バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

ズームするバカ

 夏のにおいが立ちはじめる五月という季節がそうさせるのか、それとも単にそういう機能を活用するすべを見つけた喜びからか、僕はスマホのカメラでズームして写真を撮ることにはまっていた。いや、季節は関係あるまい。
 僕のスマホのカメラでは十倍までズームすることができた。べつにスペシャルなスペックのカメラというわけではないが、僕の目ではこんなにズームすることなどできないので、まず間違いなく僕自身よりは有用だった。考えてみれば僕はなにもできない。ズームもできないし撮影もできない。LINE Payの登録の仕方もわからない。僕には有用なところがなにもない……。そ、そんなことねえっすよ! ほら、がんばってズームしたんで見てくだせえ! へへ、画質が悪いのはご愛嬌でさあ! とカメラが見せてくれた写真はいうとおり明らかに画質が悪く、しかしそんなところも愛らしい。

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 ズームすることのよさはいくつかあった。まずズームすることそれ自体が楽しいのだった。目の前に広がる風景に向かってスマホを向け、カメラを起動し、左手の人差し指と親指で画面を広げるようにフリックする。画面の端にはその時点でカメラが何倍までズームしているかが表示されていて、僕はいっきにそれを十倍まで引き上げる。そうすると画面に写っているのがなんなのか一瞬わからなくなる。それはもちろん目の前の風景のどこか一部だ。しかしそうとはわからないほどに、画面に写るものはユニークな色や形をしている。そのことがまた、ズームすることのひとつのよさでもある。ズームは目の前の風景を異物にする。画質の粗さもまた異物感を助長している気がする。未確認飛行物体がまさに地球に降り立たんとする瞬間を捉えた写真だといわれればそんな気がするし、じゃがいもとさつまいもの禁断の逢瀬を捉えた写真だといわれればそんな気がする。なんといわれてもそんな気がするほどに、ズームした画面に写るものは、ズームされた目の前の風景から切り離されている。

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 もうひとつのよさはテクニカルな部分の話で、というよりはノンテクニカルな部分の話といったほうがいいのかもしれないが、ようするにズームして写真を撮る場合、いわゆるうまい/へたというような価値判断は関係なくなるのだった。写真の何をもってうまいとするかはひとによるだろうし、そもそも写真にうまい/へたなどないという議論ももちろんあるだろう。しかしここではいったんそういう話は置いておいてください。とにかく、ズームして写真を撮るとき、すべてのうまい/へたは関係なくなる。構図も光も関係なくなるし、現代社会を鮮やかに切り取る視線も、親密な者どうしにのみ生まれる弛緩しきった空気感も関係なくなる。すべてがズームされ、すべての価値判断が無効化された場で、僕たちはなにも気にすることなく写真を撮ることができる。
 つまるところ、ズームをするということは、あらゆる文脈から解き放たれるということなのだ。目の前の風景からも、世の中に存在するあらゆる価値判断からも。すべてを置き去りにして突き進んだところに、ズームをするという行為のみが立ち上がり、ズームするものとされるものが正対するのだ。

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 いや、そんなことなくないすか? とカメラがいい、これまで僕がズームで撮った写真を見せてくる。たしかにそんなことないかも……。それらの写真のほとんどは風景から切り離されてなどおらず、構図があるていど気にされており、僕なりのうまい/へたの価値判断に照らされ、へたと見なされたものは削除されていた。僕と僕の写真はまったく文脈から解き放たれてなどいなかった。そうなると、僕がさっきズームすることのよさとして挙げていたことのうち、「目の前の風景を異物にする」ことと「うまい/へたという価値判断から関係なくなる」ことは嘘ということになる。僕はそれらをただ文章としてかっこよさそうだからという理由で挙げていたに過ぎず、そもそもズームすることのよさが「いくつか」あると書いたのも、ひとつだとなんだか収まりが悪いと思ったからで、ほんとうははじめから「ズームすることそれ自体が楽しい」というだけでズームしていたのだ。ただ楽しくてズームしているだけのおバカだと思われたくなくて、見栄を張ってしまいました……。でもそれでよくないすか? と僕がいう。カメラはいわない。カメラははじめからひと言もしゃべっていない。まるでカメラが言葉を発しているかのように書いていたのも、そのほうが文章としてかっこいいのではないかと思ったからというだけに過ぎない。
 でもそれでよくないすか?
 いや、よくないのだろう。それでよくないすか、がまかりとおるなら警察はいらない。カメラが言葉を発しているかのような文章を意味もなく書いてはいけない。理由がひとつだと収まりが悪いからといって、見栄を張って「いくつか」と書いてはいけない。意味ありげなことを意味もなくやってはいけないのだ。しかし、ただ楽しいからズームすることはべつに悪いことではないだろう。世のなかの多くのひとだって、ただ楽しいから、寝たり食事をしたり風呂に入ったりしているのだ。意味ありげなことを意味もなくやってはいけないが、意味のないことなら意味なくやっていい。意味がないのだから。

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 ということで僕は意味なくズームした。ズームすることにはまると、日常のなかでなにをズームしたら楽しそうか、視線を巡らせるようになった。色より形が目に入るようになり、きれいだから/美しいから/かっこいいからというよりは、純粋に形がおもしろいからという理由でものにカメラを向け、ズームするようになった。たとえば、橙色の夕焼けより、その手前で影になっている電柱の形のおもしろさを写真に残したくなった。水面に映る飛行機雲より、その水面に揺れる波のひとつをとらえたくなった。なんでもないドアノブや、フライパンの持ち手を撮りたくなった。でも僕がそれらを撮ることはもうない。スマホの容量がいっぱいだからだ。僕にはスマホの容量の空け方がよくわからなかった。そんなに古い機種ではないし、そんなに重いデータが入っているわけでもないだろうに、なぜ容量がいっぱいになってしまっているのかもよくわからなかった。とにかく容量がいっぱいだといわれてしまっているのだった。ローカルに溜まりに溜まってしまったデータを、この壮大な宇宙のどこかにあるクラウドと呼ばれる地に移すことができればいいのかもしれない。そんな地がほんとうにあれば、の話だが……