バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二三年八月の日記

8/1

 昼頃に大雨が降った。オフィスから見えるあたり一帯にあっという間に雲がかかって、「ああ、これは降りそ」くらいでもう降り始めた。少し離れたところのビル群は跡形もないほどに見えなくなってしまった。ここ数週間晴れすぎていたことを逆説的に思い起こさせるほどに雨は降りしきった。さらにすごいのは雷だった。

 雷だ!

 なのに僕はそしらぬ顔でパソコンに向かい続け、ときおり特に大きな雷鳴が聞こえたときに「おお、すごいですね」と誰にでもなくつぶやくだけだった。ほんとうならすぐにでもエレベーターに乗って、あるいはエレベーターが遅くてなかなか来ないなら階段を駆け下りでもしてビルの外に飛び出し、

「雨すげー!」

「雷すげー!」

 となりふり構わず騒ぐべきだった。そういう心を持つことと仕事をすることは両立するのだと、他の誰でもなくまず僕自身に示すべきだった。しかし僕は自分の席を離れずに「おお、すごいですね」というだけだった。そのあと僕がトイレに行っている間に、雨は降り始めと同様に一瞬で止んで、雲はどこかに消え、遠くのビル群も復活した。トイレから戻ってきたら窓の外の景色が一変していて、僕は「おお、止んだんですね」とまた誰にでもなくつぶやいた。

 ところで、Big Thiefの新曲"Vampire Empire"が素晴らしくて何度も聴いている。去年ライブに行ったときに強く感じた〝音楽が生まれる瞬間〟のようなものを極めて的確に捉えた三分間に感動している。

 

8/2

 仕事で大阪に行った。大阪は東京同様暑くて汗をどばどばかいた。しかし大阪でどばどばかく汗は東京でどばどばかく汗より許容できる気がし、それが遠出しているからなのか、それとも大阪という地の持つ雰囲気によるものなのか……、といっても僕は大阪のことをよく知らないので、「大阪という地の持つ雰囲気」なんて勝手なことをいうのは──仮に実際にそういう雰囲気があるとしても──かなり失礼なことだ。失礼しました。とにかく汗をかいて日に焼けて疲れた。帰りはうとうとしながらも、僕はどうも新幹線というものが好きで、とりわけ東海道新幹線の、特に名古屋~京都~大阪間の風景にはどうしても目をとられてしまう。すさまじい速度で走り去っていく田園たちと、遠くの山々、暮れなずむ空、家々、車、街の灯り。そんな景色を眺めているうちに、昨日に引き続き今日も訪れたのだ、突如として降り始め、あっという間に止む最高の雨が! そのあと夜空に現れた月のでかさ!

 

8/3

 ところで昨日は大阪から帰ってきたその足で都内のまた別の会社のオフィスにお邪魔し、そのあと一緒に大阪に行ったメンバーに会社の先輩を交えて焼き鳥屋に行き、なんかこれってすげえ社会人って感じじゃねえ!?とひとり感慨に浸っていたのだが、もちろんそのことは飲みの席ではいっていない。焼き鳥屋では僕たちの誰かがコーラやコークハイを注文するたびに店員のおばさんが「うちのコーラは瓶だからね、やっぱり瓶だとおいしいでしょ」と瓶コーラのよさを力説してくれ、しかしもちろんグラスに注いで飲むので違いは正直わからない。それでも「あー瓶だ、瓶いいですねえ」となんとなくで会話をするのは楽しくて、テーブルにはコーラの空瓶がたまっていった。おばさんはとても調子がいい。これね、卵焼きも四人分に切ってありますから、箸で取ってくださいね、で、この大根おろしにちょっと醤油かけて一緒に食べてください、いまかけちゃいましょうかね醤油、ほら、これくらいですね、それでこれくらい取って、一緒にお皿によそってください。あー、ありがとうございますと受け取った卵焼きはえらくやわらかくて、他の誰も言及していなかったが僕はいたく感動していた。僕が去年一ヶ月ほど作っていた卵焼きとはやわらかさの次元が違った、という表現はどうも軽薄な感じがしてあまり使いたくないのだが、ほんとにおそらく次元が違った。僕はおそらく卵焼きというものを二次元的にしか作れていなかったのだろう。僕は卵焼き器のうえにいかに卵を均一に広げるかということばかりにフォーカスしていて、広げた卵をいかに巻くかという三次元的な段階にたいしてまるでこだわれていなかったのだ。卵焼きの本質は〝巻き〟にある。そんな大切なことを、昨日の焼き鳥屋の卵焼きは教えてくれた気がしました。僕もまたいつか、やわらかな卵焼きを作りたいと思いました。

 

8/4

 金曜ロードショーで『カールじいさんの空飛ぶ家』を観た。愛する妻を亡くしたカールじいさんが家に信じられないほどの風船をくくりつけて空に飛ばすまでのテンポがかなりよく、奇想文学っぽさを感じてわくわくした。後半はいかにもファミリーアニメっぽくまとまり、それはそれでぜんぜんおもしろかったが、序盤のノリが最後まで続いてどこまでも家が飛び続けるバージョンも観てみたかった。

 

8/5

 朝、「せっかく土曜だから」という理由でなぜか七時くらいに同居人に起こされ、そのままコーヒーを作らされ、一緒にパンを食べ、そのあと同居人は寝た。僕は釈然としないまま、かつしかけいた『東東京区区』を読んだ。生まれも育ちも異なる三人が偶然出会い、葛飾区立石を中心に柴又や小岩のほうを散歩する漫画で、土地ごとの持つ歴史や記憶がノスタルジーに寄りすぎずに描かれるのがよかった。早く秋になってほしいと思った。早く秋に散歩したい。「日暮れるの早くなったねえ」といいたい。「おやおや、すっかり葉が赤くなって」といいたい。趣味は?と聞かれたら「散歩」と答えているが、正しくは「秋の散歩」かもしれない。そのあと、バルガス=リョサ『緑の家』の上巻を読み終えて下巻に突入した。上巻の表紙は美しく妖しい緑のジャングルの写真だったが、下巻の表紙はセピア色で、しかしよく見るまでもなく実はそれは上巻の表紙の写真の色味を調整しただけのものなのだった。たしか映画の『ブレードランナー』でも同じ背景絵が使い回されているシーンがあって、観たときに「あ、いいんだ」と思ったことを思い出した。

 僕と同居人が以前アイウェア(とあえて呼ぼう)を作った下北沢の店で、同居人の友だちもアイウェアを作り、レンズが入ってできあがったものを今日取りに行くというので同行した。僕もついでにアイウェアの調整をしてもらうつもりで行ったら、思いがけず鼻あてもおニューなものに交換していただけてありがたかった。新しい鼻あては透明感抜群で、むしろそれまでついていた鼻あてがどれだけ黄ばんでいたかが浮き彫りになった。そのあとアイウェアお祝いで焼き肉を食べた。

 夜は『HEARTSTOPPER ハートストッパー』のシーズン2を見進めた。本筋とは関係ないが、(いろんな事情や感情の波はあれど)ぜんぜん学校の課題をやろうとしない主人公にたいして、「早く課題やりなさいよ!」と思ってしまって、我ながらうるさかった。

 

8/6

 八時半くらいに起きて洗濯してから、家の近くの定食屋的なところで朝食を食べ、そのまま渋谷に行ってヒカリエで同居人の財布を買い、ユーロスペースで『トルテュ島の遭難者たち』の午後の上映回のチケットを買い(僕はいちおう映画美学校の受講生になったのでなんと九百円で観られる!)、道玄坂上のコメダ珈琲店(穴場)でみそカツパンを食べて少し本を読んで時間をつぶした。みそカツパンはめちゃくちゃでかくてウケた。「コメダのパンがめちゃくちゃでかくて笑う」なんてお決まりで陳腐な流れなのに、そっくりそのままやってしまって悔しかった。陳腐なことをしたり思ったりするのが恥ずかしいときと、逆に陳腐なことをまっすぐやりたいときがある。夏だから車で海に行きたい。秋には散歩をしたい。そういう陳腐は愛したい。

 ジャック・ロジエ『トルテュ島の遭難者たち』は愛すべき最高のグダグダ映画でほんとによかった。あ、ヴァカンスってこれでいいんだ、映画ってこれでいいんだ、という瞬間が常に訪れ続け、かと思えば急に現れる美しい瞬間に息をのまされる。グダグダといっても、いろんな計画や思惑が重なった結果としてすれ違いが発生するパターンと、なにも考えず行き当たりばったり的に行動して当然そのままなにもうまくいかずに終わるというパターンがあり、前者をブラックコメディ的に描くような作品はよくあるような気がするが、『トルテュ島の遭難者たち』は後者のようなノープラン系グダグダを描いたうえできちんとおもしろくしているのがすごいと思った。

 そのおもしろさというのも実は脚本や編集の妙によって成り立っていて、まず冒頭のグダグダな浮気シーンによって、主人公ボナヴァンチュールの行き当たりばったり性がはっきりとこちらに伝わってくるのがうまい。それでいてその一連のシーンが本筋とはまるで関係ない、というところにツッコミしろを残している感じもよい。そういうツッコミしろが残されたまま物語は進み、たとえば、旅行会社で働くボナヴァンチュールとその同僚・太っちょノノがカリブへと現地調査に向かわされるシーン。現地行きを命じられたノノは会社の廊下で「来月結婚なのに、このままだと婚約破棄か失職だ!」とわめく。しかしそのあとノノがどうしたかは示されず、すぐに空港のシーンへと切り替わる。空港にはノノの弟(プティ・ノノ)が待っていて、ボナヴァンチュールにたいして「兄は行かず、僕が代わりに行くことになりましたと」と搭乗十分前に告げる。のんきにトイレから出てきた太っちょノノをボナヴァンチュールが問い詰めると、太っちょノノは「でも母の具合が悪いし……」と結婚云々とはまた違う理由をいう、というところでまた場面が切り替わって、ラフなTシャツ姿に着替えたプティ・ノノが現れ、観ている僕たちは、ああ、けっきょくボナヴァンチュールとプティ・ノノでカリブに来たのね、と知る。シーンとシーンの繋ぎを飛ばすのはいかにもヌーヴェルヴァーグ的な手法なのだろうが、ジャック・ロジエはそれをユーモラスに使いこなしている感じがあり、またその編集のリズムによってグダグダをおもしろく見せていてすごい。

 とめどないグダグダの末に、観ている僕たちまでヴァカンスに行ったような気になれたので、ある意味では正しいヴァカンス映画だったともいえよう。あそこまでひどくないけど旅行なんてグダグダになるものだもんね、といいながら同居人と帰った。帰ったらまだ甲子園がやっていて、仙台育英浦和学院の試合は日が沈んでからもかなり白熱していて見入ってしまった。

 ちなみに、『トルテュ島』の劇中でボナヴァンチュールらが乗る船に船員として搭乗しているひとのパーカッション技術が端役にしてはすごかったので後で調べたらナナ・ヴァスコンセロスという有名な方だったそうで、いまアルバムを聴いている。すごいひとだと知って安心した。

担当者が不安になって補足したのかもしれない

 

8/7

 昨日に引き続き『トルテュ島の遭難者たち』のいいところを挙げると、なんといっても映画全体に〝なかなか行かない〟というボケが貫徹されていたところだと思う。映画序盤で「無人島でロビンソン・クルーソーみたいに暮らしてみよう」という旅行プランを思いついたまではいいが、そのあと実際にカリブに行くまでのくだりからしてグダグダでなし崩し的だし、カリブに着いてからはそもそも海辺に行くのすら時間がかかり、ようやく出港して目的の島の目の前まで来ても、「船で乗りつけてしまっては、ロビンソン・クルーソーみたいに遭難したとはいえない。荷物は捨てるべきだし、泳いで渡るべきだ」という謎の主張によって、いつまで経っても上陸しようとしない。ようやく上陸したかと思えば、実は島の反対側には当たり前のように人里があり、結局遭難せずに旅は終わる。一般的に、どこかからどこかへと行くことで物語を展開させるのが映画というものだとすれば、行くべきところがすぐ目の前に見えているのになかなか行かないというのは反映画的だし、その点でヌーヴェルヴァーグの精神を体現していたのかもしれない。

 ところでさいきんの〝なかなか行かない〟映画といえば『君たちはどう生きるか』を忘れてはならない。映画の前半、眞人くんはアオサギによる異世界への誘いを無視し続ける。『もののけ姫』のアシタカがタタリ神に呪われたその夜に村を発ったのと比べれば、これはかなり〝なかなか行かない〟部類に入るといえるのではないだろうか。あの遅さが宮崎駿作品にしては新鮮な気がして、それも僕が『君たちはどう生きるか』をいいと思った点のひとつなのだった。……ということを思い出して、もう一度観に行きたくなっている。(こう書いてみるとどうも僕は〝なかなか行かない〟映画というものが好きなようだ。でもこの〝なかなか行かない〟というのにも絶妙な塩梅があって、けっきょく最後には行く、というのが重要だと思う。最後まで行かない、というボケももちろん考えられるしそれはそれで笑えるのかもしれないけど、けっきょく最後には行く話のほうが好きだと思える。物語の盛り上がりのことを考えてそう思うわけではなく、けっきょく行くことにするほうが物語の作り方として勇気があると思うからだ。これはまだよくわからない話なので、かっこ書きにしておきます。)

 

8/8

 普段からよく泣く同居人だが、ここさいきんいよいよずびずびになってきてしまい、ほんとにちょっとしたことで泣いてしまうらしい。とりあえず早めに寝ることをおすすめした。目元を冷やすと次の日腫れにくいっぽいので、保冷剤をタオルで包んで目の上から被せたが、あっという間に外れてしまっていた。なぜかベッドに斜めに寝ていて、僕の寝るスペースがなくなっており、どうしようか思案に暮れている。

 

8/9

 今日は雨が降ったらしくて会社を出たら道が濡れていた。どんな雨だったのかはわからない。ただ雨が降ったであろう痕跡として濡れた道があった。夏の雨は気温を下げてくれるのでうれしい。今日も比較的涼しくなっていてうれしかった。でも夏の雨上がりの常として肌にまとわりつくような湿気があり、歩いているうちに前腕や手のひらにうっすら付着してくる水分が、身体から滲み出した汗なのか、それとも空気中の蒸気が凝結したものなのか判別しがたい。

 もう家に帰るだけでいいという僕自身の状況が、その湿気をぎりぎり不快に思わせない。

 夏の雨上がりの常として、──という書き出しで言及できることがもうひとつあって、それは匂いだ。夏の雨上がりには草の匂いがする。でもそれがほんとうに草の匂いなのかどうかを確かめたことはない。記憶とすら呼べないような幼少期のものすごくおぼろげな感覚や、その匂いがしたときにたまたま近くに茂みがあったみたいな状況からそう判断しているに過ぎない。ぜんぜん草の匂いでもなんでもなくて、なんならアスファルトの匂いかもしれない。ごみの匂いかもしれない。とにかく夏の雨上がりに漂うその匂いを僕は胸いっぱいに吸い込むのです。

 

8/10

 明日から休みなのでハーゲンダッツを買って帰った。「ハーゲンダッツ買ってきたよ」というと同居人が「わたしハーゲンダッツにそんなに思い入れないけど、『ハーゲンダッツ買ってきたよ』ってかなりうれしい言葉だね」といってくれてたしかにそのとおりだと思った。シャワーを浴びてから食べようと思って冷凍庫に入れ、そのまま今日は食べ忘れて歯を磨いてしまった。

 

8/11

 朝、同居人の友だちがやってきて、同居人と共にプールに行った。僕は部屋の片付けをしたり甲子園を見たりして過ごした。部屋を片付けながら空気階段のラジオ(もぐらがずっと『首』のたけしの「あなたこそ跡取りなのに、なあ」の物真似にハマっていてウケる)やNonameさんの新譜(おそろしくいい)を流した。そのうち同居人たちが帰ってきて、そのまま三人でお昼を食べに出た。同居人の友だちは都内の区民プールを巡っているそうで、プールのあとのご飯含めていまのところ品川区や練馬区のプールがよかったという。各地のプールとご飯を訪ね歩くなんて、エッセイマンガにしてヒットしてテレ東でドラマ化される流れじゃんと思った。

 友だちが帰ったあと、僕と同居人は『バービー』を観に行った。といっても同居人は会社の同期と観るというので、僕は僕で別の映画館でひとりで観た。映画館にはピンクの服のご機嫌なひとが多くてよかった。『バービー』は内容もさることながら、主人公がひたすら逡巡する様がよくて、やはり『フランシス・ハ』のグレタ・ガーウィグノア・バームバックだ……と感涙した。ただ、映像のノリや内輪寄りのユーモアはついていけるかいけないかギリギリのラインだった。ライアン・ゴズリングがケンをマンキンで演じてくれていたためにどうにか成り立っていたバランスだと思う。ここさいきんXことTwitterで見かけていた、いろんな映画の海辺にいる人物の写真に"his/her job is beach."とキャプションがついているミームの元ネタがわかったのはよかった。全編を通じてミーム化を促す作りだったし、そういう意味でも現代的な映画だった(し、くだんの問題が起きたのも理解できてしまう感じがあった)。

 映画館を出ると歩けなくもない気温だったので渋谷のほうまで歩いた。こないだの『トルテュ島の遭難者たち』に出ていたナナ・ヴァスコンセロスのレコードがないか渋谷で少し探したが見つからず。電車で家の近くまで戻ってうどんを食べ、同居人もそろそろ帰ってきそうだったのでサンマルクで『緑の家』を読んで待った。『バービー』で語られていた〝男社会〟という言葉に照らして考えれば『緑の家』に出てくる人間関係は圧倒的な男性優位の世界であり、しかしそれは資本主義とか高層ビルとか時計や馬とか取締役会とかそういう『バービー』で描かれていたアメリカ的な表象とはまるで違う。そう考えると『バービー』は実にアメリカ的な、資本主義的な文脈のフェミニズム映画だといえて、アメリカ国内でヒットするのもなんとなくわかる。

 

8/12

 朝からテレビで甲子園を流したり"HOSONO HOUSE"のレコードを流したりしながら『緑の家』を読み進め、眠くなったら寝、三十分くらい経ったところでテレビから出る打球音や同居人の呼びかけで起こされる、そういう感じで夕方まで過ごした。そのあと友だちとジムに行った。今日は隣の区の行ったことのない区民ジムに行ってみたが、お盆だからか空いていてよかった。僕がふだん行っているジムとはマシンの仕様が少し違っており、しかしそれでもやり方がわかればすんなりできて、中高の数学の授業で別解を教わったときみたいだった。中高の数学の授業以来聞いたことも使ったこともない言葉、「別解」。いや、使ったことはある。大学生のときに個別指導塾のバイトをしていて、生徒たちに偉そうに「じゃあいまの問題の別解も考えてみようか」などといっていたのだった。でもこういう話は一日を振り返って日記を書いているいまだからこそ思い当たる話であって、トレーニング中にはなにも考えていない。トレーニング中にはソニックマニアの予習としてオウテカを聴いていた。オウテカは高校生の頃に一度聴いて挫折した。高校の図書室のCDコーナーで借りたのだった。中学三年生のときのギターの授業で先生がロック史の講義をしてくれて、その流れで「高校の図書室にはけっこうCD置いてあるから、自由に借りてくださいね」といってくれていたので僕は喜んで借りていたのだが、借りていたのは学校中で僕含めてたった数人だった。せっかく自由に借りてくださいねといってくれたのに! その数人のなかには同じソフトテニス部のひとつ下の後輩もひとりいて、その後輩とはソフトテニスよりむしろ音楽の話題を通じて仲よくなった。僕も彼もソフトテニスにはあまり思い入れがなかった。だからこそ逆にいまでもたまに会うような付き合いが続いている。高校の図書室や、西日暮里、柏、最寄り駅のTSUTAYAが高校生の僕にとっての音楽を広げ、大学生になるとそこに渋谷図書館や渋谷のTSUTAYAが加わり、音楽も映画もたくさん借りた。渋谷図書館はいつしか閉館した。渋谷のTSUTAYAもレンタル事業をやめるらしい。地元のTSUTAYAはいつの間にかDAISOになっていた。いや同じローマ字だけれども。高校の図書室は、たぶんまだある。図書室で借りたオウテカは"Confield"というアルバムで、いま考えると、当時まだレディオヘッドの"Kid A"も聴き馴染めていないガキんちょだった僕が入門として聴くにはいささか難しすぎたのではないか。いまでも難しい。でもオウテカでも聴きやすい部類のアルバムもあって、今日聴いた二〇一〇年の"Outsteps"というアルバムはわりとメロディもあってよかった。

 ジムのあとは少し散歩して本屋も覗いたりしてから友だちと解散した。家に帰ると同居人が、僕が家を出たときと同じ姿勢でソファに寝転がっていて、千代に八千代に……と思った。ディズニープラスでクドカン脚本の『季節のない街』を見進めた。東日本大震災から十二年経った仮設住宅の街を舞台に、いろんな人間の話をしていて、こういう話を一話三十分ない尺でさくさく見せてしまうクドカンの手腕におそろしさを感じる。かなり真摯に描かれた話だと思ったが、ひとつだけこの尺でこの展開はよくないよと思ったところがあって、今日はそこまででいったん見るのをやめた。

 

8/13

 朝から日比谷に行って、日比谷シャンテの一階のパン屋でパンを食べ、TOHOシネマズシャンテで『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を観た。初めて観る同居人に、事前に知っておいたほうがいいことがあるかといわれ、「主人公が小四と呼ばれているが、これは小学四年生のことではなく、こういう名前である」と伝えておいた。役に立ったでしょうか。

 シャンテの小さめの座席で四時間トイレに行かずに座っていられるか、集中して観ていられるか不安だったが、なんのなんの、あっという間に幸福な四時間が過ぎ去って、観ている途中から、以前観たときもあっという間だったことを思い出した。どうしてあっという間なのかというと、まず全編を通じてショットがバキバキにキマッているのと、劇伴はほとんどないながらも常になにかしらの音が鳴り、誰かしらが画面のなかで動いているということが徹底され、映画を観る喜びに満ちているからに違いない。ひとを四時間座らせ、集中させ、楽しませるというのはそれだけで想像もつかないほど難しいことのはずなのに、『クーリンチェ』はそれを達成してしまっている。ではそんな困難を乗り越え、わざわざ四時間の映画を作ってまでエドワード・ヤンが描きたかった物語とはなんなのかということを考えたときに、そもそもこの映画は物語を描いているのではなく、世界そのものを描いているのではないか、と思わされる。この映画から〝本筋〟と呼べるようなものを抽出し、シンプルにそれだけを描いたとすれば、ほんとは二時間とか、もっといえば一時間半とかでも十分だったかもしれない。しかし今日僕が観させられた四時間のなかから実際にどこを削るかと問われれば、僕は答えに窮してしまう。〝本筋〟とは関係なさそうなシーンは思い浮かぶ。でもそれを削ってしまうことは考えられない。そう感じさせられることが、この映画が物語ではなく世界を描いている証左だと思うのだ。もちろんこの四時間が世界のすべてというわけではないが、少なくともその一端には触れている、そんな感覚が、眩しい昼の光と冷たい夜の影のなかに宿っている。……なんてふうに書くとパンフレットの濱口竜介の言葉と少し似てしまうのだが、僕もこのように思ったのだから仕方がない。ハマリュウ、すみません。

 しかしさすがに四時間の映画を全集中して観たあとにはちゃんと疲れを感じ、加えて息もできないほどの湿気に満ちた身体に悪い気候だったので、映画を観たあとは直帰してぼんやりゆっくり過ごした。ぼんやりするのはいい。盆休みにも「ぼんや」と入っていますし……

 

8/14

 朝、同居人と共に家を出て、同居人は仕事へ、僕は盆休みの続きへ──。渋谷で散髪に行ったあと、ユーロスペースに寄って午後の『メーヌ・オセアン』のチケットを買い、外に出たところで激しい雨に降られ、近くのスタバに駆け込んだ。雨は容易にスニーカーを貫通して靴下へと達し、僕を悲しませた。雨は毎回無許可でスニーカーを濡らし、靴下を濡らし、僕の心をも濡らす。駆け込んだスタバで店員さんに雨大丈夫でした?と話を振られ、いやー、ちょうど激しく降ってきちゃったときに外歩いてて、くらいまで答えたときに注文したカフェラテが出来上がってしまい、尻切れとんぼに会話は終了した。突然の雨はこんなふうに返答の尺を間違えさせる。映画まで二時間半くらいあったので、スタバで二時間近く読書し、近くの蕎麦屋に行ってからユーロスペースに戻った。

 二時間近くの読書でちょうど『緑の家』を読み終わり、最高の気持ちになった。七月の中旬くらいからだらだらと読んでいたのでおよそ一ヶ月かかったことになる。長編小説というものは往々にして僕自身の生活と並走する形で読まれる。東京のアスファルトの蒸し暑さとペルーのジャングルの蒸し暑さはもちろん別物だろうが、たとえば今日のようなとつぜんの土砂降りには小説内の熱帯雨の描写を結びつけたくなる。そうやってほんの少し結びついたように見える描写を手がかりに、汗と埃まみれの小説世界へと入っていく。『緑の家』においては、場所も時間も異なる五つの物語が並行して語られ、会話のなかにことわりもなく別の会話が挿入される。そんな一筋縄ではいかない小説だが、挿入される会話といったってちゃんと前後の文脈に則っており、読んでいて迷子になることはないし、それぞれ切り刻まれて不規則に並べられているように見える五つの物語だって、様々な事実の明かされる順番や、終盤にかけての盛り上がり方などを鑑みれば、実はかなり理知的に構成されていることがわかる。その意味でバルガス=リョサというひとはかなり盛り上げ上手だと思う。読み進めるうちに人間模様や出来事が徐々に明らかになっていく構造には小説を読むということそのものの楽しさが備わっているし、明らかになっていった結果立ち上がってくる世界に圧倒され、僕たちはむせ返る。このように語ることでしか立ち上がらない世界がある、それはちょうど昨日観た『クーリンチェ』をも思い出させる。

 いい気持ちのままユーロスペースに戻って観たジャック・ロジエ『メーヌ・オセアン』はほんとに最高の映画で、終始にやにやし、ときに泣きそうになりながら観た。初対面同士のてきとうな口約束が果たされ、場当たり的に展開していく旅。物語の焦点はずれ続け、ひとがだんだん増え、サンバの即興合奏が延々と繰り広げられる最高の夜を境にだんだん減り、最後にはひとりになる。大橋裕之の漫画のような空気が漂っていると思った。途中でとつぜん現れて会話の中心に割って入ってくる怪しいアメリカの興行主とか、いかにも大橋作品のような人物造形だ。

 映画を観ていたときの幸せをぜったいに文字では再現できないとは思いつつ、奇妙に転がり続けた物語のあらすじを残しておきたい。映画は背の高い女性がパリ発の列車「メーヌ・オセアン号」に駆け込むところから始まる。彼女はブラジル人のモデル兼ダンサーのデジャニラというひとだと後にわかる。一等席に座ってリラックスするデジャニラのもとに、切符の検札係のリュシアンたちがやって来て、切符の不備と違反を指摘しようとするが、デジャニラは彼らのいうことがよくわからない。デジャニラはフランス語をあまり解さず、検札係たちにも彼女のポルトガル語は伝わらない。そこに犬を連れた弁護士の女性が通りかかり、通訳を買って出る。弁護士の勢いに圧されて検札係たちは去り、弁護士とデジャニラは意気投合する。漁師プチガを弁護するために途中駅で降りる弁護士に誘われてデジャニラも列車を降り、裁判を傍聴する。

 裁判が始まり、弁護士は謎の理屈をつらつらと述べて押しきろうとするが、裁判長に制され、漁師プチガ、敗訴。プチガは自らを訴えた原告と裁判長への怒りが収まらない。そんなプチガをなだめつつ、弁護士とデジャニラは行きの列車で検札係たちに絡まれた話をする。プチガの怒りは検札係たちへも向き、そいつらも俺の船に乗せてぶん殴ってやると豪語する。弁護士とデジャニラは機会があったらプチガの暮らすユー島に遊びに行くことを約束し、また列車に乗って旅を続ける。その列車で再会したのは、くだんの検札係の片割れであるリュシアン。リュシアンはふたりに先だっての非礼を詫びる。そんなリュシアンを、ふたりはおもしろ半分でプチガのいるユー島へと誘う。誘われるがままに休暇を取り、検札係の相棒も誘ってユー島に赴くリュシアン。彼らとプチガ、そして遅れて来た弁護士とデジャニラは島のバーで一堂に会し、プチガが酔っぱらいながら検札係のふたりにヘッドロックかます

 画面が切り替わると、プチガと検札係の片割れが飲んだくれて意気投合している。プチガは先ほどの暴力を詫び、検札係を「兄弟」とまで呼んでいる。弁護士とデジャニラはそんな彼らを見てくすくす笑っている。リュシアンはヘッドロックで首を痛めて部屋で休んでいる。

 そこに大きな音を立てて現れたのが、メキシコ出身、アメリカで活躍しているという興行主。彼はその巨大な体躯と声量で会話の主導権を握る。聞けばデジャニラはもともと彼にスカウトされて一緒にいたが、愛想を尽かして逃げ出してきていたのだという。そんなデジャニラを連れ戻しにした興行主だが、まずはその場のみんなにデジャニラの類い稀なる歌声を披露すべく、伴奏のためのピアノを探させる。ちょうど島の祭りの練習でピアノが使われており、みんなでその練習会場へと向かう。

 ギターが弾けるというリュシアンが部屋から起き出してきて、地元のピアニストまでどこからか連れてこられ、サンバの演奏が始まる。ところが、そもそもデジャニラはダンスはできるが歌が得意だとはひと言もいっておらず、興行主の目論見は不発に終わる。しかし演奏は止まらず、デジャニラもダンス衣装に着替えてサンバを踊り始め、すっかりご機嫌な検札係が「俺はサンバの王様」という謎の即興ソングを披露し、多幸感あふれる夜は騒々しく更けていく。

 次の朝、帰り支度を進める検札係のもとに興行主が現れ、「きみの歌声に惚れ込んだ。デジャニラはもういい。代わりにきみがニューヨークに来てくれないか」と熱烈に勧誘する。とつぜんすぎる話にたいして、これまでの安定した仕事を顧みてしばらく迷う検札係だったが、一世一代の賭けとばかりに了承する。すっかりその気になって飛行機に乗り込んだ検札係。しかし離陸寸前になって戻ってきたデジャニラに興行主は気移りしてしまい、検札係は降ろされる。滑走路から怒鳴る検札係。無情にも離陸する飛行機。ひとりきりになった検札係。

 そうとなれば早く帰って仕事に戻らなければならないが、相棒のリュシアンはひと足先に帰ってしまっており、他の飛行機も観光船ももうない。意気消沈してバーに戻るとプチガがいて、逡巡の末、検札係を船で送ってくれることになる。検札係は船を乗り換えながら、本土へと戻ろうとする。しかし陸地がすぐ目の前というところまで来ても、浅瀬に乗り上げてしまうことを恐れ、船はなかなか進んでくれない。日は徐々に高く昇り、仕事の時間が迫る。船の上から叫び続けてやっと通りかかった小さなボートに乗り換え、検札係はついに上陸に成功する。上陸したらすぐに車道があるというボートの漁師の話とは違い、砂浜は延々と続く。白い砂浜を小走りで行く検札係の姿をカメラは映し続ける。彼がやっと車道に出て、ヒッチハイクしたところで映画は終わる。

 

8/15

 昨日の日記は『メーヌ・オセアン』のあらすじを書いたところで終わってしまった。でも書いておかないと〝内容は覚えていないがとにかく最高だったという感触だけが残っている映画〟になってしまう(現に昨日の夜の時点で早くも弁護士や検察係の名前を思い出せていない)ので書いておいてよかった。最高だったという感触だけでも十分楽しいのだが、あらすじまでわかっている状態で反芻できるというのは、とりわけ『メーヌ・オセアン』のように物語の焦点が転がり続ける映画の場合かなりうれしいことだと思う。(あといま思い出したけど、弁護士の女性が連れていた犬が「大統領」という名前だったことも書いておいたほうがいい。犬がずっとおとなしくてほとんど映画の内容には絡んでこないために昨日のあらすじからは抜け落ちたが、とても素敵な名前だ。)

 ところで『トルテュ島の遭難者たち』でも『メーヌ・オセアン』でもブラジルの音楽がフィーチャーされていて、これはやはりブラジル音楽を聴かない手はないと思い、昨日はユーロスペースを出てからまた渋谷のレコード屋に行ってみた。この前も探したナナ・ヴァスコンセロスのレコードは相変わらずなかったが、代わりにジャケットと名前に惹かれてミルトン・バナナというジャズ・ボサ・ノヴァのドラマーのアルバムを買った。家に帰って聴いてみたらやはり最高だった。あとは、ここ数日はだいたいオウテカを聴いている。高校生のときにだめだったアルバム"Confield"も聴いて、かなりかっこいいと思えている。シングルカットするとしたらこれだな、と三曲目の"Pen Expers"に思うなどしている。

 今日は宮益坂近くに移転したル・シネマでライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『不安は魂を食いつくす』を観た。ファスビンダーの映画を初めて観た。彼の作品群のなかでも比較的わかりやすいという今作は、しかしその輪郭をなぞりやすいからこそ、そこからはみ出す心の機微や、作品全体に徹底された構図の美学をより味わえるように思った。特に構図の美しさは、冷徹という言葉を用いたくなるほど全編に徹底されていて、画面のなかでひとが動けばその分だけカメラも動いて美しい構図を保とうとするし、階段の何段目に立つか、道路のどこを横断するか、そういう微細な点までコントロールされているように見える。もちろん映画撮影においてそれらはふつうに考慮される点なのだろうが、『不安は魂を食いつくす』においては偏執的なまでにこだわられていたように思う。徹底したこだわりが生む冷徹な視線は、大小様々な差別やすれ違いをあぶり出し、しかもそれらが本人の意識とは関係なく容易に反転するということを僕たちに突きつける。一方で、本来出会うことのなかったであろうふたりがふと手を取り合って踊り始める、あるいは互いの姿を認めたふたりが駆け寄って抱きしめ合う、そういう、登場人物たちが大きく動いて構図から飛び出そうとする瞬間をも捉えることで、彼らの〝生〟を描き出すことにも繋がっている。……なんて書いたけど、まだファスビンダーの映画はこれひとつしか観ていないので、他の作品はぜんぜん違うかもしれない。あるいは昨日の『メーヌ・オセアン』と比較してしまったために冷徹に見えただけかもしれない。もしくは「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー」という名前の響きから禁欲的なこだわりを勝手に連想しただけかもしれない。世界にはいろんな〝かもしれない〟が転がっている。

 

8/16

 昨日の夜に途中まで読んだ『推し、燃ゆ』の続きを朝に読んだ。そのあと今日は上野の東京都美術館マティス展に行った。およそ六十年ほどの作家生活において常に芸術的探求を続けながらも、孤高の求道者という感じでもなく、周りのひととの関わり合いのなかから作品を生み出すひとだったという印象を(少なくとも今回の展示の流れからは)受けて、とても好感を持った。人物と背景の静物が色彩を通じてほぼ同化してしまっているような中期の絵と、「色彩と輪郭を同時に表現するならこれじゃん」と行き着いたという後期の切り絵の躍動感が最高だった。自分の作品が〝よい肘掛け椅子のような存在〟であってほしいと述べた彼の作品のまさに集大成であるヴァンス・ロザリオ礼拝堂は、僕のなかでいつか訪れてみたい場所になった。美術館を出てからは松屋で期間限定のうまトマハンバーグ定食を食べた。うまトマハンバーグ定食は、ひと口に含有できるトマトの味の限界を超えているのではないかという濃さでとてもおいしかったが、なんらかの条例で取り締まったほうがいいと思う。あれはなんなのでしょう、にんにくでブーストしているのでしょうか。そのあとは神保町に移動して古本やレコードをしばらく見たが、なにも買わず。表参道に移動して青山ブックセンターに寄り、『代わりに読む人』の創刊号を買って帰った。

まるで僕たちは動物じゃないかのような

 

8/17

 ほぼ一週間ぶりに会社に行って一日働いたら疲れた。帰ってきてからJames Blakeの"The Colour in Anything"を聴いて、あらためておののいた。アルバム中にクライマックスが何度も訪れる。特に終盤の、いったん落ち着いたかと思いきやの"Two Men Down"での昇天にびびらされる。

 

8/18

 仕事を終えてからソニックマニアに行った。迷った末レンタカーで行った。お金はかかるけど行き帰り快適でよかった。お金がかかることは僕と同居人にとってはほとんど問題にならない(ゆえに貯金はない)ので、レンタカーにして正解だったと思う。先ほど帰宅してシャワーを浴びて激ネムなのでさらっとだけ感想を残して寝よう。Shygirl:アンダーグラウンドの女王の風格があった。絶えず揺れているShygirl自身の姿がとてもよかった。Flying Lotus:こんなに踊らせてくれるスタイルなのか!という喜びとメインステージは音がいいな!という驚きがあった。James Blake:背高し、姿勢よし、ファルセット美し、低温すごしのオール満点。耳ではなく身体全体に直接響いてくる低音。響いてくる? 浸透してくる? なんでしょうあれは。あの迫力で割れていないのがすごい。"Limit to Your Love"、"Choose Me"、"The Wilhelm Scream"あたりはほんとにすごくて、気がついたらめちゃくちゃ天井のほうを向いて音を浴びていて首が凝った。近くにいた知らないひとが「James Blakeはまじでライブの音響にこだわってて」云々と話していて、もっと詳しく聞きたかった。そういうこだわりこそがえもいわれぬすごみを生み出すのだと思った。あと、べたに"Godspeed"でうるうるきてしまった。次のMura Masaとのあいだに友だちと出会った。Autechreは気になったものの、やはり個人的に〝僕たちの世代の音楽〟という感覚がかなり強いMura Masaを選んだ。Mura Masa:生ドラム、生ボーカル、とにかく生にこだわった生の祝祭。最高に楽しかった。たしか三年くらい前の来日公演に行ったのだが、そのときから変わらず歌うまおねえさんがぜんぶ歌うスタイル。あの方はなんというお名前なのでしたっけ……、原曲では男性ボーカルのところもラップも日本語もぜんぶ歌ってくれて、「あんたが歌うんかい」というおもしろさもある。"Boy's a lier"はIce Spiceのラップありのほうをやってくれたり、"slomo"のTohjiの日本語ラップもきれいに歌ってくれたり、ほんとに盛り上げ上手だ。Mura MasaのドラムはMPCより破裂音に近くて、それも祝祭感を増すことに寄与していた。ふたつの新曲"Whatever I Want"と"Drugs"はまさにそのMura Masaドラム大活躍で、このスタイルのライブのために生まれた曲だとも感じた。Mura Masa終わりで会場を後にし、車ですいすい帰宅。シャワー。激ネム

いい夜

 

8/19

 朝の七時に寝て、昼頃起きた。しばしゆるりと過ごしてから、僕も同居人もそれぞれ友だちと会う用事があったので家を出た。僕は西日暮里集合だったので久しぶりに上野から散歩した。ゆるやかに楽しい飲み会だった。激ネム

 

8/20

 ユーロスペースでウルリケ・オッティンガーの『アル中女の肖像』を観た。めちゃくちゃかっこいい女性映画だった。美しい服を着て、周りの声には耳も貸さず、ひたすらに飲み続け、空になったグラスを割り続け、酩酊し続ける女性の片道切符の旅。気高さと喜劇性を併せ持った主演タベア・ブルーメンシャインがほんとに美しかった。ユーロスペースを出てからは近くにあった焼き肉屋に入り、味は正直ふつうだったけどふつうでも昼から焼き肉という行為にはそれなりの満足がついてくるものだ。そのあと青山ブックセンターに行っていくつか本を買った。僕はフォークナーの『八月の光』やコーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』を買ったけど、それはもう読むために買ったというよりは積むために買ったというほうが近い気がする。もちろんいつかは読むのだが、おそらくすぐではない。いつかふと読み始める日に向けていったん積む。そうやって積むために買われた長編小説たちが家の本棚に何冊も控えている。そうなると、本屋の本棚に並んでいたのをお金を払って家の本棚に移動させただけのようだが、やはり本屋と家だと違う。家だとたまに手に取って、ぱらぱらとめくって、読まずに戻すということが気軽にできる。いつか読みたいと思っている本がすぐそこにある、という心地よさ。帰ってきてからはNetflixで『あいの里』を見た。

 

8/21

 昨日の夜からの頭痛を引きずって今日は会社を休んだ。午前中は寝るか、横になって裸眼のぼんやりした視界で甲子園を見るかして、昼は炊飯器に残っていたご飯といつか買ってあった無印のグリーンカレーを食べ、午後は昨日同居人が買っていた『花四段といっしょ』を読んで、少し仕事をしてから同居人が帰ってくるまで「ことばの学校」の講義記録を見た。「ことばの学校」はせっかく申し込んで受講料も払って、もう三回分の講義記録が送られてきていたのにひとつも見ていなかったのだった。一回あたり三時間というのが、僕に再生ボタンを押すのを躊躇させていた。どこかで本腰を入れて見始めないと永遠に見ずに終わるぞという危機感はあり、そうなると先週のお盆休みは大チャンスだったわけだが、どういうわけかまったく見ずじまいだったので、ああ、これはもうだめかもしれないと諦めかけていたところ、今日たまたま見ることができた。見始めてしまえば意外とすんなりいけた。特に、見ながらきちんと自分なりの講義録を取ろうとグーグルドキュメントを開いたのがでかかった。話されている内容を咀嚼するためというのももちろんあるが、なによりきちんと集中する手段としての講義録。夜は僕もちょいと外に出て同居人とラーメンを食べた。もうすっかり日は沈んでいるのに蒸し暑くて、夕食のためだけの外出だのに汗をかいた。帰ってきてシャワーを浴びた。ひげを剃る段になって、顔に塗ったひげ剃りフォームが目に入ってしまいそうになったので、今日は目をつぶって剃った。僕はいつも鏡を見ずにT字カミソリの刃先と自分の指先の感覚でひげを剃っているので、目は開けていようがつぶっていようが同じことなのだが、それでも奇妙なことに、目をつぶると一気に感覚が失われたように思える。目をつぶった途端にカミソリの刃が刃物として意識される。

 ふたつの関係なさそうな感覚が奇妙に繋がっているように思えるというのは、たとえばプールに行ったときにもあって、ふだん眼鏡をかけている僕はもちろん裸眼でプールに入ることになるのだが、視界がぼやけるとなぜか耳も遠くなるように思う。とりわけあらゆる音が白い壁に反響し水面に吸収されるプールという場だからなのか、その感覚は強い。すべての輪郭が白くにじみ、すべての音が遠い謎の空間で、僕はゆっくりと平泳ぎをしている。

 

8/22

 一般的に〝ととのう〟と表現される心地よい酩酊状態は、ひどく暑い室にしばらく篭らされた対価としてたしかにふさわしいものだが、それでもそれを三周もやるべきだとは思えない。一周でも十分ぼんやりできるし、そもそもあのぼんやりとした酩酊状態が健康にいいとも思えない。というわけでサウナ一周論者でありサウナ半懐疑派でもある僕だが、サウナ室から出て水風呂に浸かったときに、徐々に身体の外側に膜が滞留していく感じは好きで、このまま誰も入ってくるな、この膜を壊してくれるな、と祈りながらじっと座っているあの時間、身体の外側だけでなく内側にも水が漲ってきて、体内のすべてが水になって喉までせり上がってきているような、「おれって水なん?」と感じずにはいられないようなあの感覚、あれはたしかにサウナ後の水風呂でしか味わえないものだと思う。「おれって水なん?」と思うために、たまに銭湯に行って、混んでいるサウナにわざわざ入っているようなところもある。

 しかし、そこまでして味わいたいと思っていた「おれって水なん?」を、サウナ→水風呂という方法以外でも味わえることに今日気づいた。というのも、僕はさいきん家でシャワーを浴びるとき、終わり際にシャワーから放たれるお湯を水に切り替えて、身体をいい塩梅に冷ますことでシャワー上がりに気持ちよく過ごせるようにしているのだが、その水シャワーの時間を少し延ばしてみたのと、さらにこれまでびびって首から上には水を当てないようにしていたのを今日は顎あたりまで当ててみたところ、なんとあの「おれって水なん?」が来たのだ。これは思わぬ大発見だった。今後はサウナに行かずとも家のシャワーでセルフ「おれって水なん?」ができます。

 

8/23

 同居人の会社の同僚がついさいきんひとり暮らしを始めたという、その引っ越したばかりの部屋にごきぶり、とひらがなで表記するとなんだかごきげんな雰囲気が出て、実際のごきぶりのおそろしさからは少し遠ざかるような気がするが、とにかくそのごきぶりが出て、同居人の同僚だけでは手も足も出ず、駆除業者を呼ぶことにしたという。しかし駆除現場にひとりで立ち会うのは不安でしょう、わたしも行くよ、とここで手を上げたのが同居人、せっかくなら車で行こうと僕も駆り出され、会社を出たあとレンタカーを借りて同僚の家へと向かった。僕も僕でのりのりで運転した。こういう謎のイベントの際に平気でレンタカーを借りてしまう、そんなところに僕と同居人の貯金できない理由が隠されているような気はしている。(ちなみに、べつに同居人は友だちの家にごきぶりが出たら毎回駆けつけるというわけではなく、今回はいろんな状況を鑑みて駆けつけることにしたのだが、そんな微妙なニュアンスのことは日記には書かない。あと、僕も〝駆り出され〟というよりはむしろ自分から運転を買って出たのだが、それも書かない。そんなことは書かなくても後で読み返せば思い出す。思い出さなかったとしたらどんまいだ。)

 車で同居人の同僚の家の近くまで行ったはいいが、同居人はともかくとして、僕まで立ち会うのは謎なので、僕は近くのロイヤルホストの駐車場に車を停めて待機することにした。せっかくだから店内で何か食べようかと思って財布を見るとなんとお札どころか小銭も一枚も(一枚も!)なくて、仕方なく車内に留まった。しばらくスマホをいじりながら過ごし、時刻はおよそ二十二時半、ロイヤルホストは二十三時で閉まるというし、他に一台も車が停まっていないのでそろそろ駐車場を出たほうがいいかも、と精算しようとしたところで、あらためて小銭が一枚もないことを思い出す。同居人にお金をもらうためにけっきょく同僚の家まで歩いていって、同居人に一度出てきてもらった。

 まだかかりそう?

 まだかかりそう。てか、まだ雑談しかしてないよ。

 そうですかい。

 業者の方はその道三十年のベテランで、同僚のことを安心させようといろいろ体験談や豆知識を語ってくれるそうだが、いかんせん話が長いという。でもいい感じの方だそうで、これなら同僚をひとり置いて帰っても大丈夫そうだと判断し、そのあと少しして僕たちは帰った。今日の豆知識:ごきぶり対策のブラックキャップは放置するとむしろ彼らの巣になってしまうらしい。

 

8/24

 さっきごみを出しに外へ出たとき、やさしくて涼しい風が頬を撫でました。秋のティザー予告が解禁されたっぽいです。

 

8/25

 夜風が涼しくなってきた、とはいえ、ベースとして蒸し暑いというのは変わらない。しばらく外にいると湿気が肌にまとわりつく。でも僕は「夜風が涼しくなってきた」という表層だけを掬って散歩をしてしまう。ほんとはそんな表層すらなくて、たまたまやわらかい風が吹いたのを秋の気配だと勝手にいいように解釈して、散歩をする方向に持っていっているだけなのかもしれない。今日の夜は同居人が友だちと飲むというのにお金がないというので隣駅まで渡しに行って、帰りに歩いた。隣駅から家までの道は何通りかあるが、そのなかでもとりわけきついのは登山かと思うくらい急な坂を登る必要のある道で、きつすぎて正直おもしろい。この道のよくないところとして、まず単純にかなり息が切れる、きついのにべつに近道にもなっていない、そして勾配のきつい坂を登りきったあとに当然期待されるべきよき眺めがまったくない、という三つが挙げられる。それなのに僕の足はその道に向かってしまっていた。これもおそらく「きつすぎておもしろい」という表層だけを掬ってしまっているのであり、ようするに僕の散歩というのは表層だけの薄っぺらな成り行きなのだ。息をはあはあ切らし、汗をだらだらかきながら登りきって、やがて家に着いた。

 

8/26

 仕事の後、友だち数人で集まって、留学へ行く友だちの送別会をした。みんなが近況を話して盛り上がるが、僕は特に話すことがなかった。それはそれでいい。楽しかった。

 

8/27

 昨日の夜寝る直前くらいから喉に違和感があり、朝起きたら痛かった。熱もぐんぐん上がった。その後喉の痛みはほぼなくなったが、代わりに頭がとにかく痛い。寒気がする時間帯とひたすら汗が出る時間帯が交互に訪れる。これはなんらかの進化の予兆か、──それともなんらかのウイルスに感染したのかもしれない。

 

 

8/28

 発熱と頭痛には波があり、波の穏やかなときを縫って昨日はバスケの日本代表戦を見たり、今日はリディア・デイヴィス『話の終わり』を読み進めたりした。バスケはかなりおもしろい試合だった。第四クォーターでの富永と河村のスリーポイントシュートの集中力は特にすさまじくて、発熱しているくせに声を上げて応援してしまった。こうしてバスケをおもしろがれるのも去年『SLAM DUNK』を読んだり観たりしたからだと思うと、スポーツやカルチャーを広めるものとしての漫画や映画の持つ意味みたいなものも強く感じるし、さらに昨日みたいな現実のすごい試合があると、やりたいひとも増えるだろうなあ、と勝手に感慨にふけった。

 リディア・デイヴィス『話の終わり』は、この前まで読んでいた『緑の家』に比べてドライな語り口で、なかなか入っていきにくく一週間ほど放置していたのだが、文体はドライでも内容はなかなか細かいことをうだうだと述べていて実は楽しいのと、記憶について書くことの語り手の持論のようなものまで登場し、そういうことも交えて文章の断片が自然発生的に連なっていく様子が心地よく、徐々にハマってきている。

接写したらNine Inch Nailsの"The Fragile"みたいになった蒟蒻畑

 

8/29

 今日は熱がすごく上がるわけではないが頭が痛くて、寝るか、起きている時間もYouTubeを見て力なくへらへら笑うくらいしかできなかった。カミナリのYouTubeファミコンの『かまいたちの夜』をプレイする企画がアップされており、彼らのこれまでのゲーム実況企画も楽しかったので見てみたら、今回はたくみくんが堺正章を模した〝止章(とめあき)〟というキャラクターに扮してずっとふざけていて、個人的にはかなりウケたが、コメント欄は「いつもみたいに素でやってほしかった」や「さすがにしつこいかも」とまったくの不評で、それもまたウケた。僕はどうもしつこいお笑いが好きなようで、この前観たジャック・ロジエの二本の映画にハマったのも、フィルムに焼き付けられたしつこさが一因かもしれない。『トルテュ島の遭難者たち』における〝なかなか辿り着かない〟というしつこさ、そして『メーヌ・オセアン』における(終盤だけだが)〝なかなか帰れない〟というしつこさ、そして二本ともに貫徹していたとにかくグダグダし続けるというしつこさ。うだつの上がらない思春期的・モラトリアム的なグダグダとは違う、成熟したグダグダとしつこさ。……みたいな話をしようと思ったけど、頭が痛すぎるため中断。

 

8/30

 熱はなくなってきたが相変わらず頭が重い。このぼんやりとした重みがやがてはっきりとした痛みに転じたのが昨日のことで、べつに昨日だっておとなしくしていたのにそんな悲劇が起こったのだから、今日はより繊細に、綱渡り的に過ごそうと思った。というと大げさだが、ようするに基礎に立ち返ろうというわけだ。たとえば額に冷えピタを貼るだけでも頭痛は軽減される。眠くなったときには抗おうとせずに昼寝をする。逆に目が覚めたときには安易に起き上がってはならず、寝返りを打ってみたときに脳みそがついてきているか確かめてからゆっくりと身体を起こす。非常に感覚的な話だが、頭痛のときには身体の動きに脳みそが遅れる感じがある。立つ、座る、歩く、首を振るという生活のなかでの基礎動作だけでなく、たとえば本を読んでいるときにも目の動きに脳みそがついてこない。それは頭痛になりかけの今日みたいな日も同じで、だから今日はリディア・デイヴィスの『話の終わり』を読み進められなかった。

 昨日考えていた『トルテュ島の遭難者たち』と『メーヌ・オセアン』における成熟したグダグダについては、昨日と似てはいるが少し違うことを今日は思った。〝なかなか辿り着かない〟とか〝なかなか帰れない〟というしつこさももちろんグダグダに寄与しているのだが、それよりは地味ながら実はグダグダに輝きを与えているのは、それぞれの映画に挿入されている脱線としかいいようがないシーンたちなのではないか。(ここでその脱線といえるシーンを例示したかったが、そろそろ頭の重みが痛みに転じそうなためやめる。)それらのシーンは本筋とは関係ないようで、登場人物がどういうひとたちなのかを伝えるにはそれ以上ないほどに豊かな映像であり、しかしそれはそれとしてやはり本筋にほとんど関係ないことには変わりがない。それらの脱線がないほうがもしかすると物語としてはスムーズでスマートかもしれない。しかしそれでも、脚本、撮影、編集の各段階でそれらの脱線が削られず(むしろジャック・ロジエのことだから脚本段階ではなかったものが撮影で足された可能性もある)、最終的な完成版としていま僕たちが目にすることができるフィルムに残っているということに、豊かで成熟したグダグダを感じるのだ。映画的スマートさより、人間が描けている豊かさを選んだ結果としてのグダグダ。そしてグダグダさせることを選んでなお、いやむしろ、グダグダしてこそおもしろい、というところにジャック・ロジエのすごさがある。やはり人間を描こうとしている映画はいい。エドワード・ヤンも『クーリンチェ』において、数十人にもなるすべての登場人物のバックグラウンドや生い立ちや行く末をひとつひとつ考えたという。そういう厚みが映画を動かす。今日観させていただいた友だちの短編映画にもそういう厚みが感じられて(それは僕が彼や彼の考えていることをほんの少し知っているからかもしれないけど)、なんだかそれがとてもよかった。

 

8/31

 日付を見て驚くなかれ! かつて小さな僕たちの濡れた羊のように震える心をかき乱し、やがてただの日付に過ぎないと各々が心にいい聞かす時期を迎え、べつにその日を境に季節が変わるというわけでもあるまいしとうそぶいてみせるも、いざその日を迎えるとやはり動揺せざるを得ず、ある種の神話じみた雰囲気さえ纏ったまま、大人になった僕たちをいまでもぞっとさせる、かの有名な八月三十一日ではないか! 十二ヶ月それぞれの月末に順位付けをしたならば、十二月三十一日と三月三十一日に次いで三位に食い込む、いやもしかすると三月三十一日と二位争いを繰り広げているかもしれない、かの屈強な八月三十一日ではないか! なんとなくその日を境に一年が前後半に分かれる気が未だにしてしまう、かの非論理的な八月三十一日ではないか! 先述のとおり季節の変わり目というわけではないにもかかわらず、日が暮れる頃になると、来るべきさびしい季節の予感を含んだ乾いた風が頬をなで、なにかが終わるとき特有の取り返しのつかない感傷へとなし崩し的に持っていかれてしまう、かの強引で懐古的な八月三十一日ではないか! かつての僕たちにとっては長く短い夢のような日々の終わりを象徴する日であったが、一介の会社員になったいまとなってはただ目の前を流れてゆく一日に過ぎず、それなのにこうしてあれこれ口を出したくなるのは、子どもの頃の思い出にすがっているだけなのではないか、あるいはいまを小学生として生きている未来ある子どもたちの無垢な感傷にフリーライドしているだけなのではないか、と稚拙な自省を促されてしまう、かの教訓的な八月三十一日ではないか! 人気者で、強くて、やさしくえ、なんだか懐かしくて、でもどこかさびしい影があって、ふれようとするたびに離れていって、──そんな日をどうして好きにならずにいられようか。

二〇二三年七月の日記

7/1

 散々っぱらいわれているだろうが湿気がやばい。というかそもそも雨が降っているので湿気がやばいのは当たり前ではあるのだが、雨が降っていることによる湿気という以上に空気の一粒一粒が湿り気を帯びていて、雨によって湿気が増しているというよりは、やばすぎる湿気がたまたま雨という形を取っている、そんなふうに思えてくる。連日の頭痛もたぶん、この湿気が鼻や口や耳を通して頭のなかに入り込んできていることに因るものだ。それは鼻をいきおいよくかんだくらいでは追い出せない。

 Joanna Sternbergというひとの新しいアルバム"I've Got Me"がとてもよかった。Neil Youngの"Harvest"やJoni Mitchellの"Blue"を初めて聴いたときのように沁みわたる。単純にめちゃくちゃいいメロディが、けしてうまいわけではない歌声で綴られる、なんとなく外れものの雰囲気を持った作家だ。

 

7/2

 日差しの強さだけ影は濃くなる。今日みたいな日は影にとっては最高の日で、僕が日なたに出たとたん、僕の影は水を得た魚のようにくっきりと現れて跳ね回る。

 一年前にも同等かそれ以上のものを体験したであろうに、生まれて初めて浴びるようにしか思えない残虐な日差しに顔を歪め、身を焼かれながら歩く僕の重い足取りとは裏腹に、足の裏にぴたりとくっついて離れない僕の影はコンクリート固めの地表をすいすいと泳ぐ。段差を見つけるごとに楽しそうにひらひらと踊ったり、戯れにタクシーに轢かれてみたり。身体中のあらゆる穴から汗を垂れ流しながら日陰を求めてさまよう僕には、自らの影をたしなめる余裕はない。

 こんなふうに書くとまるで僕がずっと外を歩いて日差しに焼かれ続けていたかのように響くけど、そんなことはなくて、今日はむしろなるべく日差しに当たらないように上手に過ごせたほうだと思う。ただ、ちょっと外を歩いたときの暑さについて文章にしようとするとどうしても大げさになる。なんというか、ひとを大げさにさせる暑さなのだ。ところで実際の僕がどのように過ごしたかということを日記に書くべきだとすると、それはこんなふうになる──朝早く起きて、五反田のTSUTAYAで借りた『それでも、生きてゆく』の続きを見た。今日は晴れているおかげなのか頭は痛くなかった。一話分を見てから外に出て、同居人の運転の練習をすべくタイムズのカーシェアを借りて、なんとなくで武蔵小杉を目指し、そのあと阿佐ヶ谷を目指し、そのあと帰ってきた。日曜の午前中の都内は比較的空いていて、ペーパードライバーの同居人の練習にはうってつけだった。車内ではいつの間に出ていたネバヤンの新譜などを流した。車を返却してからお昼を定食屋で食べ、僕は家へ戻り、同居人は爪をやりに行き、そのままご両親とインディ・ジョーンズを観に行った。家に戻った僕は部屋を涼しくして乗代雄介の新刊『それは誠』を読んだ。ホールデン・コールフィールドじみた語りのなかに、「僕(たち)にしかわからない僕(たち)のことを、それでも長々と書きつけることで何光年か先にいるかもしれないひとに読まれるかもしれない」とでもいうような乗代雄介らしい信念が貫徹されており、かつ美しさに満ちた小説でとてもよかった。しばらくしてから僕も僕でインディ・ジョーンズを観に行った。映画館への行き帰りではリル・ウージー・ヴァートの新譜を聴いた。僕はリル・ウージー・ヴァートの快楽的でありながら憂いを帯びた楽曲が好きで、そこからメタルにも接近した今回のアルバムはさらなる唯一無二性を獲得していると思った。めちゃくちゃなことをしているとも思った。インディ・ジョーンズは相変わらず史料を破壊しまくっており、話の内容はこれまでにもしかすると過去最大級にトンデモで変な映画だった。インディ・ジョーンズの話の筋なんてトンデモでいいと思うし、実際今回はかなりトンデモだったのだが、ジェームズ・マンゴールドという監督は真面目なひとなのか、トンデモなりにきちんと過程を描こうとするあまり途中でダレる感じがし、眠くもなった。でも老いたインディ・ジョーンズのほぼ裸体が序盤で現れるところや、終盤の死にゆく老人の郷愁のようなものにはマンゴールドらしさが現れているようでもあって、そこはよかった。いい終わり方だと思った。映画館を出てから、夕方以降はなんとなく涼しくなってよかった。同居人は帰ってきてから美容院にも行っていた。

 

7/3

 蒸し暑いねえ、昨日の夜はちょっと涼しいと思ったのに、今日はどうしちまったってんだ、といいながら会社を出た。同居人と集合して、イメージフォーラムで『こわれゆく女』を観た、あらためてすごい映画だ。大学生の頃にパソコンの小さな画面で観たのとはやはり迫力が違って、たゆたうジーナ・ローランズの一挙手一投足、ピーター・フォークの怒声、子供たちのイノセンス、カサヴェテスお得意の顔面どアップ撮影、すべてが目や耳に迫ってき、「とにかく人間の顔や身体をカメラで追い続けりゃ映画になんねん」といわんばかりの生の実感を伴った映像に圧倒された。ジーナ・ローランズ演じるメイベルが精神的な不調をきたしていく様を描いているようで、実はおかしいのは彼女を取り巻く環境すべてで、とりわけピーター・フォーク演じる夫のニックのモラルハラスメントや自分本位の思いやりのなさはひどい。そういう意味では描かれている事象の意味が反転するフェミニズム的な文脈の作品なのかと思いきや、メイベルとニックの間には単なる機能不全の夫婦としては片づけられないほどの親密さがあって、単純な読解を拒否する。イメージフォーラムの地下スクリーンは冷房がやや効きすぎていて、同居人は鼻水を出してしまっていた。

 

7/4

 『それでも、生きてゆく』を見進めた。

 

7/5

 『それでも、生きてゆく』を見進める日々。

 

7/6

 今日見た夢:昼間だった。同居人の運転で車に乗っていて、たぶん僕の実家のほうの沼沿いを走っていた。ふつうに仕事のある平日なのに、僕は会社に「私用で遅れます」とでもいってそんなことをしているようだった。僕は助手席に座っているつもりだったが、いつの間に助手席には空気階段の鈴木もぐらが座っていて、僕は後部座席に移動していた。もぐらが不意に僕のスマホを取り上げていじり始めたので、むきになって取り返そうとしたが、もぐらの力が妙に強くて歯が立たなかった。僕ともぐらがそんなことをしているあいだにも同居人は黙々と運転していた。車は一度も止まることなく走って、日差しが眩しいと思ったところで目が覚めた。

 今日の昼休み:会社のオフィスビルの下には緑と水色と白のコンビニがあって、そのさらに下にはスーパーがある。スーパーとコンビニでは同じ商品でもスーパーのほうが断然安い場合が多く、たとえば五〇〇ミリリットルのペットボトルだとコンビニではもはや一六〇円くらいしてしまう(隔世の感!)のが、スーパーではギリ二桁円に留まっていたりする。その値段の差はコンビニのコンビニエンス性に由来するものなのかもしれないが、僕個人としてはコンビニのコンビニエンス性がペットボトル一本につき六〇円もあるとは思えないため、さいきんはできる限りスーパーで買うようにしている。実家にいた頃の習慣からか、スーパーといえば大仰なカートを引いて家族の生活の買い出しをする場所という印象が強いため、カートを引かないばかりかカゴも持たず、ペットボトル一本のみを握りしめてレジに並ぶのはちょっと大げさな感じがしておもしろい。いまどきのスーパーにはセルフレジもあって、ペイ系をやっていればそちらで支払うこともできるのだが、(思想・信条から来るこだわりではなく単に怠惰なゆえに)僕はペイ系をやっていないので、大げさなレジに並ぶしかない。というわけで今日も大げさなレジに並んでいたのだが、もう次が僕の番だというところで財布を持っていないことに気がついた。ポケットにはSuicaしか入っていなかった(Suicaこそペイ系なんかより先にスマホに入れるべきものなのだが、もちろんこれも怠惰ゆえにやっていない)。スーパーではSuicaでの支払いができない。上のコンビニならできる。オフィスまで財布を取りに帰るのもめんどくさい。というわけで、僕はコンビニで六〇円高いペットボトルをSuicaで買った。コンビニのコンビニエンス性の核は、Suicaでの支払いができることでございます。

 今日の僕:会社からの帰りにひげ剃りのフォームと替え刃を買うことができてよかった。いつも買い忘れていて、もうこのままじいさんになるまでガタガタの刃で肌を傷つけながら剃り続けるか、もしくはそのガタガタの刃で怪我をして死んでしまうかしかないと思っていた。John Carroll Kirbyの新譜を聴きながら帰って、そのままの勢いで家事をやることができた。John Carroll Kirbyはいつも蒸し暑い時期にアルバムを出してくれている印象があり、調べたら当たらずも遠からずという感じで、なんともいえなかった。『それでも、生きてゆく』はいよいよ最終回を残すのみとなり、同居人と一緒に見ようと思っているが、同居人は今日友だちと飲んでくるので帰りが遅い。井戸川射子『この世の喜びよ』を読んだり、日記を書いたりしながら待っている。

 

7/7

 今日の日中はずいぶん暑かったようだし夜もさぞかし暑いんだろうねえ、ああやだやだ、と思いながら退社したら存外過ごしやすくて、というか蒸し暑いには蒸し暑いけど予想していたほどではなくて、昼間の暑さと夜の過ごしやすさってもしかしてそんなに関係ないのでは、と思った。けっきょく風が吹いてるかどうかなんだよ。風が頬を撫でりゃ涼しくなる。それは昼の暑さとは関係ねえ。いい風が吹いてるか。いい風が吹いてんのか。それが大事なんだ。けっきょく風なんだ、大事なのは。

 

7/8

 ところで一昨日の夜はけっきょく同居人が夜帰ってきてから『それでも、生きてゆく』の最終回を見て、共に生きていきたいと互いに思いながらも、生き方の問題で別々の道を行く主人公たちの姿に目頭を熱くした。瑛太のいいよどむ発話と満島ひかりのはにかみはほんとうに素晴らしいと思った。徹底的にわかりあえない他者として描かれ続ける文哉(風間俊介)と、それでもいつか一緒に朝日を見たいと願う洋貴(瑛太)のあり方は坂元裕二の真髄なような気もして、それでいうとたしかに『怪物』はあれでいいのかい、という感じもする。ただ、僕はどちらかというと『怪物』は脚本よりは終盤の子どもたちの素晴らしさを評価しているので、話自体がどうこうということについては深く考えられていない。話が逸れたがとにかく『それでも、生きてゆく』は素晴らしかったということです。でも、僕も同居人も一致して「『最高の離婚』のほうが好きだな」という結論になった。題材が違いすぎるので比べるものでもないのだが、同じ坂元裕二脚本で、同じ瑛太主演となればどうしても念頭に置いて話さざるを得ず、見たのがもうしばらく前になるので細部は覚えていないのだが、『最高の離婚』は会話のぜんぶが〝ほんとうのこと〟に満ちていて凄まじい密度だったというおぼろげな印象だけがある。見ている途中にも、見たあとにも、「こういう話を書きたい」と思ったことを覚えている。べつに書くわけじゃないんだけど。でもこの「こういう話を書きたい」という感覚は自分のなかでひとつの拠り所となっているような気もしており、それはようするに「こういうふうに世界を見たい」ということでもあると思うからだ。さいきんでいうと『こわれゆく女』をあらためて観ても「こういう話を書きたい」と思ったし、大橋裕之『シティライツ』にも思った。去年くらいまで遡れば滝口悠生『長い一日』にも思った。「こういう話を書きたい」≒「こういうふうに世界を見たい」という思いを叶えるには書くしかないので、書いてみるしかない。

 

7/9

 先週借りたDVDを五反田のTSUTAYAに返さなきゃいけないので、午前中は借りたなかでまだ観ていなかった北野武座頭市』を観た。同居人の調べによればたけしはこの映画きっかけで金髪になったそうで、似合ってよかったね、と思った。やってみたら似合ったから今日まで続けているのだろうし。DVDを五反田まで返しに行って、帰ってきてから午後はABCお笑いグランプリを見た。令和ロマンはやっぱりすごい。ネットのノリっぽい感じをうまく消化して身体化し、きちんと自分たちのものにしていて、その具合があれくらいの世代(というか僕と同世代なのだけど)の芸人のなかではたぶん頭ひとつ抜けているのだと思った。同じくネットのノリっぽいのといえば真空ジェシカだが、彼らはシンプルに大喜利力が強い。ネットのノリや偏見やあるあるをネタに持ち込むときには、うまく消化したうえでその奥に行けているか、あるいはシンプルに視点やフレーズが強いかじゃないとおもしろくなくて、浅い表層だけを掬っているだけだと個人的には冷めてしまう。今回のABCお笑いグランプリの話に戻れば、ストレッチーズもおもしろかった。屁理屈具合と身体の動かし具合のバランスがとてもいい。

 夜はWBC侍ジャパンのドキュメンタリーも見た。この前映画館で上映されて大ヒットを飛ばしていて、さほど野球に興味のない僕と同居人からすれば信じられず、どんなもんなんだい、と思って見た。興味ないとはいえWBCはちょこちょこと見ていたのでなんとなく知っているひとたちが出てきて見やすかった。野球とはストーリーのスポーツであって、栗山監督は「魂」や「日本人」や「全力で」という言葉を何度も繰り返す。それがいい悪いではなく、これまで形成されてきた文化の集積だと思うし、今回のWBCのストーリーはあまりにもそれらの言葉にマッチしていて、これが上映されていてヒットした理由もそこにあるのかもしれない。いっぽう当の選手たちの言葉は「すげー」とか「やべー」とかが多くて、なんとなくよかった。グラウンドの外であれこれ語っても、けっきょくプレーしている最中にはすげーとかやべーとかにしかならない。

 

7/10

 昼間は会社にいるのでマジの暑さは味わわないで済むのだが、怖いもの見たさというか、天気の話したさで、昼休みに少しだけ外を歩いてみてしまう。暑い! 僕は天気の話をするのが好きなので、昼休みのわずかな時間に得た暑さを持ち帰って、

「今日ほんとに暑いですね」

「今日ほんとに暑いよ」

「今日ほんとに暑かったね」

 と時間帯や相手によって語尾を変えながらいろんなひとに天気の話を振る、といっても今日みたいな平日には会社のひとか同居人くらいしか振る相手はおらず、夜くたくたになって帰ってきた同居人に「今日ほんとに暑かったね」とあいさつのようにいうが、同居人は暑さでへとへとになっていて、暑さについて話すのもいやだという。それならそれでべつに話さなくてもいい。

 『かが屋鶴の間』で、賀屋さんが子どもの頃犬と話せるという設定で暮らしていた、という話になったときに、「出た、海外の緊急来日するひと」「動物と話せる女性ハイジ」という会話になって、聞いている僕もにっこりした。僕も「緊急来日するひとじゃん」と思いながら聞いていたので、かが屋のふたりがバッチリ同じことを思って口に出してくれたのがうれしかった。欲しいフレーズや音がバチッと来てくれたときの気持ちよさというのはお笑いにも音楽にもあって、さいきん聴いているなかだとMetro Boominはそのツボを押さえるのがうまい気がする。ときに、ANOHNIの新しいアルバム"My Back Was a Bridge For You To Cross"(タイトルからして素晴らしい!)がかなり素晴らしくて今日三回聴いた。

 

7/11

 さいきんはもうだいたい頭がうっすら痛い。頭が痛いときには、VegynがプロデュースしてVegynのレーベルPLZ Make It Ruinsから出ているHeadacheというアーティストの"The Head Hurts but the Heart Knows the Truth"というアルバムを聴いている。アーティスト名にもアルバム名にも頭痛を冠していて、どういう意図かはわからないがたしかにこの淡々としたビートとシンセとポエトリーリーディングは頭痛にいい気がする。べつに頭痛を和らげてくれるわけではないがすんなり聴ける。でもこのHeadacheがどういうアーティストなのかはさっぱりわからず、音の感じも匿名的ながらいかにもVegynっぽいあたたかさがあるようで、ほんとはHeadacheなんてアーティストはおらずVegyn本人なのではないかという気もしてくる。この謎をはっきりさせるべくアルバム名でググってみると、一番上にはBandcampのページが出てきて、あの、グーグルの検索結果画面にディスクリプションっていうんですかね、リンクの下にそのページの説明のような文言が出てくるじゃないですか、あそこに"About this album. Produced & mixed by Vegyn, all lyrics written by Francis Hornsby Clark, voice by AI."と書いてある。"voice by AI"なの?と思ってBandcampのページに入ると、そんなことはどこにも書いていない。はて、と検索結果画面に戻ると、"voice by AI"の文字列はなくなっている。僕の勘違いだったのでしょうか、それともグーグルとAIが手を組んで僕を貶めようとしているのでしょうか……。なにを信じればいいかわからない世界で、僕たちはどう生きるか。

 

7/12

 たとえば千葉生まれの僕が関西弁をしゃべるとそれはもうエセにしかならず、それはしゃべるのではなく書くとしても同じだ。僕が関西弁で書いたとして、たぶん本場のひとが見ればエセやってすぐばれんねん。僕がどうしてもエセやない関西弁を書きたいんやったら、関西生まれの友だちを連れてきて監修やなんやしてもらわなあかん。それはべつに関西弁に限った話やない。僕が学校の先生のつもりでなにかを書くんやったら、やっぱり本物の学校の先生に見てもらうなり、取材するなりせんと成り立たん。もしくは現実にはない特殊な学校の先生ってことにすればええのんかもしれんけど、そうやなくて小学校の先生ってもんを書くんやったらやっぱり小学校の先生に聞かなあかん。文章って自由なもんやねんけど、いざ書こうとするとそういう困難さがあるんやろうなと思う。だから身の回りのことから書いていくのかなと思う。

 

7/13

 雨がぱらついたおかげかここ数日では最も過ごしやすい日だった。ほんとは少しも過ごしやすくなんてないのに連日の非常識な暑さのせいでこの程度でも過ごしやすいと錯覚させられてしまっていることが悔しいっすよね、と息もつかずにいうことが、このかりそめの過ごしやすさにたいするせめてもの抵抗である。

 帰ってきたら「ことばの学校」から募集要綱が送られてきていて、たしかに六月のいつかにガイダンスを受けっぱなしで応募もなにもせずに放置してしまっていたので、こういうリマインドはありがたかった。せっかくだから受講しなよ、と同居人にもいわれ、とりあえず聴講生として受講することにしてスマホで応募フォームを順繰りに埋めていったが、意外に項目が多くて挫けそうになりつつ、ことばを扱う講義なのだからそりゃ項目は多いよねと腑に落ちつつ、なんとか埋めきって応募完了した。「言語表現に興味を持ったきっかけはなんですか」みたいな質問があって、えーいつだろう、記憶を遡ってもきっかけっぽいものは見つからない。だいたい僕は昔のことをきちんと覚えていなくて、極端な話、僕にとって昔の記憶というものは「こういうことがあったっぽいです」というような伝聞に近い形になってぼけていっている気がする。三人称視点とまではいかないが少なくともはっきりとした一人称では語られない。『ヤンヤン 夏の想い出』の、映画のスクリーンを背景に、主人公ヤンヤンに稲妻のように初恋が訪れるシーン、ああいうはっきりと映画的なシーンというのは、僕の記憶のなかにはなかなかないかもしれない。むしろ、西向きの窓から差し込んだ夕日が壁に当たって異様に輝いている瞬間とか、日が高くなっても寝ている同居人を謎の角度から見ている瞬間とか、そういうなににも結びつかず脈絡のないシーンばかりが浮かんでくる。そういう瞬間ばかりを描いていたという点でも『aftersun/アフターサン』は好きだった。……「言語表現に興味を持ったきっかけ」はけっきょく思い出せず、とりあえず、藤本和子訳のブローティガンアメリカの鱒釣り』を読んだときです、と回答した。そう回答すればなんとなくそんな気がしてくるので我ながらちょろい。

 

7/14

 流行りものがいいものだとは限らないが、少なくともちいかわはいいものだということが、ここ数日アニメを見進めてわかった。同居人とふたりで「よかったねえ」「こわかったねえ」「あらら、泣いちゃったねえ」などといいながらちいかわたちの生活を見守っている。今日なんて同居人はちいかわとハチワレのかけがえのない友情を見ながら涙ぐんでいた。

 ある日、ちいかわの友だちハチワレが大きな穴に落ちてしまう。底からは空が丸く切り取られて見えるほどに穴は深くて、怖いのを我慢してよじ登ろうとするハチワレだったが、雨が降り始めると滑って登れなくなってしまう(ここで僕は「雨だと登れないのはゼルダと同じだねえ」と本筋からずれたことをいい、同居人は「怖いねえ」とハチワレを思いやっていた)。もう出られないかもしれないと思って泣き出してしまうハチワレ。そのとき、穴の上からちいかわが顔を覗かせる。

 ちいかわは穴の底で泣いているハチワレを見てすぐに降りてこようとするが、ハチワレに「それだとふたりとも出られなくなっちゃうよ」といわれて思いとどまる。なにを考えたかちいかわはどこかに行ってしまい、ハチワレは一瞬不安になるが、戻ってきたちいかわを見て安堵の声をあげる。ちいかわはどこからか集めてきたツタを繋ぎ合わせて、片方の端を木の太い幹に結び、もう片方の端を穴のなかに投げ入れてハチワレが登ってこられるように準備していたのだ(ここで僕も同居人もちいかわの意外な賢さに驚いた)。ちいかわが用意したツタを登るハチワレの背後、穴の底になにかが落ちている。それはハチワレがいつかたくさん働いて貯めたお金で買ったさすまた的な棒で、ハチワレにとって大切なものだったが、それを持ったまま穴を登ることはできないために諦めて置きっぱなしにしていたのだった。

 ちいかわは棒を見つけるとすぐさま穴を駆け降りる。

 ハチワレは驚いて、ちいかわがハチワレの棒のために降りてきてくれたことはうれしく思うが、「それを持ったままだと登れないよ」という。ちいかわは棒を口に咥えて一生懸命登ろうとする。その姿のおもしろさと、自分のためにそこまでやってくれることへのうれしさとで、ハチワレは手に力が入らなくなってなかなか登れない。それでもようやく上まで登ったハチワレが、今度は登ってくるちいかわの手をがっしり掴む、そこで僕が「よかったねえ」と同居人のほうを見るとさめざめと泣いていた。ちいかわは言葉を持たない代わりによく泣く。同居人は言葉を持っているうえによく泣く。多くを語らない作劇とシンプルな線で構成されたちいかわには余白が多くあって、アニメでは語られていない彼らの生活に想いを馳せつつ、それを見ている僕たちの生活や世界の出来事がなんとなく重なりつつ、泣いてしまうのだと思う。

 

7/15

 出かける前に見たちいかわのアニメがまた素晴らしい回で、同居人は朝から涙していた。

 草むしり検定を受けようとしているちいかわを見て、内緒で勉強して一緒に受かって喜ぼうと計画するハチワレ。しかしなんとハチワレだけ受かってしまい、ちいかわは俯いてしまう。ハチワレは自分だけ受かってしまったこともあってなんとなく励ましの声をかけられず、家に帰っても気分が乗らなくて夕飯が喉を通らない。

「同じ気持ちじゃないときって、どうしたらいいんだろ……」

 次の日目を覚ますと、洞窟(ハチワレは洞窟みたいなところに住んでいる)の外からちいかわが覗いている。照れくさそうに渡してくれたのは、ハチワレの形をしたクッキー。草むしり検定の合格祝いで買ってきてくれたのだという。ちいかわは付箋をたくさん貼った草むしり検定の参考書をハチワレに渡してきて、そこから問題を出してくれるように頼む。ハチワレは喜んで引き受けて、ちいかわに向かって問題を読み上げる、その目には涙が浮かんでいる──。というところで「よかったねえ」と同居人のほうを向くと泣いていた。

 三連休初日の朝から泣いていてもしょうがない。同居人が実家のほうで家族と食事するというので、レンタカーを借りて送ることにした。しかし僕たちの頭からは〝三連休初日〟ということが抜けてしまっていて、長く曲がりくねった渋滞にはまり、同居人は家族との食事に遅れてしまった。結果的には遅刻してちょうどいい感じだったらしいのでよしとする。食事のあとは高校のソフトボール部の面々で集まって、そのうちのひとりは中学校の先生でソフトボール部の顧問をしており、ちょうど母校との合同練習があるので、みんなでOGとして参加しようではないかという段取りだったそうで、いまの同居人はふだんまったく運動をしていないのでぶっ倒れないか僕としては心配だったが、今日は曇りだったのでいい感じに楽しめたらしい。

 僕はというと、同居人を送り届けたあと、帰り道では綱島というところの大きなブックオフにも寄れてよかった。レンタカーを返却して一度帰宅してから、五反田のTSUTAYAに行き、おにやんまでうどんをつるっと食べ、渋谷に向かった。イメージフォーラムで『オープニング・ナイト』を観た。今回のカサヴェテス特集では、これで『こわれゆく女』と合わせて二本観たことになるが、大学生のときにパソコンので観たときと同じ、いやむしろスクリーンで観たことで初めて観たとき以上の鮮やかさを持って迫ってきた。大学生のときからいくぶんかいろんな映画を観て、経験値のようなものは少し貯まってきているであろうに、カサヴェテスの映画を観ると新鮮な衝撃を受けてしまうのは、彼の映画が映像的な新しさを追求するより、俳優たちの顔や身体を克明に映し続けることにフォーカスしているからであろう(そしてその結果、あくまで副次的に唯一無二の映像になっているのがすごい)。今日『オープニング・ナイト』を観て、カサヴェテスの映画を観に行くというのは、ジーナ・ローランズを観に行くこととほぼイコールであるとまた実感した。それほどまでにジーナ・ローランズというひとはすごい。『こわれゆく女』と同様に精神のバランスを崩してゆく様ももちろんだが、映画終盤のカサヴェテスとの長いやり取りに果てしなくわくわくさせられた。

 ジーナ・ローランズ演じる舞台女優マートルと、カサヴェテス演じる同じく舞台俳優であるモリス、実生活で夫婦であったふたりが、映画中の演劇でも夫婦役を演じるという二重構造のなかで、自らの、そして相手の老いを認め、即興的に笑いへと昇華して、満員の客席から万雷の拍手を受ける。それをスクリーンの前で観ている僕たちは映画の観客であり同時に演劇の観客でもあって、思わず立ち上がって拍手してしまいそうになるのだ。『こわれゆく女』と似て、一筋縄ではいかない実存の危機を描きながら、最後には喜びの光が射してくるような映画だった。映画までの待ち時間で読んだ井戸川射子『この世の喜びよ』も一筋縄ではいかない愛についての話であると個人的には思えてよかった。併録の「キャンプ」という短編は少年視点の話で、『ここはとても速い川』といい、井戸川さんは少年の話を書くとやはりかなりいいと思った。

 

7/16

 ちっとも笑いごとではない暑さ。

 朝から新宿のTOHOシネマズで『君たちはどう生きるか』を観た。事前情報をほぼ入れず、ジブリ宮崎駿)というブランドとあのポスターだけで二日前からチケットを予約するという稀有な体験と、初っぱなから宮崎駿が監督したジブリの絵が動いているという感激だけで反射的に高評価してしまいそうになり、実際そういった熱に浮かされているという面も多分にあるのだろうが、それを差し引いたとしてもとてもいいと思った。観ているこちらの予想を超えながらとにかく絵の力で推進していく物語、その結果わからない部分も出てくるが、わからないことはわからないままにして説明せず(世界とはようするにそういうものなのだ)、語れることだけを語り、語りたいことだけを語り、最後には「いい友だちを作れ」という単純明快なメッセージだけが手元に残っているという美しさ。あのキャラクターは誰々をモデルにしてるだとか、この描写にはこういう意味があるだとか、そういうことを考えるのももちろんいいが、わざわざそんなことせずにただ二回目を観に行くのもよさそうだと思えた。

 一緒に観た同居人と友だちと焼き肉を食べて、どう生きるかの話もちょっとし、そのあと同居人はまた別の友だちたちとバッティングセンターに行ってから飲むというので別れ、僕と友だちは僕の家に行った。同居人は昨日も今日もかつてないくらいアクティブで、ぶっ倒れるんじゃないかと今日も心配だったが意外に平気そうだった。家に着いたら友だちにちいかわのアニメを見せたり、ニンテンドー64のマリオテニスでもやったりしようかと考えていたが、涼しくした部屋でいったんだらだら過ごしているうちに眠くなって、ふたりともソファに座りながら寝てしまった。起きたらもう日はすっかり暮れていて、ぼんやりしながら解散した。その後もぼんやりしているうちに同居人が帰ってきた。

 

7/17

 池袋で『CLOSE/クロース』を観てから、サンシャインシティ地下のトプカという店でカレーを食べ、そのあと僕はとにかく髪を切りたかったので、同居人がカフェで本を読んでいる間に床屋を探して行った。入った床屋はまだ平成が続いているような雰囲気のところで──単なる印象だけの話だが、池袋にはそういうところがたくさんある──、僕の担当にはおじいさんがついた。おじいさんはヘアブラシを探すのに苦労する様子を見せたり、ハサミをふと見つめて「これでいいんだっけ?」というような顔をしてみせたりと、切られる僕としてはやや不安な幕開けだったが、頭の下から上へとハサミを入れていく手つきはゆっくりとやさしく、かと思えばすきバサミを扱う手さばきは俊敏で、いい緩急のある散髪だった。仕上がりもおおむねよくて、少し前髪が揃いすぎているきらいもあったが、それはそれで味だと思えた。帰ってきてからは先にシャワーを浴び、『ニューヨークで考え中』の最新巻を読み、早めに夕飯を食べて、もう眠い。バルガス=リョサ『緑の家』を少しだけ読み進めてから寝ようと思う。

 

7/18

 週末あんなに暑かったのに、会社で仕事をしている間は誰もその話をしない。帰り際に後輩と一緒になって、

「週末暑かったね」

「まじで暑かったですね」

「日中暑いのはもういいよ。

 でも夕方になってさ、だんだん涼しくなるべきじゃん、なのにぜんぜん暑いのね、西日まで暑いっていうのはおかしいよね。

 西日っていうのは暑くないべきじゃんね」

「そうっすね」

 という話ができてよかった。西日のくだりはうまく伝えられず、西日への思いが強い謎のひとみたいになってしまったかもしれない。

 日曜日に『君たちはどう生きるか』を観て、僕はよくわからないけどとてもよかったと思った。「よくわからないけどとてもよかった」という感覚を僕自身は愛しているけど、よくわからないものをわかりたいという欲望もあり、そして「よくわからないけどとてもよかった」という感想だけをいつまでも持ち続けることは作品にたいして不誠実なような気もして、自分でもちょっと考えてみたり、いろんなひとの感想や考察を見てみたりしている。

 特に映画に関して顕著な現象だと思うけど、新しい作品が公開されるとYouTubeTwitter上にはわらわらと「最速レビュー」や「徹底解説」が出現する。映画は動画、静止画、演技、台詞、劇中の音、劇伴の総合的な芸術であるうえに、そこに誰が出演しているかということや、誰がどういう経緯で作ってきたかという外的な情報も加わり、思考を巡らすときの拠り所となるテクストが豊富で語り代が多いために、多くのひとの考察を喚起するのだろう。

 考察のなかには非常に説得力があって作品理解を助けてくれるものや、作品を補強して僕たちを勇気づけてくれるものもあれば、トンデモなもの、陰謀論にしか思えないものもある。個人的には考察の内容そのものにはそこまで興味を持てなくて、それはまず僕自身がなにかを考えることが苦手だからというのがある。僕が映画を観た直後の感想なんて、たいてい「よかったな」か「(予想を)超えてこなかったな」くらいなもので、そんなぼんやりした状態のところに「あのシーンの謎を全部解説します」と意気込まれても気持ちは追いつけない。(それに、全部わかってしまう映画は、それはそれでつまらないと思う。むしろわからなさが残る映画にこそ惹かれてしまう。)

 そしてそういう僕自身の愚かさとは別に、〝徹底解説〟的なものにたいする反感のようなものもある。それらが僕たちの「よくわからないものをわかりたい」という欲望にうまくハマってしまうからこそ、余計に反感は大きい。〝徹底解説〟と銘打っているひとはなぜすべてを断定的に語れるのか、なぜすべてを意のままに解釈できるのか、という違和感、端的にいえば「お前は誰なんだ!」ということだ。そしてそれは「お前自身がどう思ったのかを聞かせてくれよ」ということでもある。すべての考察や解釈は(そして作品の読解を豊かなものにしてくれる優れた批評でさえも)それを書くひと自身の主観からは逃れられない。考察するひとと考察される作品を作ったひとが別個の人間である以上は、考察というものは断定されえない。断定されえないのなら断定するべきではないし、「私はこう思います」というところから語り始めるべきだと思うのだ。そして僕はそういう文章のほうが読みたい。自分が書くとしてもそういう文章を書きたい。

 というわけで僕はとてもいいと思った『君たちはどう生きるか』に関して書きたいけど、正直もう一度観ないとよくわからない。作品自体のなかにわからなさや筋の通らなさが(意図してか意図せずか)放置されている。アオサギという信用のおけない〝友だち〟の言動によって混乱させられるし、物語の本筋が徐々にずれていくような作劇がされている。「死んだはずのお母さんを見つけに来なさい」というアオサギの当初の誘い文句は眞人くんがなかなか異界に行こうとしないことで躱され、その後夏子さんを助けるためにけっきょく来た異界で、眞人くんが最初に訪れた墓場からはなにも現れない。夏子さんを助けるという目的も、やがて(お母さんの若き日の姿である)ヒミという少女を助けるための冒険へとスライドし、それも気がつけば大叔父さんとの対話に変わり、そうやってずれてずれてずれた先で「いい友だちを持て」というメッセージが手渡される(こんな感じの話じゃなかったでしたっけ)。二時間の映画の脚本としての強度は低いかもしれないし、アニメーションの躍動感も映画が進むなかで徐々に失われていっていたように思う。でもこのずれていく物語が個人的には心地よかった。その心地よさになんらかの理由があるのか、それとも単にずれること自体が楽しいというようなジェットコースター的快楽に過ぎないのかを僕は考えたほうがいいのだけど、今日はやめる。それより今日は友だちの結婚式のスピーチを考える。変なところでやめられるのも日記のよさだ。

 

7/19

 昨日の夜にスピーチや日記を書くために夜更かししたせいで眠い。頭も痛い。スピーチはともかく、日記を書くために夜更かしして、次の日頭を痛くするなんて本末転倒だ。よかったものだけ書いて寝よう。細野晴臣が「幸宏」と「坂本くん」について語った文章がよかった。乗代雄介のブログにアップされた、『それは誠』とサリンジャーにまつわる文章がとてもよかった。僕が『それは誠』についてホールデン的だと感じたのはある面においては正しくもあるが、それだけでは読みが浅すぎるということを思い知らされもした。『水曜日のダウンタウン』でザ・マミィ酒井が語った、妻になったひととのエピソードがよかった。名前が「たかし」だけどこれまで呼ばれたことのない呼ばれ方がいいといったら、妻さんは「たかやなぎ」と呼んでくれている、という話など。チャンス大城の口笛教室の話もよかった。美しさは世界に遍在する。先に寝た同居人の様子を見たら、ついさっき眠りについたばかりであろうに小さめの大の字になっていてよかった。

 

7/20

 夏と冬のどっちがいい?みたいな議論については答えがおおよそ固まっていて、はっきり冬である。夏は暑すぎる。夏の暑さはどうしようもないけど、冬の寒さはとりあえずたくさん着込むことである程度解消される。しかしこういう呑気な答えを出せるのは、僕が関東在住の二十代の比較的健康な男性だからであって、条件の組み合わせ次第では答えが変わるだろうということもわかっている。あくまでいまの僕にとっては、という留保付きで、とりあえずの答えを出す。そういう年齢──大げさにいうとこの世界にたいする態度を決めるべき年齢──になってきた。うどんかそばかラーメンのうち死ぬまで一種類しか食べられないとしたら。たぶんうどん。猫か犬、もしどちらかと暮らすとしたら。うーん、犬。いや、猫かも。わからないです。あとすみません、さっきのうどんかそばかラーメンのやつももう一回考え直していいですか。あと、住むなら海と山どっちの近くがいいかってやつも、ぜんぜん決められてないです。すみません、ほぼなにも決まってないです。でも、夏と冬どちらがいいかと聞かれたら、間違いなく冬。

 でも今日の夜、頬をなでる風が心地よかった。こういう日があるから夏をやめられねえんだよなあ。

 僕のなかでは『君たちはどう生きるか』は傑作だったという印象を日を追うごとに増していて、しかしその根拠は揺れている、というか根拠なんてないに等しい。ただ美化しているだけなのかもしれない。場当たり的に展開していった物語は、宮崎駿自身も制御しきれていないアニメーション制作の結果のようにもやはり見えるし、逆に、すべてが意図通りに進む箱庭的な世界だったようにも思える。「空から降ってきた塔とはなんなのか」とか「どうしてアオサギなのか」ということについては考えたくなる一方で、「大叔父のモデルが誰なのか」とか「どうしてペリカンやインコなのか」みたいな話には不思議とさほどの興味が持てない。同じく鳥であるアオサギペリカンの何が違うかといえば、アオサギが塔に入る前からいたのに対し、ペリカンは塔のなかの世界にいた鳥であるということで、その差異が僕にとってのキーのような気がする。塔のなかで起こったことに興味がないわけではないが、どうでもいいというか、どうでもいいなんていったら語弊があるけど、べつに投げやりなわけではなくいい意味で「好きにしてください」という感じなのだ。

 

7/21

 映画のなかで登場人物や作者の内的世界(あるいはそのバリエーションとしての並行世界や電脳世界)が描かれるとき、そこに登場するモチーフが何を示しているかということを解き明かしていく営みは大切だと思う。優れた批評は作品理解を豊かにする。でも個人的には、作中の内的世界を能動的に読み解いていくことにそんなに興味を持てない。その映画の作り手が信頼できるひとたちであればあるほど、描かれているままを受け取ってしまえばそれでいい、意味なんてわからなくてもいいという気持ちになる。

 宮崎駿は信頼できる。運動としてのアニメーションを異様なまでに突き詰めてきたひとだ。彼の監督作においてはなによりもアニメーションの躍動感が追求され、そのアニメーションを動かすための場として物語が展開する。動きがあってこそ物語がある、という態度は、しかし世界の真理のようにも思える。だからこそ宮崎駿が生み出してきた物語に僕たちは惹かれるのだろう。そんなことを、金曜ロードショーで『もののけ姫』を観てあらためて実感した。

 今日『もののけ姫』を観てもうひとつ思い当たってしまうことがあって、それはやはり『君たちはどう生きるか』のアニメーションの躍動感は過去作に比べて弱まってしまっていたのではないかということだ。冒頭の火事の描写や、アオサギが最初に現れるときの美しい緊張、そしてアオサギが湖の上で眞人くんを異界へと誘い、魚や蛙が合唱するシーンなどには宮崎作品を観る喜びがつまっていた。問題は塔のなかの世界に行ってからのパートで、基本的に楽しんで観ることはできたものの、『もののけ姫』と比較するとアニメーションの凄みのようなものはたしかに弱まってしまっていたように思い出される。そして悲しいことに、アニメーションの力が弱まってしまった部分というのは、ちょうどこれまで僕が宮崎駿に全権委任してきた内的世界のパートなのだ。アニメーションの躍動感への信頼があったから、僕は宮崎駿の描く内的世界や並行世界をあるがままに受け取れてきた。では、その躍動感が失われてしまったとしたら、僕は宮崎駿の内的世界をどのように受け止めればいいのか。……大げさに書いてしまったけど、僕としての答えはそんなに難しくなく、そんなに暗くないような気がする。今日は寝る。

 

7/22

 友だちの結婚式があって軽井沢まで来ている。ひとがひとを思いやる言葉が交わされるとてもいい式だった。寝る。

 

7/23

 初めて来た土地のローカル線のボックス席、それも窓側なんかに座ると、窓の外の景色に気を取られざるを得ない。広大な山並みの靄がかった線が遠くに横たわり、その上には何度見ても「ノスタルジック」という単語と安易に結びつけたくなる夏の雲が浮かんでいる。もっと線路の近くに目を向ければ青々と茂る森があり、一軒家がいくつかまとまって建っており、実りの秋を待ちきれない豊かな田んぼが並んでいる。

 田んぼと田んぼを縫うように、舗装された畦道が走っていて、山や雲よりもその道の行く末を確かめたくなって目で追う。もともと田んぼがあったところに後から通した道なのだろう、畦道はくねくねと曲がりくねっていて、線路に近づいたり離れたり、二股に分かれたり、また合流したり、そこを自転車で走ることを想像させたり、その自転車に乗っている少年としてその地域で生まれ育つことについて考えさせたりする。

 小学五年生の頃に作った秘密基地がいまどうなっているか、酒屋の裏の林を見に行ったが、ビニールを巻いた段ボールがわずかに転がっているくらいで、置きっぱなしにしていたはずの黒ひげ危機一髪はなくなっていた。そんな日の帰り、畦道を自転車で走る中学三年生の少年。

 ──たとえばそんな少年がいるかもしれない。

 なぜこんな話を書いているかというと今日まさにしなの鉄道というのに乗って中軽井沢駅から小諸駅まで向かったときに線路際の畦道に意識を取られたからで、なぜ軽井沢にいたかというと昨日友だちの結婚式があったからだ。新郎新婦ともによき友だちだが、新郎のよき友だちとしての歴のほうが長いために、新郎の友人として僕ともうひとりの友だちは参列した。新婦の幼なじみのひとたちとも仲よくなれてよかった。参列者のほとんどは新郎新婦のご親族で、友人代表スピーチを仰せつかった僕には緊張があったが、やってみればアットホームな雰囲気のなかで笑いも取れてよかった。場合によっては笑いどころになるかもしれないと意識はしつつも基本的に新郎新婦のことを生真面目に考えながら書いた文章を読み上げて、皆さんが笑ってくれつつ頷いてくれつつ耳を傾けていただけたというのはとてもありがたいことだった。誰かが誰かのことを生真面目に思いやった言葉ばかりが交わされる式だった。新郎のいっていた「特別な仲間として支え合って生きていくことにした」という言葉は、結婚することの意味としてひとつの素晴らしい回答のように思えた。

 式のあとには僕ともうひとりの友だちとで温泉に入り、その際せっかくなのでサウナにも入ったのだが、友だちが「このまま夏が暑くなっていって、十年後とかにはふつうにサウナぐらいの暑さになるんじゃないかって思うんだよね」といっていて、たしかにさいきんの暑さを思うとそれもあり得ない話ではなく、かなり怖くなってしまってすぐに外に出た。そうなったとき、僕たちはどう生きるか。ホテルに戻ると新郎新婦がもうふだんの姿に戻っていて、新婦の幼なじみたちとも合流してみんなでしゃべった。幼なじみ同士が共有している記憶の数々は鮮度と解像度が抜群で、一方の僕たち新郎含め三人はいくら考えてもエピソードらしいエピソードは浮かんでこず、ほんとうにだらだらと時間を過ごしてきたのだと実感し、しかし多感な時期にそういう無意義な時間を過ごせてきたことというのも真にありがたいことなのではないかと僕は思うので、それはそれでありだと思ったのだった。……ということがあっての今日、せっかくだから東京に帰る前に小諸まで蕎麦を食べに行った、その電車のなかから見えた畦道に、そこに生きる少年の姿を幻視したのだ。

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7/24

 昨日は夕方頃に東京に戻ってきてから同居人とその友だちと飲み、そのあと『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』を観に行ってかなり楽しかったが、おかげで今朝は眠かった。『ミッション:インポッシブル』はほぼすべてのアクションがスリルに満ちていて、追う/追われるの関係が鮮やかに反転し続けながら最後まで突っ走るすごみがあった。CGもスタントも使わず自らやるというトム・クルーズ自身と、映画内で東奔西走するイーサン・ハントの〝インポッシブル性〟がリンクしているのもずるい。「これ、本人がまじでやってるんだよね」みたいなのがスリルに繋がる俳優なんてたぶんトム・クルーズが最後だし、今回の映画の内容も人智を超えたAIの暴走を食い止めろ!という感じで、ざっくりいうとイーサン・ハント対テクノロジーみたいな構造なので、トム・クルーズ自身もかなり意識的にやっているのだと思う。そういう無邪気な話を大真面目に展開させているので全力で楽しめる。なにごとも本気というのは大切だ。やっぱりイーサン・ハントとアシタカはすごい。イーサン・ハントとアシタカが組めば、インポッシブルなミッションなんてない。

 

7/25

 会社を出てから、延滞してしまっていたDVDを五反田のTSUTAYAに返しに行った。各種配信サービスにない映画やドラマのDVDをTSUTAYAで借りるのはとてもいいアイデアだと思っていたが、僕と同居人のようなひとにはそもそもきちんと期限内に返すということが向いていないのだった。それは盲点だった。しかも、借りたDVDを見るためにやむなく延滞したというのならまだいいものの、けっきょく今回借りた三枚とも見られていないまま漫然と時が経ち、でも見るかもしれないしなあ、と家に置きっぱなしにしていたところを、同居人が今日思い立って返しに行きましょうということになったのだ。延滞料金はレンタル料金を遥かに上回る金額でおったまげた。同居人が今日一念発起してくれたからまだおったまげるくらいで済んだが、まあ今週末とか来週末とかでいいか、と呑気に過ごし続けていたら激やばだった。今日もなにか借りて帰るか迷ったが、謹慎期間としてしばらくは借りないことにした。

 しかし、延滞料金がおったまげるくらい高かったことによる思わぬ収穫は、本屋に行っても「延滞料金より安いな」と思えて積極的に買えることで、今日は『推し、燃ゆ』の文庫版が出ていたので買った。文庫なんて延滞料金に比べれば激安だ。しかも返却しなくていい。本屋に行ったあと、せっかく五反田なのでスシローで食べて帰った。スシローの三皿なんてそれこそTSUTAYAのDVD三枚の延滞料金に比べれば激安だ。しかも返却しなくていい。

 今日は延滞料金におったまげて思わず本を買って帰ってきてしまったが、本来は「家にある積ん読本を一冊読むごとにしか新しい本は買ってはいけない」というルールをいつか設けたはずなので、これはルール違反だった。しかしそんなルール、僕も同居人も忘れているので仕方がない。ちなみにここ一週間くらいほとんど本を読めておらず、バルガス=リョサの『緑の家』はプロローグっぽいところだけ読んでから先に進めずにいる。長編小説と会社員生活は相性が悪い。とりわけラテンアメリカの小説はそうだ。

 

7/26

 いつの間に出ていたゆるふわギャングの新しいアルバムを聴いて、いい気分になった。"Journey"というアルバム名のとおりどこかに行きたくなる音楽という感じがしたし、それはべつに大げさな旅という感じではなく、単にドライブとかでもよさそうだと思った。

 

7/27

 誰のためにもなっていない暑さ!

 

7/28

 会社を出てから盆踊りを見に行き、そのあと友だちたちと居酒屋に行った。いろんな話をするなかで最終的には僕と同居人の間の真面目な話になった。僕はほんとうにこれまで生きてきたなかで真面目な話をした試しがないので、真面目に話そうとすると涙目になってしまう。同居人も自分の話をすると泣いてしまう性質だし、元を辿れば、否、辿るまでもなく僕がよくないという内容の話なので、同居人にも、その場に居合わせた友だちたちにも申し訳なかった。これまで真面目に話すべき場面でことごとくちょけてきたことで、その場その場では先延ばしにできてきたかもしれないが、長い目で見ればそれは自らの行く末を狭めてきたということでもあり、その狭まった先のあたりにいま僕はいて、ちょけていられなくなってきている。というかちょけている場合ではまったくなくて、涙目になりながら真面目な話をしなければならない。

 

7/29

 東京の東の端から出発してチーバくんの鼻のあたりを横切り北へと抜けていく常磐線は、その名の通り茨城県福島県を主な走行区間とする路線だが、ちょうどチーバくんの鼻の付け根あたりに実家を構える僕からしてみれば、あくまで気軽に都内へと出ることのできる楽チン電車であったに過ぎず、あんなに北のほうまで路線が延びている長大な路線であると知ったのは、皮肉にも東日本大震災のときに一部区間運休になってしまったときのことだった。皮肉にも、なんていう言葉を使うのは、災害の大きさにたいしていささか無邪気すぎるような気もするが、当時高校一年生だった僕の心情を簡潔に表すならそうなる。(僕はあの災害にたいしてあまりに無邪気だったように思う。でもその話はべつにいまする必要はなく、そもそも「皮肉にも」という表現をさっきの文のなかに入れていなければ言及せずに済んだ話なのだが、文章の流れをせき止めてでもそういう言葉を入れてしまうところに日記の日記性とでもいえそうなものの一端が表れているような気がする。)

 福島まで路線が延びていると知ってからもべつにそこまで行ってみようという探求心があったわけではなく、せいぜいが一度雨の降る日に自分の最寄り駅で降りず水戸までぼんやり乗り過ごしてみたくらいだ。その日の雨は土砂降りで、わざと乗り過ごすにはかっこうの日だった。電車が茨城県に入ってからも雨は続いたが、どこかの駅で特急の通過待ちをしていたときにちょうど降り止んで、冗談のように晴れ間がのぞいた、そのとき目の前に広がっていた田園風景とその鮮烈な日差しばかりが記憶に残っていて、それがいつのことだったかは覚えていない。高校生か大学生の時のことだったと思うけどわからない。

 そんなふうに僕の記憶はあいまいなことが多く、今日だって何ヶ月かぶりに訪れた最寄り駅の、駅前の歯医者が改装したことはわかるが前がどんなだったかは思い出せない。

 

 

7/30

 実家に帰るとみんな朝が早くて驚く。七時半に起こされて「もうみんな朝ごはん食べたからあんたも食べなさい」といわれる。朝ごはんがあるのはありがたい。とりあえず起きて食べてからも眠くて、けっきょくそのあと午前中は断続的に寝た。ベッドに横になったときにたまたま変な体勢になってしまい、でも体勢を正すことなくそのまま寝てしまったので、昼前に起きたときには身体が変に固まっていた。昼ごはんをいただいてしばらくしたら東京に帰るべくおいとました。実家に帰るのも東京に帰るのも、どっちも「帰る」だ。

 電車のなかではバルガス=リョサの『緑の家』を読み進めた。もう一週間以上前くらいに冒頭だけ読んで、そこからはずっと停滞していたのが、今回の実家への行き帰りの電車のなかや昨夜実家の自分の部屋で大幅にページを進めることができて、これも今週末の成果のひとつだった。今日の午前中ずっと眠かったのも『緑の家』による夜更かしの結果だった。『緑の家』は読み進めてしまえばかなりおもしろくて、群像劇的な展開もさることながら、やはり語りのドライブ感がいい。会話と地の文が並ぶのは他の小説でもよくあることだけど、鉤括弧で囲われた会話のなかで平気でひとも場所も時間も移り変わっていく様にしびれる。『緑の家』が発表されたのが一九六六年だということを踏まえると、たとえば一九六〇年に公開された『勝手にしやがれ』のジャンプカット的な手法との共鳴のようなものも感じ取れる。小説と映画という違いはあれど、いずれの作品もそれまで先人たちが築き上げてきた作法を下敷きにしたうえで、形式的でわかりきっている部分をすっ飛ばしてドライブ感を生んでいる。そのおもしろさが日本語に翻訳されて、二〇二三年の僕に届いているということもまた感情を動かす。

 家に着いたら即エアコンをつけた。やはり東京は暑いと思った。同じように実家のほうに帰っていた同居人もやがて帰ってきて、せっかくなので行ったことのない居酒屋で食べた。今日は土用の丑の日らしくてうなぎの蒲焼きも注文した。おいしい居酒屋でかなりいい気分になった。帰りに駅ビルの本屋をちらっと見ているときに僕の友だちに会って、「あれ、フジロック行ってないの」と同時に聞いた。行きたかったけど、行ってないからここにいる。行きたかったのに行っていない特別な理由は特にない。こういうことが僕には多い。

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7/31

 辛さは舌の痛覚だと聞いたことがありますけども、たとえば手の甲をつねるのでも細くつまむのと大きくつまむのとでは痛みの質が違うように、食べ物によって当然辛さの質は異なる。そのなかでも山椒というものの辛さはいっそう独特で、よく「痺れる」と形容されるあのピリピリした感じは他の食べ物では得難い。山椒のついたものを食べたあとはもうなにを食べてもなにを飲んでも味にフィルターがかかってしまう。だから山椒のついたものを食べる場合はいっきに食べてしまったほうが、フィルターが一度で済むのでいい。そんなことを考えながら、この前軽井沢で買った山椒のせんべいをむさぼり食べている。おかしな味になってしまった水を飲んで、おかしな顔で笑っている。

二〇二三年六月の日記

6/1

 あらゆるものの値段が上がっている。昼休みにコンビニでチョコボールを買ったら百円近くした。昔って一箱六十円くらいじゃなかったっけ、そういえばマックのハンバーガーも昔六十円だったじゃんね、いまいくらか知ってる? ……三十五億。

 

 

6/2

 まさかこんな雨になるとは思わず、『怪物』の夜の回を予約してしまっていた。梅雨に紛れた台風。同居人が雨でびしょびしょになってしまったというので、僕は会社を出てからいったん家に寄って、同居人の着替えを持って出た。太古から降り続けている雨というものにたいして人類が講じる手段といえばいつまでも傘ばかり。しかし傘なんてものは土砂降りや横殴りの雨の前にはまったく意味をなさなくなってしまうわけで、もう何万年もの間、我々はびしょびしょになり続けることしかできていない。これだけあらゆるものが進化した世界において、まだ傘なんてものが幅を利かせているのだから、人類はもう雨に対抗することを諦めたということなのだろう。そうなのであれば、傘を使うしかないというこの状況を、むしろ積極的に肯定する方向に向かっていったほうが気分がいい。つまり「傘をさしながらいかに濡れないように歩くか」ということを追究すべきなのだ。

 僕が編み出した解が、秘技・小股歩きだった。傘によって守られる範囲は、傘の大きさのぶんしかない。そこからはみ出すほど大股で歩くから濡れるのであって、はみ出さないように小股で歩けば、理論上濡れることはない。

 理論は実践によって証明される。僕は会社から家、そして家から駅まで傘をさしながら小股で歩き、見事に濡れたのであった──。

 『怪物』は子どもを描いた映画として傑作だと思った。大人中心のサスペンス的に進んでゆく前半から、そんなところを遥かに超えて、子どもの目から見る世界へといっきに解き放たれる後半への展開の鮮やかさ。主役となる二人の子どもが抜群にいいのももちろんだが、周りの子らのちょっとした遊び声やガヤのリアリティも抜群だった。同居人は水辺で石から石へとひょいと飛び移る子どもの動きが「〝子どもの動き〟すぎてすごい」といっていた。ただし公開前から議論が見られたクィア的な表現については、あいまいさを大切にしたいというような是枝監督や坂元裕二の発言にたいして、映画のなかではむしろわりとはっきりと描かれていた印象を受けた。たしかに多面的な映画なのでそれだけが中心的なテーマというわけではないが、少なくとも非常に重要なシーンでのクィア的な表現もあったので、あいまいさだけを語るのはむしろ単純化をしてしまっているのではないかと思った。ここらへんはまだうまくいえない。僕が東京在住の二十代ヘテロ男性なので見えていないこともあると思う。ただ、傑作だとは思った。だから難しい。

 

 

6/3

 昨日の続きで、映画というものは「誰が作ったのか」や「なにが描かれているのか」というのがもちろん重要だが、「誰が観るのか」ということを考えるのも忘れてはならないと思った。スクリーンの前に座ってこの映画を観ているひとはいったい誰なのか。観ているひとと観られている映画との一対一の関係が結ばれて、そのたびに映画というものは違う様相を見せる。

 今日は『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』をたくさんプレイした。『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』は誰がプレイしても同じリンクというキャラクターが動くが、コントローラーを僕が握るか同居人が握るかによって、リンクの行動は大きく異なる。オープンワールドのゲームをプレイすることはむしろ物語を作る側に近い行為ともいえて、そうなると映画を観ることとはまったく別種の体験だということになるのでしょうか。いや、映画を観ているひともまたその映画を形作る一員であり、広くいえば物語を作る側に含まれるのでしょうか。わからなくなってまいりました……

 

 

6/4

 同居人が友人の結婚式に行くので見送ってから僕はマリオの映画を観た。同居人は朝美容院でのへアセットも予約していて、いつになく盛り盛りヘアーにしてもらっており、それはそれでいい感じだった。本人的には「なんかWhiteberryみたいで変じゃない?」と思ったそうで、いわんとすることはわかるが、僕はべつにそんなに思わなかった。マリオの映画はよくできていて、誰もが知っているキャラクターや音楽の偉大さをあらためて感じたし、いろんなゲームの要素を強引すぎないで滑らかに取り込む展開も楽しかった。アニメーションはやっぱりすごいと思った。親子連れも多く来ていて、この子たちにとっての映画というものの原体験になるのかもね、となんとなく感慨深くもあった。映画館を出て富士そばを食べまた次の映画館へ。『Rodeo ロデオ』を観た。とてもよかった。郊外でバイクを転売して生計を立てながらウィリーに熱中する若者たち、そこに部外者として入ってゆく主人公ジュリアの姿が描かれる。ジュリアはバイクに乗っているときにだけ笑う。お金には興味がなく、バイクは盗めばいいと思っている。ひとが怪我したらどうにか助けようとし、組織のボスの妻とその子どもを外に連れ出して一緒にバイクに乗って笑う。既存の規範からはみ出し続けながら生きるジュリアが、男性ばかりのコミュニティのなかで自らの居場所を切り開き、抑圧された女性をも解放し、短く燃えて走り去ってゆく。疾走感が身体に強く残る映画だった。とにかくバイクのシーンがイカしていて、Rosaliaの"SAOKO"やMigosの"Bad and Boujee"のビデオを思い出した。というか『Rodeo ロデオ』とそれらのビデオはかなり共鳴しているのではないかと思った。

 結婚式はとてもよかったらしい。同居人は慣れないヒールを履いて足の裏がとても痛くなったというので、先に帰っていた僕はスニーカーを持って駅まで迎えに行った。帰宅後も足を揉んでほしいとの指示があり、応じた。

 

 

6/5

 会社を出て同居人とラーメンを食べてからジムへ。プラマイゼロ。いや昨日の夜もラーメンだったのでマイナス。

 昨日の『Rodeo ロデオ』のことをまだ考えていて、この映画についても「誰が作ったか」とか「誰が観るのか」という話に照らしてみると、まず監督のローラ・キヴォロンさんはこれが長編デビューだそうで、郊外で育った身としてずっと近くで見てきたバイクのウィリー(フランスでは「クロスビトゥーム」と呼ばれるらしい)を撮りたいというのがあったそうだ。自らが生まれ育った環境の周りにあったものやそこに生きるひとたちの姿をかっこよく撮る、という、ある種ドキュメンタリー的でもあり当事者性を持った作品であったことは間違いない。だからこそ心に刺さるものがあったのだとも思う。いっぽうで、映画を観ている僕はバイクに乗らず日々の暮らしにも困っていない東京の男性なわけで、生まれは郊外だとはいえああいうカルチャーをまったく通っていない。そういう意味では当事者性はほとんどない。そんな僕の心をも揺さぶるというのがこの映画の、もっといえばこの映画に限らず優れた映画が等しく持っているすごさなのだと思う。「ショットがすごい」とか「演技がすごい」とかいろんなことが映画というものにたいして語られるが、映画というものは観るひとの感情を動かす芸術であるという大前提があったうえで、それらの分析はあくまで感情が動いた根拠に過ぎないというか、ショットも演技も劇伴もすべて、ひとびとの感情を動かすためのものとしてのみ存在すべきなのだと思う。しかしだからこそ分析や批評の重要性が増すのでもある。あるショットにどうして感情が動かされるのか、ちゃんと説明できたほうが映画観賞は豊かになる。

 

 

6/6

 夏至を擁する六月は、すなわち一年で最も日が長い月ということになる。たしかに仕事を終えてから会社を出てもまだ外は明るく、日は長いには長く、うれしいにはうれしいのだが、いっぽう心のどこかで、こんなもんですかい、ともひとかけら思う。日が長いといったって明るいのはせいぜい七時半や八時くらいまでで、そこから先はもう夜。〝一年で最も日が長い〟と謳うのであれば、九時とか十時とかまで明るくあってほしい。加えてなんとこの時期、日本の上空には梅雨前線が停滞する。日が長いといったって、雨が降っていては、なんかぼんやり空が明るい気がする程度にしか感じられないではないですか。「うちの宿は薬草サウナが最高なんですよ」と受付でおすすめされたのに、いざ入浴したら「すみません、今日薬草切らしてまして、代わりにほうれん草になります」といわれたみたいなものではないでしょうか。違いますか。

 今日も会社を出たら雨が降っていて、いわんこっちゃない、と思いながら傘を差した。同居人と集合して『aftersun/アフターサン』を観た。すごい映画だった。ずびずび泣いていた同居人は、観たあと「でも考えてみたらよくわからない部分も多いのに、なんでか泣いてた」といっていて、まさしくそれがこの映画のすごいところだと思った。二十年前の夏に父と過ごしたひと夏の記憶が、おおむね時間軸どおりではありながらもかなりコラージュ的に描かれる。あのときあのひとは何を考えていたんだろう、という想像がそのまま映像になったように、二十年前には気がつかなかった父の姿をカメラが映し出す。最高のバカンスのなかに絶えず漂う別れの予感が、"Tender"や"Losing My Religion"や"Under Pressure"によって強調されながら進んでゆく。眠たげに重ねられた手と手とか、父が潜ったままなかなか姿を現さない水面とか、映像には細かくて豊かな感触がありながら、話自体は穴だらけという挑戦的な構成が、脚本と編集の妙で形になっていたと思う。「David Bowieが流れる」・「長尺のカラオケシーンがある」という個人的いい映画ポイントを押さえてきたうえに、BlurR.E.M.も流れ、無邪気だけどいろんなものが見えている十一歳という娘の年齢設定もかなり絶妙で、そりゃいいに決まっている。やや巧みすぎる気もするが、よかったのでよいです。

 映画のなかだけどR.E.M.を久しぶりに聴いて、やはり最高だと思った。書きながら"Automatic For The People"を聴いている。やはりこれがオールタイムベストアルバムかもしれない。

 

 

6/7

 エスカレーターの段の部分と手すり部分の動く速度がほんのわずかに違って、手すりに置いた左手だけが徐々に前のほうに行ってしまい、どうすることもできずにただそれを見ている。

 

 

6/8

 寝苦しい夜で、おそらく三時くらいに一回と、六時くらいに一回、目を覚ました。六月でこれだもんね、八月とかどうなっちゃうんだろうね、という話を同居人とした。天気の話はいい。今日はビルのエレベーターのなかで会社のひととも天気の話をした。エレベーターに乗っている時間なんてせいぜい数十秒から一分くらいなもので、まとまった会話をするには短い、というわけで必ず天気の話になる。明日またけっこう雨降るみたいですよ。え、そうなんですか。先週も降りましたもんね。先週すごかったですよね。僕はけっこうこういう会話が好きで、今日他によかったのは、昼休みに後輩と話しているときに、よく行くお店とかありますか? えっと、僕、駅の向こうにあるうどん屋によく行きますね。あ、あの不動産屋の向かいのところですよね。そう、うまいのよ。え、一回くらいしか行ったことないかも、今度また行ってみます。ぜひ。そういえばこっち下ったほうの道沿いにもうどん屋あるじゃないですか。ありますね。あそこのうどん屋の店内、まじでまったく電波ないんですよ、と急に話が逸れたのがおもしろかった。誰か撮っておいてくれればおもしろかったのに、と思うほどにおもしろかったのだが、あとで見返しておもしろいかはわからない。

 そういえばフィクションの映画を観ているときにときおり「いまこの映像は誰が撮ってるんだ?」とか「誰の視点の映像なんだ?」と思う。それでいうと『aftersun/アフターサン』におけるカメラは、主人公たちが撮影したビデオか、現在の娘が二十年前を振り返っている記憶の映像か、二十年前にはわからなかった父の姿を想像した映像のいずれかで、「誰が撮ってるんだ?」となる瞬間がなく、なおかつその三つの入り混じり方もよかった。たとえば冒頭、二人でホテルに着いた夜、ベッドに入ったとたんにすやすやと眠りだすところまでは娘の記憶かもしれないが、そこから先、父親のほうにピントが合って、ベランダでゆらゆらと揺れる姿を娘越しに映している部分はおそらく二十年後からの想像で、そういう移ろいがカメラのピントによって表現されていたのがすごい。なんだかむりやり『aftersun/アフターサン』の話にしてしまいました……。昨日から何度も"Tender"を聴いている。

 

 

6/9

 会社で作業の進捗を訊かれたときに「十位集団くらいです」といったらウケた。もちろん箱根駅伝を念頭に置いているわけだが、「箱根駅伝でいうと」というのを付けずに「十位集団」という単語だけで伝えられたのがかっこいい。「十位集団」なんて箱根駅伝の実況くらいでしか聞かない言葉だが、だからこそ瞬時に箱根駅伝のことだと伝わる絶妙なワードチョイスだといえるし、「十位集団」だけで伝えようとする〝皆までいうな〟的な精神性が美しく、自由律俳句にも似た素養も感じさせる。なおかつ「十位じゃなくてもっと上を目指しなさいよ」や「シード権ギリギリじゃんよ」というツッコミを相手から自然に引き出すような、会話が盛り上がるきっかけにもなる順位設定がさらにニクい。とにかくこの美しい返しが僕の口からとっさに放たれたというのはすごいことで、最初にもいったようにちゃんとウケたのだが、ウケただけで、誰もこのすごさに言及してくれなかったのでいま自分で言及した。

 

 

6/10

 午前中からプールに行き、帰ってきて寝、起きてだらだらし、寝、シャワーを浴びて家を出、新文芸坐北野武のオールナイト上映で『その男、凶暴につき』・『3-4×10月』・『ソナチネ』を観た。あらためて観ると『ソナチネ』は明確に世界を見据えている感じがあってすごいが、「『3-4×10月』のほうが好きかも」という同居人の気持ちもわからなくはない。

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6/11

 五時に終わったオールナイト上映から帰ってきて、朝ごはんを食べたりしてなんやかんや七時くらいになり、そこから寝て目を覚ましたら十時半だった。まだ寝てもよかったがちょうど同居人も起きたのでそのまま起きて『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』をプレイするなどした。前作よりできることが増えてむしろつらく感じてしまうのではないかという当初の危惧は外れ、ストーリーはまったく進まないながらも楽しくプレイできている。できることが増えたというよりはできることが変わったという感じで、よりプレイヤーそれぞれの発想が活かされる趣があるが、あまり考えず雑にやってもできてしまったりするのがいい。ただ個人的にはリモコンバクダンを使えなくなったのはかなり痛手で、前作では敵を倒すときは基本的に高所からバクダンをひたすら投下し続ける形で体力を削っていたのに、今回はそれができないために近接戦を強いられることとなり、そうなると僕は「戦わない」を選ぶ。戦わず、ミッションもこなさず、ただのキノコ集め人間と化している。

 それはちょうど『ソナチネ』の沖縄パートと似ているかもしれない。組同士のドンパチを止めるべく東京から沖縄まで来たはいいものの、どうやら思っていたより事態が深刻だったので、いったん誰も来ない海沿いの隠れ家に避難し、東京からの連絡も特に来ないのでそのまま砂浜でゲラゲラ遊ぶ日々を送るたけしたちの姿と、行く先行く先でゼルダ姫を助けて災厄を止めてくれと懇願されるも、敵と戦って勝てる気がせず、いったんミッションを進めることを放棄してただキノコ集めに邁進する勇者リンクの姿は重なりうる。

 というところでオールナイト上映の話に戻ると、『3-4×10月』も『ソナチネ』も沖縄に行ってだらだらするパートがある映画だが、あらためて観ると、撮影・編集を洗練させ、音楽に久石譲を起用し、たけし軍団ではなく専業俳優を使った『ソナチネ』は、明確に世界に出ることを見据えた作品だという感じがした。『3-4×10月』の時点で表れていた緩急はさらに先鋭化していて、『ソナチネ』ではひとはますます急に死ぬ。ひとが死んでも誰も声を上げずに退屈そうな顔をしている。北野武が自らの作家性を意識しつつ、やりたいことの自然な発露として作られていて、やっぱり知性と野性のバランスが最も美しかった作品なのではないかと思った。

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6/12

 湿度がやばい。同居人は体内の水分量が多い気がしてきもちわるいとうったえている。そんなことあるかいな、と思う僕もたしかにいつもよりトイレに行く回数が増えているようである。

 同居人が会社の先輩からayuこと浜崎あゆみのLPをもらってきたので家で流した。ayuのLPといってもリミックス盤で、僕たちはそもそもayuを通ってきておらず原曲を知らないのでどこがどうなっているのかがわからない。"Connected"という曲と"M(※華美なフォント)"という曲のリミックス盤で、「"M(※華美なフォント)"って有名な奴じゃん!」と思って流したが、ayuの歌声がまったく使われていないリミックスで、かなりかっこいいのだがayuを聴いた気がしない。いっぽうの"Connected"は原曲を知らないがリミックスはやはりかっこよくて、途中からayuの歌声も入ってきてよかった。ayuの歌声はハウスリミックスとかなり相性がいい感じがする、極端にいうとシンセっぽいというか、オートチューンも似合いそうな感触がある。リミックス盤を流しながらayuのウィキペディアを見ると、ayuの歌詞は「哲学的で、人々の心を救える影響力があり圧倒的な支持を得た」らしく、ぜったいファンが書いた偏った意見だと思ったが、そのあとApple Musicで聴いてみるとたしかに歌詞はけっこうよかった。"Connected"の原曲はいまでいうハイパーポップ的なものの源流のような雰囲気があって、やはりビート映えする歌声も含めてCharli XCXを思わせた、というかほんとに源流かもしれない。

 ちなみにayuのウィキペディアでは、デビュー以来快進撃を続けていたayuがはじめてオールナイトニッポンの生放送をやったときに、アンチからかかってきた電話に出て、自らの生い立ちなどを語り聞かせ、最終的には電話をかけてきたひとも共感して泣いてしまった、というエピソードがかなりよかった。

 

 

6/13

 仕事のあとジムに行った。Amaaraeというひとの新しいアルバム"Fountain Baby"がかなりよかった。さいきんだとKing Kruleの"Space Heavy"も非常によい。しょっぱなから深く潜っていくような雰囲気をまとった冒頭曲に始まり、そのまま潜り潜り、ときおりギターをかき鳴らし、声を荒げ、潜った先の安らぎのなかで終わる。あと『ソナチネ』のサントラも聴いている。『ソナチネ』といえばテーマ曲のピアノのリフレインが有名だが、そのあとシンセがグィーンと入ってくるところからがいい。

 同居人が会社で怒られてへこんでいた。しきりに鼻をかんで、額に冷えピタまで貼っていた。ほぼほぼ風邪の症状だ。

 

 

6/14

 仕事のあと同居人と飲みに行った。新しいお店を開拓するムーブメントの最中なので入ったことのない立ち飲み屋に入った。おいしかったけど、隣のおじさんたちが最悪で、女性店員さんへのセクハラ、会社の後輩の容姿や学歴含めた悪口、性的マイノリティ差別、……と〝おじさん〟のオンパレードでかなりびっくりした。同居人も店を出てから「きもすぎ博物館かと思った」と述べていた。同居人は特に店員さんへのセクハラに耐えられなかったらしく、飲んでいるときにもちょいちょい僕を見て「いっていいかな?」といっていたが、僕は同居人に危害が及ぶのが嫌だったのでそれを制してしまっていた。あと、おじさんたちと店員さんの関係もわからないし、こういう立ち飲み屋ならではの文脈みたいなのもあるかもしれないし、聞こえてきた会話の感じだと店員さんは大学で社会学を学んでいるらしくて、もしかしたらこのおじさんたちも観察対象かもしれないし、……なんてふうにてきとうな理由をつけたが、ほんとはただただ西沢のことなかれ主義が発動してしまっただけだ。だいたい店員さんもおじさんたちをあしらいつつ「わたしのなにを知ってるんですか」とは明確にいっていたので、ちゃんと嫌がっていたかもしれない。店を出てから「わたしがいうのが危ないと思ったんなら、きみがいえばよかったじゃん」と同居人はいい、僕もたしかにそれはそうだったかもと思ったが、イメージが湧かなかった。いえればいいだろうけど、いい方がわからない。おそらく僕たちとは世界の見え方がまるで異なるひとたちに、もちろん僕たちが必ず正しいわけではないということも明示しつつ、せめて目の前のひとが嫌がっているかもしれないことはやめませんか、ということを伝える、その伝え方がまだわかっていない。ほんとに当たり前のことをいえばいいだけなのだろうが。

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6/15

 同居人が会社のひとと飲みに行ったので、僕は家で白米、納豆、セブンイレブンで買った中本のカップ焼きそば、という雑な夕飯にしてしまった。中本のカップ焼きそばは、スープを全部こぼして麺だけになってしまった中本という感じで、個人的にはさほどヒットしなかった。白米と納豆のほうがずっとおいしいと思った。白米と納豆は美しい相互関係を築いている。白米を食べるために納豆があり、納豆を食べるために白米がある。

 斎藤潤一郎の『武蔵野』を読んだ。都会でも田舎でもなく、かといってニュータウンっぽい情緒があるわけでもなく、ただの郊外である武蔵野一帯を散歩する漫画。武蔵野線とはまた異なるかもしれないが、僕は常磐線ユーザーだったので、電車から見える、うだつの上がらない、見続けていたらふとそこに自分も収まってしまいそうになる風景、という著者の感覚はなんとなくわかる気がして、そういうなんでもない駅で気まぐれに降りてみる散歩の漫画としても楽しめた。詩情、という言葉では済まされないほどの黒塗りっぷりからは「散歩とは影である」という精神が感じられた。自ら足を運んだ場所について漫画に描いていく途中で、徐々に実際の出来事と空想とが混ざりあっていき、そのことに漫画内でも自己言及するというやり方は『長い一日』のようでもあった。僕も日記を書いているなかであることないことをつい交えたくなるが、いまのところはできるだけあることばかりを書こうと思っている。

 

 

6/16

 会社に先輩が実家から送られてきたという新玉ねぎおよそ十キロ分を持ってきて、欲しいひとが欲しい個数持って帰るという行事があってうれしかった。僕も三個いただいた。社内の中央に置かれた新玉ねぎの周りにひとが集まり、新玉ねぎは水にさらさずにそのまま食べてもうまいだとか、十字に切り込みを入れてレンちんするだけでもうまいだとか、めんつゆで煮るのもいけるだとか、各々の玉ねぎ観を口々に語るのがよかった。玉ねぎのありがたみ、という、ふだんの仕事のなかでは話題にならないようなことを実はみんなが胸の内ではしっかり思っており、それがオフィスの中央に玉ねぎの実物が出現したことで発露したのがおもしろかった。

 仕事のあとには『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』をTOHOシネマズ六本木に観に行った。こういう映画は公開初日にTOHOシネマズ六本木の七番スクリーンで観るに限る。日本人より外国人のほうが多くて、盛り上がりに加われるのがうれしい。もちろん映画自体がその盛り上がりに値するものでなくてはだめで、それでいうと『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』は超特大満点だった。映像革命だと思った前作をも軽く凌駕する激やばアニメーションが、二時間二十分のあいだ絶え間なく続く。その映像の洪水を目でただ追っているだけでも幸せなのだが、話もよいのがさらにすごい。人類の叡智の結晶といってもいい作品だと思った。

 そもそも何度となく映画化されていることが証明しているようにスパイダーマンというキャラクターはきわめて映画に向いていて、それはなによりも手から糸を出してビルとビルの間を飛びまわるというシンプルながらスリルに満ちた運動の素晴らしさに因るところが大きい。歴代のスパイダーマンは地面すれすれを滑空し、壁にぶつかる寸前のところで次の壁へと飛び移る運動センスにあふれ、それは『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』の主人公であるマイルス・モラレスにもこれ以上ないほどの形で受け継がれている。しなやかに飛びまわるマイルスをカメラ(=作画)が縦横無尽なベストポジションで追い続け、ビル群は瞬く間に後方へと流れ、僕たちを際限なく興奮させる。その興奮がスパイダーマンが増えるほどに高まるというのは当然予想されるべきことなので、今回の映画が素晴らしいことは約束されていたようなものだったけれど、予想を遥かに超えてきた感じがした。

 

 

6/17

 昨日の『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』の余韻に浸りながらMetro Boominとその仲間たちが作ったアルバムをあらためて聴いたらすごくよかった。特にJames Blakeが参加しているのが効いている気がして、映画の雰囲気にとても合っていると思った。あとやっぱりLil Uzi Vertはいい、彼の憂いを帯びたフロウが一オクターブ上がるところで、聴いている僕たちの(「感情」や「感傷」といった訳語とは違う)エモーションも否応なく高まってしまう。それはマイルス・モラレスの疾走とも呼応している。

 アルバムを流し、その随所に散りばめられたマイルスやグウェンの台詞を聞くと、昨日観た映画のシーンが思い出される。マルチバースを扱った映画のなかでもピカいちだったのではないかとも思う。観客を飽きさせないためではなく、ファンを喜ばせるためでもなく、話の当然の行き先としてマルチバースが現れる感じが美しかったし、ことスパイダーマンというキャラクターにかんしては、これまで何度も映画化されてきているという状況がメタ的にマルチバースの存在を証明していて、作品の強度を上げている。このまま続編がもし作られなかったとしてもいいくらい素晴らしかったと思う。

 今日は同居人の友だち二人が遊びに来るので、ゼルダをやりつつ部屋を片付けまくった。たまに誰かが遊びに来ることで部屋が片付くという方式を採用している。天気は完全に夏で、洗濯物を干すためにベランダに裸足で出て火傷しそうになった。雲の形に夏らしい立体感があり、しかしなかにはあまりにも〝雲〟すぎる雲も浮かんでいて、AIが自動生成したフェイク雲なのではないかと思った。夜はみんなでピザを食べに行った。ビートたけしが来店したときの写真も飾ってあってうれしかった。ピザ屋のあと銭湯に行って、天井に緑色の見たことないクモがいて、僕がこのバースのスパイダーマンになるのかと思ったが、そいつは天井から降りてこず、したがって僕が噛まれることもなかった。

 

 

6/18

 朝から友だちとプールに行った。プールに行ったあとは必ず眠くなる。そこで昼寝するのももちろん最高なのだが、あえてせずにそのまま起きていると、徐々に眠気が解消されていくか、靄がかかったように頭が痛くなっていく。そのどちらになるかはわりとランダムで、今日は眠気が解消されてよかった。同居人が会社の同期と『リトル・マーメイド』を観に行くというので、僕もシネクイントの『M3GAN/ミーガン』を予約して、二人とも昼過ぎに家を出た。『M3GAN/ミーガン』はおもしろかったけどノリきれなかった。シネクイントを出てからふらふらとレコードショップに行ってR.E.M."Lifes Rich Pageant"と松任谷由実"PEARL PIERCE"の中古盤、細野晴臣"HOSONO HOUSE"のリイシュー盤を買い、イメージフォーラムまで歩いてジョン・カサヴェテス特集上映の前売り券を買って帰宅した。金曜日に会社でいただいた新玉ねぎを丸ごとレンチンするやつをやってみたらほんとにおいしかった。そのあと朝のプールの眠気が再び訪れてけっきょく少しソファで寝ているうちに同居人が帰ってきた。

 

 

6/19

 おとといの土曜日、同居人の友だちを家に迎えるにあたって猛烈に部屋の片付けをしたときに、同居人が前々から考えていたという部屋の模様替えを行った。模様替えというと大げさだが、やったことといえば部屋の中央に鎮座しているローテーブルをなくすということに尽きる。もともとこたつ兼テーブルとして購入したものだったが、季節は過ぎてとっくにこたつ布団は取り払われ、ただのテーブルとしてはややガタイのよすぎるそのローテーブルのみが部屋のど真ん中に残り、テレビも積ん読の本も食べかけのお菓子もその上に載せてしまっていたのだが、「部屋が片付かない元凶はこのテーブルにある!」と看破した同居人が、このテーブルを部屋に置き続けるというのなら引っ越しも辞さないというほどの構えになってしまったために、土曜日の掃除のタイミングでテーブルの撤去を余儀なくされたのだ。はたしてテーブルをどかしてみると部屋は元の広さを取り戻し、いや、むしろ最初より広くなったのではないかと思えるくらいに風通しがよくなった気がして、いまのところ模様替えは大正解だったと思えている。同居人の提案はだいたいいつも正解なので、愚かで無策な僕はおとなしく従っておくべきなのだ。ところで撤去されたテーブルをどこにやったかというと、寝室のベッド脇にとりあえず立て掛けてあって、もし倒れてきたら僕が死んでしまう。

 

 

6/20

 朝起きたら寝汗がすごくて頭も痛かった。会社を休んだ。午前中は寝て、昼頃起きて蕎麦を茹でて食べた。薬味も付け合わせもない、ただ腹を満たすためだけの蕎麦だけの蕎麦を、僕はこうしてたまに食べるのだった。午後は日曜日に買ったR.E.M.の"Lifes Rich Pageant"のレコードを流しながら本を読んだ。僕は高校生のときに近所の古本屋でそのときは知りもしなかったR.E.M.というバンドの"Green"というアルバムのCDをなぜか買ったときからR.E.M.が好きで、でもすべてのアルバムをちゃんと聴いたわけではなく、"Lifes Rich Pageant"も大学生のときに何回か聴いたっきりで、しかしそのときにかなりいいアルバムだと感じたなんとなくの記憶があり、さらにさいきん『aftersun/アフターサン』のなかでR.E.M.が流れて以来R.E.M.のことを考えていたこともあって、渋谷のHMVでたまたま中古のレコードを見つけたときに迷わず買った、それが日曜日のことで、今日再生してみて、あまりのよさに三回連続でかけた。そのあと夕飯の買い出しに出かけた際に聞いた『空気階段の踊り場』の今週分のなかで、鈴木もぐらが頭に浮かんできた曲をひたすら口ずさむというおもしろい流れのなかでスピッツの「スパイダー」が登場してよかった。R.E.M.スピッツが好きであることをあらためて確認できた。

 いまは福田節郎というひとの『銭湯』という小説を読んでいる。居酒屋を気まぐれにはしごするような独特のグルーヴ感を持った文章が魅力的で、僕自身も酒飲みだったらもっと楽しいのかなとも思う。「◯◯は◯◯した」という主述の繋がりが一文のなかで二組以上出てくるときに、ふつうならどちらかの「は」を「が」にしてしまいそうなところを、福田さんはどちらも「は」で繋げていて(たとえば「◯◯は◯◯しているときに、◯◯は◯◯していた」みたいに書くこと)、それが生のグルーヴを生んでいるのかもしれないと思った。その『銭湯』を読みながら"Lifes Rich Pageant"のレコードを三回連続で流し、三回目の途中で眠くなって少し昼寝したのが今日の午後のことで、さっきは昼寝したことを書き漏らしたのでいまもう一度書いた。わざわざ文章に残すほどのことでもないことを、日記だからこそ残せる。

 

 

6/21

 講師陣に惹かれて受講を検討している「ことばの学校」の募集ガイダンスが今日で、オンラインなので気楽に構えていたのだが、しかし十九時半のスタートには間に合いそうになかったのでアーカイブ配信や巻き戻し再生があるかどうか質問するメールを夕方頃にして、アーカイブ配信もあるし巻き戻し再生もできますと返事をいただいたので、じゃあいいか、と仕事が終わって帰ってきてからもけっきょく見ていない。いまやるかあとでやるかを選ぶ場面で常に「あとで」を選び続けてきた果てに、いまの僕があるのでございます。

 

 

6/22

 同居人は有給を取って、昔からの友だちの結婚式のドレス選びに付き合っていた。横浜のほうの景色のいいサロン的な場所に黄色いポロシャツにデニムジーンズという恰好で同行して、そんな服装だと浮いたのではないかと思うが大丈夫だったらしい。幼い頃から知っている友だちのドレス姿に感動するのはもちろん、ドレスの長い裾をはらりと広げてみせるスタッフの方の手さばきにも感心し、とても楽しい時間を過ごした。サロン的な場所を出たあとは野毛エリアで一杯五十円のハイボールを飲んだ。平日の昼間から飲めているという状況のうれしさも手伝い、ついつい飲みすぎてしまって駅のトイレで少し吐いてしまった。それから友だちを家に連れてきた。今日は梅雨らしい涼しさのある日で、吐いてすっきりいい気分になり、友だちもドレス選びで疲れていたようなので、二人で昼寝した。同居人は大の昼寝好きだが、友だちを家に連れてきて一緒に昼寝するというのはなかなかないことで、これは昼寝の可能性を拡げたといっても過言ではないのではないだろうか。夕方に目が覚めてからは一緒にインディ・ジョーンズの一作目を一緒に観た。常になにかが起こっていて楽しい画面だった。スター・ウォーズに続いてハリソン・フォードのにやけ顔もいい。続けてアメトークの踊りたくない芸人の回を見て、くだらないと思いつつもついつい爆笑してしまった。特にザ・マミィの酒井が優勝だと思った。友だちを駅まで送ってからシャワーを浴び終えたタイミングで僕が帰ってきて、一緒にアメトークを見返した。何度見てもザ・マミィの酒井が優勝だと思った。そういう一日を、同居人は過ごしたという。一方の僕は、昼に食べたセブンイレブンのうどんがぜんぜんおいしくなくて悲しかった。

 

 

6/23

 いつの間にか夏至を通り過ぎてしまっている! 毎年夏至の日には西の空を眺めながら「今日以降日が短くなっていくんですねえ」とつぶやいて感慨に浸るのが通例となっていたが、今年はそれをやれなかった。「でも夏至って思ってるほど日長くないよね。八時には暗いし。夏至の本領はむしろ朝にこそ発揮されると思ってる。この時期って朝の三時とか四時くらいにはもう東の空が白みはじめてて、鳥も鳴いてるんだよね。やっぱり鳥が鳴いてると朝って感じがするんだよな」という話もできなかった。来年はします。

 

 

6/24

 仕事の日だった。今日は活躍できてよかった。仕事のあと、八月から留学でアメリカに行く友だちを囲む会に参加すべく横浜に向かった。一次会が終わる頃に着いて少しだけ参加し、そのあと腹を満たすために一時離脱して、二次会のカラオケに途中から合流するという変な動きをかましてしまったが、それもいたしかたなし、というのも今日の会は同居人の企画なのだが、僕以外のメンバーはみんな中学が同じだったひとたちで、僕にとってはアウェイともいえる状況だったのだ。むしろなぜ僕がそこにいるかというと、僕とその友だちは大学のクラスが一緒で、同居人のこともその友だちに紹介してもらったという経緯があり、ようするに僕と同居人にとっては非常に感謝すべき友だちなので、アウェイだろうがなんだろうが僕は参加したいし、しなくてはいけなかった。しかし、かなりアウェイだと思って臨んだら、既に同居人を通じて会ったことのあるひとも何人かいて助かった。カラオケでは「いとしのエリー」を少しだけ桑田に寄せて歌って、たぶんいい感じだった。帰ってきてから同居人に僕の今日の仕事での活躍っぷりを語ったが、うまく伝わらず、ふざけていると思われた。寝る前に大橋裕之『シティライツ』を読み返している、こういうフィーリングを持った小説を書きたいと思う。

 

 

6/25

 同居人の友だちに誘われて午前中から新宿のバッティングセンターに行った。今日は暑くて、「さすがに三十度くらいあるよね?」とスマホで調べたら実際に気温は三十度近くてよかった、いや、よくはないのだが、たとえば今日の暑さで二十五度しかなかったとしたら、そこからさらに十度近く上がるであろう真夏は耐えられそうにないので、今日の暑さで三十度あったことはせめてもの救いだった。友だちはさいきん野球を見ることにハマっていて打ってみたくなったのだといっていて、何回かやるうちに上達していてうれしそうだった。高校でソフトボールをやっていた同居人はやはりフォームがきれいで、バットにも多く当たっており、しかしそれでもボールがなかなか前に飛ばないことに対して悔しげだった。僕はというと、バットを振ってもほとんどボールには当たらず、三百円払って二十回素振りしていたようなものだったが、バットをただ振るよりも実際にボックス内に立って、飛んでくるボールに対峙することにはなんとなく満足感があって楽しかった。バッティングセンターには他にもゲーム機が置いてあって、僕たちはそのなかの「THE 握力」というただ両手の握力を計測するだけのゲームをやった。ぜんぜん打てなかったのを挽回したい気持ちもあったかもしれない。しかし強いと思っていた握力もたいしたことなく、微妙な感じになって終わってしまった。同居人の左手なんて六キロしかなかったので、たぶんあの機械の調子が悪かったのだと思う。お昼にはいつか僕が友だちと行ったミートボール専門店に行って、そのあと解散した。午前中から遊んで昼ご飯を食べて解散するのはいい。帰ってきてシャワーを浴びてから、テレビをつけたらちょうどベイスターズ対タイガース戦をやっていて、それを見ているうちに眠くなって昼寝した。起きたらもうすっかり夕方だった。

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6/26

 野球の素振りというものはなかなかの運動だったようで、今日は腹斜筋と骨盤の周りの謎の部分に筋肉痛が来ていた。同居人も筋肉痛に苦しめられていて、おそらく腹斜筋のことをいっているのだと思うが、あばらが折れているのではないかと思ったらしい。腹斜筋のあたりに筋肉痛があると笑ったときに痛いのだが、夜、同居人はなぜか『女の園の星』を読み返してゲラゲラ笑いながら痛がっていた。『女の園の星』はめちゃくちゃおもしろいので仕方がない。僕は昨日のガキ使の「TANAKER」を見てゲラゲラ笑っていた。「TANAKER」はココリコ田中がジョーカーに扮してガキ使の先輩メンバー(ようするにダウンタウンや方正やたまにゲストで来るフジモン)への鬱憤を晴らすという企画で、田中以外のメンバーはTANAKERに気づかずに通常企画を進めているというていで生クリーム攻撃を受け続けなければならない。とはいえ、まったく気づいていないままだとそれはそれでつまらず、間近で生クリームを振り回し続けるTANAKERに思わずビビってしまうという、くすくす笑い的な局面があってこそ成立している感じがある。このくすくす笑い的なものはダウンタウンの番組における特徴のひとつだといえるかもしれない。松本人志が上を向いて鼻の下を伸ばしながら笑いを堪えている姿を、僕たちは容易に思い出すことができる。しかしくすくす笑いというものは扱い方を間違えればただの冷笑にもなってしまうため、ある程度親密な仲間内でないと成立しない。それゆえに出演者は次第に固定されていき、番組は内輪ノリへと走っていくことになる。……となぜかダウンタウン批判的な方向に話が進んでしまったが、僕なんてべつにダウンタウンの番組を見て育ってきたわけではないので、こんなのは放言に過ぎない。

 

 

6/27

 じめじめじめじめ、じめじめじめじめ、こうも毎日湿気に溺れそうなほど蒸し暑い日が続くというのなら、こちらも相応の手段を講じなければならない。湿気の野郎、おれたちが何も抵抗しないと思って、図に乗ってやがるんだ。ふざけやがって! まじでおれたちを怒らせたらやべえってことを、一回教えてやんねえといけねえみてえだな! とはいうものの具体的な手段は何ひとつとして思い浮かばず、僕はとりあえず少しでも納涼になればいいと思って音楽を聴く。たとえば僕は「ハウ・トゥ・ディサピア・コンプリートリー」を聴く。ジャケットの印象も相まって、暗く凍える山脈のなかにゆっくりと入っていくような感覚を覚え、ほんの少し身体の周りが涼しくなる気がする。レディオヘッドは納涼のためにこの曲を作ったのではないと思うが、一度世に放たれた曲は作り手の意思とは関係なく聴かれる。

 

 

6/28

 今日はジムに行った。Lana Del Reyの"Norman Fucking Rockwell!"を聴きながらやった。

 今週はインディ・ジョーンズの過去作を観ている。というか主に観ているのは同居人で、僕は洗濯物を干したりシャワーを浴びたりしながら断片的に見ている。インディ・ジョーンズはとにかくハラハラドキドキ展開が延々と続くすごいシリーズで、登場人物全員が「人間」ではなく紋切り型の「キャラクター」として動き続ける作劇はよくも悪くもスピルバーグだというか、『フェイブルマンズ』でそのオリジンが描かれていた〝映画モンスター〟っぷりが遺憾なく発揮されている感じがして、これは当時子どもとして観たらかなり楽しかっただろうなと思う。延々と訪れるハラハラドキドキはいってしまえばすべてベタなのだが、これらがベタになったのも、スピルバーグがあまりに巨大な存在として君臨する七十年代以降のハリウッド映画の歴史のなかで徐々にそうなっていったということなのだろう。そう考えるとやはりすごい。

 インディ・ジョーンズは考古学者としての探求心を持ちつつ、(非常にステレオタイプ的な)悪役たちの陰謀に巻き込まれつつ、毎回古代遺跡のなかを進んでいく。スーパーヒーローというわけではないので闘い方が泥臭く、けっして強すぎはしないのがいい。作戦が功を奏したときのハリソン・フォードのにやけ顔が毎回かわいい。学者ということもあってか闘いのなかでときおり賢さを見せてくるのもいいし、そうはいってもだいたいは運のよさで助かっているのもいい。……といいところはいくつもあるのだが、振り返って考えてみると、インディが訪れた遺跡はいずれも、なんやかんやあって最終的に崩落するなり爆発するなりしていて、考古学者としてはかなりまずいのではないかと思う。保全せえ。

 

 

6/29

 頭痛でもインディ・ジョーンズくらいなら楽しく観られる。『クリスタル・スカルの王国』は前三作以上にトンデモな話で、しかしインディ・ジョーンズにそんなに話の筋のしっかりさをを求めていない僕としてはむしろよかった。インディが若者に説教を垂れそうでぎりぎり垂れないじいさんになっていてやや奇妙なバランスなところを、ノリノリのケイト・ブランシェットのおかげで全体のテンションが保たれた感じがあり、最終的にはハリソン・フォードのにやけ顔も見られたのでよかった。人間は知識を得すぎると発火して塵になる、ということも学べた。でもここまででいうと三作目の『最後の聖戦』のノリが一番好きだったかもしれない。

 

 

6/30

 上半期最後の頭痛。

二〇二三年五月の日記(自選)

 五月の日記から自選してまとめます。日付は省いています。

 

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 へえー、この時間でもけっこう外明るいんですね、といえる季節。五月も中旬以降になるともう暑くなってきて、日が長いことにたいする意外性がなくなってしまい、それに梅雨に入るので、そもそも日の長さを実感する機会が減る。かといって四月の下旬は、ついこないだまで桜が咲いてたのにね、という話に繋がってしまい、外の明るさをちゃんと味わうには雑味が多すぎる。だから五月のゴールデンウィーク明けといういまの時期こそがもっとも適している。へえー、この時間でもけっこう外明るいんですね、あ、でもそっか、もうあと一ヶ月ちょっとで夏至ですもんね、と僕はいう。今年も暑くなるんですかね、なんかいまくらいの時期だとまだ夜は涼しくていいですけどね、と僕はいう。天気の話をするのはたのしい。

 

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 帰ってきて風呂を沸かそうと思ったらどういうわけかお湯が出ず、お湯が出ないということはガスが止まっている、というところまでは結びつくものの、なぜガスが止まっているのかはわからない。しかしここで家の外に出てメーターを確認するという発想に至り、引っ越してきて以来初めて見てみたところ、メーターにはガスが止まったとき用の案内のシートみたいなものがちゃんと付属していて、その説明を一言一句逃さないようにきちんと読みながらガスを復帰させることができた。僕みたいになにも知らないがとりあえずメーターを見てみたようなひとのために、こうやってフィジカルな形でシートを置いておいてくれているのは非常に助かる。ゲームなんかでも遺跡やダンジョンっぽいところに行くと案内の文書がご丁寧に残されていてありがたいことがあるが、現実世界でもこういうことはある。世界はご丁寧さで回っている。

 ちなみに調べてみると、地震のときにはメーターの安全装置が作動することがあるらしい。ひとつ賢くなった。ひとつも賢くならない日が多いなか、思いがけず貴重な機会をいただけた。

 

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 しっかり寝たはずなのに朝から身体が重く、なんかそういうCMあったな、と思う。

「しっかり寝たはずなのに朝から身体が重……、くない!

 しっかり寝たので大丈夫でした!

 みんなもしっかり寝て元気を出そう!」

 こんな感じのCMだったでしょうか。違うかもしれない。そんなこんなで今日は重い身体をずるずる引きずって仕事し、しかし尻上がりに調子が出てきて、会社を出てから友だちと集合してジムに行った。ちょうど帰ってきた同居人もプールに行った。三人の偉人。そのまま帰ればかなり偉かったのに、ジム終わりにラーメンを食べてしまったので、偉さも努力もすべてチャラになってしまった。

 昨日観た『TAR/ター』のことを考えている。権力や芸術や様々な暴力について重層的に語られるが、それによって積極的な問題提起がなされているというよりは、いうなれば「ただ語られている」という印象で、この観客への委ねっぷりこそがこの映画のすごさのひとつだと思う。そしてこの語り口を支えているのが時間の使い方だと思う。たとえば映画の序盤、リディア・ターの公開インタビューのシーンが長く続くが、あそこの長さなんて映画でしか許されない(ドラマでは耐えられない)もので、しかしあの長さがあるからこそリディア・ターという人物の人となりが浮かび上がってくるし、後半の転調が利く。指揮者として完全に時間をコントロールしていたターが、やがてそのコントロールを失っていく様とも重なる。

 ああいう時間の使い方というのは、やっぱり映画じゃないとできない気がする。同じようなことを『ジャンヌ・ディエルマン』を観たときにも思ったことを思い出したけど、それでいうと『TAR/ター』はまさにシャンタル・アケルマンに影響を受けているところもあるらしい。

 

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 会社を出てからヒュートラ渋谷で『EO イーオー』を観た。撮影、劇伴、ロバ、すべてがすごい激ヤバ映画だった。ロバ視点で展開される物語には多分に人間による解釈が入り交じっていて、そういう意味ではこれも「物語とはなにか」「映画とはなにか」ということを投げかける作品かもしれない。ロバの瞳はそれ単体ではなにも語らない。語るのは人間……。一緒に観た同居人は「才気あふれる若手の長編デビュー作かと思った」といっていたが、まさしくみずみずしさと大胆さに満ちた映画で、八十五歳のおじいの監督作とは思えない。帰ってからYouTubeであらためて予告編を観ようと思ったらイエジー・スコリモフスキ監督のコメント動画が出てきて、ほんとにかなりおじいで笑ってしまった。

 

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 ところで僕は風呂場でだいたい(去年渋谷のヨドバシカメラでテレビのBlu-rayレコーダーを買ったときに大量にポイントが付与され、「このポイントだったらついでにこの小さいBluetoothスピーカーも買えちゃいますよ」という店員さんの言葉に乗せられてまんまと買った、JBLの小さいスピーカーで)音楽を流しながらシャワーを浴びているのだが、風呂場で過ごす時間というのは、湯船に浸かるとしてもせいぜい二十分から二十五分くらいのもので、そうなると一枚のアルバムを流すには少々短い。EPならちょうどいいくらいの時間かもしれない。しかしそもそも風呂場というのは一枚のアルバムやEPをじっくり聴くには不向きな場所で、それはシャワーの音に音楽がかき消されるというのもあるが、湯船にゆっくり浸かったり、せわしなく髪や身体を洗ったり、慎重かつ大胆に髭を剃ったりという非連続的な動作のなかに、なにかしらのテーマやコンセプト、あるいは基調となる気分を持って作られたであろうアルバムやEPという連続的な作品を位置づけるのは場違いだという気分になってしまうからだ。非連続的な動作のなかには、非連続的な曲たちを流すのがふさわしいという気がする。というわけで、風呂場で流すにはなにかをシャッフルするのがちょうどいいのだが、毎日の風呂のためにプレイリストを作成するほどていねいにはなれない。かといって、「Daily Mix」とか「はじめての○○」みたいに、サービス側が用意したプレイリストを流すのもなんとなく癪だ。

 ならばなにを、というときにうってつけなのが、大量に曲が入っているアルバムなのであった。けっきょくアルバムか、といわれてしまうかもしれないが、ちょっと違う。大量、というのは、二十曲、三十曲のレベルではなく、七十曲とか百五十曲とかのレベルだ。そこまで来るともう、なにかしらのコンセプトを持って、連続性を持って作られたアルバムではなく、おそらく作った側もシャッフルを想定しているのではないかという気がする。たとえば去年でいうとVegynの"Don't Follow Me Because I'm Lost Too!!"というアルバム(ミックステープ)は七十五曲入りで、しかも曲順をよく見てみると単にアルファベット順で並べられているだけで、そうなるともうどうぞシャッフルしてくださいといっているようなものなので、たいへん重宝した。今年はMac DeMarcoの"One Wayne G"というアルバムが百九十九曲入りで、各曲のタイトルには日付が付けられており、おそらくそれぞれの曲が録音された日を示している。二〇一八年から二〇二三年にかけてのそれらの音源が日付順に収められているだけなので、これもシャッフルしてくれといわんばかりのアルバムなのである。たいへん重宝している。

 

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 前作をクリアできていないのに新作をやっていいものかというためらいや、プロモーション動画を見た感じだとできることが増えていそうでゲームが下手な僕にとってはいやな方向に進化していやしないだろうかという疑いがどうしても拭えず、発売から一週間買わずにいた『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』だったが、今週何度かニンテンドースイッチを起動するたびに何人ものフレンドがプレイしており(そもそもふだんそんなに触ることのないニンテンドースイッチを週に何度も起動すること自体、『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』のことが気になってしまっている証左でもあった)、やはりこのビッグウェーブに乗るべきなのではないかということでついに昨日の夜購入した。

 僕も同居人もそんなにゲームをしてこないで生きてきたために、こうやってみんなが一斉にプレイしているお祭り騒ぎに以前から憧れがあり、しかし二人とも下手なのでいつも指を咥えて遠巻きに眺めるしかできていなかったのだが、前作『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』をプレイした経験からおそらく今作もゲームが下手なひとにもやさしい内容であろうと想像できたため、今度こそこのお祭りに参加しようではないかという気になれたのだ。とはいえ最初に書いたようにべつに前作をクリアできているわけではないので、「ゲームが下手なひとにもやさしい」というのは中途半端な主観とネット上でちらっと見た浅い知識に基づく判断に過ぎない。

 というわけで半分わくわく、半分びびりながら始めた『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』であったが、ここではゲームの内容よりも、同居人のプレイっぷりについて触れておきたい。

 前作『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』は基本的に僕ひとりでプレイしたので、同居人がゼルダをプレイするのは今回が初めてだったのだが、僕がおもしろいと思ったのは、同居人が主人公リンクを動かしてなにかさせるたびにその表情を確認することだ。リンクを木に登らせて、てっぺんまでたどり着いたらその表情を覗き込み、どや顔しているか確認する。敵を倒したらどや顔しているか確認する。そのへんに生えているキノコを採取したらどや顔しているか確認する。リンクにはべつにどや顔がプログラミングされているわけではなく、まったくの気のせいだとは思うのだが、たしかにゲーム内のリンクはなにかするたびにどや顔しているようにも見える。そんな同居人の「リンクまたどや顔してるね」というおもしろがり方が僕にとってはおもしろく、遊び方を拡げているようにも思える。

 しかしこれがたとえば「リンクはなにかするたびにどや顔する」というプログラミングが実際にされていたとしたら、おそらく僕たちは白けてしまう。開発側があらかじめ用意したおもしろにまんまと乗せられて、おもしろがるように誘導されている、と感じてしまうと思う。これが難しいところで、特にこういう自由度の高いゲームにおいては、開発側の誘導が透けて見えるとなぜか白けてしまうという現象が発生する。自由に動けはするけど、これってけっきょくこの順番でこなしていかないと先に進まないのね、みたいな。その点、前作『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』は自由度の設定がとてもうまくて、けっこうほんとに自由なので楽しかった。というのもあって、今回リンクのやれることが増えていそうなぶん、「こうやってプレイしてください」という誘導も増え、魅力が損なわれてしまっていないかちょっと不安だ。でもいまのところぜんぜん楽しい。

 

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 日中はゼルダを進め、夕方に一度だけ外に出てスーパーで日用品を買い、ピザを頼んで『THE SECOND』を見るという一日だった。『THE SECOND』はいい大会だったと思った。まず大前提として十六年以上も漫才をやり続けてきているひとたちなので、各々の仕上がりはもちろんすごく、かつ今回はネタ時間が六分間ということもあって、その使い方にそれぞれの色が濃く表れていた。事前に令和ロマンのYouTubeの『THE SECOND』考察動画を見ていたこともあり、出場者それぞれのネタの楽しみ方──特にテンダラーに対する「ネタ時間が六分の場合テンダラーさんは〝一分を六回〟という形で戦ってくる」や「テンダラーさんの動きはディズニーのアニメーションに似ていて、基本的に2Dなのだがときおり観客に振って3Dになる瞬間が訪れる」という分析は非常に鋭い──がわかった状態で見ることができた。特によかったのは一回戦のテンダラーギャロップ、二回戦の囲碁将棋対ギャロップ、決勝のマシンガンズギャロップで、奇しくもすべてギャロップ絡みだった。一回戦、二回戦はそれぞれテンダラー囲碁将棋のほうが個人的に好きだった(囲碁将棋はネタ二本ともかなり美しいと思った)が、決勝のギャロップを見て「こりゃ優勝だい!」と手を打った。

 会場で観覧している一般審査員のひとたちにコメントを求める奇妙な時間、わくわくもすれどどちらかというとまどろっこしい点数の出方など、初回かつ生放送ならではの手探り感があり、ややぐだぐだしてしまいそうだと思いながら見ていたが、急にできた大会ということもあって出場者たちもM-1ほど「これだけに懸けてやってきた」感がなく楽しんでいて、なんとなくわいわいしながらゆったり見られた気がする。松本人志が審査員という立場を降りて(アンバサダーという謎の立場で)純粋に楽しんでいる感じもなんだかよかった。特に『THE SECOND』が出場資格として規定している芸歴十六年以上の芸人のなかには「ダウンタウンに憧れて芸人になった」というひとも少なくないはずで、未だに芸人として漫才を続けているそのひとたち一組一組に対してどこか労いも含めたようなトーンでコメントしている姿も印象的だった。たしかM-1が当初掲げていた「芸人をやめられるきっかけとして芸歴制限を設ける」というコンセプトの逆というか、逆ではなくむしろ延長線上というか、いつまでもやめずにやっているひとたちへのリスペクトが、大会全体にあった気がする。

 『THE SECOND』終了後にはNHKでキンプリがテレビラストパフォーマンスをしていて、べつにキンプリに思い入れはないが見て、僕も同居人もじいさんばあさんのように「がんばったねえ」といいあった。そのあとまたゼルダをやり、同居人は寝、僕は台所のシンクをめちゃくちゃ洗った。土曜日の深夜のシンク洗いが、この世で最も捗る。Blurの新曲がよい。

 

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 平日仕事しているときには、土日はたんまり寝てやるぞいと強く思っているのに、いざ土日になると夜更かししてしまう。特に土曜日の夜というのは絶好の機会で、平日の疲れもほとんど解消され、かつ明日もまだ休みであるという余裕ある状態で最高に気持ちよく夜が更かされる。昨日の夜は夏の気配も含んだ涼しさに雨の名残りのようなにおいが付され、三時を過ぎる頃にはすずめや烏の鳴き声も聞こえ始め、やがて訪れるであろう朝の予感、蒸し暑さの予感、そして近いうちに始まるであろうじっとりとした梅雨の予感、あるいはそのあとのうだるように暑い夏の予感までもが鼻や耳を通して伝わってくるようだった。もしかするとそれは予感ではなく記憶かもしれない。これまで過ごしてきた梅雨や夏の記憶が、五月の土曜日の夜更かしのなかで甦って迫ってきたのかもしれない。その記憶のなかには僕自身の体験したことだけでなく映画や小説で知った風景も含まれている。たしか侯孝賢ホウ・シャオシェン)の『風櫃の少年』だったと思うが、何年か前に観たときに、涼しくて蒸し暑くて鮮やかな梅雨の描写が素晴らしく、いまとなっては話の内容はほとんど覚えていないのに、どしゃ降りの雨の下で上裸で跳ね回る少年たちの姿だけが毎年梅雨の時期になると思い出されてくる。何年も経つうちに映画のワンシーンと僕自身の記憶との境界があいまいになっていっているような気がする。

 けっきょく昨日は三時半頃までなにをするわけでもなく起きていて、鳥の声が聞こえ始め、そろそろ西の空が白んでくるのではないかというときに就寝した。まだ日が昇らないうち、つまり「明日」が「今日」にならないうちに寝るのがポイントだ。今日は八時半頃起きた。昨日のピザの残りを食べながらプリキュアを見て、そのあと『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』をプレイした。前作でも今作でもゼルダ姫は遠いところに行ってしまいがちで、しかも今作では行方すらわからなくなってしまっている。ところが僕たちのリンクはゼルダがどこに行ってしまったのかということにはあまり興味がないようで、関係のないキノコ狩りばかりしている。とにかく世界は広いのでゆっくり探索しよう、という姿勢が僕たちと似ている。ゲーム内の主人公はゲームのプレイヤーに似る。

 同居人は再来週末に友人の結婚式を控えており、それがはじめての結婚式出席だというので、既に結婚式に何度か出席したベテランである僕が特別アドバイザーとしてドレス選びを共にすべく、昼前に家を出て新宿に向かった。しかしたいしたアドバイスができず、解任となった。同居人にはスカートではなくパンツスタイルがいいというこだわりがあり、そうなると一気にドレスの選択肢は減る。ここに今回のドレス選びの難しさがあり、途中で棄権しかけたが、いいジャズ喫茶に入るなどして持ち直し、どうにか選びきることができた。今後のパンツスタイルの隆盛を願いつつ帰宅し、ふたりとも疲れたのでだらだら過ごした。日曜日の夕方のだらだらは実に素晴らしい。夕飯は白米、豚汁、鯖の塩焼き、納豆。リンクにも食べさせてあげたかったが、彼はキノコを食べていればそれでいいようだった。

 

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 なんだか左目が乾燥している気がしたので、仕事を早めに切り上げて、友だちと区民センターのジムに行った。目をしぱしぱさせながらトレーニングし、近くの駅前のうどん屋まで歩いてうどんを食べ、そのあとその隣駅の近くに引っ越したという友だちの家にお邪魔したその間にも左目はずっと乾燥しているようで、その旨を友だちに話したら「ドライアイなら目薬させば?」といわれた。友だちの家は飲み屋街の真上のマンションで、建物全体がコの字形の独特な形状をしている、そのコの下辺の付け根あたりの部屋に友だちは住んでいた。飲み屋街の真上、というのは文字通りほんとに真上で、要するに一階に飲み屋が連なっているのだが、建物自体はコの字のため、上から確認するとどこにどう飲み屋があるのかがよくわからなかった。住人なら誰でも入れるという屋上も見せてもらった。一階の飲み屋街の欲望渦巻く喧騒が嘘のように屋上は静かで、周囲にも同じくらいのマンションが所狭しと立ち並んでおり、その一部屋一部屋に明かりが灯って生活が営まれていることが視認できる一方で、建物と建物の隙間からは駅前の数多の電光掲示板が漏れ見えて、都会の雑居マンションの趣きがかなり感じられた。雨ぱらつく曇り空だったこともあり、『ブレードランナー』っぽさもあった。街が何十年もかけて自然に生み出した『ブレードランナー』っぽさ。再開発されたエリアの取って付けたようなサイバーパンク演出とはまるで違う野生の感触があってとてもよかったが、しかし実際に人びとが暮らしているマンションに踏み入って「『ブレードランナー』っぽい」と述べることも、野暮ったい再開発の感性とそう変わらないのではないかと少し反省した。

 同居人から「手羽先が食べたい」という連絡が来ていたため、スーパーに寄って買って帰り、塩を振って焼いた。同居人にも左目の乾燥のことを伝えると「ドライアイなら目薬させば?」とやはりいわれた。

「きみは身体の不調があったとき、解決策がわかっていてもやろうとせず、しかし騒ぐというほどでもなく、ただぼそぼそとアピールしてくる」

 と指摘も受けた。

「たしかにね」

 と僕はいった。

 

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 連日洗濯をしすぎて、同居人に「洗濯おじさん」、通称「せんおじ」と呼ばれてしまった! おじさんのなかではわりといい部類なのではないかと思う。

 

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 ceroの新譜『e o』はおそらく難しいことをやっているのに非常に耳馴染みがよく、結婚式で食べる謎のコース料理のようだとも、Radioheadのようだとも思った。今回のceroも往年のRadioheadも、音楽的挑戦の以前にまず歌ものとしての強度があり、加えて共通点を述べるとするならば、髙城晶平もトム・ヨークも生楽器のような美しい情感がそのヴォーカルに込められているということで、それは心地よさに大きく寄与しているところだと思う(というか、髙城晶平の歌声はいつの間にこんなに艶っぽくなったのですか!)。

 新譜がとてもよかったなら前のアルバムも聴きたくなるという当然の流れに乗って、僕は『POLY LIFE MULTI SOUL』も再生した。「魚の骨 鳥の羽根」の冒頭のシンセサイザーが入ってくるところ(「ヴィーーーン」)は何度聴いても高揚感があり、妖しげな曲名も相まってぞくっと来るものがある。話は少し逸れるが、「魚の骨 鳥の羽根」、「琥珀色の街、上海蟹の朝」、『国境の南、太陽の西』というような、「◯◯の◯◯、◯◯の◯◯」という形式のタイトルには、ひとを高揚させる刺激物質のようなものがあらかじめ含まれているような気がしてならない。タイトルを見聞きするだけでわくわくしてしまう。しかし、もし僕がそういう曲を作るなら、

「脱ぎっぱなしの靴下、シミだらけのシャツ」

「腕っぷしのヤス、頭脳派のトシ」

「茄子の煮浸し、里芋の煮っころがし」

 となってしまい、わくわくは生まれない。

 ところで今日は同居人が首を寝違えてしまったらしく気の毒だった。同居人はいつもベッドに入ってからも横向きでスマホを見続けてそのまま寝落ちするスタイルなので、僕は常々「寝つきも目も悪くなるし、いいことがひとつもないからやめなよ」と指摘していたのだが、昨日の夜は珍しくベッドに入ってからはスマホを見ずに仰向けになって寝たそうで、それなのに首を寝違えてしまい、「じゃあやっぱりいつものスタイルが正しかったんだ」といって今日はまた横向きでスマホを見ている。

 

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 家のそばにあまり流行っていないそば屋がある。ひとが入っていないわりに焦るふうでもなく、月~水は夜営業せずに閉めているし、木~日の夜営業がある日にも、積極的にひとを呼び込むために店の外にのぼりなどを出すなどすればいいのにしていない。前に住んでいた部屋のそばにもそば屋があった。そっちのそば屋はいまの家のそばのそば屋より人気があるように見えたが、なくなってしまった。いまの家のそばのそば屋より人気があったってなくなってしまうのだから、いまの家のそばのそば屋の経営状況やいかに、と推し量ってしまいたくなるところだが、僕たちがいまの部屋に引っ越してきたときからいままでなくなっていないので余計な心配なのかもしれない。この世のすべてを手に入れた大海賊が道楽で経営しているのかもしれない。今日の夜は同居人とそのそば屋で食べた。鮎の天ぷらや茄子の揚げびたしの冷蕎麦など季節のメニューも気が利いているし、店員さんもいいひとたちだし、値段も高くない。だから僕たちはたまに行っている。去年の大晦日、紅白が始まる前に行ったら、同じことを考えているひとたちがいて珍しく満席だった。今日は僕たちの他には中年男性がひとりいるだけだった。

 同居人の首の寝違えは徐々に解消されつつあるようだったが、まだまだ予断を許さない状況であることには変わりないそうで、明日朝早く仕事に行かなければならないということもあり、早めに寝てしまった。同居人がソファに放りっぱなしにしていた田島列島『みちかとまり』一巻と井上雄彦SLAM DUNK』一巻を僕も読んだ。『みちかとまり』は民俗信仰的な話に子どもの無邪気さと残酷さが絡まり合い、田島列島らしい底知れなさを感じる物語で、読んでから喉がひっくひっくとなった。『SLAM DUNK』というのはあのスラムダンクで、同居人はもう人生で何度も読んでいるのだが、今回は水戸洋平に注目して読んでいるらしい。たしかに水戸洋平は桜木軍団のなかでも異質で、花道たちと共にふざけているようで、一歩離れて俯瞰で見ているようなところもあり、しかし俯瞰といってもその花道への眼差しには愛が込められていて、とにかくかっこいい人物なのだ。そのかっこよさはスラムダンクがまだギャグ漫画トーンだった一巻から既に発揮されている──と思いながらぱらぱらめくっていると、桜木花道流川楓が初めて対峙するシーンで、水戸洋平から発せられた「誰だオマエ!?」という問いに対して流川が「流川楓」と返していて、流川あんたそんないきなりフルネームで、やっぱり「楓」っていう名前自分でもかっこいいと思ってんじゃん~、ひゅ~!

 

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 五時に目が覚めてトイレに行った。尿意があって目が覚めたのではなく、自然に目が覚めたらちょうど尿意があったような感じだったため、もうそのまま起きてしまってもよかったが、ちょうど同じタイミングで目を覚ましていた同居人(僕のおぼろげな記憶だと、おそらく同居人が先に目を覚まし、それにつられた形で僕も目を開けてスマホを見たら五時だったのだ)に「調子乗ってない!?」とベッドのなかから声をかけられ、たしかに五時起床は僕たちにはまだ早い気がしたため、再度入眠した。八時過ぎに起きた。洗濯機とコーヒーメーカーを回し、昨日コンビニで買ったクリームパン五個入りを食べてから、『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』を粛々と進めた。進めたといってもただ時間が過ぎていっているだけで、ストーリー上はまだなにも展開がない。ただキノコや木の実を採取し、ときおり弓矢で鹿や狼を狩っている。ちょっと高い山があればてっぺんまで登り、「まだまだ世界は広いぞ……」と呟いて降りる。同居人と僕でコントローラーを交互に握るが、同居人はわりとするすると進もうとするタイプで、僕が横から

「そっちも見たほうがいいんじゃない?」

「さっきのところってちゃんと見た?」

「いまそれ使うのはもったいなくない?」

 などとかなりやかましい横槍を入れまくるため、すぐ嫌になってしまう。「じゃあきみがやりなよ」という同居人からコントローラーを受け取り、僕はなめなめとプレイする。ときに同居人が進んできたところを戻ってまで、なにか見逃しがないか確認したりする。それがまたうざがられる。

 今日はAmazonの荷物が届くだろうということで家にいたが、同居人は夕方から友だちとマリオの映画を観に行くために出かけ、だったら僕も、と思い、しびれを切らして外出した。僕も僕でマリオの映画を観ようと調べたが、新宿でIMAXで3Dの回しかちょうどいいのがなく、それだと料金が三千円近くするのと、新宿の喧しさのことを思うとなんだか気乗りせず、けっきょく散歩することにした。ちょうど気温もいい感じだったし、ceroの『e o』を聴きながら歩くのもよさそうに思えた。実際よかった。書肆侃侃房から新しく出た福田節郎というひとの『銭湯』という小説が気になっていて、大きめの本屋ならあるかもと思い青山ブックセンターを目指した。なかった。けっきょくなにも買わずに出て、表参道と原宿の間の細道を歩いた。美容室や服屋や隠れ家的飲食店や謎のサロンが並ぶおしゃれ細道なのに、なぜかうんちのようなにおいが強く漂っていて、表参道でもこういうことあるんだ、とウケた。渋谷まで歩いてから電車で帰ってきて、もう少しで同居人も帰ってきそうな時間だったのでマックで待った。ゴーゴリの『外套・鼻』を読んでいる。かなりおもしろい。話の脱線具合や小心者の物悲しさのようなものに後藤明生の『挾み撃ち』を思わせるものが強くあって、それは影響関係からすると当たり前なのだが、当たり前でもうれしいものはうれしい。

 同居人はマリオの映画を観てとても楽しかったらしく、帰ってきてからなにかしらゲームがやりたいということだったので、そうなるともちろん『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』である。しばらく楽しそうにやっていたが、僕がまた横槍を入れてしまい、あえなく終了となった。

夜景

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 どうせ値段が同じなら大きなのを選びたい、そしてピーラーでの剥きやすさを考えるとなるべく凹凸がなくちょっと細長いか平べったいかするのを選びたい、そうなると河原で水切りするための石の選び方に似てくる、というのが、僕がスーパーでバラ売りのじゃがいもを選ぶときに思うことだった。多摩川の河原ならぬピーコックの野菜コーナーに並ぶじゃがいもを吟味し、水切りによさそうなのを手に取り、肘から手首までをスウィングしてみて、これなら五バウンド、いや七バウンドはいけるな、と感じたものをカゴに入れるのだった。買って帰ったじゃがいもをいざピーラーで剥いてみると果たしてするすると剥くことができるのでこの選び方はうまく機能しているようだったが、ではそのじゃがいもで水切りしてみたらほんとに七バウンドもするのかどうかはわからない。僕は水切りが下手くそなので、凹凸がなくて平べったいほうが水切りしやすい、というのはうまいひとから聞いた話に過ぎなかった。じゃがいもを手に持ってスウィングしてみるのも、おそらくそんな感じで投げるのだろうというイメージでてきとうにやってみているに過ぎなかった。でも考えてみればそもそもべつに水切りとじゃがいもはまったく関係がないので、てきとうでかまわない。

 

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 夜中に雨の音で目が覚めた、あるいはふと目を覚ましたらすさまじい雨の音が聞こえた、のほうかもしれない、徐々に湿度の高い夜が増えてきて、昨日なんてそれでも涼しいほうだったと思うが、肌はじとっとシーツに張り付き、眠りはアスファルトの水たまりのように浅かった。何時だかわからなかった。とにかく夜中だった。雨は天井を突き破らんばかりに降っていて、隣の部屋の窓を開けっ放しにしていたので吹き込んでいないか少し心配になったが、それを確かめに行くための身体が起き上がらなかった。雨すごいね、と隣で寝る同居人に話しかけて、うん、と返事があったように思ったが、朝起きてから、雨すごかったね、とあらためていっても、へえ、としかいわないので、同居人は寝ていたか、それとも僕がそもそも話しかけていなかったのかもしれない、もっとそもそものことをいえば、そんな強い雨なんて降っていなかったかもしれない。夜中に五分だけ目を覚ますというのは、これくらいぼんやりしたものだ。

 Gia Margaretの"Romantic Piano"が素晴らしい。最高の梅雨にしようね、と思えるアルバムだ。

二〇二三年四月の日記(自選)

 四月に書いた日記のなかからいい部分を自選してまとめます。日付は省いています。

 

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 すべてを白っぽく光らせたような〝四月〟すぎる天気だったため、病み上がりとはいえ外に出ざるをえない。同居人が病院や歯医者に行くのに合わせて外に出て、待っている間はドトールで『季節の記憶』を読み進めた。ほんとうの春というのは、べつに屋外にいなくとも、ドトールで本を読んでいるときにすらしっかり陽気を感じられるのですごい。やはりすべてが白っぽいのだと思う。昼には家に帰って今日からNetflixで配信の『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』を観た。大瀧詠一細野晴臣の曲に被さる形で流れるサイケな映像も、ときどき入るまるちゃんのモノローグもよかった。一時間半の尺にも関わらずクラスメートの永沢くんや藤木くんのなにげない会話も漏らさずに描かれており、なんだかそれらも作者のさくらももこの思い出が語り直されているようでよかった。『フェイブルマンズ』もだけど、何が描かれているか、というところに、作り手が何を描きたいのかが表れる。それは当たり前か。夕方から軽く焼き肉を食べに外に出て(僕たちお得意のカジュアル焼き肉)、そのあと六本木のTOHOシネマズで『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』を観た。なぜか一番大きな7番スクリーンでやっていた。ボウイを浴びた。かなりコラージュ的で、伝記映画というよりは塊をぶつけられた感覚に近かった。何をやっても様になる、様になってしまう孤高なひとの姿があった。

割れ茶碗

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 仕事終わりに先週予約した整体に行って、背中に謎の注射をしてもらい、肩こりが楽になった。謎の注射というのは謎の注射で、半年くらい前にも打ってもらったときにおそらくきちんと説明されたはずなのだけどあまり把握していない。たしか水のようなものを筋肉と骨の間かどこかに注入して、くっついてしまっている部分を剥がすことでこり固まった感覚が軽減される、というようなことだった気がするが、ぜんぜん違うかもしれない。今日は診察室に入った瞬間に、

「久しぶりですね。

 肩こりました?

 頭痛くなった?

 じゃあ打ちますんで背中出してね」

 と僕がうむをいう間もなく打たれた。打たれるとたしかに楽になるのでおそらくいいのだろうが、筋肉注射なので打たれている最中は痛くて、しかし「痛い」などという雰囲気でもないので歯を食いしばる。よくわかっていない注射を背中に六箇所も打たれ、しかも背中なので針が触れるまでどこに打たれるのかもわからず、打たれたところでそこが背中のどこらへんなのかもよくわからない。背中というのは身体のなかでわりと広い面積を誇っているくせに自分では見えないし感覚も掴みにくい。不毛の地である。羽でも生えていたらまた違ったのだろうが、いまはまだ生えていない。終わったあと同居人に整体で注射を打ってもらった旨を話したら、「それって整体?」といわれ、たしかに整体というと人力のマッサージのイメージがあるのでもっともな疑問だったが、これは簡単な話で、僕が今日行ったのは整形外科で、僕が整形外科のことを整体と呼んでいたのでイメージのずれが生じたのでございます。言葉は正しく使うべし、というお話でございました。

 

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 Black Country, New Roadのライブに行った! 最高。超特大花まる大優勝です。まずそもそも演奏がうまくて曲もよくて、それだけでも優勝なのですが、ほんとにすごいと思ったのは、メンバー六人全員がそれぞれ自律した創造性を持ち寄って演奏していること。全員が自分の持ち味を最大限に発揮することが、同時にバンドの一体感を強めているという奇跡。それはおそらく、世界中を回ってライブをしながら曲を完成させてきたこの一年近くの彼らのプロセスそのものでもある。バンドそのものが生きている、と強く感じさせる最高の一時間でした。こんなにすごいのに、まだまだ成長途中だと感じられるのもまたすごい。興奮冷めやりません。BCNR, Friends Forever…

 

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 同居人の誕生日なので仕事のあと海鮮居酒屋に行って、とりあえず刺身の盛り合わせととろたくと鶏の唐揚げを頼んだら、唐揚げのひとつひとつが想像のふた回りほど大きく、それで満腹となってしまい、他の刺身や焼き魚を注文することなく、一時間も経たずにお会計となった。教訓;唐揚げの大きさは店によって違う。〝とりあえず〟で注文するべからず。

 

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 朝、同居人がものすごいしかめっ面をして寝ていたので、無事かどうか訊ねたら、寝ながらも「嫌な夢見てる」とちゃんと答えてきて、そのまましかめっ面は継続した。「嫌な夢見てる」と答えているあいだもその嫌な夢は続いているのか、それとも着ぐるみから顔だけ出して深呼吸するような一時停止状態になっているのか気になるが、もちろん本人は「嫌な夢見てる」と答えたことも僕が無事かどうか訊ねたことも覚えていないのでわからない。

 昼、仕事。

 夜、友だちとジムに行く約束をしていたので会社を出てから区民センターに向かった。友だちは室内履きを持っていなくて、外履きを靴箱に入れるふりをしてそのまま履く、という悪ガキスタイルで乗り切ろうとしたが、係員のひとに見つかってしまい、室内履き持ってないならだめですね、とあえなく帰らされてしまった。「厳しいね…」とLINEして僕はひとりでトレーニングをした。今日はJames Blakeの"The Colour in Anything"を聴いた。僕は鍛えたくてトレーニングをしているというわけでもないので、毎回やめどきがわからない。マシンをひととおりパカパカやって、とりあえず一時間経ったので切り上げて帰った。帰ったら同居人がスター・ウォーズのエピソード3を観ていて僕も合流した。同居人は、オビ=ワンがメンターとしてよくなかったのではないか、コミュニケーション不足だったのではないか、と指摘し、「だいたいユアン・マクレガーってそんなに強そうじゃなくない?」ともいっていて、ユアン・マクレガーがかわいそうだった。

 

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 恐怖! 風呂上がりパンいち皿洗い男、爆誕! 暑くてついパンいちで皿洗いをしてしまいました。四月なのに……

 

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 大学のサークル同期の結婚パーティーに行き、何年も会っていなかった友だちにも会えて話したり、クイズにぜんぜん正解できず景品にかすりもしなかったり、デザートビュッフェを取りに立ち上がるタイミングがわからなかったり、そういう、結婚式の類いに参加するたびにやるやつをやった。そしてこれまた毎度のことであるが、会場中がめでたさに包まれていてよかった。めでたいことなんて何回あってもいいですからね。サークル仲間で固められたテーブルで、結婚した同期のアホエピソードを振り返ったりして「そんなあいつが結婚を……」とみんなで感慨に浸っているときに、ひとりが「でもこういうパーティーで久しぶりに集まって も、けっきょく近況報告が済んだら、あとは昔の思い出を擦り続けるしかないんだね」と斜に構えた発言で水を差し、しかしそれはそれで「おまえまじで変わんないな」と別の思い出話に繋がるのだった。思い出話といっても、大学を出てからまだ十年も経っておらず、きっとこれからも続いていく人生で、うまくいけばこれからも何回か集まるであろう仲間たちのなかで語り直されるそれらはまだまだ鮮度が高く、わりと細部まで思い出して笑うことができるが、これが十年後集まったときには半ば思い出せないようになっているはずで、そのときにどういうふうに笑い合うことができるのだろうか、となんとなく先のことに思いを馳せるには結婚パーティーという場はなかなかふさわしい気がした。春のやわらかな日の光も感傷に拍車をかけた。帰ってきてから選挙に行って、ソニックマニアの入金を済ませ、同居人とその友だちたちと会った。同居人の友だちたちも結婚するらしい。ひとつひとつの結婚は個別のものであるが、「も」といってしまう。

いかつ雲

逆上がりを盛り上げろ!

 クラスのみんなが逆上がりを成功させていくなかで、一度もできていないのはとうとうゴロコちゃんと志の輔くんだけ。ゴロコちゃんには逆上がりのメカニズムがどうしても理解できなかった。志の輔くんはシンプルに腹筋がかなり弱かった。しかし生まれながらの努力家だった志の輔くんは、自らに腹筋一日五百回を課し、はんぺんのようだった腹筋をみるみるうちにワッフルのように変貌させた。「僕、今日は逆上がりできると思う」。ある夏の日の給食の終わり、そんな宣言と共にTシャツをたくし上げ、焼きたてのワッフルをちらっと見せた志の輔くんに、クラスみんな沸き立ち、一斉に校庭へ。鉄棒をしっかり握りしめて息を整える志の輔くんに、生唾ごくり。不格好に地面を蹴った足はやや前方に力がかかりすぎているように思われたが、鍛え上げた腹筋の力でどうにか持ち上げ、最後は一気にくるり。一拍遅れて沸き起こった歓声はそのまま志の輔コールに変わり、周囲の下級生まで巻き込んで昼休みじゅう校庭に鳴り響いたのだった。でも、そのとき、ほんとうはゴロコちゃんも逆上がりできるようになっていた。うちのほうがアピールが下手くそだったから盛り上げられなかったってわけ。もちろん志の輔くんは悪くない。すごいと思う。でも、うちの逆上がりには誰も注目してくれなかったの、ちょっとひどくない?

 とゴロコちゃんはいうのだった。

 小学三年生のときのそんな苦い思い出話を聞かされて、わたしは最初に「志の輔くんって、あの〝腹筋王〟志の輔?」と聞き返してしまった。サマリちゃんがいぶかしげにわたしを見た。

「うん」

 ゴロコちゃんがさほど気にする様子もなく答えてくれたので、いまが軌道修正のチャンスだとばかりに、「へえ、ゴロコちゃんあの志の輔と小学校同じなんだね。いや、でもゴロコちゃんに誰も注目してくれなかったっていうのはひどいね」とサマリちゃんがいった。

「まあ、たかが逆上がりの話なんだけどさ、志の輔くんがあんなに喝采浴びてたからなんか余計に寂しかったな」

「なるほど、志の輔ってやっぱり小学生のときからスターなんだね、なるほどなるほど、でもそれにしたって誰もってのはひどいなー、誰もかー、そうだ、いまから鉄棒探して逆上がりしようよ、あたしたち盛り上げるからさ」

 サマリちゃんもやはり志の輔のことが気になっているようで、それを取り繕おうとするために会話が変な方向に行っていた。でもわかるよ。わたしはもう〝腹筋王〟志の輔に思考のほぼすべてが支配されていて、ゴロコちゃんの逆上がりエピソードにかまう余裕がない。

 サマリちゃんの変な提案によって、わたしたちは鉄棒を探しに外に出なくてはならない。わたしもサマリちゃんも正直志の輔の話をもっと聞きたいし、そもそもいまさら逆上がりで盛り上がってゴロコちゃんはうれしいのか、とゴロコちゃんを見ると、よし、じゃあお会計しようか、と店員さんを呼んでいて、ややうきうきしているようにも見えるので、ならいいか。

 

 〝腹筋王〟志の輔がメディアに登場し始めたのはおよそ五年前のことだった。最初はおもしろ一般人みたいな感じで取り上げられ、トークバラエティーや、ときに単独での街ブラロケまでこなすうちに、あれよあれよという間に〝腹筋王〟としてお茶の間に定着していった。この時代にお茶の間なんてないか。リビング、湯舟、ベッドのなか、どこでもいいが、彼を映す画面があるところに定着していった。「とんでもない腹筋を持つ男性」。それが〝腹筋王〟という呼び名の由来だった。「っ」と「ん」と「おー」が入って絶妙に舌ざわりがいいうえに、まるで腹筋ひとつで一国一城の主まで昇りつめたかのようなコミカルなストーリーまで喚起される。完璧な名前だった。

 王という言葉の印象もあってか、彼は単なるおもしろの枠を超え、いつしかスター性を纏っていくようになった。彼の放つ言葉は、聞いたその場で感銘を覚えることはないものの、なんとなく含蓄があるような気がし、聞いた各人がそれぞれの心のなかで咀嚼するうちにゆっくり消えていった。彼がロケで訪れた店は、その後飛ぶように売れるということはないものの、なんとなく来客が増えたような気がし、売り上げなどの数字では測れない効果がありそうなのだった。短期的で一時的なインパクトを与えるのではなく、じんわりと残って、いつの間にか消えている。その掴みどころのない神秘性が、彼をスターへと押し上げた。

 彼の神秘性を一段と高めているのはその腹筋だった。「とんでもない腹筋を持つ男性」としてメディアに登場した当初から彼は、ただの一度も、その腹筋を見せたことがなかった。誰も見たことがなかった。彼が自らの腹筋に言及することもなかった。見せてもらえないかどんなに懇願されても、彼はくだんの神秘的な調子でやんわり断るのだった。腹筋を見るためならば強硬手段をも辞さない構えでいた者も、彼に断られるとまあいいかという気分になった。「まあ、とんでもないっていう噂なんだし、実際とんでもないんだろう」。火のない所に煙は立たぬ理論で、どうもとんでもない代物らしい、という噂だけがひとり歩きし、彼は〝腹筋王〟の地位を確固たるものにしていった。

 そんなわけで、志の輔の腹筋が実際どんなふうにとんでもないのかはこれまで誰も知り得なかった。〝腹筋王〟研究は完全に停滞しきっていた。しかしそんな業界に目覚めの一石を投じるのが、さっきのゴロコちゃんの話なのではないか──。わたしとサマリちゃん、特にサマリちゃんは興奮を抑えきれずにいた。だって、さっきの話だと、志の輔は努力でとんでもない腹筋を作り上げたってことじゃん? すごくない? てか小三で学校を沸かすレベルなら、そのあとどうなっちゃうのさ? てかゴロコちゃんって中学校とか高校とかも志の輔と一緒なのかな? てかゴロコちゃん地元どこだっけ? 口からトランプが飛び出すマジックみたいにサマリちゃんは次々と疑問を繰り出して、わたしに囁いてきた。

 わたしはそれらに相づちを打ちながらぼうっと歩いていた。

 外はえらく寒かった。

 わたしたち三人の鉄棒探しの隊列は、いつの間にか先頭ゴロコちゃん、その後ろに並列でサマリちゃんとわたし、というワントップ型になっていて、しかもあろうことか後ろのふたりはゴロコちゃん抜きでこそこそ話しているのだった。本来ならばわたしかサマリちゃんが前を歩いてもっと積極的に鉄棒を探し、ゴロコちゃんにきもちよく逆上がりさせてあげるべきはずだった。それなのにゴロコちゃん前を歩かされていてかわいそうだな、とわたしも頭の隅ではわかるものの、思考のほとんどが腹筋王に支配されており、そこに寒さも加わって、なかなか動き出すことができない。だいたい、わたしたちが歩いているのはラブのホテル街で、こんなネオンひしめくなかに鉄棒なんてあるのかいな、とわたしは頭の隅で思うが、それを指摘することもできない。ゴロコちゃんはずんずん進んでいた。わたしとサマリちゃんはただただ足を動かしていた。

 

 しかし意外なことに、そのホテル街のなかに鉄棒はあった。ホテルとクラブに挟まれた小さな緩衝地帯のような一ブロックに、鉄棒がひとつぽつんと立って、黄色と桃色のネオンを受けて鈍く光っていた。うちここに鉄棒あるって知ってたんだよね、とゴロコちゃんがいった。なんであるんだろうね、酔い醒ましで回ったりするのかな、とゴロコちゃんがいった。うわ、冷た、とゴロコちゃんがいった。てか、うち、鉄棒さわるの超久しぶりだ、とゴロコちゃんがいった。わたしとサマリちゃんはそのあいだずっとぼうっとしていた。わたしとサマリちゃんがようやく目を覚ましたのは、ためらいがちに鉄棒を握りしめたゴロコちゃんが、すごい速さでぐるぐる逆上がりしはじめたときだった。

 ゴロコちゃんは回り続けていた。わたしが目を覚ましたときにはおそらく連続でもう五回転か六回転はしていて、それでも勢いは衰えるどころか、むしろいよいよ増してゆくように見えるのだった。わたしたちは

「ゴロコちゃん……」

 とだけいって、しばらく唖然としていたが、その唖然としているあいだにもゴロコちゃんは回り続けていた。わたしはいったん止まって説明してほしいと思う一方で、でもこういうのって一度波に乗れたらなるべく止めずに続けたいもんね、と妙に寄り添う気持ちもあり、どう声をかけようか決めあぐねているそのあいだにもゴロコちゃんは回り続けていた。わたしたちがどうしようと、たぶんゴロコちゃんは回り続ける。そうなるとわたしたちとしては当初の目的である盛り上げに徹するしかなかった。

「すごい」

「すごすぎる」

「回りすぎじゃない?」

「そういうボケかと思ったけど、顔がマジそのものだね」

「何回転した?」

「どっち回りかもわからなくなってきた」

「盛り上げ方も正直よくわからない」

「いい意味でね」

 盛り上げ方がわからない、に、いい意味なんてない。

 そして、すべてのものごとには終わりがある。ゴロコちゃんの逆上がりもその例外ではなかった。わたしたちがけっきょく盛り上げきれないまま、ゴロコちゃんはふと回転を止めてしまった。息ひとつ切らしていないゴロコちゃんはわたしたちの盛り上げ失敗など気にしていないふうだったが、そんなゴロコちゃんに甘えるのもよくないと思い、わたしはとりあえず

「ゴロコちゃん、ごめん」

 といった。

「ううん」

「でもすごかったよ」

「マジですごかった。てか、小三のときもゴロコちゃんがすごすぎてみんな盛り上がり方がわからなかったんじゃないの」

 とサマリちゃんがいった。これはかなり気が利いているとわたしは思った。盛り上がり方がわからない、をいい意味で使えていて、さすがサマリちゃん、とわたしは思った。

「そんなことないよ。うちらの小学校、みんなこれくらいできたし」 

「あ、そうなんだ」

 気が利いているかのように思えたサマリちゃんの言葉だったが、みんなできたのなら仕方ない。ゴロコちゃんも笑いながらいっていたし、わたしもサマリちゃんも、あーそうなんだなるほどねー、とへらへらしていたが、場の空気はしんみりしてしまった。

 

 うちもうちょっと逆上がりしていくね、というゴロコちゃんを置いて、わたしとサマリちゃんは緩衝地帯を後にした。盛り上げに失敗したうえにしんみりした空気にしてしまったのはわたしたちなので、ゴロコちゃんが逆上がりしているのを待って、一緒に帰るべきなのではないか、とわたしは思ったが、サマリちゃんいわく、今日はそっとしておいたほうがいいらしい。そこの塩梅がわたしにはまだわかっていない。ホテル街の細い道を曲がって、ぐるぐる回転するゴロコちゃんの姿が見えなくなると、サマリちゃんが「てかさ」と口を開いたので、さっき失敗しちゃったね、という話が始まるのかと思いきや、

「てかさ、ゴロコちゃんの小学校の子、みんなあれできるんだったら、みんな腹筋すごいってことかな? だって逆上がりってほぼ腹筋じゃん? そのなかでいったら志の輔の腹筋もふつうなのかな? どういう地域? あ、てか志の輔が腹筋見せたがらないのって、志の輔の腹筋なんて地元じゃたいしたことないからかな? 謙遜ってことかな? ゴロコちゃんが志の輔のこと話したのって、志の輔の腹筋なんて地元じゃたいしたことないんだってことを暗に伝えたかったからかな?」

 と怒涛の考察が展開されたので、わたしは「ああ」と相づちを打ちながら、サマリちゃん、考察を話すためにゴロコちゃんを置いてきたのかいな、と思い、考察が一段落したタイミングで「やっぱり戻ろうよ」といった。サマリちゃんが「それもそうだね」というので、わたしたちは歩いた道を引き返し、さっきの緩衝地帯に戻った。ゴロコちゃんの逆上がりはますます速さを増していて、周りのホテルのネオンを反射して光の車輪みたいになっていた。それがはたしてゴロコちゃんなのかどうかももうわからなかった。日も沈んでますます寒くなっていたけれど、光の車輪のそばはほんのりあたたかいような気がした。わたしとサマリちゃんはどちらからともなくその場に体育座りして、どちらともなく手を前にかざして焚火の体勢をとった。サマリちゃんが「あったかいね」といって、わたしは「あったかいね」といった。そうしてわたしたちはいつまでも回る光の車輪を見ている。

小指に風

 河川敷の空気は澄んでいる感じがする。半分乾いたような草のにおいも、川の流れも、向こうの陸橋を走る電車の乾いた音も胸に迫ってくる。それらをまとめて、苦しくなるほど吸い込むのがジゴロウは好きだった。苦しさのなかにこそときおり生の実感が宿る、ということをジゴロウは小学五年生にして知っていた。ハミスケくんもそのことを知っていた。そんなませた小学五年生どうしで結成したのが漫才コンビ・小指に風だった。

 公園だと他の子たちも遊んでいて恥ずかしいから、ネタ合わせは河川敷でやるようにしていた。「人前に出してもいいレベルんなったら、公園行こな」とハミスケくんはいった。漫才というのは関西弁でなされるべきである、という観念がハミスケくんにはあるらしく、生粋の千葉生まれ千葉育ちにも関わらず、ジゴロウとふたりきりになると関西弁を使った。関東弁でもいい漫才はたくさんあるとジゴロウは知っていたが、ハミスケくんにネタを書いてもらっている手前、「そうだね」というしかなかった。

「転校生のネタの最後、先生が怒って窓から飛び降りてまう、っていうオチにしようと思うねんけど、どやろか」

「急に怖くないかな、いいのかな」

「笑いっていうのは緊張と緩和やねん」

「じゃあいいのかな」

 ハミスケくんは緊張と緩和というのをどこかで聞いてきていらい、ことあるごとに使っていた。ジゴロウは緩和という言葉をよく知らないが、冬の寒い日に体育館から教室に戻ったときに、頬のこわばりがだんだんほどけていくような感じのことだろうと推測している。でもハミスケくん、そのオチだと緊張だけで緩和がないまま終わっちゃわないかな、とジゴロウは思うが、ハミスケくんにネタを書いてもらっている手前、「なるほどね」と小さく呟くしかできない。ハミスケくんは「なるほどねてなんやねん」と空手チョップでツッコんで、「ほなオチ変えて一回合わせてみよか」ともういきなり合わせるムードに持っていく。「そ、それは急じゃないかな」というジゴロウだが、その自信なさげな表情とは裏腹に、驚くほど口が回る。さっき思いきり吸い込んだ河川敷の空気を、丸ごと吐き出すかのようにジゴロウはボケ続ける。ハミスケくんの新しい提案どおり、怒った先生が窓から飛び降りてネタはとうとつな幕切れを迎える。河川敷がしんと静まりかえる。ジゴロウの真に迫った怒りの表現はハミスケくんの想定をはるかに超えて身体の芯から震えさせる。

 そんなふうにできればかっこよかっただろうな、とジゴロウは思う。実際は自信のなさがネタにそのまま表れ、先生も最後中途半端な感じで飛び降りて、緊張なのか緩和なのかどっちつかずになる。「すまん、やっぱ元に戻そか」とハミスケくんがいい、ジゴロウは申し訳ないと思う。そんなふうにハミスケくんに気を使わせてしまったこと、ハミスケくんが思い描いていたであろう形に持っていけなかったこと、小指に風がこの後もいい形に仕上がらず、けっきょく公園のみんなの前で漫才を披露する段階まで行けないこと、それでもハミスケくんがジゴロウの成長を信じて中学三年生までコンビを組み続けてくれること、そんなハミスケくんのことを一瞬でもうざいと思ってしまうこと、いろいろなことを、ジゴロウは申し訳ないと思う。ハミスケくんからしてみれば、ジゴロウと一緒に小指に風として過ごした時間もかけがえのないもので、ジゴロウが申し訳なく思う必要なんて少しもないのだが、しかしジゴロウがハミスケくんのことをうざいと思っていたと知ったときにはさすがに怒る。「それはちゃうやろ」とハミスケくんはいう。その怒りを燃料に変えて、やがてハミスケくんは峠の走り屋になる。相変わらず緊張だけで緩和のないひとだ、とジゴロウは思う。