バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二三年十二月の日記

12/1

 一年のうちに外の気温がどんなに上下しようとオフィス内の室温にはさほど変化がないであろうという発想のもと、寒くなってきたからといって何枚も重ね着をするのではなく、長袖シャツ一枚の上に分厚いアウターを着るという方式で出社している。会社に着いてアウターを脱いでしまえばもう他の季節とあまり違いはなく、長袖シャツを着ているのだって、寒いからそうしているというよりは季節感を重んじているというだけで、ほんとは半袖ポロシャツだっていい。しかしこの方式だと少しだけ困るのが、たとえば昼休みにちょっとだけ外に出るときなんかに長袖シャツだけだと寒いということで、かといってそこでアウターを着るのも大げさなのでこの寒さは基本的には我慢をするしかない。我慢といっても、中庭っぽいところをちょいと横切るだけみたいなものなのでへっちゃらなはずなのだが、そんなわずかな間でも身体は冷える。学生の頃と比べて身体の冷えに敏感になった気がする。昔だったら寒くてもあとで暖まればすぐに回復するという感覚があったし、実際アメフトをやっていたときなんて信じられないほど薄着で何時間も外にいたはずなのに、いまでは仕事の昼休みにほんの数十秒程度外に出るだけで身体が冷え、しかもその冷えは屋内に戻ってからもしつこく残っている気がする。これが〝老い〟だといわれればそうなのかもしれないが、どちらかというといままでが〝若さ〟だっただけで、感覚が平常化したにすぎないのだと思う。そう思います。

 今日は会社を出てから同居人とリドスコの『ナポレオン』を観に行った。なんだか中途半端だという印象を受けてしまった……。十一月の末の日記で書いた、タイトかそうでないかという話でいうと、タイトではなかった。

 

12/2

 いい天気! さほど寒くもない! となれば散歩に出ざるを得ない。五反田のTSUTAYAに行って『アウトレイジ』を返却し『アウトレイジ ビヨンド』を借りた。TSUTAYAでは「今年よかったゲームについてインタビューしている」というテレビ局のスタッフのひとに話しかけられ、僕も同居人もゼルダくらいしか思い浮かばなかったのでそう答えたところ、どんなところがよかったですかと深掘りされたため、めちゃくちゃ薄い返答をした。そのあとは同居人がYouTubeさらば青春の光が行っているのを見たという居酒屋兼定食屋のようなところに行き、僕は麻婆豆腐定食、同居人はポテサラやメンチカツを頼んで食べた。おいしかった。

 同居人がジムに行ってみたいといいだし、僕も久しぶりに行って少し運動したほうがいいとちょうど一昨日くらいから思っていたため、五反田からの帰り道で同居人の屋内用のスニーカーやトレーニング着など一式を買い揃え、いったん帰宅してちょいとだけ昼寝してから区民ジムに行った。

 心地よい疲労感を伴いながらジムを出ると夕焼け空が広がっていて、鍋の具材でも買って帰ろうかという話をしてスーパーに寄り、ビニール袋から長ネギとニラを覗かせて帰った。帰ってから鍋を作るつもりだったが、なぜかマックを食べたくなってしまいデリバリーで注文してしまった。阿呆である。……と書いたのはここ数日町田康の『告白』を読み進めており、そのなかによく「あかんではないか」とか「阿呆である」とか出てくるからで、その語りのテンポのよさゆえに僕も思わず使いたくなってしまったのだ。『告白』はえらく分厚い文庫本だがとにかく語りのドライブ感が素晴らしいので、さも薄い短編集であるかのようなノリでちょっとした隙間時間にも読めてしまう。いつ開いても饒舌な語りがとたんに再開される感覚があり、ハリー・ポッターの映画で出てきた、押さえつけていないと噛みついてくる本みたいだなとも思いながら読み進めている。

 

12/3

 今週末には「加湿器をちゃんと洗って使えるようにする」のと「こたつ布団を干してこたつを使えるようにする」という二つのミッションを抱えていたが、けっきょくどちらともやらずじまいになってしまった! 特に今日の午前中なんて、同居人がネイルなどをやりに行っている間にいくらでもやれたはずなのだが、ちんたら過ごしてしまった。まあ、いうは易し行うは難しともいいますし……

 そんなふうにだらだら過ごしたくせに昼からホルモン屋に入ってタンや塩ホルモンをおいしくいただいてしまい、そのあと新しいスニーカーも買ってしまい、新宿のバルト9で『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観てしまった。『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』はなかなかおどろおどろしい話で、アニメ表現のすごさというよりは単純な話のすごさでヒットしているようだった。きちんと劇場版アニメっぽい盛り上がりや見せ場を作りつつ、戦中戦後日本の暗部にも触れていてなかなかの挑戦だと思ったし、妖怪たちは人間のことを忘れないが人間は妖怪たちのことを忘れてしまうという描写から、そんな妖怪たちのことを描き続けた水木しげるという作家のことにも思いを馳せることとなった。

 その後下北沢に移動して、同居人の会社の同僚の友だち、ようするに同居人の友だちでもあるのだが、そのひとが主催しているという映画のトークイベントに行った。一年を振り返れてよかった。一年を振り返りまくる時期だ。

 

12/4

 同居人が今月は運動をがんばりたいというので、仕事のあとジムに行った。上半身にはまだ一昨日の筋肉痛が残っていたため、今日は足と腹筋を少しやってからランニングマシンに乗ってみた。ランニングマシンに乗るのは初めてだった。ジムの外には広い世界があっていくらでも歩けるというのにどうしてマシンなんかに乗らなきゃいけないんだと思ってこれまで乗ってこなかったが、いざ乗ってみたところ、きちんと前を向いて歩き続けないと落ちそうになり、その強制性みたいなものがミソなのだろう。操作画面には距離や消費カロリーやその消費カロリーに該当する食べ物のイラストが表示されていて、それを見るのも楽しかった。表示される食べ物がまずかき氷、そしていちご、そしてワイン、そして目玉焼きと変化していったところで今日は歩き終えた。カロリー順に並んでいるのだろうが、そのせいで独特なストーリーを感じさせるラインナップになっていた。かき氷、いちご、ワイン、そして目玉焼きの順に食べたり飲んだりする一日というのはどういう一日か。そんなことを考えてみようとも思ったが、疲れたのでこのまま寝てしまうだろう。

 

12/5

 かき氷、いちご、ワイン、そして目玉焼きの順に食べたり飲んだりする一日というのは、きっとこんな感じではないだろうか:かき氷といちごを食べてからしまいにワインを飲む夢を見て、寒さで震えながら目を覚ました。布団がいつの間にめくれていて、なにもかけずに寝ていたのだった。足も手も冷えきっていた。靴下をはき、フリースを着て台所に行って、目玉焼きを作って食べた。その日はもう、それだけしか食べなかった。

 

12/6

 同居人は今日ダニエル・シーザーのライブに行った。十八時過ぎに会社を出て順調かと思いきや途中で電車が遅延、仕方なく京橋駅から国際フォーラムまで歩いた。ライブは楽屋からステージへと出てくるダニエル・シーザーをカメラで追った映像がステージ背後のスクリーンに映されるという演出で始まり、それを聞いた僕はM-1っぽいなと思った。溜めに溜めて発した第一声から素晴らしく、じっくりと聴きいりたかったが、周囲のひとたちがところどころ合唱していて正直うるさかった。わたしはダニエル・シーザーの歌を聴きに来てるんすわ、てかあんたらもそうじゃないんかい、と思った。そこまで強くは思っていないかもしれない。いずれにせよライブは進み、心地よい歌声に包まれて身体が自然に揺れた。ステージ上の光る床の上に寝転がって歌っている時間帯があり、寝転がっていても歌がうまくておもしろかったのと、アンコールがなぜか楽屋からの映像でお届けという形式でウケた。──ということらしい。僕も行きたかった。僕はというと仕事をしていた。そういえば今日仕事をしているなかでたどり着いた山梨のぶどう農家のインタビュー記事がとてもよかった。おぼろげだが、正直みんなシャインマスカットばっかり作っててつまんないんすよ、自分で品種改良してなんぼっしょ、おれはおれのぶどうでみんなとガチで喧嘩したいんすわ、みたいなことをしゃべっていてかっこよかった。しずるのKAƵMAみたいだと思った。べつにぶどう農家のひととはこういうものだという固定観念があったわけではないはずなのだが、今日読んだインタビューのひとは、僕のなかにどうやら存在したらしい見えない枠のようなものから外れた力強い輪郭を持っていた。──という話を同居人にしようと思っていたのだが、ダニエル・シーザーのライブの感想には勝てなかった。

 

12/8

 同居人のジムへの熱量はまだ続いていて、今日も行った。僕も行った。僕は同居人ほどの熱量を持てていないのだが、行くか行かないかでいうと行ったほうがいいものではあるし、上半身の筋肉痛ももうなくなってしまっていたので、行かない理由はなかった。行かない理由がないから行くなんてなんだかすかした中学生のようなことをいってしまっているが、いざ行ったら行ったでちゃんとトレーニングする、そんなところに僕の真面目さが表れる。というか僕は基本的に真面目で、今日もジムから帰ってきたら洗濯物がそこそこ溜まっており、もうすぐ週末だからそれまで待ってから洗濯するでもよいのだが、今日洗濯することにした。夜に洗濯機を回すということはその後ハンガーに吊るすなどして浴室乾燥をする必要があるのだが、これがどうもめんどくさい。僕にとって洗濯のピークは、洗濯物を洗濯機に放り込み、洗剤をかけ、柔軟剤を入れ、蓋をして「入」を押すところにあるのかもしれない。干すのも取り込むのも畳むのもめんどくさい。こんなふうにピークが序盤に来てしまうことは他にもあって、代表的なものでいうとたとえば本を買うという行為である。僕としてはそんなつもりはまったくないのだが、僕にとって本というのは買うところがピークなのではないか、だってせっかく買ってきた本を積んでばかりいるではないか、と同居人によく指摘される。そのたび僕はまあ本っていうのはタイミングがあるからねと偉そうに返し、実際そう思っているのだが、たしかにこのまま僕の本棚に積まれっぱなしでこの先何十年も眠り続ける本があったらドイヒーだ。

 

12/9

 仕事から帰ってきて、YouTubeM-1の準々決勝の動画をぱらぱらと見たりした。やっぱり漫才というものはすごいと思った。漫才というものは途方もなく巨大な図体を大きくうねらせながらものすごい勢いで前に進んでいて、その個々の結実としてそれぞれの漫才師たちのネタがあるのだった。しかしたえず進み続けるものであるがゆえに取り残されてしまいそうになっている(というのはあくまで僕の感じ方だけど)部分もあって、たとえばボケのひとの変なセリフに対してツッコミのひとが一度や二度「なにいってるかわからない」や「どういう意味?」などと受けて説明し直させるようなやり取り、これも数年前までだったら丁寧なフリとして機能していたと思うのだが、いまやちょっとやそっとの奇妙なボケでは観客側も「なにいってるかわからない」状態にはならず、早く次に進んでボケを転がしていってほしいのに、ツッコミのひとだけが「どういう意味?」と立ち止まってしまう、意地の悪い表現をすれば盛り下げてしまうという現象が起きている。テレビドラマなんかで主人公が「そういえばあのとき……」と呟いた瞬間画面が切り替わり、つい十分前に見たばかりのシーンが彩度を落とされセピア調になって流されるような、この回想いらないから早く次に行ってくれという状態にも似ている。

 でもべつにこれは観客側のリテラシーが上がったとかではなくて、単にそういう丁寧なやり取りを省いたネタをする漫才師が決勝に上がることが増えてきたがために慣れたということなのだと思う。こと競技性の高いM-1という大会においては、説明しなくても伝わることはわざわざ説明せずに次に行ったほうが効率がいいのであり、実際今回決勝に進んでいるメンバーもくどくど説明しないネタをするひとたちが多い気がする。真空ジェシカとか令和ロマンとか、平成のネットミームをめいっぱい吸収しながら育ってきたであろうひとたちには特にそれを感じる。

 一方でそういうやり取りがどうこうとかとはまったく関係のないところでネタをやっているひとたちもいて、特に今日見た準々決勝の十九人というコンビがかなりよかった。ツチノコハンターをやっているというボケのひとが、実演するのでツチノコをやってほしいと相方にお願いし、相方もいわれるがままに身体をすぼめてツチノコっぽくなろうとするのだが、その姿はツチノコハンターにいわせればちっともツチノコではないらしく、実演に入らないまま「こいつツチノコのふりをしてわたしたちのこと騙そうとしてないか?」とわめき続ける。コントに入らずにメタな部分で笑いを生もうとする知性と、とにかく尋常ではないほどわめき続けるという野性のバランスがすごくてかなりウケた。どこに向かっているのかはわからないが、漫才というものは進み続けている。

 

12/10

 同居人が川崎で友人と集まる用事があり、僕も暇だったし、同居人の用事の間にひとりで川崎の駅前を散策してみてもいいと思ったのでついていった。今日はよく晴れていた。日差しは白く眩しいのに、あらゆる建物や木々や人びとの影は長く伸びていて、冬というのはなんというかちぐはぐで美しい。川崎の駅前を歩くのは初めてだった、と思いながらそのときは歩いていたが、僕はほとんど記憶はないのだが幼少期に川崎に住んでいたので、あの駅前にももしかすると幼き僕が通った道があったかもしれない、といま日記を書きながら思った。幼き僕も冬の白い日差しに目を細めただろうか。二十分くらいさまよって町中華に入ってチャーハンを食べた。チャーハンはふつうだった。

 駅前の商業施設のなかにはブックオフもあって、もちろん吸い寄せられるように入店した。ブックオフに向かう途中でゲーセンの階を通り過ぎた際に、UFOキャッチャーで巨大なぬいぐるみをうまく掴まえてまさに持ち上げんとしているひとがいて、ぬいぐるみはいいところまで持ち上がったのだが落ちてしまった。知らないひとがUFOキャッチャーで惜しいところまでいっている瞬間に出くわすというのが、なんとも知らない町を散歩しているということの象徴のようにも思えた。というか知らない町に限らずとも、あるいはUFOキャッチャーに限らずともそういう瞬間というのは無数にあって、知らない人びとが何かをしている瞬間というのが無限に積み重なって町というものができあがり、それらの瞬間に出くわし続けることこそが散歩なのだと思う。ブックオフではレジで前に並んでいたひとがポケモンカードを買っていた。店員さんは慣れた手つきでカードを数え上げてレジ打ちしてから、カード用のものすごくちっちゃな袋にそれらのカードを入れてお客さんに渡していた。

 おれ現金持ち歩かないでカードだけで生活してんねん、といって、あのちっちゃな袋からクレジットカードを取り出したらウケるかもしれない。

 ブックオフを出てからまた漫然と歩いていると異国情緒あるエリアにたどり着いた。行ったことはないが存在を知っているチネチッタという映画館はどうやらそのエリアにあるようだった。おもろ、と思いながらその辺のベンチに座って、町田康の『告白』を読み進めた。そのうちひんやりしてきたので近くのサンマルクに入って読み進めた。そのあと同居人と合流し帰宅して、THE Wを見てからも読み進めて、読み終えた。すごかった!

 

12/10

 町田康の『告白』のなにがすごかったかって、文体と内容が見事なまでに噛み合っていたことで、主人公の熊太郎の心理描写のなかに語り手のツッコミが混ざる地の文が、抜群のドライブ感をもって進み続ける様子がとにかく楽しく、夢中になって読み進めるうちにいつの間にか熊太郎は村のひとたちを十人殺してしまっていたのだった。読んでいる側が思いつきそうなところの何段階も奥まで心理描写がなされ、その地の文の饒舌さとは裏腹に熊太郎は自らの考えをうまく口にすることができない。いっけん重要ではなさそうな挿話も熊太郎という人物の遍歴であり、ひとつたりとも削れそうなところはなく、文庫にして八百ページ超えという分厚さもしかるべきものなのだった。

 だらだらと悪いほうへ悪いほうへと転がってしまう熊太郎の姿にはしかしどうしても共感してしまうところが多々ある。たとえば熊太郎自身が幼き頃からたえず罪の意識とその罪が露見することへの恐怖を抱え続けた「御所」での出来事、そこに大量に置いてあった財宝には手をつけてはなるまいと固く誓っていたにもかかわらず、一度手をつけて味を占めてしまってからの熊太郎は、困ったら財宝、困ったら財宝、というふうにあっという間に使い果たしてしまう。そのどうしようもなく歯止めのきかない感じはいわゆる〝わかりみが深い〟というやつに違いなく、これだけではなく小説全体にわかりみが深い箇所が多いのだが、それならばなぜ熊太郎は十人ものひとを殺してしまったのか、その理由を八百ページかけて体感していくのがまさにこの小説で、構造なんて考えられていないかのようにひたすら饒舌に語られる文の連なりが、熊太郎の生き様そのものと重なっていたことがすごいと思った。

 今日は午前中に北野武の『Dolls ドールズ』を観た。たけしっぽい編集のかっこよさは感じるものの、きつめな映画だと思った。午後はだらだらと、断続的に昼寝をしながら過ごした。夜は常夜鍋を作って食べた。

 

12/11

 ところで僕は一昨日の日記で「ブックオフではレジで前に並んでいたひとがポケモンカードを買っていた。店員さんは慣れた手つきでカードを数え上げてレジ打ちしてから、カード用のものすごくちっちゃな袋にそれらのカードを入れてお客さんに渡していた。」と書いたのだが、「ものすごくちっちゃな袋」という表記に納得がいっておらず、なんかいいいい方がないか探していたところ今日になって思い至ったのが「ポチ袋」という言葉である。そう、あれはまさしくポチ袋の大きさだった。ブックオフの濃紺のレジ袋をそのまま小さくしたようなポチ袋。あれにもレジ袋代というのはかかるのだろうか。それを確かめるためにはブックオフで実際にポケモンカードを買ってみるしかない。

 ところでポチ袋の「ポチ」というのは「これっぽっちですが」から来ているらしい。そのことを書いたところでべつにそれ以上話が発展することはないのだが、それでも書いてしまうのが日記というものであり、これがせっかく仕入れた知識の備忘として書き記しておこうという気持ちによるものであればまだわかるのだが、僕としてはそんなつもりもないのでほんとにただ意味もなく書いているだけだということになる。──というこの話自体にも意味はなく、そもそも一昨日の日記の内容を反芻するところから始まった今日の日記全体に意味がない。

 ところで今日は同居人とNetflixの『ザ・キラー』を観た。僕は一度映画館で観ているのでよりウケた。極めて真面目ではあるが、かなりウケる映画だと思う。ターゲットが出てくるまで車で待ち続ける。嘘のパスポートや嘘の車のナンバープレートを丁寧に選ぶ。証拠を隠滅するためにあちこちに移動する。必要な道具をAmazonで注文し、専用ロッカーで受け取る。そういう地味で現代的な工程が省略されずに描かれ(〝省略されない〟というのはまさにこの映画の肝だとも思う)、そこに「計画通りにやるべし」だの「油断は禁物」だの「俺は常に用意周到」だのモノローグが乗っかる。無口でスマートだが、モノローグでしゃべりすぎているためにまったくクールだと思えない主人公の姿は、同居人からいわせると『結婚できない男』の桑野(阿部寛)と重なるそうで、たしかにそう思って観るとなおさらおもしろい。

 

12/12

 懐かしいねえ、といいながらアマプラで再生した『チャーリーとチョコレート工場』をけっきょく最後まで観てしまった。これと『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』が僕の子供の頃のベストムービーだったかもしれない。

 

12/13

 昨日に続いて今日は一九七一年の『夢のチョコレート工場』を観た。後半、子どもたちがひとりひとり減っていくくだりが駆け足ぎみでウケた。随所に手作り感あふれるセットでの撮影によってCGよりもむしろサイケデリックな雰囲気が醸されていて、そもそもこの映画に限らず六十年代や七十年代のサイケデリックな空気というのはノーCGであることによる要素も大きいんじゃないかと思った。先にティム・バートン版を観ていたからというのもあるが、こちらのウィリー・ウォンカはバックグラウンドが見えない分、目をきらきらさせた狂人といった趣が強く、自分は冗談ばかりいっているくせにこちらが放った冗談はまったく通じなさそうだった。それはそれでおもしろい。

 

12/14

 僕が働いている会社はけっこう高さのあるオフィスビルのそれなりに高いほうの階に入っていて、行ったり帰ったりするにはエレベーターに乗る必要がある。実際の階数をこんな日記で発表してもしょうがないので、ここでは仮にそのオフィスビルが百階建てで、僕の会社が六十七階にあるとしよう。ひとつのエレベーターが二階から百階までのすべての階に停まるというわけではなく(そんなことしたら日が暮れてしまう!)二階から十一階、十一階から二十一階、二十一階から三十一階、……という形でエレベーターごとに階数が振り分けられており、それぞれの振り分けごとに八基あるので、オフィスビルにエレベーターは全部で八かける十の八十基ある。八十基のエレベーターが絶えず上下し続ける、オフィスビルという怪物。その腹のなかに僕は毎朝収まりに行っている。

 僕は六十七階に会社があるので六十一階から七十一階に停まるエレベーターに乗る。朝は他に入居している会社のひとたちもだいたい通勤のタイミングが被るためにエレベーターは混む。他のひとたちが降りる階は当然まちまちで、六十七階に到着するまでにだいたい六十一階、六十二階、六十五階、六十六階という感じでぱらぱらと停まることとなり、朝、出社が定時ぎりぎりになってしまったときなんかにはやきもきする。比較的余裕があるときなんかには、ここの階にはどんな会社が入っていて、どんなひとたちが働いているのだろう、と答え合わせされることのない疑問を浮かべたりする。

 六十一階から七十一階に停まるエレベーターだけでも八基あるので、エレベーターの混み具合にはかなりばらつきがある。八基もあるというのになかなかやって来なかったりすると、ロビー階にはひとがあふれかえることとなる。そんなふうに溜まりに溜まったひとがやっと来たエレベーターに押し合いへし合い入っていったあと、次のエレベーターが意外とすぐに到着したりして、がらんと空いたまま上階まで一気に行けたりする。そんなタイミングの妙が重なると、朝だというのにごくたまに僕しか乗っていないエレベーターなんていうのも生まれたりして、そんなとき、一気に六十七階まで行けてしまうので、それはそれで奇妙な感覚に陥る。一階から六十七階というのはなんだか奇妙に長い。どこか途中で停まるのが当然であるところを一気に行けてしまうのが気持ち悪い。そんなふうにうまく事が運んでしまったがゆえの居心地の悪さが、エレベーターにはある。──という話を日記に書き記すことになんの意味があるのかはわからないが、今日がたまたまそんなエレベーターの日だったので書いた。ほんとはこんな話を書くんじゃなくて、昨日の夜寝る前に読んだ売野機子『インターネット・ラヴ!』がよかったという話とか、AマッソがYouTubeで「8番出口」というゲームのプレイ動画を挙げていて思わず見てしまった話とかを書くべきだったのだが、もうエレベーターの話を書いてしまったので、今日はこれ以上書く余地がない。

 

12/15

 夜が進むにつれて風が強くなるとともに外気温が徐々に上がり、果てには屋内より屋外のほうが暖かくなるというきもすぎる夜だった。春のようなにおいもした。春のにおいを敏感に感じ取ったところからさらに季節の情趣に想いを馳せることもできたが、僕はいまから来年の夏の暑さを想像することを選んでしまった。こんなに冬が暖かくては次の夏はやばいのではないか! 僕は今年の夏に友だちとサウナに入った際に友だちがいっていた「このままどんどん夏が暑くなるとそのうち屋外がふつうにサウナくらいの蒸し暑さになるんじゃないか」という話がなんだかリアルに想像できてしまって以来怖くて仕方がないのだ! 息もできないほどのむせかえるような暑さ! 蒸気がゆらゆら揺れ、コンクリートがきしむ! 鶴瓶の麦茶を飲みまくれ!

 

12/16

 今日は仕事だった。帰り際に同僚と「昨日の夜の暖かさきもかったですよね!?」という話ができてよかった。昨日の夜はマジできもかった。でもああいうきもい夜がまたあってもいいと思う。今日の夜は「プロフェッショナル 仕事の流儀」の宮﨑駿の回を見た。けっこう編集にも気合いが入っていて(ときにそれがうるさいタイミングもあったと思ったが)いい回だった。宮﨑駿が高畑勲に愛憎入り交じった想いを抱えていたという話はごくたまにツイッターなんかで見るような神話じみたエピソードとしてなんとなく知っていたけどそれが宮﨑駿本人の口からこれほどまでに語られるとは、という驚きと、そんな話を引き出すまでに密着できている「書生」ことNHKの取材スタッフにも恐れ入った。亡くなった高畑勲に対しての「悲しいだけじゃなくて、残酷な勝利感というのもある」という言葉、しかしそんなふうにいってからも高畑勲の影が消えることはなく、〝大叔父〟との対話を描けないまま制作は遅れ続ける。長い通夜を経て、脳のフタを開き、大叔父が作り上げた完璧で美しい世界を去っていま自分が生きているこの世界へと戻ってくる眞人の姿を描くことで高畑勲と決別するというストーリーはきわめて真っ直ぐな話で、ふつうに涙ぐんでしまった。『君たちはどう生きるか』という映画がやはり宮﨑駿の私的な要素を多分に含んでいるという解釈が今回「プロフェッショナル」で語られたところで、あらためて観てみたいと思いました。

 

12/17

 ジムに行ったほうがいいよねーという気持ちを抱え、実際に口にも出しつつ、家から出ることができないまま、断続的に寝ながら午前中が過ぎた。宮﨑駿よろしくめんどくさいめんどくさいと繰り返しましょうかね。それはよくないか。駿はめんどくさがりながらも描いてるわけですからね。僕はなにもしていない。なにもしていないまま午後になり、同居人が友だちの家に行くというので同じタイミングで家を出て『ポトフ 美食家と料理人』を観た。料理シーンを美しく撮れば映画になんねん、といわんばかりのすごい料理映画であり、美食家と料理人のふたりにしかない関係性を描いた作品でもあって、豊かな時間が流れるいい映画だった。映画館を出てから歩いて本屋に向かい、いがらしみきお『IMONを創る』(石原書房)を買った。石原書房国書刊行会で乗代雄介の『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』を編集した石原さんという方が独立して立ち上げた出版社で、その最新刊がこの『IMONを創る』という本の復刊なのだそうだった。なんでこの本かというとこれもやはり乗代雄介が非常に感銘を受けた本だそうで、石原さんも同じく感銘を受け、復刊の運びになったという。僕も僕で『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』を読んでその創作への態度に感銘を受けた者であり、その乗代雄介の創作態度に多大な影響を与えたという本であればやはり買わない手はないというわけだった。そんなふうに巡り巡る。そのまま早足で歩き、電車を乗り継いでポレポレ東中野で『王国(あるいはその家について)』を観た。

 これがすさまじい映画で、二時間半の上映時間の大半はある物語映画のリハーサル風景が映されることで構成されている。それもわかりやすい映され方ではなく、同じシーンの練習が幾度となく繰り返されながら映画は進む。そんな変則的な映画であるにも関わらず二時間半ずっとおもしろく観られたのは、まさに編集の妙だと思う。ジグソーパズルの全体像を最初に見せるかのごとく、映画冒頭で物語のあらすじが(刑事による供述調書の朗読という形で)示される。それがあるからこそ、その後の長いリハーサル風景もそれぞれどこのシーンをやっているのかがなんとなくわかるし、シーン同士がやがて繋がっていくなかでの、まさしく物語映画的な楽しみもある。

 幾度も繰り返されるリハーサル風景のなかで、俳優たちの声、顔、身体が変化していく様が克明に映され続ける。そのすべてのバリエーションが、その後撮影され完成するであろう映画の変異体である(というか僕たちがふだん観ている映画もこうした無数の変異体のなかから選び取られたひとつであるということに気づかされる)。映画が映画になっていき、俳優が物語の登場人物になっていく制作過程そのものを映画にしてしまうというすごい構造だが、撮影したリハーサル風景を単に並べただけではおそらくつまらず、その並べ方こそがこの映画の肝だと思う。たとえば抑圧的な夫に妻がたじろいでしまうシーン。テイクを重ねるごとに夫役の足立智充さんの声には断定的な硬さが滲み、妻役の笠島智さんの顔にはこわばりが見えてくる。次はこっちからも見てみたい、というような観客側の欲望に応じるかのように、次のテイクでは異なる角度から同じ会話が映される。そういう繰り返しのなかに、見たいすべてが映っているとすら思えてくる。

 徐々にシーンとシーンが繋がり、終盤に通しでの本読み風景が映されることで、観ているこちらもいつの間にか物語に没入している。家族や家という特殊な〝王国〟を扱ったこの物語自体も、繰り返し俳優たちによって演じられることによってその切実さが浮かび上がってくるようになっていて、通しでの本読みには観ているこちらも息が詰まってくる。そういう感情の起伏も含めて、優れたドキュメンタリー映画であることと物語映画であることを両立しているともいえて、そのクロスポイントともいえるシーン=お互いがそれぞれの〝王国〟にとっての客人から闖入者へと転じていくシーンが最後にもう一度繰り返されるのもすごくよかった。

 

12/18

 このところよく夢を見る。眠りが浅いのか。夢にはいろんなバリエーションがあり、たとえば一昨日は知り合いのおじさん──といっても現実には知らないひとで、おぼろげだが、なんとなくこの前の「水曜日のダウンタウン」のスベリ-1GPに出ていたエンジンコータローさんっぽい顔つきだった──がおかしな事件に巻き込まれたというので、それを解決するべく僕と同居人が埼玉県まで赴くという話が展開されていて、僕たちは情趣豊かな旅館のような場所を取材したり、歩道橋の防犯カメラの録画を確かめたりしたあげく、おじさんが実はある日を境に宇宙人に身体を乗っ取られているということを突きとめ、それを本人に確認しようとしたところで目を覚ましたのだった。

 こんなふうに夢のなかの出来事を書いてみたとしてもそれはもちろん実際の内容とは異なり、おそらくある程度話として通じるように改変が加えられているはずだし、そもそも夢は実際に起きたことではないので〝実際の内容〟なんてものもそもそも存在しないともいえて、そうなると僕はいまなにを書いているのかという話になるが、とりあえず書いている。

 今日の夢は、なにかの業界のフィクサーっぽいおじいさんに「いまから大阪に行くから車を出してくれ」といわれ、おそらく僕は「でもいま夜中の一時ですよ」などと応えたと思うのだが、それでも行くといってきかなかったので仕方なく行くことにし、しかしさすがに準備があるのでおじいさんには先に家──なぜかそこは僕の母方の実家だった──の外に出てもらって、早くしなきゃと思いながらもどういうわけか準備に一時間もかかってしまい、しかもレンタカーで行くというのに車の予約もできておらず、タイムズのカーシェアのアプリを開いて最寄りで借りられそうな車を探そうとしたところ、アプリ上のマップを縮小するのに連れて僕自身の身長が大きく伸び、僕はそのまま巨木のように天まで伸びきって、上空から真夜中の町を見下ろしているのだった。

 今日はさらに、どこかの片側三車線くらいの大きな車道沿いを散歩していると街路樹からセミの鳴き声が聞こえ、かわいそうにこんな時期に出てきてしまったのか、冬が中途半端に暖かいせいだな、と思ったところで目が覚めると実際にはセミなんて鳴いていなかった。

 起きて読んだよしながふみ『環と周』がとてもよかった。夜には加藤拓也監督・門脇麦主演『ほつれる』を観た。夫役の田村健太郎というひとがとてもよかった。

 

12/19

 M-1の公式YouTubeチャンネルにて配信されている「M-1ラジオ」という企画にてマヂカルラブリーの野田クリとランジャタイの国崎さんが漫才についてしゃべっていて、国崎さん曰く、ステージの中央にマイクが置いてあり、「どうもー」で始まって「ありがとうございました」で終わるものが漫才だということだったけれど、それでいうと、というかべつに「それでいうと」という話でもないのだが、昨日Travis Scottの"UTOPIA"を聴き返していた際、四曲目の"MY EYES"というSamphaやらBon IverやらVegynやらが参加している最高の曲に差し掛かったときに、この曲みたいな漫才も見てみたいと思ったのだった。

 この曲はおよそ四分あるうちの二分過ぎくらいまではわりあいゆったりとした曲調で進むのだが、二分半ほどが経過した時点で新たなビートが差し込まれてき、そこからは繊細かつ浮遊感のあるトラックのなかでTravis Scottがまくし立てるようにラップをするという構成になっており、それはまるで一度「もうええわ」でしめたかのように思われた漫才のその先が実はあって、それまでのゆるいテンポがすべてフリだったかのように、後半では高速のかけ合いが披露されている、そういう漫才のネタのようなのだ。「もうええわ」や「ありがとうございました」で終わらず、その続きがある漫才。

 

12/20

 会社を出てから駅前のケンタッキーに行った、というのも今週末のM-1の日にはうちに友だち何人かが来て一緒に見る予定、というかちゃんと確認はしていないがずっと前にした口約束ではそういうことになっているので、ふだんは食べないようなフライドチキンの特大セットみたいなのを注文しちゃってもいいんじゃないの? しかもなんかクリスマスイブってやつだし? ということで注文すべく行ったのだが、時すでに遅し、いまから二十四日の夕方~夜の出来上がり分が注文できるなんていう甘い話はなく、失意のなか店を出た。しかしそうやってせっかく駅前まで行ったし、そのうち同居人も帰ってくるだろうと思ったので、駅周辺で待つこととしたのだが、本もなにも持っていなかったので、駅ビルの本屋に入り、山田太一の『異人たちとの夏』を買った。こうやって気まぐれに本を買い続けることが結果として積ん読を次から次へと生むことに繋がっているらしい。でも僕は今日買った『異人たちとの夏』をもう読み始めており、このまま読み終えるはずなのでこれは積ん読にはならないはずだ。したがって僕自身の感覚としては、積ん読を増やしているつもりはない。しかしそういう感覚とは別に、現実として積ん読は増えていっている。

 駅近くのドトールで半分近くまで読んだ『異人たちとの夏』は心情描写がとてもよくて、どこでもいいのだが、たとえば序盤の「やや無理にでもそう思いたい気分が私の中にあり、ロビーの隅のソファへ乱暴に腰をおろした。」というところの「やや無理にでもそう思いたい気分」というくだりがなんだかじんわりきた。やはりこのひとの書いたドラマを見てみようと思った。読んでいるうちに同居人が帰ってきたので一緒にラーメンを食べて帰った。

 

12/21

 一週間か二週間ほど前に実家からりんごが送られてきた、といってもなにも僕の実家がりんご農家だというわけではなく、ふるさと納税でもらったりんごをおすそ分けしてくれたというわけなのだが、それをここさいきんは一個一個剥いて食べていっている。一個を六切れにカットして包丁で皮を剥き、中央の芯の部分を三角に切り抜く。剥いたものを同居人にもすすめるが、同居人は「じゃあ食べようかな」といってだいたい一切れしか食べないので残りは僕が食べている。

 

12/22

 眠い! 寝ます。

 

12/23

 雲ひとつない快晴!

 朝からいろんな用事──たとえば、およそ一ヶ月前に同居人が会社のエレベーターの隙間に落としてバキバキに割れたもののどうにか使えていたiPhoneが、ついにいきなり電源が切れるなどだめになってきたようなので、アップルストアに行って修理なり交換なりをしてもらうという用事など──がことごとくうまくいった日だった。アップルストアの待ち時間には周辺で昼食を食べ、散歩をし、なんとなく立ち寄った古着屋で同居人の服を買ったりもできた。服は二着、いずれもNFLの、グリーンベイ・パッカーズのスタジャンとシカゴ・ベアーズのスウェットで、パッカーズの緑&黄とベアーズの紺&橙は重ねて着てもよささうな組み合わせだと思ったのだが、よく考えるとこの二チームはNFLの同地区に属しており、熾烈なライバル関係にあるため、重ね着なんてしてはいけないかもしれない。

 用事を済ませたあと帰宅し、しばしゆっくりしてから、同居人は友だちとの飲みへ、僕は『TALK TO ME/トーク・トゥ・ミー』を観に出かけた。常に楽しませてくれるサービス精神あふれる映画だったし、ふつうに怖かった。ただ主人公の行動に思慮深さが感じられず、しかもそれがメンタルヘルスのせいで致し方ないというような弁明があり得る描き方だったため、個人的にはノリきれなかった。メンタルヘルスが中心的なテーマなのかといわれればそうではないような気もしたし、おもしろくするための一材料に過ぎないくらいだったので、よくも悪くもエンタメに振り切っていたように思う。友だちと解散した同居人と合流し今度は『ファースト・カウ』を観に行った。素晴らしい映画だった。物語はあるにはあるが非物語的に描かれるというか、どう転がっていくこともあり得た話が今回の映画のなかではたまたまこのように着地した、とでもいうような感触の映画で、とても豊かな時間が流れていたように思った。森のなかで育まれる男性二人の友情というところからは当然『オールド・ジョイ』が連想され、今回はさらに冒頭と終わりが(映画自体のではなく物語内の)長い時間を経て繋がることによって、あり得たかもしれない遠い過去への想像がどこまでも広がっていく感じがしたのだった。

 

12/24

 昨日は眠くて寒くて入浴せずに寝たので朝風呂した(風呂場から出るときに膝の皿を壁に強打して痛かった!)。湯船に浸かりながら『ファースト・カウ』のことを考えた。昨日も似たようなことを書いたかもしれないが、あの映画の素晴らしさというのは、ことさら物語が始まったかのような顔をせずにいつの間にか昔のオレゴン州に戻っていて、いつの間にか森のなかで二人が一緒に暮らし、いつの間にかドーナツを販売して好評を博し、いつの間にか終わりを迎えていたという、まるで自然発生的で作り手が意図していないかのような話が展開されていたこと、ようするに「むかしむかし……」という包装がされていないように感じられたことだと思う。冒頭の描写によって二人が最後どうなるのかはわかっているのだが、そこまで描くことなく「少し休もう」というところで終わることによって、幕は閉じられたが物語は閉じていないような感覚、かなり小さな話が、「むかしむかし……」という文言で包まれることなく、時間的な厚みを伴っていまに繋がってくる感覚を覚えたのだった。

 それで今日はM-1で家に友だちを呼んで一緒に見ることになっていたので、部屋を掃除して、ピザの配達予約もして、そんなこんなでいつの間にか三時になって敗者復活戦が始まった。ネタが終わるたびの「サバイバルジャッジ……」というフレーズがなんだかウケた。敗者復活戦は徐々に日が暮れていく時間帯というのもあって単純に楽しめた。特に楽しかったのはママタルトとトム・ブラウンだった。ママタルトは二人とも運動神経がいい。一般的な運動神経もだけど、漫才における運動神経のようなものがいい気がする。自分たちの身体を活かした楽しいショーの果てに、センターマイクを軽々と持ち上げるという革新的な仕草があって感動した。トム・ブラウンはとにかく爆笑してしまったが、よく考えるとなにがそんなにおもしろいのかはあまりわからないというのがすごい。彼らのすごみは年々増している。相手の首を折ってから「大丈夫ですか!」と話しかけるなど、徹頭徹尾論理的ではないということ自体におもしろみの一端がある気がして、狂気とは作り出せるものなのだということが身に染みた。楽しかったのはその二組だけど、それでもシシガシラの敗者復活は納得で、ああいう静かな革新性とでもいうべきものがきちんと評価されて勝ち上がることができる今回の新システムというのはいいと思った。

 決勝戦が間髪なく始まるのでビビった。ウエストランドが寒そうなビルの屋上でスベらされていてかわいそうだった。毎年思うことですが、敗者復活戦の段階でめちゃくちゃおもしろいのに、決勝は決勝でちゃんと敗者復活戦を上回っておもしろいのでほんとにすごい。勝ち上がるべくして勝ち上がったひとたちが漫才をやっている。決勝の感想も書いておきたいけど今日はもう眠いので寝る。

 

12/25

 今日もトム・ブラウンのネタを思い出して笑ってしまった。首を折ってから「大丈夫ですか!」と話しかける。矢、二本。クロロホルム。セルフタイマーで自撮り。首に穴が空いて声が出ないので、その穴に鍵盤ハーモニカの管を刺して演奏する。数珠。ダイナマイト。破綻した行動を繰り返すみちおに対しての布川のツッコミもどこか間違っていて、そのことに自覚的であるかのように途中から「だめー」しかいわなくなるというのもおもしろく、そもそもなにをしているのかもよく聞き取れないほどに高速化していき、そうやってツッコミさえも省略されるミニマルかつ過剰な反復の果てに、いつの間にか「成功」ということになってネタが終わる。すべての行動に論理性がないのに明確に笑いどころがあるというすごさ。

 

12/26

 会社の昼休みに少しM-1の話になって、同僚いわく「おもしろかったけど疲れた」ということだったけれど、たしかにそれはそうかもと思わせるくらいボリューミーだったような気がする。〝年末の楽しいお笑い特番〟という枠組みからは大きく外れ、芸人人生を賭した大会としての意味を持ちすぎ、なおかつ番組側も過剰なまでにそういう方向性(〝人生、変えてくれ。〟)で打ち出し続けた結果としての七時間生放送という暴挙! そうやって番組自体の競技性が高まることで、出場者たちも四分という制限のなかでいかに〝爆笑が、爆発する。〟かを考えた結果、ネタはどんどん先鋭化していき、笑い疲れるという結果に……。そういう意味で、なんとなく昔ながらの漫才コントの雰囲気を漂わせ、(もちろんその裏にある無数の試行錯誤や創意工夫に敬意を払ったうえで)何も考えずに見ることができるマユリカヤーレンズが決勝にいたのはよかった。ただおもしろい、というのもすごいことだと思う。でも、競技性がとことん高まったM-1において、笑いの言語化と客観視に長け、鬼のような分析力とその分析を具現化する運動神経のよさを兼ね備え、生粋のM-1オタクでもある令和ロマンが優勝したというのも実に気持ちがいい。それも、ハックしてやるとか攻略してやるみたいなのじゃなくて、楽しみたいし盛り上げたいという気持ちからだったのがすごい。

 

12/27

 仕事が納まらず!

 

12/28

 ところで何週間か前に僕と同居人が五反田のTSUTAYAに行った際にテレビ番組のスタッフだという若者にインタビューされ、年末に放送されるんですけどもしかしたら使わせていただくかもしれないです、と彼がいうその番組がちょうどこの前の日曜日、M-1のあとに放送されていたので、まさか使われないだろうと思いながらいちおう見てみたらなんと僕と同居人のへらへらした激薄コメントがしっかり使われていて驚いた、ということがあって、「あとから読んだときにその日のことを思い出せるように書く」という日記の性質を考えるなら日曜日の日記に書いておいてもよさそうな出来事ではあったのだが、なにせ使われていたコメントの内容が薄すぎて恥ずかしかったというのもあって書かずにいたところ、今日、同居人の会社のひとがその番組を見た際にインタビュー映像に映る人物に思い当たる節があったらしく、同居人に個人宛てでメールを送ってきたという。これって◯◯? ……なんだかんだと聞かれたら答えてあげるが世の情け、ということで同居人は正直に白状していた。

 

12/29

 会社の餅つきだった。毎年かなりの量をつくのでまじで疲れるし、ちゃんとうまい。帰宅してシャワーを浴びてから寝た。起きたら同僚から打ち上げのお誘いが来ていて、行こうかなと思いつつもなぜか家を出るタイミングを見失い、長々と検討する形になってしまった。冬の寒さが検討を長くさせる。検討している間に昨日の令和ロマンの番組を見た。永野がおもしろかった。そのあと打ち上げに行ったのも結果的によかった。健やかに楽しんで、そこまで遅くならずに帰ってきた。

 昨日から、というかもっと前からだけどVegynの"Halo Flip"という曲ばかりを聴いている。高らかに鳴るビートと朗々と歌い上げるゲストボーカルという組み合わせは"Let Forever Be"を思わせ、そこにいかにもVegyn風味のベースや木琴っぽい音が合わさってくる中盤以降の、ぱっと視界が開けたような開放感は今年リリースされたあらゆる楽曲のなかでも随一で、七分という尺すらも心地よく、今日の行き帰りにも聴いたのだった。この曲はミュージックビデオもよくて、どこかの河原で三人の若者がいつまでも戯れたり気ままにダンスをしたりしている動画の、水面のきらめきがなんとなく僕の頭のなかに焼きついていて、そういう散歩についての話を書こうと思っているのだがなかなか進められていない。

 

12/30

 年末年始休暇に突入────。ぼんやりしていると午前中はあっという間に過ぎ去り、慌てて準備してユーロスペースに『枯れ葉』を観に行った。アキ・カウリスマキの映画を観るのは初めてだった。最高だった。ベタそのもののような話なのかもしれないが、だからこそ顔や仕草、細部に感情が宿る。あらすじにしてしまえばつまらなさそうなのに映画そのものはどこまでも豊かであるというのは、監督が敬愛するという小津の特徴でもあるし、どんなに暗い室内であっても顔と手にはライトが当たっているというのは同じく敬愛するというブレッソン的でもあるといえて、──なんてふうになんとなくで書いてしまえるけれどもそんなのは些末なことで、とにかく色彩やぶっきらぼうさや愛おしさ、そして常に市井の労働者視点であることに、きっとこれがアキ・カウリスマキの映画であるということなのだろうと思える瞬間が噴出し続けており、心を強く動かされたのだった。(さらにいえばロシアのウクライナ侵攻も映画のなかに大きな影を落としていて、そのことについても考えたいと思った。)

 夜は同居人の友だちが来たので一緒に居酒屋に行った。ぶりしゃぶというものを初めて食べた。最高だった。数ある魚のなかでもなぜぶりがしゃぶしゃぶの材料として選ばれているのか、その理由がわかった気がした。脂の乗り具合、艶やかな身の厚み、赤から白へと身の色が変化する楽しさ、そしてぶりしゃぶという言葉自体の、「ぶ」で始まり「ぶ」で閉じる円環構造の美しさ。食べ物として非常に整っていると思った。そのままうちに泊まる友だちと同居人と僕の三人でニンテンドースイッチもやった。せっかくなのでということで『スーバーマリオブラザーズ ワンダー』を購入して三人でプレイした。情報の洪水のようなゲームでやばい。なんの説明もなしにキャラクターが象になって、鼻で敵を蹴散らしまくる。

 

12/31

 昨日プレイした『スーバーマリオブラザーズ ワンダー』はなんの説明もなしにキャラクターが象になるのもやばいし、ステージ中にある「ワンダーシード」と呼ばれるアイテムを取るとステージ上のすべての要素が強調されてハイになるのもやばく、しかしそんなことよりも断然やばいのがクッパで、そもそも今回のゲームの筋というのが「クッパに乗っ取られた城を取り返そう」というものなのだが、クッパは自分自身が城と合体するという形で乗っ取っており、けっこう怖いビジュアルになって空に浮かんでいる。しかしその奇妙さにクッパ自身もマリオたちも気がついておらず、そうなると当然ゲームをプレイしている僕たちにも説明がないまま話が進んでいく。とにかく情報量が多いのだがそれらがなにひとつ説明されないまま進んでいくというやばいゲーム。

 それで今日の午前中は、昨日うちに泊まった同居人の友だちとその『スーバーマリオブラザーズ ワンダー』の続きをプレイして、昼頃にその友だちを駅まで送り、代わりに同居人の別の友だち二人がやってきて、家の近くの公園に行った。公園には緑のネットで囲われたボール遊び用の空間があり、同居人とその友だち二人でキャッチボールをしているのを、僕はネットの外からスマホで撮影した。実際に撮影してみると、大きな変化なく続いているように見えるキャッチボールにも動画として楽しそうな回とそうでない回があり、さらに動画としての楽しさはスマホを構える僕がどこに立つか、どれくらいズームするか、ボールをどの程度まで追うかということによっても大きく左右される。それをひとつひとつ決定し、なおかつナマモノであるキャッチボールのなかから映画的な瞬間を捉え、そうやって集めた素材をコンマ秒単位で編集して繋げるのが映画作りというものだとすれば、あまりに途方なさすぎる……とべつに映画を作るわけでもないのに勝手に想いを馳せてしまったのは、やはり先日『王国(あるいはその家について)』を観たからだろう。

 しかしなんとなくだけれど、キャッチボールというものが動画的魅力にあふれているのも事実で、これがサッカーのパス回しだったらこうもいかないだろうと思う。ボールが手から離れ、空中を進み、また別の手のなかに収まるという一連の動きにおいて、カメラは必然的に上を向くので、特に今日みたいな日差しが白い日には、ボールもそれを投げているひとたちも白い光に包まれたようになって美しい。物語が描きやすそうなのもやはりパス回しではなくキャッチボールだよね、みたいな話をこのまえ会社でしたような気がした。あとカラオケシーンがある映画はやっぱりいいよね、と昨日『枯れ葉』を観たあと同居人としゃべったことも思い出した。

 キャッチボールのあとは駅のほうに行って開いている居酒屋に入り、そのあと解散して僕と同居人はスーパーで買い出しして帰宅した。紅白を見ながらいい肉で鍋をしようという算段だったのだが、どういうわけか僕も同居人もそのタイミングで微熱を出し、ぼーっとしてしまった。長期休暇恒例の風邪かと思いきや、僕の熱は徐々に下がって回復し、しかし同居人はいつまでも鼻をずびずびさせていてかわいそうだった。紅白では星野源「生命体」と寺尾聡「ルビーの指環」とYOASOBI「アイドル」が特によかった。全体的に楽しく見た。

 年が明けてからずっと近所のどこかの犬が吠えている。

2023年のキャッチボール