせる。そうやってカメラが女性の姿を追いかけ続けることで、彼女の感情が動く瞬間を僕たちは目撃することになり、その結果として終盤の展開にもうなずかされてしまったのかもしれない。あと、僕もスマホで動画を撮るときには拡大して動くものを追いかけ続けるのが好きなので、そういう個人的な好みと一致していたのもよかった。

 二本目の『ロング・グッドバイ』を観たい気持ちもありつつ、同居人とその会社の同僚との飲みに合流すべく帰った。楽しかったのでよかった。トウモロコシ茶とジャスミン茶を持ってきてくれた店員さんに、どっちがどっちか尋ねたところ、それぞれのグラスを指さしながら「モロです、ジャスです」と教えてくれて、その省略の仕方が妙におもしろかった。

 

10/2

 さいきんの僕の生活における三大「そういえばあれどうするの」といえば、新しい冷蔵庫の背が高いためにその上に置けなくなってしまった電子レンジの行き場と、ぜんぜん受講できておらず溜まってゆく「ことばの学校」の授業と、ついに来月に迫ってしまった文フリ東京だ。このなかでも特に文フリはたちが悪くて、こうやって毎日日記を書いていることで、文フリに向けての進捗を生んでいるというふうに身体が誤解して安心しきっている。しかし現実には文フリに向けての進捗はなにも生まれておらず、そもそも僕は文フリが十一月のいつに開催されるのかということさえわかっていない。重ねてよくないのは、さいあくの場合この日記を冊子にすればいいと考えてしまっていることだ。そういうBプランを持ち合わせてしまっていることでさらなる油断が生まれている。進捗の代わりに油断だけが生まれている。

 しかしこうやって問題を自覚できていることはせめてもの救いであり、僕のえらいところであろう。僕は日記ばかり書いていないで、毎日少しずつでもいいから文フリに向けての文章を書いていくべきなのだ。文章というのは書いていくことでしか書かれえないものなのだ。とはいえ毎日数百字程度の日記を書くというこの習慣も捨てがたいため、書く時間を増やすなりなんなりしなければならない。かといって一年でもっとも愛おしいこの秋という季節を散歩せずに過ごすのももったいない。ということは、日記を書く時間は削らず、しかし書く時間の総量は増やさずに文フリのための文章を書く必要がある。そうなると、まず僕がやるべきなのは、いまこうやって毎日書いている日記に虚実を入り混ぜていくことだろう。そうしているうちにだんだん文フリのための文章のかけらのようなものが生まれていくと信じて。たとえば──今朝家を出るときと夜ごみを出しに行くとき、あまりに心地よい涼しさに思わず「おお」と感嘆の声を出した。恥ずかしいことに朝も夜もちょうど隣部屋のひとがドアの前にいて、僕の「おお」を聞かれてしまった。というか隣部屋のひとは今日一日中ドアの前にいたらしい。それを知ったのは夜ごみ出しのために外に出た僕の「おお」に彼が「今日ほんまに涼しいすよね」と勝手に応じてきて、そのまま語り始めたからだ。おれ今日ずっとここにいたんすよ、だって秋の涼しさって家を出た瞬間がいちばん気持ちええやないすか、てことはずっとドアの前にいればあの瞬間の気持ちよさを永遠に味わえるんちゃうかなと思ったんすよね。僕は勘弁してくれと思ったのと、でも僕が会社から帰ってきたときこのひとドアの前にいなかったよな、とも思った。「話盛ってません?」と聞こうとしたがやめて、なにもいわず会釈だけして部屋に入った。だいたいどうして彼が僕に対して話を盛る必要があるのだ。

 

10/3

 会社を出て同居人といったん夜ご飯を食べてから、近所に住む友だちと散歩をした。道中で銭湯にも寄って、今日はサウナを二周した。ふだんはサウナ一周論を唱えている僕だが、友だちと行くと二周入るのもやぶさかではなくなる。僕のサウナ一周論なんてしょせんその程度なのだ。銭湯を出ると僕はすっかり眠くなってしまい、ぼんやり歩きながら左右にゆっくり流れてゆくマンションの名前を声に出して読み上げた。帰ってきてからそれらの名前を思い出そうとしてもひとつも思い出せない。しかしそれらのマンションひとつひとつの、ひとつひとつの部屋に住んでいるひとたちがいて、この世界に存在する様々な申し込みフォームにそれらのマンション名を記入している。僕がその名前を思い出せないマンションに住んでいるひとたちがいる。反対に、誰かが思い出せないマンションに僕は住んでいる。そういう類いの対称性が世界にはある!

 

10/4

 今朝は半袖では寒いくらいで、まだ家にいた同居人に寒いからジャケットかなにかを羽織って出ることをおすすめするLINEをしたが、夜帰ってきてから聞いたところ、ジャケットが見当たらずけっきょく半袖で家を出て震えながら出社したらしい。僕も僕で会社に着くまでにお腹が冷えた。まったく愚かなふたりが同居したものだ。しかしいまはまだ暑さが去ったうれしさが勝っている段階なので、急な気温の低下による腹痛なんてむしろ大歓迎なくらい。とはいえ身体には少し響くものがあり、ひどく疲れて激ネムになった。

 

10/5

 たぶん今日はかなり散歩にいい気候だった。会社の窓から見るだけでもそれがわかった。

 今日は文フリの開催日を知った。十一月十一日開催ということは十一月に入った頃くらいには入稿していないといけなくて、ということはあと一ヶ月しかなく、もう何かしらを書き始めたほうがいい。僕は「掌編」のジャンルでブースを申し込んだので短い小説をいくつか書ければ理想だが、書くにもとっかかりが必要だ。とっかかりというかテーマというか……。そんなことを考えていたところ、同居人に「バナナ倶楽部なんだから『バナナ』でしょ」といわれ、たしかにその通りだと思った。僕たちは「バナナ倶楽部」として昨年も一昨年も出ていて、そんな名前だからなのかおそらくバナナ好きなのであろうひとたちがときおり僕たちのブースを訪れ、バナナの話なんてほとんど出てこない冊子をぱらぱらめくって残念そうに去っていくのを覚えていた。出店者カタログに「東京でバナナについて研究しています」なんていう自己紹介文を載せていたのもよくなかったと思う。それがバナナを真に愛するひとたちへの冒涜であり挑発であるといわれれば反論のしようがなかった。僕たちはもっと真剣にバナナに向き合う必要があった。バナナについての掌編を書くことが〝真剣にバナナに向き合う〟ことなのかどうかはわからないが、とりあえず書き始めるとっかかりとして「バナナ」という単語を念頭に置くのは少なからず意味がありそうだった。バナナには広がりがある。喜劇があり、悲劇がある。ひとが滑って転ぶまでのほんのわずかな時間を永遠に感じさせる魔法があり、「いずれにせよひとは滑って転ぶ」と断言する冷酷さがある。何かを書き始めるにあたって、「バナナ」ほどとっかかりとしてふさわしい単語は他になかった。……なんてことを文章で書くのは簡単だが、実際に文フリへの出店を控えた身としては、バナナについての文章をどう書いていくかということを現実に落とし込む必要がある。たとえば、バナナを使った自由律俳句。

 釘を打ったバナナを解凍して作ったパウンドケーキ

 これは自由律俳句としては長いが、時間的な前後を想像させるという点で広がりを持った句だと思う。記録的な寒さを記録したある冬の北海道、テレビでは凍りついたバナナで釘を打ってみせる姿が放送され、以上、夕張市からの中継でした、というアナウンサーの鼻づまりの声に重なる形で画面には「このあとスタッフがおいしくいただきました」というテロップが映し出されるが、そのあとバナナはスタッフにいただかれることなく夕張市のスーパーに陳列され、それを夕張市在住の中年男性が手に取って、冬にバナナ、とも思ったが買って帰る。冬にバナナ、と相変わらず奇妙に思いながら家に着いた男性は、なんだかふつうに食べてしまうのも違うような気がして、ふとこれまで作ったこともないパウンドケーキを作って、誰に見せるでもなく写真を撮ってひと切れ食べる。半分は冷蔵庫で冷やして、残りは計画性のない先送りとして冷凍する。釘を打ったバナナを解凍して作ったパウンドケーキはこうやって冷凍されて、男性が三年後に冷蔵庫を買い替えるまで冷凍庫に置かれっぱなしになっている。……こういうふうに少しずつ書いていくことで文フリに向けた出稿へと繋がるのだ。

 

10/6

 秋という季節に照準を合わせてきたとしか思えない新譜のラッシュ! 君島大空さん、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーさん、ウィルコさん、アニマル・コレクティヴさん、クレオ・ソルさん、くるりさん、スフジャ……、スフィアン・スティーヴンスさん、サム・ゲンデルさん、サム・ウィルクスさん、ドレイクさん、ありがとうございます。スフジャ……、スフィアン・スティーヴンスの新譜は特に素晴らしくて泣きそうになる。聞きながら、文フリに向けてディスクレビューを書くことを思いつく。「バナナ」という単語がアルバム名かアーティスト名に入っている架空のアルバムのレビューというのはどうだろうか。架空のアルバムのレビューを書くことには、そのアルバムが世界に存在し、すなわちそれを作ったアーティストも存在したかもしれない、していてほしい、という祈りにも近い気持ちが含まれる。しかしもちろんそれだけではなく、いやむしろそれ以上に、ただ書いていて楽しいから書くという要素が大きい。今日は激ネムなので書かないが……

 

10/7

 今年ベスト級のよい気候! これ以上ないほど気持ちのよい秋晴れの朝、洗濯物をベランダに干し、しばらく日光とそよ風にまかせ、出かける前になってタオルやシャツや下着のひとつひとつを手でさわりながら乾いている/まだ湿っているの判定を下し、乾いているものから取り込んだ。夏であれば午後に雨が降ることもあるし、そうでなくともすさまじい湿気のために夕方まで出しっぱなしにしておくとむしろしけってくるので、出かけるまでに乾かなかったものは浴室乾燥に切り替えていたものだが、こんな秋の日には雨が降る心配などいっさいないし、空気にもさわやかな抜けのよさがある。これならば夕方まで外に出しっぱなしでも大丈夫だろうと判断し、厚めのシャツやズボン数点をベランダに干したまま家を出て、同居人の秋冬用のコート二着をクリーニングに出しに行った。なぜ僕が、と思わないでもなかったが、そんなことはほんの微々たる些末な問題としてすぐにそよ風に吹かれてどこかに飛んでいった。

 コートをクリーニングに出してから、ネイルをやりに行っている同居人と落ち合うまでに少し時間があるようだったので、近所の商業施設のなかのベンチに座って『ワインズバーグ、オハイオ』を読み進めた。商業施設とはいうもののそこには僕のオフィスビルも建っているため、ほぼほぼ庭みたいなものだと思っており、今日座ったベンチのこともとうぜんそこにあるものとして以前から認識はしていたが、実際に座ったのは今日が初めてで、いざ座ってみると、最高の秋晴れということもあってか周囲の景色がえらくいいものに思えてうろたえてしまった。しばらく座っていると足元を鳩が歩いた(という文章ではまったく伝わりきらない感動を、僕はその鳩が僕の足元を通過したときに覚えたのだが、そのことを文章にしようとするとなぜか「しばらく座っていると足元を鳩が歩いた」としか書きようがない。似たような話は実はもうひとつあって、僕がベンチで本を読んでいるときに隣のベンチに犬の散歩中のひとが来て、そのひとはベンチに座ると犬を膝の上に抱きかかえてなにか話しかけながら撫で、犬も気分よさそうにときおり身体をくねらせており、僕はその犬の黒い鼻に目を取られながら鳩のときと同じようにちょっとした感動を覚えたのだが、そのことを書くと長くなりそうだったのでやめる)。

 家で洗濯物を取り込み、クリーニング屋に行き、ベンチに座って本を読み進める間にスフィアン・スティーヴンスとサム・ウィルクスの素晴らしい新譜を聴いていた。

 同居人と落ち合うとそのまま隣駅まで歩き、うどんを食べ、下着と本を買い、喫茶店でひと息つきながら買った本を眺め、カラオケに行った。帰ってきてからは冷蔵庫にあった野菜と豚こまとキムチと味噌で炒めものを作ったらかなりうまくいった。いい一日だった。ところが同居人はなぜか今日ずっとおなかの調子が悪いらしくてかわいそうだった……

 

10/8

 家で読書したり、ルーカレーを作ったり、昼寝したり、『ジョン・ウィック:パラベラム』を観たりして過ごした。夜、近くの映画館で『ジョン・ウィック:コンセクエンス』のちょうどいい上映回があったので観に行った。『ジョン・ウィック』はある種の美学に貫かれているので楽しく観られる。作り手がはっきりと意志を持って作り上げた作品は楽しい。一方、僕は文フリのことをなにも進めずに時を過ごしている……

 

10/9

 今日はやたらと眠かった! ベランダを雨水が流れる音が心地よく、いつまでもベッドにいたくなってしまったということかもしれない。あるいは、秋になったはいいものの、予想していたよりも少し寒く、それに耐えうるほどの衣替えができていないために、ベッドを抜け出せなかったということかもしれない。とにかく眠かった。しかし三連休の最終日を楽しく過ごそうということで昼に焼き肉を食べることとし、そういえばさいきん近くに越してきた友だちがジンギスカンを食べたがっていたので誘い、僕と同居人と友だちでジンギスカンを食べに行った。おいしかった。そのあとプリンを購入して(プリン屋さんでは「うっせえわ」のオルゴールバージョンがかかっていてウケた)、散歩し、友だちの家に少しお邪魔してから帰った。帰路で眠気がよみがえってきて、帰宅後はふたりとも昼寝した。よく考えたらジンギスカン帰りでシャワーも浴びずにベッドに横になってしまったけどにおいとかは大丈夫かしら、と思いながらも眠気に抗えずに寝て、起きたら夜で、同居人がおでんを食べたいということだったのでスーパーまで買いに行ってあたためて食べたが、同居人はあまり調子がよくなかったそうで、あまり食べられずなんと卵を残していた。おでんの卵を! 夜は文フリの話を少しした。日記を振り返るまでもなく自分でもわかっていたが、絶好の三連休だったのになにひとつ進んでいない! 急に気温が下がったので身体がびっくりして進められずでした……、なんてふうにチョケることもできるが、そろそろちゃんと考えなければならない。「バナナ」をテーマにするということと、架空のディスクレビューをやるかもしれないということしか決まっておらず、しかし数日経ってみるとディスクレビューもそこまでいい企画とは思えず、けっきょく振り出しに戻っている感覚がある。とりあえず文フリ用の原稿を書きためるためのGoogleドキュメントは作ったので、スマホでもパソコンでも書ける環境は整った。

 

10/10

 朝起きたときから頭が重い感じがしたのだけれど、経験上こういうときは会社に行ってしまえばなんてことはないので行って、しかし会社に着いて以降もどんよりとした感じは拭えないどころかむしろ次第に増し、昼過ぎにピークを迎え、早退も視野に入れつつあまり頭を動かさないように仕事していたところ、どういうわけか夕方頃から頭痛は引いていって、夜にはばっちり明瞭な頭脳を手に入れることができた。せっかく明瞭な頭脳を手に入れたのだから文フリに向けての原稿を書こうと考えた。掌編といったっていろんな長さや文体や展開を持ったものがある。リディア・デイヴィス的な超短編を書くのもおもしろそうだし、乗代雄介がブログにアップしているようなくだらないようできらめきのある掌編を書くのもよさそうだとあれこれ考えたが、最終的には特になにも考えないままに「バナナを食べなさいと世間もお母さんもいうけれど、朝起きてすぐに丸一本なんて食べられないよ!」と少年が語り始めるスタイルで始めてみてとりあえず二千字書いた。難しいことは考えずに書いてみたほうがいい。会社はとりあえず行ったほうがいいし、文章はとりあえず書いたほうがいい。豆が腐って変なにおいを発していても、とりあえず食べてみたほうがいい。きっと納豆もそんなふうに見つかった。数々の〝とりあえず〟が人類を推し進めてきたのだ。

 

10/11

 今日はニンテンドースイッチのスイカゲームをダウンロードしてしまった! しょうもないのに時間が溶けるという噂のとおり何度も連続でプレイしてしまった。テトリス的な箱のなかにフルーツを入れていき、同じフルーツ同士がくっつくとひと回りサイズの大きい別のフルーツに変わり、それでポイントが加算されるというルールになっていて、こういうふうに物と物をくっつけて大きくしていくゲームというのは定期的に流行るような気がするが、しかしこのスイカゲームの場合、くっつき具合というか、フルーツの落ち具合が絶妙で、小さなフルーツは大きいフルーツのすき間にするすると落ちていくし、フルーツ同士がぶつかるとその反動でお互いに跳ね返されたりする。それを利用して同じフルーツを近づけてくっつけるというのがどうもミソになっているようなのだが、くっついたかくっついていないかという判定は意外にシビアなようで、「くっつけ、くっつけ!」と思わず口に出したり、スイッチ本体を傾けたり斜めに振ったりして、くっついたときにはきもちがいいし(くっついた瞬間にほんの少し弾けるような演出があるのがそのきもちよさを助長する)、最後までくっつかずに箱からフルーツが溢れてゲームオーバーになったとしても、あと一ミリだったのに……という惜しさから思わずリトライを押してしまう。同居人はそのループから抜け出せなくなってしまい、ベッドに入って目を閉じてからも「もうちょっとだけやろうかな」とスイッチを要求してきた。僕はそれから少し仕事をして、文フリ用の原稿を書き進めた。……という文章を、仕事にも原稿にもまだ手をつけていない段階で書いている。このあと僕は仕事と原稿をするかもしれないし、スイカゲームのループに飲み込まれてしまうかもしれない。それは明日の僕のみが知る。

 

10/12

 久しぶりに会った友だちと焼き肉を食べ、散歩し、解散際に「これ返すわ」と漫画を十二冊返してくれた。それらの漫画をその友だちに貸していたことを僕も同居人も忘れていて、思わぬサプライズプレゼントとなった。

 ところで昨日の夜はけっきょく仕事もしたし原稿も進めたのだが、一昨日二千字書いたのに比して昨日は千字しか書けず、今日はもう書かずに寝ようとしている。急ブレーキ!

"New York, New York"みたいな感じで"Roppongi Roppongi"

 

10/13

 今日はまあまあ仕事した。夜、社内にひとがほとんどいなくなってから、少しだけ文フリ用の原稿も進めた。相変わらず少年の一人称語りによって進む話を書いていて、今日は「僕とユフスケだけが感じていると思っていたことが、実は日本中、あるいはもしかすると世界中のひとたちみんなが感じていることだったというのが、なぜだかわからないけどとてもうれしく思えて、小さいことかもしれないけれど、こういううれしい一致のなかに、その日テレビの前に座って『ゆうやけバナナくん』を見ていることの素晴らしさが凝縮されていると感じたんだ。」というくだりが我ながらよかった。日記を毎日書いていることによって文章体力的なものが上がっているような気がし、書きながらこれくらいで四百文字くらいかな、みたいな、体内時計に似た感覚がある。

 

10/14

 昨日は同居人が飲み会から友だちを連れ帰ってきてそのままうちに泊まったため、今朝は三人でパンを食べに行った。秋の朝はよい。気分もよろしくなって、スフィアン・スティーヴンスの新譜のLPを買いに行くのはどうかと同居人に提案したところ、内心どうだったかはわからないが少なくとも表向きは賛成してくれて、僕たちはそのまま渋谷に行った。スクランブル交差点に面するあの三千里薬品の上のマグネットという商業施設では、同居人が幼き頃に見ていたという『ぴちぴちピッチ』というアニメの二十周年記念かなんかのポップアップショップが開催されていて、その告知ポスターが道路に面する形で掲示されているのを見つけた同居人がそのままマグネットに吸い込まれていったので僕もついていった。僕は『ぴちぴちピッチ』のことを知らなかったのだが、ポップアップショップのグッズ展開の雰囲気と同居人の断片的な説明から察するに、どうも七つの海を舞台に、少女たちが人魚に変身しつつ、歌声を響かせる物語らしい。歌声を響かせてなにをするのかはわからなかった。『セーラームーン』にも『プリキュア』にも悪役が存在するので、もしかすると『ぴちぴちピッチ』にも悪の人魚、あるいはもっと直截的に潜水艦とか巨大艦隊とかが存在し、歌声で倒すのかもしれない。

 その後タワレコに行って無事にスフィアン・スティーヴンスさんのLPを購入した。いったん帰って買ったLPを流してから、恵比寿ガーデンシネマに『ギルバート・グレイプ』を観に行った。『ギルバート・グレイプ』はいかにも八十年代後半~九十年代前半くらいのアメリカ映画っぽいルックの素晴らしい映画で、ややもっさりした音楽とともに暗転して場面転換していく作りが一周回って非常に心地よいうえに、アメリカの田舎のどこにも行けない感じが、ちょうど同時代くらいのケリー・ライカート『リバー・オブ・グラス』とはまったく異なるテイストで描き出されていて、なんともじんわり来た。主人公家族の造形にそこはかとなくジョン・アーヴィングっぽい雰囲気を感じたのだが原作は違うひとのようで、しかし監督のラッセ・ハルストレムジョン・アーヴィング原作の『サイダーハウス・ルール』も監督しているそうなので、近からずも遠からずという感じかもしれない。

 夕方にはまた違う同居人の友だちが来て少し飲んだあと、早めに家に帰ってだらだらし、その後文フリの原稿と日記を並行して進めている。『ギルバート・グレイプ』のなにげない日常描写のよさと、物語の着地の思いがけなさを、文フリの原稿にも取り入れられたらうれしいと思っている。

 

10/15

 一般的に雨が降ると気温が下がる感覚がある、というか事実として気温は下がるのだが、特に秋の雨というのはその感覚が強く、今朝なんてほぼ冬だった。今期のドラマでおもしろそうなものの一話を見たり、昼寝したりして過ごし、夕方雨が上がったときに僕は文フリの原稿を進めるべく、同居人は読書をすべく近所の喫茶店に行った。そのあと買い物をして帰宅し、僕は外国にいる友だちとズームでしゃべった。夕飯の支度ができずにズームに突入したため、途中で音声を繋ぎながら台所に移動して手羽先を焼いたりした。「なんか焼いてる?」と友だちにいわれた。そのまま同じフライパンで冷凍の餃子も焼いて、そのあとそのフライパンを洗った。「フライパン洗ってる?」と友だちの指摘の精度が上がっていた。

 

10/16

 朝から激ネムで、仕事をしているうちに目が覚めたが定時を過ぎる頃にはやはり激ネムになって、会社を出て家で夕飯を食べたり風呂に入ったりテレビを見たりしているうちにまた目が覚めたものの、そのあとはやはり激ネムで、文フリの原稿も少ししか進められなかった。少ししか進まないなりにいい方向に持っていけたような気もするが、なにせ激ネムなため、いったん寝て明日見直してみるしかない。

 

10/17

 ベンザブロックのCMにおける綾瀬はるかは、最後だけ出てきてただ「ピンポン」というだけのひとになっている。水曜日のダウンタウンにおける浜田雅功にも同じようなことがいえる。プレゼンターから「今回の説こちらです」と振られるたびに、大きくて高い声でその説を読み上げるだけのひと。役割が形骸化し、ただのシンボルと化し、〝そこにいる〟ということが仕事のひと。そのポジションまで行けるのはすごいと思う。僕はまだ程遠い。僕はちゃんと文フリの原稿を書かなければならない。書き進めて、この話はここで終わってもいいかもしれないと思うところまで来た。そこで終わると明らかに尻切れトンボなのだが、それでもそこで終わるのもありだと思う。でもそれは僕が持ち前の飽き性ゆえにそう思うだけかもしれなくて、とりあえずはもう寝て、明日もう一度見たほうがいい。

 

10/18

 昨日書き終えたつもりの掌編はあらためて読んでみるとやはりかなり尻切れトンボで終わっていて、なにかしら続きを書いたほうがいいが、しかしこの掌編の終わり方はこれでいいという気もし、「その後」と題した短い文章を付すことにしようと思っている。思ってはいるが、今日は激ネムのため寝ます。

笹だんごの食べ方がバナナでたとえられていた

 

10/19

 連日の仕事の疲れもあるだろうが身体がかなりだるくて激ヤバ!

 

10/20

 仕事の疲れからなのか昨日の夜は激ヤバな高熱が出て、早めに寝たが汗をびっしょりかきながら二時間おきに目が覚め、頭痛も激ヤバで、朝にはほとんど熱も下がっていたがまだ疲れていたので会社を休んだ。頭痛が治まってきたタイミングで少し仕事をしたり文フリの原稿を進めたりした。この日記も文フリの原稿もGoogleドキュメントなのでスマホでもパソコンでも書ける。町屋良平だか誰だかがスマホで小説を書いていると以前インタビューだか何だかで答えているのを読んだ気がするので、スマホで書くことがなんとなくかっこいいと思っていたが、ある程度の長さを持つ文章になるとやはりパソコンのほうが書きやすい、というのもスマホフリック入力とパソコンのローマ字入力とではやはり後者のほうがスピードは速いし、予測変換もパソコンのほうが気が利いている。それにスマホとパソコンでは一行の幅がまったく異なるため、スマホでは文の量が増えるほどにどんどん縦に長くなっていってしまい、大きめの構造を把握しにくい。そんなこというとまるで僕が全体の構造を把握しながら書いているようだがそんなことはございません……

 

10/21

 午前中から『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を観に行ったら映画館を出る頃にはもう夕方の空気になっていた。長い映画を観るとそういうことが起きる。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』、通称『キラフラ』はその長さにふさわしい重厚な映画で、特に熱心なファンというわけではないのだがスコセッシとディカプリオへの信頼感がまた上がった。スコセッシは古いフィルムの修復事業もしていたり、今回みたいな語られてこなかったアメリカ史を描いたり、映画というものを信じているひとだと思う。その想いを体現してみせるべく、ディカプリオは今回とにかくへの字口で浅はかな男を演じていて、デ・ニーロとのへの字口対決も最高だったし、すべてを見透かすような賢さを帯びた目を持つリリー・グラッドストーンとの夫婦関係もすごくよかった。三時間半のなかですごく目立つようなスペクタクルっぽいシーンはそんなに多くはなくて、どちらかというと顔の映画であり、たびたび大写しになるその顔を見ながら、そこに刻まれた浅はかさと、それが引き起こした凶悪な連続犯罪の顛末にぞっとしつつ、『ギルバート・グレイプ』からずいぶん遠くまで来たのね、とディカプリオというひとの旅路にも想いを馳せた。

 帰ってきてから一度昼寝して、キングオブコントを見た。優勝したサルゴリラはすっとんきょうなセリフの裏にそれを発している登場人物の来し方のようなものがにじむ演技の繊細さがあって、ただ変なワードを羅列しただけになっていないのがよかった。個人的には蛙亭と隣人が好きだった。わかりあえない者同士がどうにかわかろうとする対話の過程が描かれていて美しいと思った。毎年楽しみなニッポンの社長の一本目は最初おもしろかったけど、登場する武器が派手になるに連れて、いまこの瞬間にも世界で起きている戦争のことが思い起こされて笑えなくなってしまった。二本目はかなりウケた。

 

10/22

 午前中から早稲田松竹シャンタル・アケルマンの二本立てを観て、出たころには昨日と同様にやはり夕方の空気になっていた。一本目の『ノー・ホーム・ムーヴィー』(二〇一五)は、アケルマンが実家に戻って高齢の母の看病をしつつ、それまであまりしてこなかった親密な会話を重ね、その日常を記録していくというドキュメンタリーで、ある種の法則に基づいて室内に設置されたカメラがその家に暮らすひとの日常を定点で映し取るという形式はやはり『ジャンヌ・ディエルマン』を思い起こさせたけど、『ジャンヌ・ディエルマン』が中年の専業主婦女性を映していたのに対してこちらは高齢女性なので、まずそれだけで動作ひとつひとつがまったく違うし、それにこちらには映されている対象(=母)への親密さ、気まずさ、あらゆる感情が記録されている印象があり、やはり劇映画とは異なる非常に私的な映画だと感じた。ともすればただのホームビデオになってしまいそうなところを、構図の美しさと編集、そしてなによりときおり挿し込まれる風景の長回しが映画たらしめる。映画冒頭で映されるのはどこか荒涼とした野原で強風にさらされ激しく揺れ続ける細い木の姿で、まずそれが(僕の体感で)五分続くのでウケる。しかしそれが冒頭にあることで映画全体のトーンが決定づけられていることは間違いなく、そのあとどんなに親密な会話が繰り広げられようとも、どことなく〝終わり〟へと向かっていることを感じさせられ、そして実際母娘の会話は次第に途切れがちになり、母が起き上がることも減り、映画は静かに終わる。そういう詩的効果のようなものを帯びた風景の長回しが何度か入って、その演出的効果に驚嘆しつつ、ひとつひとつの長さにウケていた。特に中盤の、車窓から荒野を映した長回しがほんとに長すぎて、思わず隣に座っていた同居人と顔を見合わせた。

 もう一本の『家からの手紙』(一九七六)は、ベルギーを離れて数年間滞在していたニューヨークの風景に、実家の母から届く手紙を朗読するアケルマンの声が被さるというインスタレーションみたいな作品で、『ジャンヌ・ディエルマン』をその前年に公開したアケルマンが「ウチ、今後もこういう感じでやっていくんで」と活動声明を出しているかのような長回しがひたすらに続く。この作品における長回しはほんとにあきれるほどに長くて、地下鉄のホームを映したシーン、ニューヨークの街並みを車のなかから映したシーンはいずれも間違いなく十分くらいあったと思う。最後、ニューヨークを離れる船の上から、遠ざかっていく摩天楼を映し続けるシーンも、これで終わりだろうなと思いながら見ていたら延々続いたのでウケた。いずれの作品もそういう長回し狂、車窓狂の側面を感じさせつつ、母娘のかなり私的な内容を描いた映画で、しかし私的で具体的なゆえに普遍性を獲得してもいて、疲れたけどかなりよかった。併映のデビュー短編『街をぶっ飛ばせ』は後の作品と比べるとかなりテンポがよく、粗削りではあるものの、台所に閉じ込められ、さらに自らを閉じ込めて最後にすべてを爆発させる女性の姿は確実に『ジャンヌ・ディエルマン』に繋がっており、そしてそれを抜きにしてもみずみずしさがあってよかった。

 早稲田松竹を出てから新宿で同居人の服を買い、そのあと同居人は友だちとの飲みに出かけ、僕は家に戻った。心地よい眠気が訪れていたが、今日文フリの原稿を進めないでどうするんだという局面だったので一念発起して家の外に出た。近所のカフェに入っていざパソコンを開くと充電がなく、あえなく通常の読書へ……。そのあと会社まで充電器を取りに行って、うどんを食べ、ネットカフェに入った。ネットカフェのブースは信じられないほど狭くて、あまり集中できず進まなかった。

 

10/23

 頭痛につき就寝します!

 

10/24

 昨日の頭痛の延長線上に今日もいるような感じがして、案の定午前中仕事を進めるうちに頭が痛くなってきた。昼にバファリンを飲んだら徐々に治まって、夕方にはほぼ頭痛はなくなっていたが、頭痛薬を飲んで仕事するくらいならおとなしく帰りなさいよと思った。文フリは次になにを書くかなんとなく決まったのだが、文章の持って行き方がわからずに進められずにいる。もう「進められずにいる」とかいっていていい段階ではないというのに……

 

10/25

 遠回しにではあるが、シャンタル・アケルマンが『家からの手紙』において発揮していたおそろしいほどの長回しの反商業主義っぷりにあらためて感嘆するようなことがあり、あの珍妙すぎる映画をなんともう一度観てみたい気持ちになってきている。僕の文フリの原稿もあんな感じでかっこよく進められればいいとも思う。ところで文フリの入稿だが、前回と同様のサービスを使って製本する場合、①今週末二十九日の夜までに入稿して文フリ一週間前の十一月三日に発送してもらうパターンか、②来週末五日の夜までに入稿して文フリ前日の十日に発送してもらい、十一日の当日に一か八か間に合わせるパターンが考えられ、①が安心安全だとは思いつつ、②のほうが書ける時間が増えてうれしい。いずれにせよ大詰めなのは間違いないが、仕事をしたり、仕事で軽率なミスをしたり、テレビを見てしまったり、散歩に心惹かれたりと、日常のあれやこれやによって時間がなくなっている。でもとりあえず今日は少し進められた。

 

10/26

 おやすみなさい!

 

10/27

 今日は早めに帰って原稿を進めようと思っていたが、案外遅くまで会社にいてしまい、ちょうど帰ろうかという頃合いに近所の友だちから

 散歩どう? てかドライブしない? 

 とLINEが来たため、それはおもしろそうだねということで帰らずに友だちと合流した。スカイツリーのほうまで行って、高いねえ、と連呼した。車内では僕がキャバクラや性風俗店やパチンコに行ったことないし行ってみたいとも思わないという話になり、不景気が生んだ悲しい青年だといわれてウケた。友だちも僕もべつに本気でそんなふうに思っているわけではないが、おもしろい表現なので今度から使っていきたいと思った。他には互いの仕事の話や僕の文フリの話になり、こういうのはとりあえず申し込んじゃうことが大切なんだよ、申し込んじゃったら書かざるを得ないからね、とさほど書いていないくせにえらそうに高説を垂れた。いまは基本的に毎日文章を書いてるから身体が文章を書くモードになっていて、文フリが終わってからもこの感じをキープしたいと思ってんだよね、ともいっていて、我ながらえらそうだった。そのあと、友だちと飲んでいた同居人が帰っているところにちょうど通りかかり、終電をなくしてうちに泊まろうとしていた同居人の友だちを家まで送るという運びになった。ひとつの文章のなかに僕の友だちと同居人の友だちが登場してしまいわかりにくくなってしまったが、ようするに僕、僕の友だち、同居人、同居人の友だちの四人でそのまま車に乗って、同居人の友だちを家まで送ったということだ。僕の友だちは結果的にかなり運転してくれたので非常にありがたかった。今日はけっきょく原稿が進まなかったが、たまにはこういう日があってもいい。こういう日が頻出するのはよくないが……

 

10/28

 今日は仕事だった。AIによる画像生成の話のときに「風刺画とかも出せるのかな」と誰かがいったのに対して僕はすかさず「ほら明るくなったろう、みたいなやつですね」とガヤを入れることができて、べつにそんなにウケなかったが自分では満足した。今日は他にもとっさの思いつきでガヤを入れることのできたシーンがあってよかったが、年をとったときにだじゃれが駄々漏れになってしまう現象と同じかもしれない。他にも今日は、お昼に会社の何人かで外に食べに行って階段が急な店に入ったとき、僕が誰かとその店に行くたびにいっている「この階段で毎年五人くらい亡くなってるらしいね」という不謹慎なジョークをいったら後輩が笑ってくれたが、これこそまさにいやなおじさんの第一歩かもしれない。既に第二歩、第三歩くらい行っちゃってるかもしれない。気をつけたいとは思っている。でも問題は、こんなふうに書いていても実際には少しも反省していないことだ。基本的に反省のない生活を送っている。だから文フリの原稿もギリギリになる。

 

10/29

 いい気候の日だった。朝には雨が降っていたのがやがて上がり、涼しい秋晴れの日へと転じたのがうれしさを増した。日記によると、おとといの僕は友だちに向かって、いまは基本的に毎日文章を書いてるから身体が文章を書くモードになっていて、文フリが終わってからもこの感じをキープしたいと思ってんだよね、などとえらそうなことをいっていたそうだが、文フリの原稿を書き終える前にそのモードが弱火になってしまっているのを感じる。というか、もう入稿をぎりぎりまで伸ばすという決断をしたことでいったん気が緩んでいる。そんなときにはいっそ書かずに他のことをしたほうがいいのだが、今日はちょうど何週間も前に借りてから貸し出し延長を繰り返していた『愚か者同盟』の返却期限だったため、図書館に行って再貸し出しの手続きをし、ここ一週間くらい読み進められていなかったのをちょっとだけ読み進めた。相変わらずおもしろいのだが、しかし頭のどこかにはやはり原稿を書かなくちゃという気持ちもあり、大きくは読み進めずに閉じた。あと今日は僕の母と同居人の母を交えて四人で昼ご飯を食べるというイベントもあり、けっこう平和で悪くない回になったとは思うのだが、やはり疲れたようで、帰宅後僕も同居人も昼寝をした。

 

10/30

 毎日日記を書くという行為によって、例年に比べて秋をしっかり味わえているような気がする。日付と文章、日付と文章、日付と文章、……というひとかたまりを毎日書くことによって、秋の一日一日をしっかり噛みしめている。そういう実感がある。でもここ一週間近くの日記を見返してみると「頭痛につき就寝します!」や「おやすみなさい!」みたいな短すぎる日記が頻出しており、これでほんとに秋を噛みしめられているのか疑わしいが、しかし逆にこんなに短くても季節を感じられるというのなら、日記というものは永遠に続けたほうがいい。

 

10/31

 昨日「永遠に続けたほうがいい」と思った日記というものを、今日は一行で終わらす。

二〇二三年九月の日記

9/1

 夜になってから家の外を少し歩いてみるとほんのり涼しくて、これが九月か、と思ったが、しかしよく考えてみるとそもそも数年前までは八月の夜もこれくらいのものだったような気がする。だから今日の夜のちょっとした涼しさを秋のものとして捉えてしまうとそれこそ猛暑の思うつぼというか、いや、夏の夜って前はこれくらい涼しかったでしょ、ということを口うるさく訴えていかないと、夏の夜はどんどん暑くなっていって、僕たちがやっと違和感に気づいた頃にはうだるような暑さが既成事実となってしまう。そういうずるさがここ数年の夏にはある。

 観たもの:ネットフリックスで『ワンピース』の実写版を見た。というか漫画もアニメも通っていないので、僕にとっての『ワンピース』初見は実写版になる。なんだか楽しかったのでよかった。みんなコスプレっちゃあコスプレだし、ゴムゴムの技のシーンもかなり珍妙なのだけど、それが許される場の雰囲気が形成されている。ルフィというひとはすぐにひとに夢を聞く癖があるが、それは原作からしてそうらしく、実写化するとなんとなく彼のやばさが浮き彫りになる感じがあると同居人は語っていた。聴いているもの:Big ThiefのギタリストことBuck Meekさんのソロアルバム"Haunted Mountain"と、Toro y MoiがAlex Gっぽいことをしている"Sandhills - EP"がすごくよくて聴いている。読んでいるもの:リディア・デイヴィス『話の終わり』を今日は少し読めた。「けっきょくのところ、思い出したいこともあれば思い出したくないこともあるということだ。自分が良識的にふるまったり、何らかの理由で面白かったり楽しかったりしたことは、思い出したい。自分がはしたなくふるまったことや、平凡で醜い出来事については、思い出したくない(ただしドラマチックな醜いことはそのかぎりではない)。」ということまで書いてしまっている語り手は、ある意味では非常に信頼がおけて、このひとの話なら長く読んでいられるかも、と思わせられる。

 

9/2

 同居人ともどもまだ具合があまりよくないので今日はほとんどを家で過ごした。座ったり立ったり、昨日の夜から見始めた『VIVANT』を最新話まで見進めたりした。『VIVANT』は王道と荒唐無稽とクサさが合わさっておもしろい。阿部寛があまりにも〝阿部〟が強い演技を終始披露していて、

「ダァー」

「ウォアー」

「ツァアー」

 それらを見ているだけでも楽しい。阿部寛は日本語だけでなくモンゴル語や英語でしゃべっているときにも〝阿部〟が出ていてすごい。そこに加えて、堺雅人の、無音で見たとしたら怒ってるのか笑ってるのかわからなさそうな顔の演技が、いかにも僕たちは日曜劇場を見ているのだという感覚を盛り上げる。話がおもしろいことももちろんだが、僕と同居人は見ているうちに話と〝阿部〟のどちらに楽しみの重心を置いているのかだんだんわからなくなっていった。

 ところで『VIVANT』もまた様々な考察を喚起するドラマのようで、ネットには万人による考察が溢れかえり、製作側も公式にそれを促している雰囲気がある。僕も同居人もそういう盛り上がりには乗りきれず、代わりにラパルフェの物真似動画を見てゲラゲラ笑っていたので、けっきょく僕と同居人は〝阿部〟を楽しむことに重心を置いているのだと思う。そのあとシャワーを浴びながら僕が考察文化に乗りきれない理由を考えてみたのだけど、究極の理由はやはりシンプルに、僕が物事を考えるのが苦手だからだと思う。考えられないのでガワを楽しむことになる。だから「ダァー」とか「ウォアー」とかいって笑っている。

 

9/3

 スーパーに買い出しに行く道すがら電動車いすに乗っているひとに追い抜かされた。老人といっていい領域に差し掛かっているそのひとの半袖半ズボンから出た腕や足は健康的に日焼けしていて、加えてその電動車いすにはパタゴニアモンベルの大小様々なステッカーが所狭しと貼り付けてあり、都市におけるアウトドアマンとしてただならぬ気配を漂わせているのだった。彼のアウトドアマンとしての熟達っぷりは圧巻のドライビングテクで証明された。彼の電動車いすは、べつにのんびり歩いていたわけではない僕をいとも簡単に抜き去り、その先に設置されていたラバーポールが形作るS字カーブも減速することなくするすると抜けていった。追い抜かれてからも広がり続けた差はついに縮まることなく、その先の信号において、彼は青のうちに渡りきり、僕は早足になるもあえなく引っかかる、という形でふたりの明暗は分かれた。

 ──というのが今日の朝のことで、そのあとは友だちがイラスト集を販売しているというコミティアに向かった。友だちは元気そうでよかった。見知らぬ青年からイラストを激賞されたらしく、まさにそういう出会いこそがコミティアのような即売会のよさだと思った。会場ではいしいひさいち『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』の原画展もやっていて、それはちょうど僕が前回のコミティアで買って読んでかなりよかった漫画なので思いがけず見ることができてよかった。いっけんシンプルな線で構成されている四コマのなかにも細かな描き直しの形跡が多々あり、そういう途方もないこだわりの積み重ねが、なぜだか漫画自体のストーリーも思い出させてじーんときた。『ROCA』はいしいひさいち朝日新聞で連載していた四コマ漫画ののちゃん』のなかにときおり登場していたというファド(ポルトガルの民謡)歌いの少女の話で、ばらばらだった登場回を作者自らまとめ、加筆し、一冊にまとめて自費出版したというその経緯だけでも感動的なうえに、いかにも新聞四コマ的な最小限の線で描かれるコミカルで余白の多い物語のすき間すき間に見え隠れする感情の鮮やかさに思わず涙ぐんでしまう。そんなふうに『ROCA』のことを思い出しながら、そのあとは大きな会場のほんの一画だけを周り、よさそうな作品をいくつか買って帰った。

 帰ってきてからは、きしたかのYouTubeでやっていて楽しそうだったパワプロを僕たちもやってみた。やってみたとは簡単に書けるが、実際のソフトの購入には八千円もかかっていることを僕たちはけっして忘れてはならない。夜は『VIVANT』を見た。途中、半沢直樹トーンになる部分があってウケた。

 

9/4

 ここ数日間ほとんど寝込んでいた同居人の体力回復も兼ねて夜少しだけ散歩した。外に出た瞬間は涼しいかと思われたが歩くうちにじんわり湿気がまとわりついてきて、ああ、はいはい、夏ね、とうんざりし散歩はあえなく終了となった。そもそも散歩に出た時間が微妙に遅いのもよくなかった。どうして微妙に遅い時間になってしまったのかというと、ニンテンドースイッチパワプロをやっていたからだ。高校野球の監督になって甲子園を目指す「栄冠ナイン」というモードで遊んでいるが、いつまで経っても公式戦で勝利できず、同居人は早くもいやになってしまいそうになっているが、僕は八千円!と心のなかで言い聞かせてコントローラーを握りしめている。

 

9/5

 細かいところにこだわらないのをかっこいいと思っているわけでも、感覚的で奔放なあり方にあこがれているわけでもべつにないのだけど、記憶を司る脳内機関がきちんと機能していないために、映画や小説の細かな筋や表現をすぐに忘れてしまう。ぼんやりとした〝感じ〟のみが残っている。読んだときの感じ。観たときの感じ。小説の後半の寒々しい砂漠が延々と続くような数十ページがすごかった気がするとか、登場人物ふたりがゆったりと温泉に浸かるシーンがそこだけ時が止まったようで心地よかった気がするとか。あるいは、雨の日に読んだので紙がしっとりしていた、映画館の空調が悪くてだるくなった、そういう小説や映画の外の要素もその〝感じ〟には関係する。〝感じ〟しか覚えていないので、小説のなかの好きな一節を問われてもなにも思い出せない。ただ好きだったという〝感じ〟だけがある。そうなるとせめてその〝感じ〟だけは手放したくないので、文章に残したりしてみる。〝感じ〟を残しておきたいというのも、こうして日記を書いている理由のひとつかもしれません。──そんなふうに書いてみればいかにもそれらしいが、実際はただ習慣として書いているに過ぎない。でもいい習慣だと思う。

 日記を書くことに意味や理由があるかどうかはわからないが、ときどき読み返すのは楽しい。たとえば七月の僕は『君たちはどう生きるか』を観て「よくわからないけどとてもよかった」という〝感じ〟を抱いたらしい。よくわからないのにとてもよかったと思った理由はもちろんよくわからないので、七月の僕は二回目を観に行きたいと思っていたようだが、その後僕が二回目を観に行った記録はない。もし観に行っていたならたぶん日記に書くと思う。でも書かれていない。もちろん日記にはすべてを書くわけではないので、たとえば二回目を観たがぴくりとも感情が動かなかっただとか、映画館を出たあと一緒に観た友だちと大喧嘩をして映画の感想どころではなくなってしまっただとか、そういう理由で日記に書かなかった可能性もあるにはあるが、実際に観に行ったかどうかは日記の書き手である僕自身がいちばんわかっている。それでいうと、僕は二回目を観に行っていないと思う。

 

9/6

 眠いので、寝ます!

 

9/7

 気がつけばそればかり聴いてしまっている、というアルバムが年に数枚ある。Tirzahの新しいアルバムは一周目からそういう絶え間ないリピートの気配をぷんぷん漂わせていて、事実この二日くらい何度となく再生している。話は変わるが──という断りさえ入れればどんなに強引にでも話題をぐにゃりと変えてしまえるという奇妙なルールがまかり通っていることがいまさらながらおもしろいが、一日のなかで何回かに分けて書かれることもあるのが日記という文章の性質であり、そうである以上強引な話題転換が必要になるケースはどうしてもある、たとえば今日のように──、会社を出てから同居人の母方の実家に伺うために中部地方に向かった。そもそもどうして伺うことになったのかが実はよくわかっていなくて、推測するにおそらく同居人が行こうとしていたところになんとなくの話の流れで僕もご一緒することになったのだと思う。

 運悪く台風接近の夜になってしまったが、途中で同居人のお母さんを拾いながら、僕たちは意気揚々と車を西へ走らせた。今日はそのお母さんのご実家までは行かず途中のホテルに入った。同居人が予約してくれていたそのホテルは、オーシャンビューと大浴場が売りだといういかにも昭和然とした海沿いのホテルで、プリンを模したような見たことのないお掃除ロボットがにこにこ顔で走り回るフロントでチェックインを済ませて部屋に行くと、たしかによく晴れた朝だったら絶景であろうオーシャンビューが窓の外に広がっている。しかしいまは雨降りの夜なのだった。

 それでも暗闇のなかに打ち寄せる波がかすかに見えて胸を高鳴らせる。

 大浴場という呼び名にふさわしい、いや、もう巨大浴場といってもいいのではないかと思われる大浴場はもう夜更けだからか空いていて、どんなにぶつくさつぶやいてもお湯の音にかき消されるというのもあり、「おお」とか「これはすごい」とかひとりごちながら入った。僕は目が悪いために、身体を洗う際にはボトルに目を著しく近づけて、それがシャンプーなのかボディソープなのかを確認する必要がある。そうやって目を近づけたままボディソープのノズルを押すと、想定以上に勢いよく飛び出たソープは僕の手のひらを滑り台のように使って飛び散りそのまま右目へと入った。しみる右目にシャワーを当てながら「いてて」とひとりごつ。

 夜更けでひとも少ないというのにしっかり熱されたサウナに入り、しっかり冷えた水風呂に浸かり、露天スペースに置かれた椅子に座ると、雨が足に当たり、ゆるやかにぬるい海風が頬を撫で、家の近所の銭湯と比べて格段に開放的なととのいが訪れた。海風は台風の気配を多分に含んでいて、目を閉じてそれを全身に受けていると、荒廃した世界に唯一残された大昔の施設で、人類最後のととのいを経験しているような気がしてきた。ここに住むひとたちは外の世界との交流を断って来る日も来る日もととのい続けていたが、あるとき外から来た僕たちによって、世界がまもなく滅亡しようとしていることを知らされてしまうのだ。

 部屋に戻ると同居人はもうほぼ寝ていて、その姿を見ると、世界の滅亡はいますぐじゃないと思う。

ものすごくかわいくてありえないほどうるさい掃除ロボット

 

9/8

 あわや大雨かと思われた今朝だったが、起きてみると意外にも雨はほとんど降っておらず、明るくなってついに開陳されたオーシャンビューを眺め「いい水平線だねえ」などとつぶやきながら朝食を食べることができた。そのあとはもちろんまた大浴場に行った。昨日の夜と同じように圧倒的なととのいを味わいながらも、広い場所で裸になっているということが徐々に奇妙に感じられるような気がした。自分の手や足がそれぞれ独立した心を持って、広い場所で露わになっていることを恥じらっているような気がするのだった。手や足は一度それぞれの心を持ってしまうとしつこくて、サウナに入っても、水風呂に浸かっても、まるで僕の手足ではないかのようにびっくりしてみせた。いや実際にはそこまで大げさな違和感ではなかったのだが、あの感覚を正確に描写する術を僕はまだ知らない。

 ホテルを出たら車を西に走らせ、同居人の母方の実家に来た。

 おばあさんに挨拶しスイカなど各種お菓子をいただいてから腹ごなしに同居人と散歩をした。家の近くの川沿いを歩いていくとやがて城址にたどり着くというのでそこを目指して歩いた。ちょうど地元の小中学生の下校時間と被って、首から水筒をぶら下げて楽しそうにしゃべりながら歩き、やがてそれぞれの家の道に分かれていく子らの姿に、ここで育っていく彼らの時間の堆積を思って感極まりかけた。途中でふらりと入ったコーヒー専門店でテイクアウトしたコーヒーのおいしさも、ここで暮らす人びとの生活の営みを想像させるには十分だった。いい気分で歩いた。しかしスイカを食べコーヒーを飲んだことでお腹をやや下し、城址の外のトイレに入ったら天井からでっかいクモが糸一本でぶら下がっていて、いつ垂れてくるか気が気でなく、トイレに集中しきれなかった。

 散歩から戻ると夕食をいただいて、おばあさんと二世帯住宅で同居しているという叔父さん家族ともいい時間を過ごさせていただき、知らない天井を見つめながら寝ようとしている。

「がんバターね!」

 

9/9

 のんきなもので、知らない天井は一晩も経てばもう僕のなかでは知っている天井になる。県の大きさをそのまま反映したかのように広い家の構造や物の位置もすっかり把握して、ひとんちなのに勝手に冷蔵庫を開けてコーラを取り出している。おばあさんにいわれた「あなたB型なの、じゃあわたしと同じでストレスが溜まらないほうだね」という言葉を免罪符に、朝ごはんを堂々といただき、そのあともリビングに居座って好き勝手くつろいでいる。おばあさんはこれまでのすべての旅行で泊まった宿の記録や、ひとと電話で何分間どんなことを話したかという記録をすべてつけてあるという驚異的な記録魔で、その記録ノートを見返せばだいたいのことは思い出せるという。「やっぱり記録するのは大事ですね」とかなり薄い相づちを打ってしまうが、ほんとにそう思っているのだから仕方がない。

 そうこうしているうちにおばあさんの妹さん、つまり同居人の大叔母さんにあたるひとがいらっしゃって、近所のおいしい店からテイクアウトしたというピザをいただいた。大叔母さんからすれば僕は謎の存在だったはずだが、ちゃんとした自己紹介をしそびれたまま食事に突入し、しかも僕がいちばんピザをいただいてしまい、恐怖のピザ男になってしまった。お昼をいただいてからピザ男とその同居人はおばあさんの家を後にした。

 途中休憩を挟みながらも一気に車を走らせて東京まで帰ってくるとさすがに疲れたようで、そのまま友だちと飲みに出かけた同居人を見送ってから、ピザ男のくせにうどんを食べて、そのあとはYouTubeを見たりしながらだらだらと過ごした。ひとの呼び名が最後に食べたもので決まるとしたら、ピザ男はいまはうどん男である。

 

9/10

 きしたかのYouTubeを見てげらげら笑ったり、渋谷の古本屋でトゥーサンというフランスの小説家の本とロバート・ジョンソンの評伝本を買ったり、友だちと飲んだりした。激ネムのため、寝ます。

 

9/11

 仕事の途中から発熱してしまい早退した。熱はぐんぐん上がった。まさかまた!

 

9/12

 「まさかまた!」という昨日の予感は見事に的中した。今年に入ってから三回「まさか!」と思うような熱の上がり方があり、いずれも予感は的中している。感染するウイルスが違うだけだ。会社に電話したら心配されつつ少し笑われた。僕も少し笑った。かかりすぎ。笑いごとではないか。処方された薬はゲームの悪役の技名のような聞いたことのない名前の薬で、四錠一気に飲んでくださいとの指示があり、加えて注意書きには異常行動の恐れがありますとも記載されていて、かなり怖かったがどうにか飲んだ。飲んでからベランダに干していたタオルを取り込んだのだが、そこで異常行動が出なくてよかった。

 熱は高いところで上下する、高止まりの状態が続いている。今年は高熱の経験が豊富になったのでだんだんわかってきたのだが、まず基本的に熱が上がるほど身体はきつい。頭痛もひどく出るし、味覚も後退する。しかしじっとしている分には、熱が上がっていっているときと下がっていっているときのきつさにはあまり違いがなく、むしろ熱が下がっていくときには汗もかくので頭痛と合わせてなおさら嫌な感じがする。寝るタイミングも重要で、頭が痛いときに無理に寝ようとするよりは、薬を飲んでしばらく座り、頭痛が少し治まってきてから寝たほうがいい。どうせ仕事はできないのだから、ある程度自由な時間で寝たほうがいいということだ。寝る。

 

9/13

 バスケの選手として国際大会に出場していた。僕らのチームはなぜか三人しかメンバーがいなかったのだが、それがかえって意表を突いたのか、五人チームを次々と打ち破っていった。僕は自分がレイアップを決めるのをゴールネットの上から俯瞰で見ていた。夢のなかでは僕自身も含めてチームメイトが誰なのかということを気にしていなかったようにも思ったが、目が覚めたときにはなぜか僕以外の二人が流川楓宮城リョータだったという認識になっていて、ということは僕は桜木花道だったのか、と思いながら少し二度寝した。夢についてはそのあとしばらく忘れていて、夕方になってからふと思い出したのだった。

 二度寝から起きて水道水でうがいをしたら少し冷たい気がした。まだまだ日中は暑いですが、水道水の温度には秋の気配が濃くなってまいりました。熱を出しているくせに細かいことで季節を感じていることに我ながらウケた。

 今日もまだ微熱と頭痛があった。しかしだんだん読書などができるようになってきて、リディア・デイヴィスの『話の終わり』があとちょっと残っていたのを読み終えた。高熱で脳細胞が死滅してしまっていないことを確認するための、リハビリとしての読書でもあった。『話の終わり』は主人公が失恋してからのあらゆる気持ちや行動の変遷、そしてそれを書いている数十年後の語り手が何を書いて何を書いていないのか、何があいまいになっていて何がごまかされているのかという、失恋と小説のプロセスをまさしく体験するような小説で、主人公が失恋したというひと回り年下の「彼」への執着のひねくれ具合も含めておもしろかった。「彼」と付き合っていた数ヶ月、あるいは別れてからの数年が重ね塗りのように何度も描かれるが、同じシーンでも思い出し方が違うから同じ描写にはならないというのがとてもよかった。読み終えて窓の外を見ていたときにさっきのバスケの夢を思い出したはずだが、それでは時系列として少し都合がよすぎるため実際は違ったかもしれない(というような語りが延々と繰り返されるのが『話の終わり』という小説である)。

 

9/14

 相変わらず頭が痛い。寝転がってみても簡単に寝られるわけでもないのでラジオを聞いている。今週はオールナイトニッポンが「お笑いラジオスターウィーク」というやつで、令和ロマンがオールナイトニッポンXをやっており、まさしく〝ラジオスター〟の称号にふさわしいノンストップの高速ラリーに笑わされ続けた。彼らのすごいのはボケやたとえの引き出しの多さとそれを引っ張り出してくる速さで、何年ぶりに聞いたかわからない「キクタン」や「クォーターパウンダーバーガー」という単語の懐かしさに加え、たとえばキクタンなら「株式会社アルクの」、クォーターパウンダーバーガーなら「あのイチローのクリアファイルがもらえたっていう」と、知らない情報まで即座に補足してくるのが心地よい。あるあるでは満足せず、未知の境地まで連れていこうという意志がある。「『アイシールド21』の鉄馬丈のベンチプレスが百十五キロ」なんてことをそもそもなんで覚えてるんだよ、とも思う。なんでそんなこと知ってるんだよ、というお笑いでもある。

 髙比良くるまが自らの自己肯定感の低さについて話しているなかで「自分の〝輪郭〟というものがないから、お前(相方の松井ケムリ)みたいに自分の〝輪郭〟のまま自由に芸人をやっていけるひとが羨ましい」というようなことを語っていて、これはおそらく〝ニン〟と呼ばれるようなものに近いのだろうが、特に漫才をやる芸人にとってそういう輪郭やニンというようなものが自分でわからないというのはきついのかもしれない。たとえばM-1で考えてみても、直近の優勝者であるウエストランドと錦鯉はかなり〝ニン〟あってこその漫才だし、あの鮮烈だったマヂカルラブリーでさえも野田クリスタルという代替不可能な身体≒〝ニン〟の漫才である。そのニンや輪郭が自分にはなく「人間としてのドーナツ化現象が起きてる」というくるまだが、その速くてあちこちに飛んでいくボケのスタイルは既に代替不可能な唯一無二の輪郭を形成しているような気がする。

 午後にはだんだん頭痛も治ってきて、ジャン=フィリップ・トゥーサンの『マリーについての本当の話』を読み進めた。夜には同居人を迎えに行きがてら少し外を歩いてみたら、なんとなく船酔いっぽい感じの、頭痛というほどじゃない気持ち悪い感覚があって、きもちわるかった。

 

9/15

 家で仕事をしたあと夕飯を食べに外に出ようという段になると、財布とスマホだけでも足りるに違いないというのになぜか本を持っていきたくなってしまう、なにかあるかもしれないから。といったって具体的な計画があるわけではないし、そもそも今週の僕はウイルス感染のために外出を控えなければならない立場なのでまっすぐ帰ってくるべきなのだ。それなのに僕は読みかけの本をショルダーバッグに入れ、それがもう少しで読み終わりそうだからということでもう一冊選ぼうとし、けっきょく当初出ようとしていた時間からは十五分も二十分も遅れて家を出て、駅のほうまで行ってうどんだけつるっと食べ、せっかく選び抜いた二冊の本を開くことはおろかバッグから取り出すことさえせずに帰ってきた。僕はだいたいいつもそうやって本を散歩させている。

 今日散歩させたのはジャン=フィリップ・トゥーサンの二冊で、ひとつは先週くらいから『話の終わり』と平行してちょびちょび読んでいた『マリーについての本当の話』、もうひとつはちょうど先週末に渋谷の古本屋で買った『カメラ』という小説だった。トゥーサンという作家ははじめて読んでいるが、もともと七月に『君たちはどう生きるか』を一緒に観た友だちにすすめられて以来読みたいとは思っていて、しかしどこの本屋にも並んでいなかったために忘れかけていたおり、先々々週くらいに図書館にふと寄ったときに見つけたのが『マリーについての本当の話』で、友だちにすすめてもらったものとは違うがとりあえずトゥーサンなので借りてちょびちょび読み進め、場当たり的なのかちゃんと着地点があるのかわからない流れるような語りがたしかにおもしろいかもと思っていたところ、たまたま入った古本屋に『カメラ』や『ためらい』があって、値段も安かったので買ったのだった。しかし買って帰ってきてから思ったのだがたぶん友だちがおすすめしていたのは『浴室』というやつで、たぶんそれも古本屋の棚の同じ並びにあったので今週末にでもまた行って、まだあれば買おうと思っている。なんでこんなどうでもいい、まだ読み終わってもいない本の話をしているのかというと、これが日記だからで、日記というのはなにを書いてもいいからだ。

 

9/16

 同居人が会社の同僚の結婚式に行くというので、僕は映画でも観ようと思い一緒のタイミングで家を出て、とりあえず渋谷に行ったはよかったが、観たかった『エドワード・ヤンの恋愛時代』はTOHOシネマズシャンテなので日比谷なのだった。とりあえず渋谷か新宿に行けばいいという考えは浅はかだった。しかしせっかく渋谷に来たので先週行った古本屋を再訪してトゥーサンの『浴室』を買おうかと思ったが、あるとしたらそこにあるべきという位置になく、そこでなんとなく思い出したがそもそも先週の時点で『浴室』がなかったために違う二冊を買ったのだった。こういう、そこにないことを確かめに行くだけの買い物を、僕はたびたびしてしまっているような気がする。行ってから「そうそう、ここには置いてないんだった」と気がつくような買い物。結果なにも買えていないので買い物ではない。点検だ。

 日比谷に移動して『エドワード・ヤンの恋愛時代』を観た。ドタバタコメディ調の会話劇に少し戸惑うが、ネオンや街灯のもとで顔や身体を浮かび上がらせた若者どうしの夜の会話をきっかけに、エドワード・ヤン節ともいえそうな感情の交感(あるいは交感未遂)が徐々に姿を見せる。やっぱりエドワード・ヤンは夜の作家だ。そうなると最初はただのドタバタに見えていたあれこれも、現代社会を生きるうえで避けては通れない悲喜こもごもに思えてきて、登場人物たちがいとおしく思えてき、その悲しみに寄り添いたくなってくる。それと同時にこの映画が『クーリンチェ』の次に撮られた映画であることも意識されてくる。『クーリンチェ』との連なりが特に強調されるのは、自分というものがいまいちわからなくなった女性・チチが、人生を悲観した小説家に「僕だけがきみを理解できる」と迫られるシーンで、これはまさしく『クーリンチェ』における小四と小明という少年少女の会話の反復だ。どちらの映画においても「僕だけが」と迫った男は拒絶されるが、そのあとの展開はほぼ逆といってもいいくらいで、しかしそれは語り直しというよりは、時代、年齢、関係性など背景の違いによるバリエーションという感じがして、これがまた違う映画のなかでも反復されたならばまた違う結果になるのだろうと思わせた。その可能性を思えることがエドワード・ヤンの映画の豊かさだとも思った。あとはなんといっても終わり方がよかった。邦題は原題と同じく『独立時代』でもよかったのではないかと思った。

 同居人が慣れないヒールを履いて足がボロボロだというので、夜、履き替えるためのサンダルを持って駅の近くで待機した。その間に図書館で借りていたトゥーサン『マリーについての本当の話』を読み終えた。「いつの間にか展開している話をいつの間にか読んでいる」とでもいうべき文章で楽しかった。帰ってきた同居人はよくそれで歩いてたねというくらいおぼつかない足取りだった。帰宅しシャワーを浴びてからも「足が疲れた」と繰り返していたが、そのまま疲れが頭のてっぺんまで伝播したように眠ってしまった。

 

9/17

 ホワイトシネクイントで『アステロイド・シティ』(構図と色彩のすべてを統制するウェス・アンダーソンの作風はもともと枠物語と相性がいい。そのことを最も意識しているのはおそらくウェス・アンダーソン自身であり、特に前作『フレンチ・ディスパッチ』と今作においては物語内物語的な構造のなかで、脚本の細部の整合性なんてどうでもいいとばかりに、撮りたい絵だけが撮られ、語りたいことだけが語られる。あらゆる要素が統制されているからこそ、登場人物たちがふとその枠組みから出ようとする瞬間が美しい。観てるこちらとしてはすべてわかったとはいいがたいけど、唯一無二の方向に突き進んでいる様はおもしろいと思った)、ユーロスペースで『福田村事件』(作られたことに意味がある、だけでは終わらず、ちゃんと映画としてよかった。射程距離の長い映画だった。新聞記者のくだりと〝事件〟を描くシーンの劇伴が少し浮いているような気もしたが、やはりそこは作られたことに意味があるからまあ多少はね、という話に戻る)、家で『VIVANT』最終話(やはり阿部寛が出てくると話に動きが出る)を観た。激ネム

 

9/18

 図書館に『マリーについての本当の話』を返し、ジョン・ケネディ・トゥール『愚か者同盟』を借りた。TOHOシネマズ渋谷で『グランツーリスモ』を観た。帰りにホルモンを食べて、店を出たらまだ明るくてよかった。帰ってシャワーを浴びたらもう激ネムになってしまった。

 

9/19

 昨日『グランツーリスモ』を観たのは、二〇二〇年に観た『フォードvsフェラーリ』の素晴らしさがまだ頭に残っていたからというのもある。カーレースには速さ、音、危険、勝負がある。すなわちある種の映画のすべてがあるといっても過言ではなく、実際にそれらすべてが詰まっていたのが『フォードvsフェラーリ』だった。予告編を見る限りでは、『グランツーリスモ』にもそれらすべてが詰まっている可能性があった。だから観に行った。

 というかカーレースそのものを描く映画において速さや音や危険や勝負を描かずにいることはむしろ難しいはずで、もちろん『グランツーリスモ』にもそれらは存在した。その密度においてはやはり圧倒的に『フォードvsフェラーリ』に軍配が上がるといわざるを得ないが、それでもたしかに『グランツーリスモ』には心踊る瞬間があった。予定調和的なきもちよさがあった。「ル・マンの二十四時間レースで表彰台に立ったレーサーは〝永遠〟になる」→「じゃあその〝永遠〟ってやつになってやるよ」という丁寧なやりとりがなされ、そして映画そのものが"based on a true story"であるということもフリになって、「ああ、これは最後けっきょく勝って表彰台に立つんだろうな」という予感を抱きながら僕たちはそのル・マンのレースを観進めた。途中には乗り越えなければならない危険があり、手に汗握る勝負が描かれ、そして予感どおり主人公たちは表彰台に立って〝永遠〟になる。途中の危険や勝負は、予定調和的な勝利をよりきもちよいものにするために配置されているに過ぎない。こういう映画においてはそれらが正しく配置されていることが大事で、『グランツーリスモ』においては危険も勝負も正しい位置にあった。ただしそこにはひとの死も含まれた。ひとの死を「正しい位置にあった」なんてふうに評するのはあまりに記号的でひどい見方なので取り下げたほうがいいかもしれないが、しかし『グランツーリスモ』におけるひとの死には実際そのような側面があったと思う。べつにそのことを非難するわけではないし、そもそも僕が勝手にそう感じたというだけなので映画側からすればいわれのない話だろうが、美しくはないと思う。美しくはないが、予定調和的なきもちよさがあることは否めない。そういう映画はたくさんある。きもちよさのためにひとが死に、別れ、傷つく。それらが正しく配置されることで後々きもちよさが訪れる。それが美しいか美しくないかといわれれば美しくないと思う。しかしきもちいいのだ。

 

9/20

 一週間ぶりにニンテンドースイッチを手に持ち、パワプロの「栄冠ナイン」をプレイした。一週間ぶりに姿を見せた監督を部員たちはまっすぐな目で迎えてくれた。僕が監督に就任して六年目か七年目の夏が終わったところだった。県大会の二回戦で負けて引退した三年生たちの顔を、僕は思い出すことができなかった。そのくせ七夕の短冊には「みんなで甲子園に行きたい!」なんて書いて、無垢な一年生や二年生の目を輝かせているのだった。新部長に就任した二年生の竹内が「監督、よろしくお願いしゃす!」と大きな声を張りながら深々とお辞儀してきた。竹内はなかなか見所のある選手だった。入学時から定評のあったバッティングを中心に、この一年で順調に力を伸ばし、夏の大会にも7番か8番か9番あたりでスタメン出場していた。夏の大会にスタメンで出場した経験のある選手がいるというのは新チームにとっては心強いものだった。「きみは新たな4番として打線を牽引してほしい」と僕は竹内にいった。竹内はちょっとだけ「4番っすか?」という顔をしていたが僕は気づかないふりをした。僕には打線を組むセオリーがよくわかっていなかった。とりあえずミートの能力が高い選手を上位に並べ、そのなかでパワーもある選手を4番に置いていた。それでいいのかはわからなかった。もっといえば僕はどの選手がどこを守っているのかをまったく把握していなかった。正直、守備はどうでもいいと思っていた。僕は感覚だけで監督をしていた。勝てばいいのだ。勝てていないからよくないのだが……

 

9/21

 一年生にばかりグラウンド整備をさせて自分たちはさっさと着替えはじめ、しかし一年生たちがトンボを片づけて部室に入ってくる頃になってもソックスすら脱ぎ終えておらず、おまけに「お前ら邪魔だな、とっとと帰れよ」と口にこそ出さないものの視線で圧をかける。かわいそうな一年生たちは自分のエナメルバッグを取って「おつかれした!」と小さくあいさつして立ち去るので精一杯だ。──そんな二年生の態度を変えたいと竹内は思っていた。自分たちが一年生のときにやられて嫌だったことを繰り返しちまってるじゃんか!と竹内は思っていた。こんなんで甲子園行けんのかよ!と竹内は思っていた。しかし竹内にはそれをみんなにいう勇気はなかった。代わりに監督の話をした。部員たちがチームのことをどう考えているのかを遠回しに探る作戦だった。なあ、監督のことどう思う? あのひと、なに考えてんのかわかんねえんだよな。理論的でもなければ根性論的でもない。どっちでもないなんてことあるかよ。ふつうどっちかだろ。もしかしてなんも考えてないんじゃないのかな。おれのこと4番だとかいってるしさ。

 そんな竹内の僕への不信感は数日で覆ることとなった。竹内を4番に据えた新体制のチームは、秋の県大会初戦を突破したのだ。竹内は僕をすっかり信頼した。監督はおれにはわからない高尚な考えを持ってるんだ。竹内だけでない。部員たちは一様に僕への信頼度を増していた。

 彼らには悪いが、僕は今回も感覚だけでオーダーを組んだ。それがたまたまうまくいっただけだ。僕にとってこのゲームは感覚で組んだオーダーが当たるか当たらないかという運任せのゲームとなっていた。僕が何も考えていないのではないかという竹内の元々の予感は的中していたのだ。なのにたまたま勝っただけで覆ってしまうなんて、高校生というのは案外たやすいものだ。

 

9/22

 夜、酔っ払って帰ってきた同居人が土砂降りの雨に爆笑していた。雨を見て爆笑するなんて謎だと思ったが、しかしたしかによく考えてみると雨はおもしろい。なぜ空から水が降ってくるのか。自然の摂理に反していやしないか。

 

9/23

 いま住んでいる部屋はマンションの最上階にある。といっても三階建ての三階というだけだ。しかし最上階であることに間違いはなく、特に土砂降りの雨の日にそのことは意識される。天井が薄いのか、それとも屋根裏に特殊な空洞でもあるのか、雨の音は外にいるときよりもむしろ増幅しているように聞こえる。……そんな話をしようと思ったが激ネムなので寝る。

 

9/24

 いま住んでいる部屋はマンションの最上階にある。といっても三階建ての三階というだけだし、べつに眺めがいいわけでもないので、最上階であることはふだん忘れられている。唯一意識されるのは土砂降りの雨の日で、天井が薄いのか、それとも屋根裏に特殊な空洞でもあるのか、雨の音は外にいるときよりもむしろ増幅して聞こえ、僕も同居人もそれに大ウケしている。実際の雨量よりもはるかに多く降っているように聞こえる。屋根に当たる雨の音に加えて僕が気に入っているのはベランダに降り注ぐ雨の音だ、というのも最上階の僕たちの部屋のベランダには雨避けの類いがいっさい付いていないため、雨が降るたびぴっちゃんぴっちゃん跳ねる音と、跳ね終わった水が排水溝へと流れていくちょろちょろという音が聞こえるのだ。僕と同居人はベランダのほうに頭を向けて寝るため、ベッドに入ってから眠りにつくまでの間、ベランダの排水溝に水が流れる音をじっくり聞くことになる。特に土砂降りの日には、頭のすぐ真上に小川が流れているのではないかと思えるくらいの音が響くなか、並々ならぬ心地よい入眠が訪れる。一昨日の雨はまさにそんな雨だった。

 そんな話を昨日の日記に書き残したかったのだが、眠くて途中で中断したのだった。

 どうしてそんなに眠くなってしまったかというと、そもそも昨日は仕事があって疲れていたのに加え、夜、同居人が友だちを連れてき、そこに僕の友だちも呼んでみたら来て、四人で夜遅くまで飲んでしまったからだ。僕はジンジャーエールかコーラしか飲んでいなかったのにえらく眠くなってしまい、そろそろ空が明るくなってくるんじゃないかという頃に寝た。

 それで今日は先週買った新しい冷蔵庫が午前中に届くので、九時前に起きて古い冷蔵庫の中身を整理した。古い冷蔵庫の奥にはこの何年かの僕の怠惰が蓄積されていた。賞味期限が三年前のものなんかもあってびびった。そんなびびるような整理を冷蔵庫交換の当日にやっているのも、同じく怠惰が招いた事態だった。十一時過ぎ頃に新しい冷蔵庫が来て、じゃあ古いほうの下取りもお願いしますという形で首尾よくいきたかったのだが、家電量販店のほうから業者さんにたいして下取りの指示が通っていなかったらしく、ちょっと指示がないと回収できないんですよね。あ、そうなんですか。しかし先週買った時点でちゃんと下取りもお願いしたという覚えがあったため、たぶん領収書にも書いてあるはず、と探したがこれがなんと見つからず、けっきょく今日は回収されないという無念な結果となってしまった。領収書をどこかにやってしまうのも怠惰やだらしなさの致すところである。

 古い冷蔵庫の回収は来週末になった。いまキッチンスペースには冷蔵庫が二つ並んでいる。怠惰ゆえのツインタワーである……

 しかし外を見れば気持ちのよい晴れ模様。昼過ぎには気を取り直し、自転車を引き連れて家を出た。自転車は半年前にパンクして以来(これまた怠惰ゆえに)マンションの外に放置され、雨風にさらされ続けていた。そのパンクを直してもらいに自転車屋へ行こうというわけだった。二十分ほど歩いて買った店まで持っていったところ、なんとそこは今日で閉店らしく、パンクだけなら直せるかもなんですけど、これチェーンもだいぶ錆びちゃってますね、これだと交換しなきゃなんですけど、うち今日で閉店なんで替えがなくて。あ、そうなんですね。この道まっすぐ行ったところに別店舗があるんで、そちらに行っていただければ。あ、そうなんですね、ありがとうございます。いえいえ、すいませんね。あ、いえいえ、こちらこそすいません、とそのまま別店舗まで歩いた。二時間程度で修理できるといわれたので近くのスタバに入って『ワインズバーグ・オハイオ』を読んだ。途中までだがかなりよい。自転車を受け取ったらそのままサイクリングでもしちゃうか、それとも映画もいいな、と考えながら読んだ。いい頃合いを見て自転車屋まで受け取りに行くと、なんと替えのチェーンに不良があってまだ修理が終わっていないそうで、仕方ないことではあるが、受け取れると思っていた自転車が受け取れず、当然サイクリングに行くこともできず、映画もちょうどいい時間がなくなってしまい、そのままなんとなく歩いて、けっきょく家に帰った。そんなふうに今日は過去の怠惰のしわ寄せが来る形でいろいろうまくいかなかったが、気持ちのよい気候だったのと、『ワインズバーグ・オハイオ』がよかったのと、あちこち移動する間にラジオや音楽を聞けたのでよかった。アントニオ・カルロス・ジョビンにかなりハマっている。

その後結局夜になってから受け取りに行った自転車

 

9/25

 ものすごく短くてありえないほど心地よい秋という季節をいかに味わうか、それが目下の課題である。ほんとはあれこれ考えすぎず、ただありのままの秋を感じて過ごしたいが、そんなのんきなことをいっていられないほどに秋は短い。きちんと備え、やれることをしっかりやり、身の回りのいろんなものにたいして積極的にちいさい秋を感じていかないと見逃してしまう。多少の幅は許容して秋判定を下していかないと、秋というものがひとつの独立した季節の体をなすほどの秋を集められなくなってしまう。この先きっと夏の揺り戻しのように暑い日が訪れるだろう。毎年そうなのだから今年もそうなるに決まっている。世間はいうだろう、秋になったと思ったのに夏が戻ってきやがったと。でも僕はそんなことは思わない。少しくらい暑くたって秋だと思わなければいけない。秋をかき集めろ!

 

9/26

 昨日に比べて少し暑かったが、水道水はひんやりしていたし、日陰に入れば涼しいしで、ぜんぜん秋の範疇だった。これくらいなら余裕で秋。今朝は昨日作った豚汁を白米と納豆と共に食べた。平日にしてはかなり久しぶりのしっかりした朝食だった。しっかり朝食を食べると目が覚めるし昼前にしっかりお腹が空く。週末に新しい冷蔵庫が届いたおかげで野菜や調味料を多く入れられるようになり、それが豚汁としてさっそく実を結んでいる。豚汁を食べ終わったら次はミネストローネにしましょうなんてことを同居人と話している。この素晴らしい習慣がいつまで続くか。少なくとも秋の間は続けたいと思う。冬になったら寒くてベッドを出られないだろうから……

 夜は『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』を観に行った。最高だった。ティーンエイジャーの少年たちのくだらないやり取りにしっかり時間を割いて描いているのがとてもよかった。同居人もかなりよかったといいつつ、最後に続編をほのめかして終わったことだけ気に食わなかったそうで、その感覚は僕もなんとなくわかる。食事の最後に口に入れた部位が噛みきれない感じというか。でも映画本編がよかったことに変わりはない。セス・ローゲンへの信頼が増した。

 

9/27

 昨日観た『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』はほんとによくできたアメリカのアニメーションという感じで、起承転結の〝転〟があるべき位置に何度も配置され、生き生きとして粒の立ったキャラクター造形も見事で、いかにもちゃんとした大人たちが活気ある生産的な話し合いを経て考えたのであろうと思える映画だった。そのなかで十代の少年たちの、本人たちだけが楽しいようなやり取りを描くことににしっかりと比重が置かれていたことがまた素晴らしかった。こういうバランスの取れた作品を美しいと思う一方で、おかしな方向に展開したり、物語の本筋とは関係のないグダグダがあるような、端的にいうとバランスの崩れた作品こそを観たいと思う気持ちもある。そういう作品はやはり健全な話し合いからではなく、強烈な個性を持ったひとりの作家の内面の発露によって生まれるのだ、とも──映画とはたくさんの人びとの仕事の集合体であり、あらゆるコントロールしきれない環境要因が互いに影響しあった結果であり、けっしてひとりで作るものではないということを承知しつつ──思ってしまう。『君たちはどう生きるか』のことが気になって仕方ないのも、そういう作家至上主義に基づく感情なのではないかという気がする。〝天才が生み出した作品〟に惹かれてしまう気持ち。

 今日は先に帰宅した同居人が作ってくれていたミネストローネを食べながら『セックス・エデュケーション』を観進めた。風呂上がりには君島大空の今年二枚目のアルバムや柴田聡子の新曲を聴いて素晴らしさに震えながら日記を書いた。明日は暑いらしいが、秋のわりに暑い日として過ごすか、夏の終わりの日として過ごすか決めかねている。夏の終わりという言葉の持つエモーションに惹かれつつ、秋としてカウントしてできる限り秋を楽しみたいという気持ちもある。

 

9/28

 ……しかし今日を夏として数えてしまうと夏がつけ上がりますよ。じゃあ十月もいいすかね、なんてことになりかねませんよ。なあ兄さん聞いてくれ、これはね、おれら秋にとっては生きるか死ぬかの問題なんですよ。なあ、考えてもみてくれ、もう九月末ですよ。夏なわけないでしょう。九月末が夏でたまるかってんですよ。おれらは夏にね、なあ兄さん、おれらは夏にどんどん縄張りを取られてるの。ほんとになくなっちまいそうなんですよ。なあ、どうしたら納得してくれますか。どうしたら今日が夏じゃない、秋だ、っていってくれますか。涼しければいいんですか。けっきょく気温ですか。わかるよ。まあ気温だよね。じゃあさ、兄さん、せめて朝だけは涼しくするからさ、昼はしょうがないよ、昼は暑くなるだろう、でも朝だけは涼しくするからさ、秋を感じてくださいよ。

 そんな秋の渾身のうったえが聞こえてくるかのように、真夏日になると予報されていた今日も朝はまだ涼しくて、僕としては秋判定を下さざるを得なかった。昼間は会社にいたのでほんとに暑かったかどうかはわからず、夜会社を出たときには少し蒸し暑いような気もしたがぎりぎり秋だった。というわけで、今日は秋でした。

 同居人は今日の帰り道にねずみに足を踏まれたらしい。小さいながらも衝撃的な事件だと思う。「犬の重さだった(原文では「重さ犬すぎる」)」とLINEしてきたが、そのとき僕はまだ会社にいたためそんなにきちんと返信できなかった。帰ってから詳しく聞こうとしたが「もうそれについては話したくない」とのことだったのでやめた。ねずみに足を踏まれたにも関わらず、自炊の熱はまだ続いており、帰ってきてから焼きうどんを作ってくれていた。ありがたくいただいた。その後『セックス・エデュケーション』を観進めたりしていたら夜中になってしまって、同居人はすぐに寝たが僕はシャワーを浴びるなどやることがあって夜更かししてしまっている。今週は夜中にも仕事をした日があったのと、シンプルに夜更かししている日があるのとで睡眠時間が短くなってしまっており、激ネムになっている。

 

9/29

 「フットボール」という単語がボールを足で蹴りあうことではなく、頑丈なヘルメットとショルダーガードを装着し、ボールを投げたり、持って走ったり、互いをタックルしたり、とにかく「蹴る」以外のすべてをやる競技のことだとされている奇妙な国アメリカにおいて、ナショナル・フットボール・リーグはレギュラーシーズンの第四週に突入していた。日本時間の金曜日の午前中というのはアメリカではサーズデイ・ナイト・フットボールをやっている時間で、今日はデトロイト・ライオンズグリーンベイ・パッカーズの試合があった。その二つのチームだと僕はデトロイト・ライオンズの肩を持っていた、というのもデトロイト・ライオンズにはジャレッド・ゴフというクォーターバックがいるからで、彼は僕がナショナル・フットボール・リーグをそれなりに見るようになった二〇一六年に、僕が応援することにしたロサンジェルスラムズにドラフト全体一位指名で入団した選手なのだった。その年のラムズは以前の本拠地だったセントルイスから新天地ロサンジェルスへと移転したばかりで、それに加えて地元ロサンジェルスの大学で活躍していたスタークォーターバックであるゴフをドラフト全体一位で指名したという話題性は、ナショナル・フットボール・リーグを見始めようという初心者の僕がロサンジェルスラムズを応援チームに選ぶ理由として申し分ないものだった。

 しかしそれほどの話題性を振りまき、莫大な期待を背負って鳴り物入りで入団したジャレッド・ゴフには、その裏返しとして計り知れないほどの重圧がかかったに違いない。彼がロサンジェルスラムズで過ごした数年間の間、その期待に応えられたかどうかは賛否が分かれるところであろう。五シーズン中の三シーズンでプレーオフ出場、うち一回はスーパーボウル進出という一見華々しい結果とは裏腹に、ジャレッド・ゴフには相手ディフェンスのプレッシャーに対する弱さが常に指摘され続けた。たしかに彼はプレッシャーに弱かった。スーパーボウルではニューイングランド・ペイトリオッツの強力ディフェンスを前にオフェンスがまるで繋がらず、史上稀にみるロースコアで敗北した。それでも彼が輝いていた試合を僕はいくつも見ていた。特に二〇一八年のカンザスシティ・チーフスとの激戦を制したときの彼は自信に満ち溢れ、とてつもなく輝いていた。

 彼の輝く姿を知っているからこそ、紆余曲折あって彼がデトロイト・ライオンズに移籍したときから、僕はライオンズのことも気になって仕方がないのだった。彼が移籍したときライオンズはナショナル・フットボール・リーグ全体で見ても弱小の部類に入るチームだったし、移籍した二〇二一年シーズンの成績は散々だった。しかし勝敗数以上に惜しい試合が多かったことも事実で、その後昨年二〇二二年シーズンにはプレーオフ進出まであとわずかというところまで迫り、チームはいい雰囲気を保ったまま今シーズンに突入していた。今日のグリーンベイ・パッカーズとの試合も見事勝利し、ゴフはいつしかの輝きを取り戻しているように見えた。

 そんなふうに僕のジャレッド・ゴフへの思い入れを書いている途中で思い出したが、僕がロサンジェルスラムズを応援し始めたのは正確には二〇一五年、まだセントルイス・ラムズだった頃のことであり、ということはラムズロサンジェルスへと移転したことやそこでゴフを全体一位で指名したこととは関係なく既に僕はラムズを応援していたのだった。二〇一六年に話題性があったから応援し始めたというのは間違いだった。そんなふうに記憶というのは語りやすいように書きかえられる。だから日記を毎日書いて残しておくほうがいい。しかし毎日書いているからといって正確とは限らず、実際のところ僕はその日あったことの順序を入れ替えたり、因果関係を簡潔にするために削ったり、書きやすいように少し編集を加えて書いている。たとえば、今日は同居人が会社のひとたちと飲んでくるというので、帰ってくるまでのひとりの時間にこれを書いている。というこの文も、実際は既に同居人が帰宅し就寝してから書いている。

 

9/30

 休日の朝にはレコードをかけてゆっくりしようという気持ちはあるものの、前回かけたとき以来ターンテーブルに置かれっぱなしになっているレコードを取り替えるほどのまめさを僕も同居人も持ち合わせておらず、したがってここ一週間何度も流されているアントニオ・カルロス・ジョビンのレコードのB面がそのまま今朝も流された。チャツツ、チャツツ、チャツツツチャ、ツツチャというボサノヴァのドラムパターンは、レコードが止まってからも頭から離れない。朝ご飯を食べた皿を洗いながら、ニンテンドースイッチパワプロで「栄冠ナイン」をプレイしながら、スーパーで買い物をしながら、僕はチャツツ、チャツツ、チャツツツチャ、ツツチャと口ずさんだ。ふだん僕のそうした口ずさみに苦言を呈してくる同居人が今日はなにもいわず、むしろご機嫌そうにノッてくる節さえ見せていたので、ボサノヴァはいい。

 竹内たちの代は夏の県大会準決勝で敗れて引退した。いいチームだったと思う。

 竹内たちが負けてしまったのは、僕がアマプラで『呪術廻戦』を流しながら片手間でプレイしてしまっていたからかもしれない。同居人にところどころ説明してもらいながら見た『呪術廻戦』はたしかにおもしろかった。『鬼滅の刃』や『進撃の巨人』にもあったが、シリアスな場面でもところどころギャグが挟まるのはまさに漫画やアニメでしかできない表現で、これがたとえば実写映画であったとしたら作品のトーンが修復できないほどに崩れるのではないかと思う。画風もテンションも自由に行き来できるのがアニメのすごさだ。だけどそれが激しすぎると疲れるかもしれませんね、とも思った。

 そうこうしているうちに冷蔵庫回収の業者さんが来て、ここ一週間キッチンスペースに置かれっぱなしになっていた古い冷蔵庫をあっという間に引き取っていってくれた。そもそも先週回収してもらえなかったことがおかしかったのだが、一週間も経てば冷蔵庫がふたつもそびえ立っているという珍妙な状況にも慣れてきているもので、その片割れがなくなったキッチンスペースはなんだか広く思えた。新しい冷蔵庫は背が高くて、これまで冷蔵庫の上に置いていた電子レンジを置くことができず、行き場をなくした電子レンジはしょぼくれて、床の、夜中にトイレに行こうとしてぼんやり歩こうものなら足の指が当たるような非常に邪魔な位置にいる。それをどこに置こうかまだ決められていないために、せっかく冷蔵庫を新しくして冷凍スペースが増えたというのに、レンチンしなきゃいけないものを食べられずにいる。レコードをまめに取り替えられて、電子レンジの位置をすぱっと決められるような優秀な人材に、僕たちはならなければいけない。

 午後、外に出て、同居人はご両親との用事へ、僕はヒューマントラストシネマ渋谷へと向かった。先週同居人が観てとてもよかったといっていた『バーナデット ママは行方不明』を観た。ケイト・ブランシェット演じるバーナデットという女性の心の危機を中心にかなり奇妙な話が展開されていくのが、あくまで〝よきアメリカ映画〟というトーンでまとめ上げられていてとてもよかった。世界と自分とのずれに適応できずにバランスを崩していく天才肌の女性という役どころは『TAR/ター』に続いて(制作年はむしろ『バーナデット』のほうが先らしい)ケイト・ブランシェットの面目躍如といったところだが、映画そのもののトーンはまるで違う。リディア・ターという女性を一定の距離感を保ちながら描いていたように思った『TAR/ター』に対して、『バーナデット ママは行方不明』におけるバーナデットへの眼差しは常にやさしい。行動だけ見ればけっこうやばいひとなのだけど、そのすべてに共感ができるように作られている。特に娘との連帯は素晴らしくて、ふたりで歌う"Time After Time"に涙ぐんだ。