バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二四年二月の日記

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 朝、会社への道中に感じた妙な暖かさは、昼に外に出たときにもまだ残っており、あるいは朝よりもさらに存在感を増しており、〝少し寒めの春〟といわれればそんな気もしてくるほどだったが、夜になって会社を出る頃にはすっかり冬らしい寒さを取り戻していて、惜しいようなうれしいような妙な気持ちになった。妙な気候というのはこちら側の気持ちまで妙にさせる。夜、同居人と集合した際にも天気の話になったが、朝が妙に暖かかったというのは同居人も首肯するところであったものの、昼も同じように暖かかったという僕の証言にかんしては異議申し立てがあり、同居人いわく昼には既に寒かったとのことである。

 

2/2

 病院に行くための有給だった。病院というのは待ち時間が多い。長いというよりも多いという印象が強い。検査と検査の合間、検査の受付をしてから呼ばれるまでのちょっとした時間、進みの遅いエスカレーターの段の上に立っている時間。そんな合間合間で『ブラッド・メリディアン』を読み進めた。

炭火に不吉な予兆が見えていたとしてもグラントンにはどうでもいいことだった。ともかく生きて西の海を見るつもりでいるしそのあと何が起ころうと立ち向かえるつもりでいるのは何時いかなるときでも彼は完璧だからだ。自分の進む道がほかの人間たちや諸国家の進む道と一致していようがいまいが関係ない。こうすればどうなるだろうと思い煩うことはとうの昔に断固やめてしまった男でありどんな人間の宿命も予め定まっていると認めた上でなおこの世界で自分がなり得るものとこの世界が自分にとってとりうえう姿はすべて我が身のうちにあると豪語したとえ自分の権限は原初の石に書きこまれたものに限られるとしてもそこに自分の力も働いたのだと主張し公言するそんな男なのでありまるで道などどこにもなく人間もその上で輝く太陽もまだなかった遥か昔に自分自身で秩序づけたのだとでもいうように悔恨など一切しくない太陽を最後の暗黒の死まで駆り立てていくつもりでいるのだった。

コーマック・マッカーシー著/黒原敏行訳『ブラッド・メリディアン』)

 今日のところは特に異常な数値はなかったがまた来週にも別の検査をすることになった。たぶん大丈夫なんですけどねといわれながら検査の予約をする感じは、いつか読んだブッツァーティというひとの「七階」という、七階建てで下の階に行くにつれて重病患者として分類されていく病院において最初は健康そのものだった主人公があれこれ検査を受けさせられたり病院側の都合だったりでどんどん下の階に移動させられいつの間にか一階で死を待つ身になっているという短編を思い出させた。まさかね、と思いながら検査の予約をした。

 診察を終え、午後が空いたので、映画でも観ようかと調べたらイメフォでカール・テオドア・ドライヤー特集がまだやっていて、今日はちょうど観たいと思っていた『奇跡』の上映があったので観に行った。ある村の地主農家の三兄弟の次男が自らをイエス・キリストであるといい出し、周囲にはかわいそうに勉強のしすぎでおかしくなってしまった人物として扱われるが、その彼が最後にはその信仰心ゆえに〝奇跡〟を起こすというのがだいたいの話の筋で、室内でもロングコートを着たままうろうろし、上ずった声で主のお言葉をひとりごち続ける次男の姿をはじめ、忘れがたいショットがたえず続くすごい映画だった。映画の冒頭、家の裏の丘に登り、両手を天に掲げて現世の民への言葉を唱える次男と、それを少し離れたところから見守る父と兄弟たちの構図からはなんとなく大橋裕之の漫画のような哀愁あるコメディを想起したが、そんな彼が最後に〝奇跡〟を起こすシーンまでの物語は、基本的に室内劇であるにもかかわらず「遠いところまで来た」と思わせられるもので、次男の周囲の人びとだけでなく観客である僕たちまでもがその〝奇跡〟の目撃者となり、後日談っぽいものもないままビシッと終わる構成もかっこよかった。

 仕事を終えた同居人と合流して帰り、YouTubeフット後藤が天下一品を語る動画、刑務所を取材した動画、『不適切にもほどがある!』の第二話、「恋のマイヤヒ」の動画などを見たりした。

 

2/3

 同居人の週末特有の早起きにつられる形で僕も早めに起きた。午前中は細々とした買い物をし、同居人がネイルサロンに行っている間に僕は昨日ざっくりYouTubeを見た影響で天下一品を食べに行った。「天一は実質野菜ポタージュなので身体にいい」という噂を免罪符にしてスープをけっこう飲んだ。

 横浜で用事があるという同居人についていく形で僕も横浜に行き(僕は意味もなく同居人についていく癖がある)、せっかく行ったので西口方面のディスクユニオンに入ってユーミンの『MISSLIM』などの中古のレコードを買った。そのあと東横線で渋谷へ。気になっていたバス・ドゥヴォスというベルギーの監督の『Here』という映画の、監督と主演俳優のトークショー付きの上映に行った。

 ベルギーで働くルーマニア出身の男性(シュテファン)が、バカンスに入る前に冷蔵庫の中身を処理するためのスープを作って知り合いに配り歩く。車を修理してもらっている工場のひとたちにスープをあげに行った帰り、大雨に降られて入った中華料理屋で、シュテファンは若い中国系の女性(シュシュ)と出会う。シュシュは大学で苔の研究をしていて、その中華料理屋は彼女のおばさんの店だった。

 日が変わって、シュテファンは修理してもらった車を取りに行く。とにかく歩きたがりなシュテファンはその日も工場まで徒歩で行くことを選択し、森のルートを通る。森のなかではシュシュが苔の調査をしていて、二人は互いに気がついて挨拶する。苔に興味を示すシュテファンは、車を取りに行かなくちゃいけないんだけどといいながらもシュシュの後について森を散策する。画面に大写しになる美しい苔。靴ひもを結び直すシュシュを待って、手を差し伸べるシュテファン。その手を自然に取って起き上がるシュシュ。

 すっかり暗くなった森に大雨が降る。

 後日、シュシュがおばさんの中華料理屋に行くと、カウンターにスープのタッパーが置いてある。男性が来て彼女のために置いていったという。思わず笑みがこぼれるシュシュだが、互いの名前も知らないことに気がついてはっとする。……という話の流れは間違いなくあるのだが、そういう物語である気配を漂わせることなく映画がいつの間に始まっていて、いつの間に二人が出会っているという感じが強く、劇中の人物たちと同様に、観ている僕も世界の美しさを再発見していくような感覚があってとても心地よかった。名前も知らない他人に手を引っ張り起こしてもらうことについての映画でもあって、世界を新たに発見し続ける眼差しに貫かれていた。なんというか二〇二〇年代の映画を観ているという感覚も強くあった。同監督の『ゴースト・トロピック』も観たいと思った。トークショーもよかった。帰宅し、しばらくすると同居人も帰ってきた。今日も『ブラッド・メリディアン』を読み進めて、もう少しで読み終わるというところまで来たが、ここまで来ると逆にもったいなく、今日は読み終えずに寝る。

 

2/4

 昨日の夜ずっと座椅子に座ってこたつに入っていたのがよくなかったのか腰が痛かったり、いやな感じの咳が出たり、寒い冬の日という趣の強い一日だった。

 

2/5

 昨日からいやな感じの咳が出ていたので今日は細心の注意をはらい、咳止めのシロップも買って飲んで、ほとんど咳をすることなく過ごすことができたのだが、それとはまた別に一昨日の夜から腰痛もあって、そちらは軽減されることなく、かといって重症化することもなく、現状維持の状態で一日を終えた。ドラッグストアで鎮痛シートのようなものを買って風呂上がりに腰に貼り、いまこうして日記を書きながら腰のあたりに清涼感が沁み渡っていっているのだった。いっぽうで今朝までさかのぼると僕は寒さ対策として腰のあたりに服の上から貼るカイロを貼って過ごしていたのであり、今日の僕の腰は温められたり冷やされたり、忙しない一日を過ごしている。

 どうして今日に限っていつも貼らないようなカイロを貼っていたのかといえば今日が予報によれば寒く、雪まで降るといわれていたからで、果たしてどうだったかというと予報どおり寒く、雪も降った。仕事を終える頃に同居人から

「鍋?

 おでん?

 いい肉買ってすき焼き?

 焼き鳥も買っていい?」

 とLINEが来た。たしかにそれくらいはしゃいで然るべき雪が降っていたのだが、そのあと「はしゃぎがパターン化されててやーねえ」とも来て、それもたしかにと思った。けっきょくいい肉は買わず、おでんと焼き鳥で慎ましくはしゃいだ。ときどき窓から外の様子を見たり、雷鳴にびびったりしながら、NHK田中角栄の番組を見た。いまでも田中角栄の故郷・新潟県柏崎市を流れる川には四つの橋がかかっていて、それぞれの橋の名の真ん中の漢字を繋げると「田中角栄」になるというプチ情報が番組の大オチのようになっていて笑ってしまった。

 それにしても月曜日という日には週末の余韻がまだ残っている。今日でいうとまずバス・ドゥヴォス監督の『Here』の素晴らしさを振り返らずにはいられない。あの映画で描かれていたのは、ひとつは世界の美しさに目を向けるということで、それだけであれば(作品が実際にそういう要素を内包しているかどうかとは別に、いまの僕の受容のモードとして)『PERFECT DAYS』のときと同じようにわざとらしさを嗅ぎ取ってしまいそうになっていたかもしれないが、もうひとつ作品を際立ったものにしていたのは、やはり、偶然出会った他人の手を引っ張り起こすこと、あるいは逆に手を委ねて引っ張り起こしてもらうということの美しさだと思う。メインの登場人物が二人ともアウトサイダー的な性質を持っているというのも物語の説得力を増す方向に機能していて、それも作為的といってしまえばそうなのだが、なぜかこれはわざとらしくは感じないという都合のよさを僕は持っている。

 あと、昨日読み終えた『ブラッド・メリディアン』の余韻もまだ続いている。あんなに読みにくかったのにすぐにでも二周目を読み始めてしまいたくなる、やはり神話的と形容したくなる魅力がある。読みにくいこと自体が小説を読むよろこびに繋がっているという稀有な体験。

雪を被った燃えるゴミの袋がアザラシの群れのようにも見えた

 

2/6

 寒かった。夜、YouTubeアヴリル・ラヴィーン「コンプリケイテッド」、テイラー・スウィフト私たちは絶対に絶対にヨリを戻したりしない」、ワン・ダイレクション「ホワット・メイクス・ユー・ビューティフル」などのミュージックビデオを見た。途中でおすすめ欄に何度もバックストリート・ボーイズ「アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ」が出てきて、再生したくてたまらなかったのだが、こういうふうにちょっと昔の曲のミュージックビデオを再生する流れになるたびに僕が「アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ」を選ぶのでもういい加減にせえという空気が同居人にはあり、今日は自粛した。特に今日の同居人は仕事で疲れて帰ってきており、僕が「アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ」のビデオに合わせてエインナッティンバラハーエイ~なんて口ずさもうものなら蹴られそうな雰囲気があったのである。

 

2/7

 どういうわけかさいきんではエイフェックス・ツインをよく聴いていて、今日はその流れというわけでもないけどダフト・パンクを聴いて、最初はイヤホンで流していた『ホームワーク』の、ちょうど途中で入浴することにして、続きを風呂場に置いてある小さなスピーカーで流したんだけど、やっぱり楽しさがぜんぜん違うっていうか、音質的にはイヤホンのほうがぜったいにいいし、風呂場のスピーカーで流すっていってもたいした音量は出せないからしょぼいんだけど、それでもイヤホンより楽しくて、やっぱりこういう音楽っていうのは耳にうどんやきのこの山やアポロチョコみたいなのを突っ込んで聴くより、なんかしらのスピーカーで流したほうがいいもんなんだなってことをあらためて認識した。

 

2/8

 眠いので寝る。

 

2/9

 先週の金曜日の続きで病院の検査があり、しかも先週と同様に二つの病院でそれぞれ午前午後に分かれる形での検査だったため、一日有給を取った。午前と午後でそれぞれ違う箇所のエコー検査をはしごするという稀有な体験となったが、病院で小耳に挟んだ周りのご老人方の会話内容から察するに、エコー検査のはしごなんてのはご老人界隈では当たり前の話なのかもしれない。そのうち午前午後で手術のはしごなんてこともありえたりしちゃって。というのは置いておいて、今日のところは念のための検査という感じで、特によくない兆候がある感じでもなさそうなのでよかった。

 それにしてもエコー検査、特に心エコー検査というのは変な気持ちになるもので、暗い小部屋のなかで服をまくり上げてベッドに横たわる僕と、傍らに座って僕の胸に器具を押し当てる医師の間には無言の時間が流れ、ときおり増幅されて「ゴキュン、ゴキュン」と響きわたる心音が自分のものとは思えないまま、僕はどういうわけかそこが狭い宇宙船の内部であるかのような不思議と浮遊感のある気分になってくるのだ。宇宙船っぽさの五割はおそらく部屋が暗くなっていることに起因するもので、残りの五割は「ゴキュン、ゴキュン」のせいだろう。でもこの「ゴキュン、ゴキュン」という擬音表現が、あの謎の音を的確にいい表せているかはわからない。以前心エコー検査を受けたときには「ゴキュン、ゴキュン」だと思ったものだが、今日、横たわって器具でみぞおちのあたりをぐりぐり押されながら、それが果たして「ゴキュン、ゴキュン」なのか、それとも「ボスキュ、ボスキュ」とか「ゴルチュン、ゴルチュン」みたいな、まだこの世にないような音として表現されるべきものなのか考えていた。そんなわけで「ゴキュン、ゴキュン」であるという先入観を捨てて聞いてみると、それは「ボスキュ、ボスキュ」のときもあれば「ドゥクチュ、ドゥクチュ」のときもあり、かと思えばやはり「ゴキュン、ゴキュン」もあり、やはり均して代表させるとすれば「ゴキュン、ゴキュン」なのかもしれなかった。

 今日は病院の待ち時間で後藤明生の『首塚の上のアドバルーン』を読み進めた。脱線を繰り返す文章に笑ってしまった。脱線ということでいうと、そもそも文章単位でなく本全体が脱線でできているような雰囲気すらあり、最初は千葉県の団地に引っ越してきた語り手がベランダからの眺めのなかにこんもり存在感を放つ丘を見つけ、そこまで歩いていってみたら知らない武将の首塚があったという話だったのが、京都旅行に行ったときに思いがけず新田義貞首塚に辿り着いた話、その近くにあった瀧口寺という寂れた寺について、『平家物語』と『瀧口入道』における瀧口入道という人物にかんする描写の差異について、『平家物語』における首の描写についての話、『太平記』に一瞬登場する兼好法師についての話へと脱線し、もはやこれが脱線なのか、そもそも完全に別の話として語られているのかわからなくなったところで、終章で最初の丘の上の首塚の話に戻ってきて、やはり脱線だったのだと思う段階に来ている。もう少しで読み終わる。

 エコー検査があったために今日は朝食、昼食を食べてはならず、夕方に検査が終わったときにはひどく空腹で、それでも同居人が仕事から早く帰ってくるなら一緒に食べようかと、やはり『首塚の上のアドバルーン』を読んで待っていたのだが、遅くなるとのことだったので先に松屋に行って食べた。なぜ松屋かといえばさいきん復活したシュクメルリ鍋定食というのが気になっていて、それを食べるつもりで行ったのだが、食券を買う段階でなぜか躊躇して別のを頼んでしまい、今日はいったん偵察に来たということにしてそのまま別のを食べた。店内では目測でおよそ八割のひとがシュクメルリ鍋定食を食べていて完全にアウェイだった。食べ終わるくらいのタイミングで同居人が帰ってきて、それならもう少し待ってもよかったかと思った。

 

2/10

 同居人が友だちの結婚式のために出かけるタイミングで僕も家を出て、ビクトル・エリセの『瞳をとじて』を観た。(教訓:パーカーを着て映画館に行くのは避けるべし。座席についたときに行き場をなくすフードを、左右にナンのごとく広げて逃がす形になるが、そのせいで首の後ろに暖かい空間ができ、たえずうっすらと眠気を誘ってくることになる。しかし首に沿って広がったフードが、逆に程度のいい頭の置き場として機能するというプラスの側面もあって、「座り心地はいいのに頭の置き場がいまいち決まらない」という映画館の椅子あるあるを解消してくれもする。とはいえどちらかというとマイナスの面のほうが大きいため、パーカー自体着ないほうがよし。)観終わってからしばらくぼーっとしてしまうほどには変な映画で、しばらく歩いてから、やはり傑作だったという結論に至った。老いた映画監督が、同じく老いたかつての映画製作の仲間や昔の恋人を訪ねながら、二十年前に行方をくらまし、まだ生きているとすればやはり老いているであろう映画俳優かつ親友の姿を探す。話の筋そのものはわかりやすく、展開もある程度予測できてしまうのにもかかわらず、次に何が映されるのかわからずワクワクさせられる感覚が常にあり、それはやはり主人公やその周りの人びとがみな老いていることに起因するものなのではないかという気がした。映画についての映画であると同時に、老いを描いた映画であり、老人が老人をケアすることを描いた映画でもある。特にケアについては長尺を割いて描かれている印象があり、それが冗長ともとれるが、必然的な長さだったようにも思う。

 映画監督が俳優の前で映画を流し、俳優がスクリーンに映る自分の姿を目撃する、という展開は奇しくも昨年の『フェイブルマンズ』と似ていて、そのことが俳優に何を及ぼすかということについて二つの映画は大きく異なるが、スクリーンに映写された映画ほど強く心を揺さぶるものはないという信念、あるいは祈りのようなものは両者に通底しているような気もして、老境に至った監督たちが長い旅の果てにそれぞれの映画についての想いをフィルムに焼きつけているということにも心を揺さぶられた。「ドライヤー亡き後、映画で奇跡は起こっていない」という劇中のセリフがフリとなったかのように最後に奇跡が起きたと取るか、あるいはそうではないと取るかは、この映画を観た僕たちそれぞれの自由だが、それがどちらでもいいと思えるほどにいいラストシーンだった。あと個人的にこの前ちょうどドライヤーの『奇跡』を観たばかりだったので、いい偶然じゃん、と思った。こういう偶然すらも映画の持つ力だと思ってしまうのはさすがにやりすぎでしょうか。

 さっきも書いたように映画館を出てからはしばらく歩いたのだが、そのあと帰宅し、読書し、昼寝し、テレビを見、ついに出たカニエのアルバムを聴き、外に出てラーメンを食べた。後藤明生首塚の上のアドバルーン』を読み終えた。話の脱線っぷりに笑っていたのだが、最後にはなぜか感動してしまった。団地の十四階のベランダから見える景色が、パウル・クレーモンドリアンの絵のように見えてきたというところから、逆にその絵のなかに、新しく建設されてゆく巨大な倉庫も、幹線道路も、中世の知らない武将の首塚も同時に存在するということが浮かび上がってきて、そこから首をめぐる長い脱線の旅が始まり、最後には元のベランダの景色に戻ってくるという、美しい円環構造。僕たちが目にするすべての景色には、古代から現代このときに至るまでのすべての歴史や時間が蓄積して、同時にひとつの絵となって存在しているという、世界の豊かさ。しかしその豊かさにただあいまいに浸るのではなく、きちんと文献にあたって首塚のことを掘り下げるのが後藤明生のえらいところだ。

 そのうち同居人が帰ってきた。

 

2/11

 またもや休日特有の同居人の早起きにつられる形で僕も早く起きた、とはいうものの前日の夜に洗濯機が朝回るように予約しておいたので、計画どおりではあった。

 午前中はアマプラで『バーバパパ』を見進めた。土のなかから生まれたバーバパパが生まれた瞬間から「バーバパパ」なのと、身体を変形させることを「バーバ変身」と呼んでいるのと、しばらく人間と共に暮らすがどうしようもなくさびしくなり、バーバママを探す旅に出て、世界を巡り、果てには宇宙にまで行くが、特に成果を上げずに帰ってきた元の家の庭からバーバママが出てくるのがおもしろかった。

 昼前に家を出て『夜明けのすべて』を観に行った。傑作。三宅唱への信頼がより高まった。ひととひととがケアし合い、互いを思いやり合う心地よいあり方が描かれ、フィルムの質感を活かした光の映画でもあると共に、画面のなかに映っているすべての人間がきちんと息をしている誠実な映画だった。人びとの日々の営みへの穏やかで力強いまなざし、その極めつけはなんとエンドロールの背景に流れる映像で、主人公たちが働く栗田科学の工場から次々とひとが出てきて、あるひとはキャッチボールを始め、あるひとは花に水をやり、それを撮影する中学生たちがいて、少し遅れて出てきた松村北斗が「コンビニ行きますけど、なにか買ってきますか?」と皆に声をかけてから、自転車で去っていく。ふたりの社員がキャッチボールを続けている。やがてボールが高く逸れ、画面手前側の車道を横切っていき、社員が車道の左右確認をしてからそのボールを取りに来るところで終わる。そんななんでもないある日の風景が、この映画を経た最後に流れることで、そこに映っている人びとが実際に生きているであろうひとたちとして強く胸に迫ってきた。このなにげない映像さえもおそらくきちんと狙って撮られているものなのだろうと思えるほどに、全体的に映画がうまいと思った。会話も仕草も光も。

 いったん帰宅してゆっくりしてから、夕方に家を出て歩いていると、道中、雑に折られた千円札が二枚落ちていて、前を歩くひとが落としたかと思って話しかけたところ、たぶん私より前にいた白いパーカーの方ですよ、とその男性は教えてくれて、白いパーカーのひとを探したが、日曜日の夕方の駅前というのは白いパーカーのひとを見失うのにうってつけの環境だった。そのまま二千円を持っているのもなんだか落ち着かなかったのと、一度やってみたかったので交番に持っていった。日曜日の夕方の交番というのは存外暇なのか、ふたりの警官はかなり前のめりで預り書を作成してくれた。三ヶ月後までに持ち主が現れなければその二千円は僕のものになるが、警察署まで取りに行く必要があるという。

 その二千円のためだけにわざわざ警察署に行くのも、それはそれでいいかもしれないと思いながら、『ゴースト・トロピック』を観に行った。この前の『Here』と合わせてバス・ドゥヴォス監督作品をふたつ観ることができてよかった。このひともまた信頼できるまなざしを持った監督だと思った。移民女性によるやむなしの真夜中ひとり歩きは、文字どおり地に足をつけながらも、そこではないどこか("Get lost")への気配を常に漂わせ続け、その浮遊感は道中に置いてきてしまった犬の行く末に想いを馳せるときピークに達する。おそらくは何十年も前に移民してきてずっと真面目に働き続けてきたのであろう女性の、一夜の冒険の旅であり、解放の過程でもあるように思った。

 帰ってきてからは録画していた『光る君へ』を見た。柄本佑が弓を放つところが変で笑ってしまった。

 

2/12

 スポーツというものが資本主義と分かちがたく結び付いているのだと実感させられる、その最たるイベントであるナショナル・フットボール・リーグの第五十八回スーパーボウルが日本時間の本日朝から行われ、幸いにも休日だったために家のテレビで観戦することができた。いい試合だった。しかしやはり試合外の資本主義ゲームみたいな側面がかなり強くて、それもこのスーパーボウルという祭りのひとつの魅力であるのだが疲れてしまった。同居人は同居人で、今日は午前中から昼過ぎにかけて仕事があって疲れて帰ってきた。そんなわけで、今日はふたりとも疲れて、昼ごはんを食べてから二時間くらい昼寝した。同居人は『バーバパパ』を見るとかなりすっと入眠できるらしく、今日も昼寝の前に見進めた。

 

2/13

 一昨日観た『夜明けのすべて』のエンドロールに流れる映像の豊かさについては、同じく三宅唱が何年か前に恵比寿映像祭で展示していた《ワールドツアー》というインスタレーションにヒントがあるような気もしている──なんてふうに書くと僕があたかも『夜明けのすべて』を観たことですぐさま《ワールドツアー》を想起したかのようだが、そんなことはまったくなく、まじでたまたま今日恵比寿映像祭のポスターを見かけたためにふわっと思い出しただけなので、書き方が少しずるかったかもしれない。それはともかくとして、《ワールドツアー》という展示、そしてそこに掲示されていた制作日記のなかには三宅唱の映画にたいする思想の一端が見てとれる。

 《ワールドツアー》という展示は、三宅監督が山口情報芸術センターと共同で進めていた映画制作プロジェクト(これが結実したのが『ワイルドツアー』という、これまたあまりにもみずみずしい作品だ)の過程で生まれたもので、鑑賞者の目の前に三つのスクリーンが互いに隣接する形で置かれ、そこに三宅唱やその周りのスタッフらが撮りためた、なんでもないような日常の断片的な映像がランダムで流される。それぞれのスクリーンに別々の映像が流れたと思えば、ひとつの映像が三つのスクリーンにまたがって流れることもあり、映像が切り替わるタイミングも揃っていたりまちまちだったりするが、なんの脈絡も文脈もないように見えるその断片の集まりが、どういうわけかずっと見ていられるものになっており、鑑賞者は三つのスクリーンの前でいつの間にか床に座ったり、寝転がったりしながら映像をずっと眺めてしまっている。なんでもない映像の断片の連なりを楽しく見てしまっている。どうしてそんなことが可能なのかといえば、そもそも流されている映像の断片がランダムでもなんでもなく、三宅監督による途方もない編集を経てそこに流れているからであり、そのことについては展示場所の壁に掲示されていた制作日記にて三宅監督が自ら種明かししている。

2018年3月23日(金曜日)

ずっと「ワールドツアー」の編集をしている。「一体どういうカットが使われたり使われなかったりするのか」と尋ねられる。たとえば、実際に体験した方が明確に面白そうなイベントごとを映像でみるのは、なかなか面白くない。むしろ、実際に目でみただけならまるで気がつかないかもしれない瞬間や風景を、映像でみることではじめて面白いと思えること。例えば空き地とか。カメラや映像によってその場所の潜在的な可能性が示される、という感じ。映画が役に立てるとしたら、こういうことではないか。(中略)映像と映像の間には、撮られなかった無数の瞬間、無数の出来事がある。

 というこの制作日記をなぜ僕が記録しているかといえば、数年前の僕がその場でスマホにメモしたのが残っていたからで、それをこうやって僕の日記に転載するのがいいのか悪いのかはわからない、というかいいか悪いかでいえば悪い寄りではあると思うが、ほんとにいいことを書いていると思ったのでこうやって書き記している。もともとのメモが(中略)されていたからそのまま(中略)しているが、元の日記がどうなっていたのかをいまとなっては知ることができない。

 光、アングル、長さ、音、動き、……映像作品を撮るときに本来ならば考慮されるべきいろんな要素が抜け落ちた、なにげなくスマホで撮影した映像の、「潜在的な可能性」を示すために並び順を考える。そうやって並べたものが脈絡や文脈を──いっけんそういったものが存在しないかのような雰囲気で──持つようになって、「はじめて面白いと思える」。おそらくは途方もない編集を経て僕たちの前に差し出されたのが《ワールドツアー》という展示である。大仰なクライマックスを避けた、禁欲的ともいえる作劇がされていた『夜明けのすべて』には、そうはいっても《ワールドツアー》と比べるとずっとわかりやすい物語があり、映画本編という文脈が与えられた上で、エンドロールに流れる「実際に目でみただけならまるで気がつかないかもしれない瞬間や風景」を観ることによって、そこに映る、見知らぬようでよく知っているような気もする人びとのなにげない営みが、とてつもない豊かさを持って僕の目をうるませた。

 

2/14

 べつに連日そのことばかり考えているわけではないのだが、今日もたまたま『夜明けのすべて』を観たひとの感想を読んで、エンドロールの映像の光石研がとてもよかったということが書かれており、僕は光石研がじょうろで花に水をやっているところまでは覚えているのだが、そのあと彼がどうしていたかはわからず、もう一度観たい気持ちになっている。あの、いっけんなんでもないようで、映画本編を経た目にはとてつもなく豊かに映る映像を……。R.E.M.の"Imitation Of Life"のミュージックビデオのように、ズームアップとアウトを繰り返し、何度も再生し、巻き戻しながら、あのエンドロールの映像に映っていたあらゆるものを確かめたいという気持ちになっている。

 

2/15

 眠い! と僕が日記に書くのは、きちんと調べたわけではないがなんとなく木曜日が多い気がする。しかし今日は日記を「眠い!」だけで終わらせるのではなく書いておきたいことがあって、それはなにかというと、今日の奇妙な暖かさについてだ。単に暖かいというよりはぬるいという表現が似合うような、焦点の合わない、ぬぼっとした気候、そして目を細めたくなるような風の強さ、それらはいずれも春の気配を感じさせるもので、本来であれば喜ばしいことであるはずなのだが、一方でなんとなく飲み下しにくいような、あるいは楽な姿勢がいつまでも見つからないような、奇妙な落ち着かなさがあったこともたしかで、僕にとってそれはオブラートに包まれたボンタンアメを舐めるときのような感触に近い。ボンタンアメなんて久しく舐めてないけど。

BE 納豆

 

2/16

 やや東南を向いている僕たちの家の窓からは、朝晴れていて、なおかつ太陽の軌道が低い冬ともなれば、カーテンを開けた途端にとんでもない量の光が差し込むので、たとえば今朝のように、白米、納豆、インスタントのスープというような朝ごはんがテーブルに並んだ場合には、米一粒一粒に光沢が宿り、茶碗から立ち上る湯気の一筋一筋がやわらかく揺れ、納豆をかき混ぜた箸にしぶとくぶら下がっていたがとうとう切れて空中に舞った糸すらも美しく照らされる。糸は光のなかに昇っていくように舞い、それを見た同居人が「龍みたいだね」といっていてかなりウケた。たしかに糸の舞う姿は見れば見るほどに龍で、僕はニンテンドースイッチの『ゼルダの伝説』シリーズにおいて特定の時間に特定の場所に行けば見ることができる龍を思い出した、そういえば『ゼルダの伝説』をさいきんまったく進められていない、なぜなら同居人が会社の同僚にニンテンドースイッチを貸してしまっているからで、僕も頻繁にプレイしていたわけではなかったからべつにそれでもよかったのだが、今朝のように龍に似すぎている納豆の糸を見てしまっては、プレイしたくなる気持ちがあらためて芽生えてくるのも無理はない。

 そんなどうでもいいことで爆笑してしまった朝、家を出て会社までの短い距離にVampire Weekendの新曲を聴いて、あまりのよさに今度は泣きそうになった。明らかに"Modern Vampires of the City"の頃のフィーリングがそこには存在していて、メロディラインにかんしてはもはや手癖ともいえてしまうような部分もあったが、それでまったく構わないと思えるほどに冬の朝の光にマッチしていたのだった。昼休みにはMk.geeのアルバムを聴きながら少しだけ散歩した。聴けば聴くほどに不思議なバランスで成立しているアルバムだと思う。

 

2/17

 平日の夜に翌日の仕事のことを思って義務感から眠りにつくのとはまるで違う、休日の昼間に訪れる眠気に導かれるままに眠ることのうれしさ! 洗濯物を干し、朝ごはんを食べ、本をぱらぱらとめくり、スマホをいじっているうちにだんだんと姿勢が崩れ、いつの間にソファで横になって毛布をまとい、身体が温かくなって目を閉じる一連の流れのうれしさ。しかしそうやって始まった昼寝が長引きすぎると、それはそれで目が覚めたときに悲しいので、目を閉じる直前にスマホのアラームを二、三十分後に鳴るようにセットする。さいきんはそのアラームをやり過ごさずに目を覚ますことができるようになってきており、だいたいアラームで起こされた直後は身体もまだ異様に温かく、何度も眠りに引き戻されそうになるのだが、しばらく枕元のスマホをいじり、目をしばたかせ、足の指なんかを動かしてみているうちに身体を起こせるときが来る。

 今日はそんな短い昼寝を午前と午後に一回ずつやって、午後の昼寝のあとには少し頭が痛くなった。

 同居人は友だちの結婚式のために朝から出かけていて、僕は特に用事がなかったので午前中からその昼寝をし、昼前に家を出て目黒シネマに『暗殺の森』を観に行った。序盤から現在と過去が入り交じりながら進む構成に最初は戸惑いつつも、慣れてしまえばなんてことなく、終盤に至って二つの時制が合流するところでにやけきった。ときに作為的であることを隠そうともせずに全編を通じて完璧にコントロールされきった色彩。うつろいゆく光と影、ふと目が合い、そらす瞬間を克明に記録し続ける撮影。ドラマチックすぎてときに笑ってしまいそうになる劇伴。それらの高等技術が下支えとなって、過去にトラウマを抱えたひとりの男が、〝ふつうの強い男〟であろうとしてファシズム政権下のイタリアでもがく姿が映される。暗殺任務を背負った秘密警察の一員としてきびきび動いているかと思えば、声を不安げに震わせながらキョドったりもしていて、ひとりの人間のなかのそういうブレがすべて画面内に見てとれてしまうのは、やはり色彩も撮影もコントロールされているからこそ物語や人物に集中できるということだろうし、もちろんジャン=ルイ・トランティニャンという俳優のうまさでもあるのだろうと思った。

 他でいうならば、アンダーワールドの曲において、一定のビートが刻まれ続けているからこそ、カール・ハイドの声が非常に生きて聞こえる、というようなことと同じかもしれない。

 違うかもしれない。

 それにしても主人公の妻と、新婚旅行兼任務遂行の地として訪れたパリで出会う暗殺相手の妻が非常に魅力的で、特にふたりがダンスホールで踊るシーンはほんとによかった。ふたりの女性から始まったダンスの輪が、やがてそこにいたひとたちみんなに広がって、ノれずにいる主人公を取り囲むところはウケたし、主人公の心理描写にもなっているようでうまかった。あとはラストシーンも凄みがあってよかった。……なんてふうに映画を反芻しながら、松屋で気になっていたシュクメルリ鍋定食を食べた。おいしかったが、同じにんにく系でいうと、うまトマハンバーグ定食のほうが好きかも。そのあとは散歩してから帰宅し、読書し、昼寝し、テレビを見、外に出てそばを食べ、散歩し、同居人が帰ってくるのを待った。

 本はいま千葉雅也の『デッドライン』を読んでいる。青春小説なのだが読み味はかなり変わっていて、ゲイの性生活や哲学で論文を書こうとしている院生であることなどの内容が珍しいというのもあるが、書かれていることの順序が変というか、あえて理路整然とせず、まるで思い出した順に書いていっているような感触があって、楽しく読んでいる。

 

2/18

 昼頃までゆっくりと過ごしてから、「オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム」を見るために外に出た。僕たちは映画館でのパブリックビューイング勢だったのだが、一緒に行く友だちが東京ドームの周りも一度見てみたいそうで、早めに集合してドーム前の盛り上がりを見た。老若男女すごい人数のひとがいて、こんな大盛り上がりのイベントなんて昔のハスっている若林だったらやるわけないんじゃないかとも思うし、僕も申し込んでおきながら若干ハスる気持ちがないわけではなかったが、いざ行ってみるとラジオなんかのイベントにあれだけのひとが集まるのはすごい。感動的ですらあると思った。その後映画館に移動してパブリックビューイングで見た。東京ドームから日比谷の映画館まで歩いて移動したらかなりちょうどいい時間に到着し、しかしあまりにちょうどよすぎたために飲み物を買う時間がなく、喉カラカラの状態でライブに突入してしまったのだが、同居人が合間を見計らって途中で飲み物を買ってきてくれてかなり助かった。干からびるところだった……。

 ライブは観客全員がリスナーであることを前提に、いつものラジオの構成そのままに進んでいくのがうまいし美しいと思ったし、若林も春日もさすがにこの日のために強いフリートークをしっかり準備してきていて、「ラジオの〝神回〟を見ている」という感覚が強く、それを同じく〝神回〟であった若林の結婚発表回を車のなかで一緒に聞いた友だちとまた集まって目撃できているのは、それこそ今日のオープニングムービーではないが、ラジオと僕たちの暮らしや時間が並走しているような気持ちにもなった。もともとすごく熱心なリスナーではないうえに、さいきんはなんとなく徐々に心が離れつつあって、今日のライブでいったん個人的な区切りとしてもいいかもしれないと思っていたところを、ガツンと揺り戻され、この二人と並走していきたいと思わせられるライブだった。スター性と強靭な身体を兼ね備えた春日対フワちゃんのプロレス、そして大スター星野源の登場、とクライマックスが続いたあとに、いつも通りの「死んでもやめんじゃねーぞ」のコーナー。そこまででラジオとしては一度締めたあと、中央のステージにセンターマイクが表れる演出は、もちろんみんなの予想通りではあるし、もちろん漫才のなかで若林はボケに混ぜてほんとうのことをいおうとするだろうというのもわかってはいたが、ちゃんと笑わせられつつ感動させられてしまった。漫才の神性のようなものを信じた漫才だったと思った。よかった。疲れた!

旗を抜きにしてもいい写真(木と観覧車)

 

2/19

 朝から小雨で空気もぬるいという明らかによくなさそうな感じの日で、案の定徐々に頭が痛くなっていき、昼過ぎに会社を早退したところ、今日は朝から同じように調子がよくなかった同居人が会社を休んで家におり、僕はベッドで、同居人はソファで昼寝した。同居人は休日にもよくソファで昼寝しており、そんなにソファでの昼寝はいいものなのかと思って僕も一昨日の午前と午後に一回ずつソファで昼寝したのだが、ベッドより狭いぶん、短い睡眠をとるのならむしろスムーズに入眠できる感じがあった。起きるときもまずは足から床に下ろし、徐々に身体を起こして背もたれによっかかる、という手順を踏むことができ、段階的に覚醒していけるため、昼寝にはうってつけの場所なのかもしれない。というか、そもそもこのソファは僕が一人暮らしを始めたときに、クッションを置けばソファになるし、クッションをどけてマットレスを引き出せばベッドにもなるという、いわゆるソファベッドとして買ったものであり、実際にこの上で二年近くは寝ていたので、寝やすいのは当然というべきかもしれない。いっぽういまのベッドはローベッドというやつなのか、とにかく床からの高さがなく、眠りにつくにはいいのだが、起きるときにはいったん足を床に下ろすということもできない高さのため、一息に身体を起こす必要がある。十分に寝た朝はそれでもいいが、今日のような昼寝の場合にはいつまでも身体を起こせないということになる。さらにいまのベッドは枕が窓のほうに向いていて、今日のような天気だとベランダに雨が落ち、跳ね、ちょろちょろと流れる音が、まるで小川のほとりに寝ているかのように克明に聞こえるため、それもまたいい睡眠導入の材料となって僕を昼寝から逃さなかった。逃さなかった、といってもそもそも今日の僕は頭痛で早退して帰ってきているため、たくさん寝るべきなのでそれでよかった。

 

2/20

 気温が高く、曇っていても明るさがあって、遠くを走る電車の音や雲が動く音がよく聞こえ、春っぽいにおいもするとなれば、それはもう、春の気配ではなく春そのものである。二月に春。となれば季節への欲求はさらに刺激され、今日という日の春の空気のなかにその次の季節、すなわち梅雨や夏の気配さえもかぎ取ってしまいそうになる。じっさい、今日の昼間、ためしにベランダに立ってみたときの眩しさには夏がもう含まれていたように思った。

 夜が近づくにつれて気温は徐々に下がったが、春っぽいにおいはいつまでも続いていて、僕はそのなかに無限に春っぽさを感じながらも、さっきから「春っぽい」とバカっぽいいい方でしか表現できていないこのにおいの正体がなんなのかいつまでもわからずにいた。毎年わからずにいる。でも僕はこれが春のにおいだと知っている。小さな頃から毎年かいできたように思う。その証拠、というほど大げさなものではないが、このにおいをかぐと春の記憶がひとりでに思い出されてくる。

 たとえば、中学生のときに入っていた天文気象部はその名のとおり天文と気象のことをやる部活で、部員ひとりひとりにアルファベット二文字のコードネームのようなものが割り振られ、旧校舎のほうの理科実験室を部室代わりとしており、その屋上には小ぶりだが立派な天文台があって僕たち部員だけが入ることを許されているという、いま考えればけっこう青春っぽい要素にまみれた部活だったのだが、僕としては当番制で担当しなければならない太陽の黒点観測と百葉箱の記録がめんどくさく、天文の部活の本番ともいえそうな夏と冬の合宿にも二回くらいしか行かず、ふだんの部会からも徐々に足が遠のき、けっきょく中高一貫校なのに中学生まででやめてしまったのだった。百葉箱の記録当番は土日にも割り振られていて、日曜日にわざわざ電車に乗って学校に行き、中学校舎と高校校舎を結ぶ階段の半ばに設置されている百葉箱を開いて、記録用紙にボールペンで書き記し、最後に自分のコードネームを書くというだけのことを、中学一年生か二年生の春にやった。それを今日の空気のにおいで思い出した。

 ほんとにそんなアナログな記録をするためだけに日曜日に学校に行ったのか。そのあとまっすぐ帰ったのか。ひとの少ない日曜日の校内を散策するなどしなかったのか。あるいは屋上の天文台のなかで寝転がってiPodで音楽を聴くとか、グラウンドで声を張り上げている野球部の同級生を望遠鏡で見てみるとか、そういうことをせず、ただ百葉箱のためだけに日曜日に学校に行くなんてことがあり得るだろうか。いまとなってはわからない。とにかく今日は、百葉箱のためだけに日曜日に学校に行った、という思い出し方をした。

 個人的にはにおいと同様に音楽も記憶を呼び起こすもので、たとえば僕はMGMTのファーストアルバムを聴くたびに、高校生くらいの休みの日の夕方、あのアルバムを聴きながら、地元の沼沿いの遊歩道を自転車で走ったことを思い出す。沼の向こうへ沈んでいく夕日に背を向け、家の方向へ自転車を漕ぎながら、しかし水面に西日がきらめく美しい景色を見たくて、ときどき自転車を止めて振り返った僕の、ポケットから耳へとだらしなく伸びたイヤホンからは"Electric Feel"が流れていた。さっきの百葉箱と同じで、この記憶も思い出されるたびに少しずつ違うのだろうが、大枠としてはだいたいそのとおりあった。でもときに、初めて聴くのに記憶が呼び起こされる音楽というのもあって、たとえば今日聴いたシカゴのFrikoという若いバンドのアルバムは、高校生の僕が地元を自転車で走っていたときに同じく聴いていたとしか思えない感触にあふれていて、やはり沼の向こうに消えていく夕日がきれいなのだった。そしてそれもやはり今日のような春めいた日のことに違いなかった。

 

2/21

 夜が更けるにつれて気温が下がり、寝ている間に寒くなった。同居人が悪夢を見たとかで僕も夜中に二回起こされたが、そのときにはもう寒くて、布団を顎の下まで被って再び眠りについた。悪夢のなかでは僕がよくないことをしたそうで申し訳なかったが、夢のなかの僕の行動にまで僕に責任があるのかというとやや疑問だった。でもふつうは見た本人しか知りえず、その本人でさえも目を覚ましてからは忘れてしまうものである夢というものが、こうやって起きざまに共有されることによって、長く記憶されるものになりえるというのは、もしかすると素敵なことじゃないかとも思った。今回は悪夢だったのがよくなかったが……

 僕も夢を見たような気がしたが、忘れてしまった。

 

2/22

 仕事で疲れ、激ネムになった。同居人によれば僕は仕事で疲れて帰ってきたときには足が臭いらしいが、今日はどうだっただろうか。靴下は臭かった。足まで臭かったかどうかはわからない。身体が硬いから。靴下が臭ければ足も臭いだろうという推定が当然はたらくが、実際にかいでみなければわからない。

 同居人が会社の同僚に貸していたという『女の園の星』がおよそ一年ぶりくらいに帰ってきたので読み返した。おもしろいのはもちろんだし、余白がとてもうまい。(絵のことではなく話の内容の観点で)描くことと描かないことのバランスが抜群に優れていると思う。内容としてはコメディに分類されるだろうし、ともすればギャグ漫画ともいえそうだが、ウケるために描きこむのではなく、余白を持たせることで笑いを取っているこの低体温な作風は、まさしく和山やまの発明といえると思うのだが、僕はべつにそんなに漫画に詳しくないのでわからない。

 余白という言葉で表されるものとはちょっと違うかもしれないが、『相席食堂』で千鳥のふたりがVTRを見ながら「これだけで終わったらおもろいぞ」みたいなことをいうのも、欲張りすぎないという観点では似ているような気がする。欲張りすぎないこと。動きすぎないこと。拾いに行きすぎないこと。かといって繰り返しすぎないこと。……と思ったが、「ここで終わったらおもろい」というのは、単純に「逆をやる」的な発想のような気もする。でもそうやって既存のテンポを崩すやり方──反骨精神やカウンターというわけでもなくそうしたほうがおもしろいと思うからそうするやり方というものが、これまで文学や映画や音楽を動かし続けてきたのだろうと想像すると、僕は「ここで終わったらおもろい」というのがただの逆張りであるとは思えない。それはたしかにおもろいからそうするのだ。

 

2/23

 激ネムネム・スギス。グッナイ智則。

 

2/24

 日記というのは自分自身があとから見て振り返るためのものであるというのが第一義としてあると思うので、自分で見てなんのこっちゃという部分はなるべくなくしたほうがよく、そのためにおもしろくないことをあえて説明すると、昨日の「ネム・スギス」というのは元を辿れば「サム・スミス」がいて、寒い日に「サム・スギス」と僕がよくいっているのを、さらに変形させて「ネム・スギス」にして書いたものだった。こういう解説を、日記というものだからこそきちんと書き残しておく必要がある。

 昨日は仕事のあとに友だちたちと新年会だった。「明けましておめでとう」という乾杯から始まるのであればいつだって新年会だ。友だちのひとりは「オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム」のトレーナーを着ていて、よかったよね、という話になった。ゲストで登場したフワちゃんと星野源のスター性もすごかった。スターというのはここぞというときに決めてみせる。でも、ここぞというときに、という話でいうと昨日の友だちも負けてはいなくて、焼き鳥屋で串を入れる筒に既に何本か串が入っていたのを見て、即座に「前のセーブデータが残ってる」と表現したのには痺れた。そのあとは、『夜明けのすべて』をぜひ観てほしいという話、さいきんどうですかという話、独りで死ぬ可能性についてビビっているという話、恋人になにをどこまで共有するか、鮭ハラス串がうまい、町田康の『告白』がすごい、自炊して弁当まで作っているひとはかっこいいという話などをした。あとはなんだったろうか。昨日書けばよかった。店を出たらまじで寒かったということは覚えている。そこでもたぶん僕の口から「サム・スギス」が出たと思う。

 今日は晴れて昨日よりは暖かかった。今日は僕の友だちの妻、と書くとどうも不思議な気持ちだが、友だちの、以前は恋人であり、現在は妻であり、しかし僕や同居人ももう何度も会っているのでもう僕や同居人の友だちでもあるので、もう友だちと書くが、とにかくその友だちと昼ご飯を食べる約束をしていて、以前会ったときにはロイヤルホストで食べたので、次回もチェーンのレストランで食べましょうという話になっていたので、今回はバーミヤンに行った。昨日の別の友だちたちとの新年会でも話題に上ったのが、家の近くにほしいチェーン店はなにか、という話で、単独一位はもちろんミスド。しかし僕にとってその次くらいに浮上してくるのがバーミヤンで、ここ何年か行っていないのだが、前回行ったときにとてつもなくおいしかったという記憶があり、今日は久しぶりに行けてうれしかった。午前中からカーシェアで車を借りて同居人と向かい、集合したのは友だちが住んでいるところの近くのバーミヤンで、駅前にあったのだが、同じく駅前にはミスドもあって、正解の町だと思った。

 友だちの夫、つまり僕の友だちが海外に留学というか研究というかに行っていたのが、もうすぐ帰ってくるらしく、そのこと関連の話をしたり、もっと時を遡って話したりした。『夜明けのすべて』をおすすめした。バーミヤンでは餃子やレタスチャーハンなどいろいろを注文して、どれもふつうにおいしかったが、僕の記憶にあるほどのすさまじい感動はなかった。ガストと同様に猫みたいな顔をしたロボットが料理を運んでくるシステムになっていたのだが、そのことがバーミヤンすかいらーくグループであるということを思い出させ、べつにそれ自体は悪いことではないはずなのだが、僕の記憶のなかでノーマルなファミレスから大きく逸脱した存在となっていたバーミヤンを、どこにでもあるファミレスの枠内に収めることとなってしまったのかもしれない。

 バーミヤンを出てからはミスドでドーナツを購入し、工具箱的な細長い紙箱で持ち帰った。あの細長い紙箱のうれしさというのは何にも代えがたい。友だちを車で家まで送るついでに「ドーナツも買ったし」ということで家に上がらせていただき、コーヒーまで出していただきながら三人でドーナツを食べた。同居人は「ドーナツやくざ」だと表現していた。ドーナツもたくさん買うてもうたさかい、上がらせてもらうで。コーヒーでも出してや。あらまあ、ええ家に住んでますな。ほな、コーヒーいただくで。うま。あんがとさん。また来ますわ。……同居人はバーミヤンにいたときから鼻水がえらく出てきてしまったそうで、目もしばしばし、花粉症かもしれないといって、その後ずっと鼻をかんでいた。待望のミスドにも集中しきれておらず、かわいそうだった。鼻水は帰りの車内でも続き、帰宅後は少し収まったのでやはり花粉症なのかと思いつつ、そのままぐったりして寝てしまっていた。

「オールドファッションこそがドーナツである」と信ずる僕のオールドファッションが、同居人のポンデリングに圧されている

 

2/25

 あと、昨日は「オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム」のオープニングにて春日がパロディを披露していた映画『メジャーリーグ』を家で観た。人種や宗教にかんする差別、女性蔑視、ホモソーシャルなノリに満ち、肝心の野球シーンもどうも緊張感に欠ける映画で、ずばりいうとぜんぜんいい映画ではないのだが、不思議と嫌いになれない感じがあり、それはおそらく、八十年代なんてこんなもんだったんだろうね、という意識が頭にあるからだろう。しかし公開年を調べてみるとなんと一九八九年で、八十年代といってももう終盤なのだった。

 昨日鼻をずびずびさせて早めに寝ていた同居人が今朝は早く起きて、コーヒーを用意してくれていたので、僕も起きて昨日のミスドの残りを一緒に食べた。それからしばらく二度寝してから昼前に起き、昼ごはんからの映画といういつもどおりの休日のコースを辿るべく家を出た。昼は初めて行くおでんと牛たんの店へ。牛たんは当たり前にうまく、おでんで身体も温まった。日本酒の熱燗も少しだけ飲んだ。

 電車で映画館の近くの駅まで移動し、上映までまだ時間があったのでコメダ珈琲に入店。僕も同居人もそれぞれ読書したり、同居人はしばしの昼寝をしたりして過ごした。僕は西村賢太の『苦役列車』を読んだ。西村賢太は読んだことがなかったのだが、濃厚な私小説の磁場に引き寄せられて一気に読み進められた。私小説とは単に赤裸々であればいいというものではなく、主人公を俯瞰で見る視点ありきの文章のおもしろさも備わっているべきなのかもしれないと思った。

 コメダを出て『落下の解剖学』を観た。作家の女性が夫を殺したのか否かというサスペンスを軸に展開していくのかと思いきや、法廷の内や外での会話は徐々に、当事者たちの意図や気持ちや行動を当事者ではないひとたちが一意的に断言してゆくことの奇妙さについての話へとスライドしていき、単純に事件が解決するカタルシスとはまったく異なる地点へと導かれた感覚があっておもしろかった。当事者でないひとたちが断定することの奇妙さは、映画内で描かれる裁判という場を超えて、現代のSNSのことも射程に入れて描かれているようにも思えたが、思い込みでしょうか。主人公の聡明な息子による「真相がわからないことについて、それぞれが心のなかで一通りに真実を決めて語らないといけない」というような台詞が、この映画を端的に表しているようでもあった。あとは犬の演技も素晴らしかった。名犬!

 帰宅して『光る君へ』を見、そのあとのNHKスペシャルのウクライナ兵たちへのインタビューと実際の戦争の映像の特集を見た。兵士それぞれのスマホや上空のドローンのカメラによって記録された映像を目にするのは非常なショックを伴うが、まずはせめて見るだけでもしなければならない。

 

2/26

 よく晴れていて、朝のニュースでは花粉がどうのこうの話していた。僕もなぜか鼻水が出るし、なぜかほんの少し目もしばしばするような気がした。でも一昨日、同居人の花粉症っぽい症状がひどかったときに、僕はよく散歩で外に出ているから花粉にたいする耐性がある、と豪語したばかりだったので、ここは平静を装わなければならない。

 帰ってきてから『希望のかなた』を観た。すごい映画だった。無表情で無愛想に突っ立っている人びとの姿が、どうしてこうも生き生きとしているように見えるのか。どうしてこうもリアルに感じられるのか。魔法としかいえないような空気が流れていて、『枯れ葉』に続き、胸を動かされた。辛く残酷な世界において、どうやってひとはひとを思いやり、希望を持つことができるか。僕もせめて善意のひとであろうと思った。

 

2/27

 仕事した。越前リョーマでなくとも「まだまだだね」といわれてしまうようなていたらくであった。帰ってきて風呂に入っている間に柴田聡子のアルバムが出ていたのでこれから聴いて寝る。今日は昼頃に病院にこの前の検査の結果を聞きに行って、心エコーの映像なんかも見たのだが、自分の胸のあたりに入っているであろう奇妙な器官が、粒の荒いモノクロの映像のなかで奇妙なダンスを踊っている様をぼーっと眺めながら、「ほら、動いているでしょう」「動いてますね」なんてふうに奇妙な会話を交わすのは、とても奇妙な気分がするものだった。ということをいま思い出して、せっかく思い出したので書いた。柴田聡子やばい!

 

2/28

 柴田聡子の『Your Favorite Things』は、先行曲、ジャケット、アルバムタイトル、本人のコメントから醸成された「すごいかも」の雰囲気をはるかに超えるマジの凄みがありながらも、生活のなかにしっかり根を張ってくれそうな傑作で、昨日の夜日付が変わってから一周聴いた段階で思わず涙が出そうになった。週末のライブも楽しみ。これまでのライブでの気の抜けた「センキュー」が似つかわしくないほどの境地に達してしまっている気もするが、今回のアルバム発売に寄せての本人のコメントからはこれまでと変わらぬ調子も感じられ、たぶん今回は今回なりの「センキュー」を聞かせてくれるのだろうと思う。だけどほんとにセンキューをいいたいのはこちらのほうです。柴田聡子特集の『ユリイカ』も買った。まだぜんぜん読めていないが、最初のほうのadieu(上白石萌歌)との対談で萌歌が「柴田さんの歌って揺蕩っているんです」と端的にいい表現を使っていて、萌歌への信頼も同時に高まることとなった。僕はなぜか上白石姉妹のことを勝手に名前で呼び捨てしてしまっていて、昨日も会社で同僚に『夜明けのすべて』の話をちらっとしたときに「萌音もかなりいいんですよ」と呼び捨てにして同僚に「モネ?」と聞き返された。

 

2/29

 会社で「よくある話題で、うどんとそばとラーメン、これから死ぬまで一種類しか選べないとしたら、ってやつあるじゃないですか」といったら「初耳です」といわれた。家に帰ってから同居人に「うどんとそばとラーメンどれかひとつ選ぶなら、ってやつあるよね」と聞いたら「あるよ」といわれてよかった。うどんとそばとラーメンから一種類を選ぶ話題が消失した世界から、私は生還したのである。