バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二四年一月の日記

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 どういうわけか異様に眠くなってしまったので、早めに寝る。

 

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 今日もニュースや駅伝を見ながらかなりぼんやり過ごした。同居人は今日も鼻をずびずびさせつつ徐々に快方へと向かっているようだった。

 ふいに『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』への熱意が復活して、二、三時間プレイした。三ヶ月ぶりくらいにやったんじゃないかと思う。僕の記憶ではもう半分くらいは進めたと思っていたのだが、久しぶりに開いてみるとたぶんまだ序盤のほうで、マップもすべて開放されていないし、四つある中ボスのうち一つしかクリアしていないし、ようするにリンクはなにも解決せずにこの三ヶ月間ぷらぷらしていたのだった。でももし実際に僕がリンクの立場だったとしてもそうしていただろう。前回のブレワイには一刻も早く敵をやっつけなければ国が滅ぶというような切迫した感じがあったが、今回のティアキンにはそこまで急を要する雰囲気が感じられない。期限を設けられなければ事を進めることができないというのは夏休みの宿題でも国の一大事でも同じことなのだ。

 朝には昨日作ったカレーの残りを、昼にはご飯と納豆と焼き魚を食べ、朝と昼、逆だなと思った。夕方に余った野菜で味噌汁を作ってから五反田のTSUTAYAに行って『アウトレイジ 最終章』を借り、夜に観た。TSUTAYAに行くには家の近くのバス停からバスに乗って行くルートが好きで、今日も時間がちょうどよかったのでそうした。正月休みということもあってか今日のバスにはひとが少なく、途中駅でぱらぱらと降りていくので、このまま僕ひとりになっちゃったりして……、なんて思っていたところ目的地に着かずに「終点」と表示されてしまい、あれよあれよという間に降ろされてしまった、というのも、どうもバスのルート上にある寺で縁日をやっているために通れないらしく、今日に限ってはその寺を除いたルートにて運行しているそうで、寺の向こうのバス停から乗り継ぐためのチケットを渡されたが、肝心のバス停の位置がわからず、仕方なくそこからTSUTAYAまで歩いた。そうなるともちろん縁日をやっている寺の境内も通るわけだが、正月休みの夕暮れどき、弛みきった人びとの顔の美しさよ!

 

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 電車で実家に帰ると、僕がふだん〝郊外〟と呼んでしまっている風景、家々、道、木々のひとつひとつが揺るがぬ固有性を持っていることを思い出させられる。車窓を流れる景色はまぎれもなく、僕がおよそ十年間にわたって電車通学していた頃からそこにあったもの、あるいは過去にはなかったがいまはあるもの、あるいは過去にはあったがいまはないものであり、景色のひとつひとつ、一秒一秒が〝郊外〟という言葉からフレームアウトして、それをぼんやり眺めている僕のほうに迫ってくる。

 その景色のなかにはひとが住んでいる。たとえば今日の僕んちのように:昼頃に実家に着いて昼ご飯をいただくとちょうど炊飯器が壊れたそうで、午後になぜか家族全員で車に乗って電気屋に新しい炊飯器を買いに行った。炊飯器にはそれぞれ「◯◯炊き」みたいなキャッチコピーがついていて、僕はなぜか「炎舞炊き」というものだけ覚えていたのだが、どうも「炎舞炊き」と名乗っている炊飯器は高級品のようだったので家族にスルーされていた。僕がなぜ「炎舞炊き」だけ知っていたのかは「炎舞炊き」の炊飯器を見てわかった。「炎舞炊き」のCMキャラクターは阿部寛だったのだ。阿部寛がやっているCM覚えがち、というのは僕のなかにあって、さいきんだとクックドゥーの辛くて本格的な麻婆豆腐の素やいろはすが該当する。

 

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 実家を出て暮らしている時間が長くなると、実家では当たり前だったもの/ことに違和を感じるようになるということが往々にしてあるようで、今回の(というかここ何回かの)帰省でいうとそれは枕の高さであった。僕はいまの生活において、比較的厚みがあり柔らかな枕を使って寝ている。たいして実家の僕の部屋の枕は薄くて柔らかい、そうなると厚いか薄いかというだけの違いのようにも思われるが、こと枕においては、その違いというのは寝心地に著しく直結する。実家にいた頃どうやって寝ていたのかまったく想像がつかないほどに頭の位置は定まらず、いつもどおり仰向けで寝ようにもなんとなく耳元が涼しい気がするし、かといって気分転換で横向きになろうにも、枕が低いために肩がこりそうになる。……なんてふうに低い枕への違和感を並べてみたものの、やはりさすが実家という感じで、気がつけば夜は熟睡しており、今日だって午前と午後にそれぞれ昼寝した。

 年末年始には昼寝というものが正式に許容されている感じがあり、今日も朝ごはんを食べてからすぐ「じゃあ寝ようかな」と冗談でいったつもりが、母に「あっそう」というふうにあしらわれ、昼寝する運びとなった。それと午前中は弟と共にブックオフにも行った。水木しげるの鬼太郎の漫画と戦争の漫画、あとはソローが散歩について書いたという本を買った。漫画で読む鬼太郎はやはり見た目もしゃべりも珍妙な子どもで、いまの漫画にはこういう主人公はあまりいないような気がするし、それとも単に僕が漫画をあまり読んでいないからそう思うだけのような気もする。西洋からやってきて日本の妖怪と敵対するドラキュラがレイザーラモンRGに見えてウケた。

 東京に戻る電車ではカート・ヴォネガットスローターハウス5』を読み進めた。何年か前に読んだときに感じたのとおそらくあまり変わらない感銘を受けながら読んでいる。カート・ヴォネガットみたいな文章は書こうとして書けるものではない。家に着くと同居人が寝転がっていた。また少し咳が出るそうで、かわいそうだった。

レイザーラモンRG似のドラキュラくん

 

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 激ネムのため、寝ます。

 

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 昨日会った友だちに「日記って毎日書いてるの?」と問われ、「その日のうちに書くようにしてるよ」と、だってそれが日記というものなのだから当たり前だろうという偉そうな態度さえ言外に滲ませながら答えたにもかかわらず、昨日は「激ネムのため、寝ます。」とだけ書いて寝てしまった。というわけで昨日のことから書く。昨日から仕事だった。年末年始によるボケもあってか頭が重かった。夜には友だちたちと会った。一年に一回か二回くらいしか会わない友だちたちであるのに、お互いの近況報告的なことはほぼせず、かといってここ一年や半年の間に観たり聴いたりしてよかったものの話も最小限にとどめ、ただテレビやYouTubeを見てあれこれコメントをいうだけの時間が流れ、しかしそれでもなんとなく楽しい奇妙な集いなのだった。見たもの:「やりすぎ都市伝説」(やりすぎかどうか以前に説明不足すぎてやばい。やるならもっと説明したほうがいい)、「金曜ロードショー」の『千と千尋の神隠し』(細部までアニメーションが躍動していてやはりすごい。やんややんやいいながら見るのにうってつけ)、世界のいろんな街のドライブ動画(これ僕らもできるんじゃないの?)、山道をものすごい速度のスケボーで下る動画(なぜそんなことを?)、狂気のウォータースライダー動画(なぜそんなことを?)、高いところから水に飛び込む動画(なぜそんなことを?)、サーフィン動画(サーフィンはなぜか「なぜそんなことを?」とはならない)。

 猫がいたのもよかった。しかし僕の足元の不注意で猫の餌を散らかしてしまい、友だちと猫の両方に申し訳なかった。

 それで今日は午前中から同居人がネイルをやりに出かけたため、僕は『スローターハウス5』を読み進め、読み終えた。やはりいい小説だと思った。そもそもカート・ヴォネガットの語り口は散漫であるところが魅力だと思うのだけど、こと『スローターハウス5』においては、主人公ビリー・ピルグリムが「けいれん的時間旅行者」であることと行きつ戻りつする文体が見事に噛みあって、ひとりの人間の人生と戦争、そして二十世紀アメリカというものの一端まで重層的に描き出されているようだった。それと同時に、実際にドレスデン爆撃を捕虜として体験したカート・ヴォネガットからしてみると、ランダムな振り子のように時間をさまよい続け、終盤にかけてついにドレスデン爆撃に辿り着くという今作のやり方でしかその凄絶な体験を描くことはできなかったのかもしれないと、勝手に想いを馳せもした。でもそれはまったく僕の勝手な想像だ。作中で何度も繰り返される「そういうものだ。(So it goes.)」に諦念だけでなく人類への一縷の望みも含まれていると考えるのも、同じく勝手な想像だ。でも勝手な想像というものによって読書は成り立つ。

 同居人がそのまま友だちと出かけに行ったので、僕は『PERFECT DAYS』を観に行った。役所広司はよかったし、話としていい部分もあったと思ったが、居酒屋でのやり取りとか、姪との会話とか、細かいところに作為性を強く感じてしまい乗り切れずだった。作られた清貧、というか。そこにドキュメンタリータッチの手持ちっぽい撮影が乗っかるのでまたズレが生じていたようにも思う。あとはどうしても作品外の要素も含めた印象になってしまうが、やはり渋谷のトイレのプロモーションビデオの雰囲気があり、ようするに、多様な人びとが自然と集まってくるきれいでユニークなトイレ、そしてそのきれいさを作っているのは清貧で足るを知る清掃員、という物語を大人たちが話し合って作っている構造がちらついてしまってよくなかった。でも最後の役所広司の顔はよかった。あと柴田元幸が出ていておもしろかった。

 映画を観終わってからは、実家に帰ったときにブックオフで買ったソローの『ウォーキング』というエッセイを読んだ。散歩というか「ウォーキング」、訳語を借りれば「そぞろ歩き」について語られるエッセイなのだが、ウォーキングの話をしているのは序盤だけで、あとは飛躍してひたすら「文化・社会・政治・知識から離れて野生へ飛び込め」、「森に入れ」、そして「西へ行け」という話が語られ、その勢いがよかった。これが書かれた一八五〇年代という時代のことを考えると、この前観た『ファースト・カウ』の森の風景が思い出されて、あの二人の友情にもあらためてぐっときた。

 以下、『ウォーキング』から抜粋。ふだん散歩好きを名乗っていることを反省すべし。

たしかに近頃の私たちはみな、これといって不退転の決意をもって永続的事業に取りくむことのない、ただの根性なしの十字軍戦士、いや単なる歩行者でしかない。探検と称して単なる日帰り旅行に出かけ、スタート地点の古い暖炉のそばに夕暮れには戻っているというていたらくである。しかも、そのウォーキングの半分は、過去の歩みを辿るものにすぎない。たまには、たゆまぬ冒険心を胸に、香料で防腐処理をほどこされた心臓だけを主なき王国に遺物として送り返す覚悟で、たとえ短くても戻ることなど考えずに徒歩旅行におもむくべきだ。両親や兄弟、妻子や友人から離れ、二度と会わない覚悟を決め、借金を完済し、遺言をしたため、問題をすべて片付け、一人の自由人となってこそはじめてウォーキングにでかけることができる。

天啓を得た友だちの家の猫

 

1/7

 今年の、いや去年もその前も、いやもしかしたらもっと前からの継続的な、もはやライフワークといっても差し支えない目標として積ん読の消化ということが挙げられる。消化という表現はよくないかもしれない。僕んちの本棚に積まれている本はそもそも僕や同居人がおもしろそうだと思って買った本なので、僕のなかに存在するのはただそれらを早く読みたいという無垢な気持ちであり、それを消化だなんて呼んでしまっては積まれている本たちも浮かばれないだろうと思うのだ。ではなぜ、早く読みたいという気持ちがあるにもかかわらず、実際の積ん読の数は増えていってしまっているのか。これはいっけん怪奇現象のようだが起こっていることはシンプルで、まず、ひとは本を一冊読む間に、その影響元や類似作品、あるいは同作家の別作品として二冊か三冊新たに本を読みたくなる。そんな折にたまたま入った本屋の棚にその本が並んでいたとなれば、これ幸いとばかりに買ってしまわざるを得ない。となると、家にある本を一冊読むたびに一冊から多くて三冊本が増える。そんなことが続けば自然に本は増える。そしてもちろん、本屋には意図していない偶然の出会いというものも無数に転がっている。僕たちがまったく知らない本が予想だにしない角度から飛び込んでくる。僕たちはその本も持ち帰ることになる。そうなるとますます家に本が増える。絶え間なく増えていく本に対して、僕たちの読書スピードはあまりに非力だ。その差が積ん読になる。(というような話を僕は何度もしてしまう。しかし同じ内容を書くのでもその文章は書くたびに変わるだろうし、文章によって書く内容も変化するだろうから、書くしかないのだ。)

 どんどん降り積もる山を小さなスコップで切り崩そうとする、その非力さに打ちひしがれようとも、やらないよりは幾分かましだろう。ということで僕は今日、家の本棚からコーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』を抜き出して読み始めた。心理描写を排した、なんというか鉄やチタンを思わせるメタリックな文体が、ちょうど昨日読んだ『ウォーキング』のなかでソローがいっていた野性的な神話のようでもあり、しかも物語の舞台がちょうどソローの生きていた十九世紀半ばであったので、奇妙な符合にうれしくなった。その符合に意味があるわけではない。ただ僕にとってうれしいだけだ。

 今日は同居人が同窓会だったので見送ってから、家で少し仕事し、TSUTAYAに『アウトレイジ 最終章』のDVDを返しに行き、そのあとカール・テオドア・ドライヤーの『吸血鬼』を観に行った。美しく、怖ろしく、映像的な挑戦にあふれた素晴らしい映画だった。影で見せる描写、合成によって主人公が幽体離脱する描写、棺のなかからのショット、そしていかにもこの監督らしい顔のアップ、どれもほんとにすごくて、これがたとえば二〇二〇年代にA24かどこかの作家性の強い映画として発表されたとしてもまったく驚かない。映像的な美しさに重きを置いているのか、それともこの映画が作られた一九三〇年代には今日的な作劇がまだ成立していなかったということなのか、話の導線が整理されていないような感じもして、それが余計にこの映画の夢か現実かわからないような幽玄な雰囲気を高めているのだった。これにもソローのいう野生の物語、神話的な物語の佇まいを感じてまたうれしくなった。

 主人公の青年アラン・グレイの珍妙な行動もツボだった。知らない村にやってきて、知らない老人が怪死するところを目撃し、そのままその老人の城に居つき、老人が遺した吸血鬼についての本を読む。なにか事件が起きるたびに真っ先に現場へと駆けつけるが、あっさりと放り出して読書へと戻る、その反復がウケた。なんにでも首を突っ込みたがる性分なゆえに幽体離脱までして、自らが棺に入れられて運ばれるところを目撃し、同時に棺のなかからも外を見ている。ここの一連の流れがいまいちよくわかっていないが、とにかく美しかった。

 

1/8

 一日中なんとなく眠い日だった。午前中は水木しげるの戦記漫画『敗走記』を読み、午後はドトールで『ブラッド・メリディアン』を読み進めようとしたが、かなりうとうとしながらでほとんど進まなかった。昼寝してからスーパーに買い物に行き、夕飯の支度をし、同居人と食べ、『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』を少しやり、入浴し、Netflixで『雪山の絆』を途中まで観、寝た。冬っぽい寒さを感じている。

 

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 この週末、外を歩いているときにはOMSBの"ALONE"を聴いていた。これは一昨年リリースされたときに聴いていなかったことが悔やまれるほどいいアルバムで、そのビート感覚に当てられてか昔のヒップホップが聴きたくなって、昨日から今日にかけてはデ・ラ・ソウルやア・トライブ・コールド・クエストやアウトキャストを聴いている。でもこういうときにいわゆる文化系などと評されるようなラップしかしらないということがどうも悔しい。ギャングスタっぽいラップがごっそり抜け落ちている。でもそれもさもありなんということもいえて、なぜなら僕が生きてきた環境や僕自身のあり方がどうしてもギャングスタ的なものとは遠いところにあるし、言葉を知らないというのもある。……しかし考えてみれば言葉を知らないというのはべつにギャングスタラップを聴いてこなかった理由にはならない、というかべつに文化系のラップを聴くにしても言葉を知っていたほうがいいはずなのに僕は知らなくて、ようするに僕は彼らがなにをラップしているのかを知らずに聴いているわけだが、これは態度としては実は非常によくないのではないかということを、この週末に日本語でラップされているOMSBの"ALONE"を聴いて、その言葉をしっかりと聞き取ってまさに思ったところだった。

 たとえばデ・ラ・ソウルなんかと同じく〝文化系っぽい〟ラップであるスチャダラパーを聴くときには僕はラップの内容含めて楽しんでいるわけで、そういう楽しみ方を英語のラップにおいてもできるようになれば、それはさぞかし楽しいだろうと思うのだ。

地平線の意味 ありとあらゆる単位 空気の密度 火そのもの しあわせの構造 音 うわの空 石のドラマ 正気の沙汰 記憶のかなた 諸悪の根源 点と線 原点 じゃんけん 人間 それら全てがついさっき繋がった ぼくはすべてを把握した ここにこなけりゃぼくは一生 わからずじまいで過ごしていたよ あんがい桃源郷なんてのは ここのことかなってちょっと思った 君もはやく来たらと思う それだけ書いて 筆を置く

スチャダラパー「彼方からの手紙」)

 

1/10

 昨日はそういえば、友だちが年始の一週間について書いた日記を読ませてくれた。ある程度の文量のある日記はやはり読んでいて楽しい。僕が書いている日記とまったく同じ日付なのにまったく違うことが書かれている。それは単に僕と彼が違う一日を過ごしているというだけでなく、もし仮にまったく同じ一日を過ごしたにしても日記として書かれる文章はまるで違うものになるだろうと確信させられるような、物事の取り上げ方の違いに、日記の個性ともいうべきものが紛れもなく滲み出ているのが楽しいのだ。彼の七日間の日記に頻出するのは、彼が何を食べ、何を飲み、何を聴いたかという話であり、いっぽう僕の日記に頻出するものを挙げるとすれば天気の話(と書きながら振り返ると、さいきんは天気のことを書けていないことに気がつく。このところ寒い晴れの日が続いており、「比較的寒い」とか「比較的暖かい」くらいの差はあるものの、それらは僕にとってただ寒い晴れの日、日記に書き残すほどでもない日としてまとめられてしまっているのだ。思えば夏の暑い日のこともただ暑い日としてひとからげに捉えてしまっているようなところがあり、つまるところ僕は夏や冬がその真価を発揮するような暑さや寒さにたいして、一日ごとの違いを細やかに捉えて語る言葉を持っていないということなのだ。しかし日本に住んでいる以上暑さ寒さは避けて通れないものなので、一日一日の天気の機微をしっかりと描写できるようにならないとせっかくの日記の意味がない。今後はがんばりたいと思います)、観た映画の話、読んでいる本の話だろう。しかしそれだけでなくたとえばテレビで何を見たかとか散歩中何を聴いたかということも書いたほうが日記としてはより充実するのではないか、と彼の日記に感化されて思った。

 そういうわけで書こうとしたときに思い出したのは、ちょうどその彼とも会った先週末の新年会のような集まりにおいて、YouTubeで世界のいろんな街のドライブ動画や狂気のウォータースライダー動画と並んでBoiler Roomを見たことだった。新年会のBGMになるかと思って再生したKAYTRANADAのDJイベントの様子は、そのノリのいいトラックとともに、KAYTRANADAの周りで踊る様々な人びとの人間模様でもって僕たちの目を釘づけにした。中心にいるのは気がよさそうなスキンヘッドの白人男性で、あまりパーティー慣れしていなさそうなナードな雰囲気を持つ彼の周りにはいかにもパーティー然とした人びとが行き交い、大声で話しかけたり、肩を組んだりして絡み続ける。しかしそんな絡みにひるむことなく、むしろ楽しそうに受け入れる様子さえ見せながら、ナードっぽい白人男性は終始気持ちよさそうに揺れ、ときに場を盛り上げるように手を振り、画面の中央よりやや右の絶好のポジションを守り続ける。僕たちはそんな彼の姿の虜になってしまったのだった。それがもう十年以上前の動画であることもまた、見ている僕たちの心をつかんだ。気持ちよさそうに揺れていた白人男性とその周囲の人びとは、現在どこにいるのだろうか。あのとき黙々とDJをやっていたKAYTRANADAは、いまでも気持ちのいい音楽を作り続けている。

 あとは昨日たまたま見た「秋山ロケの地図」というテレ東の番組がよかった。市井の人びとが秋山の前で張り切っている姿と、それに全力でノッてみせる秋山の姿がなんともよくて、僕もたぶん秋山の前だったら張り切ってしまうだろうと思った。「べつにファンというわけではないけど秋山のロケは楽しく見てしまう」という話を同居人ともした。ロケの舞台が茨城県取手市だったのもよかった。

 テレビ番組について書くという流れでいうと、昨年特に楽しかった記憶があるのは「ガキ使」で、ランジャタイ国崎の七変化などキレキレの回もあるいっぽうで、弛緩しきった内輪ノリでしかないようなグダグダの回もあり、ダウンタウンの二人も含めて全員ポンコツのおじさんになってしまっているテレビの終わりのようなスタジオだからこそ生まれる珍妙な笑いがツボだった。「ガキ使」においてはダウンタウンの二人がココリコや山崎方正にたいしてパワハラチックに絡み続けるのがお決まりのノリとなっていて、それが単なるノリだとしてもそういう様子をテレビで流すのはよくないのではないか、しかしいま「ガキ使」を見ている層なんて十分ゾーニングされているだろうし、なんてことを思いながらも楽しんでしまっていたわけだが、いまはそういう〝ノリ〟を見られない気分になっている。松本人志の性加害の報道の内容についてはいま時点でまだ語ることができない(事実なら相当ひどい)としても、そのあとのツイートの感じが単純にあまりにもダサく、天才と称されたひとの終焉を目撃している感覚がある。

 といっても、僕が物心ついたときにはもう松本人志は金髪マッチョになっていたような気がするし、コメントやボケに切れ味を感じることはあっても、革新的な天才としての姿を見る機会はなかったように思う。そこはやっぱりリアルタイムで見てきたひととは違うのだろう。しかしいまのお笑い界における彼の影響はやはり絶大なのだろうとも思う。以前読んだ杉田俊介『人志とたけし:芸能にとって「笑い」とはなにか』という本において、「松本人志はお笑いを文脈から切り離し、その場でもっとも笑いを取った者が勝つという価値体系を浸透させた」というようなことが語られていたが、そういう松本人志的な評価軸がM-1キングオブコントなどの大会に結実していることは間違いなく、そのあり方のなかで僕もこれまで散々楽しんできたし、これからも大会が続く限り楽しむのだろうと思う。でもそこに松本人志の姿は今後はもうないかもしれないし、それでいいともいまは思っている。

 今日も一昨日からの流れでアメリカのヒップホップを聴いている。今日はウータン・クランモス・デフを聴いた。初めて聴いたモス・デフの"Black on Both Sides"はすさまじく充実した内容で、こんなモンスターアルバムがまだまだあるかもしれないことに震えている。しかし相変わらず何をラップしているのかはわからない。同居人が会社の同期と飲んでいて、遅くなるというので日記を長々と書いた。

 

1/11

 朝から寒く、昼間にも盛り上がりを見せることなく、けっきょく夜まで同じように寒いという、音楽であればそういう曲もありかもしれないけど天気でそれはないだろ、といいたくなる一日だった。同居人と外で夜ご飯を食べ、以前から欲しいと思っていた姿見を買って帰った。持って帰ってきたはいいもののちょうどいい置き場がなく、仕方なしに玄関近くの空間に置いたのだが、そこは寝室のドアを開けた際にぶつかる場所でもあるためやや危なっかしい。しかし他に置きようがなく、どうすべきか悩んだ挙げ句、とりあえずそのままそこに置くことにしてドアの開け閉めに気をつける、という対策をとることにした。すべての対策はつきつめれば「気をつける」に通ずる。

 溜めに溜めている「ことばの学校」の聴講期限が一月中であるという旨のメールが来て戦々恐々とした。すべてのものには期限がある。

小さくあることに強い意志を持っていそうなワセリン

 

1/12

 仕事を終えて帰宅すると同居人が料理を作ってくれていたので、ありがたくいただいた。今日食べる分だけでなく作り置きまで作ってくれており、僕が感謝の弁を述べながらそれを冷蔵庫にしまおうとすると「冷めてからね」と、なぜか冷めてからしまうことに情熱を注いでいた。たしかに冷めてからしまったほうがいいに決まっているのだが、それにしても「冷めてからね」の熱量が妙に高かった。ありがとうございます。「金曜ロードショー」で『ハリー・ポッターと賢者の石』をやっていて、やいのやいのいいながら見た。動物園でケージから出てきた蛇がハリーにお礼をいうシーンの字幕が「ありがとスー」じゃなかった。延々と送りつけられるホグワーツからの手紙に嫌気がさしてダーズリー家が避難する家があまりに孤島すぎる。……と序盤は楽しく見ていられたのだが、ハリーがホグワーツに行ってからは、スリザリンの扱いがひどすぎる(そりゃグレるよ)のと、マグルと魔法使い、あるいは魔法使いのなかでも純血か否かみたいな階級意識が露骨すぎて、いま思い出ゼロで見ていたとしたらいいとは思えないかもしれないと思った。マルフォイ一派ほど意気込むことなくふつうにスリザリンに組み分けされて、こつこつと学び、廊下を走ることもなく、学期最終日には寮の窓のアルミサッシにたまった埃まできれいに掃除しているような生徒のことを思った。

 

1/13

 雪が降って、同居人の鼻がこの前のバカリズム脚本のドラマにおける菊地凛子くらい赤くなっていた。『窓ぎわのトットちゃん』を観て外に出たら雪はやんでいて、同居人の鼻も元どおりになったが、今度は映画で流した涙のために目元がほんのり赤くなっていた。赤くなるのもさもありなんという傑作アニメーション映画だった。『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』や『この世界の片隅に』を彷彿とさせる豊かな表現と、エピソードごとに暗転するシーンの連なり方が、子ども視点での語りとして真に迫るものを成しており、それゆえにトットちゃんと周りの人びととの交流が本当に美しかったし、戦争に突入していく描写が怖ろしく感じられたのだった。

 ホルモン焼肉屋に行って七輪で暖まってから帰路につき、家に着いてからは『光る君へ』の第一話の再放送を録画していたものを見た。エアコンの暖房をつけているのに部屋がいつまでも寒くて、同居人は早くこたつを出せといっていたが、僕のなかではこたつというのは昼間に出すものなので(というか家具の入れ替えとか衣替えとか掃除とか、家のなかにまつわる事柄というのは昼間にやるものだと思っている)明日出すことにしようといったら同居人はベッドに潜ってしまった。

 雪が降る前、午前中には雲ひとつない空だった。しかし昼過ぎくらいから雲が出てきて、あっという間に空は覆われ、あたり一帯があまりに暗くなったものだからにやにやしてしまった。本降りになる時間帯にはカフェにいて、『ブラッド・メリディアン』を読み進め、そのあとは店内のフリーWi-Fiで「ことばの学校」の聴講を進めた。雨が降る前には歩きながら21 Savageの新しいアルバムを聴いていた。最初の何曲かのビートとラップの入り方がかっこよくて、それだけで心を掴まれてしまう。相変わらず低めの「トゥニワン……」もよい。

 

1/14

 朝起きてまずこたつを出した。僕たちの部屋はやや東南を向いているため、今日のようによく晴れた冬の朝にはまばゆいほどの光が射しこんで、こたつを出すという一仕事をやるにはうってつけなのだ。やがて起きてきた同居人とウィンナー、目玉焼き、パンを食べ、午前中は読書をしたりYouTubeをなんとなく見たりして過ごした。年末くらいから家でちょこちょこと読み進めていたジャン=フィリップ・トゥーサンの『カメラ』を読み終えた。主人公がのらりくらりと過ごす前半はいまいち乗り切れず、そのためさほど分量がある小説でもないのに年を越すような形でちんたらと読んでしまっていたが、後半に入り、主人公ののらりくらりの裏に人生にたいする諦念や怯えや怒りのようなものが存在しているということが徐々に、そして饒舌に語られるようになってくるところで、切実さのようなものも滲んできて、終盤はかなりいいと思いながら読めた。

電話ボックスの暗がりに坐り込み、コートで体をくるんで、じっとしたまま考えをめぐらせていた。そう、考えにふけったのである。目をつむり、身を落ち着けて、別の生のこと、この生と同じ形をし、同じ息を呼吸し、同じリズムを刻んで、あらゆる点でそっくりでありながら、しかも傷つく心配などなく、攻撃も苦痛もありえないような、遠い別の生のこと、外部の現実が衰亡し廃墟と化したただ中に花開き、そこではまったく別種の、内的な、意のままになる現実が、過ぎゆく毎瞬と同じようになめらかに動いていくような、超然たる生のことを想像したのだが、そのときぼくの頭には、言葉も、イメージもなく、お馴染みのつぶやきのほかには音も聞こえず、ただ、いろいろな形をしたものが、心の中で、まるで時間の運動そのもののような運動を、変わらぬ晴朗な、果てしない明確さで繰り広げていたのであり、ぼくはその捉えがたい輪郭をした、震えるものが、穏やかに、なめらかに続く、無益で壮大な流れの中を、音もなく流れ去るに任せた。そう、ぼくは考えにふけり、恩寵は汲めども尽きず、あらゆる恐怖は収まり、不安は消え去って、心の奥に熱く刻み込まれた防衛本能も、徐々に薄れ始めた。時間はむらなくなめらかに経過し、それぞれの思考のあいだには、感覚的な、液体状の網の目が張り巡らされて、まるで不可思議な、複雑な諸力の働きに従っているかのようで、その諸力のおかげで、ときおり思考が心の中の一点に静止して手で触れられるかのような気持ちになったり、あるいは思考と流れが一瞬ぶつかり合ったかと思うと、またすぐに元通りになって、穏やかさを取り戻した心の中で、ふたたび果てしなく流れ続けたりした。

ジャン=フィリップ・トゥーサン著/野崎歓訳『カメラ』)

 YouTubeで見た「META TAXI」という、夜の東京を走るタクシーに乗っているという設定のなかで二人が対談するチャンネルの動画がよかった。タクシーの客や運転手はアニメなのだが車窓に流れる景色にはおそらく実際に撮影したものを使っていて、夜のドライブ気分も味わいながら好きなひとたちの話を聞けるという、なかなかうまい企画だと思った。今日見たなかではダ・ヴィンチ・恐山となか憲人さんの「二〇二四年は移動・着手・損が流行る」という話が楽しかった。恐山のいっていた「この先十年くらいかかる何かに着手したい」という話もわかる。

 午後は「ことばの学校」を見進めて、夕方から『カラオケ行こ!』の映画を観に行った。聡実くん役の齋藤潤さんがよかった。映画自体はなんとなく期待しすぎた感じもあったが、よくまとまっていて悪くはなかった(偉そう!)。帰ってきてから『光る君へ』の第二回を見た。

 

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 「フットボール」の名を冠しているにもかかわらずボールを蹴ると反則を取られ、それどころかボールに一切触れてはならないポジションすらある無茶苦茶なスポーツが人気を博す奇妙な国アメリカにおいて、ナショナル・フットボール・リーグはレギュラーシーズンの日程をすべて終え、プレーオフに突入していた。プレーオフ初週の今日は僕の応援するロサンジェルスラムズデトロイト・ライオンズによるワイルドカードの試合が行われた。ロサンジェルスラムズデトロイト・ライオンズは、三年ほど前にそれぞれのチームのクォーターバックをトレードしたのだが、ライオンズのマシュー・スタッフォード一人にたいしてラムズからはジャレッド・ゴフに加えて複数のドラフト権がトレードの条件として付され、ようするにそれくらいしないと選手としての価値が釣り合わないと判断されたというわけであるが、これはジャレッド・ゴフにしてみれば屈辱的ともいえる仕打ちだったはずで、彼にとって今日のプレーオフの試合は古巣のチームにたいしての仕返しという側面もあったかもしれない。それに加えて、デトロイト・ライオンズはもう三十二年もの間プレーオフにおける勝利から遠ざかっているらしく、レギュラーシーズンを十二勝五敗という好成績で終えた今年は長年の雪辱を果たす絶好の機会というわけだった。

 三年前にはリーグ最弱ともいわれていたデトロイト・ライオンズをついにプレーオフまで導いたジャレッド・ゴフを僕は応援していた。もちろん僕はいちおうファンをやっているロサンジェルスラムズのほうこそを応援すべきなのだが、同い年であり、ジェイミー・エックス・エックスにも顔が似ていてなんとなく線の細さがあるジャレッド・ゴフの肩を持ちたくなってしまうのだった。

 試合は二十四対二十三という接戦の末にデトロイト・ライオンズの勝利に終わった。ロサンジェルスラムズも健闘しつつ、ジャレッド・ゴフが勝利するという、僕にとってもバランスのいい結果だった。ラムズにかんしていえば、一年を通して活躍していたプカ・ナクアというルーキーのレシーバーが今日も非常な好成績を残していて、来年に向けた芽も感じられたのでよかったのではないでしょうか。

 ところで、昨年十月の日記を少し読んでいると「今年ベスト級の天気」という表現が出てきた。たしかに十月頃の過ごしやすさというのは格別のものだった。でもそれはあくまで僕にとってはという話に過ぎず、もしかしたら今日みたいな天気こそをフェイバリットに挙げるひとだっているかもしれない。風こそ冷たいが、空気は澄んでいるし、冬至から数週間が過ぎて徐々にではあるが日も長くなってきており、春の気配を無理やりにでも感じ取ろうとすれば感じられなくもない天気。しかし僕や同居人にとっては風が冷たいというところばかりが目についてしまい、正直にいって「ベスト級」からは遠いのだった。さいきんは暖房をつけても湯船に浸かっても真に暖まった気がせず(だからこそこたつを出したのだが)、同居人は湯船に入ることをついに「寒いのにわざわざ裸になってびしょびしょになること」と評してしまっていた。明日は同居人を満足させられるような最高の湯を張りたい。

 

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 昼頃に会社の外に出たら風が冷たすぎてびびり散らかした。夜に風が冷たいよりも昼間に冷たいほうがびびる。なぜなら昼間というのは暖かくあるべきだから……

 

1/17

 さいきん連日のように慌てて聴講していた「ことばの学校」の聴講期限を一ヶ月延長しますというメールが来て、たいへんありがたかった。メールによると「延長の希望がありました」ということだそうで、僕のようにぎりぎりまで溜めてしまっていたひとなのか、真面目に聴講したうえでさらに繰り返し見たいという熱意あるひとなのかはわからないが、とにかく声を上げたひとがいるということであり、その行動力に敬意を示しつつ僕もありがたく恩恵を受けさせていただくことになる。声を上げることの大切さは他にも実感したばかりで、一ヶ月ほど前から僕たちの住んでいる部屋のインターホンが鳴らないという不具合が起きており、それなりに困りはしていたのだが大家さんに連絡するほどではなく、鳴らないなら鳴らないでまあどうにか暮らしていこうというモードになっていたのだが、ある朝マンションの入り口に貼り紙があり、曰く「一部の部屋でインターホンが故障しており、近日中に修理に伺います」ということだそうで、これはおそらくだが住人のどなたかが大家さんに連絡を入れないと発覚しない事態であるはずで、そうやって声を上げてくれたどなたかに僕もタダ乗りさせていただく形となっていたのだった。こんなふうに書くと僕がいつもタダ乗りばかりしているようだが、実際、生活の様々な局面において自発性が足りないことは否めない。生活におけるきちんとした手続きのようなものをなにもしないで散歩ばかりしている。

 Vegynと柴田聡子の新曲が非常によくて、来たるアルバムに大きな期待が寄せられている。Vegynの新曲"The Path Less Traveled"はグリッチっぽい音を効かせつつ昨年の"Halo Flip"にも似た開放的なビートのモードが続いていて泣きそうになってしまう。街角で踊るひとたちを映すミュージックビデオも相変わらずよく、遠い地で同じ曲を再生していること、イヤホンをしてVegynの新曲を聴くという内的な行為が地球の裏側の誰かとシンクロしているであろうことに勝手に奇跡みたいなものを見出だして、僕も自由に身体を動かしてみようとするが、それは珍妙な発作じみたものにしかならない。柴田聡子の新曲「素直」も実にいい。というか柴田聡子ほどのひとが広く国民的に聴かれていないのはおかしくて、三月のライブだって楽しみだが、それも同じで、柴田聡子ほどのひとのライブのチケットが取れてしまうことはおかしい。あとAdrianne LenkerやFaye WebsterやKim Gordonの新曲もよい。いい春を迎えられそうな気がする。あとはやはり21 Savageのアルバムにはついつい再生してしまうよさがあって、序盤の"redrum"にハマっている。サンプルブレイクダウンを曲自体のなかでやっているように始まるビートがかっこいい。"redrum"は"murder"の逆さ綴りだそうで、日本語でいえば「殺し」を「シーコロ」といっているようなもので正直かっこいいとオモシロのどちらに入るか微妙なところだと思ってしまうが、映画『シャイニング』で息子のダニーが連呼していたのが初出だということで、それならまあかっこいいのかもしれない。でも21 Savageには「シーコロ」を連呼する切実さのようなものがあるのかもしれなくて、それをインターホンが壊れていたってなにもしようとしない僕がかっこいいかオモシロか分類しようとしてしまっていることは申し訳ない。

 

1/18

 寒さのなかにもほんのり暖かさを感じる日だった。寒いは寒いのだが、どことなく過ごしやすさすら感じられるような。こんなふうに冬は寒さのなかで繊細にバリエーションを提示してくれる。いっぽう夏という季節はただただ暑い。暑さの種類というのはなくて、ただ暑い。だからどちらがいいということもないのだが……

 

1/19

 頭痛のために会社を休み、寝たりだらだらYouTubeを見たりやはり少しだけ仕事をしたりして過ごした。カミナリがスーパーファミコンドンキーコングをプレイする動画をまた見た。サントラを聞きたいからゲームをプレイするという、既存のゲーム実況の枠からずれた企画ではあるが、それがずらそうとしてずれているのではなく、純粋に音楽を楽しみたいという素直な欲求から来ているのが気持ちいい。……今日はそれくらいです。

 

1/20

 鳴らなくなっていたインターホンの交換に来ていただくのが業者さんだけかと思っていたら大家さんもいらっしゃって、「すみませんね、ご迷惑かけて」「いえいえ」「もう機器が廃番になっていましてね、メルカリで買ったんですよ」「メルカリってなんでもあるんですね」という会話をした。とにかくインターホンがまた鳴るようになった。

 同居人が早稲田で長めの用事があるというので僕も同じタイミングで家を出て、映画でも観ようかと調べたところ、新宿で午後『君たちはどう生きるか』をやるようだったのでチケットを予約し、しかし上映まで時間があり、新宿で過ごすのもなんとなくいやだったので、中央線沿いのどこかの本屋に行くことにした。中央線沿いには僕が住んでいる辺りにはないよさそうな本屋がいくつもあり、あこがれが止まない。本屋だけでない。商店街もある。人類はやがて中央線沿いに集約されていくのかというほどに友だちたちが中央線沿いに引っ越していく。でもそれほどの魅力があるのもわかる。僕がいま住んでいる街には商店街も独立系本屋もない。僕の好みからは遠い街だ。それなのに住んでいる。かといって、それなのに住んでいる、ということをオモシロにできるほどでもない。

 そんなわけで今日は三鷹のりんてん舎という古本屋に行って、小説を三冊買った。小説ばかり買ってしまう。いい本屋だった。前から気になっていたサルバドール・プラセンシア『紙の民』などを買った。道中でスチャダラパーの『5th WHEEL 2 the COACH』を久しぶりに聴いてやはりいいと思った。「サマージャム'95」の「食ってないねーアイス 行ってないねープール 行ったねープール」のところが「(さいきん)食ってないねーアイス 行ってないねープール (そういえば前に)行ったねープール」の意であると即座に伝わるのがすごいし、これで伝わるだろうと思ったBOSEやANIの判断もすごく、しかしそれは受け手のことを信頼しているということでもあり、勝手に勇気づけられた。ということが以前にもあったのを思い出した。

 それから新宿に戻って『君たちはどう生きるか』を観た。夏に観て以来いつか観たいと思っていた二回目をついに観ることができた。一回目にはあまり感じなかったが、お父さんの声はたしかにキムタクだった。映画館を出てからは早稲田で用事が終わった同居人と合流し、つけ麺を食べて帰宅した。今日は深夜から渋谷で『ストップ・メイキング・センス』の上映プラストークプラスDJのイベントに行くので、いったん寝ようとしている。

 

1/21

 公開後にいろんなひとがいろんなことを書いているのを斜め読みしたりこの前の「プロフェッショナル」を見たりしてから昨日もう一度観た『君たちはどう生きるか』は、むしろ素直に、描かれているあれこれの意味についてあれこれ考えず楽しむことができて、やはりいい映画だと思った。もちろん内容について語るのも楽しいが、あえてそうせず、映画がスクリーンに映され、それを僕たちが観ているその場一回一回限りの物語として楽しむというやり方も、この映画にはふさわしいのかもしれない。

 昨日の夜は渋谷のSpotify O-EASTの『ストップ・メイキング・センス』の上映プラストークプラスDJのイベントに行った。ライブハウスの爆音で、みんなで揺れ、踊り、歓声をあげながら観る『ストップ・メイキング・センス』はこれ以上ないほどに最高で、場内に響く拍手が映画内の一九八三年のアメリカの観客のものなのか二〇二四年の僕たちのものなのか判別しがたいほどライブとしての一体感を感じた。『アメリカン・ユートピア』で相変わらずの運動神経と体感のよさを見せていたデヴィッド・バーンは一九八三年時点でももちろん素晴らしいパフォーマンスを披露しているのだが、彼だけでなくステージ上のメンバー全員が輝いていて、トーキング・ヘッズはここでバンドとしての頂点を迎えていたのだろうと思ったし、逆にいうともう「トーキング・ヘッズ」というバンドとしてできることはこの時点で極めてしまって、だからこれが最後のツアーになったのかもしれないとも思った。

 そういうわけで昨日の上映はまるでライブであるかのような特殊な体験になったわけだが、そのことを差し置いてもやはり『ストップ・メイキング・センス』というのはひとつの映画として素晴らしかった。ラジカセを持ってステージに現れるデヴィッド・バーンを足元から映す最初のカットから、このコンサートの記録を「映画」にするという明確な意志が感じられ、そのあとも順々にメンバーが増えていったり、バックスクリーンにメンバーの影が大きく投影される演出によって、映像そのもののかっこよさが保たれ続ける。バンドメンバーたちも(少なくともビッグスーツを着てくねくね踊るデヴィッド・バーンは)いま自分たちがやっているライブが未来永劫最高のコンサートフィルムとして残されることを承知し、撮影スタッフと一体となって映画としてのかっこよさに加担しているように見える。熱狂のなかライブが終わって一度幕が閉じ、すべてのセットが撤収したあともう一度上がるカーテンに追従する形で流れるエンドロールも美しい。

 朝になってから帰宅し、昼前まで寝て、午後も家でだらだら過ごした。夕方に同居人が高校の友だちたちと集まるために出かけたので、僕も同じタイミングで家を出て、映画でも観ようかと調べるとイメージフォーラムでカール・テオドア・ドライヤー特集がまだやっていて、観たいと思って劇場の前までは行ったのだが、なんとなく気分が乗らずやめた。なんとなく『枯れ葉』みたいな映画が観たい気分だった。『枯れ葉』の二回目もありかと思ったがちょうどいい上映回がなく、今日はそのままトーキング・ヘッズを聴きながら歩いた。渋谷周辺の混んでいなさそうな道をぐるりと回ってから電車で家の最寄り駅に戻ってうどんを食べ、サンマルクに入って読書し、帰宅して同居人の帰りを待った。

スカート澤部さん、KID FRESINO

 

1/22

 なんとなく頭が重くて仕事を早めに切り上げて帰り、同居人もほぼ同じタイミングで会社を出たというので一緒に夕飯でもと考えていたところ、同居人の友だちが近くまで来ているということらしく、三人で食べることとなり、月曜日から焼き肉に行った。幼少期の記憶についての話になり、同居人とその友だちが非常に多くのことを記憶しているのにたいして僕はあまり思い出せることがなく、一番古い記憶として小三くらいの授業参観のときのこと──その日の授業参観が体育のあとだったのだが、当時授業中によく手を挙げる少年だった僕がいつもどおりよく手を挙げていたところ、授業の半ばほどまで過ぎた段階で、自分が着替え終わっておらず肌着のまま授業を受けていたことに気がつき、とても恥ずかしくなったという記憶──を挙げたのだが、そのあと話しているなかでもっと古い記憶──幼稚園の年長のときに階段に額をぶつけて縫うほどの出血をしたのだが、そのあと小学校低学年の頃に『ハリー・ポッターと賢者の石』が発売され、ハリーと自分の額の傷の位置が似ていたために重ね合わせたという記憶──が蘇ってき、記憶というのは会話のなかで蘇ってくるものだということを実感した。しかしそうやって自分の記憶として話している話が、実際に生の記憶として頭のなかに残っていたものなのか、それとも後々の自分によって編集が加えられたエピソードとしてのものなのか、正確には判別しがたい。もっといえば記憶というものは思い出されるたびになんらかの編集が加えられることから逃れられないものとして考えるべきかもしれない。だからこそその日一日のことをこうやって日記として残したほうが記憶の鮮度は保たれるが、これすらも編集が加えられているということを忘れてはならない。

 同居人の友だちはドラマの『silent』にいたく感激したらしく、一話で離脱してしまった僕と同居人をもそこまでいうなら見ようかという気にさせるほどの熱量で語ってくれた。逆に僕たちからは坂元裕二のドラマ、特に『最高の離婚』をおすすめしたが、その裏には『silent』よりぜったい『最高の離婚』のほうがいいだろうという先入観があったことは否めず、反省すべきかもしれない。

 

1/23

 頭痛のため会社を休む。なにか慢性的なもののような気もしてきて、まずは再び区民ジムに通うことを決意する。

 寝て、起きて、うどんを茹でて食べた。いつか買って積んだまま(いつものことではあるが)になっていた、しゃんおずん『飛行文学』を読んだ。これはトーチwebで連載されていたという二ページ~八ページほどの超短編漫画を一冊にまとめたもので、僕はトーチコミックスに好きなものが多いのでこれも買い、最初の数編を読んであまりの散文性の高さにびびっていったん積んでおいたのだが、今日みたいな日に読んでみるとかなりよかった。二人の女の子が主人公のようで、彼女らの通学路や放課後の風景を中心に、ときに時間も空間も画風も飛び越えてゆき、語り手さえも軽やかに変化し、それぞれの話がゆるやかな連なりを持っている気持ちのいいテンションのなかで進んでいく。日常をおもしろがる眼差しが全体に貫かれていて、ひとつひとつにはオチも展開もないような話を、日記のようなものだと思って読むととてもいい。前に川上弘美か誰かの短編集を読んだときにも思ったけれど、奇想っぽい短編というのは、日記の裏返しのような気がしてくる。日常から高く浮いていると同時に、しっかり地に足は着いている。というか、奇想そのものが日常全体を高く浮かび上がらせるのかもしれない。

 同居人がおかずを買ってきてくれたので、炊いておいた白米と一緒に食べ、『光る君へ』の第三回を見た。大河ドラマってリアタイで見ないともう見なくなっちゃうよねというあるあるをいまのところ乗り越えて見ることができている。

 

1/24

 今日も仕事中に頭が痛くなってきて、仕事を終えたらすぐに会社を出た。帰宅してしばし休んだあと、友だちとジムに行く約束があったため同居人も一緒に三人で行った。ZAZEN BOYSの新しいアルバムを聴きながらマシンでトレーニングをした。この前『ストップ・メイキング・センス』を観たばかりだったのでZAZEN BOYSTalking Headsの延長線上にいるように思え、さらに途中でThe Smithsみたいな曲もあって楽しかったが、調子に乗ってトレーニングしているうちになんだか疲れてきて、ベンチに座って休んでいるうちにめまいがしてきてやばかった。友だちが隣に座って近況報告をしてくれていたが「へえ、よかったね」くらいのそっけない返事しかできなかった。エアロバイクをやり終えた同居人が近づいてきて、僕の唇が白くなっていることを指摘し、そのまましばらく三人で座って休んだ。やがてめまいは治まり、友だちが鉄分のウィダーインゼリーみたいなのを買ってくれてそれを飲みながら外に出た。友だちの近況報告にたいして先ほどはそっけない反応をしてしまったのでやり直してもらい、「おお、よかったね!」くらいの反応はできた。帰り道に味覇が落ちていて謎だった。冷凍都市の味覇

 

1/25

 昨日の僕のめまいやばかったよね、という話を同居人にして、ああ、こうやって昔の話を武勇伝みたいに語るおじさんが誕生していくんだね、といわれた。しかしやばかったのは事実で、視界に砂嵐がかかったようにぼやけ、指先まで痺れてくる始末だったのだ。おそらく脳に酸素が不足していたのだと思うが、もしこのまま気を失いでもしたらどないしましょと昨日はほんとうに思って、でもしばらく座って息を吸ったり吐いたりしていたら徐々に落ち着いてきたのでよかった。……というふうに昨日の今日だからわりと誇張せずに書けているが、これがたとえば一年後、五年後、十年後に振り返ってしゃべるという段になったら、たしかに、たいそうな武勇伝であるかのように語ってしまうのかもしれない。「いやー、あんときほんまにやばくて、まずジムに行くの自体久しぶりやってん、ほんでマシンな、がーやってん、で、久しぶりやから疲れるやん、腕も足もパンパンやねん、血管もぶわー浮き出てな、息も切れてんねん、やばー思て、ベンチあってん、とりあえず座るやん、ほんならそのうち目の前がくらくらしてきてな、周りの声も聞こえんくなって、手もびりびり痺れんねん、あかんー思てるうちに、なんかだんだん、遠くに象みたいなん見えんねん、象や、思て、そしたら象の下にでっかい亀おんねん、これあれやん、これ昔のひとが思てた地球やん、思て、でもそれだけやなくて、象の上にひと乗ってんねんな、誰や思て、ちゃんと見ようとしてもめまいやからはっきり見えへんねん、わからんわー思て、もっと近づいてくれや思て、見てたら、象近づいてくるねん、そしたらひと見えてな、誰やったと思う、な、誰やったと思う、スネイプ先生やねん、スネイプ先生が、我輩我輩いうて近づいてくんねん、ほんなら僕も、我輩やん、いうて、それでめまいがおさまってん」

 

1/26

 仕事を終える頃にちょうど大学のときのサークルの友だちから連絡が来て、近くまで来ているので飯くわん?といわれたので誘いに乗って集合し、ぷらぷら歩いてから長崎ちゃんぽんメインの居酒屋に入った。注文したしゅうまいがでかくてウケた。近況報告、文フリ、写真と文章の自意識、商店街のある町、古本屋、団地、アメフト、来日アーティストのライブ、渋谷の再開発などについて話し、その流れで渋谷まで歩いた。東京の道は上り下りが激しく、うねりもあるため、歩いているうちにいつの間に方角が変わっているという話もしながら、桜丘町のほうから渋谷に到着した(個人的にはこのルートは渋谷に〝裏から入る〟感覚があって楽しいが、その〝裏〟である桜丘町の辺りがまさしく再開発エリアになっているので悲しい)。渋谷に着くまではさほど寒さも気にならなかったのに、高いビルがそびえ立っているエリアに突入すると途端にビル風で寒く、やっぱり再開発なんてするもんじゃないねと思った。しばらく渋谷駅のなかをうろうろしていると、ちょうど渋谷で別の友だちと飲んでいたという同居人が来たので、そのまま移動して三人でバーっぽいところに入った。そこは僕たちの最寄り駅の近くのバーで、サークルの友だちはなぜか来たことがあるらしかったが、僕と同居人はそんなところにそんないい感じのバーがあったなんて知らず、この町に馴染めていないという事実を再確認させられることとなった。バーではクラシックギターの生演奏もしていて、それを聞きながらウィンドウズやマックのスクリーンセーバーの話をした。

 

1/27

 今日は仕事だったので、朝早く起きて洗濯してから行った。昨日から繰り返し聴いているザ・スマイルのアルバムを、洗濯物を干しながらまた聴いていい気分になった。とてつもなく広くて心地のいい密室のような音が鳴り続ける傑作だ。バンドの近影を見たらジョニー・グリーンウッドは相変わらず前髪が重くてよかった。前髪が重いことをもうおそらく三十年近くも貫き続けているのだと思うとすごい。眠いので寝る。

 

1/28

 昼頃まで家でゆっくり過ごした。昨日の夜にスマホで見た天気予報だと曇りのち晴れだったので、朝に回るように洗濯機を予約しておいたのに、いざ今朝洗濯物をベランダに干してみてからもなかなか晴れ間が見えず、もう一度天気予報を確認してみるとしれっと曇りに変更されていた。変更があるならいってくれ。午前中は『ブラッド・メリディアン』を読み進めた。今月の上旬から読み始めているのにまだ半分くらいしか読めていない。寺尾聰の『Reflections』のレコードを流した。寺尾聰の低い声は演奏と完全に一体化していて耳心地がとてもいい。地震があって、本棚を押さえた。こんなに揺れて震度3とか4なのだっけかとビビり、アマゾンで本棚の上に設置するためのつっかえ棒を即購入。

 午後は『哀れなるものたち』を観に行った。設定も映像も奇想天外ではあるが、話自体はすんなり飲み込めるというバランスのよさがあっていい映画だった。序盤から繰り返される魚眼レンズとズームイン、ズームアウトは、ともすれば散漫な印象にもなりかねないはずなのだが、この奇妙な解放の物語においては馴染んだものとして機能していて、コミカルさを誘っていたように思った。大きなシステムや環境や構造そのものを変えることは叶わないかもしれないが、自分自身と自分の周りだけは変えてゆけるということを身を持って証明していくベラの物語の、ラストシーンについてはまたあらためて考えてみなければならない。あとずっと楽しめはしたが少し長いとも感じたことも忘れずに書いておこう。

 最寄り駅の近くにさいきんできたっぽいラーメン屋に入って食べたらあまりおいしくなくて、同居人が、日曜日の夜ごはんなのに、としょぼくれていたので、そのあと何度か行ったことのある焼き鳥屋にも行って少しだけ食べて帰宅した。『光る君へ』を見る前に風呂に入ってしまおうかと湯船にお湯を張ろうとしたらいつまで経ってもお湯が出ず、そういえば以前にも地震があった際に給湯器が停止したというのを思い出して、玄関横のガスメーターの復帰ボタンを押しに一瞬外に出た。もう入浴する気まんまんで薄着だったので寒かった。

 

1/29

 あまり調子がよくなかったので少し遅れて会社に行った。地道に読み進めている『ブラッド・メリディアン』はようやく半分を過ぎた。灼熱の太陽に照らされる乾ききった大地を進み続けるインディアン討伐隊(作中表現に則る)の姿が、本を開くたびに眼前に現れる。読点のない長い文章(原文でもカンマやピリオドが用いられず"and"でひたすら長く一文が続いているという)は、けっして容易く読ませてなるものかとばかりに僕の視線をページの上で行きつ戻りつさせ、その文章を読むという行為自体がまるで灼熱地獄を歩かされているかのような感覚に陥る。感情表現を排した文章がまるで神話のようであるという印象は冒頭から変わらず、美しい風景描写がときおり胸を打ち、不意に訪れる暴虐行為に息が詰まる。

 ネイティブ・アメリカンを討伐するという目的でメキシコの州政府に雇われていた討伐隊が、戦闘的なアパッチ族から平和なティグア族の村まで皆殺しにし、果てにはメキシコ人たちをも見境なく射殺していき、今度は自分たちが懸賞金をかけられることになる。本の真ん中あたりまで来て際限のない暴力へと突入している感じがあり、描かれていることがどんなに残虐で、非人道的で、最悪であろうと、わくわくさせられてしまっている。なにより博覧強記を誇り、誰よりも躊躇がなく、体毛が一本もない青白い巨体のホールデン判事という人物にカリスマ的魅力があり、このひとの行く末を見届けたいという気持ちがある。

 さいきんは同居人が寒さのせいかそれとも仕事のストレスのせいか頭痛をうったえることが多く、頭痛にいいっぽいということで夜にコーヒーを淹れて飲んだ。コーヒーに合うだろうということでセブンイレブンで甘いお菓子も買ってしまった。加えてアイスも買ってしまった。アイスなんて頭痛にはむしろ悪いだろうに。コーヒーを飲み、お菓子を食べながらネットフリックスで『女王陛下のお気に入り』を観た。おもしろかった。

 

1/30

 朝起きると頭痛があるということが頻出していて、慢性的ななにかかとも思って病院にも行くことにしたのだが、それまでにもとりあえずできる対策からしておこうと思い、ひとまず今日は「いつもより早く起きる」というのをやってみた。それが対策になるのかどうかは微妙なところだけど、早く寝るだとか寝る前に水を飲むだとかをやっても朝目が覚めると頭が重いということがままあり、けっきょく事前の対策なんてしようがなく、その日頭痛があるかどうかは朝起きてみるまでわからないという出たとこ勝負の状態になってしまっているので、せめて事後の対策をしようということで「いつもより早く起きる」というのが選ばれたわけである。早く起きることで、万が一頭痛があったとしても会社に行くまでに治まるだろう、治まればいいな、治まらなかったらどんまいだね、というわけだ。

 幸い僕たちの家は南東の方角に窓があるため、晴れた朝はよく陽が射し込んでくる。夜寝る前にリビングの側のカーテンを開けておけば、朝起きる頃にはまぶしい光がリビング中を照らして、ほどよく温まり、目もしゃきっと覚める。ここ数日のように空気もよく澄んでいれば、窓を少し開けて深呼吸をしてみてもいいかもしれない。

 そんなわけで今日は少し早く起きてみて、幸い頭痛もなく、洗濯までしながら爽やかに過ごすことができた。しかし早く起きたことで会社に行くまでに余裕ができすぎてしまい、家を出る寸前に少し眠くなってしまった。むずいっすね。

 

1/31

 仕事終わりに同居人と友だちと焼き鳥を食べた。男子校ってどんなところだったの?という話になり、男子校に通っていた僕と友だちがそれぞれの学校の話をした。まあいいところとよくないところがあるよねという話をしながら、僕も友だちも割り箸の箸袋を小指にはめて遊んでいたので、男子校に通っていた者のとりあえずの特徴として「割り箸の箸袋で遊ぶ」という点がピックアップされた。