6/1
昨日の『スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー』も嵐のラストライブもそれぞれのファンからしてみればいろいろ物申したいところのあるものだったようだが、なにも物申したいことが浮かばないミーハーマンたる私なんかが見ても楽しいと思えるのは、まさしく両者がポップカルチャーである所以だといえる。連綿と続く文脈のほんの一部分だけでも楽しめるというすごさ。やはり時代を築いた作品でありグループである。いっぽうで文脈こそがポップカルチャーだとも思う。チャーリーXCXの新しいアルバムのジャケットも、少し前でいえばドレイクのアルバムも、めちゃくちゃ文脈ゲー、と思う。
文脈とは歴史のことでもあるが、それでいうと、大田昌秀の『醜い日本人』をちびちびと読み進めていて、あちこち引用したくなるくらい、そもそも沖縄について知らないことばかりで唖然とする。唖然とする? 私じしんにたいしてである……。夜は『銀河の一票』を見た。
6/2
「明日、雨やばいんすかね?」
「やばいっぽいよね」
「今日の夜から降るのかな?」
「うーん、まだ遠くのビルの明かりが見えるから降ってなさそう」
「早めに帰ったほうがいいかな」
「早めに帰ったほうがいいだろうね」
……というようなことを話しながらだらだらと会社に残ってしまったあと、おそるおそる帰路についたところ、さいわいそんなに降っていなかった。
6/3
傘をさすのが下手すぎて、会社に行くだけでびちょびちょになってしまった。関係先のひとと電話して、え、出社してるんですか、といわれ、いえいえ、そちらこそ、といった。在宅での仕事となった同居人から、ときおり雑談めいたLINEが送られてきた。雨は夕方には上がって、夕焼けも見えた。夜には頭が痛くなった。
6/4
『Backrooms』が大ヒットしているのはすごい。どんな感じなんでしょうか。『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』を読んだときに、ケイン・パーソンズが作ったという動画をYouTubeで見て、おもしろいし「リミナル」な美学に満ちていると思ったけれど、正直モンスターはいなくていいんじゃないかとも感じたのだった。モンスターもなにもいなくて、恐怖と焦りに震えた自分の声だけが、まるでブラウン管の内側みたいにぼんやり反響する広大な空間。そのほうが美しい気がする。しかしそれは私の勝手な解釈なのであって、若いケイン・パーソンズがやりたいようにやって、それが大ヒットしているのならそれでいい。それと、河合優実が朝ドラをやるという。クドカン脚本というところで期待と不安が入り混じるが、河合先生がやってくれるならそれでいい。夜は「ヤーレンズのオールナイトニッポン0」を聞きながら歩いた。私は出紫哲也(でぐしてつや)の「多事争論」のコーナーが好きなのだが、そういえば先月観た『太陽(ティダ)の運命』のなかに筑紫哲也の映像が使われていたのを思い出して、出井さんぜんぜん似てないじゃん、といまさらウケた。コーヒー豆を買って、大田昌秀の『醜い日本人』を読み進めた。
6/5
夜、なんとなく日高屋で食べたいと思って同居人と一緒に行った。隣の隣の席の男性たちが大きな声で「年寄りの白米へのこだわりってやばいからな〜」としゃべっていて、ちょっとおもしろかったが、同居人にいわせれば、あれは周りの女性に聞かせるためのアピールとしての大声であり、共学の中高なんかではよく見られる光景らしい。たしかに、男性たちが「年寄りの白米へのこだわり」についてしゃべっているときに、ちょうど、私たちと男性たちの間に女性二人が着席したのだった。しかし同居人の説が正しいとして、「年寄りの白米へのこだわり」が女性へのアピールになるだろうか? いや、なると思っているのだ。国会での高市の答弁だって、きっとあれで通じると思っているのだ。(……と無理やり繋げたが、繋げ方としてはかなり不恰好だ。)
帰宅してからは、この前カミナリのYouTubeをきっかけに冒頭だけ見てそのままになっていた『ゼイリブ』を最後まで見た。きわめて直球の資本主義・物質主義批判であり、陰謀論の風味もするSFで、低予算ならではのケレン味にも満ちていて楽しかったが、どうしてもいまの現実社会と照合できてしまう批評性を意図せず備えてしまっている感じがあり、じっさい劇中で「支配が完了する」年として「2025年」が名指しされることも相まって、おバカのつもりでは見られない映画だと思った。資本主義に飼い慣らされ従属させられている労働者が目覚めるという展開からは『ファイト・クラブ』を想起した。
それにしても主人公の様子がずっとおかしくて、最初はこの主人公こそが地球外生命体なのかと思っていたほどだが、どうやらただたんに様子がおかしいだけのようだった。様子のおかしさは、世界の真実が見えるサングラスをかけてから加速する。社会に潜む「ゼイ(they)」がなんなのかも探求しようとせず、対話もなしに見境なく殺そうとする姿は、陰謀論者による銃乱射のようでもあっておそろしい。そこまで真面目に見る映画ではないだろうと思いつつも、やはりどうしたって現実と奇妙にリンクしてしまう。……といろいろ思うが、けっきょくいちばん印象に残ったのは、主人公と工事現場の仲間であるフランクが、「サングラスをかけて世界の真実を見ろ」「ぜったいにかけたくない」という軸で取っ組み合いの喧嘩をする長尺のシーンであった。あまりにしつこく、あまりに長かった。(しかし身体のぶつかり合いを通じて目覚めるという描写は、それこそ『ファイト・クラブ』的だ。)
6/6
昨日の夜に、今日の夜の『シラート』を予約した。で、今日の日中は同居人が中高の先輩や同級生と遊びに行くというが、私は特に予定がないので、どこを歩こうかと考えていたところ、自由が丘にある緑が丘図書館──どうやらそのあたり一帯には丘がそうとう連なっているようだ──に行って『テッド・ラッソ 破天荒コーチがゆく』に登場した『五次元世界のぼうけん』という児童文学を借りてきてほしいとリクエストがあったため、予定をお与えいただき感謝いたします、といった調子で電車に乗って向かった。(同居人がどうして『テッド・ラッソ 破天荒コーチがゆく』に登場した『五次元世界のぼうけん』を読みたがっているのかといえば、まずそもそも私たちがここ一週間ほど朝ご飯を食べるときに『テッド・ラッソ 破天荒コーチがゆく』を見ているからであって、見ているといっても一回に五分、十分ていどしか進んでいないので日記に書くほどでもないと思って書かずにいたのだが、今日になってこうして思わぬかたちで言及することとなった。このように日記で言及するほどでない生活のありようが他にもあるだろうか? たとえばボディソープが切れかかっているのに毎日買うのを忘れていることとか? いま書いたことで忘れずに買えるだろうか?)
『五次元世界のぼうけん』は優れた児童文学を表彰するニューベリー賞を一九六二年に受賞し、二十一世紀になってから二度も映画化されているようなのだが、一九六五年に和訳されていらい、日本では絶版となっているようだった。借りるにあたってさわりだけ読んだところ、はじめ「マーガレット」と呼称されていた主人公が次の行では「メグ」になっていて、そうか、メグはマーガレットの愛称なのか、といまさらながら知れた。そのまませっかくだから図書館で読書でもしようと思って、空いている閲覧席に座ったところ、ちょうど近くに日本の近現代文学「お」の段があって、前々から読みたかった『大江健三郎全小説3』のうちの「セヴンティーン」と「政治少年死す──セヴンティーン第二部」を読むことができた。ぼんやりと左翼を自認し「自瀆」中毒者として十七歳を迎えた少年が、みずからの臆病さや弱い男性性を覆い隠すように右翼活動にのめりこみ、やがて「インポテ」の極右活動家として革新政党の指導者を短刀で刺し殺し、最後には独房で射精しながら自死する。圧倒的。あまりに直截的でもあり、その点で中期以降の広大な想像力に満ちた作品群と感触は大きく異なるが、十七歳の性的衝動や強迫観念のようなものをギュッと凝縮したような文章表現の迫力に気圧される。
図書館を出る頃にはもう昼で、自由が丘の駅周りに無数に存在する店のどこかで食べるつもりだったのだが、そこでどういうわけか現実チャンネル(=天竜川ナコン)っぽくやろうと思い立ち、「本当の店」を見つけられるまで歩きつづけることにした。そのつもりで歩くと、「日本じゃやっぱりひばりの上はいないよ、サブちゃんもうまいけど、やっぱりひばりには敵わねえな」ということを大声で二回繰り返しているおじいさんがいることに気づけたりして、いかにも平板なおしゃれさをまとっていた自由が丘という街がいっきに「本当のこと」に満ちるようでもあった。そのまま本当っぽい方向に進むと、淨眞寺(浄真寺)という大きな寺に出る。三つのお堂に九体の阿弥陀仏像が祀られている「九品仏」で有名だという、そのすべてが現存していることにも感動する。二〇三四年までの計画で一体ずつ修繕が進んでいるそうで、そういう時間の流れ方を壮大だと感じた。九品仏駅を通り過ぎてそのまま歩くと、環八にぶつかる。その先は多摩川だが、その土手までは行かず、住宅街を流れる小川に沿って進むとやがて等々力渓谷に着く。ひとの流れになかば逆行するように歩く。途中、川が高架の下に差しかかるところがあって、巨大な人工物である高架と、穏やかな谷とのコントラストが美しく、ここまで歩いてよかった、と思う。けっきょく等々力駅前のすき家で食べた。店員さんどうしが恋バナで盛り上がっている、本当の店だった。

夕方に同居人が帰ってきて、外のベンチで涼しい空気を浴びてから『シラート』を観に行った。
『シラート』は、あらゆる目的や意味が解体され、反復するレイヴビートの向こうに消えてゆく不条理劇だといえた。いや、そもそも登場人物たちは戦争という巨大な物語・目的・意味から逃げつづけているようでもあるのだが、ある者にとっては逃避行、ある者にとっては捜索の旅として、そのじつ明確な意味や目的を備えている砂漠行きが、やがて無意味で不条理な現実にぶつかり、飲み込まれる。圧倒的に無意味で不条理な現実のなかで、それでも前に進む以外ない、という悲劇性が、レイヴという文化のもつ(目的や意味からの)解放性に繋がっているということなのか。映画全体がレイヴということなのか。
衝撃的な映画であるようで、いかにもきちんと映画文法にのっとった緊張感が冒頭から続く。なにか起きそうないかにもフリっぽい演出が、しかしスカされつづけ、代わりに思いもよらないかたち・タイミングで悲劇が起きる。ナコン流にいえばこれも「本当のこと」っぽいのかもしれないが、とにかく忘れがたいシーンが多く、それだけですごい映画だ。砂漠をひた走る車の姿には『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を思わせるところもあるが、あっちが意味に満ち溢れている映画であるのにたいし、『シラート』は圧倒的な無意味へと突き進んでゆくような映画なので、真逆だともいえる。疲れきって劇場を後にした。
6/7
……あるいは『シラート』は、戦争という巨大な物語(かつ巨大な無意味)からはどこまで行っても逃れられない、という話でもあるかも、と思った。
今日は朝から曇り、昼過ぎからは雨の予報で、かつ梅雨入りも発表されたので、出かける気分でもなく、午前中は『テッド・ラッソ』をちょびちょび見ながらゆっくりしていたが、お昼頃に同居人からレンタカーで山岡家とか行く?という提案があって、そう、山岡家といえば私が以前から行ってみたいと思っていたところなので、そりゃいいね、ということで出発した。いちばん近そうな店舗が越谷レイクタウン店だったので、帰りに草加健康センターというスーパー銭湯にも寄れるだろうという計画で向かったが、いざ到着してみるとわりと並んでいて、三、四十分待ってようやく入店し、ついに食べてみると、まあ、なるほどね、(いやけっしてまずくはない、濃くてわかりやすい味だが、ほんとに想定内の味だ、いや、むしろ私が謎に高く設定していた期待値からすると、ほんとに、なるほどね、としかいいようのない味だ、しかしそもそも午前中をだらだらと過ごした日曜日に、疲れてもいない身体で食べるようなものではないのかもしれない、それよりは、私たちが並んでいるときに自転車でやってきた部活帰りらしき高校生たち、気持ちのいい汗を流して腹を空かせていたであろう彼らにこそ食べる権利があったものなのかもしれない、しかし彼らは、長く弛緩しきった待機列を見て、マジかー、という顔をしながら自転車で走り去ってしまった……、)という味だったので、なんとなく草加健康センターに行く気もなくなり、そのまままたレンタカーを運転して帰宅した。車内ではロスタムのアルバムやフリコのアルバムを流して、やはりいい、と思った。
夜は豚汁を作って食べた。自分で作った豚汁のほうが今日の私にとってはよほどおいしい。また『テッド・ラッソ』を少し見、『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』という、沖縄人民党の瀬長亀次郎についてのドキュメンタリーを途中まで見た。
6/8
昨日の夜中に
『シラート』では太陽のオーバーレイが多用されていたのも印象的だった。凄まじい緊張感に満ちたシーンにおいて、スクリーンに太陽が浮かび上がることで場面転換が知らされ、なにはともあれ無事に次に進んでよかった、と安堵させられる。まるでビートが消えて安らぎが訪れるブレイクダウンのような……
とポストした。
今日の夕方に
一面の曇り空というのは、天球と僕たちとの間に、のっぺり平たく、掴みどころのない分厚いグミが一枚差し込まれている状態だともいえる。晴れていればほんらい西の空ばかりが明るい夕暮れの光を、分厚いグミが吸収して、東の空にまで行き渡らせ、均等に夜を届ける。
とポストした。(と、いくら眠いからといって自分のXのポストをそのまま貼りつけるかたちで日記を書いたことにするのは邪道のようだが、千葉雅也の『オーバーヒート』でも語り手がツイートする様子が小説内にそのまま描かれていたことを思い出しながら、これはこれでありなのではないかと自分で自分の日記を擁護したくなる。)
今日は夜に同居人と外を散歩しながら《無許可バナナ》の話をしたりした。私たちが《無許可バナナ》のことを語り継いでいかなければならない。《無許可バナナ》みたいな小説を書きたいと思う。散歩しているときに、インドに住む友だちからバイクで事故ったというLINEが来て(しかもLINEグループ内でもうひとりの友だちが、インドにもスイカバーがあった、といって日本のスイカバーより少しネチョッとしていそうなインドスイカバーの写真を送ってきてからの流れだったのが奇妙でもあり、事故にあった友だちの動揺をなおさら感じさせもしたのだったが)、心配した。
6/9
なにか日記に書こうと思っていたことがあったのだが忘れてしまった。大田昌秀の『醜い日本人』を読み終わった。沖縄が日本に復帰する数年前に書かれた本だが、ここに挙げられている諸問題──とりわけ米軍基地の問題、そして本土の日本人たちの沖縄にたいする無意識下の(あるいは公然の)差別──はいまなお解決しておらず、したがって現代的な本として読めてしまう。そのことに驚く。私が読んだのは二〇〇〇年に岩波現代文庫から復刊された新版であったが、この新版を出すにあたり、もともと沖縄・沖縄人の「自由への道」について書いてあったという終章を、大田昌秀みずからまったく異なる内容で書き直したという。その書き直したという終章「醜さの根源」において、大田は薩摩藩による琉球侵略にまで時をさかのぼり、数百年にわたって琉球/沖縄が支配され差別されてきたのだという証拠をつきつける。いまなお解決を見ない諸問題の根源が十七世紀にあるのだと喝破する、その書きぶりには、県知事を務めた大田昌秀じしんの実感も乗っかって説得力がある。
夜、同居人が会社の同僚と『マスターズ・オブ・ユニバース』を観てから帰ってきて、一緒に『銀河の一票』の最新話を見た。
6/10
ここ数日《もっちゅりん》というものをよく聞く気がしていて、どうもミスドの新作であるようなのだが、どこも売り切れ続出とのことで、じっさい私が昨日の夜に駅前のミスドを見に行ったときにも店先に「本日分のもっちゅりんは完売しました」と貼り紙がしてあったほどだった、となるとなおさら気になってしまう私であって、同居人にも「もっちゅりんって知ってる?」と聞いたところ、同居人は甘いものにそんなに興味がないため、流行ってるのは知っているがそこまで興味がなかったようで、しかしそうなると私ひとりますます気になる。こういうかたちで気になると食べてみるまで止まらない私だったから(じっさい以前カヌレが流行ったときには食べてみたすぎて夢に見たほどだった、そのことを聞いた同居人が私を哀れんで翌日に買って帰ってきてくれたのだった)、同居人が策を講じてくれて、ちょうど今日、同居人のお母さんが都内まで来るというので地元のミスドで買ってきてもらうよう頼んでくれた。同居人は軽い気持ちでお願いしたのだが、どうやら《もっちゅりん》は郊外でも人気爆発しているらしく、お母さんは開店前から並んで、そのまま一時間も待ってようやく買えたという。非常に申し訳ないことをした。で、そのお母さんに買っていただいた三種類の《もっちゅりん》を夜に食べて、私としてはいちご、きなこ、みたらしの順においしかったが、しかし全体の味としては正直いって、んー、まあ、なるほどね、くらいのものだった。カヌレのときも、なるほどね、だったし、直近でいうと山岡家も、なるほどね、だった。たいていの流行りものは、なるほどね、なのだ。もちろんまずくはない。しかし、おお、とはならない。とはいえ気になっていたものを食べられてよかったし、お母さんにはご苦労をおかけしたので、LINEで感謝を伝えた。
6/11
アメフトをやっていたしオードリーのラジオも聞いているのになんとなく『青天』を読まずにいるうちに直木賞にノミネートされてしまった。いま買うとダサい、という自意識がはたらく。しかし私はきっと買うだろう、数日前にはGくんからも「『青天』読んだ?」とLINEがあったばかりだった、その『青天』もいいが、青木淳悟の『四十日と四十夜のメルヘン』を含む初期作の復刊が七月になされるということで、そっちもかなり楽しみである。『四十日と四十夜のメルヘン』は私も保坂和志と町屋良平による言及の影響で読んだわけだが、昨年読んだ本のなかで『同時代ゲーム』に次いで興奮させられた本だった、それが今回も青木淳悟みずからによる改稿を経て出されるという。そもそも発表時と単行本と文庫本でもそれぞれ少しずつ異なっているという噂だったけれど、これほど複数の改稿が繰り返されることがおもしろい。あと講談社学芸文庫から出される大江の『文学ノート 付=15篇』も楽しみ。……みたいな話はもうよくて、生活のことを書こうと思ったが、今日はさして書くことがなかった。一日じゅう曇っていたか。それなりに働いてから会社を出て、大きめに一周歩いてから帰った。Mall Boyzの『Mall Tape 3』とYHWH Nailgunの『Magazine』とテレビ大陸音頭の『VS Tairiku Ondo』を聴いて、それとJames Blakeの『Overgrown』もここ数日久しぶりに聴いている。あ、それとカミナリの記録映像のヘビを探しに行く回を見た。とてもいい動画だった。カミナリの記録映像の地元回にはハズレがない。
6/12
昨日の夜からどういうわけか腰が痛くて、今日も背中をまっすぐ立てることができずほんのり前傾で歩いた。しかし夜に『Michael/マイケル』を観て少しマシになったかもしれない。『Michael/マイケル』は映画としては正直そこまでおもしろくないとも思ったし、全体的に演出や撮影が平板だとも感じたが、有名な曲がたくさん流れるのでどうしたって楽しくならざるをえない。
実の甥が完璧に演じてみせているというところにまず神秘性・神話性があるわけだが、それだけでなく、そもそも映画全体が神話として作られているように見える。真偽不明のさまざまな噂にまみれた伝説のポップスターについての伝記映画を──しかも親族や弁護士がプロデュース側に入りながら──作るにあたって、ひとつのわかりやすい神話が採用されている。つまりマイケル・ジャクソンは純粋・繊細・無垢な天才で、その父ジョセフ・ジャクソンは父権主義的・支配的な悪役である。母キャサリンはマイケルの理解者としてかろうじて人格をもつが、兄弟姉妹にはほとんど人格的な深みがない。しかしそれでいいのかもしれない、これは神話だから。神話性を強調するように、ライブのシーンにおいては楽曲や歌声が聞こえにくくなるほど観客の歓声が大きく響き、マイケル(=ステージに舞い降りた神)に熱狂する観客の姿が繰り返し映される。
おもしろかったところ;マイケルの弁護士ジョン・ブランカが初登場時から誰かに似ていると思ったのだが、時間が経つにつれマイルズ・テラーが演じているのだとわかり、わかってからはどんどんマイルズ・テラーにしか見えなくなっていったところ。じっさい時間が経つにつれヘアメイクも薄くなって素のマイルズ・テラーが出てきていたように見えたのは、気のせいではないはず。
オリヴィア・ロドリゴのアルバムを一回聴いて、いい曲も多くてよさそうなアルバムだと思ったが、昨日YHWH Nailgunの十曲十一分という衝撃のアルバムを聴いたせいで、ロドリゴのほうは「ちゃんとしたアルバムすぎる」と感じてしまった。ロドリゴはなにも悪くないのに……。もちろん時間をおいてまた聴けばあらためていいアルバムだと思えるはずだ。
6/13
timeleszのアリーナツアー「We're timelesz LIVE TOUR 2026 episode 2 MOMENTUM」のチケットを同居人が二枚当てたのが一ヶ月か二ヶ月前で、せっかくだからと私も行かせてもらえることとなった、その公演日が今日だった。南船橋のLaLa arena TOKYO-BAYというところに行った。私はアイドルのライブというものが初めてだった。以前もtimeleszのライブに行ったことのある同居人がグッズのうちわを大きめに振ってしまって後列のギャルたちに怒られた、という話を聞いていたので、私もビビりながら行ったが、周りの席のひとたちも怒鳴ってきそうな雰囲気ではなかったので安心した。それにしてもすごいことに、timelesz含めSTARTOのアイドルのライブはチケットに価格差を設けておらず、座席の位置も一律抽選、かつ入場時までわからないという。だから入場してから座席の密売買が行われているらしいとも聞いていたが、今日はそんな光景も見当たらなくて、なんだ平和じゃないか、と思いながら開演時間を迎えると、私たちの真後ろのひとたちがにわかに手を叩きながら
「タイムレス!
(チャッチャッ)
タイムレス!
(チャッチャッ)
タイムレス!」
とコールをはじめて、「さ、さ、声出して!」と隣のひとにも話しかけている様子なのである。これには緊張した。私もやったほうがいいか……、と手だけ軽く叩いているうちに、手拍子とコールのムーヴメントは場内全体へと伝播してゆき、最初の緊張は、この種のムーヴメントの発生地点に遭遇できたことへの興奮に変わった。時には起こせよムーヴメント、ということか。そしてIMAXの上映前に流れているようなビートとともに、ほら、ここからも、というナレーションのかかりそうなかたちでメンバーがひとりひとり登場してライブが始まった。
有名な曲しか知らなくても、常に歌詞が前方のモニターに表示されるのでわかりやすく、かつ歌っているひとを順繰りに抜いてゆくカメラワークも完成されていて、まずもって初心者にもやさしいライブだった。カメラワークだけでなく照明、舞台装置……、それらすべてが、事務所が積み上げてきた歴史、技術、場数を感じさせる。そしてその伝統に支えられてパフォーマンスするtimeleszの面々ひとりひとりが生で見るとかっこいいし、歌もちゃんとうまいと思える。しかしそれ以上に、アリーナ全体を包む圧倒的なホーム感に驚かされる。パフォーマンス中のメンバーどうしの絡みがカメラに抜かれれば「キャー」だし、モニターに映ったメンバーがサングラスをクイっと下げれば「キャー」なのだ。昨日の『Michael/マイケル』の劇中で観客が放つ「キャー」も今日のライブで客席から放たれた「キャー」も同じ「キャー」であり違う「キャー」である。やっぱり(あの映画における)マイケルは神のようなもので、timeleszはアイドルなのだ。MCのつたなさも魅力になる。メンバーどうしの絡みすべてがかっこよく、かわいく、おもしろい。現場はあたたかい。アンチはネットにしかいない。
(たとえば視聴者参加型のオーディション番組というのはどうしたってそれぞれのメンバーのファンとアンチが攻撃しあうことになり不健全だと私は思っているし、視聴者参加ではないもののtimeleszの『タイプロ』だってグループにとってこれ以上ないプロモーションであると同時にメンバーたちにとってはそうとう傷を負わせる番組だったのではないかと思うが、今日のライブのような一体感を経ると、長い目で見れば功罪の「功」だけが残ってゆくのではないかとも想像する。いや、しかしアンチがネットにしかいないといっても、ネットも実生活の一部であり社会の一部なのであって、その意味で「罪」のほうも拭いがたく残るわけか……)
それぞれよかったところも書いておこうか。原;原を見ると元気が出る。それってけっこう大きいことだと思う。わりとメロディーラインも任されていて、グループの大きな柱の一本になっていると感じる。菊池;復帰明けということもあってか可憐さも備えていた。ネットでたまに見る昔のナスのヘタみたいな妙な髪型の菊池、あれの完成形が今日のビジュアルだったように思う。やっぱり場を回すのもうまい。勝利;まず顔がかっこいい、とやはり思う。八人体制で圧倒的センター感は減ったのかもしれないが「革命のDancin' night」のような曲において圧倒的な説得力を発揮する。聡ちゃん;ワイルドでかわいい、という、男性アイドル性の塊のような魅力がある。寺西;やはりボーカルの安定感が頼もしい。ときおりミュージカル仕込みのテイストが出てきて少し笑ってしまう。橋本将生;高く澄んだ声の伸びやかさに魅力がある。個人的に驚くほど安定感があった。バラエティ的な立ち振る舞いもいい。シュウト;かわいい。シノ;伸ばした髪を後ろで結っていてかっこよかった。とてもがんばっていて好感がもてる。低い声が魅力なのではないかとも思う。……ライブの本編が終わり、アンコールまでの時間にも後列のひとたちがまた
「タイムレス!
(チャッチャッ)
タイムレス!
(チャッチャッ)
タイムレス!」
のムーヴメントを起こしていてすごかった。今度は私もわりと自然にノレた。
終わって都内に戻るともう四時だった。駅前のラーメン屋で食べて帰宅し、ゆっくり過ごして、夜は『テッド・ラッソ』のシーズン1を最後まで見た。私も同居人もテッド・ラッソというひとにすっかり魅了されている。
6/14
あと昨日は本屋で大江の『文学ノート 付=15篇』と若林の『青天』を買った。で、今日は一日じゅう曇ってそこまで気温は高くなかったはずなのだが、私も同居人もなぜかずっと暑さを感じていて、出かける気にもならなかったから家で『青天』を読んだりテレビを見たり昼寝したりした。あと同居人がさいきん好きだというキウェテル・イジョフォーが出ているからという理由で『ヴェノム:ザ・ラストダンス』を見た。全体的に終わらせにいっている感じが強い映画で、最後、トム・ハーディが遠くを見ながら「いつまでも忘れないよ、相棒」とつぶやくので、コミカルな展開のフリだと思ったらそのまま暗転してエンドロールに入ったので、少し茫然としてからかなりウケてしまった。まあなにも考えずに見られたのがよかったのと、偶然にも『テッド・ラッソ』のキーリーとダニ・ロハスが出てきてうれしかった。『青天』を途中まで読みながら、若林が書いてそうすぎる、と思った。
6/15
朝、サッカーを見ようと思って五時に起きたが、眠いし、なんだかお腹が張っていたし、そもそもそんなに見る気にならないしでそうそうに見るのをやめて寝た。同居人のことも起こしてしまい悪いことをした。寝ようとしたが、お腹の張りがとれずに何度もトイレに行ってけっきょく眠いまま会社に行った。
この週末はどうにも腰に微妙な痛みがあってほとんど散歩せずだったのだが、昨日ドラッグストアでフェイタスを買って貼ったところ、痛みが軽減されたようだったから、今日は仕事のあとに雨が降っていなかったらちょっと歩こうというつもりでいたところ、夕方にはオフィスの窓から遠くのビル群がよく見えて、よく見えるということは雨が降っていないということだから、仕事を早めに切り上げて会社を出た。雨上がりのにおいがした。ミント系、と思った。北の空だけが半ば晴れていた。汗をかかないていどにゆっくり歩いて、しかしまだ腰に変な感じがあるのがもどかしく、途中でLUUPの自転車を借りてぐるっと一周して帰った。風が無限に気持ちよくて、初めて通る道もあって、個人的に神回となった。自転車のサドルに蓄えられていた雨水が滲み出てズボンを濡らした。実家にいるとき、雨上がりにはビニール袋をサドルに被せていたことを思い出した。で、そのビニール袋を玄関の靴箱の取っ手にかけておくのだ。
同居人は友だちとご飯を食べて帰ってきた。占いが好きだという友だちが同居人や私のことを占ってくれたという。名前と誕生日で宿命が決まる占いによれば、私には革命の星があり、ミン・ヒジンと同じだという。できることなら私もNewJeansを完全体で復活させたい……。夜は『銀河の一票』を見た。それぞれの人物にそれぞれの来し方があるのだと感じさせる厚みが素晴らしい。Gくんから電話がかかってきて近況を話した。私はもっちゅりんを食べたといった。
6/16
昨日の夕方には西の空が曇っていたから夕焼けを見ることができなかったわけだが、今日は晴れていたから、こんなにも紫になるか、と驚かされるほどの夕焼けを見た。夜に下高井戸シネマで金子由里奈監督の『外と』と『眠る虫』を観た。早めに下高井戸に行ったら駅前で金子監督がビラを配っていて、受け取りながら、このあと観るつもりです、と伝えた。少ししたら同居人も来て、映画が始まるまで大阪王将で食べて過ごした。餃子定食を待っている間に緊急地震速報が鳴ってびっくりした。続いて揺れがあって、やはりびっくりした。
『外と』という二〇分の短編が最新作ということになるのだろう。かなりおもしろかった。日記⇄映画制作⇄散歩を軽やかに行き来する短編。どこからどこまでが映画なんだろうね、という日記のような会話が、いつのまにか劇映画的なあり方に接続したかと思えば、その映画じたいの制作風景が映される。そのように映画の内と外を自由に出入りしながら、しかしそもそもここでいう「内」とか「外」ってどこ?という気持ちにもさせられる。その軽やかさを作っているのが金子監督みずからによる編集のリズムなのであって、ここに固有の文体といえるようなものがあるように思った。この二〇分だけでも来てよかったと思った。併映の『眠る虫』はおよそ一時間の中編で、これもやはり、一緒のバスに居合わせたひとたちを観察するようなところから始まる物語が日記的であり、散歩者ならではの起点だという気がした。そういう意味で二つの映画は同じ興味関心に貫かれているといえる。個人的には、物語や劇映画というものをより鮮やかに解体しているような『外と』を先に観たことで、『眠る虫』のほうを物語的すぎると感じてしまうこととなったが、いい二本立てだった。
同居人が「Smooth Criminal」の曲とダンスのそれぞれを気に入っていながら、それらが同一の曲のものであると結びつけていなかったようで、今日帰ってからYouTubeを見て、ついに両者が結びつき、感動していた。
6/17
「ゴラッソ」ってスペイン語のゴール(gol)に強調を示す接尾辞(-azo)がついた言葉らしいので、日本語でいうところの「すゴール」だ。
6/18
今週の月曜日、私が五時に目覚ましをかけ、同居人のことも起こしてサッカーを見はじめたにもかかわらず、すぐに飽きて寝た、その話を同居人が会社で愚痴ったときに「試合っていまもまだやってるんですか?」と聞いてきたほどサッカーのことをなにも知らない同僚が、今日は「ハットトリックってなんですか?」と聞いてきたという。そこまで知らないとかっこいい。とはいえ、いわれてみれば同居人も私もハットトリックのことをよく知らない。マジシャンっぽすぎる言葉だ。「いろんなところからシュートを繰り出してひとりで三点もとる様子が、ハットを使ったマジックのように鮮やかに見えることから、そう呼ばれるようになった」と予想する。いや、それだと一個目すぎるか。「足だけでなく手も使っているとしか説明のつかないほど鮮やかに点をとる様子が、もともとハットの内側に鳩がいた(=反則をしている)としか思えないほど鮮やかなハットのマジックのようであることから、そう呼ばれるようになった」のほうがいいか。いずれにせよキーワードは「鮮やか」であろう。
その同僚と、同居人ともうひとりで今日ジンギスカンを食べる予定だったが、そのもうひとりのひとがお休みだったので、弟くんを招集したという。呼べば来る弟くんのフッ軽さ(五七五)。私はそのときまだ会社にいた。残って仕事をしながら「シットとシッポ」の最新回、突発的な東浩紀ゲスト回を聞いた。おもしろかった。東浩紀がやや乱暴ぎみな、まさしくこの突発性にふさわしいしゃべり方、ぶっこみ方をするのだが、なにも考えていないわけではないのも伝わってきて、それがすごくチャーミングだと思った。しゃべりにおいても文章においても、ギアチェンジ(変速)を意識したほうがいいよね、という話がおもしろかったが、そんな感じの話ではなかったかもしれない。ポッドキャストの内容というのはあとから抽出できない。ポッドキャストは聞いている時間の間にしか存在しない。

6/19
夜、弟ととんかつを食べに行った。前から行ってみたいと思っていた目黒のとんきというとんかつ屋に行って、一階の巨大なコの字型のカウンターも迫力があり惹かれたのだったが、上にテーブルありますよ、といわれるがまま上った二階にもまた、古きよき食堂を思わせる広々とした空間が広がっていてたいへん素晴らしい。もりもり食べようと思って、二人でヒレかつ定食とロースかつ定食をひとつずつ、それと串かつというのも注文してみたら、私たちの想像していた串かつとは異なり、豚と長ねぎを交互に並べたものに衣をつけて揚げたようなかたちになってい、これが予想外においしくて感動した。
丸皿の端っこにたっぷりからしがついている。そのたっぷり具合から、さほど辛くないタイプのからしなのだろうと勝手に予想した弟が、箸で思いきりすくい、とんかつのひと切れにのせて口に入れ、悶絶していた。澄まし汁のような雰囲気の豚汁もよかった。
地元からサッカーの日本代表の選手が出ている、その選手がこの前の試合でゴールを決めたというから大盛り上がりだという。彼の来し方と現在の活躍が、地元の広報紙で三ページにわたり特集されていたらしく、今日私と会うにあたって弟がわざわざ持ってきてくれた。そこまで興味はないがここまで盛り上がっているとおもしろい。家に帰ってから同居人と読んだ。小さいときには「ロナウヅーニョ」になりたかったという、そんなかわいらしい書き間違いまでもが公開されていて、地元の盛り上がりようがわかった。
6/20
朝早く起きて『急に具合が悪くなる』を観に行き、そのまま歩いてしまいたい気分だったが、雨が降っていたので断念して、おにぎりを買って帰宅し、食べて、長い昼寝をして、YouTubeなどを見て過ごした。『急に具合が悪くなる』はさまざまな驚きに満ちたすごい映画で、いつのまにか涙を流してしまっていた。映画を観ていてここまで驚かされつづけることはこれまであっただろうか、いやそれこそ『ハッピーアワー』以来の経験かもしれない、と思いながら、ハマリュウはそもそも「驚き」の作家なのだと、その作品群を振り返って思い当たりもした。
資本主義のなかで、資本主義とは別の仕方で「いま/ここ」を生きようとすることを祝福する。その「いま/ここ」性が、冒頭から驚くべきかたちで提示される。マリー=ルーにユマニチュードのやり方で語りかけられた入居者シモーヌが、マリー=ルーに支えられながら自分の足でふたたび歩きはじめる瞬間。マリー=ルーの乗るトラムにひとりの少年(智樹)が駆け寄り、声をあげながら並走する瞬間。吾朗の演劇に智樹が闖入する瞬間。演劇のあとのQ&Aセッションにおいて、マリー=ルーがふいに日本語を発する瞬間。真理がみずからの進行がんを打ち明ける瞬間。……そのように驚くべき偶然の瞬間の数々に導かれて出会った真理とマリー=ルーが奇跡のような夜を過ごす、そこに挿入される資本主義についての(ホワイトボードまで持ち出した)対話にもまた驚かされる。このような対話を比喩的に噛み砕いてでなく、そのまま丸ごと映画のなかに収めることというのは、ハマリュウにとっても勇気のいることだったのではないかと思う。しかしこの二人ならそりゃこういう対話もするだろう、という二人の(俳優の)存在感が素晴らしい。マリー=ルーが介護のプロでない真理を入居者の居室に入れるのは臨床の立場で考えると非難されるべき行動のようでもあるいっぽうで、やはりこの二人ならそうなるだろう、と納得もしてしまう。その暴力性──と呼んでいいかわからないが──のようなものについてもやはりハマリュウは引き受けたうえでそのように描くことを優先したのではないかとも思う。彼女たちがそうしたのだから、そう描くしかない、というような……
驚きに満ちた映画、とはいえ、べつに登場人物たちは誰かを驚かせようとしているわけではない。彼女たちに訪れるいろんな偶然や選択の瞬間をカメラが映しとることによって、それを観る私たちが勝手に驚かされている。それらの瞬間を捉えるために映画というかたちが選ばれているともいえる。だからこそその捉えられた瞬間が演技なのかほんとうなのか、作為なのか無作為なのか、ということもどうしたって気になるわけだが、映画終盤の中庭における演劇の奇跡のようなシーンには、それが演技だろうが作為だろうがべつにかまわない(というかそもそもそれは演劇なのだ)と思えるような絶大な感情が宿っていて、しぜん、私も泣いてしまった。なんなら、演技的・作為的に動く(=やりにいく)ことでこそほんとうのことに到達できる瞬間があるだろうとも思う。その瞬間をもカメラは的確に捉えている。
6/21
そういえば、劇中劇の長塚京三の佇まいにデヴィッド・バーンを感じた。それと黒崎煌代はやっぱりすごいなあ、とも思ったが、それは彼が自閉症スペクトラムの青年をうまく演じていたからではなくて(というか自閉症スペクトラムについて知識のない私が、あの演技を自閉症スペクトラムの再現として「うまい」か判断することなんてとうていできないのであって)、彼じしんとハマリュウがインタビューにおいて述べているように、黒崎煌代=智樹として映画のなかにいるように見えることがすごいのだ。
(昨日の夜に映画の感想をツイートしようとして、短くまとめられたと思うので引用すると、)『急に具合が悪くなる』は、資本主義のなかで、資本主義とは別の仕方で「いま/ここ」を生きようとすることを祝福する。その「いま/ここ」性が、驚くべきかたちで提示されつづける一九六分だともいえる。偶然が重なること、みずから選択すること、演技的・作為的に動くことで到達できる「いま/ここ」。そのようにして映画の終盤にたどり着く「いま/ここ」は、ある種の小さな理想郷でもあって、あの空間が(マリー=ルーの目指す)境界が取り払われた場所になっているかはわからない。あの小さな「いま/ここ」に僕は希望を見出したけど、それは僕が資本主義的な「いま/ここ」にいるからかもしれない。(と、ツイートにおいては「僕」でいつづける私だった。)……しかし個々人どうしの知性と感情の交流を描いてきた映画を締めくくるやり方として、非現実的に投げ出すのでなく、ありえるかもしれないと感じられるかたちで理想郷を描くのはハマリュウの誠実さの表れかもしれない。
昨日はハマリュウのことを「驚き」の作家だと書いたが、どうして驚かされるのかといえば、ひととひととの、ふだん表れないようなかたちでの交流が描かれるからだと思う。昨日書いたシーンたちもだし、資本主義についての対話において、塾の講義さながらに(あるいはYouTubeのように)ホワイトボードまでもが持ち出されるのにも驚く。そのあと真夜中の食堂で真理がふいに振り返ってマリー=ルーを抱きしめるのにも驚きがある。ひととひととが日常や境界を踏み越えて交流する瞬間。その驚きを描いてきたのがハマリュウというひとだといえる。そしてそんな驚くべき交流が、ありえるかもしれない、というたしかな体温をもって映されることにいつも感動する。
……あまり関係ないが、何日か前に読み終わった若林の『青天』にも、『急に具合が悪くなる』とは別のかたちでの「いま/ここ」性が表現されていたと、いま思った。フィールド上で全身の力を駆動し、相手選手を《殺す》つもりでハードヒットしにいく瞬間にこそ生きていると感じられる、暴力的で刹那的な「いま/ここ」。『スマッシング・マシーン』や『ファイト・クラブ』を思わせるような……(と書きながらそういえば『ファイト・クラブ』もまた資本主義をぶっ壊そうとする映画だったんではないかと思い出す。)
私も少しアメフトをやっていた身であったから、主人公アリがフィールド上で相手選手に対峙したときの《殺す》の感覚を多少なりとも知っていた。よく鍛えた相手と当たったときの、まるで岩壁にぶつかったような痛さにも覚えがあった。そのような選手に「青天」された経験が私にもあった。たえず痛みを伴うスポーツにおける、プレイ内外の暴力性。私のいたサークルのリーグの試合においても「つぶせ!」というかけ声がサイドラインから飛び交っていた。日大の悪質タックルの事件があったときに、タックルそのものはまったく正当化されるべきでないと思いながら、しかし試合中ならぜんぜんありえる、とも思っていた。そういうあの頃の感覚が小説のなかに書きこまれていた。
そもそも人間の動きとして理性的にも本能的にもおかしいはずの、頭から当たりにいく、という行為が大々的にまかりとおっているスポーツである。未経験者はまず、首をしっかり固めて相手を真正面から見据えながらヒットできるように指導される。日常生活において起こりえない動きにおそれおののき、とうぜん、顔が左右に逃げようとする。しかしそれこそがむしろもっとも危ない当たり方なのであって、命を守るためには、首を固めて真正面から当たるしかない。逃げれば死ぬ。そのように避けようのない意識改造を経て、アメフトプレイヤーとしての生が始まる。しかしもちろん真正面からだとて頭をぶつける行為には危険が伴うのであり、痛ましくも、文字どおり命を少しずつ削りながら選手たちはフィールドに立つことになる。
アメフトとは、基本的に、事前に準備してきた作戦をチーム全員で遂行するスポーツである。だからチームメイトとの間にはこれまで練習してきた「あのとき/あの場所」がある。「いま/ここ」性は、むしろ実戦のなかで何度もハードヒットしあい命を削りあう相手選手との間に宿る。『青天』はその刹那を描いた小説だといえる。《殺す》べく真正面からハードヒットする、その一プレイ一プレイに宿る「いま/ここ」性。(いっぽう『急に具合が悪くなる』において顕著なように、ひととひととが抱きしめあうとき、二人の頭は互い違いの位置に来るのであって、ここにアメフトの真正面さとの好対照がなされている、とそれっぽいことを述べましょう。)
今日はそのアメフトサークルのときの後輩Fとご飯を食べる約束をしていたので、それまでカフェで久しぶりに『置き配的』の続きを読んで、イメフォでゴダールの『アワーミュージック』をうつらうつらしながら観た。イメフォを出たら意外に蒸し暑かった。Fはインスタを見るかぎりここ数ヶ月髭をぼうぼうに生やしている感じだったので、仕事をやめでもしたのかと勝手に思っていたが、会って話を聞いてみると、海外留学が決まり、ナメられないように伸ばしているのだという。行こうとしていた台湾料理屋に入れなくて、もう少し歩いて餃子屋に入った。サークルの話やお笑いの話をした。FがM-1のアナザーストーリーを見ることができないという話から、漫才におけるニンの引力、有吉やおぎやはぎ世代のスカしたゆるい笑いのよさ、粗品が気張りすぎている、ざっくりハイタッチ、『ひっかかりニーチェ』は『かりそめ天国』に遠く及ばない、ジャルジャルのすごさ、……など話したが、もしかするとこれは福尾匠が『置き配的』や「シットとシッポ」で話している〈疎〉と〈密〉の考え方を援用できる話題かもしれない。いまの粗品は〈密〉すぎる。〈疎〉な場としてのしもふりチューブの更新が停止したことで、彼の〈密〉が加速している。解散して帰ると、ちょうど同居人が弟くんを連れ帰ってきた。二人は今日は法事で疲れ果てたという。YouTubeを見たり、『RRR』を途中まで見たりした。
6/22
朝ゆっくり起きて、同居人と弟くんと三人でコーヒーを飲みに行き、そのまま思い立って、じゃあ弟くんを車で送ろうということにし、タイムズのレンタカーを借りて下道を行き、途中で入った魂心家のラーメンをけっこうおいしく食べながら、そういえば今日は夏至だ、と思い出した。弟くんを送り届けてからまた都内まで戻り、いったん帰宅してゆっくり、今度はGくんとご飯を食べるために家を出た。涼しくもあり蒸し暑いもある、奇妙な曇り空だった。毎年夏至になると、期待してたより日ぃ短いな、と思う。こっから一日ごとにもっと短くなっていくってことですか、とも思う。曇っていたからなおさらそう思うのかもしれない。Gくんはここさいきんなにやらくらった話があったそうで、それを話したそうにするのだが、どうももごもごしていてなかなか進まない。けっきょく要領を得ないまま他の話題に移って、二時間くらいしゃべり、店を出て代々木公園を歩きながら、
「いやあ……
ほんまになあ……」
とまたもごもごしだすので、さっきの話の続きのようだと思い、ゆっくり歩きながらどうにか聞きだして、こういうことかもね、といったん結論づけるまでに公園一周半ぶんの距離を要した。聞いてしまえば、ようするにこういうことだよね、という話であったかもしれないが、そこにたどり着くまでの一周半も必要な距離だったのかもしれない。店で話した他の話題のなかでは、Gくんが『SLAM DUNK』の三井寿の「静かにしろい この音が…… オレを甦らせる 何度でもよ」という台詞を見たとき、「静かにしろい(白い)この音が」というかたちで繋がっているのだと解釈して、意外と詩的なことをいうんだな三井は、と思ったという話がおもしろかった。しかしそもそもその解釈が間違っていると断言はできない。
それと、代々木公園で私たちがおよそ二周歩いているときに二回すれ違った男女が、嵐の曲をそれなりの音量で流し、「これ櫻井くんが主演のドラマの曲だよね、なんだっけ──」などとしゃべりながら歩いていて、車のいらないドライブのようでよかった。
書いてから調べたら、夏至は昨日だった。

6/23
一日じゅうどうにも体調がパッとしなかった。しかし私の調子の微妙さとは関係なく、夕方の過ごしやすさは格別だった。夜には『銀河の一票』の最新話を見た。来週で最終回だなんて信じられない。
沖縄の戦没者追悼式における参列者からの抗議の声を「野次」とするのは、あまりに「本土」の人間すぎる仕草だと思う。あそこで来賓として登壇するのが総理の慣習なのかもしれないが高市はよく行けたものだと思う。国家的詐欺とも呼べるような法案を数の論理だけでするすると通して戦争に向かおうとしている、その詐欺の(表向きの)親玉であるにもかかわらず……。しかしそれとはべつに、先日のG7サミットにおける各国首脳との集合写真撮影のときの、明らかに孤立していながら笑顔でいつづける高市の姿。私はどうしてもあの佇まいにひとりの人間のかなしさを感じてしまって、なかなか揶揄する気にはなれない。もちろん人間的かなしさと総理大臣としての職責はまったく別個に評価されるべきなので、あの孤立っぷりを非難すべきなのかもしれない。しかしそれ以上に私たちはいま現に行われている国家的詐欺にたいして「野次」を飛ばすべきだろうと思う。

6/24
昨日の沖縄の戦没者追悼式のあとの会見で、みずからの登壇中に「戦争やめろ」との抗議の声が響いたことについて聞かれた高市が、「戦争、やって、おりません」とヘリクツで答えたという、その会話の拒絶の仕方にも驚きながらXを見ていると、あっという間に高市批判のポストばかりがおすすめのタイムラインに並ぶ。私のたったひとときの興味を、延々と持続させ、際限なく増大させようとする機構を、Xという生活侵略者は備えている。いや、好きで侵略されているのだ。侵略されない場所を見つける必要がある。LEXの新しいアルバム『SPEEDSTAR』がかなりかっこよかった。「V12」という曲における、
「若すぎてるし
早すぎてるし
稼ぎすぎてるし
走りすぎてる」
というリリックのよさ。「若すぎるし」ではなく「若すぎてるし」とすることによって「〜てる」、つまり現在完了進行形(have been -ing)的なニュアンスが加わって、スピード感が増しているように思う。この進行形のよさをどこか他でも感じたことがある気がして、思い出したのはM-1のウエストランドの「捕まりはじめてる」だった。リリックやあるあるに進行形のニュアンスを入れるとおもしろいということ。それにしてもLEXはフロウがおもしろくて、同じくフロウとリリックのおもしろさにおいて傑出しているSieroと組んだ「センス」にアガらざるをえない。
6/25
昨日同居人は舘ひろし主演の『免許返納⁉︎』という映画を観に行っていて、どうしてかといえばその前作にあたる『免許がない!』という三十年くらい前の映画を前に家で観てけっこうおもしろかったからせっかくなら続編も、ということだそうだが、これが全体的に「好感のもてる」映画だったという。それだから今日は舘ひろしのデビュー作でも観てみようということで、七六年の『暴力教室』という、松田優作の主演作を家で一緒に観た。若い舘ひろしの目元が、いまや舘プロ期待の若手といえる黒川想矢くんに似ていてよかったのと、松田優作の少年のような中年のような、まるでその間がないような佇まいもよかったが、話はドイヒーで、物語上のたんなる展開の材料として少女が犯され果てには事故死する、いかにも「昭和」な映画だった。サングラスをかけた男たちがボソボソとしゃべったかと思えばふいに激昂するのも「昭和」ということなのか? 涙を隠すようにサングラスをかけた男たちが……
6/26
日本代表の試合を残念ながらあまり見る気になれないのだが、たとえば竹内涼真が〝男らしく〟はしゃぎながら代表戦を応援している映像が流れてくると楽しくて見てしまう。『じゃあ、あんたが作ってみろよ』の勝男──それも、ドラマ本編における勝男というよりは、ドラマ終了後になかばミーム的に流行したイメージとしての勝男──がそのまま続いているような〝男らしさ〟をぞんぶんに発揮しながら、竹内涼真がテレビ画面のなかで吼えている、その姿をスマホの小さい画面で私は見ている。地震や台風の最中でイミフな法案が衆院を通過する、もはや世紀末的といえる状況下で竹内涼真だけが健康的に吼えている。(というか、個別の法案の内容にふれるまでもなく、ごく一般論として、現状とくに実害が発生しているといえない事象にたいし、発動条件も不明瞭な処罰を設けようとしてるのってかなりイミフすぎる。)
というか、地震が多い。心臓がばくばくする。
長谷川白紙の新曲を聞いて、その音よりもみずみずしい言語感覚に感動する。それにしても、歌詞なのかメロディなのか、それとも全体を覆う美的感覚なのか、どことなく(私の知っている時期の)椎名林檎を思わせるものがある。君島大空にも椎名林檎を感じるタイミングがある。あと踊ってばかりの国のアルバム『PRISM』を聞いて、「Blowin' in the wind」という曲のビデオも見て、とてもいいと思った。踊ってばかりの国といえば、私の好みとおそらく近いところにいるバンドであるにもかかわらずこれまでなぜか聞いてこなかったわけだが、これだけいいならもっと前から聞けばよかった。……と思いながら彼らのディスコグラフィを見ていて、ゆるふわギャングとコラボした曲は聞いたことあったと思い出した。
夜はYouTubeを見ながらだらだらと過ごした。『VIVANT』を二〇分で振り返るという公式の動画があって、あらためて見てみたらずいぶんトンチキな話でかなりウケた。その流れで『進撃の巨人』のアニメを三〇分で振り返るという公式の動画もあって、これも見てみると、やはりトンチキではあるのだが話としてすごすぎて震えた。
6/27
仕事の日だったが、台風の予報だったため、またびしょびしょになりながら出社するのだろうとほとんど諦めながら迎えた朝だったが、意外に小雨で、ほとんど濡れずに歩くことができたが、しかし雨は雨。頭は徐々に重くなった。夜はフレディ・M・ムーラーというユーロスペースでいま特集上映をやっている監督のドキュメンタリー映画『緑の山』をアマプラで途中まで見た。スイスの美しい山あいの村に、放射性廃棄物の処理場を建設するという計画がもちあがる。計画を進めようとする組合(ナーグラ)と、反対する住民たちのインタビューが延々映され、どうにも眠くなってしまった。美しい山の風景とそこに暮らす人びと、とりわけ子どもたちの暮らしの様子がところどころ挿入されて、そちらは見応えがある。インタビューに応えている老人の肩に、後ろからヤギがのしかかってくるシーンなど、映画的なおもしろさもあるにはある。
そもそも、山の頂上からふもとに向かって流れる地下水を分断してまで処理場を作ろうとする計画からは『悪は存在しない』を連想しもするし、都市部で排出された廃棄物を山あいの村に押しつけようとする構図はまさしく「いま/ここ」と「外部」なのであって、ようするにハマリュウなのだった。そうなると、インタビューもハマリュウのように撮られていれば……、と欲張りなことを思ってしまう。テーマはすごく興味深いし。
私が仕事に行っている間に同居人はスイッチの『ぽこ あ ポケモン』をやりはじめていて、夜も続きをやっていたが、けっこうたくさんの労働を強いられ、たいへんかも、といっていた。同居人はゲームのなかで労働させられるかどうかに敏感なのだった。
6/28
午前中に散髪に行き、午後は同居人と大井町のTOHOシネマズへ『黒牢城』を観に行った。長く、丁寧で、どの瞬間のルックにも重厚感があり、しかしそれでいてただの時代劇にはならない黒沢清らしいおもしろさに満ちていた。時代劇ならではの所作を明確にオモシロとして撮っている感じがあって、主君に合わせてぞろぞろと集団行動する家来衆の動きにいちいちウケた。菅田将暉=黒田官兵衛が繋がれている地下牢も、吉高由里子=千代保が切実な叫びを響かせる巨大な仏堂みたいな謎の空間も、あんな荒涼とした空間が城内にあるとしたら変すぎる。『首』とはまた違う角度で戦乱の世の男たちの虚しさを描いているようでもあり、その意味でラストには不穏さと爽やかさが両方あった。オダギリジョーのあまりに信用ならない声色もよかった。

気温は涼しく、しかし湿度がとにかく高い。ときおり霧雨も降る。歩けないことはない天気だと思って、大井町から五反田まで歩いた。スシローをテイクアウトすべく予約して、ヴェローチェでおのおの本を読んで待った。私は『置き配的』を読み進めた。書かれていることの半分くらいしかわかっていないが、書かれている「感じ」をなんとなく捉えて、とりあえず読んでしまおうというこの感覚は、大学のときに近い。毎週の「シットとシッポ」で話されている内容を副読本的に思い返しもする。夜は、スシローを持ち帰って食べて、ブルース・リーの『ドラゴンへの道』という映画を見た。(何日か前に松田優作の映画を見て、なんとなく松田優作とブルース・リーは見た目が似ているのではないかと思ったところからの派生だった。)なぜかローマが舞台で、なぜかほんのりコメディチックでもあるのだが、アクションはとにかく速く、鋭く、かっこいい。マイケルっぽくもある、と同居人がいっていた。ブルース・リーはマイケル・ジャクソンと同じく鎮痛剤の過剰摂取で亡くなったともいわれるようだ。闘いのなかで銃が次々と投げ捨てられ、最後のアメリカ人空手家(チャック・ノリス)との死闘においてもただ互いの肉体のみがぶつかりあう。その美学を強調するように、最後去りゆくブルース・リーの背中を見ながら、登場人物のひとりが「いまの時代、あのような生身の闘い方では苦労するだろう」というような(あまりにわざとらしい)締めのセリフを発するところで映画は終わる。
6/29
意外と一日を通じて雨が降らなかった。数時間後に雨が降るかもしれない、という気配だけがいつまでもあって、ただ蒸し暑かった。夜に『銀河の一票』の最終話を見た。すごかった。やりたいこと伝えたいことがこんなに前面に出ていながらこんなにおもしろいなんて。ひとがひととして描かれているからだ。登場する都知事候補者やその周りの人物にはそれぞれ背景があり、背景に根ざした信念や叶えたい世界があって、──というある種の理想的な「いま/ここ」の東京が描かれ、分断は描かれない。そのような「きれいなこと」を描ききる強さに満ちたドラマだった。東浩紀と津田大介が仲直りをする動画も少しだけ見た。あと踊ってばかりの国の「Blowin' in the wind」とのビデオもまた見た。
6/30
今日も雨が降らなかったがやはり蒸し暑かった。日が暮れてからも暑い。夏が梅雨のふりをして始まっている。あと、もう六月末、つまり上半期終了なのだった!


































