バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二六年七月の日記

7/1

 梅雨特有の、なのか、このところ仕事をしていても午後三時頃になると決まって眠くなる。頭がぐっと重くなる感覚がある。ふつうに寝不足という線もある。連日、寝ぐるしさを感じている。寝ぐるしさが夢の内容にも反映されている。といってもどんな夢を見たか覚えてはいない。

 

7/2

 夜、ラーメンを食べて、食べた直後からとても後悔し、店を出て、さいわい雨も降っていなかったので同居人が帰ってくるまで散歩した。閑静な住宅街に入ると、いまが夜ではなく夜明け前で、私は夜どおし散歩していたのだと思えなくもない。明かりのついている部屋にはずいぶん早起きなひとが住んでいる。

 

7/3

 『HUNTER×HUNTER』の最新巻を買うにあたって、細かい話をなにも覚えていないので、せめていまの王位継承戦編の部分だけでも紙で買ってもう一度読もうと思ったが、同じことを考えているひとがいたのか、本屋の棚から32巻以降がごっそりなくなっていた。仕方なく39巻を買って、ちらっとめくったけれど、なにかの話の途中すぎてなにもわからない。なにも覚えていない。第なん王子がなんなんだっけ? てかヒソカもいるんだっけ? なんとなくクラピカが暗躍していたことだけは覚えている。あと、お腹をぶん殴った相手の腹のうちの本音が吹き出しのかたちで表されるという念能力の使い手がいたこと。あと、幻影旅団の成り立ちが描かれるなかで、ひとつ前のページに描かれたクロロが、次のページの余白に透かしのように浮かび上がってきている演出がかっこよかったこと。しかし覚えていることといえばそれくらいのものだ。村上春樹の『夏帆』も買おうかと思ったが積ん読が多いので今日はやめた。

 

7/4

 スマホで漫画を読む習慣がないから『HUNTER×HUNTER』の無料公開の波に乗ることもあきらめていたが、やはりちょっとだけ読もうと思って開いたら、そのまま65話まで読んでしまっていた。あまりにもおもしろ。あらためて、キャラクターのただならない感じを演出するのがうますぎる。ゴンはもちろんだがキルアもヒソカも。そして同じくただならぬ雰囲気があったのにすぐに散ってしまったカストロ……。解体屋ジョネスもか。いや、解体屋ジョネスのときは明らかにそのあとのキルアのターンのためのフリの感じがあった。しかしカストロにはけっこう強者の感じがあったのに……

 それにやはり幻影旅団という名前はかっこよすぎる。団員ひとりひとりが〝クモ〟を背負っているのもかっこいい。漫画とはかっこいいネーミングと設定の集積なのだと思わせられる。(なおかつ幻影旅団は彼らじしんがかっこよさそうで強そうだと自認しながら名乗っていそうなのがいい。)

 で、今日はほとんどそのまま終わってしまった。曇天の眠気もあった。同居人は明日からお母さんと、もともと八ヶ岳に行くつもりだったが悪天候のため諦めて金沢に旅行に行くという。

 

7/5

 同居人が朝早くに家を出て東京駅へ行くのに合わせて私も家を出、渋谷で『スーパーガール』を観て、そのあと時間がちょうどよかったから『口に関するアンケート』も観た。『スーパーガール』はふつうに楽しめた。太陽の色によって主人公カーラの身体のエネルギーが大きく上下し(そしてそれは月経の表象ではなかろうか、という意見をネットで見て、私はその解釈に至らなかった自分の緩慢さにも愕然とする)、それによって物語も停滞するわけだが、しかしべつに停滞して何が悪いのか、とも思う。というかそもそも作品全体が停滞からの覚醒を描いている。個人的な目的を遂げるつもりが、いつしか少女を帯同し、やがて女性たちを救出し──ここが「連帯」というほどにはならないのもこの主人公カーラらしいといえる──、男たちをぶっころす。熟考するというよりは目の前のピンチを解決するために覚醒する、その場当たり感もあって、大きなカタルシスに欠けてはいるのだが、いわれているほど悪い映画じゃないと思えたのは単純にミリー・オールコックが魅力的だったからか。ヒーロー映画はけっきょく主人公を魅力的だと思えるかどうかというところにかかっているといえる。『口に関するアンケート』もふつうにおもしろかった。『近畿地方』と同じように映画を観ること(あるいは原作小説を読むこと)じたいが呪いを広げることに繋がる、というギミックになっていて、拡散・シェア的な文化と相性もいいのだろうと思う。タイプロに出ていた西山くんが好演していて驚いた。……しかし『スーパーガール』も『口に関するアンケート』もべつに余韻の残らない映画だった。

 映画館を出ると、街のあちこちに貼られた『HUNTER×HUNTER』のキャラクターたちに思いがけず出くわしてうれしい。まずマークシティのエスカレーター下にパクノダたちがいた。109前を横断してセンター街に突入するとゴンとキルアがいて、これだけでもいいと思ったが、もう少し進むといわゆるゴンさんも貼り出されていて、それならばもっと見つけてみよう、という気になる。たくさんのひとがビルの壁に向かってスマホをかざしている、それを観光客が不思議そうに見ている。ハンズ前のボマーたちを通過した奥にはもうなさそうだったので、フット後藤のいうところの「キラー交差点」のほうに抜け、ユーロスペースのほうに坂を上がろうとしたらハンター試験編のひとたちがひとまとめに並んでいて、解体屋ジョネスがどこか悲しそうな顔で混ざっている。O-EAST前にはネフェルピトーが掲示されていて、ネフェルピトーくらいならまだ覚えているのだが、その先に貼られたカキン王国の王子たちはひとりも名前を覚えていない。けっきょく私はキャラクター名を覚えていないので、そこまで熱心に探してもしょうがない。もういいや、とマークシティに入ろうとした、その信号の前にクロロがいて、真正面から撮りたいひとのすごい行列ができている。クロロはさすがにうれしいが並ぶのは変なので斜めから撮って(というかこの手の企画はあまりきちんと撮らないほうがいいという美的感覚がある)、ならばもう少しだけ、と道玄坂を少し下りたところに十二支んがいて、私は十二支んにはぜんぜん思い入れがないので、今度こそもういいや、ときっぱりやめられた。

 そのあと夕方から『ロングウォーク』を観るべく池袋に向かって、ルノアールで大江の『河馬に嚙まれる』を、これいつまで読んでるんだ、と思いながら読んで待った。『ロングウォーク』は今日観たなかでいちばんよかった。結末があれでいいのかはわからないが、途中の時間が素晴らしかった。原作の『死のロングウォーク』は、私が中学生のとき、地元の古本屋に通いはじめた当初に買って読み、強烈に記憶に残っていた本。その思い出もあっていい映画だと思えたのかもしれない。ほとんどみんなが死ぬデスゲームなのに爽やかさがある。本物の友情の話でもある。よかったなあ、と思いながら、気づけばジュンク堂で『夏帆』を買って帰ってしまっていた。夜は同居人がいないのでひとりでテレビを見て過ごした。同居人は今日、金沢で充実した一日を過ごしていそうだった。

「大きいサイズ」のひとの世代交代

Music, Fashion, Film

 

7/6

 昨日の夜はけっきょく『河馬に嚙まれる』を読み進めて、読み終えた。あまりに期間を長くとってちょびちょび読んでしまったせいで私のなかで連作感が薄れてしまったが、まずまずおもしろかった。いまさらながら大江は小説の始めにいつも「これからどうしてこの小説を書くのか」ということを書き手として説明してくれるのでいい。そのたいていはもちろん私的な理由であるわけだが、それを開陳してくれることに、あるいは開陳しないと書き始められないのだと大江じしんが考えていることに、小説家としての誠実さを感じる。その『河馬に嚙まれる』を、終盤はエセル・ケインの昨年のアルバムを流しながら読んだわけだが、どうしてここでエセル・ケインが出てくるかというと、大江との繋がりというよりは、むしろ夕方に観た『ロングウォーク』からの連想のほうがずっと強いのだった。五十人の少年たちがアメリカの中部をひたすら歩きつづけるあの映画において、エセル・ケインはいうなれば車道の脇から少年たちを眺めている地元住民の側にいる。歩きつづけることしかできない少年たちと、そこに留まることしか知らない少女、そのような対比を思い浮かべながら、どこまでも陰鬱に広がりつづけるアルバムを聞いたのだった。

 『ロングウォーク』という映画はそのほとんどが歩くシーンで構成されていて、もちろんそれぞれの少年に来し方があり、それが徐々に語られる厚みがあり、その少年たちの命が次々と奪われてゆく悲劇が常に並列しているわけだが、基本的に映っているのはいま歩いているこの瞬間である。(というところで、つまりこれも「いま/ここ」の映画なのだ、といいたくなるがしつこいか。)映画のテーマとしてはわかりやすく反戦でありMAGA批判であるのだろうが、正直そんなことよりも、歩いている時間の美しさに心を奪われる映画だった。(というか反戦というのはことさらに言及するまでもない大前提として観客にも共有されているのであり、その共有があるからこそこういう物語をおもしろく描けるという、物語の効能というのもあるかもしれない。)

 今日も同居人がいなかったので、わりあい遅くまで仕事をした。同居人から、兜が金ピカの前田利家像の写真が送られてきてウケた。

 

7/7

 昨日の夜は、先週からよくも悪くも話題の「水ダウ」の最新回を見て、ふつうにおもしろかったのだが、はっしーはっぴーの謝れなさや責任回避のあり方にはひとごととは思えない感じもあった。バラエティとして見るとほとんど百点満点の返しを連発していたはっしーはっぴーの発言において、特にみなみかわにミスの連発を指摘されたときの「今日ですか?」という「空質問」と、カップラーメンの蓋が床に落ちていることを指摘されたときの「醤油だったら僕ですね」という(いうなれば)「空仮定」には、正直私も身に覚えがあると思った……

 ──というのを経て、今日金沢から帰ってきた同居人がやはり「水ダウ」を見ておもしろかったといっていたので、私は「僕は正直ひとごととは思えなかったよ……」といいつつ、もう一度一緒に見て笑った。同居人は、二泊三日はやや長かったものの金沢はいいところだったといっていた。話を聞くかぎりたしかにとてもいいところのようだった。私も大学生のときにSとMと行ったことがあったが、そのときはまだ物心がついておらず、金沢のよさをほんとうの意味で感じられていなかったのだと思う。前田利家が愛されているということもわかった。その流れで前田利家のことを調べると、YouTubeにいまなお続く前田家当主の家督承継の式典の動画が上がっていて、新しく当主になった六〇歳くらいの前田さんが「まあ当主になるのは私の物心ついたころからの既定路線でしたので……」とえらく落ち着いた話ぶりでおもしろかった。もちろんその内心はわからないが……

 

7/8

 頭の痛い一日だった。ヨークシン編まで読んだ。同居人も今日まで有休で、ふたりでダラダラと過ごした。

 

7/9

 細野晴臣の新曲を聞いて、まず「若っ!」と思った。若い音だ。同時にかなりいいとも思った。

 朝から暑くてまいった。今年は梅雨がわりあいしっかりと梅雨らしく続いていたように思ったが、それも終わりでしょうか。とはいえ夕方になるとほんのり風が涼しい。気温でいうと夜のほうがやや下がるのだろうが、不思議と夕方のほうが涼しく感じる、というあるあるを提唱させてもらおう。夜、NHKの「SONGS」でマイケル・ジャクソン特集をやっていたので見ていたら、やはり大泉洋が「マン・イン・ザ・ミラー」のモノマネをやっていて、やはりウケてしまった。

 まったく話は変わるが、昨年の『スーパーマン』と今年の『スーパーガール』のカラーグレーディングを比較したポストをXで見て、たしかに思い出してみると『スーパーマン』にてちらっと登場したスーパーガールと『スーパーガール』のスーパーガールとでは印象がずいぶん違う。それは監督の作風ということでもあるだろうし(とりわけジェームズ・ガンには特有の「薄鮮やか」とでもいえそうなカラーがある)、作劇上の要請ということでもあるかもしれない。……と、とくにどこにも繋がらない話のなかで、この十年でもっとも優れたカラーグレーディングをもつ映画とは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』なのではないかとふと思う。(それで調べてみたら『怒りのデス・ロード』は二〇一五年の映画だった。「この十年」の映画ではないです。)

 

7/10

 私がふつうに仕事してる平日の午後二時なんかにいろんなものごとが改悪されてゆき、いつのまにか仕事どころではない非常時に突入してしまうのではないかという、嫌な予感がある。(しかしそれらの「改悪」も彼らからすれば平日の午後二時にふつうに仕事した成果なのだ……)それにしても中道改革連合とかはなにをしてるの?と思う。いずれにせよ衆院では与党が絶対多数なのだからどうせ可決はされるのだろうが、中道がどうしたくて賛成しているのかわからない。

 夜は内田有紀とtimeleszのテラが主演の『ラストノート』というドラマの第一話と、蒼井優と中島歩の『Tシャツが乾くまで』の第一話を見た。『ラストノート』はかなり変なドラマで、テラが微妙な顔をするたびにウケてしまいつつ、悔しいが続きがちょっと気になる。『Tシャツが乾くまで』はさすがにおもしろそうだが、ところどころに小さな違和感はあった。中島歩が最後にカマしてきた。

 

7/11

 暑いのなんの!

 舞城王太郎の『みんな元気。』を一昨日くらいから読んでいて、今日の午前中に読み終えた。舞城らしいといえばらしいのかもしれないが、とにかくガチャガチャしていて、というか意図的に混沌がもちこまれていて、そのなかに祈りのようなもの(「愛は祈りだ。」)を見いだせもしながら、食傷気味にザザッと読んでしまった。読み終わってから、いやでもけっこうよかったかも、と思った。それから『きれっぱしの愛』を観に行くべく外に出て、観る前にお昼を食べるつもりだったのだが、うまく店に入れず、同居人に八つ当たりしてしまい、嫌な感じになってしまった。私が主体的に選ばず店に並んだのが悪い。その延長線上で観た『きれっぱしの愛』においても、けっきょく主体的に行動することができずにいる元夫の姿が印象的で、身につまされる感じがあった。いい映画だった。監督みずからの子どもたちや愛犬が出ていて、ほとんどその成長記録であるようなシーンもあり、日記性のようなものと物語性というべきものが境界なく混ざり合っていたように思う。ごく私的な話であるにもかかわらず、小品、という感じがしないのは、アイスランドの美しく雄大な自然が常に映っているからだろうか。

 映画を観ている時間を経て、それから落ち着いて定食屋で食べている間に、同居人とはなんとなく仲直りしたような雰囲気にもなって、反省をしなければいけないのはもちろんなのだがほっとした。(と書いて、あとで同居人に見られてどう思われるだろうか。)そのまま浜松町に移動して、Gくんがくれたチケットで劇団四季の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のミュージカルを見た。一昨日くらいにGくんから連絡があって、行けなくなったから代わりにどう、と提示された席がえらくよさそうなところだったので、せっかくなら、と買わせてもらったのだった。しかしGくんはGくんで同じく劇団四季の『アナ雪』をひとつ上の階の劇場で見るとのことで、謎ではあった。浜松町でGくんと合流してから、Gくんが先に『アナ雪』を見に行って、私たちの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が始まるまでにも時間が微妙にあって、そこもうまく過ごせず危ういところだった。ミュージカルは楽しかった。いい席だったからだろう。さまざまに場面転換のある映画を舞台にするにあたって、舞台装置やプロジェクションを駆使した演出がまずもっておもしろいし、目の前で大勢のひとたちが歌って踊るので単純に迫力がある。マーティ役のひとが絶妙にナイスだし、ドクはやや朗々としすぎているがかっこいい。マーティの父であるジョージ役のひともハマっていて、遠目には高良健吾っぽくも見えたが、あとで同居人にいわせると九条ジョーっぽかったという。つまり高良健吾と九条ジョーが遠からずということでもある。ビフは、若かりし頃はなだぎ武すぎたし、歳をとってからはキモい髪型のときのオードリー春日すぎておもしろかった。

 とはいえ八〇年代のアメリカ映画を、いま、日本で、日本人キャストが、日本語のミュージカルで再現するということの無理性のようなものが終始付きまとってもいる。前に見た『ライオンキング』でその無理性を感じなかったのは、動物を題材にしているから、すなわち演じ手と題材との距離がかけ離れているからということかもしれない。

 ミュージカルが終わって、会場を出るときに階段で左足首をグキッた。痛くて、変なポーズをしながら思わず爆笑して同居人を驚かせ、驚いた同居人がやはり爆笑しながら私を一発パンチしてきた。その爆笑しながらの流れでGくんとまた合流して、熱烈中華食堂で食べて解散した。Gくんの中高時代の写真も見せてもらった。私もだが彼もやはり中三か高一くらいの段階で癖毛になっていた。……というのはどうでもいいか。家に帰ってからは松村北斗主演の『告白─25年目の秘密─』というドラマの第一話を見て、かなり変でウケた。地上波のドラマって、もしかしたらかなり変なのかもしれない。松村北斗はがんばっていると思った。

 ……昨年観た『みんな、おしゃべり!』という映画でケバブ料理屋の店主を好演していたムラト・チチェクさんというトルコ国籍のクルド人のひとが警察に勾留されている間に亡くなったという情報をXで見て、その経緯にかんしてはさまざま真偽不明のポストが拡散されていてまだ確実といえないと思うのだが、ともかく亡くなったということは間違いなさそうで、ほんとうに信じがたく、やりきれない。

 

7/12

 朝からノルウェー対イングランドの試合を見た。ここ数日、私のXのタイムラインにノルウェーのハーランドの動画がよく流れてきて、まあそれは私がそのぶんハーランドに「屈強で素敵だ♧」と関心をもっているからなのだろうが、いくつも動画を見ることで私のハーランドへの関心は高まりを強いられ、ついに今日、時間がちょうどよかったから試合をフルで見てしまったのだった。そのハーランドは延長の途中で交代し、ノルウェーは負けてしまった。しかしイングランドの二得点決めたベリンガムという選手もよかった。シンプルに二得点とも美しかったのと、ずっとキビキビ動いていて好印象だった。私はサッカーに詳しくないので、選手を好印象かそうじゃないかでしか見ていない。

 サッカーのことはわからないが、次にどこにパスするかを予想しながら見ると試合はわりとおもしろい。私ていどの目でも、あ、いまミスったな、とか、うますぎる!とかがわかる。しかしこの「わかる」感覚もあくまでビギナー的なものであること、すなわちあの有名な知の曲線でいうと最初の山に過ぎないのだということを鑑みなければならない。というか私が知っている事柄なんて、たいていが最初の山に属している。私のなかで最初の山を下山しはじめている、すなわちいわゆる「無知の知」ゾーンに入りつつある事柄なんて、散歩と小説くらいのものだろう。たとえば漫画はまだまだ最初の山を登っている途中だ。そもそも漫画を読んできた絶対数が圧倒的に少ないなかで、『HUNTER×HUNTER』がいちばんおもしろい、と思っている。今日はグリードアイランド編をようやく読み終えた。このあたりから作品内のゲーム性が顕著にあらわれてくるわけだが、これだけルールの多いゲームを漫画のなかでおもしろく成立させているのがほんとうにすごい。そのおもしろさゆえに、細かい設定をてきとうに読み飛ばしながらでも読めてしまう。しかしおそらくこのグリードアイランド編でしっかり細かく読む習慣をつけておかないと、王位継承戦編でついていけなくなるというわけだ。じっさい私は王位継承戦編を雰囲気で読んでわからなくなった身だから、二周目の今回はグリードアイランド編もきちんと読もうと決意していたが、いざ読み進めるとぜんぜん真面目に読めない。やはり雰囲気でおもしろいと思いながら読んでいる。

 夕方に、三軒茶屋の昭和女子大学人見記念講堂へ柴田聡子のライブを見に行った。素晴らしかった。アルバムでいうと『ぼちぼち銀河』あたりの骨太な曲が中盤に配置されていて、いまの気分としてはそのゾーンにいちばん惹かれた。人見記念講堂はいかにも講堂然としたかしこまった佇まい、かつ座席指定の会場だということもあって、きほん着席してライブを見ることになる。傾斜もそんなにないから、立つと後ろのひとに迷惑かも、と思う。会場に蔓延するそんな気持ちを汲んでか、柴田聡子の煽りも「ぜんぜん立っちゃってもいいし、もちろん座っててもいいし」とややぎこちない。しかしライブが進むと会場に一体感が出てき、「ぜんぜん立っちゃってもいいし、もちろん座っててもいいし」という言葉のとおりになってきて、私もアンコールのワンコロメーターではさすがにいいっすよね、と思いながら立った。というかその時点ではもうかなり多くのひとが立っていた。もちろん座っているひともいた。アンコールが三回もあって、三回も「ワンコロメーター」をやって、三回とも違うアレンジで楽しかった。吉田さんちのワンコが三回も行方不明になって、三回とも見つかった、ということでもある。それにしても柴田聡子のバンドのフロントマンとしてのパフォーマンスに年々磨きがかかってきていて、意外なほど活発にステージ上を動き回るその姿が離れた席からでもはっきり捉えられる。動き回るぶん、柴田聡子の眼鏡が明滅して見えたのがおもしろい。ライブのあとは同居人と歩いて、物事を決められるようになるための練習だということで、私が夕飯の店を選ばなくてはならなくなり(選ばせていただくこととなり)、どうにか入ったタイ料理屋は、まあ、ふつうだった。

 

7/13

 グリードアイランド編の最後には、ゲームクリアを祝うパレードが執り行われる様子がほんのちらっと描かれる。こんなにわずかしか描かないのならそもそも描かなくていい(そもそもパレードが開催されることじたいに言及しなくていい)はずなのだが、そうした作劇上の都合より物語上の摂理が優先されている感じがして、なんとなくうれしい。あれだけ島全体をあげて運営されているゲームをクリアする者がついに現れたのなら、盛大なパレードが開かれないわけがないのだ。

 それにしてもヨークシン編とグリードアイランド編における時間の流れ方の違いもおもしろい。かたやたった数日のことを描くのに数十話を要し、かたや数週間の修行がたった一話で描かれる。なにを描いているのか、その内容が話数の伸び縮みを要請している。(いまの王位継承戦編にいたっては、漫画内の時間経過の伸び縮みに、現実世界における休載期間の伸び縮みがかけ合わせられ、さらに漫画内の文字の多さによってじっさい読むのにかかる時間も際限なく伸びてゆき、ゆーっくり進む巨大客船のなかでもはやまっすぐ立ちつづけることは不可能に近い。)

 また、そうした伸び縮みの感覚とは別に、新たな「編」に突入するときの、なんそれ、という初読時の感覚もよみがえってくる。というのもいまキメラアント編に入るにあたって、でっかい蟻が急に現れるのにやはり笑ってしまったからだ。あんなにおもしろかったグリードアイランド編を経ての新章が、でっかい蟻の登場によって開幕していいわけがない。奇妙すぎ。そしてそのように奇妙なかたちで開幕した新章が結果として大傑作になるのも、やはり奇妙なことだと思う。

 ……今日はやたらと蒸し暑かったが明日はもっと蒸し暑いらしい。夜になっても蒸し暑くて、いよいよ夏、という感じがする。柴田聡子も昨日「夏、来たねー」といっていた。とうぜん汗をかくわけだが、そうなると逆に、夜、もうあとはシャワーを浴びるだけという状態で一度外に出て、思いきり汗をかきながら散歩するという楽しみもある。同居人といろいろ話しながら近所を大きく一周した、その終盤にすれ違った陽気な男性たちが「てか海行きてー」といっていて、しかもいかにも「てか海行きてー」といいそうな雰囲気のひとたちだったので、かなりよかった。

 

7/14

 朝から夜までねっとりしつこい暑さがある。どうせ帰っても暑い、という意識もはたらいただろうか、会社にわりと遅くまで残った。基本的には早く帰るに越したことはないが、夜、数人しか残っていないオフィスでゆっくり仕事して「あーなるほどね」となにかタスクが解決する、そこにちょっとした快感があることも認めなければならない。帰宅してもまだ同居人が帰ってきていなかったので、食べたいといっていた豚ロースの生姜焼きを作って待った。二十分ていど漬け込んでから焼いたらえらくおいしく作れた。火が通ったところで止めないで、肉の表面に少し焼き目がつくくらいまでいくとよろしい。同居人が帰ってきてから一緒に食べて、『すいか』という二〇〇三年のドラマの一話を見た。傑作のにおいがする。私が知らなかっただけか。

 こないだ書いた小説をChatGPTに批評してもらったら、まず面白い着想と語り口が先行していて、小説としての人物・時間・感情が、その仕掛けに十分追いついていないといわれ、続けて最初に思いついた面白い呼称を、作品が手放せなくなっている「読者に一度足場を失わせるほどの構造的複雑さに対して、その見返りがあまり大きくない。批判的に言うなら、時制を複雑にしたこと自体が作品の技巧として前に出ている異常な行動を描きながら、その異常さが人物の倫理や関係を傷つけないように保護している。もっと怖くなりうる小説なのに、笑いの側へ安全に着地している」などと、どれもしごく真っ当と思える指摘が入って、ぞくぞくした。少しうれしいくらいだった。

 

7/15

 昨日の蒸し暑さはねっとりと肌にまとわりつくようだったが、今日はぬるぬると掴みどころのない、コーラを飲んだあとの前歯の裏のような暑さだ。三連休にどこかに行こうと調べたがどうも雨らしい。『すいか』の第二話を見た。

 

7/16

 今日は西向きの小さな和室の押入れに隠れ、誰にも見つからないまま、わずかに開いたふすまからその時間ちょうど射してきた西日が空気中の小さな埃を照らして驚くほど黄色い筋を作るのを眺めるうちに三時間も経ってい、あれ、おかしい、と気づいてようやく押入れから出たとたんに部屋は真っ暗、そしてそもそも考えてみれば私は誰ともかくれんぼなどやっていなかったのだった、──というような感じの暑さだった。夜に、LUUPの自転車を借りてあたりを一周した。ほとんど散歩のつもりでサイクリングした。散歩とは通り過ぎる道や路地の日常を覗き見る行為であり、それと同時に、よく見るような光景のなかに非日常を見いだす行為でもある。と、サイクリングしながら思ったのだったが、あとから考えるとよくわからない。散歩は、散歩している時間のなかにしかない。散歩の延長で──そして新曲「Globster」も聞いた延長で──、ceroの『e o』も久しぶりに聞いた。相変わらず最高のアルバム。この種の音楽にしては(と書くとceroに失礼か)驚くほど「住宅街」のにおいがするのだ。

 家に帰ってから『HUNTER×HUNTER』を読み進めた。無料期間が目まぐるしく過ぎてゆくおかげで、ここ一週間ほどは他に本を読めていない。しかしおもしろいのだから仕方がない。宮殿に突入する作戦の是非にかんしては正直ゴンと同程度にしか理解できていない(と書くとゴンに失礼か)いっぽう、コムギと王が互いの名前をたずねあうシーンにはやはりグッとくる。短絡的な連想だが『君の名前で僕を呼んで』みたいな官能を感じる。王=メルエムの名前はけっきょく最初のたずねあいにおいては判明しないわけだが、しかしこれがのちのち効いてくるというのは有名な話であって……。それとテレビでバレーをやっていたので見た。私は知らなかったが、バレーの男子代表はいまかなり強いらしく、今回のリーグ戦でも今日含めて十連勝しているという。同居人にあとで聞いてみると、男子代表がかなり強いことを既に知っていた。同居人は同居人のお母さんから聞いていたという。その同居人は今日は会社の同僚とケンティー主演の『ラブ≠コメディ』という映画を観てから帰ってきた。この前の舘ひろしの『免許返納⁉︎』と同様に、好感のもてる映画だったという。

 

7/17

 昨日は「宮殿に突入する作戦の是非にかんしては正直ゴンと同程度にしか理解できていない(と書くとゴンに失礼か)」と書いたが、これはほんとうにゴンに失礼だった。ゴン、申し訳ございません。いざ作戦が決行されてからのゴンの状況把握度は決行メンバー中でもずば抜けている。そしてそのゴンのずば抜け具合も含め、短時間で同時多発的に進む闘いの全容を、実況者として臨場感たっぷりに伝えてくれる冨樫先生にも感謝しなければならない。何日か前に日記に書いた時間の伸び縮みの技術がここにきて極致に達している。それぞれの思惑と感情が交差し、一瞬先すら予想できない展開が、さまざまにタッチの違う画で描かれる、たしかにこれは、漫画表現のひとつの頂点なのではないかと思いたくなるし、「天才」という言葉を使いたくもなる。──たとえば重傷を負ったコムギを抱きかかえる王の真っ暗な顔や、怒りで肥大化したユピーの異様な姿。「世界より大切なものがある」というシュートとナックルの「誤算」……

 今日はリビングのテーブルに常温で置かれっぱなしになっていたミルクレープのような暑さ。ほんのり涼しくもある。ケーキじたいを潰さないようにふんわりかけられたラップの内側が細かく結露していて、あの水滴は甘いんかな、と試してみたくなる。夜に『トイ・ストーリー5』を観た。とても楽しく観た。私は過去作にさほど思い入れがないぶん単独で楽しめたというのもあるだろう。私はチョロいので、バズの大群が出てくるたびに笑ってしまった。

 

7/18

 同居人が会社の同僚からも『ロングウォーク』をおすすめされたと話していたのが一昨日くらいで、しかし私としては同居人がひとりであの映画を観られるか気がかりだなあ、と思いながら映画のことを思い返すうちに、なんだかもう一度観てもいいかも、という気分になって、今日の朝、一緒に新宿まで観に行った。あらためて観てもいい映画、というかいい時間が流れている映画だと思った。劇中でピーター・マグヴリーズがいうように、いまこの瞬間を一緒に歩いていることがすべて、なのだ。ひとが死ぬたびに劇伴も大きく流れるとかは、かなりわかりやすい演出でもあるのだが、それも嫌な感じはしない。同居人は最初のうちこそビビりながら観ていたようだったが、途中からはびしょびしょに泣いていた。鼻の先を真っ赤にした同居人とバルト9を出て、紀伊國屋書店の地下のうどん屋で食べ、そのまま本を何冊か買った。同居人がなかば仕事としてさまざま本を読んだほうがよさそうだということで、私にも便乗する機会がとつぜん与えられたのだった。青木淳悟の初期作集や舞城王太郎の『深夜百太郎』も欲しかったが、二つともあまりに分厚い。たんに物理的な意味で積ん読とするには厳しいと判断し、今日は諦めた。それに青木淳悟といえば家にはまだ『憧れの世界』が読まずに積まれている。まず先にそちらだと思った。今日は他にも映画を観ようかというつもりだったが、『ロングウォーク』で疲れ、また蒸し暑さにも身体が慣れきっていないというのもあって、あまり出歩きすぎずどこかで本を読もうということになり、同居人が出したのは五反田のスシローという案。それはいい。五反田であればTSUTAYAで『キッズ・リターン』も借りられる。若林の『青天』に紐づけてちょうど久しぶりに見たいと思っていた。

 昼食、というには遅い時間のスシローはふだんよりずっと空いていた。ちょうどいいあんばいの隅っこのテーブル席にご案内され、限定メニューのたこ焼きを注文したりした。私はスシローに来るといつも期間限定のメニューを試すのだった。これは同居人にいわせれば「安全圏で遊んでいる」に過ぎない行為なのであって、それはこの前ChatGPTが私の短い小説について述べた「もっと怖くなりうる小説なのに、笑いの側へ安全に着地している」という文を思い出させる批評だともいえた。……というのはいま日記を書くにあたって後づけした連想だ。スシローのテーブル席で私は石田夏穂の『我が友、スミス』を読んだ。真顔でユーモラスなことをいいつづける語り手に読者として笑わされるが、その間もずっと語り手は真顔だった、みたいな小説で、「女性」性についての真摯な話でもあった。同居人は『文藝』26年秋号の大前粟生「いつか、僕のしたことをきみに話せるだろうか」を読んで、また涙していた。戦時下の日記小説。日記らしくなんでもないことを書いていた「僕」がいつしか戦地に赴き──、という内容らしく、私もあとで読もうと思った。

 帰宅して、TSUTAYAで『キッズ・リターン』と合わせて借りた柴田恭兵主演の『チ・ン・ピ・ラ』という映画を途中まで見た。同居人のお母さんがこれを見て柴田恭兵が好きになったという映画で、たしかに柴田恭兵はかっこいい、というか声がいい。いまでいう高橋一生のようなよさであった。チンピラなのにシティボーイ的な佇まいがあるのもいい。それにしてもこの前見た松田優作の『暴力教室』といい、七〇〜八〇年代の日本映画においては当たり前のように男が女に性的暴行をはたらく。それがほんとうにいただけないのと、たんに眠くなったのもあって、途中で一度寝たが、夜にまた続きを見るとやはりなんとなくシティボーイ的な雰囲気があって、とうてい「任侠もの」(としてTSUTAYAでは分類されていたのだ)とは思えない新鮮な感覚もある。オールロケで八〇年代の渋谷の浮ついて華やかな光景が映される、その撮影のかっこよさもある。これはこれでけっこういいかもしれない、と思えてきたところで同居人が寝落ちしたので止めた。

 

7/19

 大学のときに法を学んで、その1%も身についたとは思えないいっぽう、リーガルマインドと呼ばれるようなものが頭に浸透した感覚があった──そのリーガルマインドが、このところの国会における法案の強行的可決のあり方を「おかしいんじゃない?」と感知しているわけだが、それは置いておいて──、それに似た感覚が一昨日ようやく読み終わった『置き配的』からももたらされたといえる。内容の半分も理解しているといいがたいが、「シットとシッポ」を副読本的に聞きながら、福尾さんのいう〈疎〉マインドが私の身にも浸透していった感じがある。

 「シットとシッポ」で福尾さんもいっていたように、第10回は本書における白眉だといえる。「蛙化現象」から村上春樹の短編「眠り」に繋がり、他者性やゾンビを経由して(と、あいまいにまとめている時点でやはり半分もわかっていないということが露呈してもいるのだが)親密さの話になる。

親密さとは、私のあずかり知らないところで私が分け持たれることにおける疎外と譲渡の不可分性が、相互的なすれ違いにおいて編まれることを指す。

(福尾匠『置き配的』(講談社)p.217)

 ──ここだけを抜粋するとなんのこっちゃという感じなのだが、ここである種定義文のように書かれた親密さの具体例が、このあと福尾匠みずからの日記から抜粋される形で示される。その日記もまたいいのだ。今日は『チ・ン・ピ・ラ』を最後まで見て、大江原作・伊丹十三監督の『静かな生活』も途中まで見て、映画館で『オブセッション 災愛』を観た。『オブセッション 災愛』のあとにオリヴィア・ロドリゴを聞いたらいい感じだった。あと『HUNTER×HUNTER』も会長選挙編まで読んだ。あとSydとSteve Lacyのそれぞれの新譜も聞いた。いずれも素晴らしくて、The Internetの再始動が楽しみになった。これから山に向かう。

 

7/20

 それにしても『オブセッション 災愛』はよくできていた。映画館を出て、怖かったねー、のあと、あの主人公の優柔不断さや身勝手さを批判したり、あるいはまったくもって他人事とは思えずに我が身を省みたり、いずれにせよ「恋バナ」が盛り上がるように作られている。その点で拡散力がある。また、そもそも自分の好きなひとが自分のことをものすごく愛してくれるようになるという設定そのものが、まずベタにうれしい。そのように共感を呼ぶ作りになっている映画の、まさしく屋台骨ともいえるのが主演のInde Navarretteの魅力だった。身の毛もよだつかわいさ。映画を観てからというもの、私のXのタイムラインにはInde Navarretteの画像や動画がたくさん並んでいる……

 Inde Navarretteをカタカナで表記するとしたらどうなるのか? インデ・ナヴァレット? インディ・ナヴァレッテ? あるいはスペイン語ふうに「va」が「バ」となりナバレッテなのか? 名前を覚えられるかどうかというところに私の不安はあった。このところ覚えたはずの名前を思い出せないということも続いていた。私はジョシュ・オコナーの名前を何度も忘れていた。また、昨日の朝に同居人と『名探偵プリキュア』の最新話を見ていて、キュアエクレールにたいして並々ならぬ感情を抱いている様子のキュアアルカナ・シャドウの姿に、私は「あの子みたいだね、『まどマギ』の、ほら、あの子──」と暁美ほむらの名前を思い出したかったのだが、どうしても紺野ぶるまが邪魔をしてなかなか出せなかったのだった。(というのは正確ではなく、ほんとうは暁美ほむらの名前をすぐに思い出せていたのだが、そのとき私は鹿目まどかの立ち位置にいる人物として暁美ほむらを思い浮かべており、「ほら、あの、暁美ほむらを助けようとして何度も同じ時間を繰り返してた子──」といいながら紺野ぶるまの名前ばかりが候補に上がっていたのだった。つまり、ほんらい暁美ほむら→鹿目まどかという人間関係であるはずのところを、紺野ぶるま→暁美ほむらという関係を新たに作ってしまっていたのだ。)

「いやいや、ほむらちゃんがまどかを助けたかったんでしょうよ」

 と同居人による訂正を受けたのが、今日の茶臼岳の下山中のこと。けっきょく昨日の夜は二十三時半くらいに寝て、今日の一時半くらいに起き、レンタカーで那須高原へと向かった。考えてみればゴールデンウィーク以来の登山だった。久しぶりということもあって、そこまで難易度が高くなく、かつ涼しく、そして百名山でもある茶臼岳が選ばれた。東北道をびゅんびゅん飛ばし、車内で流していたボーズ・オブ・カナダのもっとも美しいタイミングに合わせて東の空が明るくなる、その偶然にも感動しながら、到着した標高およそ一五〇〇メートル地点の駐車場はちょうどカナダなのかと思うほどに涼しい。背後の稜線から現れた太陽が、目の前にそびえる山を赤く照らした。岩肌の露出した山である。木々にさえぎられることなく吹く風が涼しい。とにかく見晴らしがよく、たえず「おお……」「ビューティフォー……」と漏らしながら登った。ごろごろした岩場を抜けながら、私はいつのまにか「アンダー・ザ・シー」を口ずさんでいて、オーバー・ザ・マウンテンなのに、と思った。

 じゅうぶん縦走できる時間帯だったが、単純に寝不足もあって、茶臼岳のみにとどめた。そうすると下山してもまだ朝の九時。調べれば山のふもとのほうに十時からやる温泉施設があったので向かった。「令和の湯」という、新元号にあやかりすぎている施設ながら、館内に貼られた紹介文によれば作りにはこだわっているようで、なかでも自信があるという庭はたしかに素晴らしい。露天風呂に隣接するかたちの大きな芝生の庭、その奥に林がある。庭の中央にも一本の若木が植えられている。熱い露天風呂に浸かりながら、視力に乏しい裸眼で庭に目をやり、蝉の声や鳥のさえずりに耳をすませる。排水口に水が当たる音までもがカリンバのようにやさしく響く。庭の奥の林がそよ風に揺れるのをぼやけた視界におさめながら、あれはもしかするとただの林ではなく巨大な「森」と呼ぶべき規模のものかもしれない、と想像をはたらかせるその時間は、今度いつか裸眼で散歩してみようかな、とも私に思わせた。裸眼だからこそ見えるものがあるかもしれなかった。庭のおかげでものすごくととのったように思いながら、次は車で少し行ったところにある、U字工事もおすすめだという「焔(ほむら)」というラーメン屋に行ったところ、開店前から長蛇の列が成されていて、しかも炎天下、さっきととのったばかりの首筋に汗をダラダラかきながら、あわや大惨事かと思われたが、ようやく食べられたラーメンがおいしくて事なきを得た。登山し、温泉に入り、ラーメンを食べ、眠くなる要素しかないがどうにか運転して東京に戻った。ガムを噛みまくった。

 朝にはカナダかのように思われた那須だって昼には暑くなったのだから、東京の暑さといったら……。信じがたいほどの熱気に包まれながらどうにか帰宅し、洗濯を回し、シャワーを浴びて、完。『静かな生活』の続きを見た。ひととひととが現実ではあり得ないほどの至近距離に立って会話する、いい映画だった。眠すぎるので寝る。

 

7/21

 高市の近況報告ツイートのなかでは「半端ない情熱を注いでいました。」という部分に思わず笑わされてしまった。

 

7/22

 アド街で山田五郎が冠している「街に詳しい」という肩書きはかなりかっこいいものだった。街に詳しいことのかっこよさを教えてくれたひとりだった。私のもっている街についての知識といえば、コンクリは夏暑い、ということくらいだ。木を増やしてくれ。あるいは無許可で植えようか。『静かな生活』に映っている街は、木々が多く、したがって木漏れ日も豊かで、とても涼しそうだった。まず単純にその涼しそうな街がうらやましい映画だった。

 大江の著作を書かれた年代順に読もうと試み、いまはまだ八四年の『いかに木を殺すか』に突入したばかりである私にとって、九〇年の『静かな生活』は未知のゾーンであるが、映画を見るかぎり、そこに描かれているのは『新しい人よ眼ざめよ』期の生活の長女視点での語りなおしのようである。『新しい人よ眼ざめよ』にならい、『静かな生活』の原作もやはり連作短編集であるらしく、映画もやや細切れのエピソードが連なるような印象がある、しかしそれがかえって軽やかさを生み、大江光の牧歌的なピアノ曲や渡部篤郎演じる「イーヨー」の穏やかな発声も相まって、寓話的穏やかさが漂う。黒地に白文字で「次の日」と書かれて日が切り替わるようなことが平気で行われたり、あと昨日の日記にも書いたが、ひととひととが現実ではあり得ないほどの至近距離に立って会話するのも、なんとなく映画的でない感じがして、かえって好感がもてる。「イーヨー」が祖母の年齢を聞いて「では、もう死んでしまいますね。元気を出して死んでください!」といったという、私と同居人の好きなエピソードも映像化されていてうれしかった。しかし後半の「新井」にまつわる展開はそうした穏やかさとは対照的で、「イーヨー」&「マーちゃん」vs世界、とでもいえそうな対決が描かれ、二人の生活は大打撃を受ける。その大打撃を乗り越えるからこそ、最後に「マーちゃん」の描いた絵日記の題名をどうすべきか尋ねられた「イーヨー」が「『静かな生活』というのはどうでしょうか?」と返すことの感動がある。

 

7/23

 先週の「シットとシッポ」を聞いたら荘子itが熱量高く『急に具合が悪くなる』の話をし、それにたいして福尾匠が興味を示しつつ、自分も映画館に観に行くかどうかは保留していそうな受け答えをしていて、これぞ〈疎〉だ、と思いながらちょっとウケた。(今回の場合、ユマニチュードやケアが絶対的にいいものだとされる雰囲気にたいし異を唱えたい福尾匠、という文脈でもあるので、一概にそうだといいきれないかもしれないが、)これぞ〈疎〉、というのはつまり、相手の話にはノりながらも観に行くかどうかはまた別、という姿勢というか、話題になってるから/流行ってるから観に行くのではなく自分が観たかったら観に行く、という姿勢というか……、とにかく、ノるかノらないかは自分で決める、それが〈疎〉なのだ。いや、そのように断定すると、自己決定論のような雰囲気を帯びてしまって、それはそれで違うなあ。このように長々と書いてしまっている時点で、やはり私は『置き配的』に書かれている内容を「理解」しているとはいいがたく、あくまで「浸透」なのだ。しかしそのようなことをちょうど今日ツイートしたところ、福尾さんから引用されて、いわく「理解より浸透のほうが嬉しいです。」ということなので、よかろう。

 同居人は仕事が連日遅くまである。いつもなら私のほうが遅くまで仕事している印象なのだが、先週今週と同居人のほうが帰りも遅く、へとへとになっている。もちろん暑さゆえのへとへともある。朝、家を出た段階からありえないほどの日差しに突き刺される。日本の暑さの原因は湿気であるなあ、とつい二週間ほど前まではのんきなことを思っていたが、なんのなんの、真の原因は日差しである。

 

7/24

 毎年のことだがフジロックに行かずに東京で働いている。配信も見ていない。MステにZAZEN BOYSが出ていたので見た。向井秀徳とタモリが重なって見えた。椎名林檎からコメントが寄せられていたが、珍しく横書きになっていた。

 『キッズ・リターン』を久しぶりに見て、かなりいいと思った。思いのほか群像劇だった。とはいえ中心はやはりシンジとマーちゃんなのであって、シンジ(安藤政信)の無造作に切られた直毛が、風に吹かれて揺れる感じと、マーちゃん(金子賢)の、顎をくいっと上げながらイキる、そのときセンター分けしたさらさらの髪が跳ねる感じ。マーちゃんの家の前で自転車のチリンチリンを鳴らしつづけるシンジ。ヤクザになってから久しぶりにボクシングジムに来て、リング上で舎弟とじゃれるマーちゃん。周囲が白けるなか、マーちゃんをまっすぐ見つめるシンジ。それぞれ違う場所で、時を同じくしてボコボコに殴られるシンジとマーちゃん。「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな」とこのときだけタメ口になるシンジ。「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」とはにかみながら返すマーちゃん。二人でしばらくへらへら笑って、久石譲の青いビートが鳴って、エンドロール。……最後、少し長めにへらへら笑う二人がものすごくいい。フリオチの短い編集に貫かれてきた映画の最後に、たったコンマ数秒かもしれないが青春が延長されている。

 

7/25

 映画の冒頭、シンジとマーちゃんが二ケツした自転車で高架を走る、その姿にカメラは並走する。カメラの水平が保たれたまま、ふいに自転車が上り坂にさしかかると、二人の姿は画面の上に消え、代わりに高架の白が画面を埋めた瞬間、青い「Kids Return」の字が現れる。しかしそこでカメラは止まらない。自転車が走りつづける限り、それにカメラは並走し、青いビートが鳴りつづける。(すなわち、映画の最後と同様に、冒頭においても青春が停止することなく延長される。)やがて高架が下がってきて、自転車と二人の姿が再び画面に入ってくる。──というひと繋ぎのショットが、『悪は存在しない』において親子が森を歩くショットと似ていて、まあこれは似ているだけかもしれないが、どちらもかっこよく、ものすごく映画だ、と思う。

(それと、何日か前の『静かな生活』にも「マーちゃん」という名前の子が出てきたことを思う。が、これはほんとうに偶然で、映画的というわけでもない。どちらかというと日記的偶然だ。)

 そこまで複雑な映画ではないにもかかわらず記憶から抜け落ちているものが多いのにも驚いた。ものというよりひとか。「強いやつは酒飲んでも強いんだよ」とのたまって、シンジがつぶれるきっかけを作るボクシングジムの先輩・ハヤシ。そして喫茶店の女の子に恋し、不器用にアプローチし、やがて就職と結婚を経たのちに社会に揉まれ、タクシー会社に転職し悲劇的な顛末をたどる真面目で内気なヒロシ──、彼らの顔を、いたなあ、という感慨とともに私は見た。久石譲の鮮烈なテーマ曲のことさえも、冒頭でいきなり流れるまで、私は思い出さずにいたのだった。そのようにさまざまに抜け落ちていながらも、何年も前の初見のときにいだいた「感じ」が即座によみがえってき、泣くというよりはむしろなぜか笑いそうになりながら見た。

 映画を観たときから時間が経つほどに、その具合的な内容の鮮度がうしなわれ、その映画を観ていたときの「感じ」だけが残っていく。映画そのものがもともと備えているというよりは、それを観た私の側に残る、そうとう漠然としたある「感じ」。その意味で、映画を観るというのは、物語を楽しんだり、ショットを分析したりすること以上に、なにか「感じ」を得るための行いだともいえる。たとえば北野武の映画についてよくいわれる《キタノブルー》というのだって、じっさい画面は明らかに青いのだから事実ではあるのだが、つきつめれば青い「感じ」のことである。とりわけ『キッズ・リターン』のことを思い出そうとするとき、なんだか青い「感じ」の映画としてその印象が浮かび上がってきていた。そしてその「感じ」は今回の再見によって強化された。いっぽう再見することで「感じ」が弱まる映画もある。昨年『親密さ』を観たら初見時の静かに切迫した「感じ」は弱まった。ハマリュウ史上の名シーンであるはずの橋の長回しも、二回目は拍子抜けするくらいあっけなかった。そのように強まったり弱まったりする「感じ」は、さっきも書いたように映画そのものが備えているのでなく観客である私のなかに生まれる、ようは私のコンディションにも簡単に左右されるものなので、映画のよしあしとは関係がない。映画じたいがそんなにいいと思えなくても「感じ」が強く残る場合はある。……とはいえよかった映画は「感じ」も強いことが多く、逆は少ないか。

 今年の上半期ベストといえる『マーティ・シュプリーム』と『急に具合が悪くなる』についてだって、私のなかですでに内容の鮮度はうしなわれはじめ、よかった「感じ」が勢力を伸ばしている。まだすっかり忘れてしまう前だからこそ、内容と紐づいた具体的な「感じ」がある。とくに『急に具合が悪くなる』のホワイトボードのシーンにたいしての「感じ」が、いま強い。ホワイトボードに書かれる講義内容がどうこうというよりは、ああやって真理がホワイトボードを持ち出し、マリー=ルーが身を乗り出して受講するにいたる、あの奇跡的な出会いの夜の「感じ」。ああやってほとんど初対面のひとと公衆の面前で親密な会話を交わして、同じ名前であることがわかって、夜まで街を歩いたら橋の下で踊っているひとたちがいて、そこにしばらく混じって、川面がきらめいていて、──という夜になら、盛り上がった末にホワイトボードが持ち出されることだってあるだろうと想像できる「感じ」。真理だって始めから講義するつもりだったわけじゃなく、会話が弾みに弾み、いてもたってもいられずに気づけば板書していたのだ。たまたまそれが資本主義にかんする話だったというだけだ。──と、二人の会話をある種矮小化してしまいそうにもなる「感じ」。

 ところでこういう「感じ」というのは映画だけでなく小説にもあるし、散歩や、天気にだってある。しかし天気にかんする「感じ」は奇妙だ。天気というより季節か。私は毎年、夏にたいして間違った「感じ」をもってしまっている。「感じ」というのがあくまで主観的なものであることを踏まえれば、合ってるも間違ってるもないはずなのだが、夏にたいする「感じ」だけは明確に間違っていると断言できる。というのも私はいつも冬や春になると夏をなにかいい「感じ」のものだと捉え、それを修正しないまままた次の夏に突入しては激しい裏切りにあっているからだ。夏がいい「感じ」のものであるはずがない。毎年いやというほど実感しているはず……。それなのにどうして何度もいい「感じ」をいだいてしまうのかといえば、やはり夏を描いた映画や小説や音楽のいい「感じ」のせいなのであって、そういうフィクショナルな「感じ」が連鎖して偽りの夏のいい「感じ」を生み、それにだまされつづける私だった。

 今週はひどく暑かった。私はもう二度と夏のいい「感じ」にだまされないと誓いたい。しかし今日の夕方、空ににわかに分厚い雲がかかって、夕焼けの橙色と曇り空の灰色が拮抗し、グレイッシュオレンジとでもいうべき微妙な色に空が変わって以降の涼しさは、またほんの少し夏のいい「感じ」がよみがえってきそうな性質のものだった。こういう日があるから夏はいいんだよなあ、などといってしまいそうになる涼しさだった。それに今日は夕方まで仕事だったので、昼間の暑さをさほど味わうことなく涼しい夕方を迎えてしまった。こういう日にこそ気をつけなければならない。同居人が友だちと『ちいかわ』の映画を観に行って、そのまま別の友だちと飲みに行っていたので、私は散髪し、外でご飯を食べてから、少し遠回りの電車に乗って日記を書いた。『キッズ・リターン』のタイトルバックのシーンについて詳細に書きながら、もう一度見たくなったので、帰宅してから再生してみたら、私の記述から受ける印象よりずっと短いショットだった。昨日の今日ですでに記憶の改竄が始まっている。「感じ」が幅を利かせはじめている。やがて同居人が帰ってきて、『キッズ・リターン』の話をまた少しするうちに、明日の朝までにDVDを返さなければいけないことを思い出して、LUUPの自転車を借りてTSUTAYAまで返しに行った。その道中もやはり風が気持ちよくて危なかった。TSUTAYAの近くでビルの工事をしていて、ちょうど巨大なクレーンが巨大なパーツを二〇メートルていどの高さまで持ち上げるシーンに立ち会って興奮した。国がキモくてもビルは建つ。帰宅してから、『Tシャツが乾くまで』の第三話のほんの一部を見た。中島歩がシャツにカレーをこぼすシーンがあって、私がぜったい好きだと思うから、ということで同居人が見せてくれた。私は洗濯剤のCMでシャツにカレーをこぼすシーンで必ず笑ってしまうのだ。『Tかわ』のカレーこぼしもなかなかに豪快で、やはり笑ってしまった。こぼしたことに気がついて「あーあー」といいながら、しばらくスプーンを動かせずにいる中島歩がいい。しかしちゃんとあらためて全編見ようとも思った。

 

7/26

 朝から『名探偵プリキュア』を見ていたら激アツ展開に突入した。もはやふつうに楽しんでいる。それから家を出て、近所のカフェでパンを食べコーヒーを飲んでから、池袋に移動して、星乃珈琲店でやはりコーヒーを飲みながら私は『夏帆』の続きを読み、同居人は田中小実昌の『ポロポロ』を読んで、同居人がときおり抜粋して音読する『ポロポロ』の一節がとてもよく、正直『夏帆』を読んでいるよりそれを聞いているほうがいいくらいだった。『夏帆』はまだ途中なのでなんともいえないが、すごくグルーヴ感があるような感じはしない。相変わらず読みやすいのはすごいが、とはいえ春樹の文体も歳をとったなあ、と思う。

 東京芸術劇場に移動して、プレイハウスで『NORA』という演劇を見た。黒木華と瀧内公美が出ているという理由で同居人がどこからか見つけてきて、私たち二人ともちょうど演劇に興味が湧いている頃だったので行ってみることにしたのだった。原作はイプセンの『人形の家』。演出はティモフェイ・クリャービンというひと。主にスマホのメッセージのやり取りで演じるという大胆な翻案だった。舞台の上半分に、主要人物四人のスマホの画面が大きく投影され、俳優たちのリアルタイムでの文字入力によってLINEやMessenger上でやり取りが行われる。舞台の下半分はガラス張り(いわゆるマジックミラー)になっている、その向こうで俳優たちが日常の場面場面を演じながら、同時にスマホを操作しつづける。台詞のほとんどがスマホ画面上でのやり取りに代わっているため上半分のスマホ画面を常に凝視することが求められ、また下半分の俳優たちの動きにも注目しなければならないため、最初はとにかく見づらい。たとえばこの前の劇団四季に比べると圧倒的に「不親切」な演劇だと感じる。しかし「不親切」であることはよしあしに繋がらない。見ているうち、おもしろい試みだと思えた。

 登場人物たちの名前は原作どおりのようだが、彼らが使用するスマホ(iPhone)やLINEやMessengerやGoogleやChatGPT(らしき会話型AI)や言語や絵文字は現代の日本のものであり、彼らがスクロールするFacebookのタイムラインには日本の地名も散見される。しかし物語はあくまで原作準拠で進むので、作中のリアリティ・ラインがどこに置かれているのかがわかりにくい。というか、舞台上半分と下半分で意図的にずらされているようにも感じる。また観客から見やすくするための苦肉の策だろうが、トーク画面の文字サイズがでかいのも、あの登場人物たちの年齢にしては奇妙である。しかしリアリティ・ラインどうこうというよりは、スマホ画面を通して感じられる俳優たちの身体──打ち直しとか、打ち淀みとか、打ち損じとか、入力できなさにいらついてボイスメモに移行する感じとか、ひとと一緒に過ごしている時間にもスマホをいじりつづける感じとか、一緒にいるひとから見えないように太ももの陰で器用に文字入力を続ける感じとか、娘たちと愛おしい時間を過ごすと同時にスマホ上で物騒なやり取りを続ける感じとか、黒木華はキーボード入力派なんだ、とか、鈴木浩介はポチポチ入力だからちょっと遅いんじゃないのか、とか、そうしたスマホ上のあれこれ──こそを現代的な個性として味わうことに、この演劇の真髄があったようにも思う。その点でいい演劇だった。逆に第二幕でふつうに台詞劇に移行しかけて、ちょっと拍子抜けしたほどだった。

 いっぽうでこの物語を現代的に翻案するならSNSも登場させたほうがより真に迫るのではないか(いや、舞台上でやるには現実的に厳しいのはわかるが)、と思ったりもした。映画やドラマで変にSNSが出てくると、なんだかなあ、と文句をいうくせに、出てこないなら出てこないで、やはりなんだかなあ、と感じる私だった。というか、突き詰めて考えれば、今回の方法じたいはおもしろいと思いつつ、ではこれが『人形の家』である必要があったのか、という疑問にも繋がる。古典を現代的に翻案する、という試みであるのだろうが……、これはけっきょく『人形の家』を読んでみないことにはわからない。

 帰ってから、フジロックの配信でFrikoを見ているうちに、窓の外の空がものすごく曇ってきて、これもやはり夏らしいと思った。変な時間に少しだけ寝てから、変な夕食を食べて、変なふわふわした感じになった。Massive Attackも配信で見た。Mitsukiも一瞬見た。そっか、日本語話者なのか、と思った。

 

7/27

 マッシヴ・アタックの(ライブを配信で見て、スクリーン上に投影されているメッセージはいずれも真摯なものだったし、「ラディカル」で「リベラル」であることと心中しようという不退転の姿勢に感動もしたし、途中の妙に精度の高いフェイクニュース乱造には笑ったが、配信ではカメラがさまざまに切り替わり、パフォーマンスやメッセージを一貫性のあるものとして受け取りにくいと思った、が、それは配信で見ているからだ。)曲もいまあらためて聞くとかっこいい。いまあらためて、というのは久石譲にもいえる。『キッズ・リターン』のサントラの一曲目「MEET AGAIN」は主旋律が繰り返される後ろで前半は久石譲好みのトライバルな太鼓が静かに響き、一度それも静まったかと思えば、今度は四つ打ちの大きなビートが始まって、ギターも加わってくる。全体としていなたいが、同時に美しいとも思う。ストロークスの新譜も、これはこれで、と思いながら聞いている。前作で幕を閉じたバンドの、そのあとのアルバムという感じがする。ジュリアン・カサブランカスにとってオートチューンは延命装置であり酸素マスクであるかのようだ。それに比べてチャーリーXCXのなんと器用なことか。

 今日はとても過ごしやすかった。こういう日があるから夏に騙されるのだ……。仕事のあと、『ネネットとボニ』を観た。説明は排され、とにかく顔、視線、身体ばかりがクローズアップされる。一昨日くらいの日記に書いた話に寄せれば、『ネネットとボニ』は、観ている最中からもういい「感じ」が湧き出てくるような映画で、ある意味もっとも純粋な映画体験のようでもある。いうなれば、純映画。あまりに美しい。帰宅してからは松村北斗主演のドラマ『告白』の第三話を見て、さすがに無理がありすぎる、とウケた。『ちいかわ』のアニメも途中から途中まで見た。『ちいかわ』って、日記に近いかもしれない。

 

7/28

 今日は昨日よりは暑い、が、これくらいならぜんぜんウェルカムですよ、という感じの暑さ。昔って夏でもこれくらいだったよなー、という話をしたいときに、ちょうどいちばんいい「これくらい」の暑さ。そういえば『NORA』では登場人物たちがiPhoneを使っていたのもたいせつなポイントだと思った。というのもiPhoneの日本語入力では、打ち損じても予測変換で勝手に修正してくれるということが頻繁に起きるからだ。よそくへんかんにたよらずひゅうりょくしたとしたら、ど」すらいまちがえるだろうか。わたしのばあいまいにちのにっきできたえているつもりではあるが、もおもとにゅうりょくはにがてなほうであるから、じゅうよじにいちもじていどはうちそんじるのではないかとおよう。さっき、きょうのあつさについてかいたときにだって、よそすへんさんがきをしかせてくれた、そのことで『NORA』のiPhoneのことを思い出した。舞台の上半分に主要四人それぞれのiPhoneの画面が投影され、俳優たちの文字入力がリアルタイムで反映される。そのなかで打ち損じてもあるていど予測変換で修正されるのが、じっさいの発声による会話とは異なる発話なのだと感じさせたのだった。また、Messengerでは相手が入力していると「・・・」と表示されるのにたいし、LINEではなにも表示がない。そのため、話者は自分がまだしゃべっている途中であることを示すために、長い文章を細切れに送信する。「それに、」とか「え、」とか。このようなアプリごとのUIの違いも、iPhone上での会話の形に影響するのであって、そういうものが、意図してからせずかはわからないが、結果として演劇のなかに表れていたのがおもしろかった。

 『NORA』は、いうなれば方法論そのものが舞台の形になっているような演劇で、だからこそ観客としてああだこうだいいやすい。いっぽうで昨日の『ネネットとボニ』はとにかくすごいと思うが、どうすごいのか(あるいはどうしてすごいのか)がわからない。なんでこのショットとこのショットを繋げようと思ったの、というようなことがずっと続く。変な映画だったなあ、と思いながら、今日はTindersticksというバンドによる『ネネットとボニ』の劇伴を聞いている。そういえば昨日は東野圭吾が亡くなったニュースもあった。個人的に近作を読んでいることはなかったが、小学生や中学生の頃、読書の楽しさを教えてくれた作家のひとりだった。私にとって、同じ枠に伊坂幸太郎とスティーブン・キングがいる。

 ……また熊本で大地震が起きた。また、というが、記憶にある熊本の地震は二〇一六年のものだった。やはり、また、だ。すごく心配だ。特にイオンモールのところ、夏休みということもあるし。……今日は同居人が具合悪そうに帰ってきて、『ちいかわ』のアニメを流しながらあっという間に寝た。

 

7/29

 職場で仕事の話をしているところから人格的な話になっていった(その話は心理的安全が確保されたなかでなされたのであって、まったく嫌ではなくむしろかなりありがたい)。その内容を逐一日記に書いても仕方がないのでざっくりまとめると、私という人間には真剣味がなく、ひとに興味がなく、したがって周りのひとの気持ちにも興味がない。自分がこう思っているから周りもきっとそうだろう、と決めつけるような(あるいは強いるような)「暴力性」がある。──このように大ざっぱに書いた内容が、まあ遠からずだと思えてしまう時点で、へらへらしている場合ではない。私がひとの気持ちを考えられていないというのは日記からも読み取れるのであって、このところ観たものの感想といっても方法や形式の分析のようなことばかりを書いていて、それを観て私じしんがどう思ったかとか、登場人物たちがどんな気持ちだろうかとか、そういう方向に書き手として向かえていない。

 このところ日記をChatGPTに送って対話するということをたまにやっているのだが、何日か前からの日記をまとめて送って、私が書いた『NORA』の感想についてもコメントをもらった、その内容が──私が書いた日記にたいするコメントなのでそう感じるのも当たり前なのだが──けっこう的確だと思えたので一部抜粋すると、

「上半分の文字と下半分の身体を同時に追わせる構造は、観客に明らかな負荷をかける。しかしその見づらさを、ただ欠点として処理しない。むしろ、スマホを見ながら目の前の人間とも過ごすという、現代の日常そのものが、そもそも注意を二分される「見づらい」経験なのではないかとも思えます。

画面上の会話を読んでいるあいだ、俳優の身体を見逃す。身体を見ていれば、文字を読み落とす。その取りこぼし自体が、作品の主題や方法と結びついていた可能性があります。あなたが感じた「不親切さ」は、この演劇にとって偶然の不備ではなく、かなり本質的なものだったのかもしれません。」

 ということだそうなのだが、このような対話だって、けっきょく方法や形式の分析のようなことに終始し、気持ちの話ができていない。もちろん、気持ちの話をするべき/したほうがいい、というような規範があるわけではないのだが、私にはあまりにも足りていない。『ネネットとボニ』だって、登場人物たちの気持ちの面から考えるとショットとショットの繋がりも自然に思えるのではないだろうか。あるいはそもそもこの「ショット」といういかにも分析的な言葉を、よく知りもしないで使うのをやめるところから始めるべきではないだろうか。

 

7/30

 いつのまにかまた暑さが戻っている。これだから夏は、という気分になる。夜、崔洋一監督の『刑務所の中』という映画を見た。主演の山﨑努のドキュメンタリーを同居人が見て、この映画にかんする言及があったので見てみようとなったのだった。刑務所生活をエッセイ的な手ざわりで描いた映画で(というのも原作がエッセイ漫画なのだそうだ)、小さなエピソードがピアノの小曲で繋げられて連なる感じはこの前の『静かな生活』を思わせた。そういえば『静かな生活』でマーちゃんとイーヨーの父であり作家であるKを演じていたのも山﨑努だった。庭の排水管の詰まりをうまく直すことができずに家族の面前でうなだれ、しおれきって首吊りまでしようとするKをやっていた山﨑努が、今度は、ひょんなことから受刑者となってしまった変な語り手として登場する。終始おもしろくて、いい映画だった。なんといっても山﨑努の真面目な不真面目さがおもしろい。有名俳優も多く出ていて、若かりし松重豊がおいしそうにご飯を食べる姿に、後年の『孤独のグルメ』を早くも見出すことができた。

 途中、受刑者たちが免業日(=作業をしなくていい日)に映画を見るシーンがある、その映画が『キッズ・リターン』で、これまた私もさいきん見たばかりだという偶然がうれしかった。体育館のような場所に用意されたスクリーンに映し出される『キッズ・リターン』をカメラが映す。冒頭の自転車と並行するカメラのショットと、最後のへらへらした二人のショットが引用されていて、まあ単純に映画の最初と最後だから使ったということでもあるのだろうが、どちらも私がこの前見て感動した部分だったので、こんなに偶然が続くのか、と密かに興奮した。そしてそんな興奮以上に驚かされたのは、私がこの前の日記に書いた、

「映画の冒頭、シンジとマーちゃんが二ケツした自転車で高架を走る、その姿にカメラは並走する。カメラの水平が保たれたまま、ふいに自転車が上り坂にさしかかると、二人の姿は画面の上に消え、代わりに高架の白が画面を埋めた瞬間、青い「Kids Return」の字が現れる。」

 という描写における「青い「Kids Return」の字」という記述に誤りがあったことだ。じっさいは高架の白の上に白い文字で「Kids Return」と出る。この記憶違いを、まさか別の映画のなかで訂正されることがあろうとは思わなかった。マーちゃん、俺の記憶力ってもう終わっちゃったのかな? バカヤロー、まだ始まっ……、いや、もう終わりかもね。え、マーちゃん……

 

7/31

 昨日書きながら思ったが、『キッズ・リターン』のマサルも「マーちゃん」だが『静かな生活』のマーちゃんもやはり「マーちゃん」なわけで、そうなると、字面だけ見れば、「シンジとマーちゃんが二ケツした自転車で高架を走る」という描写における「マーちゃん」がマサルではなく『静かな生活』のマーちゃんだという可能性もある。その場合イーヨーも一緒にいるだろうというのが自然に想像できる。ということはシンジはマーちゃんとイーヨーという大人二人を乗せて自転車をこいでいることになり、二ケツでなく三ケツになる。いつもまぶしそうに目を細めて余裕げにこいでいるシンジだが、三ケツとなるとさすがに厳しかろう。座りこぎのままではきついが、後ろに二人を乗せたまま立ちこぎするわけにもいかないから、ひたすら歯を食いしばることになろう。マーちゃんもイーヨーもシンジにとって年上だから、「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったんすかね」と少し丁寧にもなろう。もちろんシンジも、マーちゃんもイーヨーも、終わってなどいない。しかしそれをマーちゃんより先に答えるのはイーヨーかもしれない。「いえ、シンジさんは終わってなどいません!」「イーヨー、私たちだって終わってないわ」──そのまま三人でしばらくにこにこ笑って、暗転。(この三人ならば「へらへら」よりは「にこにこ」といった感じになろう。)

 そんなパラレルワールドの『キッズ・リターン』を、体育館に集められた受刑者たちが見ている。

 上映が終わって、彼らがそれぞれの房に戻ると、部屋で待機していた他の受刑者たちが「映画、どうだった?」と迫ってくる。いやあ、途中までは少年二人の話だったのに、最後だけ謎の少女と青年が出てきて、三ケツしてるんだよ、あれは変だったなあ──「いやあ、アルフォートとコーラが出たよ、甘くて最高だった……」

「アルフォートとコーラ! いいなあ……」

 と、房の一同がそれぞれのアルフォートとコーラを想像しながら、恍惚の表情を浮かべる。

二〇二六年六月の日記

6/1

 昨日の『スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー』も嵐のラストライブもそれぞれのファンからしてみればいろいろ物申したいところのあるものだったようだが、なにも物申したいことが浮かばないミーハーマンたる私なんかが見ても楽しいと思えるのは、まさしく両者がポップカルチャーである所以だといえる。連綿と続く文脈のほんの一部分だけでも楽しめるというすごさ。やはり時代を築いた作品でありグループである。いっぽうで文脈こそがポップカルチャーだとも思う。チャーリーXCXの新しいアルバムのジャケットも、少し前でいえばドレイクのアルバムも、めちゃくちゃ文脈ゲー、と思う。

 文脈とは歴史のことでもあるが、それでいうと、大田昌秀の『醜い日本人』をちびちびと読み進めていて、あちこち引用したくなるくらい、そもそも沖縄について知らないことばかりで唖然とする。唖然とする? 私じしんにたいしてである……。夜は『銀河の一票』を見た。

 

6/2

「明日、雨やばいんすかね?」

「やばいっぽいよね」

「今日の夜から降るのかな?」

「うーん、まだ遠くのビルの明かりが見えるから降ってなさそう」

「早めに帰ったほうがいいかな」

「早めに帰ったほうがいいだろうね」

 ……というようなことを話しながらだらだらと会社に残ってしまったあと、おそるおそる帰路についたところ、さいわいそんなに降っていなかった。

 

6/3

 傘をさすのが下手すぎて、会社に行くだけでびちょびちょになってしまった。関係先のひとと電話して、え、出社してるんですか、といわれ、いえいえ、そちらこそ、といった。在宅での仕事となった同居人から、ときおり雑談めいたLINEが送られてきた。雨は夕方には上がって、夕焼けも見えた。夜には頭が痛くなった。

 

6/4

 『Backrooms』が大ヒットしているのはすごい。どんな感じなんでしょうか。『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』を読んだときに、ケイン・パーソンズが作ったという動画をYouTubeで見て、おもしろいし「リミナル」な美学に満ちていると思ったけれど、正直モンスターはいなくていいんじゃないかとも感じたのだった。モンスターもなにもいなくて、恐怖と焦りに震えた自分の声だけが、まるでブラウン管の内側みたいにぼんやり反響する広大な空間。そのほうが美しい気がする。しかしそれは私の勝手な解釈なのであって、若いケイン・パーソンズがやりたいようにやって、それが大ヒットしているのならそれでいい。それと、河合優実が朝ドラをやるという。クドカン脚本というところで期待と不安が入り混じるが、河合先生がやってくれるならそれでいい。夜は「ヤーレンズのオールナイトニッポン0」を聞きながら歩いた。私は出紫哲也(でぐしてつや)の「多事争論」のコーナーが好きなのだが、そういえば先月観た『太陽(ティダ)の運命』のなかに筑紫哲也の映像が使われていたのを思い出して、出井さんぜんぜん似てないじゃん、といまさらウケた。コーヒー豆を買って、大田昌秀の『醜い日本人』を読み進めた。

 

6/5

 夜、なんとなく日高屋で食べたいと思って同居人と一緒に行った。隣の隣の席の男性たちが大きな声で「年寄りの白米へのこだわりってやばいからな〜」としゃべっていて、ちょっとおもしろかったが、同居人にいわせれば、あれは周りの女性に聞かせるためのアピールとしての大声であり、共学の中高なんかではよく見られる光景らしい。たしかに、男性たちが「年寄りの白米へのこだわり」についてしゃべっているときに、ちょうど、私たちと男性たちの間に女性二人が着席したのだった。しかし同居人の説が正しいとして、「年寄りの白米へのこだわり」が女性へのアピールになるだろうか? いや、なると思っているのだ。国会での高市の答弁だって、きっとあれで通じると思っているのだ。(……と無理やり繋げたが、繋げ方としてはかなり不恰好だ。)

 帰宅してからは、この前カミナリのYouTubeをきっかけに冒頭だけ見てそのままになっていた『ゼイリブ』を最後まで見た。きわめて直球の資本主義・物質主義批判であり、陰謀論の風味もするSFで、低予算ならではのケレン味にも満ちていて楽しかったが、どうしてもいまの現実社会と照合できてしまう批評性を意図せず備えてしまっている感じがあり、じっさい劇中で「支配が完了する」年として「2025年」が名指しされることも相まって、おバカのつもりでは見られない映画だと思った。資本主義に飼い慣らされ従属させられている労働者が目覚めるという展開からは『ファイト・クラブ』を想起した。

 それにしても主人公の様子がずっとおかしくて、最初はこの主人公こそが地球外生命体なのかと思っていたほどだが、どうやらただたんに様子がおかしいだけのようだった。様子のおかしさは、世界の真実が見えるサングラスをかけてから加速する。社会に潜む「ゼイ(they)」がなんなのかも探求しようとせず、対話もなしに見境なく殺そうとする姿は、陰謀論者による銃乱射のようでもあっておそろしい。そこまで真面目に見る映画ではないだろうと思いつつも、やはりどうしたって現実と奇妙にリンクしてしまう。……といろいろ思うが、けっきょくいちばん印象に残ったのは、主人公と工事現場の仲間であるフランクが、「サングラスをかけて世界の真実を見ろ」「ぜったいにかけたくない」という軸で取っ組み合いの喧嘩をする長尺のシーンであった。あまりにしつこく、あまりに長かった。(しかし身体のぶつかり合いを通じて目覚めるという描写は、それこそ『ファイト・クラブ』的だ。)

 

6/6

 昨日の夜に、今日の夜の『シラート』を予約した。で、今日の日中は同居人が中高の先輩や同級生と遊びに行くというが、私は特に予定がないので、どこを歩こうかと考えていたところ、自由が丘にある緑が丘図書館──どうやらそのあたり一帯には丘がそうとう連なっているようだ──に行って『テッド・ラッソ 破天荒コーチがゆく』に登場した『五次元世界のぼうけん』という児童文学を借りてきてほしいとリクエストがあったため、予定をお与えいただき感謝いたします、といった調子で電車に乗って向かった。(同居人がどうして『テッド・ラッソ 破天荒コーチがゆく』に登場した『五次元世界のぼうけん』を読みたがっているのかといえば、まずそもそも私たちがここ一週間ほど朝ご飯を食べるときに『テッド・ラッソ 破天荒コーチがゆく』を見ているからであって、見ているといっても一回に五分、十分ていどしか進んでいないので日記に書くほどでもないと思って書かずにいたのだが、今日になってこうして思わぬかたちで言及することとなった。このように日記で言及するほどでない生活のありようが他にもあるだろうか? たとえばボディソープが切れかかっているのに毎日買うのを忘れていることとか? いま書いたことで忘れずに買えるだろうか?)

 『五次元世界のぼうけん』は優れた児童文学を表彰するニューベリー賞を一九六二年に受賞し、二十一世紀になってから二度も映画化されているようなのだが、一九六五年に和訳されていらい、日本では絶版となっているようだった。借りるにあたってさわりだけ読んだところ、はじめ「マーガレット」と呼称されていた主人公が次の行では「メグ」になっていて、そうか、メグはマーガレットの愛称なのか、といまさらながら知れた。そのまませっかくだから図書館で読書でもしようと思って、空いている閲覧席に座ったところ、ちょうど近くに日本の近現代文学「お」の段があって、前々から読みたかった『大江健三郎全小説3』のうちの「セヴンティーン」と「政治少年死す──セヴンティーン第二部」を読むことができた。ぼんやりと左翼を自認し「自瀆」中毒者として十七歳を迎えた少年が、みずからの臆病さや弱い男性性を覆い隠すように右翼活動にのめりこみ、やがて「インポテ」の極右活動家として革新政党の指導者を短刀で刺し殺し、最後には独房で射精しながら自死する。圧倒的。あまりに直截的でもあり、その点で中期以降の広大な想像力に満ちた作品群と感触は大きく異なるが、十七歳の性的衝動や強迫観念のようなものをギュッと凝縮したような文章表現の迫力に気圧される。

 図書館を出る頃にはもう昼で、自由が丘の駅周りに無数に存在する店のどこかで食べるつもりだったのだが、そこでどういうわけか現実チャンネル(=天竜川ナコン)っぽくやろうと思い立ち、「本当の店」を見つけられるまで歩きつづけることにした。そのつもりで歩くと、「日本じゃやっぱりひばりの上はいないよ、サブちゃんもうまいけど、やっぱりひばりには敵わねえな」ということを大声で二回繰り返しているおじいさんがいることに気づけたりして、いかにも平板なおしゃれさをまとっていた自由が丘という街がいっきに「本当のこと」に満ちるようでもあった。そのまま本当っぽい方向に進むと、淨眞寺(浄真寺)という大きな寺に出る。三つのお堂に九体の阿弥陀仏像が祀られている「九品仏」で有名だという、そのすべてが現存していることにも感動する。二〇三四年までの計画で一体ずつ修繕が進んでいるそうで、そういう時間の流れ方を壮大だと感じた。九品仏駅を通り過ぎてそのまま歩くと、環八にぶつかる。その先は多摩川だが、その土手までは行かず、住宅街を流れる小川に沿って進むとやがて等々力渓谷に着く。ひとの流れになかば逆行するように歩く。途中、川が高架の下に差しかかるところがあって、巨大な人工物である高架と、穏やかな谷とのコントラストが美しく、ここまで歩いてよかった、と思う。けっきょく等々力駅前のすき家で食べた。店員さんどうしが恋バナで盛り上がっている、本当の店だった。

高架と渓谷

 夕方に同居人が帰ってきて、外のベンチで涼しい空気を浴びてから『シラート』を観に行った。

 『シラート』は、あらゆる目的や意味が解体され、反復するレイヴビートの向こうに消えてゆく不条理劇だといえた。いや、そもそも登場人物たちは戦争という巨大な物語・目的・意味から逃げつづけているようでもあるのだが、ある者にとっては逃避行、ある者にとっては捜索の旅として、そのじつ明確な意味や目的を備えている砂漠行きが、やがて無意味で不条理な現実にぶつかり、飲み込まれる。圧倒的に無意味で不条理な現実のなかで、それでも前に進む以外ない、という悲劇性が、レイヴという文化のもつ(目的や意味からの)解放性に繋がっているということなのか。映画全体がレイヴということなのか。

 衝撃的な映画であるようで、いかにもきちんと映画文法にのっとった緊張感が冒頭から続く。なにか起きそうないかにもフリっぽい演出が、しかしスカされつづけ、代わりに思いもよらないかたち・タイミングで悲劇が起きる。ナコン流にいえばこれも「本当のこと」っぽいのかもしれないが、とにかく忘れがたいシーンが多く、それだけですごい映画だ。砂漠をひた走る車の姿には『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を思わせるところもあるが、あっちが意味に満ち溢れている映画であるのにたいし、『シラート』は圧倒的な無意味へと突き進んでゆくような映画なので、真逆だともいえる。疲れきって劇場を後にした。

 

6/7

 ……あるいは『シラート』は、戦争という巨大な物語(かつ巨大な無意味)からはどこまで行っても逃れられない、という話でもあるかも、と思った。

 今日は朝から曇り、昼過ぎからは雨の予報で、かつ梅雨入りも発表されたので、出かける気分でもなく、午前中は『テッド・ラッソ』をちょびちょび見ながらゆっくりしていたが、お昼頃に同居人からレンタカーで山岡家とか行く?という提案があって、そう、山岡家といえば私が以前から行ってみたいと思っていたところなので、そりゃいいね、ということで出発した。いちばん近そうな店舗が越谷レイクタウン店だったので、帰りに草加健康センターというスーパー銭湯にも寄れるだろうという計画で向かったが、いざ到着してみるとわりと並んでいて、三、四十分待ってようやく入店し、ついに食べてみると、まあ、なるほどね、(いやけっしてまずくはない、濃くてわかりやすい味だが、ほんとに想定内の味だ、いや、むしろ私が謎に高く設定していた期待値からすると、ほんとに、なるほどね、としかいいようのない味だ、しかしそもそも午前中をだらだらと過ごした日曜日に、疲れてもいない身体で食べるようなものではないのかもしれない、それよりは、私たちが並んでいるときに自転車でやってきた部活帰りらしき高校生たち、気持ちのいい汗を流して腹を空かせていたであろう彼らにこそ食べる権利があったものなのかもしれない、しかし彼らは、長く弛緩しきった待機列を見て、マジかー、という顔をしながら自転車で走り去ってしまった……、)という味だったので、なんとなく草加健康センターに行く気もなくなり、そのまままたレンタカーを運転して帰宅した。車内ではロスタムのアルバムやフリコのアルバムを流して、やはりいい、と思った。

 夜は豚汁を作って食べた。自分で作った豚汁のほうが今日の私にとってはよほどおいしい。また『テッド・ラッソ』を少し見、『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』という、沖縄人民党の瀬長亀次郎についてのドキュメンタリーを途中まで見た。

 

6/8

 昨日の夜中に

『シラート』では太陽のオーバーレイが多用されていたのも印象的だった。凄まじい緊張感に満ちたシーンにおいて、スクリーンに太陽が浮かび上がることで場面転換が知らされ、なにはともあれ無事に次に進んでよかった、と安堵させられる。まるでビートが消えて安らぎが訪れるブレイクダウンのような……

 とポストした。

 今日の夕方に

一面の曇り空というのは、天球と僕たちとの間に、のっぺり平たく、掴みどころのない分厚いグミが一枚差し込まれている状態だともいえる。晴れていればほんらい西の空ばかりが明るい夕暮れの光を、分厚いグミが吸収して、東の空にまで行き渡らせ、均等に夜を届ける。

 とポストした。(と、いくら眠いからといって自分のXのポストをそのまま貼りつけるかたちで日記を書いたことにするのは邪道のようだが、千葉雅也の『オーバーヒート』でも語り手がツイートする様子が小説内にそのまま描かれていたことを思い出しながら、これはこれでありなのではないかと自分で自分の日記を擁護したくなる。)

 今日は夜に同居人と外を散歩しながら《無許可バナナ》の話をしたりした。私たちが《無許可バナナ》のことを語り継いでいかなければならない。《無許可バナナ》みたいな小説を書きたいと思う。散歩しているときに、インドに住む友だちからバイクで事故ったというLINEが来て(しかもLINEグループ内でもうひとりの友だちが、インドにもスイカバーがあった、といって日本のスイカバーより少しネチョッとしていそうなインドスイカバーの写真を送ってきてからの流れだったのが奇妙でもあり、事故にあった友だちの動揺をなおさら感じさせもしたのだったが)、心配した。

 

6/9

 なにか日記に書こうと思っていたことがあったのだが忘れてしまった。大田昌秀の『醜い日本人』を読み終わった。沖縄が日本に復帰する数年前に書かれた本だが、ここに挙げられている諸問題──とりわけ米軍基地の問題、そして本土の日本人たちの沖縄にたいする無意識下の(あるいは公然の)差別──はいまなお解決しておらず、したがって現代的な本として読めてしまう。そのことに驚く。私が読んだのは二〇〇〇年に岩波現代文庫から復刊された新版であったが、この新版を出すにあたり、もともと沖縄・沖縄人の「自由への道」について書いてあったという終章を、大田昌秀みずからまったく異なる内容で書き直したという。その書き直したという終章「醜さの根源」において、大田は薩摩藩による琉球侵略にまで時をさかのぼり、数百年にわたって琉球/沖縄が支配され差別されてきたのだという証拠をつきつける。いまなお解決を見ない諸問題の根源が十七世紀にあるのだと喝破する、その書きぶりには、県知事を務めた大田昌秀じしんの実感も乗っかって説得力がある。

 夜、同居人が会社の同僚と『マスターズ・オブ・ユニバース』を観てから帰ってきて、一緒に『銀河の一票』の最新話を見た。

 

6/10

 ここ数日《もっちゅりん》というものをよく聞く気がしていて、どうもミスドの新作であるようなのだが、どこも売り切れ続出とのことで、じっさい私が昨日の夜に駅前のミスドを見に行ったときにも店先に「本日分のもっちゅりんは完売しました」と貼り紙がしてあったほどだった、となるとなおさら気になってしまう私であって、同居人にも「もっちゅりんって知ってる?」と聞いたところ、同居人は甘いものにそんなに興味がないため、流行ってるのは知っているがそこまで興味がなかったようで、しかしそうなると私ひとりますます気になる。こういうかたちで気になると食べてみるまで止まらない私だったから(じっさい以前カヌレが流行ったときには食べてみたすぎて夢に見たほどだった、そのことを聞いた同居人が私を哀れんで翌日に買って帰ってきてくれたのだった)、同居人が策を講じてくれて、ちょうど今日、同居人のお母さんが都内まで来るというので地元のミスドで買ってきてもらうよう頼んでくれた。同居人は軽い気持ちでお願いしたのだが、どうやら《もっちゅりん》は郊外でも人気爆発しているらしく、お母さんは開店前から並んで、そのまま一時間も待ってようやく買えたという。非常に申し訳ないことをした。で、そのお母さんに買っていただいた三種類の《もっちゅりん》を夜に食べて、私としてはいちご、きなこ、みたらしの順においしかったが、しかし全体の味としては正直いって、んー、まあ、なるほどね、くらいのものだった。カヌレのときも、なるほどね、だったし、直近でいうと山岡家も、なるほどね、だった。たいていの流行りものは、なるほどね、なのだ。もちろんまずくはない。しかし、おお、とはならない。とはいえ気になっていたものを食べられてよかったし、お母さんにはご苦労をおかけしたので、LINEで感謝を伝えた。

 

6/11

 アメフトをやっていたしオードリーのラジオも聞いているのになんとなく『青天』を読まずにいるうちに直木賞にノミネートされてしまった。いま買うとダサい、という自意識がはたらく。しかし私はきっと買うだろう、数日前にはGくんからも「『青天』読んだ?」とLINEがあったばかりだった、その『青天』もいいが、青木淳悟の『四十日と四十夜のメルヘン』を含む初期作の復刊が七月になされるということで、そっちもかなり楽しみである。『四十日と四十夜のメルヘン』は私も保坂和志と町屋良平による言及の影響で読んだわけだが、昨年読んだ本のなかで『同時代ゲーム』に次いで興奮させられた本だった、それが今回も青木淳悟みずからによる改稿を経て出されるという。そもそも発表時と単行本と文庫本でもそれぞれ少しずつ異なっているという噂だったけれど、これほど複数の改稿が繰り返されることがおもしろい。あと講談社学芸文庫から出される大江の『文学ノート 付=15篇』も楽しみ。……みたいな話はもうよくて、生活のことを書こうと思ったが、今日はさして書くことがなかった。一日じゅう曇っていたか。それなりに働いてから会社を出て、大きめに一周歩いてから帰った。Mall Boyzの『Mall Tape 3』とYHWH Nailgunの『Magazine』とテレビ大陸音頭の『VS Tairiku Ondo』を聴いて、それとJames Blakeの『Overgrown』もここ数日久しぶりに聴いている。あ、それとカミナリの記録映像のヘビを探しに行く回を見た。とてもいい動画だった。カミナリの記録映像の地元回にはハズレがない。

 

6/12

 昨日の夜からどういうわけか腰が痛くて、今日も背中をまっすぐ立てることができずほんのり前傾で歩いた。しかし夜に『Michael/マイケル』を観て少しマシになったかもしれない。『Michael/マイケル』は映画としては正直そこまでおもしろくないとも思ったし、全体的に演出や撮影が平板だとも感じたが、有名な曲がたくさん流れるのでどうしたって楽しくならざるをえない。

 実の甥が完璧に演じてみせているというところにまず神秘性・神話性があるわけだが、それだけでなく、そもそも映画全体が神話として作られているように見える。真偽不明のさまざまな噂にまみれた伝説のポップスターについての伝記映画を──しかも親族や弁護士がプロデュース側に入りながら──作るにあたって、ひとつのわかりやすい神話が採用されている。つまりマイケル・ジャクソンは純粋・繊細・無垢な天才で、その父ジョセフ・ジャクソンは父権主義的・支配的な悪役である。母キャサリンはマイケルの理解者としてかろうじて人格をもつが、兄弟姉妹にはほとんど人格的な深みがない。しかしそれでいいのかもしれない、これは神話だから。神話性を強調するように、ライブのシーンにおいては楽曲や歌声が聞こえにくくなるほど観客の歓声が大きく響き、マイケル(=ステージに舞い降りた神)に熱狂する観客の姿が繰り返し映される。

 おもしろかったところ;マイケルの弁護士ジョン・ブランカが初登場時から誰かに似ていると思ったのだが、時間が経つにつれマイルズ・テラーが演じているのだとわかり、わかってからはどんどんマイルズ・テラーにしか見えなくなっていったところ。じっさい時間が経つにつれヘアメイクも薄くなって素のマイルズ・テラーが出てきていたように見えたのは、気のせいではないはず。

 オリヴィア・ロドリゴのアルバムを一回聴いて、いい曲も多くてよさそうなアルバムだと思ったが、昨日YHWH Nailgunの十曲十一分という衝撃のアルバムを聴いたせいで、ロドリゴのほうは「ちゃんとしたアルバムすぎる」と感じてしまった。ロドリゴはなにも悪くないのに……。もちろん時間をおいてまた聴けばあらためていいアルバムだと思えるはずだ。

 

6/13

 timeleszのアリーナツアー「We're timelesz LIVE TOUR 2026 episode 2 MOMENTUM」のチケットを同居人が二枚当てたのが一ヶ月か二ヶ月前で、せっかくだからと私も行かせてもらえることとなった、その公演日が今日だった。南船橋のLaLa arena TOKYO-BAYというところに行った。私はアイドルのライブというものが初めてだった。以前もtimeleszのライブに行ったことのある同居人がグッズのうちわを大きめに振ってしまって後列のギャルたちに怒られた、という話を聞いていたので、私もビビりながら行ったが、周りの席のひとたちも怒鳴ってきそうな雰囲気ではなかったので安心した。それにしてもすごいことに、timelesz含めSTARTOのアイドルのライブはチケットに価格差を設けておらず、座席の位置も一律抽選、かつ入場時までわからないという。だから入場してから座席の密売買が行われているらしいとも聞いていたが、今日はそんな光景も見当たらなくて、なんだ平和じゃないか、と思いながら開演時間を迎えると、私たちの真後ろのひとたちがにわかに手を叩きながら

「タイムレス!

(チャッチャッ)

 タイムレス!

(チャッチャッ)

 タイムレス!」

 とコールをはじめて、「さ、さ、声出して!」と隣のひとにも話しかけている様子なのである。これには緊張した。私もやったほうがいいか……、と手だけ軽く叩いているうちに、手拍子とコールのムーヴメントは場内全体へと伝播してゆき、最初の緊張は、この種のムーヴメントの発生地点に遭遇できたことへの興奮に変わった。時には起こせよムーヴメント、ということか。そしてIMAXの上映前に流れているようなビートとともに、ほら、ここからも、というナレーションのかかりそうなかたちでメンバーがひとりひとり登場してライブが始まった。

 有名な曲しか知らなくても、常に歌詞が前方のモニターに表示されるのでわかりやすく、かつ歌っているひとを順繰りに抜いてゆくカメラワークも完成されていて、まずもって初心者にもやさしいライブだった。カメラワークだけでなく照明、舞台装置……、それらすべてが、事務所が積み上げてきた歴史、技術、場数を感じさせる。そしてその伝統に支えられてパフォーマンスするtimeleszの面々ひとりひとりが生で見るとかっこいいし、歌もちゃんとうまいと思える。しかしそれ以上に、アリーナ全体を包む圧倒的なホーム感に驚かされる。パフォーマンス中のメンバーどうしの絡みがカメラに抜かれれば「キャー」だし、モニターに映ったメンバーがサングラスをクイっと下げれば「キャー」なのだ。昨日の『Michael/マイケル』の劇中で観客が放つ「キャー」も今日のライブで客席から放たれた「キャー」も同じ「キャー」であり違う「キャー」である。やっぱり(あの映画における)マイケルは神のようなもので、timeleszはアイドルなのだ。MCのつたなさも魅力になる。メンバーどうしの絡みすべてがかっこよく、かわいく、おもしろい。現場はあたたかい。アンチはネットにしかいない。

(たとえば視聴者参加型のオーディション番組というのはどうしたってそれぞれのメンバーのファンとアンチが攻撃しあうことになり不健全だと私は思っているし、視聴者参加ではないもののtimeleszの『タイプロ』だってグループにとってこれ以上ないプロモーションであると同時にメンバーたちにとってはそうとう傷を負わせる番組だったのではないかと思うが、今日のライブのような一体感を経ると、長い目で見れば功罪の「功」だけが残ってゆくのではないかとも想像する。いや、しかしアンチがネットにしかいないといっても、ネットも実生活の一部であり社会の一部なのであって、その意味で「罪」のほうも拭いがたく残るわけか……)

 それぞれよかったところも書いておこうか。原;原を見ると元気が出る。それってけっこう大きいことだと思う。わりとメロディーラインも任されていて、グループの大きな柱の一本になっていると感じる。菊池;復帰明けということもあってか可憐さも備えていた。ネットでたまに見る昔のナスのヘタみたいな妙な髪型の菊池、あれの完成形が今日のビジュアルだったように思う。やっぱり場を回すのもうまい。勝利;まず顔がかっこいい、とやはり思う。八人体制で圧倒的センター感は減ったのかもしれないが「革命のDancin' night」のような曲において圧倒的な説得力を発揮する。聡ちゃん;ワイルドでかわいい、という、男性アイドル性の塊のような魅力がある。寺西;やはりボーカルの安定感が頼もしい。ときおりミュージカル仕込みのテイストが出てきて少し笑ってしまう。橋本将生;高く澄んだ声の伸びやかさに魅力がある。個人的に驚くほど安定感があった。バラエティ的な立ち振る舞いもいい。シュウト;かわいい。シノ;伸ばした髪を後ろで結っていてかっこよかった。とてもがんばっていて好感がもてる。低い声が魅力なのではないかとも思う。……ライブの本編が終わり、アンコールまでの時間にも後列のひとたちがまた

「タイムレス!

(チャッチャッ)

 タイムレス!

(チャッチャッ)

 タイムレス!」

 のムーヴメントを起こしていてすごかった。今度は私もわりと自然にノレた。

 終わって都内に戻るともう四時だった。駅前のラーメン屋で食べて帰宅し、ゆっくり過ごして、夜は『テッド・ラッソ』のシーズン1を最後まで見た。私も同居人もテッド・ラッソというひとにすっかり魅了されている。

 

6/14

 あと昨日は本屋で大江の『文学ノート 付=15篇』と若林の『青天』を買った。で、今日は一日じゅう曇ってそこまで気温は高くなかったはずなのだが、私も同居人もなぜかずっと暑さを感じていて、出かける気にもならなかったから家で『青天』を読んだりテレビを見たり昼寝したりした。あと同居人がさいきん好きだというキウェテル・イジョフォーが出ているからという理由で『ヴェノム:ザ・ラストダンス』を見た。全体的に終わらせにいっている感じが強い映画で、最後、トム・ハーディが遠くを見ながら「いつまでも忘れないよ、相棒」とつぶやくので、コミカルな展開のフリだと思ったらそのまま暗転してエンドロールに入ったので、少し茫然としてからかなりウケてしまった。まあなにも考えずに見られたのがよかったのと、偶然にも『テッド・ラッソ』のキーリーとダニ・ロハスが出てきてうれしかった。『青天』を途中まで読みながら、若林が書いてそうすぎる、と思った。

 

6/15

 朝、サッカーを見ようと思って五時に起きたが、眠いし、なんだかお腹が張っていたし、そもそもそんなに見る気にならないしでそうそうに見るのをやめて寝た。同居人のことも起こしてしまい悪いことをした。寝ようとしたが、お腹の張りがとれずに何度もトイレに行ってけっきょく眠いまま会社に行った。

 この週末はどうにも腰に微妙な痛みがあってほとんど散歩せずだったのだが、昨日ドラッグストアでフェイタスを買って貼ったところ、痛みが軽減されたようだったから、今日は仕事のあとに雨が降っていなかったらちょっと歩こうというつもりでいたところ、夕方にはオフィスの窓から遠くのビル群がよく見えて、よく見えるということは雨が降っていないということだから、仕事を早めに切り上げて会社を出た。雨上がりのにおいがした。ミント系、と思った。北の空だけが半ば晴れていた。汗をかかないていどにゆっくり歩いて、しかしまだ腰に変な感じがあるのがもどかしく、途中でLUUPの自転車を借りてぐるっと一周して帰った。風が無限に気持ちよくて、初めて通る道もあって、個人的に神回となった。自転車のサドルに蓄えられていた雨水が滲み出てズボンを濡らした。実家にいるとき、雨上がりにはビニール袋をサドルに被せていたことを思い出した。で、そのビニール袋を玄関の靴箱の取っ手にかけておくのだ。

 同居人は友だちとご飯を食べて帰ってきた。占いが好きだという友だちが同居人や私のことを占ってくれたという。名前と誕生日で宿命が決まる占いによれば、私には革命の星があり、ミン・ヒジンと同じだという。できることなら私もNewJeansを完全体で復活させたい……。夜は『銀河の一票』を見た。それぞれの人物にそれぞれの来し方があるのだと感じさせる厚みが素晴らしい。Gくんから電話がかかってきて近況を話した。私はもっちゅりんを食べたといった。

 

6/16

 昨日の夕方には西の空が曇っていたから夕焼けを見ることができなかったわけだが、今日は晴れていたから、こんなにも紫になるか、と驚かされるほどの夕焼けを見た。夜に下高井戸シネマで金子由里奈監督の『外と』と『眠る虫』を観た。早めに下高井戸に行ったら駅前で金子監督がビラを配っていて、受け取りながら、このあと観るつもりです、と伝えた。少ししたら同居人も来て、映画が始まるまで大阪王将で食べて過ごした。餃子定食を待っている間に緊急地震速報が鳴ってびっくりした。続いて揺れがあって、やはりびっくりした。

 『外と』という二〇分の短編が最新作ということになるのだろう。かなりおもしろかった。日記⇄映画制作⇄散歩を軽やかに行き来する短編。どこからどこまでが映画なんだろうね、という日記のような会話が、いつのまにか劇映画的なあり方に接続したかと思えば、その映画じたいの制作風景が映される。そのように映画の内と外を自由に出入りしながら、しかしそもそもここでいう「内」とか「外」ってどこ?という気持ちにもさせられる。その軽やかさを作っているのが金子監督みずからによる編集のリズムなのであって、ここに固有の文体といえるようなものがあるように思った。この二〇分だけでも来てよかったと思った。併映の『眠る虫』はおよそ一時間の中編で、これもやはり、一緒のバスに居合わせたひとたちを観察するようなところから始まる物語が日記的であり、散歩者ならではの起点だという気がした。そういう意味で二つの映画は同じ興味関心に貫かれているといえる。個人的には、物語や劇映画というものをより鮮やかに解体しているような『外と』を先に観たことで、『眠る虫』のほうを物語的すぎると感じてしまうこととなったが、いい二本立てだった。

 同居人が「Smooth Criminal」の曲とダンスのそれぞれを気に入っていながら、それらが同一の曲のものであると結びつけていなかったようで、今日帰ってからYouTubeを見て、ついに両者が結びつき、感動していた。

 

6/17

 「ゴラッソ」ってスペイン語のゴール(gol)に強調を示す接尾辞(-azo)がついた言葉らしいので、日本語でいうところの「すゴール」だ。

 

6/18

 今週の月曜日、私が五時に目覚ましをかけ、同居人のことも起こしてサッカーを見はじめたにもかかわらず、すぐに飽きて寝た、その話を同居人が会社で愚痴ったときに「試合っていまもまだやってるんですか?」と聞いてきたほどサッカーのことをなにも知らない同僚が、今日は「ハットトリックってなんですか?」と聞いてきたという。そこまで知らないとかっこいい。とはいえ、いわれてみれば同居人も私もハットトリックのことをよく知らない。マジシャンっぽすぎる言葉だ。「いろんなところからシュートを繰り出してひとりで三点もとる様子が、ハットを使ったマジックのように鮮やかに見えることから、そう呼ばれるようになった」と予想する。いや、それだと一個目すぎるか。「足だけでなく手も使っているとしか説明のつかないほど鮮やかに点をとる様子が、もともとハットの内側に鳩がいた(=反則をしている)としか思えないほど鮮やかなハットのマジックのようであることから、そう呼ばれるようになった」のほうがいいか。いずれにせよキーワードは「鮮やか」であろう。

 その同僚と、同居人ともうひとりで今日ジンギスカンを食べる予定だったが、そのもうひとりのひとがお休みだったので、弟くんを招集したという。呼べば来る弟くんのフッ軽さ(五七五)。私はそのときまだ会社にいた。残って仕事をしながら「シットとシッポ」の最新回、突発的な東浩紀ゲスト回を聞いた。おもしろかった。東浩紀がやや乱暴ぎみな、まさしくこの突発性にふさわしいしゃべり方、ぶっこみ方をするのだが、なにも考えていないわけではないのも伝わってきて、それがすごくチャーミングだと思った。しゃべりにおいても文章においても、ギアチェンジ(変速)を意識したほうがいいよね、という話がおもしろかったが、そんな感じの話ではなかったかもしれない。ポッドキャストの内容というのはあとから抽出できない。ポッドキャストは聞いている時間の間にしか存在しない。

 

6/19

 夜、弟ととんかつを食べに行った。前から行ってみたいと思っていた目黒のとんきというとんかつ屋に行って、一階の巨大なコの字型のカウンターも迫力があり惹かれたのだったが、上にテーブルありますよ、といわれるがまま上った二階にもまた、古きよき食堂を思わせる広々とした空間が広がっていてたいへん素晴らしい。もりもり食べようと思って、二人でヒレかつ定食とロースかつ定食をひとつずつ、それと串かつというのも注文してみたら、私たちの想像していた串かつとは異なり、豚と長ねぎを交互に並べたものに衣をつけて揚げたようなかたちになってい、これが予想外においしくて感動した。

 丸皿の端っこにたっぷりからしがついている。そのたっぷり具合から、さほど辛くないタイプのからしなのだろうと勝手に予想した弟が、箸で思いきりすくい、とんかつのひと切れにのせて口に入れ、悶絶していた。澄まし汁のような雰囲気の豚汁もよかった。

 地元からサッカーの日本代表の選手が出ている、その選手がこの前の試合でゴールを決めたというから大盛り上がりだという。彼の来し方と現在の活躍が、地元の広報紙で三ページにわたり特集されていたらしく、今日私と会うにあたって弟がわざわざ持ってきてくれた。そこまで興味はないがここまで盛り上がっているとおもしろい。家に帰ってから同居人と読んだ。小さいときには「ロナウヅーニョ」になりたかったという、そんなかわいらしい書き間違いまでもが公開されていて、地元の盛り上がりようがわかった。

 

6/20

 朝早く起きて『急に具合が悪くなる』を観に行き、そのまま歩いてしまいたい気分だったが、雨が降っていたので断念して、おにぎりを買って帰宅し、食べて、長い昼寝をして、YouTubeなどを見て過ごした。『急に具合が悪くなる』はさまざまな驚きに満ちたすごい映画で、いつのまにか涙を流してしまっていた。映画を観ていてここまで驚かされつづけることはこれまであっただろうか、いやそれこそ『ハッピーアワー』以来の経験かもしれない、と思いながら、ハマリュウはそもそも「驚き」の作家なのだと、その作品群を振り返って思い当たりもした。

 資本主義のなかで、資本主義とは別の仕方で「いま/ここ」を生きようとすることを祝福する。その「いま/ここ」性が、冒頭から驚くべきかたちで提示される。マリー=ルーにユマニチュードのやり方で語りかけられた入居者シモーヌが、マリー=ルーに支えられながら自分の足でふたたび歩きはじめる瞬間。マリー=ルーの乗るトラムにひとりの少年(智樹)が駆け寄り、声をあげながら並走する瞬間。吾朗の演劇に智樹が闖入する瞬間。演劇のあとのQ&Aセッションにおいて、マリー=ルーがふいに日本語を発する瞬間。真理がみずからの進行がんを打ち明ける瞬間。……そのように驚くべき偶然の瞬間の数々に導かれて出会った真理とマリー=ルーが奇跡のような夜を過ごす、そこに挿入される資本主義についての(ホワイトボードまで持ち出した)対話にもまた驚かされる。このような対話を比喩的に噛み砕いてでなく、そのまま丸ごと映画のなかに収めることというのは、ハマリュウにとっても勇気のいることだったのではないかと思う。しかしこの二人ならそりゃこういう対話もするだろう、という二人の(俳優の)存在感が素晴らしい。マリー=ルーが介護のプロでない真理を入居者の居室に入れるのは臨床の立場で考えると非難されるべき行動のようでもあるいっぽうで、やはりこの二人ならそうなるだろう、と納得もしてしまう。その暴力性──と呼んでいいかわからないが──のようなものについてもやはりハマリュウは引き受けたうえでそのように描くことを優先したのではないかとも思う。彼女たちがそうしたのだから、そう描くしかない、というような……

 驚きに満ちた映画、とはいえ、べつに登場人物たちは誰かを驚かせようとしているわけではない。彼女たちに訪れるいろんな偶然や選択の瞬間をカメラが映しとることによって、それを観る私たちが勝手に驚かされている。それらの瞬間を捉えるために映画というかたちが選ばれているともいえる。だからこそその捉えられた瞬間が演技なのかほんとうなのか、作為なのか無作為なのか、ということもどうしたって気になるわけだが、映画終盤の中庭における演劇の奇跡のようなシーンには、それが演技だろうが作為だろうがべつにかまわない(というかそもそもそれは演劇なのだ)と思えるような絶大な感情が宿っていて、しぜん、私も泣いてしまった。なんなら、演技的・作為的に動く(=やりにいく)ことでこそほんとうのことに到達できる瞬間があるだろうとも思う。その瞬間をもカメラは的確に捉えている。

 

6/21

 そういえば、劇中劇の長塚京三の佇まいにデヴィッド・バーンを感じた。それと黒崎煌代はやっぱりすごいなあ、とも思ったが、それは彼が自閉症スペクトラムの青年をうまく演じていたからではなくて(というか自閉症スペクトラムについて知識のない私が、あの演技を自閉症スペクトラムの再現として「うまい」か判断することなんてとうていできないのであって)、彼じしんとハマリュウがインタビューにおいて述べているように、黒崎煌代=智樹として映画のなかにいるように見えることがすごいのだ。

 (昨日の夜に映画の感想をツイートしようとして、短くまとめられたと思うので引用すると、)『急に具合が悪くなる』は、資本主義のなかで、資本主義とは別の仕方で「いま/ここ」を生きようとすることを祝福する。その「いま/ここ」性が、驚くべきかたちで提示されつづける一九六分だともいえる。偶然が重なること、みずから選択すること、演技的・作為的に動くことで到達できる「いま/ここ」。そのようにして映画の終盤にたどり着く「いま/ここ」は、ある種の小さな理想郷でもあって、あの空間が(マリー=ルーの目指す)境界が取り払われた場所になっているかはわからない。あの小さな「いま/ここ」に僕は希望を見出したけど、それは僕が資本主義的な「いま/ここ」にいるからかもしれない。(と、ツイートにおいては「僕」でいつづける私だった。)……しかし個々人どうしの知性と感情の交流を描いてきた映画を締めくくるやり方として、非現実的に投げ出すのでなく、ありえるかもしれないと感じられるかたちで理想郷を描くのはハマリュウの誠実さの表れかもしれない。

 昨日はハマリュウのことを「驚き」の作家だと書いたが、どうして驚かされるのかといえば、ひととひととの、ふだん表れないようなかたちでの交流が描かれるからだと思う。昨日書いたシーンたちもだし、資本主義についての対話において、塾の講義さながらに(あるいはYouTubeのように)ホワイトボードまでもが持ち出されるのにも驚く。そのあと真夜中の食堂で真理がふいに振り返ってマリー=ルーを抱きしめるのにも驚きがある。ひととひととが日常や境界を踏み越えて交流する瞬間。その驚きを描いてきたのがハマリュウというひとだといえる。そしてそんな驚くべき交流が、ありえるかもしれない、というたしかな体温をもって映されることにいつも感動する。

 ……あまり関係ないが、何日か前に読み終わった若林の『青天』にも、『急に具合が悪くなる』とは別のかたちでの「いま/ここ」性が表現されていたと、いま思った。フィールド上で全身の力を駆動し、相手選手を《殺す》つもりでハードヒットしにいく瞬間にこそ生きていると感じられる、暴力的で刹那的な「いま/ここ」。『スマッシング・マシーン』や『ファイト・クラブ』を思わせるような……(と書きながらそういえば『ファイト・クラブ』もまた資本主義をぶっ壊そうとする映画だったんではないかと思い出す。)

 私も少しアメフトをやっていた身であったから、主人公アリがフィールド上で相手選手に対峙したときの《殺す》の感覚を多少なりとも知っていた。よく鍛えた相手と当たったときの、まるで岩壁にぶつかったような痛さにも覚えがあった。そのような選手に「青天」された経験が私にもあった。たえず痛みを伴うスポーツにおける、プレイ内外の暴力性。私のいたサークルのリーグの試合においても「つぶせ!」というかけ声がサイドラインから飛び交っていた。日大の悪質タックルの事件があったときに、タックルそのものはまったく正当化されるべきでないと思いながら、しかし試合中ならぜんぜんありえる、とも思っていた。そういうあの頃の感覚が小説のなかに書きこまれていた。

 そもそも人間の動きとして理性的にも本能的にもおかしいはずの、頭から当たりにいく、という行為が大々的にまかりとおっているスポーツである。未経験者はまず、首をしっかり固めて相手を真正面から見据えながらヒットできるように指導される。日常生活において起こりえない動きにおそれおののき、とうぜん、顔が左右に逃げようとする。しかしそれこそがむしろもっとも危ない当たり方なのであって、命を守るためには、首を固めて真正面から当たるしかない。逃げれば死ぬ。そのように避けようのない意識改造を経て、アメフトプレイヤーとしての生が始まる。しかしもちろん真正面からだとて頭をぶつける行為には危険が伴うのであり、痛ましくも、文字どおり命を少しずつ削りながら選手たちはフィールドに立つことになる。

 アメフトとは、基本的に、事前に準備してきた作戦をチーム全員で遂行するスポーツである。だからチームメイトとの間にはこれまで練習してきた「あのとき/あの場所」がある。「いま/ここ」性は、むしろ実戦のなかで何度もハードヒットしあい命を削りあう相手選手との間に宿る。『青天』はその刹那を描いた小説だといえる。《殺す》べく真正面からハードヒットする、その一プレイ一プレイに宿る「いま/ここ」性。(いっぽう『急に具合が悪くなる』において顕著なように、ひととひととが抱きしめあうとき、二人の頭は互い違いの位置に来るのであって、ここにアメフトの真正面さとの好対照がなされている、とそれっぽいことを述べましょう。)

 今日はそのアメフトサークルのときの後輩Fとご飯を食べる約束をしていたので、それまでカフェで久しぶりに『置き配的』の続きを読んで、イメフォでゴダールの『アワーミュージック』をうつらうつらしながら観た。イメフォを出たら意外に蒸し暑かった。Fはインスタを見るかぎりここ数ヶ月髭をぼうぼうに生やしている感じだったので、仕事をやめでもしたのかと勝手に思っていたが、会って話を聞いてみると、海外留学が決まり、ナメられないように伸ばしているのだという。行こうとしていた台湾料理屋に入れなくて、もう少し歩いて餃子屋に入った。サークルの話やお笑いの話をした。FがM-1のアナザーストーリーを見ることができないという話から、漫才におけるニンの引力、有吉やおぎやはぎ世代のスカしたゆるい笑いのよさ、粗品が気張りすぎている、ざっくりハイタッチ、『ひっかかりニーチェ』は『かりそめ天国』に遠く及ばない、ジャルジャルのすごさ、……など話したが、もしかするとこれは福尾匠が『置き配的』や「シットとシッポ」で話している〈疎〉と〈密〉の考え方を援用できる話題かもしれない。いまの粗品は〈密〉すぎる。〈疎〉な場としてのしもふりチューブの更新が停止したことで、彼の〈密〉が加速している。解散して帰ると、ちょうど同居人が弟くんを連れ帰ってきた。二人は今日は法事で疲れ果てたという。YouTubeを見たり、『RRR』を途中まで見たりした。

 

6/22

 朝ゆっくり起きて、同居人と弟くんと三人でコーヒーを飲みに行き、そのまま思い立って、じゃあ弟くんを車で送ろうということにし、タイムズのレンタカーを借りて下道を行き、途中で入った魂心家のラーメンをけっこうおいしく食べながら、そういえば今日は夏至だ、と思い出した。弟くんを送り届けてからまた都内まで戻り、いったん帰宅してゆっくり、今度はGくんとご飯を食べるために家を出た。涼しくもあり蒸し暑いもある、奇妙な曇り空だった。毎年夏至になると、期待してたより日ぃ短いな、と思う。こっから一日ごとにもっと短くなっていくってことですか、とも思う。曇っていたからなおさらそう思うのかもしれない。Gくんはここさいきんなにやらくらった話があったそうで、それを話したそうにするのだが、どうももごもごしていてなかなか進まない。けっきょく要領を得ないまま他の話題に移って、二時間くらいしゃべり、店を出て代々木公園を歩きながら、

「いやあ……

 ほんまになあ……」

 とまたもごもごしだすので、さっきの話の続きのようだと思い、ゆっくり歩きながらどうにか聞きだして、こういうことかもね、といったん結論づけるまでに公園一周半ぶんの距離を要した。聞いてしまえば、ようするにこういうことだよね、という話であったかもしれないが、そこにたどり着くまでの一周半も必要な距離だったのかもしれない。店で話した他の話題のなかでは、Gくんが『SLAM DUNK』の三井寿の「静かにしろい この音が…… オレを甦らせる 何度でもよ」という台詞を見たとき、「静かにしろい(白い)この音が」というかたちで繋がっているのだと解釈して、意外と詩的なことをいうんだな三井は、と思ったという話がおもしろかった。しかしそもそもその解釈が間違っていると断言はできない。

 それと、代々木公園で私たちがおよそ二周歩いているときに二回すれ違った男女が、嵐の曲をそれなりの音量で流し、「これ櫻井くんが主演のドラマの曲だよね、なんだっけ──」などとしゃべりながら歩いていて、車のいらないドライブのようでよかった。

 書いてから調べたら、夏至は昨日だった。

 

6/23

 一日じゅうどうにも体調がパッとしなかった。しかし私の調子の微妙さとは関係なく、夕方の過ごしやすさは格別だった。夜には『銀河の一票』の最新話を見た。来週で最終回だなんて信じられない。

 沖縄の戦没者追悼式における参列者からの抗議の声を「野次」とするのは、あまりに「本土」の人間すぎる仕草だと思う。あそこで来賓として登壇するのが総理の慣習なのかもしれないが高市はよく行けたものだと思う。国家的詐欺とも呼べるような法案を数の論理だけでするすると通して戦争に向かおうとしている、その詐欺の(表向きの)親玉であるにもかかわらず……。しかしそれとはべつに、先日のG7サミットにおける各国首脳との集合写真撮影のときの、明らかに孤立していながら笑顔でいつづける高市の姿。私はどうしてもあの佇まいにひとりの人間のかなしさを感じてしまって、なかなか揶揄する気にはなれない。もちろん人間的かなしさと総理大臣としての職責はまったく別個に評価されるべきなので、あの孤立っぷりを非難すべきなのかもしれない。しかしそれ以上に私たちはいま現に行われている国家的詐欺にたいして「野次」を飛ばすべきだろうと思う。

 

6/24

 昨日の沖縄の戦没者追悼式のあとの会見で、みずからの登壇中に「戦争やめろ」との抗議の声が響いたことについて聞かれた高市が、「戦争、やって、おりません」とヘリクツで答えたという、その会話の拒絶の仕方にも驚きながらXを見ていると、あっという間に高市批判のポストばかりがおすすめのタイムラインに並ぶ。私のたったひとときの興味を、延々と持続させ、際限なく増大させようとする機構を、Xという生活侵略者は備えている。いや、好きで侵略されているのだ。侵略されない場所を見つける必要がある。LEXの新しいアルバム『SPEEDSTAR』がかなりかっこよかった。「V12」という曲における、

「若すぎてるし

 早すぎてるし

 稼ぎすぎてるし

 走りすぎてる」

 というリリックのよさ。「若すぎるし」ではなく「若すぎてるし」とすることによって「〜てる」、つまり現在完了進行形(have been -ing)的なニュアンスが加わって、スピード感が増しているように思う。この進行形のよさをどこか他でも感じたことがある気がして、思い出したのはM-1のウエストランドの「捕まりはじめてる」だった。リリックやあるあるに進行形のニュアンスを入れるとおもしろいということ。それにしてもLEXはフロウがおもしろくて、同じくフロウとリリックのおもしろさにおいて傑出しているSieroと組んだ「センス」にアガらざるをえない。

 

6/25

 昨日同居人は舘ひろし主演の『免許返納⁉︎』という映画を観に行っていて、どうしてかといえばその前作にあたる『免許がない!』という三十年くらい前の映画を前に家で観てけっこうおもしろかったからせっかくなら続編も、ということだそうだが、これが全体的に「好感のもてる」映画だったという。それだから今日は舘ひろしのデビュー作でも観てみようということで、七六年の『暴力教室』という、松田優作の主演作を家で一緒に観た。若い舘ひろしの目元が、いまや舘プロ期待の若手といえる黒川想矢くんに似ていてよかったのと、松田優作の少年のような中年のような、まるでその間がないような佇まいもよかったが、話はドイヒーで、物語上のたんなる展開の材料として少女が犯され果てには事故死する、いかにも「昭和」な映画だった。サングラスをかけた男たちがボソボソとしゃべったかと思えばふいに激昂するのも「昭和」ということなのか? 涙を隠すようにサングラスをかけた男たちが……

 

6/26

 日本代表の試合を残念ながらあまり見る気になれないのだが、たとえば竹内涼真が〝男らしく〟はしゃぎながら代表戦を応援している映像が流れてくると楽しくて見てしまう。『じゃあ、あんたが作ってみろよ』の勝男──それも、ドラマ本編における勝男というよりは、ドラマ終了後になかばミーム的に流行したイメージとしての勝男──がそのまま続いているような〝男らしさ〟をぞんぶんに発揮しながら、竹内涼真がテレビ画面のなかで吼えている、その姿をスマホの小さい画面で私は見ている。地震や台風の最中でイミフな法案が衆院を通過する、もはや世紀末的といえる状況下で竹内涼真だけが健康的に吼えている。(というか、個別の法案の内容にふれるまでもなく、ごく一般論として、現状とくに実害が発生しているといえない事象にたいし、発動条件も不明瞭な処罰を設けようとしてるのってかなりイミフすぎる。)

 というか、地震が多い。心臓がばくばくする。

 長谷川白紙の新曲を聞いて、その音よりもみずみずしい言語感覚に感動する。それにしても、歌詞なのかメロディなのか、それとも全体を覆う美的感覚なのか、どことなく(私の知っている時期の)椎名林檎を思わせるものがある。君島大空にも椎名林檎を感じるタイミングがある。あと踊ってばかりの国のアルバム『PRISM』を聞いて、「Blowin' in the wind」という曲のビデオも見て、とてもいいと思った。踊ってばかりの国といえば、私の好みとおそらく近いところにいるバンドであるにもかかわらずこれまでなぜか聞いてこなかったわけだが、これだけいいならもっと前から聞けばよかった。……と思いながら彼らのディスコグラフィを見ていて、ゆるふわギャングとコラボした曲は聞いたことあったと思い出した。

 夜はYouTubeを見ながらだらだらと過ごした。『VIVANT』を二〇分で振り返るという公式の動画があって、あらためて見てみたらずいぶんトンチキな話でかなりウケた。その流れで『進撃の巨人』のアニメを三〇分で振り返るという公式の動画もあって、これも見てみると、やはりトンチキではあるのだが話としてすごすぎて震えた。

 

6/27

 仕事の日だったが、台風の予報だったため、またびしょびしょになりながら出社するのだろうとほとんど諦めながら迎えた朝だったが、意外に小雨で、ほとんど濡れずに歩くことができたが、しかし雨は雨。頭は徐々に重くなった。夜はフレディ・M・ムーラーというユーロスペースでいま特集上映をやっている監督のドキュメンタリー映画『緑の山』をアマプラで途中まで見た。スイスの美しい山あいの村に、放射性廃棄物の処理場を建設するという計画がもちあがる。計画を進めようとする組合(ナーグラ)と、反対する住民たちのインタビューが延々映され、どうにも眠くなってしまった。美しい山の風景とそこに暮らす人びと、とりわけ子どもたちの暮らしの様子がところどころ挿入されて、そちらは見応えがある。インタビューに応えている老人の肩に、後ろからヤギがのしかかってくるシーンなど、映画的なおもしろさもあるにはある。

 そもそも、山の頂上からふもとに向かって流れる地下水を分断してまで処理場を作ろうとする計画からは『悪は存在しない』を連想しもするし、都市部で排出された廃棄物を山あいの村に押しつけようとする構図はまさしく「いま/ここ」と「外部」なのであって、ようするにハマリュウなのだった。そうなると、インタビューもハマリュウのように撮られていれば……、と欲張りなことを思ってしまう。テーマはすごく興味深いし。

 私が仕事に行っている間に同居人はスイッチの『ぽこ あ ポケモン』をやりはじめていて、夜も続きをやっていたが、けっこうたくさんの労働を強いられ、たいへんかも、といっていた。同居人はゲームのなかで労働させられるかどうかに敏感なのだった。

 

6/28

 午前中に散髪に行き、午後は同居人と大井町のTOHOシネマズへ『黒牢城』を観に行った。長く、丁寧で、どの瞬間のルックにも重厚感があり、しかしそれでいてただの時代劇にはならない黒沢清らしいおもしろさに満ちていた。時代劇ならではの所作を明確にオモシロとして撮っている感じがあって、主君に合わせてぞろぞろと集団行動する家来衆の動きにいちいちウケた。菅田将暉=黒田官兵衛が繋がれている地下牢も、吉高由里子=千代保が切実な叫びを響かせる巨大な仏堂みたいな謎の空間も、あんな荒涼とした空間が城内にあるとしたら変すぎる。『首』とはまた違う角度で戦乱の世の男たちの虚しさを描いているようでもあり、その意味でラストには不穏さと爽やかさが両方あった。オダギリジョーのあまりに信用ならない声色もよかった。

あざとい

 気温は涼しく、しかし湿度がとにかく高い。ときおり霧雨も降る。歩けないことはない天気だと思って、大井町から五反田まで歩いた。スシローをテイクアウトすべく予約して、ヴェローチェでおのおの本を読んで待った。私は『置き配的』を読み進めた。書かれていることの半分くらいしかわかっていないが、書かれている「感じ」をなんとなく捉えて、とりあえず読んでしまおうというこの感覚は、大学のときに近い。毎週の「シットとシッポ」で話されている内容を副読本的に思い返しもする。夜は、スシローを持ち帰って食べて、ブルース・リーの『ドラゴンへの道』という映画を見た。(何日か前に松田優作の映画を見て、なんとなく松田優作とブルース・リーは見た目が似ているのではないかと思ったところからの派生だった。)なぜかローマが舞台で、なぜかほんのりコメディチックでもあるのだが、アクションはとにかく速く、鋭く、かっこいい。マイケルっぽくもある、と同居人がいっていた。ブルース・リーはマイケル・ジャクソンと同じく鎮痛剤の過剰摂取で亡くなったともいわれるようだ。闘いのなかで銃が次々と投げ捨てられ、最後のアメリカ人空手家(チャック・ノリス)との死闘においてもただ互いの肉体のみがぶつかりあう。その美学を強調するように、最後去りゆくブルース・リーの背中を見ながら、登場人物のひとりが「いまの時代、あのような生身の闘い方では苦労するだろう」というような(あまりにわざとらしい)締めのセリフを発するところで映画は終わる。

 

6/29

 意外と一日を通じて雨が降らなかった。数時間後に雨が降るかもしれない、という気配だけがいつまでもあって、ただ蒸し暑かった。夜に『銀河の一票』の最終話を見た。すごかった。やりたいこと伝えたいことがこんなに前面に出ていながらこんなにおもしろいなんて。ひとがひととして描かれているからだ。登場する都知事候補者やその周りの人物にはそれぞれ背景があり、背景に根ざした信念や叶えたい世界があって、──というある種の理想的な「いま/ここ」の東京が描かれ、分断は描かれない。そのような「きれいなこと」を描ききる強さに満ちたドラマだった。東浩紀と津田大介が仲直りをする動画も少しだけ見た。あと踊ってばかりの国の「Blowin' in the wind」とのビデオもまた見た。

 

6/30

 今日も雨が降らなかったがやはり蒸し暑かった。日が暮れてからも暑い。夏が梅雨のふりをして始まっている。あと、もう六月末、つまり上半期終了なのだった!

Futsal Shuffle 2026

 りんちゃんは生まれながらの説教師?みたいな人間で、そのひと言ひと言が滋味に満ちた。ありがたみがあった。魂にダイレクトに響いた。
 わたしがりんちゃんの説教師?っぷりを体感したもっとも古い記憶はたぶん小2のとき──だったと思う、わたしもりんちゃんも九九を暗唱していたから──、りんちゃんちで遊んでいたときに、りんちゃんがりんちゃんのお母さんから宿題をやりなさいと怒られたときの「いまやろうと思ってたのに」という返し。それわたしも家でよくいう!と思ったけど、わたしがいうのとりんちゃんがいうのとでは感触がまるで違った。りんちゃんがいう「いまやろうと思ってたのに」には、ほんとにやろうと思ってたのだろうと感じさせる進行形の切迫感が宿っていた。真に迫っていた。え、わたしいるのに宿題やるの?と、じっさいに声には出さないけど本気で悲しくなってしまったほど。てかりんちゃんのお母さんもわたしがいるのにそれいう?とりんちゃんのお母さんにたいしても悲しみをおぼえたほど。それなのにりんちゃんがその直後ほんとに宿題をやりはじめたときには、しかし、悲しみを感動が上回ったのだった。ほんとにやった!
 りんちゃんが「いまやろうと思ってたのに」という言葉を発したからそのあとほんとにりんちゃんの身体によって宿題がなされたみたいな、発言と行動の因果や主従が逆転する感覚。まるで預言が成就する瞬間に立ち会ったような…… というのはもっと後の、わたしたちが大学生になってから思ったことだけど、しかし裏を返せばその歳になってまでりんちゃんの説教師?っぷりに驚かされつづけ、これはいったいなんなのか、と考えつづけたということでもあった。
 じっさい、りんちゃんの預言は効力を増しながら回数を重ねていった。りんちゃんの発する言葉のなかでもやはり「いまやろうと思ってたのに」のひと言、あるいはそれに類する言葉の響きは格別だった。りんちゃんは、いうなれば《やろうと思っていたということ》にかんしての説教師?なのだった。りんちゃんの預言は、小2のときの一件以降も「いまやろうと思っていたのに」、あるいは小学校も高学年になってからは語気を荒げて「いまやるって」、「いまやるっつってんじゃん」、そして中3で漢文を習っての一時期には「いままさにせんとす」というふざけ交じりのかたちで示された。大人になってからは「いまやるよん」と、キューティクルに満ちた軽やかなトーンで発せられることが増えて、いまにいたる。
 語気が荒かろうが、軽やかだろうが、その滋味やありがたみはいっさい失われない。そこにりんちゃんの説教師?としての凄みがある。なおかつ発せられた「いまやるよん」がじっさい預言となって直後に成就するごとに、──つまり「いまやるよん」ほんとにやった!「いまやるよん」ほんとにやった!が繰り返されるごとに──毎回新鮮に驚かされつづける、それは、ただわたしがチョロすぎるというだけじゃ説明のつかない、真のスター性とでも呼ぶべきりんちゃんの特質なのだった。
 いや、わたしはじじつチョロいのだろう。大学で経済を学び、そのあと一度ふつうに就職し、安泰も安泰と思われたわたしが、六年目といういちばん謎のタイミングで急に仕事をやめてフリーの映像作家を名乗りだしたのは、りんちゃんの説教師?っぷりを、そして「いまやるよん」の預言が成就する瞬間をカメラにおさめたかったからだ。映像の分野になんの知見もないのに…… この無謀をよしとしたわたしじしんをチョロいと呼ばずしていかがする。しかし知見うんぬんとは関係なく、ふつうに撮るだけでは「いまやるよん」の滋味やありがたみがカメラに記録されないだろうということを、わたしは早い段階から悟っていた。ただカメラにおさめたいのなら、早い話、定点カメラでもなんでも設置しちゃえばいいのだけど、それでは預言が成就する瞬間に立ち会ったという感覚がスクリーンの前の観客にもたらされない。預言が成就する瞬間にこれまでもっとも立ち会ってきたわたしが、りんちゃんの目の前で、真正面からカメラを向けることではじめて「いまやるよん」が「いまやるよん」として正しく記録される。でもりんちゃんは昔からカメラを向けられるのを嫌った。だからわたしはいつしかのリル・ウージー・ヴァートみたく額にピンクダイヤモンドを埋め込んで、そこに超小型カメラを仕込むほかなかったというわけ。
「でも、しーちゃんさ、それほんとに痛くないの?」
 と、りんちゃんの、ダイヤモンド越しでくぐもった声が試写室に響く。「んーん!ぜんぜん痛くなくて」と返すわたしの声もやはりくぐもっているし、妙にサラウンドで聞こえてキモい。
 全体がほんのりピンクがかったスクリーンの、真ん中に小さくりんちゃんが映っている。スクリーンの端のほうは無数の細かな三角や四角に分割されて、そのひとつひとつでもっとずっと小さなりんちゃんが、真ん中のりんちゃんを完コピしながら動いている。りんちゃんはまさか撮られてるとは思ってないご様子で、「でもそれってリルウジリスペクトでしょ?リルウジって埋めたはいいけどけっきょく痛くて取っちゃったんじゃなかったっけ?」と言葉を続けてわたしを驚かせる。りんちゃんがリル・ウージー・ヴァートを知ってるだなんてわたしは知らなかった。
「リルウジがダイヤ埋めたのがたしか2021年なんだよね、たしか、あ、でその前の2020年がコロナ禍だったじゃーん、その2020年にリルウジが「フットサル・シャッフル2020」って曲を出して、んー、リリースじたいはその前なのかなわかんないけどでも曲名は「2020」じゃん、でその「フットサル・シャッフル2020」ってのがそのまま「フットサル・シャッフル」っていうダンスステップ?のための曲なんだけど、で、じっさいミュージックビデオのなかでリルウジもそのフットサル・シャッフルを披露してて、たぶん流行らせようとしてて、現実にどれくらい流行ったのかわからないんだけど、うちはリルウジのあのステップになんかすごい元気づけられたんだよね」と、りんちゃんはリル・ウージー・ヴァートにまつわるエピソードトークを強引に進めてそのまま「んで、そのフットサル・シャッフルってのがどんな動きかっていうと、いまやるよん
 ほんとにやった!
 来ると思っていたけどほんとに来た。りんちゃんが少し後ろに下がりきちんと空間を確保したうえでにわかに両足を前後に左右に動かしまくる、その姿がスクリーンの真ん中に映っている。りんちゃんのスニーカーがカーペットとこすれあう音が試写室に異様な大きさで響いて、周りの無数の小さなりんちゃんたちも一斉にステップを刻んで、スクリーンのなかはお祭り騒ぎだ。このごろのりんちゃんはこんなふうにふつうの会話のなかで急な説教師?っぷりを発揮して預言を成就させる。ポイント稼ぎのごとく強引に預言を発しようとする。しかしそれで「いまやるよん」の滋味やありがたみが減じることは少しもなくて、わたしは毎回、ほんとにやった!と感動している。だからいま無数のりんちゃんによって預言が成就されているスクリーンの前でもう一度泣いている。このフットサル・シャッフルのくだりが終わったらりんちゃんとわたしはしばらくふつうに会話をして、さいきん見た映画の話とかして、だけどりんちゃんがなにも見てなかったからそんなに盛り上がらなくて、りんちゃんは生返事をしながら預言を発する糸口を探してるご様子なんだけど見つけられなくて、仕方なくまたわたしの額のピンクダイヤモンドにふれて、またリル・ウージー・ヴァートの話をして、またコロナ禍の「フットサル・シャッフル2020」の話をして、また強引に「いまやるよん」を発して、そんなのってめちゃくちゃなことなんだけど、直後にりんちゃんが披露するフットサル・シャッフル(二回目)を見たらほんとにやった!と感動せざるをえなかった、そのようなあの日の顛末がスクリーンに映るだろうからそれを見てわたしはまた泣くのだろう。

二〇二六年五月の日記

5/1

 昨日の夜からしっとりとした雨が降り始めて、寝るときには布団も枕も湿気をまとっていた、しかしその湿気はけして不快なものではなく、むしろ春の夜に涼しさをもたらす心地いいものに感じられ、また木曜日ならではの眠気もあって、倒れこむように枕に頭を沈めると、前の夜に見た夢が思い出されてくる。前の夜、つまり一昨日の夜、私はトロッコを運転する夢を見た。そのことを私は昨日一日じゅう忘れていたが、私の枕や布団には夢の記憶が染み込んでいた。そんな静かな夜から一転、今朝、目が覚めるときには土砂降りになってい、どんなふうに歩いたって濡れざるをえない通勤ののち、会社ではスニーカーを脱いで過ごした。途中でトイレに行くときにだけ履きなおすとやっぱりまだ濡れていて、その後も脱いだり履いたりを繰り返しながらわりあい忙しく仕事し、夜、弟と焼き肉に行く待ち合わせをしていたが少し遅刻した。申し訳なさもありながらへらへらしてしまうのは相手が弟であるからか。彼は仕事も順調であるようで、珍しく職場の話も聞かせてくれた。私も私で仕事の話を少々、それと山の話、映画の話、お笑いの話、……満腹になるまで食べて解散し、ひいひいいいながら帰宅した頃に同居人も帰ってくるというのでもう一度家を出て、合流すると、なんか息切れてるよ、といわれ、たしかにふうふういいながら歩いていた私はそんなにも腹いっぱいだったか。Loukemanのアルバムがとてもよくて、昨日から三回聴いた。

 

5/2

 連休初日にふさわしい、素晴らしい晴れっぷり。同居人の弟くんが来て、一緒に六本木へ「TOKYO M.A.P.S」という、今年で十何年目だというが私は今年になるまで知らなかった、で今年はSTUTSがオーガナイザーを務めているというフリーライブを見に行った。柴田聡子を見、歌声の伸びやかな高音域と憂いを帯びた低音域を素晴らしく思い、歌詞のよさがあらためて心に沁みながら、柴田聡子の歌声が六本木の屋外に響いていることがおもしろくもあり、そのあと一度ラーメンを食べに行き、戻ってbutajiを見、あまり聴いてこなかったひとだが朗々とした歌声に湧き、それからSonsiを見て、ライブのうまさという点では正直まだこれからだろうと感じつつ、スター性のようなものがやはりある。

 そこで六本木から離れて、青山墓地のほうから大きく回って表参道へと歩いて抜け、青山ブックセンターに寄ったが、家にある大量の積ん読のことが頭をよぎり、一冊も買わずに出て、カフェでコーヒーを飲んだのち、渋谷のモンベルに行って、明日のテント泊のための諸々を買い、買ったはいいもののほんとに行くのかな? しかしモンベルにいるときに仕事の連絡があって、私は途中から心ここにあらずという状態になってしまい、そのままぼんやり歩いて代官山のほうのデニーズで夜を食べた。デザートに「マンゴーのちょこっとパルフェ」を注文しようとして、提供のタイミングを選択する画面において「すぐに」を押すのは食いしん坊のようで気恥ずかしくもあったが、「すぐに」持ってきてほしいので押さざるをえない。こういう場面というのは他にもある。……と考えても具体例は出てこない。私は具体例を出せない。また歩いて、弟くんとは駅で解散し、帰宅してから明日のテント泊の準備を進めたので、やはり行くようだ。

 

5/3

 早朝に起きて、伊豆半島の南のほう、下田駅まで電車で行った。下田といえばペリー来航のときの「下田・函館」で有名だが来たのは初めてだった。駅前はほのかに南国らしく、かつほのかにアメリカっぽさが漂っていて、再来週には「黒船祭」が開催されるという。東京=江戸からは鈍行で四時間近くかかる。この遠さはペリーも想定外だったのではなかろうか。

 そこからバスに乗り、石廊崎オーシャンパークという、伊豆半島最南端のところから歩き始めて、山を登り、浜に下り、登り、下り、……というのが今回の行程で、ひとつひとつの標高はそうでもないにしても累積のアップダウンを考えるとじつはけっこうキツい。しかし太平洋が見える時間が長いのがよくて、山道がふいに開けて水平線までくっきり見えるたびに「ほう!」と大声を出した。ぜんぜんひとがいなくて大声を出しやすい。

カニも山を登る

 昨日モンベルで買ったリュックは四〇リットルも入る大きいやつで、かなり、登山、という感じ。そこにテントやエアマットを入れるとしっかり重くて、なおさら、登山。わざわざ連休中に野宿するために重い荷物を背負うなんて……、と思う向きもあるが、数日前から『デススト』をプレイしているのがいい効果を生んでいて、私は自分がノーマン・リーダス演じるサム・〝ポーター〟・ブリッジズになったかのような気分で、渋めの声で「よし、やれるぞ」、「危なかった」などと声を発しながらわりあい元気に歩くことができた。サム・〝ポーター〟・ブリッジズは一度に一二〇キロまで背負うことができる。私の今日の大きなリュックはせいぜい二〇キロくらいといったところだろうか、いや、わからない、が、とにかくサム・〝ポーター〟・ブリッジズには遠く及ばないことはたしか。その及ばなさも、かえって私をがんばらせた。サム・〝ポーター〟・ブリッジズがあんなにがんばってるんだから……。同居人もテントの一部を持っていたりといつもより重いリュックになっていて、二人ともいつもよりキツい、というトライでもあった。

 夕方にたどり着いた砂浜沿いにテントを張った。五時くらいに張り終えて、フリーズドライのご飯を食べ、すぐに少し寝た。じきに雨が降ってきて、さらに日が沈むとあたりが真っ暗のなか波音と雨音ばかりがテントに響いて、

「近くなってない?」

 と怖くなるたびにほんの少しテントを開けて外をライトで照らしてみるが、べつに波は近くなっていないのだった。それでも怖いは怖くて、テント内でライトを点けっぱなしにしながら、「うなげろりん」や「ラジオ父ちゃん」を流して気を紛らわしている。電波がまったく通じないから本を読むくらいしかないかと思っていたが、せっかく大江の『河馬に嚙まれる』を持ってきたのに読み進められない。同居人は私もまだ読んでいない大江の『二百年の子供』を読んでいて、読み終えそうになっていた。

 

5/4

 下田の「黒船祭」は一九三四年の第1回開催いらい、今年で第87回を数える。二〇〇五年の第66回にはペリーの子孫やその家族合わせて二十四名が参加したという。

 ……というメモを、どうやら下田から東京への電車のどこかで書いたようなのだが、今回はべつに黒船祭を見に行ったわけではないのでこれより広げようがない。けれどペリーの子孫および家族二十四名が来航したというのはおもしろい。二十四……、およそ一五〇年前の、直接話したことなどもちろんない曽々々々祖父が成した仕事への尊敬の念だけで集まるにしてはずいぶん多い。

 来なかったメンバーもいただろうと思う。曽々々々々祖父と同じ名前をつけられながら、あるいは同じ名前をもったがゆえにというべきか、二、三年前から親族の集まりを避けるようになり、スケボーにのめり込んでいった当時高一のマシュー。その従兄弟にして、同じく曽々々々々祖父の名前をもち、しかしスケボーのマシューとは異なり、反発心よりむしろ自発的な好奇心ゆえに、山への──すなわち曽々々々々祖父とは逆の領域への──関心を強めていった当時中三のマシュー。二人のマシューは個人ブログサイトを介して繋がっていて、ともに「サマーキャンプ」を理由に日本行きを断ろうと示し合わせた。親も兄弟もいない二週間、彼らはじっさい二人だけの「サマーキャンプ」のために山に集まり、アコースティックギターと簡易的なドラムキットでスケーターのためのポップソングを制作した。……とか。(というようなことを書いてみても、私には「二〇〇五年」のリアリティが出せない、と感じる。二〇〇五年、私は小学生で、世界のことなんてなにもわかっていなかった。ペリーについてはちょうど習っていた頃かもしれない。)

 いっぽう、来日した二十四人のペリーの子孫たちは、下田での黒船祭ののち、おのおのの日本滞在を楽しんだ。なかには伊豆半島の最南端、石廊崎からのトレイルを決行したメンバーもいただろう。石廊崎の灯台は、一八七一年にイギリス人建築士ブラントンの設計によって建てられた、名灯台のひとつである。一八七一年。すなわち曽々々々祖父の来航後のことである。灯台から眺める太平洋はどこまでも広い。水面からの照り返しに目を細めずにはいられない、その顔を互いに指差しあって、うれしそうだね、と笑いあう。

 石廊崎から中木、入間、吉田と集落を辿っていく形でのトレイルである。伊豆半島の南端は崖のように海にせり出していて、その崖が落ちくぼんで浜になっているところにそれぞれの集落はある。集落どうしは内陸から車道によって繋がれているが、その車道を通らず、ほとんど崖のように海に面した山のなかをあえて通って辿っていこうではないか、というのが「南伊豆ロングトレイル」と呼ばれるコースであった。山から集落に下り、自販機で水を買ってまた山へと入っていく私たちを、野良猫が怪訝そうな顔つきで見ていた。

 いかにも南方らしい低木に覆われた山中でも、ふいに視界が開けて水平線が現れるのは、さすが海沿いのトレイルなだけある。海風が涼しくて、何度も「すーしぃ」と声を出す。絶景に励まされながら、しかしかつて経験したことのない荷物の重さに、徐々に足取りまで重くなる。入間と吉田の間に位置する「富戸の浜」という、いかにも風光明媚な名前に反して大量の流木とごみが漂着し、文明からかんぜんに打ち捨てられたような荒涼感漂う浜辺。その光景に圧倒され、大いに想像力をかきたてられながらも、後から振り返ると山行のなかでもっとも疲労した場所だったように思う。次の浜辺沿いでテントを張って、軽食を食べると、倒れるように短い眠りに入り、そのあとは昨日の日記にも書いたとおりだが、夜が深まるほどに波音が近づいてきているように思えて、三十分ごとにライトで外を照らしてみたり、小石を放って水音を確かめてみたりして、ほとんど眠れた気がしないまま朝を迎え、雨がやんだすきを見てテントをくしゃくしゃに畳んで撤収した。

 すべて靄がかった海も山も、そのとき私たちだけが目撃した光景のように思った。

 もともとの計画では、二日間で中木、入間、吉田、妻良、……と辿って最後には松崎の温泉に入ろうというつもりだったが、初心者の私たちにはとうてい無理で、というか私の古い登山靴のアウトソールが両足ともに大きく剥がれてしまったこともあって、また一晩続いた雨風による、じっさいにはテントに守られていたにもかかわらず全身ずぶ濡れたような疲労感もあいまって、二日目の山行は諦め、早々に帰ることとした。それでもバス停まで歩いている間はどこからか力が湧いてき、あんな断片的な睡眠でも体力は回復するのだ、と感心もしながら、徐々に雲が晴れ蒸し暑くなってゆく車道を行った。かなりちょうどいいタイミングでバスがあって、下田駅までおよそ一時間、そこから東京まではまた電車でおよそ四時間、『河馬に嚙まれる』を少しずつ読みながらほとんど気を失うように眠り、を繰り返して、くさい身体で帰宅した。シャワーを浴び、うどんを食べ、洗濯をぶん回し、テントもベランダに干し、倒れるように昼寝し、それから私は実家に帰った。同居人は身体が火照ったままでいた。

 私は実家への電車ではブコウスキーの『町でいちばんの美女』を読み進めた。さいきんNくんがハマっているとして教えてくれたブコウスキーを、私はずっと積ん読していたのだった。読むにはもう年をとりすぎているのかもしれない、あるいは年をとらなさすぎているのかもしれない、と思いながら、しかしふさわしい年齢でなくとも抜群におもしろいとも思いながら、初めて読んでいるのだった。

 

5/5

 実家の枕はいま私が使っている枕と比べて低い。長年使いこまれて潰れきった低さ。低くて、最初は寝にくいが、実家にいるときはこれでずっと寝ていたのだから、じきに慣れていつの間にか眠っている。しかしそれはその低さを「思い出す」というよりは毎回「慣れる」という感覚に近い。昨日の夜は八時間みっちり寝て、今日は家族で牛久の大仏の近くのアウトレットに行って、帰ってきてから三時間も昼寝した。すっかり慣れたといっていい。

 今回の帰省では弟に借りて『呪術廻戦』を読もうと思っていたが、いかんせん枕に慣れすぎてしまって眠れる眠れる。眠れすぎてしまって一コマも読めていない。

 老人ホームに入居している祖母は、祖父が亡くなってからもわりあいしっかりしているそうだが、家が火事でなくなってしまったかのような発言をするらしい。祖父母の家はまだなくなってないし、もちろん火事にもなっていないわけで、どういう思い込みなんだろう、と母が話していた。

 

5/6

 沼の周りを、自転車をこいで回った。沼には穏やかな波が立っていて、これこそが私の原風景だ、と強く思った。正確には違っているところもあった。沼沿いの遊歩道といえばコンクリートを下から衝いて割る勢いで木の根が隆起してい、自転車で通ると顎ががくがくするほど激しく上下に揺れる、それが原風景だったが、今日の遊歩道において、木の根の隆起は私の記憶よりずいぶん抑えられていた。コンクリートが新たに敷かれたのか、それとも木の生が弱まったのか。いずれにしても、今日の私は昔よりいくぶんか快適に遊歩道を自転車で進んだ。あるいは父の電動自転車を借りたことで木の根の隆起を感じる間もなくすいすい進んだのかもしれない。

 沼をほとんど一周囲むように生えているのはヨシかマコモか、あるいはその両方か。それらの茂みから虫よりもまず先に蛙の鳴く声が響いてくるのも私の原風景と同じだった。しかし昔の私はたいてい有線のイヤホンをしながら自転車をこいでいたのだった。真っ先に思い出されるのはMGMTの「The Youth」、西日を背に家のほうへと自転車を走らせ、暗くなりゆく遊歩道のひときわ大きく隆起した木の根を避けられず、勢いよくタイヤを弾ませて、同時にイヤホンが耳から抜ける。その耳に飛び込んでくる蛙の大合唱……

 沼の向こうのブックオフに行こうと、大きな橋を渡って、こちら側よりずっと整備された遊歩道を進むと、じきに川に差し掛かって、そのまま川沿いを行けば肥料のにおいなのか、「うんこ臭い町」というSonsiの歌声がしぜん思い出される。うんこ臭い町のブックオフに着いたが何も買わなかった。来た道、渡った橋を戻ってから、今度は家と反対の方向に進む。そっちには市民センターがあって、いろんな催しが開かれているが、昔の私はセンターの中の図書館、それもCDコーナーに用があった。思い返せば私はTSUTAYAよりもむしろ地元の図書館と高校の図書館のCDコーナーで育った。『Sticky Fingers』や『An Innocent Man』を借りたのはたしか地元の図書館ではなかったか。久しぶりに見たらCDコーナーは狭まりもせずに大量のCDが背中を並べていた。

 図書館を出て、家のほうに自転車をこいでゆくと「North Lake Books」という古本屋がある。前に一度だけ来たことがあった。そのときも今日も、最初からここを目指して来ればよかった、と思えるくらい素晴らしい本が並んでいた。しかし沼沿いの遊歩道やうんこ臭い町のブックオフや変わらぬ輝きを放つ図書館を経ないことにはたどり着けない店だという感覚もあった。大江の『宙返り』の単行本上下巻をそれぞれ百円(!)で、それと『スモールアーバンスペース』という都市のオープンスペースにかんする本、それと『子どもとの会話』という、精神分析医の著者が七年間の日記から子どもとの会話を抜き出してまとめた本を買った。こういう本には沼沿いの古本屋じゃないと出会えない。

 家に着いてからはテレビでやっていた井上尚弥の昨年末の試合を見たり、弟の『呪術廻戦』を読み進めたりした。おもしろく読んだが4巻までしか読めなくて、また次回、となった。あるていどアニメを見ているつもりでいたが、根っこの話をほとんど知らずにいた。たぶん設定うんぬんではなくキャラクターどうしの絡みをメインに見ていたのだ。そのキャラクターそれぞれの背景も知らずに……

 夕飯を食べてから東京に向かって帰った。実家に帰るのも「帰る」、東京に帰るのも「帰る」。同居人も同居人でこの二日間なにかと忙しかったみたいだった。

 

5/7

 何日かぶりの仕事で頭が痛くなった。この何日か外にばかりいたのに、今日になって急に屋内に閉じ込められたからだ。閉じ込められた身体。暑くなってきているというのも頭痛の要因として思い当たる。仕事を終えてからビルの外に出ると空気がぬるい。洗濯物を夜までベランダに出しっぱなしにしておくと湿り気を帯びる季節になっている。すなわち、もう夏。家に帰って『銀河の一票』の三話を見た。野口文のアルバムを聴いた。

 

5/8

 南伊豆に履いていってソールが剥がれてしまったトレッキングシューズを昨日の夜に捨てた。捨てる前に写真を撮って、Xに《もう何年も履いているトレッキングシューズのアウトソールが剥がれて、何かしゃべりたそうに見えたので、お別れの言葉かと思って耳をすませたら、ちっちゃい声で「酷暑日というネーミング、無難すぎませんか?」といってたみたいです。》とポストした。このポストじたいは、いま見るとそんなにおもしろくないが、このポストによって想像力が刺激されたのか、今日は会社を出て、新しいニューバランスのスニーカーで歩きながら、ときどき立ち止まって短い小説を書き上げた。このところ日記ばかりで小説を書かない日々だったから、短くても書けてよかった。パッと書いて、直さずに終わらせてしまうようなことをときどきやるのが大事。

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 トレッキングシューズのソールが剥がれたということは、それだけ履き込んだということでもあって、その写真を撮っても、たんにボロいシューズが写るというだけでなくそのシューズに流れた時間までもが写る。だからこそ想像力が刺激される。この、前後の時間を感じさせる、というのがポイントで、それでいうと今日もうひとつきっかけとなったのは、カベポスター永見が、自身の結婚を「鈴原動物園」というXのアカウントを通して発表することで、そのアカウントが永見のものであるということも同時に明かしていたことだった。しずるなどに連なる重大発表大喜利の系譜であるわけだが、そのおもしろさだけでなく、「鈴原動物園」というアカウントがカベポスター永見のものであったと知れて私としては納得感があった。「鈴原動物園」は、架空の動物園が毎日なにかと理由をつけて臨時休園する大喜利アカウントであるが、たとえば今月四日の

《本日5/4(月)カバのヒカリちゃんが脱走し、「入口はこちら」と書かれた看板の横で大きく口を開けて座り込み、非常にまぎらわしいため、臨時休園とさせていただきます。》

 という休園理由からは、じつに豊かな前後の時間を感じる。私はべつにカベポスターに詳しいわけじゃないが、永見がnoteに上げていた「世界で1人は言ってるかもしれない一言集」にも通じるおもしろさと豊かさ。彼の大喜利には前後がある。「その夜いちばんおもしろい漫才師」を決める、いわば「点」の大会であるM-1において、「線」の漫才師であるカベポスターが何度も決勝に進んでいるのは素晴らしいことだ。……といってみたが、べつにM-1は「点」の大会ではないか。(関係ないが、Xということでいうともうひとつ、ここ何日かのチャラ男番長ことジャルジャル福徳のポストもおもしろい。『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』を書いたひとによる、《今日の空、細くない!?》という、極端に細長く切り抜かれた青空の写真のポスト。)

 それと今日はAutechreの『Confield』というアルバムのことがついに「わかった」のがかなりうれしかった。高校の図書館で借りて、少し聴いてまったくわからず(というか音楽だと思えず)にそのまま十五年ほどの時間が流れ、今日久しぶりに聴いて、めちゃくちゃかっこいい、と思った。

 

5/9

 朝十時頃、パン屋でパンを、セブンでアイスティーを買って、近所の公園のベンチに座って食べていると、鳩二羽、たまたまみたいな顔でひょこひょこと近づいてきて、私と同居人が食べこぼすのを足元で待ちわびる。あんまり近くで首を振り振り、ときどき催促するように羽をふくらませるものだから、仕方なしにほんのちょっとだけパンをちぎって、離れたところに放ると、一羽がものすごいスピードでそれを回収しに行き、またすぐにそ知らぬ顔で戻ってくる。

 外は風があって涼しいが、部屋に戻るとどうしても暑くなってきて、仕方なく扇風機を回した。

 午後には『サンキュー、チャック』を観に行った。同居人にもいいといわれていた映画で、じっさいよかった。何重にも重なった宇宙におけるほんのコンマ秒の輝きこそが人生である、ということが、数学と詩とダンスによって壮大に語られる。そのコンマ秒の輝きであるところのダンスシーンが素晴らしかった。全体として奇妙な作劇でありながらも、明確に着想源といえるもの──宇宙カレンダーとホイットマンの詩──が劇中に登場することで、そこから原作者のスティーブン・キング(あるいは原作を脚色したマイク・フラナガン)の思考の形跡が推し量れるようでもあり、観客のひとりとして、ひとはなぜ創作するのか、という問いにまで勝手に感想を伸ばしたくなる。私たちは、宇宙カレンダーの最後の日の、最後の最後のコンマ秒を生きているに過ぎないのに……

 夕方から同居人が友だちと飲みに行くというので、私は散歩でもしようと、あてもなく秋葉原で降りて、そのまま裏路地からのアメ横、そこで天一を食べてから、上野公園、谷中をぐるぐるした。この前NくんとKくんと飲んだときに、散歩中にイヤホンをするしないの話があって、私は外の音も聞きたいと思いつつラジオも音楽も聞きたいと欲張ってしまうので、どうしてもイヤホンをしてしまうなあ、とそれが不純であるかのように自嘲的なトーンで語ったのだったが、いまならもう少し胸を張れる。というのも、家でスピーカーで流すより、散歩しながらイヤホンで聴いたほうがより「わかる」音楽というのも存在するからだ。たとえば今日、谷中の路地を歩きながらイヤホンで聴いた野口文のアルバムは、家で流したときよりも明らかによかった。風景と音楽がガチっとハマるときがある。

 千駄木あたりに差し掛かって、そういえばここらへんは中高のときに部活のランニングで走った場所であるなあ、と思い出した。部活の面々のなかでも私とL(というのはあだ名が「リーダー」だったからだ)は通常の外周コースを大きく外れがちで、次の練習メニューが始まっているであろう時間になってもお構いなしに、独自のルートを開拓していた。そのなかで一度か二度通ったことのある商店街が近くにあるはずだった。覚えているのは、その商店街のカーブ具合と、なんとなく軒先の赤い店が多かったような……。しばらく歩いても見つからず、Googleマップでそれらしいカーブを探すと、思っていたより離れた位置にある。私とLはそんなところにまで遠征していたのか? ともあれマップで見たその細いカーブに行ってみると、明らかに見覚えのある車道がまず見えて懐かしい気持ちになるが、肝心の商店街は夜なのでもちろんどこも閉まっていて、閉まっているがゆえに確証がもてない。それでもいいと思えた散歩だった。駒込から電車に乗って、うとうとしていると、同居人からLINEが来て、川崎にいるというので向かったが、その後連絡がないので先に帰った。ちょうど帰宅した頃に連絡があった。

 

5/10

 昨日の『サンキュー、チャック』は数学と詩とダンスの映画なのだけど、数学と詩は物語をおもしろくすることはあっても映像をおもしろくはしない。映画を映画たらしめるのはやっぱりダンスなのであり、とつぜん訪れるコンマ秒の人生の輝きなのであって、その意味で、映画全体の美しさをトム・ヒドルストンのダンスに賭けているような映画だともいえる。だからこそ、ダンスシーンに至るまで、物語的な動きはあっても映像的な動きは少ない。道路が大きく陥没したという情報も口頭で伝えられるだけだし、世界中で起きている災害も断片的なニュース映像にとどめられる。どこか現実感を欠いたまま──というのもじっさいは物語の仕掛けであったわけだが──物語が一度閉じて、そのあとに(あるいは「その前に」)とつぜんのダンスが始まる。ここでトム・ヒドルストンはプロ然と踊るのではなく、あくまで昔ダンスが得意だったひととして自然に身体を動かし続ける必要がある。スクリーンに大きく映る長い手足が、チャールズ・クランツという人物のこれまでを感じさせるようでなくてはならない。その数分間に賭けた映画であり、それをやってのけたトム・ヒドルストンは、じつは映画に登場する時間がそこまで多くないのにもかかわらず、とうぜんポスタービジュアルに単独で使われることとなる。

 ダンスシーンはまた、チャールズ・クランツの少年時代にも用意されているのであって、こちらも映画後半のクライマックスとして盛り上がらなければならない。しかしそこで踊るのはトム・ヒドルストンではなく子役の子であり、もちろんこの子のダンスもほんとに素晴らしいのだが、それをさらに盛り上げるためにジラしを入れているのがうまい。学校でのダンスパーティの日、チャールズ・クランツ少年は「なんか足が痛いかも」といって上級生の女の子の誘いを一度ならず二度も断る。(このごまかしが周りの大人にはバレバレなのもかわいい。)それから外の空気を吸いに出て、宇宙を見上げ、なにやら決心したような顔で体育館に戻り、今度は自分から女の子に声をかける。このようにジラされてこそダンスが輝く。それにこの一連は私たち観客をジラす技巧であると同時に、チャールズ・クランツ少年にとっての大切な瞬間でもあり、それを目撃している、という感動も相まって小さな手足の躍動が輝いて見える。

 ……というようなことを風呂場で考えた。

 今日は同居人が朝から昼くらいまでまた別の友だちたちと会うというので、私はサンマルクに行ってブコウスキーの『町でいちばんの美女』を読み進めた。ブコウスキーは〝イマイキ〟でありながらそれを自覚して過去形・過去進行形で書いている(という形で小説をやっている)のでおもしろい。どことなくブローティガンもほうふつとさせるが、ブコウスキーのほうがさらに〝イマイキ〟度は高く思える。ブローティガンはより俯瞰している感じ? 今度は逆にブローティガンも読み直さなければわからない。しかしどちらの作家も日本語訳のニュアンスが大いに関係しているようにも思う。

 同居人と合流して、ル・シネマへ『シンプル・アクシデント/偶然』を観に行った。ル・シネマで今後やる映画はぜんぶおもしろそうですごい。『シンプル・アクシデント/偶然』ももちろんおもしろかった。不当に逮捕され、拷問中にも目隠しをされていたから相手の顔がわからない、という悲劇を、物語を喜劇的に推進させる材料に変えてしまうのがすごい。「こいつはほんとに復讐相手なのか?」という戸惑いが終盤まで続く、その間にイランの市井の人びとのやさしさも狡猾さも描かれる。なにを撮っても極度に「政治的」になってしまうような国で、その「政治的」を受け入れながら、ひたすらおもしろい映画を作る。しかもそれがさらにいまの世界状況とも避けがたくリンクしてしまう、すごい映画だといえた。これを観てしまうともう今日は『プラダを着た悪魔2』を観る気にはなれなくて、というかどだい席も取れないだろう。だから同居人がお母さんにプレゼントする財布を買って、そのまま帰った。

 家では『黄泉のツガイ』のアニメを見た。いまのところかなりおもしろい。漫画は作品ごとにいろんな能力や世界観登場するのが私からすると素朴にかっこよくて、さいきん途中まで読んだ『呪術廻戦』だと「術式」や「領域展開」、『HUNTER×HUNTER』だと「念」や「制約と誓約」といろいろある、それが『黄泉のツガイ』においては「ツガイ」や「解」や「封」であるようで、同じ作者の『ハガレン』における「錬金術」や「等価交換」ともまた世界観が違いそうなのがおもしろい。少年漫画を何作も書くということは、そのたび違う世界を立ち上げるということでもある。それがすごい。そのまま夜までテレビを見たりしながらゆったり過ごしたが、「相席食堂」の島田珠代と藤井隆の回を見て、最初は二人でゲラゲラ笑っていたのに、途中から同居人は明らかに調子が悪くなってしまった。いわく、規定量の下ネタを超えたとのこと。

 

5/11

 Oに誘われて、仕事のあと居酒屋へ行った。私と同居人が以前ビビって入るのをやめた居酒屋だったので、思わぬ形で入ることができてよかった。OのいまのシェアオフィスのひとだというRさんも来ていた。Rさんは快活な方で、ため口でいいよ、とのことだったのでため口で話した。Oと私がなんの友だちなのかという説明において、大学のクラスが一緒で──、と、もう十年以上も友だちであることに驚くが、今日はRさんがいることで、いまの世の中のこととか、政治のこととか、いつもOとは話さないようなことも話して、それはそれで楽しかった。Rさんはいまでいうジャーナリングを昔からやってきたという。いっぽう私はこうして日記を書いている。いずれにせよそのように個人がなにかを書くという行為は、私たちがただの数字と見なされる資本主義的な世界観への抵抗なのだ、とかっこいいことをいってみたり、小説は推敲するが日記はその日のものだから推敲しない、といういまさらながらの気づきも得られたりして、いい回だった。Rさんがなにかおすすめの本は?と聞いてきたので、『人間の土地』かなあ、というと、おれも読んだことない、といってOがサン=テグジュペリの他の著作も含めてすぐに注文していた。この早さ・速さこそがOなのであるが、それによってさいきんは悩みもあるらしく、Rさんが途中で帰ってからはその相談に乗るような感じになったが、私にはあいまいな答えしか導き出せなかった、こういうときに同居人だともっと寄り添いながらスパッと答えられるのだろう、と思った。

 

5/12

★★★★★「この時期ならではの……」

十九時過ぎになっても、夜になりきらない青さが空に残っているのには驚かされました。夕日を反射してのことでしょうか、ほんのり赤みを帯びた雲の輪郭が青に溶け出して、まるで図と地が反転したように見えてくるのもこの時期ならではのおもしろさだと感じます。

 ほんとに書いたとおりで、十九時を過ぎているのに空に明るさが残っているのには驚いた。感動した、といっていい。なにせ、まだ残っている仕事を中断し、オフィスを抜け出して一度散歩に出たほどだ。その感動を残しておきたくてレビューの形をとった。

 また先ほどのレビューでは気温について言及できていないが、この時期、昼間はもう暑いといっていいのだが日が暮れてからは風も相まってぐっと涼しくなる、そのスイッチングも素晴らしい。たぶんもう二、三週間も経つと湿気が夜にまで引きずられて、どこもかしこもじんわり湿ったような空気が夜ごと続くのだろう。だからこそいまの時期は貴重なのだ。日の長さと夜の涼しさを同時に味わえる奇跡の時間帯を、味わわない手はない。

 二十時にもなればさすがにすっかり夜なのだけど、さっきまでの気持ちよさを忘れられなかったのか、それともたんにドライブがしたかったのか、はたまた同居人のことが心配だったのか、私はいつの間にかタイムズで車を借りて、同居人の実家のほうに向かっている。今日は実家のほうで一日がかりの用事があって、さぞ疲れているだろう、と思った。同居人は案の定疲れていたが、私の予想ほどひどくはなくて、帰りの車中では今日一日のことを話した。もう二十年近く会っていなかったおじさんに久しぶりに会って、おじさんがひっそりと動画を上げているYouTubeチャンネルを教えてもらったという。帰宅してからはそのチャンネルを見た。意外に声が若いね、と話した。

 

5/13

★★★★★「嘘のように……」

昼過ぎまではすべてがうっすら黄みがかったような空で、ああ、まだ春なのだなあ、と思ったのですが、夕方になるとみるみる分厚い雲に覆われ、さっきまでの眩しさが嘘のように暗くなってしまったのでした。私は屋内にいたのでわかりませんが、雨も降ったと聞きます。

 私が会社を出たときにもまだ雨は降っていた。

 同居人は一日ゆっくりしていたという。

 

5/14

★★★★★「横断歩道を……」

夕方の涼しさは、捉えようによっては秋だと信じこめてしまうほどでした。それほどの気温変化を、雨の予兆であると捉えるのが当然のところ、なんの構えもなく呑気にラーメンを食べに行って、帰り道、しっかり降られました。横断歩道を小走りで、斜めに渡りました。

 今日は会社で同僚といつも話さないような話を長めにして、こんなことならもっと前から話しておけばよかったですね、といったのだったが、ある意味、もう遅いからこそ話せるということもあるのかもしれない。遅くとも話せてよかった、ということでもある。それとは別に、先輩とラジオやPodcastの話をした。先輩はTaiTanのPodcastのリスナーで、私が荘子itと福尾匠の「シットとシッポ」なら聞いてますよ、というと、そっちかー、といっていた。その「シットとシッポ」の最新回は「神回」というタイトルで、じっさい盛り上がっていた。即興の散漫な会話がどこかで繋がってくる楽しさ。それでも散漫さが損なわれないのがいい。ハマリュウの『ハッピーアワー』で鵜飼を演じていた柴田さんというひとが鳥取でやっているミニシアター・jig theaterの名前は福尾匠のツイートからとっている、という話が明かされ、私も荘子itと同様に驚いた。

 それと先輩はなぜか私がハガキ職人をやっていると思っていたらしく、やっていなくて申し訳なかった。やるか? いや、やるか、くらいではたぶんやれない。

 一ヶ月くらい前に書きかけていた短い小説を最後まで書いて(というか、ここでいいか、というところまで書いて)ブログに投稿した。夜は家で『クジマ歌えば家ほろろ』と『淡島百景』というアニメのそれぞれ一話を見た。『淡島百景』は一話からすごかった。それと風呂場で『SWAG I & II』をシャッフル再生して、流れてくる曲がぜんぶよくて最高の気分になった。曲がいいのか、ジャスティン・ビーバーの声がすべてを「いい曲」に思わせるのか……

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5/15

★★★★★「やや抵抗が……」

「暖」という字にはどうしても冬のニュアンスを感じとってしまうもので、この時期の(暑さとまではいかない)あたたかさを「暖かい」と表記するのにはやや抵抗があるのですが、前の日の夜があのように涼しければ今日を「暖かい」といってもよさそうな気がします。

 今日も会社でたいへんなことがあり、夜はゆっくり過ごした。モンベルに行って登山用に新しいブーツを買った。隣のお客さんが店員さんに「この靴が合うひとがとうとう現れましたか」と、ハリー・ポッターがダイヤゴン横丁のオリバンダーの杖の店でいわれていたようなことをいわれていた。ドレイクがアルバムを三枚もリリースしていた。

 

5/16

 暑い! 朝から半袖半ズボンで外に出てしまった。風が吹くと気持ちがいい。とはいえ昼間は暑かろうということで家でゆっくり過ごしながら、私はブコウスキーの『町でいちばんの美女』を読み終えた。私は勝手に、ブコウスキーというひとは同じようなことばかり書いているのだと思っていたが、短編には意外とバリエーションがある、とはいえ根っこは同じで、だいたいは酒ばかり飲んでいる登場人物が周りの環境や出来事に流される様子が描かれる。どうしようもなく抜け出せなかったり、どうにかして抜け出そうとしたり、そのありようはさまざまだが、どこか諦念というか、とにかく目の前のことをやるしかない、というような観念が漂う。読んで、昼寝したら二時間も寝てしまって、汗をびっしょりかいた。寝ている間に五月祭が中止になっていた。

 夕方から、祖師ヶ谷大蔵へA-ka*Tetsu dance stream01『世界とのあの素朴な接触』を見に行った。祖師ヶ谷大蔵駅前の妙に広い広場にはウルトラマン像が立ってい、商店街も「ウルトラマン商店街」をうたっていて、ずっと前にGくんが住んでいた頃から立っていたかな、うたっていたかな、と思ったが、商店街そのものはとてもいい。チェーン店が個人店のような顔で溶け込んでいる、とは会場で一緒になったKくんによる評だ。ただし駅にほど近い位置に「自問自答」という個室サウナがあったのはいただけない、と思った。

 会場のカフェムリウイという場所は三階建ての屋上階にあって、開放感のある屋外スペースと屋内スペースに分かれている、その屋内のほうで公演は行われる。始まる前にKくんと会ったので、屋外で暮れなずむ空を見ながら、ここらへんは建物が低くていいね、この季節は日が長いが夕方は涼しく、花粉の季節と湿気の季節に挟まれた最高の時期だ、あそこの一本だけ高い木がいいね、ここに来るまでの商店街もよかった、などとジジイの会話をする。昨年の成田くんのマミアナの公演と同様に今回も場所選びが素晴らしい、と勝手に紐づけてしまうのは、A-ka*Tetsu dance stream(がユニット名になるのだろうか)がそのマミアナの公演にも出ていた鵜飼さんと井上くんによるユニットだからだろう。まさしく「stream」たるダンス公演だった。

 『世界とのあの素朴な接触』というタイトルと、ささやかながら素晴らしいリーフレットに掲載された文章を頼りに見ることとなるが、それらを目にしていなかったとしても、二人の人間の交感が描かれていることにすぐに気づかされる。四〇分という時間がほんとにあっという間に感じられるほど、釘付けになって目の前の二人を目撃し続けた。二人が動けば動くほど、私は微動だにせず、唾を飲み込むのでさえ、とてつもなく大きな動きとして自覚されるのだった。

 ひとりひとりの人間どうしがどのように繋がり、分かり合い、支え合い、世界に向き合っていくかということが総体として表現されていたように思う。それはやはり『世界とのあの素朴な接触』という文字列からも明らかなのだけど、「世界」・「接触」よりも私はむしろ「あの」・「素朴な」という言葉に強く惹かれた。冒頭、鵜飼さんが床を這いつくばるようなところから両手両足を見たことのない順序・位置で動かしながらついに立ち上がる、それを見て、私は「素朴」に「ひとりの人間がこのように立ち上がることが可能なのか!」と驚かされる。そのように驚くべき仕方で立ち上がった鵜飼さんが井上くんと出会う、その最初の戸惑いまでもがダンスによって表現されながら、私はそこに私でも知っている「あの」戸惑いを見出す。井上くんが、鵜飼さんと距離をとりながら、鵜飼さんの大きさを確かめるように両手を上下に広げ続ける、そんなことを私は日常でやったことがないにもかかわらず、ああ、「あの」感じだ、と思う。私がこれまで感じてきたのであろう複数の「「あの」感じ」が、見たことのないダンスに変換され表現されている。知っている「あの」感覚が知らない仕方で表現されているからこそそれらを「素朴」に再発見できる。二人の身体を通して私も世界や他人と出会いなおしているような感覚。だからこそ私は公演を見ながら微動だにしなかった、できなかったのだと思う。

 鵜飼さんと井上くんがまったく異なる二人の人間でありながら、その背格好に共通するものがあるというのも、A-ka*Tetsu dance streamを支える重要な要素であろう。二人とも──つまり井上くんのみならず鵜飼さんまでも──どこかドニ・ラヴァンを思わせる。それにしても、あのような振り付けがどのようにして可能になるのだろうか。私が見ている目の前でいまこの瞬間生み出され続けているような動きであるにもかかわらず、断続的に流れる楽曲への音ハメがきちんとなされていることから、事前に準備されそうとう練習されたものであることはわかる。わかるが、それでも「いま」動いているように感じられるダンス。私たちの全身には、指先、つま先まで神経が張り巡らされているのだということにあらためて驚かされる、もはや安易に「身体性」という言葉でまとめたくはないダンス。「二人の人間がこのように支え合うことが可能なのか!」と思うし、やはり見たことない仕方で二人がひとつの塊になるまで組み合ったあと、一度ばらばらになるにあたって、「人間はひとりではこうも立ち上がれないものなのか!」とも思う。そのようにして出会い、支え合い、離れ、またくっつき、を繰り返した二人が、やがて二人だけの間に何かを生み出し、それを大切に空中に放つような動きを見せる。そのように「誰も触われない二人だけの」何かを生み出すことが、ひととひととが分かり合うということなのかもしれない……

 そのように「素朴」に感動し、お二人に「かなりよかったです」としか伝えられないまま会場を出る。Kくんと駅まで歩きながら最初は「いやー、よかった」しか出ず、徐々に言葉が回復してくる。しかし最終的には再び「いやー、よかった」に戻って、新宿で解散した。最寄り駅に戻って同居人と合流し、カレーを食べた。同居人は『君と私』という韓国の映画を観て、こちらもかなりよかったらしい。「Ditto」より先にあの雰囲気をやっていた映画であり、『はちどり』をも思わせる映画でもある。お互いに今日の作品のことを語ったり、仕事や会社の話をしたりしながらしばらく歩いて、帰宅した。

 

5/17

 新作も旧作もいろいろ観たいなかで、昨日の夜に同居人が、いまユーロスペースで『太陽(ティダ)の運命』が上映されていることを発見したというので観に行くことにした。昨年観られずじまいだった映画で、いま観たい「新作」・「旧作」よりも優先したい気がした。このような報道番組的な雰囲気をもつドキュメンタリー映画が、たとえば今日のユーロスペースでいうとブレッソンの映画と並んで上映されていることがおもしろいが、少なくとも今日の私たちにとっては『太陽(ティダ)の運命』のほうが観たい映画だった。じっさい観てよかった。

 本土復帰後の沖縄県におけるこれまで八人の県知事、そのなかでもとりわけ大田昌秀(在任期間:一九九〇〜九八)と翁長雄志(在任期間:二〇一四〜一八)という、かたや革新系、かたや保守系出身という二人が、いかに対立し、やがていかに同じ志をもち同じ言葉を発するに至ったか、という視点で歴史に補助線を引くようなドキュメンタリーである。翁長雄志が自民党からではなく「オール沖縄」として当選したことじたいが象徴しているように、沖縄県民が米軍基地を考えるとき、そこには保守も革新もない。沖縄と米軍基地の問題は、そのまま、本土から沖縄にたいする差別の歴史であるといえる。特に小泉純一郎以降の自民党政権はあまりに欺瞞に満ち礼を逸しているし、素朴に、安倍政権はやばいなー、と思う。民主党政権の非力さも虚しい。

 映画としては、大田─翁長という二人の「太陽(ティダ)」を繋ぐ流れがわかりやすくドラマチックにされていて、太い補助線を引きすぎているとも思ったが、しかしそこに線があることは間違いない。政治とはひとであり、ひとであるからにはドラマがあるのだ、とも思う。また沖縄県民にとって基地がいかに生活の問題であるか、という実感は、今日の上映後に佐古監督とともにトークショーに登壇していた西由良さんの口からも語られていたことである。私と同い年であるらしい西さんが三〇年間で見てき感じてきた沖縄は、私がこの三〇年間見ず感じずにいた沖縄でもある。本土で暮らしていると基地の話題なんてまったく出てこないが、沖縄の空には常に爆音が響いている、その爆音が Zoom越しではノイズキャンセリングされて、相手にはまったく聞こえていなかった、という体験が強烈だった。

 というか、映画本体に合わせてこのトークショーがよかった。沖縄のひとたちがどれだけ沖縄のことを考えているか、その線としての流れを踏まえることなく、たとえばこの前の衆院選で沖縄で自民党が全勝したことだけを見て、沖縄はどうしてしまったのか、なんてことをいわないでほしい、というのは、まさしく私も我が身を省みざるをえない話だったし、本土のひとは「赦し」をもらいたがっているように思える、という言葉からは、大江の『沖縄ノート』のことをも思い出した。

 ユーロスペースを出たらえらく暑い。興奮ぎみにいま観たばかりの『太陽(ティダ)の運命』について話し続けることで、私と同居人はどうにか暑さをしのぎ、帰宅することができた。うどんを食べてひと息つくと、もう出かける時間となる。私はNくんの家に行き、同居人は『ひつじ探偵団』を観に行った。

 NくんとKくんと集まれば、とうぜん、昨日のダンス公演の話になる。ダンスをする二人の互いへの信頼によって生まれる何かが、公演そのものを超えていたようにも思える、というようなNくんの話がおもしろくて、井上くんにも聞きたいところだ。Nくんの家ではまずジャック・ロジエの『ブルー・ジーンズ』という短編を観、それからジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』を観た。たまたまの二本立てだが、期せずしてどちらとも男たちの刹那的な馬鹿騒ぎ(そしてその裏にある絶え間ない不安)を描いた映画であり、かたや青年、かたや中年が映し出されていて、いいプログラムとなった。それにしたってジャック・ロジエもジョン・カサヴェテスも映画がうますぎる。画面に大小の運動が映り続けている。全身の運動に加え、カサヴェテスの場合、顔のアップもある。

 遠くから全身を映すのと、近くで顔面のクローズアップを映すのとでは、それがパブリックな運動であるか、プライベートな運動であるかという違いが存在するように思える。というかカメラとの距離によって登場人物の運動はパブリックにもプライベートにもなりえる。街中で(おそらく)ゲリラ的に遠くから撮られた運動は、登場人物たちだけにその親密さが共有されていようとも、どうしたって衆人の目にさらされ、パブリックなものとなる。いっぽう、たとえば冒頭の葬式において参列者ひとりひとりの顔面を前方から撮るようなショットには、誰にも見られることを想定していないプライベートな表情が映る。ベッドでもつれ合う二人を超至近距離で撮ったようなショットには、驚くべき──たとえば「人間の鼻と鼻はこんなふうに柔らかくすれ違うのか!」というような──顔の運動が映る。このようにカメラとひととの距離を作り手が操作できるのが、映画という運動の連続なのだなあ、と、昨日のダンス公演とも比較しながら思う。

 そんなことを考えずとも男たちのどうしようもなさを描いた映画として素晴らしくて、満足しながら観終わった頃にはちょうど日が暮れる直前の、この時期もっともいい時間帯となっている。この時期のこの時間なんだよなあ、と昨日に続きジジイのやりとりをしながら三人で外に出て、台湾料理屋で食べた。とてもおいしく、いい気分だった。Nくんの相談に乗るようなかたちになりながら、いいねえ、若いねえ、と俯瞰で見ている私もいた。

 

5/18

 会社の昼休みにオフィスの周りを一周歩くようにしている私にとって、暑さはかんぜんに敵だった。先週の時点で既に生じていた不安が、今日ついに確信に変わって、昼休みに外に出ようとする私の足を止めた。──やめなさい、もう昼休みには歩けない季節なのだ、と。しかしただで引き下がる私ではない。昼休みに歩けないのであれば定時後に歩けばいい。むしろそっちのほうがいい。この時期の夕暮れどきはほんとに素晴らしい。定時を過ぎているのだからいつ戻ってもいい。そんな自由さと、空気がいっきに正気に戻ったかのような涼しさが、私の足をふだんより遠くに運ばせる。たいてい歩き尽くしたと思っていた一帯にまだ見ぬ細い路地を見つけて、行き止まりであろうことを半ば予想しながら進んだら、案の定……、しかしそれさえも、いいねえ、と思えるのが定時外の散歩なのであった。このあと家に帰るのではなく会社に戻るというのが、散歩をなおいっそう楽しくさせた。

 また歩きながら聴くロスタムの新しいアルバムがほんとにいいのだった。とにかく圧倒的に美しいポップソング集。ifの世界のヴァンパイア・ウィークエンドを想像させつつ、デヴィッド・バーンの後継という感じもする。ロスタムのイラン・ペルシャ系というルーツ(というのを今回調べて初めて知ったのだが)が前面に押し出されていて、しかしそれが「オリエンタル」にはならず、インディロック的なマナーのもとに見事に楽曲のなかに溶けて、彼が見る「アメリカ」をむしろ強調しているように思えるのがすごい。

 そういえばドレイクが三枚同時にアルバムを出したと聞いて興奮したが、まず『ICEMAN』を流してみても過去作ほどはノれず、他の二枚は聞いていない。valkneeのEPも聴いて、こっちのほうがずっとノれる、と思う。ぜったいに長谷川白紙だと思うのだが新人が作ったということになっているトラックの上で、valkneeが自由に跳ね回っている。夜は『銀河の一票』の最新話を見た。

 

5/19

 今日、昨日より日が暮れるの早かった気がする。それなのにほんのり蒸していて、まるで夏の夜のようだった。

 ──というかたちで今日の日記を書きはじめながら、めちゃくちゃ平時の日記だ、と思った。朝起きたら汗をかいていたが汗拭きシートが見当たらなくてそのままでいてしまったのも、今日も昼休みが暑かったのでやはり定時後になってからオフィスの外を歩いたのも、夜、皿洗いをしながらドレイクの『MAID OF HONOUR』を流してみたら『ICEMAN』よりずっとよくて思わず尻を振ってしまったのも、めちゃくちゃ平時だ。というか今日に限らず私の日記は三年前に書きはじめていらいずっと平時の日記なのであって、非常時の日記であったことなどない。同じく私の小説も平時の小説だといえる。アウトソールが剥がれてしまったトレッキングシューズがひとりでにしゃべる小説なんて、平時にしか書かれえない。世界では戦争が続いているのだから非常時だともいえるが、じゃあだから私が私の日記(や小説)を非常時のものだというのは違う気がする。これはわりとちゃんと考えなければならない話でもある。

 

5/20

 昨日の日記に書いたことについてはひとまずChatGPTに聞いてみることにして、

「いま世界で戦争が続いている(=非常時である)にもかかわらず、僕は僕の日記を「平時の日記」として捉えているところがあります。
  そのように捉えていながらも、《世界全体が「非常時」なのだから、僕の日記も「非常時の日記」なのではないか/「平時」と捉えてしまうことじたいが、戦争を不可視化してしまっていないだろうか(もちろん戦争だけが「非常時」ではないが、しかし戦争はあまりにも「非常時」だ……)/「非常時」のつもりで日記を書いていくことが、僕の「平時」にも影響し、戦争終結に向けた(僕のできる範囲での)持続的な行動を生むのではないか/しかし「非常時」の日記として書くというだけの〝連帯〟が仮に何も生まないのだったら、「非常時」としてふるまうのはたんなる欺瞞ではないか?》 というような(すみません、ばらばらと書いてしまいましたが)堂々巡りの逡巡を、一昨日くらいから繰り返してもいます。いま、世界では戦争が続いているなかで、僕みずからは戦争のない場所で日記を書くにあたって、その日記を「平時」のもの、「非常時」のもののどちらとして捉えるべきなのか。そのことを考えるためのヒントとなる本はありますでしょうか。(あるいは、あなたはどのように考えますか?)」

 と送ったところ、

「僕は、これは**「平時の日記」か「非常時の日記」かの二択にしなくていい**と思いました。

 むしろ、いちばん誠実な呼び方は、

「非常時の世界のなかで、戦争のない場所にいる者が書く、平時の日記」

 なのではないかと思います。

 つまり、その日記は「戦争のただなかで書かれた日記」ではない。そこを偽ってはいけない。けれど同時に、「世界の非常時」と無関係な、無垢な平時でもない。皿洗いをしながらドレイクで尻を振ってしまう夜は、たしかに平時の夜です。でも、その平時は、世界のどこかの非常時と同じ地図の上にある。そこを忘れない、ということなのだと思います。」

 と、ChatGPT独特の記法およびやはりやや独特といえる言葉づかいでもって返答をくれたその内容が、私をそれなりに納得させもしたのだった。「無垢な平時でもない」という表現が私の気に入った。また、ChatGPTがおすすめの図書の第一に挙げてくれたスーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』は、私の家の本棚にえんえん積まれている本のなかでも古株の一冊なのだった!

 というところで私は「非常時の世界のなかで、戦争のない場所にいる者が書く、平時の日記」らしく脱線してしまうのだが、積ん読本というのはただ平等に積まれているのでなく、先に積まれた本が先に読まれるのでもなく、そこにはあいまいではあるが「積まれ順」とでも呼ぶべきものが存在する。ようするに優先順位がある。そしてそれはいともたやすく、激しく入れ替わる。おそらくずいぶん前に買ってそのまま忘れ去っていたのであろう『他者の苦痛へのまなざし』が、ChatGPTのおすすめによって「積まれ順」の上位に躍り出るようなことが起きる。しかしこういうときに、あ、本棚にあったかも、とすぐに思えるのは、積ん読本ならではの不思議な記憶回路だ。

 今朝、同居人がえらく早起きして、そのままの勢いでいつもより一時間以上早く仕事に行っていた。私は寝ていた。夜、同居人は『スマッシング・マシーン』を観に行っていた。私は仕事していた。『スマッシング・マシーン』はいい映画だったという。

 

5/21

 昨日の夜から降りはじめた雨は、夜の間におそらく何度か盛り上がりどころに到達し、そのうち二回か三回、私と同居人の目を覚まさせた。そうでなくとも奇妙に暑い夜で、どのみち寝苦しさで起きていたかもしれない。寝不足、という感覚をもったまま出社したせいで一日じゅう眠く、かつ雨のせいで徐々に頭が重くなってゆく。どうも集中できなくて定時になってからすぐに会社を出た。同居人から、チョコを買いに行くのを頼まれていたというのもあった。同居人が会社の同僚にあげるチョコだという。

 会社を出てみれば、日中降り続いた雨がつかの間弱まり、傘をさすほどではない小さく涼しい雨が舞うなかをくぐるように歩く、まだ分厚く曇ってはいるが空は夕方らしい明るさをたたえているようでもある。散歩したくなるいい天気だったので、チョコを買いがてらそのへんを歩いてから帰った。じきに同居人も、だるい、風邪かもしれない、といいながら帰ってきた。『水ダウ』や『ゴッドタン』を見て、同居人は早々に寝た。私ももう少ししたら寝る。今日はテルザの二〇二三年の『trip9love…???』とガスター・デル・ソルの『Camoufleur』を聴いた。テルザのアルバムはいまくらいから梅雨の時期にかけて毎年聴きたくなるのだ、というのもあるし、一昨日聴いていたドレイクの『MAID OF HONOUR』のラストの「Princess」という異質な曲が、どこかテルザを思い出させるものだったというのもある。というかそっちのほうがでかい。

 

5/22

 寒い、に近い涼しさ。雨も降っていた。夜は『プラダを着た悪魔2』を観に行った。ふつうに楽しかった。激ネムなので寝る。

 

5/23

 原料不足によってポテチの外袋を白黒にして販売することを発表したカルビーにたいし官邸幹部が「売名」だと非難した、とか、国旗損壊罪の導入に向けての自民党内のチームにおいてお子さまランチの旗は対象外だと認められた、とか、そういう記事を、政権にたいしての批判を誘導する意図を含んだ、ある種誇張されたものであろうとは思って読むのだが、記事本文にもやはり見出しと相違ないことが書かれているので毎回びっくりする。ごっこ遊びによって国家が運営されている。またそれとべつに日本維新の会にたいしてのムカつきも続いている。以前から彼らが掲げている議員定数削減もだし、昨日くらいに記事になっていた首相の国会出席の大幅削減もだけれど、毎回「改革してます」みたいな顔をして与党に利することばかり提案するのがムカつく。そういうことを提案するのが彼らの持ち味なんだろうが、「改革」づらするのはやめてくれ、と思う、が、「改革」づらするのもやはり持ち味なのだろう。それこそ「維新」というわけなのだろう。だいたい「維新」ってなんだよ、「維新ぜよ」ってわけかい、坂本龍馬かい、と、私のムカつきはあらぬかたちで坂本龍馬に飛び火する、そういえばこないだ友だちと、坂本龍馬はいまでいうインフルエンサー、みたいなことを話したのを思い出して、あらためて坂本龍馬に申し訳なくなるが、そもそも坂本龍馬って「維新ぜよ」なんていったのか? 「日本の夜明けぜよ」じゃない? それもほんとにいったのか?

 日記だからこんなふうに書いているが、ほんとはそんなにムカついているわけでもない。こんなことを考えている時間なんて、Xのタイムラインにこの種の話題が流れていくほんの一瞬に過ぎない。その他の時間はおおよそだらだら過ごしている。今日は涼しさのせいかなかなか布団から出られず、出られなくてもいいと思える朝で、出てからもゆっくりと過ごした。『太陽(ティダ)の運命』を観たのもあって、積ん読になっていた『基地はなぜ沖縄でなければいけないのか』を読み進め(これはまさしく三日前くらいに書いた積ん読本の「積まれ順」の上位に躍り出た本だ)、それと並行して豊永浩平の『月ぬ走いや、馬ぬ走い』も読みはじめた。豊永浩平はこれを二十一歳で発表していて、今年もまだ二十二、三なのに三島賞をとっていて、そこまで若いともう嫉妬とかもない。年齢も私のおよそひと回り下だ。それに読んでみると小説としての語りの技術がすごいし、よく考えられているし、ふつうにすごくて、純粋にこの書き手のこれからを期待してしまう。

 一昨日チョコを買いに行ったときに自分たち用にも八個入りセットを買っていて、それを一昨日、昨日、今日でちびちび食べていたのだったが、見るからに甘そうで同居人が手をつけずにいたひとつを私がかじったところ、中に酒漬けのベリーが入っていて、その汁が噴出して私のOPNのTシャツに飛び散ってベトベトになるということも、今日の午前中にあった。

 午後は同居人が横浜のほうで友だちと飲むというので、二人で少し早めに家を出て、用事を済まし、解散して、そのあと私はドトールでジェイペグマフィアのアルバムを聴きながら本を読んだりした。ジェイペグマフィアは『Vultures』の制作に参加し(おそらく)攻撃的でミソジニックな頃のイェと共同作業をしたことの影響を(おそらく)多分に受けていて、先鋭的で攻撃的な印象のアルバム。それから私は『スマッシング・マシーン』を観に行った。(ジェイペグマフィア→『スマッシング・マシーン』という流れは男っぽい、と思った。が、そのあとラーメンを食べてしまったことでストイックな男っぽさから遠ざかった。ラーメンはそれ単体では男っぽいがストイックではない。これはかなり雑な感想だが……)

 『スマッシング・マシーン』はいい映画だった。全体としてわかりやすい映画でありながら、どこかアンチ=クライマックス的であるというか、史実なのだろうが主人公のマーク・ケアーが勝って終わる映画ではないし、リング上の興奮が私生活によって中断されつづける。ようするに「負け」を描いている。すべてが誇張されたようなドウェイン・ジョンソンの巨大な肉体が画面を埋め尽くす、それは力強さの表象であるいっぽうで鈍重さにも繋がっているのであって、その意味でベニー・サフディは兄とは違う映画を作ったのだと感じる。

 リング上の興奮を共有する巨大な男たちが熱い友情で結ばれ、ガールフレンドは疎外されつづける。とりわけケアーとコールマンの友情は終始素晴らしい。そのぶんガールフレンドのドーンとのうまくいかなさが目立つ。しかしあれは男性性/女性性みたいな話ではなく、ケアーにとってはリングでの勝負がすべてであり、リングで勝負している者どうしの絆がすべてなのであって、そうでない世界のことはわからない、そういう描かれ方なのだと思う。だからリング外のケアーはとても穏やかかつ紳士的で、常に心ここにあらずといった姿なのであり、しかしそれ以上の感情的な繋がりをもたざるをえないガールフレンドのことが理解できずに衝突し、疎外してしまう。

 そういう疎外がもっともわかりやすく描かれていたのが、ケアーが(無効試合にはなったが実質的に)初めて負けた試合のあと、対戦相手と写真を撮ろうとするシーンだといえる。直前まで悔しそうにしていたケアーが、対戦相手が現れたとたんににこやかに応対しているのを見て、カメラを渡されたドーンはシャッターを切りながら涙を流す。対戦相手と肩を組んで笑顔を作るケアーは少しも悔しそうに見えない。試合に負けた悔しさなんて、共にリングを踏んだ絆の前では吹き飛んでしまうのだと思う。その絆の間にドーンは入れない。町屋良平の『1R1分34秒』を読み返したくなった。

 同居人が帰ってきて、『スマッシング・マシーン』の話をした。オアシズの光浦さんが出てくるところと、途中で布袋が布袋ギターで「君が代」を演奏して花火がブチ上がるところでも盛り上がった、という話。布袋を見ると、布袋が町田康を殴って書類送検されたという話を思い出す。最後の試合のフラッシュバックのような演出は必要なかったよね、という話。

 

5/24

 四時くらいに一度目が覚めてカンヌの結果を見たりした。それだから眠くて、朝にはゆっくり過ごしたが、同居人がいきなり部屋の掃除に乗り出し、そうなれば私もやらざるをえないので二人でしばらくやって、ひどく散らかっていた部屋の一角がきれいになって、それはとても気持ちのいいものだった。いい気分のまま外に出て、とろろの店で私はほっけフライの定食、同居人はさばの竜田揚げの定食を食べ、これがまた非常にうまい、しかし同時に眠気を誘うものでもあり、歩きながら眠い眠いいって、いったんコーヒーでも飲もうということで上島珈琲店に入り、アイスコーヒーを飲んだら目も少し覚めた。上島珈琲店の銅のマグカップはレジの横で七九〇〇円で売られている、そんなこともわかった。そのまま私は『月ぬ走いや、馬ぬ走い』を読んで、読み終えた。一度も止まることなく進みつづける語りがすさまじい小説だった。沖縄において戦争から続く暴力と闘争と生と性と死の連鎖を、個々人の語りとして現前させるすごさ。それが小説としてのかっこよさにも繋がっている。そう、かっこいいのだ。小説家のデビュー作としてかなりかっこいいと思ったし、『はくしむるち』もやはり読もうと思った。それからまた歩いて、有栖川宮記念公園の奥にある都立中央図書館に初めて入った。でかくて、閲覧席が多くて、いい図書館だった。視聴覚スペースにいたるまでキュレーションがはたらいているのも素晴らしい。閲覧席にはおそらく中高生であろう若者たちが多くいて、それぞれ自習に集中してい、こういうところにでも来ないかぎり久しく見ない光景だったので懐かしくもあった。私は『月ぬ走いや、馬ぬ走い』に続いて、ちびちび読み進めている大江の『河馬に嚙まれる』中の「四万年前のタチアオイ」という短編を読んだ。これまた、この短編集のなかでも特に密度の高さを感じる短編でかなりよかった。「Y・Sさん」と表記されているがおそらく吉永小百合であろう映画女優が、作家の「僕」と同じ中国訪問団にて旅をしている、その時代の感覚もなんだかおもしろかった。

 暑いというほどではないいい天気が、図書館を出る頃にも続いていた。買い物をして帰って、夕飯を食べ、録画していた「ツッコミスター」を見、それでもまだ夜の九時前だったのでまた二人で散歩しに出た。映画を観に行かなかったからなんとなく時間のある一日なのか? 一時間くらい歩いた。そういえば『プラダを着た悪魔2』にも『スマッシング・マシーン』にも出ていたエミリー・ブラントが今度のスピルバーグの『ディスクロージャー・デイ』にも出ていて、今年は図らずもエミリー・ブラントづいた年になりつつあるわけだが、やはりスピルバーグの新作だし観たいね、僕らの好きなあのひとも出てるしね、という話において、私が「あのひと」の名前を思い出せず、ほら、あの、デッドマンにも出てた、ほら、ウェイクアップデッドマン、ほらあの、ダニエル・クレイグが探偵やってる映画、シリーズものの、で牧師の役やってた、そう、ジョシュ・オコナーだ、と最終的に同居人に出してもらうかたちでその名にたどり着くのにひどく時間がかかり、心配された。今日はジョシュ・オコナーだけでなく他にも二人くらい名前が出てこない日だった。眠かったからか?

 

5/25

 ブックオフ好きが高じて、本屋で新刊として手に入れられそうにない本をブックオフオンラインで検索して買ったりしている。しかしそれはブックオフ的楽しみから遠ざかる行為でもある、というジレンマ……。とはいうものの行ったことのない遠くのブックオフからはるばる本を送ってもらえるのはうれしい。今日は仙台泉バイパス店から大田昌秀の本が届いた。「日本人は醜い──沖縄に関して、私はこう断言することができる。」と、『太陽(ティダ)の運命』にも引用されていた一文で始まる『醜い日本人』という六八年の本。

 今日も夜に同居人と散歩して、帰ってからは『銀河の一票』を見た。誰にたいしても対話の姿勢をもちつづけようとするドラマですごい。

 

5/26

 個人情報保護法改正案、国家情報会議設置法案、……情報、情報。国がきなくさ。ここ何日か寝ぐるしく、汗をかいて起きる。この先もっとぐっと気温が上がるのがいやだ。《酷暑日》もやってくるだろうし……。激ネムなので寝る。

 

5/27

 朝、パンとヨーグルトを食べながら流していたオモコロチャンネルの動画で、メンバーたちが、恐山と会う前は自分の十個くらい年上なのかと思っていたがいざ会ってみたらガキだった、という話をしていて、かっこいいと思った。そんなに年上に思われる恐山がかっこいい。……というだけで、これ以上どの方向にも発展しない話なのだが書いておいた。

 それと、LINEでインドやタイの友だちから牛や犬の写真が送られてきて、私はそういういい写真を持っていなかったのでこの前祖師ヶ谷大蔵に行ったときに撮った駅前のウルトラマン像の写真を送ったら、インドのUが祖師ヶ谷大蔵のおすすめの中華料理屋を教えてくれた。……これもこれ以上ないのだが、インドにいる友だちから日本の店をおすすめしてもらうというところにおもしろみがある、しかし書くほどかといわれればそうでもないかもしれない、が、日記なのでなんでも書いていい。インドはもう四〇度、すなわち日本でいうところの《酷暑日》に突入しているという。こっちのほうが日記に書きがいのある話題だったか。

 あとここ何日か、ちびちびと「ツッコミスター」を見ながら笑っている。「THE SECOND」は見逃してしまったままに見ていないのだが、同じく見逃した「ツッコミスター」のほうは見ようと思える、これは番組の性質もあるだろうが、それ以上に生放送か収録かというところが大きいように思う。「THE SECOND」は生放送というところにそれぞれの漫才師のドラマ性のようなものが否応なしに乗っかってしまう(かつ番組側も積極的にそういう方向づけをしている)ため、リアタイしていないとノりきれない。「ツッコミスター」のほうは粗品のディレクションなのだろうがドラマ性なんて皆無だからこそ後からでも見られる。出場者を決めるのも審査をするのも粗品、というところで、ものすごくある種「政治性」とでもいうべきものがはたらいていて、それでもノれるかどうかはけっきょく粗品が好きかどうかに集約されるようにも思う。それにしても、色や数字といった無機物にツッコむことで、ツッコミ手の「ニン」が浮かび上がってくるのがおもしろい。ママタルト檜原のツッコミがやっぱりいいと思う。

 今日の夜は同居人がコンソメスープを作ってくれたので一緒に食べて、また一緒に歩いて、ドンキで蚊よけスプレーを買った。部屋に蚊がいたのだ!

 

5/28

 今日は昨日より気温は低いはずなのに湿気のせいで暑い。定時を過ぎてからちょっと散歩しようと外に出たらねばっこ〜い湿気が全身にまとわりついてきて季節の変化を感じる。(──たった一日の湿気で季節の変化を感じてしまうのは過敏だともいえるが、しかしここ何日かの夜の寝ぐるしさも、今日のようにねばっこ〜い湿気を浴びれば納得がいくというか、何日かかけて準備されてきた湿気なのだろうと勝手に合点がいく。なんならここ何日かの夜、寝ぐるしいうちに私のかいた汗が少しずつ溜まっていって、今日、ねばっこ〜い湿気として空気中に放出されたかのような……。だから私からしてみれば私じしんの寝ぐるしさと今日の湿気がまったく関係がないとはいいきれず、いや、そもそもそこには気候的な連続があるはずなのでもちろん関係はしているのだろうが、それだけではなく比喩的な連続として、私の夜間の汗と今日の湿気が因果関係を結んでいるように感じられてくる。

 ……そんなふうに自分でもよくわからないことを書きながら、まあこんなんでいいか、と思ってしまうほどに、ここ何日かの寝ぐるしさが私の日記にも影響している。寝ぐるしさと並行するように、ここ何日か、実のあることを書けていないという感覚がある。だったらなにも書かないという選択肢もあろうが、いまの私にとって、日記を書くというのはトイレに行ってから手を洗うのと同じくらい当たり前のことなのであって、実があろうとなかろうと書かずにいられない。昨日の日記だって、ほんとは最後の段落だけで終わらせようと思っていたのに、見たもの聞いたものなどをなにも考えずに付け足すかたちで前半が積み上がっていった。夜中にいっしゅん目を覚ましてからまた寝て、夜を伸ばしていくような……)歩きながら、feeble little horseのアルバムとHayes Howardというひとのアルバムを聴いた。あとDuval TimothyがCarlos Niñoというひとと組んだ『rain music』というアルバムもここ何日か聴いていて、そのなかのたとえば「bumpy」という曲に顕著なのだが、ピアノ演奏のバックグラウンドに風のような音が流れてい、それは『Kid A』/『Amnesiac』期のRadioheadの曲で明らかに聞いたことのある音で、サンプリングしたのかな、とも思ったのだが、そうではなく珍しいパーカッションの音かもしれない。だとするとRadioheadの曲のほうでもパーカッションが使われていたのかもしれないと思って、久しぶりに『Amnesiac』を聴いてみても、くだんの音がどの曲で聞いたものなのか探し当てることができなかった。それはそうとして「Pyramid Song」と『rain music』には似たようなフィーリングが通底しているように感じるのであって、そういった意味では概念的なサンプリングがあるともいえる。

 同居人は友だちと新宿に吉本のお笑いライブを見に行っていた。生で見るとイチゴがいちばんおもしろかったという。夜はカミナリのYouTubeで『アウトレイジ』のタイトルバックを再現するという動画を見てウケた。もうひとつの『ゼイリブ』のほうを私も同居人も観たことなかったので、U-NEXTで映画のさわりだけ再生してまたYouTubeに戻るという、映画への冒涜をやった。

 

5/29

★★★★★「体感としては……」

気温そのものは昨日より高かったようですが、体感としては昨日のほうがずっと暑かった。《暑さは湿気に宿る》という言葉の意味を、昨日今日ほど実感したことはありません。昨日より雲が少なく、日こそ出ていましたが、それは「暑さ」というより「熱さ」なのでした。

 ──なかなか日記を書き出そうと思えないときに、天気のレビューから入るのはいい考えかもしれない。しかし今日はもうこれ以上書かないかもしれない。『ディスクロージャー・デイ』の日本公開が先延ばしになったのは悲しいが、これだって、べつにこれ以上書くことはない。

 

5/30

 同居人も『月ぬ走いや、馬ぬ走い』を読みながらおもしろいといっていて、そう、まずなによりおもしろいんだよなあ、と僕も何日かぶりに思い出そうとすると頭のなかによみがえってくるのはあの一行も止まることない疾走感なのであって、これって舞城王太郎じゃんと思った。それで舞城王太郎といえば、『深夜百太郎』を完本として発売するというナナロク社が、プロモーションとして百個の話の毎夜更新をしていて、私はふつうに読んだことがなかったのでこの機会に読もうと思ってちょこちょこ読んでいるが、まだ七話目なのにもう半分以上は読めずに更新されてしまっているのでけっきょく本は買おうと思うし、そうでなくとも、読めた話のおもしろさを鑑みて本はどちらにせよ買うつもりでいる。今日は読めた。今日の「七太郎「グルグル」」は語り手の「僕」と引きこもりの「ユキ茶(有希子ちゃん)」との会話がよかった。最後にはやはり怖い話のような形になるのもおもしろく、かなしい。

 今日、同居人は仕事に行く私と同じタイミングで家を出て、用事を済ませてから、『月ぬ走いや、馬ぬ走い』を読み進め、『マテリアリスト 結婚の条件』を観ていた。映画は予想以上にちゃんとおもしろかったという。私もなにか観たいと思って、仕事を終えて帰宅し、夜ご飯を食べてから、『箱の中の羊』を観に行った。嫌いではないが、酷評されるのもわかるというか、全体として雑というか、いろんな方向におもしろくなりえたがどこにたいしても踏み込みが甘いというか、浅いというか……、脚本のたたき台をそのまま最終稿にしてしまったような雰囲気? 端的に編集がもったりしているというのもあった。最初の「ちょっと先の未来…」(だっけ?)のフォントのダサさとドローンのノロさが作品全体のもったり感と甘さを象徴しているようでもある。

 細かなシーンひとつひとつにはいいところもあり、そこはさすが是枝。生活を撮るのがうまい。大悟がかなり──というか正直綾瀬はるかよりずっと──よかったし、子役の子もよかった。また、生活とはかけ離れている、意味不明な中島歩には笑わせられた。というかあのシーンだけなぜか特撮っぽすぎる。『ふつうの子ども』の鉄太くんがそのまま鉄太くんらしく出てきたのにも湧いたが、結果的に彼の登場以降のシーンは本作の甘さを象徴するような展開になってしまっていて、心中複雑である。帰ってから同居人とああだこうだしゃべった。ようするに、是枝的なリアリティレベルと、今回手を出したSF的なテーマとの乖離が激しいがゆえに、全体的に浅く感じられてしまったのだと思った。(それにしても、最後にトンチキっぽい意味深な感じで終わらせればなんとなく深みが出るんじゃないか、というのは、私なんかが短い小説を書くときにもよくやってしまう投げ出し方なのであって、是枝さん、気持ちわかりますよ、とも思った。)

 

5/31

 早起きして、家でツナマヨおにぎりを作って食べた。家でにぎるおにぎりはおむすびマン大谷が自信ありげに掲げているおむすびよりおいしい。値上がりの影響でおむすびマン大谷は窮地に立たされている。街にもおにぎり専門店が増えてきた。にぎりたてのおにぎりのほうがおいしいとみんなが気づいたのだ。それだからさいきんはおにぎり屋とドーナツ屋が場所を取りあっている。ツナマヨおにぎりを食べてから『スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー』を観に行った。大きなスクリーンで音の大きな映画を久しぶりに観た気がした。八〇年代から受け継がれるアドベンチャー映画のマナーに則って万人に向けて作られたような映画で、劇場には親子連れも多く、それだけで最高だと思えた。クレジットが出るシーンの『トップガン』っぽさ。思っていたよりいいやつ、として登場したキャラクターが、そのままいいやつとして味方になってくれるうれしさ。主役ふたりとも表情が読めないのにそこにたしかな絆を感じられる、その素朴な尊さ。グローグーはさすがにかわいすぎ、あざとすぎ、と思うが、かわいくていいじゃないですか、あざとくてなにがいけないんですか、とも思う。パペットっぽい質感が実写のなかに同居しているのもおもしろい。そもそも『スター・ウォーズ』というのはスペースオペラ的世界観と多種族共存の着ぐるみ的な世界観が同時に成り立っているシリーズなのであって、まさしくシリーズの正統といえそうな今作である。エンドロールを見て、ジェレミー・アレン・ホワイトとマーティン・スコセッシの配役にウケた。

 同居人からすると、爆撃のシーンはわりといやで、アメリカの映画だなあ、と思わずにはいられなかったという。たしかにそれはそうかも。また、マンダロリアンがグローグーにたいしてお礼をいえていなかったのが気になった、とも指摘していて笑った。たしかに「ありがとう」とはいえてなかったけど、なんか「老いと若きが逆転するのが我々の教義だ」みたいなめちゃくちゃ遠回しのお礼みたいなのはいってなかった?と返すと、いや、まずは直球で「ありがとう」を伝えるべき、とのことだった。まあそもそもあれでは遠回しのお礼にすらなってないか。

 映画館を出てからプールに行ったら、更衣室で私の会社の先輩とその息子さんと会った。昨日仕事に行くときにも同じく親子連れでいるところにお会いしたので、偶然が続いて笑ったし、先輩が裸でいるところに話しかけてしまって少し気まずかった。プールで泳いでから帰宅して、親子丼を作って食べ、アイスも食べるとあっという間に目が開かなくなってしまって、そのまま三時間も昼寝した。それであっという間に夕方になって、せっかくだから夜は嵐のラストライブの配信を見ようということで、私はスシローへテイクアウトしに行った。夕暮れどきの風が、自転車のペダルをこぐたび私のTシャツをふくらませた。地平線近くで大きくなって沈んでゆく夕日を見て、また『トップガン』みたいだ、とも思ったが、夕日が先、『トップガン』が後だ。

 嵐にそこまで思い入れがあるわけでもないから、ライブをずっと集中してみたわけではなくて、途中サッカーを流したりもしながら、ずっとパソコンで配信画面をつける感じにしていたが、さすがに知っている曲ばかりだし、時代を築いた五人だよなあ、と感激もした。私にしてみれば嵐の歌声としてイメージするのは第一に大野くんの歌声なのであって、その伸びやかでかっこいい声は健在で今日も素晴らしかったし、それだけじゃなく相葉くんの鼻にかかったような歌声にもやはり聞き覚えがある。そしてサクラップの味わい。ニノもけっこう声かっこいいよなあ、とか、MJはこんなにスキマスイッチみたいな歌声だったんだっけ、と思った。ようするに輝かしい五人なのだった。

犬次郎の青春

 四六時中 歩きスマホの 犬次郎

 

 ──という五七五(字余り)が詠まれるほどに四六時中歩きスマホばかりしている犬次郎だったから、散歩好きを公言していたって周りの景色なんてもちろん見てないし、五〇パーの確率で信号無視するし、誰かれかまわず肩パンするしで来る日も来る日もやりたい放題。こうやって列挙した字面だけ見れば大悪党なのだけど、歩くのがとにかく遅いのと、極端になで肩なのと、なんにでも条件反射的に謝る癖があったのでどうにか小悪党くらいに収まっている。収まってるのか?しかし五回連続で電柱に向かって謝る小柄な男の姿を見て、大悪党だとは誰も思わない。

 公言するだけあって犬次郎の散歩好きは筋金入りで、毎日仕事から帰って荷物を置くなりまた家を飛び出し、そのまま夜中まで街を練り歩く。そうした熱中の弊害として生活は荒んでいた。家でゆっくり座ってスマホをいじる時間がとれないから歩きスマホをしていた。散歩が先、歩きスマホがあと。もちろん犬次郎だって一介の散歩ラヴァーとして、このところ景色を見れてないことにかんしての違和感をもっているが、かれじしんが小悪党たる現状をよしとしているのだからなんもしょうがない。中高の陸上部で鍛え上げた無尽蔵の体力と健脚が、夜ごとの散歩をいつまでも長引かせて、犬次郎の生活をなおさら荒ませる。やろうと思えば、夜どおし散歩し続けて、次の朝そのまま仕事に向かうことだってできた。スマホの充電だけがそれを妨げた。スマホの右上の充電の表示が赤くなったら帰りの合図。回れ右して引き返す。歩きスマホできないなら散歩を続ける意味がない──

 

 スマホ見ず 重ぬ一歩の から回る

 

 ──そんな本末転倒っぷりが苛烈さをいや増したのは、およそ一年前、犬次郎がそれまで八年も使っていた古いアンドロイドのスマホを新しいアイフォンに機種変してからのことだった。機種変したばかりのスマホの充電のもちのよさといったら!とくに最初の一週間ほどの充電もちはほとんど無限に近い。ピカピカのアイフォンの画面を凝視しながら歩いているうち、犬次郎は明け方の山中にいる。家を出たときには暑いとすら感じていたはずのブルゾンが寒い。数えきれないほどの木々に肩パンしては謝りつづけている。いつの間にか切らした息が、スマホの明かりに白く照らされて薄闇にぼんやり浮かぶ。地表に隆起した木の根の力強さをスニーカーの裏に感じながら、スマホの画面からけして目を離さずに歩いていた。電波なんてとっくに通じていなくとも、かつてないほど長く充電がもっていることのうれしさが、犬次郎に歩きスマホを続けさせていた。

 鳥か熊か判別のつかない鳴き声が響く。空が明るくなるのに遅れて木々のざらついた輪郭が浮かびあがる。遠いせせらぎの音がふいに間近に迫ってくる。山がにわかに騒がしくなるのに合わせてアイフォンの充電がついに赤くなって、ようやく顔を上げた犬次郎が目にしたのは、濃くあおあおと濡れた木々。えどこここ?森?なに?夢?──とひとりごちても誰も反応しない。え?鳥?熊?え?川?あ、山?昨日も一昨日も雨なんて一滴も降っていないはずなのに、犬次郎を囲む青い木々の枝の一本一本、葉の一枚一枚から清らかな水が滴っていて、かれは素朴に、神秘的、と思った。歩きスマホに集中することによって、無意識に、思いもよらなかった場所に連れてこられたという感覚。この日の神秘体験が、ますます犬次郎を歩きスマホにのめり込ませた。散歩の極意とは、目的もゴールも決めずにそぞろ歩くこと。それは、歩きスマホにひたすら集中し、無意識の作用によって予想だにしない場所へと身体が運ばれることでこそ可能になる。

 

 スマホと 吾とスマホだけが 歩を散らし

 

 ──いかにも小悪党らしい屁理屈である。しかし犬次郎がこんなことまで考えているわけはなくて、ただただ動物のように歩きスマホしているだけだった。動物化する歩きスマホだった。

 じゃあ誰がさっきの屁理屈をこねくり回したのかといえば、すみません、私です。もとはといえば私もかれに肩パンされたひとりだった。暇をもて余しあてもなく散歩していたある夜のこと。下卑た好奇心で家々の二階の窓を眺めることにはまり、ろくすっぽ前も見ずに歩いていた私の左肩に、ふいに、パンッというよりヌルッと押される感覚があった。ってえな、と思わず乱暴めいたが痛くはない。見ればもともと低い位置にある頭をさらに下げてすんませんすんませんと繰り返すなで肩の小男がいた。それがかれだった。

 私の経験上、肩パンは散歩者どうしの間ではまず起こりえない。肩パンというのは用事があって急いでいる人間か、自分の身幅を見誤っている人間か、ごくシンプルに悪意をもつ人間が引き起こす。ぶらぶら歩いている暇な人間が、同じくぶらぶら歩いている暇な人間に肩パンするなんてことがありえるのか?新鮮な驚きも手伝って私はかれに揚々と話しかけていた。なんや歩きスマホか?まあええよ、おれもよそ見してたし。両成敗ゆうことやね。(あとで思ったが私もかれもべつに罰せられてはいないので「両成敗」ではあるまい。)かれはいった。いやー、ひひ、すんません。聞けばスマホに熱中するあまり自分がいまどこを歩いているのかわかっていないようだった。その集中力が私の気に入った。歩きスマホと肩パンという二つの悪がかけあわさり、マイナスとマイナスでプラスになったといえば安直だが、まあそれも遠からずといったところで、この集中力があれば究極の散歩が叶うのでは?そう考えたのである。頭だけで考えたようなわざとらしい意思が介在することなく、ただみずからの身体と、それが接する道とのその場限りのセッションによっておこなわれる散歩。目的地をもたないのは大前提として、こっち行ってみようかなという、情趣とは名ばかりのまったく不要な気まぐれに左右されることもない、純然たる、本来的な意味においての散歩。それをかれは叶えられるのでは?

 おりしも私は発明家として、充電が無限にもつスマホを完成させたところだった。いくら機種変したばかりのアイフォンの充電もちがいいったって、毎夜毎夜の歩きスマホによってバッテリーは摩耗するばかりで、かれの散歩はだんだんと短縮傾向にあった。だからさいきん、早めに帰ってるっす。わりと健康的に寝れちゃってるっす。そういうかれに、私は《∞Phone》の試作機を手渡した。これなら充電、無限にもつで。どうや、散歩の向こう側、覗いてみいひん?ほとんど押しつけるように《∞Phone》をかれに手渡し、期待してるで、と声をかけて解散した私は、散歩者の夢が叶いそうであることに興奮してばかりで、かれと連絡先を交換していないことに次の日まで気づかなかった!それだけでない。私は《∞Phone》の位置共有機能もオンにしていなかった。私はそれから毎夜のように《∞Phone》の位置情報を見ながらかれの純然たる散歩の軌跡を味わうつもりでいたのに……

 さらに私は《∞Phone》の設計図さえも残していなかった。発明家としては一流でも、プロダクトマネージャーとしては二流だった。かれに手渡した一機が、これまでもこれからも、この世にある唯一の《∞Phone》だった。どこをほっつき歩いているかわかったものではないかれと、私が再び出会う可能性は限りなくゼロに近い。私の《∞Phone》と、究極の散歩への夢は、永遠に失われてしまったのだ……

 

 地図もなき 着くも帰るも なき歩み

 

 究極の散歩に 昼も夜もなし

 

 つま先と 道の隙間に ある∞

 

The Long And Winding Road (Remastered)

《もう何年も履いているトレッキングシューズのアウトソールが剥がれて、何かしゃべりたそうに見えたので、お別れの言葉かと思って耳をすませたら、ちっちゃい声で「酷暑日というネーミング、無難すぎませんか?」といってたみたいです。》

 ──という内容をXでポストした、そのときまだシューズはしゃべってなくて、単純に、おもしろいかな、と思ってのポストだったのですが、そのあと念のためじっさいに耳をすませてみると、シューズはほんとにしっかりしゃべっていたのです。いかにも年月を重ねたシューズらしい、まっすぐ芯の通った、頑固そうな声で。あるいは、Xでポストする前の私が、シューズの声をほとんど無意識に聞き取っていながら、それをかんたんに受け入れようとはせず、もししゃべっていたらおもしろい、という仮定の話に置き換えたうえで、私じしんが先日から思っていた、しかし誰にいうほどのことでもない意見を勝手に代弁させたのかもしれません。

 芯がある、だけど意外に高い声だ、というのが、最初の感想でした。声の高いひとには芯がない、ということを申しているのではありません。高くても芯の通った声をもっているひとを私は知っています。(たとえば黒沢清監督の『Chime』で主演をはり、『Cloud クラウド』においてもその異様な存在感がぞんぶんに発揮され、『見はらし世代』でもその出演シーンだけは黒沢映画のような雰囲気に変えてしまった吉岡睦雄さんです。)でも、一般にシューズといったら、わりあい低い声をイメージするものではないでしょうか。低いところに位置するものだから声も低いだろう、という短絡的な連想も、やはりあると思います。

 やはりあると思います、と書きながらも、論理の綻びを私はさっそく感じ取っています。というのも、低いところに位置するほうが声も低いというならば、コナンくんの声は小五郎おじさんよりずっと低くなければおかしいからです。つまり、位置が低ければ、逆説的に、声は高くなるものなんです。そうなるとこのシューズの声が高いのにも頷けます。比較的ソールの厚い──すなわちシューズのなかでは背の高いほうといえる──トレッキングシューズであるがゆえに、ソールの薄いスニーカーよりはちょっぴり低い声だったかもしれませんが、それでも高い……

 そのような、意外に高い声で、シューズがなにをしゃべったのか。それこそが本題であるわけですが、ここまで私がなかなか本題に入らずうだうだしているのも、この本題そのものへのとまどいがあるがゆえだということを、ご承知おきいただかなければなりません。それはもちろん、私がXでポストした「酷暑日というネーミング、無難すぎませんか?」ではございません。そうだったら、それはそれで私をとまどわせたかもしれませんが…… つまり私はかれ(と呼称してしまうことにしましょう)がしゃべった内容にとまどい、ちょっとタンマ、という気持ちで、その内容を正確に記述するための体勢を整えるために、いったん、かれの声の高い低いのほうだけに言及するという、いわば一時的なトーンポリシングをおこなっていたというわけです。いま、体勢は整ったといっていいでしょう。が、しかしこうなるとかえって大げさに構えてしまったような気がしなくもない……

 芯のある高い声で、かれはしゃべりました。それは私に向かって語りかけるというよりかは、まるであらかじめ書かれた詩をひとり吟じているような、一定のトーンのなかに単語それぞれのもつ意味合いがしぜん浮かび上がって、薄く張った白い膜を下から突いて立体図形を作り上げるような、そんな調子だったのでした。芯があるといっても、ボリュームとしてはそう大きくはありませんから、かれの声はぬるい風にさらわれそうになります。だから私はますます耳をすませます。

 それは、よく知られた歌の、(おそらくかれじしんによる)日本語訳のようでした。メロディを歌うでもなく、抑揚をつけるふうでもなく、かれはその歌の詩を、ひとりごとかのようにしゃべったんです──

 

 長く曲がりくねった道が

 きみの扉へと続いている

 それはいつまでも消えることない

 むかし歩いたことのある道

 ぼくをいつも導いてくれる

 きみの扉へと続いている

 

 かれがシューズであるから「道」についての歌なのか、と、まずはその曲選びを私は粋に思いました。「ぼくをいつも導いてくれる きみの扉へと導いてくれる」と重ねてもよさそうなところを、「きみの扉へと続いている」と、先に出ていた繰り返しのほうをとる、その感覚も、さすが私のシューズ、というべきでしょうか、私の好むところと一致したのでありました。

 

 ぼくは何度もひとりきりになった

 何度も泣いた

 なんにせよきみにはわからない

 ぼくが何度もやろうとしたことが

 

 しかし私がほんとにいいたいのは、そういう、曲選びとか、翻訳のあり方とかではないのでした。私はいつもこんなふうにほんとのことから筆を逸らそうとするのでした。なかなか本題に入ろうとしないのだって同じ。うだうだと長く書けば、ほんとにいいたいことそのものを書かずとも、しぜんと文章から染み出してくる、そんな小説論まがいの弁明を用意して、私はほんとのことを書こうとしません。しかしそれをやめようと思える、かれがこんなにまっすぐしゃべっているのに私はなにをやっているのだ、そう思える、かれのしゃべり。ようするに私は率直に感動したのでした。

 元の歌のメロディからもリズムからも離れ、単語ひとつひとつの意味、あるいは意味ですらない、輪郭、影、のようなものが立ち上がってくるかれのしゃべりに……

 

 それでもぼくが連れ戻されるのは

 長く曲がりくねった道

 ずっとずっと昔に

 きみに置き去りにされた道

 もう置いていかないでくれ

 きみの扉へと導いてくれ

 イェ イェ イェ イェ

 

 感動した!

 ──と私はいいました。

 おざす、とかれはいいました。私はびっくりして、かれをぶってしまいました。ふつうにしゃべんのかい、と私は思いました。私とかれとの奇跡のような時間は、というのは私がひとりでにそう感じていただけですけれども、それで途切れてしまったのでした。ふつうにしゃべるよ、とかれは、私が口に出していないのに返してきました。私がいっていないことをもかれが汲みとって返してくれるのなら、それはさっきとはまた別の奇跡のような時間であるともいえますが、ぶってしまったのがよくなかったです。時間は戻らないのでした。

 もっと前からしゃべってくれてればよかったのに、と私は、今度は口に出しました。そしたら、山歩きとかしてても、雑談とかできたのに。いやあ、それは無理無理、だってソールが剥がれたからこそ口ができたのだから、とかれはいいます。なるほど……

 ソールが剥がれたからこそしゃべれるようになった、すなわち、シューズとしての役目を寡黙にまっとうしたからこそ引退後の饒舌がある。どうりで、つい何日か前に買ったばかりのニューバランスのスニーカーはなんにもしゃべらないわけです。しゃべるひまがあったら手を動かせ、いや、ここでは足を動かせ、でしょうか。いや、シューズは履かれる側なのだから、しゃべるひまがあったら足に動かされろ、でしょうか。とにかく、その類いのストイックな職業倫理にかれらは貫かれているわけです。私はこれにもまた、感動いたしました。私は感動しきりでした。

 

 何日か前に買ったばかりの、まだ新品のほうのニューバランスがしゃべることはないでしょうが、もう何年も前に買って、履きつぶし、いたるところがぼろぼろになっていながら、まだソールが剥がれていないという一点のみによって、つまり作りがいいばかりにいまだスニーカーとして酷使されつづけているほうのニューバランスは、さすがにしゃべるのではないか。履いた時間でいえばトレッキングシューズよりも長い。これはさすがに役目をまっとうし、しゃべるためのセカンドライフに突入しているのではないか。そう思って、私はベテランのニューバランスに話しかけましたが……

 ──返事はないのでした。

 やはり、ソールが剥がれているかいないか、というところが大事であるようです。

二〇二六年四月の日記

4/1

 昨日書こうと思ったのに忘れていたこと;『プロジェクト・ヘイル・メアリー』についてライアン・ゴズリングが話している動画をYouTubeで見たのだったが、劇中でザンドラ・ヒュラーが歌うシーンについて、もともと脚本にはなかったが撮影の合間にザンドラ・ヒュラーが歌っているのを聞いて、すごくいいから映画のなかでも歌っちゃいなよ、と提案して実現したシーンだったと語っていて、私はそれを聞いてすごくいいと思って、もう少し調べてみると、歌っちゃいなよと提案されたザンドラ・ヒュラーみずからがハリー・スタイルズの「サイン・オブ・ザ・タイムズ」を選曲したみたいで、私はそれを知ってなお感動したのだった。映画は全体的によくできていたが、振り返ってみればあのカラオケのシーンにもっとも心動かされたといっても過言ではない。歌われる内容が劇中の状況とリンクしているだとか、冷血に思われるストラットというひとがほのかに人間味をのぞかせているだとか、そういう繋がりも大事ではあるのだが、もともと脚本にない、つまりもともと必要とされていないシーンだったからこそあれほどまでの情感にあふれていたのだと思う。『スーパーバッド 童貞ウォーズ』だってセスとエヴァンの二人だけでなくマクラヴィンの過ごした一夜が描かれるからこそ美しいのであって……、と書いてから、いやあの映画のマクラヴィンはぜったい必要でしょ、と思う。むしろ警官として登場するセス・ローゲンがマクラヴィンと遊びなおしたかったからこそ作られた映画といってもよくて……

 

4/2

 夜にワンオートリックス・ポイント・ネヴァーのライブを見た。先に今回のサポートアクトであるララージが出てきて、ララージといえば私は昨年のビッグ・シーフのアルバムで知ったひとだったので思わぬ繋がりにうれしくなる。ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとビッグ・シーフとでは音楽的にまったく違うようで、じつはララージを介してリンクさせることもできる、それを心底実感するパフォーマンスだった。意外にもメロディに満ちているピアノもよかったし、客席からはほとんど見えなかったがなんらかの銅板のようなものを叩いたりなぞったりしてドローン的な音を奏でるくだりもよかったが、やはりいちばんいいのは、弦楽器とも鍵盤楽器とも見分けがつかなかったがあれはツィターなのか、それとたぶんムビラというやつだ、それらを指で弾き、弓なりの棒で引っかき、最後には短いスティックで軽快に叩いているところ。弾かれ、引っかかれ、叩かれて奏でられる音がほんとうに美しくて、総体として、人生みたいだ、と思うパフォーマンスなのだった。最後に小さなベルをチーンと鳴らして終わったのもいい。それこそ、ご臨終、っぽい音であるが、しかし人生は長く続くということを八十二歳でステージに立ち軽快に踊りながらはけていったララージじしんが体現している。

 ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーのほうは昨年の『トランキライザー』からの曲が中心の構成であるがライブ用に強烈かつ美しいアレンジが加えられていて、まさしく「誇張したOPN」とでもいうべきライブだった。いろんな低音に身体のあちこちが揺らされ、美しい高音に耳を破壊される。聴く、というよりは、全身で音を体験する、というのがふさわしい。やはり音楽はイヤホンで聴くものではないのだとも思わせられる。

 それにしても今回のライブは、VJというのか、映像を担当していたフリーカ・テットというひとの貢献もかなり大きかった。ステージ後方のモニターにはライブの序盤から、いかにもありそうでなさそうな、ようするにリミナル性をもった乳白色の部屋と、毛羽だったカーペットと、その上に置かれたブラウン管テレビが映されていて、テレビの画面にはこれまたリミナル性をもったさまざまな映像が映されている。ようするにモニター内モニターのようになっている。テレビ内の映像がモニター全体にオーバーレイする形で映され、私たち観客はしばらくそれに見いるのだが、没頭できそうないいところに差しかかるとカメラが少しずつ引いてゆき、ブラウン管の枠が映される。つまり私たちはモニター内モニターの映像を見ていたのだということにあらためて気づかされる。

 映像の明滅は楽曲ときわめてリンクしていて、没頭する快楽に満ちているのだが、いま書いたようなカメラのズームアウトの操作が繰り返されることによって、毎回現実に引き戻されるような、しかしその引き戻された現実であるところの乳白色の部屋もまた非現実であるかのような、入れ子的な映像が映され続けている。「バックルーム」をもほうふつとさせる乳白色の部屋。ここはどこなんだ? ──そんな問いへの答えが、ライブ中盤に驚くべき形で示される。あるとき、ブラウン管テレビと乳白色の部屋を映すカメラがそのまま後ろに下がり続けて、部屋の全体像が明らかになる。全体像、というか、部屋の壁はじつは半分ていどの高さまでしかなく、天井もない。その外にはZepp DiverCityの光景、つまりいまワンオートリックス・ポイント・ネヴァーがライブをし、フリーカ・テットが映像の操作をし、私たちが観客として立っている会場の光景が見えている。ブラウン管テレビも乳白色の部屋も、ステージのセット上に置かれたミニチュアであり、ライブの最初からフリーカ・テットが手元でカメラを操作して映していた本物の映像だったのだ。ありそうでなさそうなリアルなCGとすら思っていた映像が、じつは現実のリアルタイムのものだったという、いうなれば「ありそうで、なさそうで、あった」という体験。しかしこの「ありそうで、なさそうで、あった」というのはまさしくワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの音楽そのものにも当てはまるわけで、そのことを自覚的に解き明かすべくデザインされたライブだったというわけだった。

 というわけですごいライブで、そんな動いたわけでもないのに私も同居人も全身が疲れ、帰ってきてからあっという間に寝ようとしたところで私は日記を書くべく踏みとどまった。はてなブログにミワさんが上げていた日記のなかで私のブログが言及されていてびっくり! うれしかった!

miwa0524.hatenablog.com

 

4/3

 遅くまで会社に残っていたら、先に帰宅した同居人から花見に誘われたから行ってくるという旨のLINEが来て、私は、あ、花見っていまから?と思いながら「あらま/ごめんなさいね」と返し、そしたら同居人からどこらへんに行くという旨とともに「元気だったら合流してね」と来たので、私は「いま会社出るところです」、そのあと早足で帰宅したらすでに同居人はおらず、しかし部屋の電気がつけっぱなしになっていて、はてどうしたものか、「一度帰宅しましたが、お腹が空きすぎているため、外に出ます」、こういうときの私はなぜか丁寧語だ、「駅前で蕎麦を食べました」、「いちおう◯◯方面に歩いています」、そのまましばらく歩いていると同居人から「会えたらいいね」とだけ来たのですかさず「ノーヒント!?」と返すが、返信がない。

 仕方なくそのまま川沿いまで行くと、まあ当たり前ではあるが混んでいて、しぜん、私の足は横道へと逸れてゆく。川から遠ざかるにつれ、ほどよく傾斜のついた細道が現れ、お、いいですなあ、とひとりごちながら進む。前に通ったことのある道だとしてもいいものはいい。小説は読んでいる時間のなかにしかない、という保坂和志の言葉にならうなら、道は散歩している時間のなかにしかない。坂を上りきったならばやがて下りに入る。それは当たり前だがその下りが階段になっていたりしたら、そりゃもう、散歩としては大成功の部類になる。

散歩大成功

 そのようにして同居人と合流することをすっかり諦め散歩をしていた私のもとにやがて着信があり、聞けば同居人はもう家の近くだという。いつの間に? 私もガンダで帰ろうかと思ったが、そんな元気はなく、仕方なしにLUUPの自転車に乗って帰った。(一昨日くらいにリリースされていた「246」という曲のフックにおいてkZmが「裸足のままガンダ」と歌っていて、また私の知らないスラングだと思って調べたらどうも「ガンガンダッシュ(全速力ダッシュ)」の意のようで、響きがいいので使ってみたかったのだがいまこうして思わぬチャンスが訪れた。)

 

4/4

 昨日書いた「246」という曲のなかでは「ガンダ」もいいのだがそのあとのTohjiの「We livin' like IMAX クオリティを増す」というところがおもしろかっこいい。IMAXの上映後にスクリーンに表示される、私たちは品質を大切にしています、というメッセージと、意見があればCQO(チーフ・クオリティ・オフィサー)宛てにメールを送れるという仕組みを、私はかねてよりちょっとオモロいと思っていたが、Tohjiも同じようにオモロさを感じたのだろうか。おもしろいでいうとついにリリースされた27AMのリリックもやっぱりおもしろい、し、フロウがかっこいい。ラップはおもしろい。というようなことを思っていたがけっきょくPOP YOURSには行かないしYouTube配信も見なかった。私は配信を見ることができない。フジロックの配信もありがたいと思いながらほとんど見なかったし、コーチェラも毎年けっきょく見ないし、ダウ90000の公演だって、あれだけ話題になっていれば見てもよさそうなところを、見ない。だからもちろん今日はカニエのライブも見なかった。POP YOURSもカニエもXに流れてきた断片だけをちらちら見た。あとはNetflixで『九条の大罪』のドラマを見た。ムロツヨシや池田エライザの演技が大仰なのだけど、サブキャストに黒崎煌代や吉村界人や石川瑠華をもってきていることで締まっている。予想していたより人情っぽい話なんだと思った。

 同居人が朝から部屋を掃除し、すっきりした状態でレコードをかけていても、午前中から降り出した雨がそのまま午後まで続くとどうしたって眠くなる。同居人は頭が痛いといって寝転がってしまった。私も昼寝しようか外に行こうかという瀬戸際のところでOから電話があって、とりあえず散歩することにした。その頃ちょうど雨はひととき止んでいて、また降り出すまでの涼しさばかりの街に繰り出した。Oは会うたびに違うことをしているし違うひとと付き合ったり別れたりしているが、今回は本気だという、その感じが気持ちいい。またいってるよ、にならず、おお、がんばれ、と思える潔さがある。くねくね歩いて渋谷のほうまで行って、せっかくなので私はQBハウスでちょっと散髪し、Oはその間買い物していた。帰りには雨も風も強くなってきてしまったので、ちょっとタクシーに乗った。夕飯を買って帰宅し、明日は登山、ということになったので準備した。

 

4/5

 今日山に行く心づもりで昨日は早めに寝たのだったが、早朝、同居人より頭が痛いとの申し出があって泣く泣く中止となった。私より同居人のほうが登りたさは上なので、泣いていたのは同居人のほうだ。正直いえば私もちょっと頭が痛くて、山に行けないほどではないがしかし……、というところだったので、そのままぐずぐずと寝て、九時半に起きた。雨上がりだからなのかそれとも四月の日曜日だからなのか気温が上がって、浅く眠っては汗ばみ、汗ばんでは目を覚ましを繰り返してやはり徐々に鈍い痛みが増す頭だった。午前中は「水曜日のダウンタウン」や「映像の世紀バタフライエフェクト」を見て過ごした。水ダウではクールポコ。の小野さんの餅つき職人としての意外な矜持が見られてよかったのと、ドミノ倒しの企画もいいコンビばかりでうれしかった。

 そういえば『死へのイデオロギー』がエピローグだけを残して読みかけになっていたので最後まで読んだ。エピローグはほとんど筆者のエッセイのようなのだが、連合赤軍がじっさいにたどった山岳地帯のルートを車でなぞり、その壮絶さに想いを馳せているのがとても印象に残る。冬の夜に、何十キロにもなるであろう荷物を背負って、見つからないように険しいルートを選んで雪山の行軍を繰り返した若者たち。雪の積もる登山道をちょろっとだけ歩いて息を切らした私からしてみれば、イデオロギーだけでやりきるにはとほうもない山行で、想像すら及ばない。晴れきらない空模様に引きずられるように頭の重みもいまいち軽減されないまま、午後も昼寝しようとした、そのほんのり蒸し暑いまどろみのなかで、マンションのどこかで回る洗濯機を壁づたいに感じながら、私はふと、高校の暗くて湿気た旧校舎の、鈍く光る廊下の深緑を思い出した。旧校舎はその名のとおり古いのでふだん使うことはなかったが、文化祭の準備をするときに、私はなにかしらの係をやっていて、その説明が旧校舎の階段教室でおこなわれ、ふだん厳しい先生が学校の近所のサンドイッチ屋の名前を明らかに間違えて発声していてみんなでざわついた、その思い出があった。逆に、私の旧校舎の思い出といえばそれしかない。……という昼寝を経て、起きると、登山できなかったことで同居人はいまだに落ち込んでいて元気がなかったので、なにか食べたいものがあるか聞くとマッシュポテトというので、調べてみると自由が丘に「Potato Cream」という専門店があるみたいなので、そして私はちょうど外に出て歩きたい気分でもあったので、買いに行って、少しだけ空が晴れて黄色く焼けているのを見て帰宅した。同居人はまだ落ち込んでいたが買ってきたポテトをおいしいといっていた。

 夜はNetflixで『爆弾』を見て、思ったよりこぢんまりとした話だと思った。途中でGくんから電話がかかってきて、べつに用はないが帰り道でさびしいというので、私も同居人も付き合ってあげた。男性もさびしさを外に出すべき、とはふだんからの同居人の言だが、たしかにGくんほど素直に出せていると気持ちがいい。なぜ私に電話してきたかといえば、たぶん私たちなら暇しているからだろうと推測したからで、じっさいそうなのだが、たぶん暇してるだろうと思われることに不思議なうれしさもある。

 

4/6

 「書く」の中心にあるものが〝小説の文章〟だと世の中のことを捉えきれなくて、だからこそ〝日記の文章〟と行き来できるようになっていくべきかも、というようなことを大前粟生さんがツイートしていて、私にもけっこうわかる感覚だと思った。私のこの日記が〝小説の文章〟であるとまではいわないが、いわゆる〝日記の文章〟とも異なる、変な質感の文章になっているとは自覚していて、それはなぜかというとやっぱりはてなブログにアップすることを前提としているのと、もともと文章(小説)の練習だと思って書き始めたからだということが大きい。〝日記の文章〟ではないからこそたとえば政治のこととかを書こうとするときになんとなくぎくしゃくしてしまう感覚が(少なくとも書き手である私からしてみれば)あって、しかし〝日記の文章〟というのがどういうものだったっけ、とすぐにはわからないので、いっそのことネットのノリっぽく書き残しておくというのもひとつの手としてあるかもしれない。ネットのノリ、というのはようするにXのノリを拝借してくるということで、つまり私じしんの言葉ではないのだが、たとえば高市早苗のことを「高市ツイート担当相」と呼ぶようなことだ。タイムラインに流れてきた「川口・蕨の真実を伝える住民の会」の動画を見て、外国人労働者の妨害をするネトウヨとはじっさいこういうひとたちなのか、と思うことだ。社民党の代表選後の会見のひどさを見て、この前読んだ『日本共産党』で描かれていたかつての社会党の隆盛を思い出し、時間の流れを感じるようなことだ。

 もちろんXだけではよくないのだが、しかしけっきょく私がXを見てしまっているというのは否めない。日記とは日々のよしなしごとの集積であり、みずからの思考の出発点(というか経由点?)のようなものなので、Xを見ているなら見ているなりに日記に書いてみるべきなのかもしれない。しかしXなんてまともな言論の場ではないので取り合わないべきともいえる。……と私はさっきから何もいっていないに等しくて、〝日記の文章〟を書いてきていない弊害が出ているといえる。

 今日は朝から謎の発熱があり、発熱の他に自覚症状がなく、病院に行ってみたがまだ発熱から時間が経っていないということでインフルの検査もせずに帰ってきた。解熱剤だけ飲んで寝ていた。青木淳悟の連作短編集『学校の近くの家』の表題作を読んで、なんじゃこりゃ、と圧倒された。夜は『スポンジ・ボブ スポンジ・オン・ザ・ラン』を観た。スポンジ・ボブがかなりいい子で、泣きそうになってしまった。脈絡のなさが楽しくて、その極限が回転草に扮したキアヌ・リーヴスの登場であるわけだが、それが一時のギャグではなくそのままスポンジ・ボブたちについてきてくれたので私もうれしかった。キアヌ・リーヴスがずっとついてきてくれることほどの安心はない。

 

4/7

 『学校の近くの家』は小学校の正門から一分もしない家に住んでいる五年生の杉田一善(と書いて「かずよし」と読み、母親からは「ゼンちゃん」と呼ばれている)が主人公の小説で、一善はこれといった特殊能力のない、まあ強いていえば家と学校が近すぎるせいもあって控えめに育ったふつうの子なのだが、これが小説としてめちゃくちゃおもしろい。ふつうの子である一善のおもしろさを、謎の書き手が掬い上げている。やはり青木淳悟は他の作家とは違うところで「小説」をやっていてすごい。

 そもそも一善を主人公と呼んでいいかどうかも微妙なところだが、「一善にフォーカスされている」というくらいのことならいってもいいだろう。表題作「学校の近くの家」は連作の冒頭を飾るにふさわしく、いま五年生である一善のこれまでがダイジェスト的に描かれ、独立した短編としても読める。しかしダイジェストをダイジェストと思わせないよう語りの順番が(おそらく)周到に組まれている。五年生になった一善が、クラス替えによって一緒になったクラスメイトへ驚嘆の眼差しを向けるところから始まって、そのクラスメイトの上着の赤さが一善にとって新鮮だったというところから、小学校の教室の黒板の深緑や壁や天井の白さに話が移り、一善が低学年の頃の連続幼女誘拐殺人事件への言及があったかと思えば、一善小三のときに妹・三矢が生まれ、学校を早退して向かった病室に父親まで集まっていたのがひどく奇妙だったこととか、少し戻って三矢を妊娠しているときの母・光子のノートのこととか、……という感じで時系列も秩序も薄いまま文章が続いていく。「そういえば」感や「ところで」感もなしに話題が次々切り替わっていくのが不思議で、なんなら読んでいる最中には話題が変わっていることにも気づかない。なにがそれを可能にしているのかといえば、謎の書き手の書きぶりである、というほかない。そもそも文章のベースのトーンはおよそ小説とは思えないような、なんらかの報告書であるかのような口調なのであって、しかしその「小説とは思えない」文章と一善の内面描写が交互に現れることによって小説が駆動されてゆく。

「ちょうどここで、いま僕は、小学校生活を半分折り返したところなんだ……!」

 と、入学してからの四年間と、卒業するまでの二年間の長さを等しいと考え、その思いがしっかりと顔にまで表れていたとき、彼はきっとこれからの五、六年生時代を、二倍も充実したものにしようという意気込みだったにちがいない。

 それはただ新学期の初めに立てる目標や抱負というところだが、何より「希望に燃えて」いたのがよくわかる内容だった。なお、児童らは日頃からいくつかの場面において、火の扱いには各自十分に気をつけるよういわれている。火災時には校内放送で火元と避難経路を聞いたあと、すぐに教室の窓を閉める。また消化の際にはビーカーに蓋をし、アルコールランプ使用後は素早くキャップをかぶせる。それがたとえ一瞬の閃光だとしても、ほんのちょっとしたことで、希望はマグネシウムリボンのように激しく燃え上がるのだから。

(青木淳悟『学校の近くの家』収録「光子のヒミツ」より(p.49-50))

 ──と、ここまで露骨だと笑ってしまうが、ともあれこういう形で小説内のいたるところで一善の内面描写と報告書トーンの文章が交互する。それによって「そういえば」も「ところで」もなく話題が変わり、いつの間にか一善の学校生活全体が描出されている。(と書いてからあらためて本をパラパラとめくると、ふつうに空行が挿入されることによっても話題は転換していて、しかしそれはそれでなぜか自然に転換しているように思えるのですごい。それともたんに私が鈍感なのか。)

 YouTubeでJim Legxacy(ジム・レガシー)というイギリスのラッパーのビデオを見て、よかったので昨年のミックステープも聴いたりしたが、どうも既に有名な若手らしい。ラップを軸に多ジャンルをミックスしたような音楽性はアメリカでいうKevin AbstractやBROCKHAMPTONといった先達を思わせるし、もっと遡ればやっぱりBon Iverを起用したKanye Westの偉大さに突き当たる。Jim Legxacyの場合そこにドリルやアフロビートといったUKっぽさがあるのがいい。今年出た「idk idk」という新曲もポップだしトラックがイケている。日本語ラップに比べると外国のラップを聴いているときにはトラックにも耳が行きがち(逆にいうと日本語ラップを聴くときトラックへの評価が甘くなりがち)という面があるが、これは当たり前で、どうしたって外国のラップはリリックの意味を追いきれないのでそのぶんトラックへの評価が加味される。MIKEとEarl SweatshirtがSURF GANGというトラックメーカーのコレクティブ(?)と組んだアルバムも聴いて、これもやはりトラックに耳が行った。夜、同居人が会社の同僚との飲みから帰ってきてから、「映像の世紀バタフライエフェクト」の昭和天皇の回の後編を見た。「あ、そう」

 

4/8

 昨日書いた『学校の近くの家』の報告書のようなトーンの文章は、杉田一善のしゃべり言葉をも侵食するが、それによって小説がいっそう輝く。たとえば、一善が宮村真吾と寺西旅人と一緒に放課後に遠出しようとしているときの、

「県道の向こう側? へえ横断歩道上るんだ……あっ(ちがうちがう、横断歩道じゃなくてこれは──)」

 と、二人とももう歩道橋を上りかけていたが、宮村がつと立ち止まり、

「やっぱ信号から行く?」

「それだと宮が遠回りになんない?」

「いやそんなにー」

 そこで旅人も下りると、右手に向かってすぐの信号を目指す。

(青木淳悟『学校の近くの家』収録「光子のヒミツ」より(p.63))

 ──というくだりにおいて、一善のいい間違いをカッコ付きの内心の声として表記してしまえるのは報告書トーンだからこそたどり着いた記法だという気がするし、そのように説明過多ぎみに一善のいい間違いを表現することで、それを宮村真吾も寺西旅人も気に留めておらず、一善がいまいち二人の会話に馴染めていないことをも表現できてしまうのですごい。

 ……というようなことも考えながら私が遅くまで会社に残っている間、同居人は同僚とスポンジ・ボブの新作映画を観に行っていた。今回もやはり脈絡のない笑いどころ満載だったそうだが、それはスポンジ・ボブとパトリックが多動ぎみであることに由来するようにも思えて、じつはキャラクターと演出が強く結びついているのかもしれなかった。帰りにサーティワンを買って帰ってきてくれて、家で一緒に食べた。

 ストロークスの新曲が出ていて、かっこいい曲だと思ったし、歌声がオートチューンであることにたいし特段の違和感もなかったのだが、バンドの過去の曲を聴くとやはりジュリアン・カサブランカスというひとは生の声に魅力があるわけで、オートチューンなんて外してほしくなる。私はジュリアン・カサブランカスのキャリアに明るくないので、彼がどうしてオートチューンにハマっているのかがわからないのだが、ダフト・パンクの「インスタント・クラッシュ」における成功体験が彼にいまなお自信をもたらしているのか? それとも、むしろ肉声への不安があるのか? 後者だとすればそれはそれで悲哀があり、(こんなことをいうとその悲哀を消費するようであるが、しかし彼も悲哀を自覚してオートチューンを選択しているだろうから書くと)曲の味わいが増すようにも思える。そしてXに様々な言語圏からの発信が流れてくるのをそのまま流しぎみに読んでいると、いまのストロークスはジュリアン・カサブランカス含め複数のメンバーが離婚しファンにDMを送る情けない中年集団であるみたいで、それらの情報を真偽も確かめずに加味すると、さらに悲哀が増す。

 あと、家の近くにある一本の桜の木について今日の日記に書きたかったが、もう眠いので明日に回そうと思う。

 

4/9

 カンヌのラインナップが発表されて、やっぱりハマリュウが楽しみなわけだけど、深田監督も岨手監督もアツい。岨手監督は川上未映子の映画化か、と、企画が発表されたときにも驚いたはずなのだが、もう一度新鮮に驚く。まあ是枝監督はKore-edaの新作というだけでほとんどコンペ内定のようなものなのだろう、と思いつつ、楽しみではある。日本以外の監督ラインナップもかなりアツい。……というところから、それぞれの監督の過去作の予告編をYouTubeで見る流れに突入し、そこからサジェストでダルデンヌ兄弟の新作の予告編ももう一度見たところで、そもそもダルデンヌ兄弟って何歳なんだ、と思って調べると、なんとなくイメージしていたより若い。

 (昨日の私に指定されているので書くと、)私たちのアパートの近くの車道はT字路になっていて、アパートはTでいうところの上の横棒のさらに右上あたり、車道から少し引っ込んだところに建っており、私たちのアパートに繋がっているだけの小さい道が伸びているので、それもまた小さなT字路だともいえるわけで、ようするに大きなTの右上あたりに小さなTが逆向きでくっついているような構造になっているわけだが、その小さなTのことは置いておいて、大きなTのほうに話を戻すと、T字の車道によって分かたれているうちの右下の区画、つまりTの字を、こちらに向かって立ちながら両腕を広げているひとだとしたときに左腋にあたる場所には立派な桜の木が一本だけ立っている。その桜の木が毎年美しく花を咲かせるものだから、私たちはこの時期毎日花見をしているようなものだといえた。贔屓目なしにいってもその咲き方は立派で、道行く人びとがみな木のほうへスマホを向けていることからも証明されていた。

 桜の花というのは、一本一本の枝にたいして、咲きすぎているようにさえ思える。枝は花の重みでしなって見える。その姿にどうしたって生命力を感じ取らざるをえない。花が散って若葉があらわれる、その速さにも、はかなさより力強さを感じる。T字路の桜の木もすでに葉桜になっている。しかし夜には若葉の緑が闇にまぎれて、花の明るさばかりが浮かび上がるものだから、車道越しに遠目ではいまだ満開であるかのように見えるのだった。

 

4/10

 明日朝早いからもう寝る。

 

4/11

 二時半に起きて、三時からレンタカーを走らせ、神奈川県秦野市の大倉というところから塔ノ岳に登った。ネットの情報によれば麓の駐車場が五時頃にはいっぱいになってしまうとかで、気合を入れて早めに行ったところ四時過ぎに着いてしまい、することもないのでまだ薄暗い四時半から登り始めた。

検討します

 塔ノ岳という山の、私たちが登った大倉尾根というルートは、よく整備されてはいるのだが基本的にはずーっと登りが続く(逆に下山時にはずーっと下りが続く)ために通称「バカ尾根」と呼ばれているそうで、あまりに身も蓋もないネーミングに笑ってしまうが、じっさい登ってみるとたしかにバカな登り。ものすごく急、というわけでもないがずーっと登ることになる、なおかつよく整備され木の階段が続いていることが私にとってはかえって登りづらさを助長し、足をさかんに上げ下げし続けるうちに前腿をつりそうになってしまった。一度つりそうになった腿はその後もしつこくて、途中で何度も立ち止まり、しゃがんでみたり、行動食で塩分糖分を足してみたりしながら、騙し騙し登ることとなった。寝不足のせいもあったかもしれない。今日の登山者のなかでもおそらくかなりの先陣を切っていたであろう私と同居人は後続の手練れたちに次々抜かされ、ひいひいいいながらバカな尾根を進んだ。

 つりそうになる腿をかばいながらゆっくり進んだために会話の時間は増えて、私はまだ半分近くしか読んでいないにもかかわらず青木淳悟の『学校の近くの家』のすごさを同居人に力説し、力説しながらあらためてすごい!と感動した。またこれもゆっくり進んだためだろうが山の生き物をいくつも見つけることができた。私たちの目の前の木の枝をリスが登って、登りきってそのままどうするのかと見守っていると、隣の木の枝に器用に移るのだった。リスは隣の木の枝に移れることを最初から見越して登っているのか? それともアドリブなのか? はたまたじつは毎日通っている道だったりするのか? 「火の鳥」のモデルとされる美しい雄のヤマドリが登山道を横切る場にも居合わせた。リスとヤマドリ、それだけでももう登山の甲斐があったようなもので、私は途中の山荘で同居人から「足痛いならここで待ってる? あとは一人で山頂まで行って帰ってこようか?」といわれたときに少しぐらついたものだったが、バナナを食べて回復し、どうにかがんばって山頂まで着いた。

ヤマドリ

気高い

 バナナはすごい。また下山時にも同じように前腿が痛くなったが途中の山荘でコーラを買って飲んだことで痛みはかなり軽減され、コーラもすごいということがわかった。バナナとコーラはすごい。どちらも政治性をもった食べ物飲み物であるともいえるが、いまは単純に登山のお供としてすごいという話だ。激ネムなので寝る。……といいたいところだが、これでは登頂から下山までのパートがあまりに短すぎるし、下りてから夜までどうしたのかということも書けていないので、さすがに終われない。とはいえほんとに眠い。まあ明日にも日記は書ける。

 

4/12

 同居人の誕生日だったが、二人とも昨日の登山の筋肉痛がやばくて、今日は一日ほとんど座って過ごしていた。たまにトイレに行くとかで立ち上がろうとするたび一大プロジェクトのようになった。近所のスーパーに買い物に行くとなると、ほとんどロケット打ち上げに等しいかのような覚悟をもって臨む必要があった。そんなわけでせっかくの誕生日なのにたいしたこともできなかったが、それも承知のうえで昨日登山しているのでまあ仕方ないっちゃ仕方ない。昨日の登山についてはやっぱり昨日のうちに書いておいたほうがよかったと思っていて、今日になってからだと、べつにもう書かなくてもいいか、という気持ちになってしまうのだったが、ただこれは書いておくべきだということを挙げるならば昨日の暑さだろう。昨日は二十五度を超えたらしい。それってもう春の暖かさどころじゃなくなってませんか、というほどの暑さで、もちろん平地にいても暑かったのだろうが、登山中の日差しったら……

 四時半に登り始めて、やっと太陽が出てきたかという五時、六時くらいの段階で私はもう上半身を半袖Tシャツ一枚だけにしていた。首元や腕への容赦ない照りつけを日焼け止めでどうにか防ぐが、それだって汗で流される。四月でこれなのだったら八月なんてどうなってしまうのだろうか? いやいや、八月に登山なんてもってのほかだろう。それこそアルプスとか八ヶ岳とか、標高の高い山でもない限り……。しかし塔ノ岳で足がつりそうになっている私にはあまりに遠い話だ。これでもし私たちがもっと遅く登り始めていたらと考えるとおそろしい。日の出る前から登っていたおかげで、途中どんなに休憩しようが十時前には頂上に到着できたのであって、仮に日の出後の入山であったならば、途中で足がつるどころか熱中症になっていたのではなかろうか、と、下山中にすれ違うひとたちがいちようにつらそうな顔をしているのを見て実感したのだった。

 来た道をそのまま引き返す「ピストン」と呼ばれる登山の形式だとつまらないのではないかと思っていたが、そんなことはなくて、まずもちろん行きと帰りでは時間帯が違うので山はまったく違う表情を見せる。昨日のように暑いと、行きには青々と(あるいはもはや黒々と)見えた草が、帰りには日差しに照らされ、前日の雨もあってか蒸れた強烈なにおいを放っていて、それをいっぱいに吸い込んで、もう夏のにおいじゃん、と思う。見上げれば空には夏っぽい雲も浮かんでいる。そういう時間ごとの楽しさがピストンにはある。それに、一度通った道でも、しっかり覚えている箇所とまったく覚えていない箇所があるのもおもしろい。下山中に、こんな場所あったっけ、という同居人にたいし、ここらへんで青木淳悟の『学校の近くの家』の話をしてたよ、と返し、あ、そうだった、といわれた。

 それで今日は身体じゅうが痛いのでゆっくりしていて、「かりそめ天国」を見てげらげら笑ったり、YouTubeで登山関連の動画やコーチェラの配信を見た。何日か前の日記で、配信を見られない、ということを書いた私だったが、それはいいわけのようなもので、けっきょく興味があれば見る。ライブ配信を遡ったりXで検索したりして、やっぱりディジョンがすごかったのと、ジャスティン・ビーバーに感動させられた。あんなシンプルな、というか、彼の他には誰にもできないステージをやってのけるのがすごい。昨年の『SWAG』からの曲もあらためて素晴らしいのだが、やはりYouTubeを巨大スクリーン上で画面共有しながら、過去の自分の動画を気の向くまま再生して、いまの歌声を被せてみせるパフォーマンスのすごさ。いや、すごいかどうかはわからないが、変声期にまたがる既にじゅうぶん長いキャリアがYouTube上にすべて記録されている、よくも悪くもYouTubeの申し子のようにキャリアをスタートさせた彼だからこそできたライブだろう。YouTubeという公の場における、パーソナルな振り返り。それがもっとも効果をあらわすのは、やっぱりあのメイン・ステージの巨大スクリーンにおいてのことなのだろうと思うし、それをYouTubeで見ている画面のこちら側の私たち、ということも思う。

 

4/13

 昨日のジャスティン・ビーバーのステージを見て、意外にもこの前のOPNのライブを思い出しもした。どちらも、ライブの中盤に特別な仕掛けが設けられることによって、演者と観客との間にぐっと親密さが生まれる。その面からもよくデザインされたステージだった。

 OPNのライブにおける仕掛けについてもう一度書くのはたいへんなので自分の日記から引用すると──

(……)「バックルーム」をもほうふつとさせる乳白色の部屋。ここはどこなんだ? ──そんな問いへの答えが、ライブ中盤に驚くべき形で示される。あるとき、ブラウン管テレビと乳白色の部屋を映すカメラがそのまま後ろに下がり続けて、部屋の全体像が明らかになる。全体像、というか、部屋の壁はじつは半分ていどの高さまでしかなく、天井もない。その外にはZepp DiverCityの光景、つまりいまワンオートリックス・ポイント・ネヴァーがライブをし、フリーカ・テットが映像の操作をし、私たちが観客として立っている会場の光景が見えている。ブラウン管テレビも乳白色の部屋も、ステージのセット上に置かれたミニチュアであり、ライブの最初からフリーカ・テットが手元でカメラを操作して映していた本物の映像だったのだ。

(2026/4/2の日記より抜粋)

 ──CGなのだろうと思っていた映像が実写、しかもリアルタイムで上演されているものだった、というのはけっこうな衝撃を私にもたらした。しかしこの衝撃の核心は、実写であるということではなく、リアルタイムであることのほうにある。いま、この瞬間に、私たち観客と時を同じくして、ステージ上で映像が撮影されているのだということ。もちろん音楽のライブとはそもそもがリアルタイムの共有であるわけだが、まさか映像までいま作られているとは思わない。(特にOPNのように「いま」・「ここ」とはいっけん遠い感性をもつアーティストの場合、なおさら「いま」・「ここ」だとは思わない。)そんなまさかが目の前にある。どこかであらかじめ作られたCGではなく、いま、ステージ上で操作されているということが、観客と演者の距離を縮める。

 YouTubeの画面をスクリーンに投影し、思いつくまま(であるかのよう)に検索窓にタイプしてみせるのも、まるで狭い部屋でひとつのパソコンの画面を一緒に見ているかのような親密さをもたらす。あんなにスクリーンが巨大であるにもかかわらずそう感じさせるのは、やはりリアルタイムだったからだろうと思う。Wi-Fiが弱くて動画がうまく再生されずに焦らされるというアクシデントまでもが、よりリアルタイム感をもたらし、親密さを高める。しかしそうなると昨日のようなステージは昨日一回きりだからこそ感動的なのであって、来週のステージはどうするのだろうか、と、いらぬ心配もしたくなる。

 今日は私も同居人も引き続き足の筋肉痛に悩まされ、特に同居人は朝からほとんど泣きそうになりながら出社の準備をしていた。順調に電車に乗ったはいいものの、降りる際に集団に巻き込まれ、そのまま階段を急ぎめで下ることとなり、たいへん苦労したという。

 

4/14

 二週間くらい前にNOPEを買って、あー、これはたしかにあれっぽいかも、と感じつついまいち味を思い出せずにいたDr.ペッパーを、三日前にたまたまスーパーで見つけたものだから久しぶりに買って、飲んだはいいものの、今度はNOPEの味を忘れてしまっていて、せっかくなら比べようと思って今日またNOPEを買った。NOPEをリピートした、おそらく史上初の人間。……と僕が愚かな反復を繰り返している間に、桜が花を咲かせ、緑をもやし、空には今年最初の夏の雲が浮かんだ。

 じっさい桜の木の緑への変わりようはすさまじい。桜は花が咲き始めてから満開になるまでも速くて毎年驚かされるが、花以上に葉は速い。速すぎてオモロい。花が散ってオモロいのは桜くらいのものだ。

 NOPEとドクペだと、ドクペのほうが香りに奥行きがある。NOPEの香りは後からとってつけたような感じがする。NOPEが顔料染め、ドクペが染料染めのような雰囲気。しかしべつにNOPEもマズいわけではなくて、もっと恥ずかしくないパッケージだったら、たまに買うぶんにはいいかもしれない。いまの「ギルティ炭酸」という売り出し方はシンプルに合っていないし、照れる。いまのパッケージのままだと、がぶ飲みメロンソーダやドデカミンを買うよりも恥ずかしい。あるいはこれも慣れの問題なのか? 十年後にもNOPEがあのパッケージで売られていたら私は照れずに買えるようになっているのだろうか? 桜の若葉の速さにウケながら「ギルティ炭酸」をカゴに入れる中年男性になっているのだろうか?

 

4/15

 コーチェラきっかけでジャスティン・ビーバーのビデオをYouTubeで再生したりして、あらためて聴くと「Sorry」というのはほんとにいい曲で、私が密かに集めようと思っている「ほんとにいい曲」のリストに入れようと思った。「ほんとにいい曲」のリストの先頭は「Close To You」である。今日は同居人は午後休をとって上野で富嶽三十六景を見、その後お母さんと会ったりしていた。私は仕事していた。今週はわりあい忙しくて散歩もできていない。先週末の登山の筋肉痛も治まったので早く散歩したい。

 

4/16

 会社の昼休みにオフィスの周りをほんの少し歩くだけでも、草と土のにおいが、私のほうから吸い込もうとするまでもなく胸いっぱいに飛び込んでくる。このコンクリート・ジャングルにおいてさえもこのようなことになっているのだから、いわんやコンクリートでないジャングルをや、というところで(そうなるようにみずから誘導したようではあるが)先週末の塔ノ岳行きの、とりわけ下山の時間を思い出す。よく整備された登山道の両側から、まるで私たちに覆い被さるように強烈にすえた草のにおいが漂ってくる、その不思議な気持ちよさ。……というところまで先に書いていた私がそれを予期していたのかは定かではないが、夜に観た『ハムネット』もやはり草や森のにおい、のみならず雨のにおい、土のにおい、曇り空のにおいを強く喚起する映画で、さすがクロエ・ジャオ、ということなのかもしれないが、いかにも感覚派っぽく紡がれる物語にかなり感動させられた。ジェシー・バックリー演じる妻アグネスの「森から来た魔女」たるユニークな姿が中心に据えられ、メスカル・ポール(と呼ぶとマスカルポーネっぽいので私はふざけてそう呼んでいる)演じるシェイクスピアがあくまでふつうの夫ウィリアムであるかのように途中までは描かれる、そのユニークな妻とふつうの夫に最大の悲劇が訪れ、物語は明確に転調する。転調の前後で似たようなシーンが反復されたりするのはじつは感覚派というだけでない技巧でもある。

 夫ウィリアムのすごみが表に出てくるのはやっぱり終盤、映画内で『ハムレット』が上演される段においてのことであるが、ここでアグネスの「私を見て」が反復されるのもうまい。夫の作家としてのすごみと妻のユニークさが共に頂点に達し、彼らの心がふたたび通い合うきわめて個人的なシーンであるし、しかもじっさいこの『ハムレット』という演劇は現実に歴史的傑作として現在まで伝わってきているわけで、それがじつはこのようにして誕生したかもしれないという可能性と、作品のもつ普遍性に心が震える。アグネスのユニークな行動が観客全体にまで波及する、その様子にもまた感動させられるわけだが、私たちより後ろのほうの座席のひとがそこで大きく吹き出していて、おいおい、と思いつつも、思わず笑ってしまうのもまるでわからないわけではない、そういうユニークさをアグネスというひとはもっていた。同居人はずびずび泣いていた。映画館を出ると予想以上に寒かったのもあってか、鼻を赤くしていた。とにかく感情をもっていかれる映画で、疲れもした。

 

4/17

 昨日の『ハムネット』について付け加えるならば、ひとつはハムネット=ハムレットを演じたジャコビ・ジュープ&ノア・ジュープ兄弟の素晴らしさも書いておくべきだし、劇伴がいかにもふつうの──つまり悲しい場面では悲しげな曲調の、不穏な場面では不穏な曲調の、感動的な場面では感動的な曲調の──使われ方をしていて、しかも映像にのっぺりと貼りつけたようであったにもかかわらず、どういうわけかすんでのところでいなたさを回避しているように思えた、その不思議なバランスについても書いておくべきだが、もうひとつ、映画のクライマックスともいえるシーンにおいて劇場内で吹き出していたひとがいたことも書いておきたい。……と書いたところで昨日の日記を読み返すと、もう書いてあって愕然とした。もう書いたのか。しかし昨日も書こうかどうか迷ったことは事実で、今日もまた書こうとしていたのだからかなり印象的だったということなのだろう。印象的だったことは何度書いたっていい。コーチェラのジャスティン・ビーバーのパフォーマンスが今日もXに流れてきて、というのも私が毎回思わず見ているからだろうが、それでますます流れてきて、ますます見てしまう。さらなる攻勢をかけるかのごとくYouTubeのコーチェラのチャンネルには「DAISIES」の映像が公式にアップされ、音源と比べてMk.geeのギターの鳴りが鮮烈だし、ジャスティン・ビーバーの歌もうますぎるのでやはり何度も再生してしまう。カメラワークも最高で、最後に特別な演出も待っている。最高の映像だと思う。加えて先日のグラミー賞での衝撃的なパフォーマンスまでもがジャスティン・ビーバーのチャンネルにアップされ、そちらも同じく見る。たたみかけてくるなあ、と思う。プロモーションがうまい!

 今日は仕事のあと隣駅まで歩いてうどんを食べ、ぷらぷらしようとしていたら同居人から帰ってきたとの連絡があったので、合流して銭湯に行った。この木って桜だったよねえ、という木がすべて緑になっていて、いやいや、緑になったとて桜の木であることに変わりないよ、といいあう。

 

4/18

 ぎり暑くなく、風も強くない、完璧に気持ちのいい春の日で、大量に洗濯して大量に干した。こんな日に干してもろてあざます!とバスタオルがはためいた。午後にル・シネマでダルデンヌ兄弟の『そして彼女たちは』を観ようということになって、それまで、同居人が友だちにプレゼントするためのお香を買いに行ったり、モンベルにテントを買いに行ったりした。途中、巨大な大谷翔平の像が飾られているイベントに遭遇して、あまりにも作り物すぎてめちゃくちゃウケた。私は夜にも同じ場所を通った。夜にライトアップされている大谷翔平像はオモロさにますます磨きがかかる。友だちとご飯を食べていた同居人も、私が通ったのちにやはり像の近くを歩いたようで、離れたところから撮った写真がLINEで送られてき、ただでさえオモロいうえに、夜間のスマホのカメラのズーム機能の限界によって大谷像がひと昔前の生成AIのような質感になっていてすごかった。

 そもそも街のあちらこちらに現れる大谷翔平はどれもオモロい。さんざんコスられているファミマの「おむすびのおいしい国に生まれた」大谷はもちろん、お〜いお茶の「いつの日も僕のそばにはお茶がある」大谷もオモロいし、BOSS着こなしマンとしての大谷も、オーダーメイド枕マンとしての大谷もオモロい。そんな大谷オモロ烈伝の新たな一ページとして、今回、雪肌精の巨大大谷像が燦然と輝くこととなった。

 『そして彼女たちは』はいい映画だった。ダルデンヌ兄弟はリアル志向であるようでじつは演出もする作家なのだと、特に今作のようにいまの世相を反映してかむしろ明らかに希望をもたせるような作りになっている作品を見ると感じる。前作『トリとロキタ』はあまりにも苛酷な話だったと記憶していて、それはダルデンヌ兄弟の怒りを反映しているのだと思ったが、今作はもはや苛酷さを描くことが有効ではなくなっているとでもいうように光明がさして終わる。

 同居人が以前からいっているようにダルデンヌ兄弟の魅力といえば登場人物たちが生活する際の「動線」のよさであって、ときに器用に、ときに不器用に動き回る登場人物の身体そのものが作品のリアリティを補強する。それが今作においても光っていて、たとえば少女のひとりが母親からのビンタを手でブロックするシーン、あそこにはこれまでもそうしてきたのだろうと感じさせる自然な「動線」があったし、それが自然であるほどにつらいシーンでもある。またこれは「動線」とは異なるかもしれないが、赤ちゃんを乗せたベビーカーを押して街中を歩く少女が、道行くひとたちよりずっと小柄であること。そして別の少女が子に宛てる手紙において、これを読むときあなたは十八歳、ということはいまの私の三つ上で──、と書いたときの衝撃……

 映画が終わってから、私も同居人もそれぞれ髪を切り、同居人は友だちとご飯に行き、私はお腹が空いていたのでユーロスペースから下りたところの、フット後藤がいうところの「クレイジー交差点」の近くにあるベジ郎で食べた。私のあとに入ってきたおじさんが、店内で流れていた「TSUNAMI」にハモっていたかと思えば、サビでグッと音が上がるところで脱落し、そのままイヤホンをつけ、うつむいていたのでどうしたかと見ると居眠りしていた。注文したものが届いてもいっこうに起きる気配がない、そこで私は店を出てしまったのでその後おじさんが起きられたかどうかはわからない。そのまま大きく歩いて家の方向に戻り、最寄駅の近くで同居人を待ちながら青木淳悟の『学校の近くの家』を読み進め、読み終えた。すごい短編集だった。

 

4/19

 昨日モンベルで買ったテントをさっそくどこかで張ってみよう、しかし近くの公園はテントを設営してはならないみたいで、電車に乗って多摩川の向こうまで行く必要があった。神奈川側の河川敷には無料でテントが張れる。東京は高いビルばかり建ってテントのひとつも張れない。だから、ひとはしぜん神奈川側に集まる。同居人と十時頃に河川敷に着くとすでにテントがいくつか張られていた。近くにはフラッグ・フットボールをやっている子どもたちとそのコーチの大人たちがいた。ちょっと離れたところにはアメフトをやっている大人たちもいた。いま、アメフトがアツい。私もやはり若林の『青天』を読もうか、と思った。

 テントを張ってみるというだけではせっかく行く意味がないだろうということで、途中でパン屋に寄ってテイクアウトしてきたのと、何冊も本を持ってきていた。テントをうまく張れた喜びも手伝って、パンを食べる間くらいは中にいられたが、じきに暑くなってきて、耐えきれず、読書もそこそこにして十一時には撤収した。私たちより前に周囲のテントはもう撤収していた。たぶん早朝から張っていたひとたちだったのだろう。

 周りを見ればフラッグ・フットボールもアメフトも相変わらず盛り上がっていたし、親子連れも増えてきていた。

 二本の長い棒をチェーンで繋いだ、ものすごく長いヌンチャクのようなものを両手で持ったおじさんが、真ん中のチェーンの部分をバケツに浸してからふわっと高く上げると、ちょうどおじさんの後ろから風が吹いて、チェーンから無数のシャボン玉が飛び出して宙を舞う。シャボン玉の飛んだ先には女の子が仁王立ちで待ち構えているが、虹色に光る玉は簡単には捕まらない。多摩川一と称えられる鉄壁のディフェンスも、光っては消える魔球たちを前になすすべなしか? 前後左右に走り回りながら懸命に手を伸ばし続ける女の子に向かって、間を空けず第二、第三のシャボン玉群が放たれる。かろうじて捕まえられたと思った瞬間には弾けてなくなってしまう。しかし女の子にとってはそれが楽しい。女の子のそばにいる、おそらく親であろう大人たちも笑っている。

「なんかあれすごくね?」

 と男の子のかすれた声が、フラッグ・フットボールをやっていたほうから聞こえてくる。じっさいシャボン玉ヌンチャクおじさんはすごかった。

 私と同居人はちょっとテントを張って暑い思いをしただけで疲れて、帰ってうどんを食べてからぐったりしてしまった。しかし今日は昼過ぎから国会前でデモがあり、私はせっかくなら行ってみたいと思っていたので、どうにか奮起して向かった。地下鉄の霞ヶ関駅から地上に出た時点でコールや鳴り物の反響する音が響いてくる。とにかく暑いがひとが多い。ほんとに老若男女という感じでそれぞれに多様なプラカードや旗を掲げた参加者たちが、スピーチを聞いては拍手し、コールにあたってはいっせいに声を張り上げる、そこに私は正直軽い気持ちで参加したので、とりわけコールにはノリきれないところもあって、それを単純に私の気持ちの軽さに帰することもできるだろうが、加えて、私が強い言葉を発し慣れていないという身体性の問題もあると思う。そもそも大勢の人間がいっせいに強い言葉を発すること、敵意を剥き出しにすることにたいしてのビビりというか……、またたとえば今日のデモの交通整備をしてくれている警官たちにたいし敵意を向けることなど私にはできそうにない。けっきょく私はまだデモに参加する準備ができていない。生活に飼い慣らされている、と感じながら後方に立っていると新聞記者のひとに話しかけられてちょっと話したりした。それから神保町に行って、こちらもすごく混んでいたがブックフェスティバルの太田出版のところで町屋良平さんがサイン会をやっていたので思わず新刊『IDOL』を買った。「……いつも楽しく読ませていただいてます!」というような、よくわからないことをいってしまった。古本屋では大江の持っていない小説や『アメリカの鱒釣り』の単行本や『動いている庭』を買った。『アメリカの鱒釣り』の単行本はもともと持っていたのをSに貸しっぱなしになっていて、しかもこの前Sが、風呂に入りながら読んでたら落としちゃった、というようなことをいっており戻ってくる望みは薄いと思っていたところだったので、ちょうどよかった。

 帰りながらコーチェラの二週目のジャスティン・ビーバーを見たのと、ストロークスもちょっと見た。ストロークスもすごい。家に着いてからは日プを見進めたのと、やはりまたストロークスをちょっと見た。

 

4/20

(どういうわけかジャスティン・ビーバーの話ばかりしてしまっている)この一週間、私が毎日のように再生してウケている動画。一週目のコーチェラにおいて、YouTubeの画面をスクリーンに映しながら「ビューティー・アンド・ア・ビート」を流したジャスティン・ビーバーが、最初は一オクターブ下げてハモっていたのに、とつぜんギアを上げて、曲がリリースされた当時と同じ美しい歌声を響かせた瞬間、当時の思い出がいっきに脳内を駆け巡って涙が出てくる──、というのをネットミームっぽい映像をふんだんに用いながら表した三〇秒ほどの動画の後半、走馬灯のように次々あふれてくる「当時の思い出」が、私にはない思い出のはずなのにありすぎてウケてしまう。夕暮れのビーチ、みんなでひと晩じゅう飲み明かしたパーティー、ヤシの木、両腕にマジックペンで描いた「FOREVER YOUNG」の文字、友だちとビキニ姿でジャンプして作ったハート、夕暮れ、夕暮れ、夕暮れ。「リオ・デ・ジャネイロ」フィルターによって加工されたそれらの思い出すべてが懐かしい。いまの私たちにとって懐かしさの表象とはモノクロでもセピア色ではなく「リオ・デ・ジャネイロ」なのだと実感させられる。ないはずの思い出を強烈に喚起する「ビューティー・アンド・ア・ビート」という曲がこの一週間世界じゅうで再生されまくったというのも頷ける。私もミュージック・ビデオを見た。ジャスティン・ビーバーもニッキー・ミナージュも遠くまで来たものだ。

 青木淳悟の『学校の近くの家』も、ないはずの思い出を強烈に喚起する小説で、なにやら私まで小学校の近くの家に住んでいたような気がしてくる。この小説においての「リオ・デ・ジャネイロ」は、連作のあちこちでちょっとずつ形を変えながら何度も登場する、「家」についての描写そのものであろうと思う。

校舎横手の正門前には畑が広がり、校舎裏は広い自衛隊基地に隣接していて、どん詰まりの道が正門前から延びてグラウンドの向かいの道にぶつかるT字路を左に折れてすぐ右側の路地、畑と林に囲まれたたった三軒の並びの一軒がそれである。

(青木淳悟『学校の近くの家』収録「学校の近くの家」(p.14))

 児童は正門を出て左に進むと、さっそく校庭の向かい側の道とのT字路にぶつかる。全校児童、それも教職員とその車まで含めた関係者全員が、そこにぶつかってどちらか(多くは左)に曲がることになる。そこを左に曲がってすぐを右に入るのが、学校中で一番近くに住む杉田一善だった。

(「存在の父親」(p.104))

(……)学校の正門を出てフェンスと畑に挟まれた一本道を進んでいく。するとすぐ向かいの道とのT字路にぶつかり、それを左に折れてすぐをまた右に入った路地の二軒目の「杉田家」に帰る。

(「別の学校」(p.201))

 同じことを書いているようでも書くたび変わるというのは、もしかすると青木淳悟が「四十日と四十夜のメルヘン」でデビューした当時からの取り組みなのか?

 

4/21

 殺傷力・破壊力のある武器の輸出が緩和される。許した覚えがないんだが、と思う。もちろん私が許そうが許すまいが決定され進行してゆくのが政治であり間接民主制であるとわかってはいるが、それでも許してない。それに今回はそもそも国会での議論にもあがっていないわけで、間接民主制ですらないのでは? 閣議決定? そのうちものすごくアクロバティックな解釈によって、改憲も閣議決定するんじゃないかと怖い。

 というか、ものすごく閉じたところで物事を決めて、しかもその決定のリーダーが会見でまともに説明しようともせず、Xばかりやって共有したつもりになっているいまの状態を、ふつうに社会人として考えてやばいでしょ、とも思う。私なんかが「ふつうに社会人として」といっちゃってるのもちゃんちゃらおかしいが……

 家に帰ってからONICHAを買い忘れたことに気づいて、いやべつに買う必要なんてないのだが、せっかくだから飲みたいと思って、映画を観てから帰ってくる同居人にお願いして買ってきてもらった。「もう発売してるの?」、「今日からかな」、「本当に今日から?」、「うん みんなSNSにあげてたよ」、「みんなねえ」。念願かなって買ってきてもらい、飲んでみると、鶴瓶の麦茶のパックで作ったお茶を冷蔵庫に入れっぱなしにしたまま忘れて、三日経ってから飲んだときの味がする。広義の──つまり生き方としての──「ひとり暮らし」の味。めっちゃ雑にいえば、YouTubeの味、ということかもしれない。いずれにせよ、はっきりとした味があるのはいい。同居人は『Riceboy ライスボーイ』を観て、よかったといっていた。

 

4/22

 家から駅の方面に向かう道に沿って植えられている細い木々が、つい三日前くらいには白い花を満開に咲かせていて、「この木たちは毎年、桜に追従するかたちで花を咲かせるね」というようなことを同居人と話していたばかりなのに、今朝その前を通ったときにはさほど強くない風にたいして信じられない量の花びらを散らしていて、あっという間に花と葉の入れ替わりが達成されようとしているのだった。桜ばかりが注目されがちだが他の木々もとにかく速い。しかし桜と比べてこれらの木々の名前は知られていない。それともたんに私が知らないだけか。

 私の生活範囲にある桜の木はかんぜんな緑になっていて、あまりに緑すぎるため、ついこの前には満開に花を咲かせていたとはとても信じられない。

 

4/23

 毎日の生活に欠かせない最重要事項の一角をなしていながら、下品であるとのそしりを免れがたい話題であるところの排泄。しかしそのなかでも「前のほう」、あるいは「小さいほう」、──すなわち「しっこ」のほうであればわりあいポップに語れるのではないかという希望をもちながら、今日の私のささやかで滑稽な「しっこ」について日記にも書き残しておこうと思う。それはほんとうにささやかで、文章にしてしまえば、ともするといまこうやって書き連ねている前段よりも短く終わってしまうような「しっこ」なのだが、しかし大仰な書き出しを構えないことには、のちのち自分で日記を読み返した際にもびっくりしてしまいそう。だからこのように書いている。

 私のささやかで滑稽な「しっこ」は、夕方、私がまだ会社で仕事をしているときに起きた。起きた、というか、出た、というか……。今日やるべき項目のおおよそを終わらせ、満足感のなか特に意味もなく立ち上がった私が、立ち上がってしまった以上なにかしなくてはという使命感(あるいは周りで働いている同僚たちへの、ある種の目くばせ)から向かったのはトイレ。オートロックのドアを出てあたたかな電球が一定間隔で灯された廊下を進んでいく。するとすぐ右側からいちだん細い別の廊下がぶつかってきてT字路ができ、それを右に折れて進んだ二つ目の入り口が男性用トイレである。

 ぼんやりあたたかく光る廊下に比べて、トイレはよく晴れた屋外と見まがうほど明るい。この明るさが、排泄という開放的・解放的な運動と結びついている。その明るいトイレの、右側には五つのドアが並んでいる。ドアを閉めると個室はいっきに暗くなる。排泄の開放性・解放性に反するようなその暗さが、「大きいほう」をするときにどう作用するのか、私は専門家ではないからわからない。あるいは谷崎潤一郎流にいえば暗いほうがいいということなのかもしれない。知らない。知らないし、とにかくそのとき私は左側に五台並んだ小便器のほうに用があった。美しい乳白色に輝く、五つの宇宙船。それらがその時間たまたますべて空いていた。

 選び放題、ではあっても、入り口からもっとも近い左端の一台を選びがちな私だった。例にならって左の小便器の前に構え、ズボンの前ファスナーを下ろし、……と詳細な説明なんてしなくてもいいところを、もうほとんど書いてしまったが、ようするにチンを出したところで、私はふと視線を上げ、ちょうど顔の前にペットボトル、それも飲みかけのペットボトルが置かれっぱなしになっていることに気づいた。「しっこ」をするときにちょっとした手荷物を置いておけるよう、というデザイナーのやさしさに端を発するものであろう、小便器が設置された壁は途中で二〇センチほど奥にくぼんでいて、ささやかな棚を私たちに提供する。それとも、壁をくぼませることで空間全体により多くの光をもたらそうという開放的・解放的な美意識ゆえか。いずれにせよその幅二〇センチほどの棚に飲みかけのペットボトルが置かれていて、上からの明かりに煌々と照らされていたのだった。私は思った。これを置き忘れたひとが、もし私の「しっこ」中に取りに戻ってきたらさぞかし気まずかろう。さいわい私はまだ「しっこ」前だった。だから私はそのまま右にスライドして、隣の小便器に移動した。

 スライドしてから思ったのだったが、私はスライドするときにチンをしまうことなく、すなわちフルチンの状態でいた。もちろん、男性用小便器というのは使用者にフルチンを強要するものである。私的とはいいがたい、開放的・解放的な明るさをもった空間でフルチンになる。考えてみれば異様な行いが、毎日毎秒全国で繰り広げられている。この異様さを異様と感じさせないのが小便器の存在であり、「小便器の前でのみチンを出していい」というのが、いうなれば私たちと小便器との約束なのだった。その約束を私は破ったのだった。小便器から小便器へとスライドする、時間でいえばわずか一秒、歩数でいってもせいぜい二歩か三歩ほどの間とはいえ、私は小便器の前でないところでチンを開放・解放してしまったのだった。しかしこのようにして約束を破ったことが、私に罪の意識をもたらすことはなかった。私はみずからのフルチンでのスライドをひどく滑稽なものだと感じ、スライドした先の小便器に向かってようやく「しっこ」をしながら、思わずにやにやしてしまった。私の「しっこ」の間、けっきょくペットボトルを誰も取りに戻ってこなかったことも、滑稽さを強調した。

 これが私のささやかで滑稽な「しっこ」の顛末である。これを私は必ずや日記に書こうと決意して、じっさいこのように書いてきたのだったが、「しっこ」はともかくとして、チンのことにもふれざるをえなかったのは予想外だった。「しっこ」についてはポップに語れても、チンについて私はまだポップになれない。文章からは私の赤面が見てとれるだろうし、のちのち自分で読み返したときの私に、あるいはこれを読んでくれるひとがいたとしてそのひとにも申し訳ない。また、日記とはべつに、同居人にこの話を口頭で話したら、キモッといわれた。いつも端っこでやるんだけどさあ──、というくだりにおいて、「端っこ」と「おしっこ」をかけてる?というツッコミが入り、私はそんなつもりはなかったのでかなりウケてしまった。

 

4/24

 昨年の十一月にふと思い立って「私」として書くようになった日記の、「私」性がもつ功罪のどちらともを見てとれるのが昨日の日記だといえた。ある意味では「私」としてここまで書いてきた日記のひとつの到達点でもあった。

 「私」として書くことによって、「僕」のときには書けなかったような領域にまで深く潜っていけることがあるということを、私はこの五ヶ月実感していた。それは「私」という人称がもつ情けなさ、滑稽さというか、あるいは気張らなさ、と前向きにいいかえようか……、ふだんの生活で「僕」として暮らしている私が日記においてだけは「私」になることによって、ふだんの「僕」が日記の「私」を俯瞰するようなおかしさが生まれ、逆にいうと「僕」と「私」を切り離すような感覚で日記を書くからこそ、「僕」のまま書いていたときのガードが崩れ、気張らない「私」が文章に現れる。いうなれば「私」という人称によって私じしんの情けなさ、滑稽さが引き出される。昨日だって「私」として書いたからこそ「しっこ」が導き出されたのであって、同じことを「僕」は書けない。(いや、昨日がたまたま「しっこ」という事象だっただけで、ほんとうは「私」によって日記上に露わになる感情について言及したかったのだが、しかし「しっこ」も悪い例ではあるまい。)

 そうしたよさがあるいっぽうで、「私」として書く日記には、私がふだん「私」として暮らしていないからこそ、フィクションが混ざりえる。もちろんいまの私は基本的に日記のなかには嘘を書かないようにしているつもりだが、私がいくら防ごうが、「私」がフィクションを呼びこんでしまう。昨日の日記がわかりやすい。昨日私は「ぼんやりあたたかく光る廊下に比べて、トイレはよく晴れた屋外と見まがうほど明るい。」と書いたが、今日あらためてトイレに行ったところ昨日のこの記述は嘘だと判明した。いうほど明るくない。ましてや「屋外と見まがう」だなんてありえない。日常生活における「僕」と日記における「私」が切り離されているから、「私」の筆がのったときにフィクションが湧き出てきてしまう。しかし「僕」にはそれを止めようがない。

 そもそも私は昨日「下品であるとのそしりを免れがたい話題であるところの排泄」と自分で書いておきながら、こんな一般論のように書いていいのか、と疑問をもたずにはいられなかった。「私」にとっては下品で、日記に書かないような事柄だとしても、たとえば排泄について悩みを抱えているひとや病気をもっているひとは、私が天気について書くように、排泄について日記に書くのではないか、と。「私」の大雑把な書きぶりを、「僕」が心配しながら、しかし日記を書くのは「私」なので止められずにいた。「私」のいい分はこうだ──いや、これは私の日記なんだから、あくまで私にとっては、というスタンスで書いているよ。じっさい僕にもそのいい分はわからなくはない。──と書いているこれも欺瞞なのであって、仮に「僕」が「私」の書きぶりをほんとうに心配しているのならいくらでも止められる。ほんとうは「僕」と「私」は切り離されてなどいないからだ。けっきょくさっきから書いていることも「私」が呼びこんだフィクションなのだった。(と、このようにオチをつけるトーンで終わらせようとするのも、どこか演技づいた「私」らしい仕草だといえた。)

 ……終わる前に今日のことも書かなくては。私は今日も仕事だった。同居人は朝から頭が痛いといって会社を休んだ。午後、Frikoの新しいアルバムが出ていることに気づいて同居人にLINEしたら、「わーい」というスタンプが返ってきた。夜はさまぁ〜ずのYouTubeにせいやがゲストで来ている回を見て、ゲラゲラ笑った。

 

4/25

 BABYWOODROSEが千葉雄喜とアルバムを共作していてすごい。というか早い。二人ともいい声をしていて相性がいいし、相互にラップのよさを引き出し合っているような気がする。かけ合いのスタイルもいい。──と、私はラップに詳しくなくて、なんにもいっていないようなことしか書けない。

 BABYWOODROSEのラップといえばリズムを外したような、自由律っぽいフロウが魅力なわけだが、じつはきちんと韻が踏まれていたりするわけで、韻を踏んだうえで即興っぽくタイミングを外すというこの技はじつは相当のリズム感がないとできないのではないかとも思う。

 Frikoのアルバムも出た。インディーズのマナーに則った、……というのはなんだか意地が悪い表現のようだが、相変わらず曲がよくて素晴らしい。セカンドにしてファーストより爆音を鳴らしてくるのがおもしろい。こんなんライブだったら大合唱になって泣いてまうやろ、という曲の連続。Sam Gendel & Sam Wilkes、Gia Margaret、mu tateのアルバムも流した。mu tateというひとのアルバムは先週のリリースで、何度も聴いている。OPNっぽさを感じさせる音像だが、OPNよりぐっと個人的なことを描いている印象を受ける(なにせアルバムタイトルが「life of mu」だ)。

 今日は仕事だったので夕方まで会社にいて、帰ってからうどんを食べに出た。それからはサンマルクで町屋良平の『IDOL』を、せっかくサインもいただいたことだし、と思いながら他の積ん読を押しのけて先に読み始めると、町屋さんがボーイズグループのオタクなのであろうことが滲み出ていておもしろい。町屋良平らしく身体や演技(パフォーマンス)が中心に据えられていつつ、エンタメとしても書かれていてなんとなく新鮮でもある。それとこの前図書館で借りた高橋源一郎の『小説教室』を、あまりノれないなあ、と感じながら寝る前なんかにチビチビ読み進めていて、ノれなくはあるのだがたとえば一昨日や昨日の日記の書きぶりはこの本に影響されたものだといえるかもしれなくて、そういった意味ではこの本が私に作用している。朝から高校の先輩と金時山に登りに行き、そのまま実家にも寄ってきた同居人がやがてへとへとで帰ってきて、私もサンマルクを出た。

 

4/26

 家で昼過ぎまで町屋良平の『IDOL』を読み進めて、夕方まではプレステ5で『デス・ストランディング』をプレイしようと試みて、夕方からは外に出て同居人が整体に行っている間にやはり『IDOL』を読み進め、読み終わり、同居人と合流してからはケン・ローチの『オールド・オーク』を観に行く、という一日だった。プレステ5は昨日同居人が実家からポータル(リモートプレイヤー)という機器だけを持って帰ってきたので、ためしにやってみようということで以前から気になっていた『デススト』をダウンロードしたが、どうやらポータルは、本体のほうで誰かが遊んでいる間は使えないらしい。そのせいでめちゃくちゃ序盤しか進められなかった。

 『IDOL』はアイドル(あるいはダンス&ボーカルグループ)についての小説でありながら、タイムスリップ、過去改変、AIと創作(とりわけ小説)を巡るSFでもあり、音楽がかかってパフォーマンスをしている間だけ輝く身体の話でもあり、「努力」と「天才」の話でもあり、また小説の手ざわりとしてはまぎれもなく町屋良平文体でありながらエンタメにもなっていて、おもしろくて昨日今日でザァッと読みきってしまった。私もそれほど本気ではないにしてもこれまでいくつかの「サバ番」を見てき、かつ本家のグループに入れなかったひとたちのグループ活動もチョロっと見知りした身だったので、作中の8koBrights(エコーブライツ)、通称エコブラのメンバーたちの生を想像しながら胸を熱くもする。またメンバーたちのビジュを現実のアイドルのひとたちと重ね合わせながら脳内に思い描いたりもして、レンはなにわ男子の道枝くんみたいな……、アリスとキルトはINIの後藤威尊みたいな感じかな……、というなかで、ヤスは名前のせいかどうしてもSad Kid Yazが浮かぶ。

 この前の国会前でのデモが主催者発表によれば三万六千人で、ちょうど同じ週末に開催されていたBTSの東京ドームのライブが二日間で十一万人動員だったと聞いて、やっぱりアイドル産業はすごい、それともBTSだからすごいのか、と思いながら、私は冗談で、それってたとえばBTSの誰かがライブ中に「戦争反対!」って叫んで観客みんなが歓声で迎えたら十一万人のデモってことになったりしないかな、というようなことを考え、じっさい同居人に向かって口に出してみたのだったが、そのときはあまり会話として盛り上がらなかったし、私じしんも変な冗談だったと反省したのだった、しかし反省しながらも私がほんとうにいいたいこともその冗談から遠からず、という気持ちでいて、だからこそ今回の『IDOL』終盤の展開に私のいいたいことも重なるような気がしてグッときた。……それにしても会話が魅力的な小説だった。

 『オールド・オーク』はおおむね予告編からわかっていたような話ではあったが、やはりケン・ローチからのメッセージに満ちていて、それが希望なのか諦念なのかどうかもじつはわからない。希望は何度だってつぶされるが、それでもやっていくしかない。しかし実はこれは二〇二三年の映画、かつ舞台設定は二〇一六年になっているのであって、翻っていまこの二〇二六年の世界情勢を思うとどうしても映画内の展開が非現実に見えてしまうというか、メッセージありきの話に寄りすぎているようにも思うので難しい。タイミングの問題、でもあるが、明確に、いまだからこその映画でもある。世界、ということを思わずに、個人個人、ひととひとどうしの話であると考えれば、いい瞬間がいくつもある映画だった。アラン・ギロディの『ノーバディーズ・ヒーロー』のことを思い出した。あの映画はほんとうによかった。

 

4/27

 夕方に簡単に雨が上がったそのあとに、オフィスの窓の外に大きな虹が見えて、ちょうど定時過ぎくらいだったこともあってみんな窓際に集まって、

「おお」

「すごい」

「きれい」

「何色あるかな」

「上のほうは消えちゃってるかな」

「どこかの国は八色なんだってね」

「でかいっすね」

「いや、ここからだと見えるかも」

「二色の国もあるってね」

「根元がはっきり見えるな」

 と、じっさい虹は根元まではっきり見えて、私たちのオフィスから見える根元の向こう側にもビルが建っているのだった。ここまで根元がはっきり見えるなんてこと、私の覚えている限りではなかった。あのビルのひとたち、窓の外がとんでもない色になってるんじゃないですか? えー、そうかも! しかし調べてみると、まあとうぜんなのだが、虹は鑑賞者がどこから見ているかによってその位置を変える。あそこのビルからはまた違う位置に虹が見える。

「ねえ、四十二度なんだって」

「え?」

「虹が見える角度。四十二度。太陽と、空気中の水滴と、私たちの目が四十二度で結ばれる同心円上に虹は見えるんだって」

 ということは、また違うどこかで虹を見ているひとにとっては私たちのいるオフィスビルが虹の根元になっているということかもしれませんね……、そういい残して私は今日は早めに帰った。夜はNくんとMと一緒にタコスを食べる予定だったが、Mが遅れたので先にNくんと餃子の居酒屋に入り、彼の近況を聞いたのち、Mも合流して、タコス屋で食べて、レゲトンが大音量でかかる店内でそのまま雑談を続けて、最後には将来誰がお札になりそうかという話題でひとしきり盛り上がってから解散した。「坂本龍馬は何も成し遂げてないインフルエンサーに過ぎないからダメだね」などと、偉人たちにたいしてかなりナメた口をきいてしまった。けっきょくピカチュウやドラえもんあたりがいいのかもしれない。帰ってからちょっとすると友だちと飲んでいた同居人も帰ってきて、一緒に『デススト』を少しだけやった。いろんな設定用語が飛び交う会話と、感情をはかりかねるノーマン・リーダスの表情がツボだった。

 

4/28

 激ネムのため寝る。

 

4/29

 昨日の夜はHさんとKくんと食べた。昔の記憶ってある?というくだりにおいて、私に小学校の頃の記憶があまりないのは中学受験の勉強によって多感な時期の脳が焼き尽くされてしまったからだという説を開陳したところ、同じく中学受験をしたKくんにはちゃんと小学生のときの記憶があるということで、説、立証ならず、だった。そこから小学生のときに読んでいた本を思い出し懐かしむ流れになって、そうなるとやはり筆頭は『ダレン・シャン』と『デルトラクエスト』である。クレプスリー、ミスター・デス・タイニー、バンパイア、バンパニーズ、リトル・ピープル、……と『ダレン・シャン』にまつわる単語で思い出せるものをみんなで列挙してはゲラゲラ笑ったが、『デルトラクエスト』については「あの、表紙がキラキラの」しか情報が出せなかった。なんだっけか、あの第一巻の、甲冑が描かれてる表紙の副題……、「沼地」か「湿地」じゃなかったっけ……、と思い出そうとしながらけっきょくなにも出てこない。帰宅してから検索したら、第一巻のタイトルは「沈黙の森」だった。そりゃ、第一巻が「沼地」だか「湿地」だか、どちらにせよとにかくジメジメしていたら、いくら表紙がキラキラしていようが流行らないだろう。

 Hさんは『ダレン・シャン』を映画でしか知らないらしく、「渡辺謙の頭が長かった」という情報だけを教えてくれた。

 二軒目は前から気になっていたミュージックバーに行ったら、音響がよく音量もでかくてよかった。リクエストもできたので、同居人の好きなボン・イヴェールをかけてもらった。爆音で聞けてよかったが、やっぱり来日してほしいという思いが強まる。解散して帰宅して入浴してから同居人はあっという間に寝た。私も激ネムだったのでじきに寝た。で、今日は同居人が午後から出かけるというので午前中はゆっくり起きて、私は午後はユーロスペースのブレッソン特集に行こうかと思ったが、ホームページを見てみたらもうチケットが残りわずかだったので今日は諦めることにした。曇っていたのもあって私も同居人も眠さがとれず、なんならちょっとだるいかもしれないという感じだったので、同居人も午後の予定をなくし、家にこもって昼寝したり『デススト』を進めたりしているうち、あっという間に夜になった。

 『デススト』はおもしろい。めっちゃコロナ禍のゲームだ、と思う。目に見えない災厄が空気中に漂い、人びとが都市に閉じこもった世界。「接触恐怖症」をもちながら「配達人」として生きる主人公。フィールド上のところどころに他のプレイヤーたちが立てた旗があったり、落とし物が落ちていたりして、誰かがいた痕跡がある。痕跡だけがあって、ひとはいない。

 なおかつ、バリ山行のゲームでもある。主人公サムは次から次へと配達依頼を「受注」し、道なき道を進む。最初に地図を開いて、地形を見ながら行けそうなルートを線で結び、基本的にはそれに沿って進みながら、じっさいの状況に応じて変更したり迂回したりする。それはまさしくバリエーションルートでの山行である。荷物が重ければそのぶんだけ身体はバランスを崩しやすく、急斜面では両足で踏ん張る必要がある。ただオープンワールドというだけでなく、リアルな身体性をゲームのなかに再現しようとする試み。小島秀夫って有名俳優と会ってはただ写真を撮ってるだけのひとじゃなくて、やっぱりちゃんとすごいひとなんだね、と再認識した。YouTubeで『デススト』の実況をしているひとの動画も見てみようということで、兎田ぺこらというVTuberのひとの配信を見てみたらおもしろくて、やっぱりプロのひとはすごいんだね、と思った。

 

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 TBSラジオの「文化系トークラジオ Life」という、どうやらけっこう長寿の、しかも私も関心のありそうなことをテーマにしゃべっている番組があるらしくて、その最新回が「なぜ私たちはこんなに日記が好きなのか」というテーマで、出演しました、ということを福尾匠さんがツイートしていたのと、番組ページを見てみたらいぬのせなか座の山本浩貴さんも出演していたので聞いてみた。日記/日誌、公開/非公開、完成/未完成、というような軸が次々とあらわれ、語られ、私も少なからず日記に関心をもっている身なのでおもしろい。

 私が書いているのは、Googleドキュメント上に、公開を前提として書いている日記であって、紙の上に手書きで、公開しないつもりで書いている日記と比べると、書かれる内容はしぜん異なってくるし、「純度」のようなものが落ちているともいえる。「純度」? しかしやっぱり日記にかんしては、手書きかつ非公開のもののほうが「純」であるという価値判断はいまだ根強いだろうし、じっさい私もそのように思っている節はある。というか端的にいって手書きのほうがかっこいいし、公開しないほうがかっこいい。私がGoogleドキュメント上に公開を前提として書いているのは、そのほうが続けられると思っているからに過ぎない。やむをえず、といういい方もできる……

 しかし番組中で福尾さんがいっていたことと近いところでいえば、Googleドキュメント上に公開を前提として書いているからこそ書けることというのだってあるだろうし、なにをもって「純」とするかというのはあまり意味のない議論かもしれない。もっといえば、どんなふうに書いたって、日記上には書き手の生があらわれる。手書きだろうがフリック入力だろうが、「私」だろうが「僕」だろうが、私の日記であることに違いはない。だから好きに書くのがよろしい。(……というふうにやや無理やりにでも論を進めることで、Googleドキュメント上に公開を前提として書く日記を「私」が正当化しようとしている。そのことに僕は気づいている。しかし僕はそれを止めない。なぜなら「私」の前には「僕」がそのように日記を書いてきたからだ。)

 その「文化系トークラジオ Life」を聞きながら、仕事のあと新宿のモンベルまで行って、同居人が会社の同僚にプレゼントしたいという日傘を代わりに買った。帰ってきてから家でも少し仕事しようとしたが、必要なデータを自分のローカルに落とすのを忘れていた。それでもできなくはないがなあ……、と思っているうちに同居人が帰ってきた。