バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二三年八月の日記

8/1

 昼頃に大雨が降った。オフィスから見えるあたり一帯にあっという間に雲がかかって、「ああ、これは降りそ」くらいでもう降り始めた。少し離れたところのビル群は跡形もないほどに見えなくなってしまった。ここ数週間晴れすぎていたことを逆説的に思い起こさせるほどに雨は降りしきった。さらにすごいのは雷だった。

 雷だ!

 なのに僕はそしらぬ顔でパソコンに向かい続け、ときおり特に大きな雷鳴が聞こえたときに「おお、すごいですね」と誰にでもなくつぶやくだけだった。ほんとうならすぐにでもエレベーターに乗って、あるいはエレベーターが遅くてなかなか来ないなら階段を駆け下りでもしてビルの外に飛び出し、

「雨すげー!」

「雷すげー!」

 となりふり構わず騒ぐべきだった。そういう心を持つことと仕事をすることは両立するのだと、他の誰でもなくまず僕自身に示すべきだった。しかし僕は自分の席を離れずに「おお、すごいですね」というだけだった。そのあと僕がトイレに行っている間に、雨は降り始めと同様に一瞬で止んで、雲はどこかに消え、遠くのビル群も復活した。トイレから戻ってきたら窓の外の景色が一変していて、僕は「おお、止んだんですね」とまた誰にでもなくつぶやいた。

 ところで、Big Thiefの新曲"Vampire Empire"が素晴らしくて何度も聴いている。去年ライブに行ったときに強く感じた〝音楽が生まれる瞬間〟のようなものを極めて的確に捉えた三分間に感動している。

 

8/2

 仕事で大阪に行った。大阪は東京同様暑くて汗をどばどばかいた。しかし大阪でどばどばかく汗は東京でどばどばかく汗より許容できる気がし、それが遠出しているからなのか、それとも大阪という地の持つ雰囲気によるものなのか……、といっても僕は大阪のことをよく知らないので、「大阪という地の持つ雰囲気」なんて勝手なことをいうのは──仮に実際にそういう雰囲気があるとしても──かなり失礼なことだ。失礼しました。とにかく汗をかいて日に焼けて疲れた。帰りはうとうとしながらも、僕はどうも新幹線というものが好きで、とりわけ東海道新幹線の、特に名古屋~京都~大阪間の風景にはどうしても目をとられてしまう。すさまじい速度で走り去っていく田園たちと、遠くの山々、暮れなずむ空、家々、車、街の灯り。そんな景色を眺めているうちに、昨日に引き続き今日も訪れたのだ、突如として降り始め、あっという間に止む最高の雨が! そのあと夜空に現れた月のでかさ!

 

8/3

 ところで昨日は大阪から帰ってきたその足で都内のまた別の会社のオフィスにお邪魔し、そのあと一緒に大阪に行ったメンバーに会社の先輩を交えて焼き鳥屋に行き、なんかこれってすげえ社会人って感じじゃねえ!?とひとり感慨に浸っていたのだが、もちろんそのことは飲みの席ではいっていない。焼き鳥屋では僕たちの誰かがコーラやコークハイを注文するたびに店員のおばさんが「うちのコーラは瓶だからね、やっぱり瓶だとおいしいでしょ」と瓶コーラのよさを力説してくれ、しかしもちろんグラスに注いで飲むので違いは正直わからない。それでも「あー瓶だ、瓶いいですねえ」となんとなくで会話をするのは楽しくて、テーブルにはコーラの空瓶がたまっていった。おばさんはとても調子がいい。これね、卵焼きも四人分に切ってありますから、箸で取ってくださいね、で、この大根おろしにちょっと醤油かけて一緒に食べてください、いまかけちゃいましょうかね醤油、ほら、これくらいですね、それでこれくらい取って、一緒にお皿によそってください。あー、ありがとうございますと受け取った卵焼きはえらくやわらかくて、他の誰も言及していなかったが僕はいたく感動していた。僕が去年一ヶ月ほど作っていた卵焼きとはやわらかさの次元が違った、という表現はどうも軽薄な感じがしてあまり使いたくないのだが、ほんとにおそらく次元が違った。僕はおそらく卵焼きというものを二次元的にしか作れていなかったのだろう。僕は卵焼き器のうえにいかに卵を均一に広げるかということばかりにフォーカスしていて、広げた卵をいかに巻くかという三次元的な段階にたいしてまるでこだわれていなかったのだ。卵焼きの本質は〝巻き〟にある。そんな大切なことを、昨日の焼き鳥屋の卵焼きは教えてくれた気がしました。僕もまたいつか、やわらかな卵焼きを作りたいと思いました。

 

8/4

 金曜ロードショーで『カールじいさんの空飛ぶ家』を観た。愛する妻を亡くしたカールじいさんが家に信じられないほどの風船をくくりつけて空に飛ばすまでのテンポがかなりよく、奇想文学っぽさを感じてわくわくした。後半はいかにもファミリーアニメっぽくまとまり、それはそれでぜんぜんおもしろかったが、序盤のノリが最後まで続いてどこまでも家が飛び続けるバージョンも観てみたかった。

 

8/5

 朝、「せっかく土曜だから」という理由でなぜか七時くらいに同居人に起こされ、そのままコーヒーを作らされ、一緒にパンを食べ、そのあと同居人は寝た。僕は釈然としないまま、かつしかけいた『東東京区区』を読んだ。生まれも育ちも異なる三人が偶然出会い、葛飾区立石を中心に柴又や小岩のほうを散歩する漫画で、土地ごとの持つ歴史や記憶がノスタルジーに寄りすぎずに描かれるのがよかった。早く秋になってほしいと思った。早く秋に散歩したい。「日暮れるの早くなったねえ」といいたい。「おやおや、すっかり葉が赤くなって」といいたい。趣味は?と聞かれたら「散歩」と答えているが、正しくは「秋の散歩」かもしれない。そのあと、バルガス=リョサ『緑の家』の上巻を読み終えて下巻に突入した。上巻の表紙は美しく妖しい緑のジャングルの写真だったが、下巻の表紙はセピア色で、しかしよく見るまでもなく実はそれは上巻の表紙の写真の色味を調整しただけのものなのだった。たしか映画の『ブレードランナー』でも同じ背景絵が使い回されているシーンがあって、観たときに「あ、いいんだ」と思ったことを思い出した。

 僕と同居人が以前アイウェア(とあえて呼ぼう)を作った下北沢の店で、同居人の友だちもアイウェアを作り、レンズが入ってできあがったものを今日取りに行くというので同行した。僕もついでにアイウェアの調整をしてもらうつもりで行ったら、思いがけず鼻あてもおニューなものに交換していただけてありがたかった。新しい鼻あては透明感抜群で、むしろそれまでついていた鼻あてがどれだけ黄ばんでいたかが浮き彫りになった。そのあとアイウェアお祝いで焼き肉を食べた。

 夜は『HEARTSTOPPER ハートストッパー』のシーズン2を見進めた。本筋とは関係ないが、(いろんな事情や感情の波はあれど)ぜんぜん学校の課題をやろうとしない主人公にたいして、「早く課題やりなさいよ!」と思ってしまって、我ながらうるさかった。

 

8/6

 八時半くらいに起きて洗濯してから、家の近くの定食屋的なところで朝食を食べ、そのまま渋谷に行ってヒカリエで同居人の財布を買い、ユーロスペースで『トルテュ島の遭難者たち』の午後の上映回のチケットを買い(僕はいちおう映画美学校の受講生になったのでなんと九百円で観られる!)、道玄坂上のコメダ珈琲店(穴場)でみそカツパンを食べて少し本を読んで時間をつぶした。みそカツパンはめちゃくちゃでかくてウケた。「コメダのパンがめちゃくちゃでかくて笑う」なんてお決まりで陳腐な流れなのに、そっくりそのままやってしまって悔しかった。陳腐なことをしたり思ったりするのが恥ずかしいときと、逆に陳腐なことをまっすぐやりたいときがある。夏だから車で海に行きたい。秋には散歩をしたい。そういう陳腐は愛したい。

 ジャック・ロジエ『トルテュ島の遭難者たち』は愛すべき最高のグダグダ映画でほんとによかった。あ、ヴァカンスってこれでいいんだ、映画ってこれでいいんだ、という瞬間が常に訪れ続け、かと思えば急に現れる美しい瞬間に息をのまされる。グダグダといっても、いろんな計画や思惑が重なった結果としてすれ違いが発生するパターンと、なにも考えず行き当たりばったり的に行動して当然そのままなにもうまくいかずに終わるというパターンがあり、前者をブラックコメディ的に描くような作品はよくあるような気がするが、『トルテュ島の遭難者たち』は後者のようなノープラン系グダグダを描いたうえできちんとおもしろくしているのがすごいと思った。

 そのおもしろさというのも実は脚本や編集の妙によって成り立っていて、まず冒頭のグダグダな浮気シーンによって、主人公ボナヴァンチュールの行き当たりばったり性がはっきりとこちらに伝わってくるのがうまい。それでいてその一連のシーンが本筋とはまるで関係ない、というところにツッコミしろを残している感じもよい。そういうツッコミしろが残されたまま物語は進み、たとえば、旅行会社で働くボナヴァンチュールとその同僚・太っちょノノがカリブへと現地調査に向かわされるシーン。現地行きを命じられたノノは会社の廊下で「来月結婚なのに、このままだと婚約破棄か失職だ!」とわめく。しかしそのあとノノがどうしたかは示されず、すぐに空港のシーンへと切り替わる。空港にはノノの弟(プティ・ノノ)が待っていて、ボナヴァンチュールにたいして「兄は行かず、僕が代わりに行くことになりましたと」と搭乗十分前に告げる。のんきにトイレから出てきた太っちょノノをボナヴァンチュールが問い詰めると、太っちょノノは「でも母の具合が悪いし……」と結婚云々とはまた違う理由をいう、というところでまた場面が切り替わって、ラフなTシャツ姿に着替えたプティ・ノノが現れ、観ている僕たちは、ああ、けっきょくボナヴァンチュールとプティ・ノノでカリブに来たのね、と知る。シーンとシーンの繋ぎを飛ばすのはいかにもヌーヴェルヴァーグ的な手法なのだろうが、ジャック・ロジエはそれをユーモラスに使いこなしている感じがあり、またその編集のリズムによってグダグダをおもしろく見せていてすごい。

 とめどないグダグダの末に、観ている僕たちまでヴァカンスに行ったような気になれたので、ある意味では正しいヴァカンス映画だったともいえよう。あそこまでひどくないけど旅行なんてグダグダになるものだもんね、といいながら同居人と帰った。帰ったらまだ甲子園がやっていて、仙台育英浦和学院の試合は日が沈んでからもかなり白熱していて見入ってしまった。

 ちなみに、『トルテュ島』の劇中でボナヴァンチュールらが乗る船に船員として搭乗しているひとのパーカッション技術が端役にしてはすごかったので後で調べたらナナ・ヴァスコンセロスという有名な方だったそうで、いまアルバムを聴いている。すごいひとだと知って安心した。

担当者が不安になって補足したのかもしれない

 

8/7

 昨日に引き続き『トルテュ島の遭難者たち』のいいところを挙げると、なんといっても映画全体に〝なかなか行かない〟というボケが貫徹されていたところだと思う。映画序盤で「無人島でロビンソン・クルーソーみたいに暮らしてみよう」という旅行プランを思いついたまではいいが、そのあと実際にカリブに行くまでのくだりからしてグダグダでなし崩し的だし、カリブに着いてからはそもそも海辺に行くのすら時間がかかり、ようやく出港して目的の島の目の前まで来ても、「船で乗りつけてしまっては、ロビンソン・クルーソーみたいに遭難したとはいえない。荷物は捨てるべきだし、泳いで渡るべきだ」という謎の主張によって、いつまで経っても上陸しようとしない。ようやく上陸したかと思えば、実は島の反対側には当たり前のように人里があり、結局遭難せずに旅は終わる。一般的に、どこかからどこかへと行くことで物語を展開させるのが映画というものだとすれば、行くべきところがすぐ目の前に見えているのになかなか行かないというのは反映画的だし、その点でヌーヴェルヴァーグの精神を体現していたのかもしれない。

 ところでさいきんの〝なかなか行かない〟映画といえば『君たちはどう生きるか』を忘れてはならない。映画の前半、眞人くんはアオサギによる異世界への誘いを無視し続ける。『もののけ姫』のアシタカがタタリ神に呪われたその夜に村を発ったのと比べれば、これはかなり〝なかなか行かない〟部類に入るといえるのではないだろうか。あの遅さが宮崎駿作品にしては新鮮な気がして、それも僕が『君たちはどう生きるか』をいいと思った点のひとつなのだった。……ということを思い出して、もう一度観に行きたくなっている。(こう書いてみるとどうも僕は〝なかなか行かない〟映画というものが好きなようだ。でもこの〝なかなか行かない〟というのにも絶妙な塩梅があって、けっきょく最後には行く、というのが重要だと思う。最後まで行かない、というボケももちろん考えられるしそれはそれで笑えるのかもしれないけど、けっきょく最後には行く話のほうが好きだと思える。物語の盛り上がりのことを考えてそう思うわけではなく、けっきょく行くことにするほうが物語の作り方として勇気があると思うからだ。これはまだよくわからない話なので、かっこ書きにしておきます。)

 

8/8

 普段からよく泣く同居人だが、ここさいきんいよいよずびずびになってきてしまい、ほんとにちょっとしたことで泣いてしまうらしい。とりあえず早めに寝ることをおすすめした。目元を冷やすと次の日腫れにくいっぽいので、保冷剤をタオルで包んで目の上から被せたが、あっという間に外れてしまっていた。なぜかベッドに斜めに寝ていて、僕の寝るスペースがなくなっており、どうしようか思案に暮れている。

 

8/9

 今日は雨が降ったらしくて会社を出たら道が濡れていた。どんな雨だったのかはわからない。ただ雨が降ったであろう痕跡として濡れた道があった。夏の雨は気温を下げてくれるのでうれしい。今日も比較的涼しくなっていてうれしかった。でも夏の雨上がりの常として肌にまとわりつくような湿気があり、歩いているうちに前腕や手のひらにうっすら付着してくる水分が、身体から滲み出した汗なのか、それとも空気中の蒸気が凝結したものなのか判別しがたい。

 もう家に帰るだけでいいという僕自身の状況が、その湿気をぎりぎり不快に思わせない。

 夏の雨上がりの常として、──という書き出しで言及できることがもうひとつあって、それは匂いだ。夏の雨上がりには草の匂いがする。でもそれがほんとうに草の匂いなのかどうかを確かめたことはない。記憶とすら呼べないような幼少期のものすごくおぼろげな感覚や、その匂いがしたときにたまたま近くに茂みがあったみたいな状況からそう判断しているに過ぎない。ぜんぜん草の匂いでもなんでもなくて、なんならアスファルトの匂いかもしれない。ごみの匂いかもしれない。とにかく夏の雨上がりに漂うその匂いを僕は胸いっぱいに吸い込むのです。

 

8/10

 明日から休みなのでハーゲンダッツを買って帰った。「ハーゲンダッツ買ってきたよ」というと同居人が「わたしハーゲンダッツにそんなに思い入れないけど、『ハーゲンダッツ買ってきたよ』ってかなりうれしい言葉だね」といってくれてたしかにそのとおりだと思った。シャワーを浴びてから食べようと思って冷凍庫に入れ、そのまま今日は食べ忘れて歯を磨いてしまった。

 

8/11

 朝、同居人の友だちがやってきて、同居人と共にプールに行った。僕は部屋の片付けをしたり甲子園を見たりして過ごした。部屋を片付けながら空気階段のラジオ(もぐらがずっと『首』のたけしの「あなたこそ跡取りなのに、なあ」の物真似にハマっていてウケる)やNonameさんの新譜(おそろしくいい)を流した。そのうち同居人たちが帰ってきて、そのまま三人でお昼を食べに出た。同居人の友だちは都内の区民プールを巡っているそうで、プールのあとのご飯含めていまのところ品川区や練馬区のプールがよかったという。各地のプールとご飯を訪ね歩くなんて、エッセイマンガにしてヒットしてテレ東でドラマ化される流れじゃんと思った。

 友だちが帰ったあと、僕と同居人は『バービー』を観に行った。といっても同居人は会社の同期と観るというので、僕は僕で別の映画館でひとりで観た。映画館にはピンクの服のご機嫌なひとが多くてよかった。『バービー』は内容もさることながら、主人公がひたすら逡巡する様がよくて、やはり『フランシス・ハ』のグレタ・ガーウィグノア・バームバックだ……と感涙した。ただ、映像のノリや内輪寄りのユーモアはついていけるかいけないかギリギリのラインだった。ライアン・ゴズリングがケンをマンキンで演じてくれていたためにどうにか成り立っていたバランスだと思う。ここさいきんXことTwitterで見かけていた、いろんな映画の海辺にいる人物の写真に"his/her job is beach."とキャプションがついているミームの元ネタがわかったのはよかった。全編を通じてミーム化を促す作りだったし、そういう意味でも現代的な映画だった(し、くだんの問題が起きたのも理解できてしまう感じがあった)。

 映画館を出ると歩けなくもない気温だったので渋谷のほうまで歩いた。こないだの『トルテュ島の遭難者たち』に出ていたナナ・ヴァスコンセロスのレコードがないか渋谷で少し探したが見つからず。電車で家の近くまで戻ってうどんを食べ、同居人もそろそろ帰ってきそうだったのでサンマルクで『緑の家』を読んで待った。『バービー』で語られていた〝男社会〟という言葉に照らして考えれば『緑の家』に出てくる人間関係は圧倒的な男性優位の世界であり、しかしそれは資本主義とか高層ビルとか時計や馬とか取締役会とかそういう『バービー』で描かれていたアメリカ的な表象とはまるで違う。そう考えると『バービー』は実にアメリカ的な、資本主義的な文脈のフェミニズム映画だといえて、アメリカ国内でヒットするのもなんとなくわかる。

 

8/12

 朝からテレビで甲子園を流したり"HOSONO HOUSE"のレコードを流したりしながら『緑の家』を読み進め、眠くなったら寝、三十分くらい経ったところでテレビから出る打球音や同居人の呼びかけで起こされる、そういう感じで夕方まで過ごした。そのあと友だちとジムに行った。今日は隣の区の行ったことのない区民ジムに行ってみたが、お盆だからか空いていてよかった。僕がふだん行っているジムとはマシンの仕様が少し違っており、しかしそれでもやり方がわかればすんなりできて、中高の数学の授業で別解を教わったときみたいだった。中高の数学の授業以来聞いたことも使ったこともない言葉、「別解」。いや、使ったことはある。大学生のときに個別指導塾のバイトをしていて、生徒たちに偉そうに「じゃあいまの問題の別解も考えてみようか」などといっていたのだった。でもこういう話は一日を振り返って日記を書いているいまだからこそ思い当たる話であって、トレーニング中にはなにも考えていない。トレーニング中にはソニックマニアの予習としてオウテカを聴いていた。オウテカは高校生の頃に一度聴いて挫折した。高校の図書室のCDコーナーで借りたのだった。中学三年生のときのギターの授業で先生がロック史の講義をしてくれて、その流れで「高校の図書室にはけっこうCD置いてあるから、自由に借りてくださいね」といってくれていたので僕は喜んで借りていたのだが、借りていたのは学校中で僕含めてたった数人だった。せっかく自由に借りてくださいねといってくれたのに! その数人のなかには同じソフトテニス部のひとつ下の後輩もひとりいて、その後輩とはソフトテニスよりむしろ音楽の話題を通じて仲よくなった。僕も彼もソフトテニスにはあまり思い入れがなかった。だからこそ逆にいまでもたまに会うような付き合いが続いている。高校の図書室や、西日暮里、柏、最寄り駅のTSUTAYAが高校生の僕にとっての音楽を広げ、大学生になるとそこに渋谷図書館や渋谷のTSUTAYAが加わり、音楽も映画もたくさん借りた。渋谷図書館はいつしか閉館した。渋谷のTSUTAYAもレンタル事業をやめるらしい。地元のTSUTAYAはいつの間にかDAISOになっていた。いや同じローマ字だけれども。高校の図書室は、たぶんまだある。図書室で借りたオウテカは"Confield"というアルバムで、いま考えると、当時まだレディオヘッドの"Kid A"も聴き馴染めていないガキんちょだった僕が入門として聴くにはいささか難しすぎたのではないか。いまでも難しい。でもオウテカでも聴きやすい部類のアルバムもあって、今日聴いた二〇一〇年の"Outsteps"というアルバムはわりとメロディもあってよかった。

 ジムのあとは少し散歩して本屋も覗いたりしてから友だちと解散した。家に帰ると同居人が、僕が家を出たときと同じ姿勢でソファに寝転がっていて、千代に八千代に……と思った。ディズニープラスでクドカン脚本の『季節のない街』を見進めた。東日本大震災から十二年経った仮設住宅の街を舞台に、いろんな人間の話をしていて、こういう話を一話三十分ない尺でさくさく見せてしまうクドカンの手腕におそろしさを感じる。かなり真摯に描かれた話だと思ったが、ひとつだけこの尺でこの展開はよくないよと思ったところがあって、今日はそこまででいったん見るのをやめた。

 

8/13

 朝から日比谷に行って、日比谷シャンテの一階のパン屋でパンを食べ、TOHOシネマズシャンテで『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を観た。初めて観る同居人に、事前に知っておいたほうがいいことがあるかといわれ、「主人公が小四と呼ばれているが、これは小学四年生のことではなく、こういう名前である」と伝えておいた。役に立ったでしょうか。

 シャンテの小さめの座席で四時間トイレに行かずに座っていられるか、集中して観ていられるか不安だったが、なんのなんの、あっという間に幸福な四時間が過ぎ去って、観ている途中から、以前観たときもあっという間だったことを思い出した。どうしてあっという間なのかというと、まず全編を通じてショットがバキバキにキマッているのと、劇伴はほとんどないながらも常になにかしらの音が鳴り、誰かしらが画面のなかで動いているということが徹底され、映画を観る喜びに満ちているからに違いない。ひとを四時間座らせ、集中させ、楽しませるというのはそれだけで想像もつかないほど難しいことのはずなのに、『クーリンチェ』はそれを達成してしまっている。ではそんな困難を乗り越え、わざわざ四時間の映画を作ってまでエドワード・ヤンが描きたかった物語とはなんなのかということを考えたときに、そもそもこの映画は物語を描いているのではなく、世界そのものを描いているのではないか、と思わされる。この映画から〝本筋〟と呼べるようなものを抽出し、シンプルにそれだけを描いたとすれば、ほんとは二時間とか、もっといえば一時間半とかでも十分だったかもしれない。しかし今日僕が観させられた四時間のなかから実際にどこを削るかと問われれば、僕は答えに窮してしまう。〝本筋〟とは関係なさそうなシーンは思い浮かぶ。でもそれを削ってしまうことは考えられない。そう感じさせられることが、この映画が物語ではなく世界を描いている証左だと思うのだ。もちろんこの四時間が世界のすべてというわけではないが、少なくともその一端には触れている、そんな感覚が、眩しい昼の光と冷たい夜の影のなかに宿っている。……なんてふうに書くとパンフレットの濱口竜介の言葉と少し似てしまうのだが、僕もこのように思ったのだから仕方がない。ハマリュウ、すみません。

 しかしさすがに四時間の映画を全集中して観たあとにはちゃんと疲れを感じ、加えて息もできないほどの湿気に満ちた身体に悪い気候だったので、映画を観たあとは直帰してぼんやりゆっくり過ごした。ぼんやりするのはいい。盆休みにも「ぼんや」と入っていますし……

 

8/14

 朝、同居人と共に家を出て、同居人は仕事へ、僕は盆休みの続きへ──。渋谷で散髪に行ったあと、ユーロスペースに寄って午後の『メーヌ・オセアン』のチケットを買い、外に出たところで激しい雨に降られ、近くのスタバに駆け込んだ。雨は容易にスニーカーを貫通して靴下へと達し、僕を悲しませた。雨は毎回無許可でスニーカーを濡らし、靴下を濡らし、僕の心をも濡らす。駆け込んだスタバで店員さんに雨大丈夫でした?と話を振られ、いやー、ちょうど激しく降ってきちゃったときに外歩いてて、くらいまで答えたときに注文したカフェラテが出来上がってしまい、尻切れとんぼに会話は終了した。突然の雨はこんなふうに返答の尺を間違えさせる。映画まで二時間半くらいあったので、スタバで二時間近く読書し、近くの蕎麦屋に行ってからユーロスペースに戻った。

 二時間近くの読書でちょうど『緑の家』を読み終わり、最高の気持ちになった。七月の中旬くらいからだらだらと読んでいたのでおよそ一ヶ月かかったことになる。長編小説というものは往々にして僕自身の生活と並走する形で読まれる。東京のアスファルトの蒸し暑さとペルーのジャングルの蒸し暑さはもちろん別物だろうが、たとえば今日のようなとつぜんの土砂降りには小説内の熱帯雨の描写を結びつけたくなる。そうやってほんの少し結びついたように見える描写を手がかりに、汗と埃まみれの小説世界へと入っていく。『緑の家』においては、場所も時間も異なる五つの物語が並行して語られ、会話のなかにことわりもなく別の会話が挿入される。そんな一筋縄ではいかない小説だが、挿入される会話といったってちゃんと前後の文脈に則っており、読んでいて迷子になることはないし、それぞれ切り刻まれて不規則に並べられているように見える五つの物語だって、様々な事実の明かされる順番や、終盤にかけての盛り上がり方などを鑑みれば、実はかなり理知的に構成されていることがわかる。その意味でバルガス=リョサというひとはかなり盛り上げ上手だと思う。読み進めるうちに人間模様や出来事が徐々に明らかになっていく構造には小説を読むということそのものの楽しさが備わっているし、明らかになっていった結果立ち上がってくる世界に圧倒され、僕たちはむせ返る。このように語ることでしか立ち上がらない世界がある、それはちょうど昨日観た『クーリンチェ』をも思い出させる。

 いい気持ちのままユーロスペースに戻って観たジャック・ロジエ『メーヌ・オセアン』はほんとに最高の映画で、終始にやにやし、ときに泣きそうになりながら観た。初対面同士のてきとうな口約束が果たされ、場当たり的に展開していく旅。物語の焦点はずれ続け、ひとがだんだん増え、サンバの即興合奏が延々と繰り広げられる最高の夜を境にだんだん減り、最後にはひとりになる。大橋裕之の漫画のような空気が漂っていると思った。途中でとつぜん現れて会話の中心に割って入ってくる怪しいアメリカの興行主とか、いかにも大橋作品のような人物造形だ。

 映画を観ていたときの幸せをぜったいに文字では再現できないとは思いつつ、奇妙に転がり続けた物語のあらすじを残しておきたい。映画は背の高い女性がパリ発の列車「メーヌ・オセアン号」に駆け込むところから始まる。彼女はブラジル人のモデル兼ダンサーのデジャニラというひとだと後にわかる。一等席に座ってリラックスするデジャニラのもとに、切符の検札係のリュシアンたちがやって来て、切符の不備と違反を指摘しようとするが、デジャニラは彼らのいうことがよくわからない。デジャニラはフランス語をあまり解さず、検札係たちにも彼女のポルトガル語は伝わらない。そこに犬を連れた弁護士の女性が通りかかり、通訳を買って出る。弁護士の勢いに圧されて検札係たちは去り、弁護士とデジャニラは意気投合する。漁師プチガを弁護するために途中駅で降りる弁護士に誘われてデジャニラも列車を降り、裁判を傍聴する。

 裁判が始まり、弁護士は謎の理屈をつらつらと述べて押しきろうとするが、裁判長に制され、漁師プチガ、敗訴。プチガは自らを訴えた原告と裁判長への怒りが収まらない。そんなプチガをなだめつつ、弁護士とデジャニラは行きの列車で検札係たちに絡まれた話をする。プチガの怒りは検札係たちへも向き、そいつらも俺の船に乗せてぶん殴ってやると豪語する。弁護士とデジャニラは機会があったらプチガの暮らすユー島に遊びに行くことを約束し、また列車に乗って旅を続ける。その列車で再会したのは、くだんの検札係の片割れであるリュシアン。リュシアンはふたりに先だっての非礼を詫びる。そんなリュシアンを、ふたりはおもしろ半分でプチガのいるユー島へと誘う。誘われるがままに休暇を取り、検札係の相棒も誘ってユー島に赴くリュシアン。彼らとプチガ、そして遅れて来た弁護士とデジャニラは島のバーで一堂に会し、プチガが酔っぱらいながら検札係のふたりにヘッドロックかます

 画面が切り替わると、プチガと検札係の片割れが飲んだくれて意気投合している。プチガは先ほどの暴力を詫び、検札係を「兄弟」とまで呼んでいる。弁護士とデジャニラはそんな彼らを見てくすくす笑っている。リュシアンはヘッドロックで首を痛めて部屋で休んでいる。

 そこに大きな音を立てて現れたのが、メキシコ出身、アメリカで活躍しているという興行主。彼はその巨大な体躯と声量で会話の主導権を握る。聞けばデジャニラはもともと彼にスカウトされて一緒にいたが、愛想を尽かして逃げ出してきていたのだという。そんなデジャニラを連れ戻しにした興行主だが、まずはその場のみんなにデジャニラの類い稀なる歌声を披露すべく、伴奏のためのピアノを探させる。ちょうど島の祭りの練習でピアノが使われており、みんなでその練習会場へと向かう。

 ギターが弾けるというリュシアンが部屋から起き出してきて、地元のピアニストまでどこからか連れてこられ、サンバの演奏が始まる。ところが、そもそもデジャニラはダンスはできるが歌が得意だとはひと言もいっておらず、興行主の目論見は不発に終わる。しかし演奏は止まらず、デジャニラもダンス衣装に着替えてサンバを踊り始め、すっかりご機嫌な検札係が「俺はサンバの王様」という謎の即興ソングを披露し、多幸感あふれる夜は騒々しく更けていく。

 次の朝、帰り支度を進める検札係のもとに興行主が現れ、「きみの歌声に惚れ込んだ。デジャニラはもういい。代わりにきみがニューヨークに来てくれないか」と熱烈に勧誘する。とつぜんすぎる話にたいして、これまでの安定した仕事を顧みてしばらく迷う検札係だったが、一世一代の賭けとばかりに了承する。すっかりその気になって飛行機に乗り込んだ検札係。しかし離陸寸前になって戻ってきたデジャニラに興行主は気移りしてしまい、検札係は降ろされる。滑走路から怒鳴る検札係。無情にも離陸する飛行機。ひとりきりになった検札係。

 そうとなれば早く帰って仕事に戻らなければならないが、相棒のリュシアンはひと足先に帰ってしまっており、他の飛行機も観光船ももうない。意気消沈してバーに戻るとプチガがいて、逡巡の末、検札係を船で送ってくれることになる。検札係は船を乗り換えながら、本土へと戻ろうとする。しかし陸地がすぐ目の前というところまで来ても、浅瀬に乗り上げてしまうことを恐れ、船はなかなか進んでくれない。日は徐々に高く昇り、仕事の時間が迫る。船の上から叫び続けてやっと通りかかった小さなボートに乗り換え、検札係はついに上陸に成功する。上陸したらすぐに車道があるというボートの漁師の話とは違い、砂浜は延々と続く。白い砂浜を小走りで行く検札係の姿をカメラは映し続ける。彼がやっと車道に出て、ヒッチハイクしたところで映画は終わる。

 

8/15

 昨日の日記は『メーヌ・オセアン』のあらすじを書いたところで終わってしまった。でも書いておかないと〝内容は覚えていないがとにかく最高だったという感触だけが残っている映画〟になってしまう(現に昨日の夜の時点で早くも弁護士や検察係の名前を思い出せていない)ので書いておいてよかった。最高だったという感触だけでも十分楽しいのだが、あらすじまでわかっている状態で反芻できるというのは、とりわけ『メーヌ・オセアン』のように物語の焦点が転がり続ける映画の場合かなりうれしいことだと思う。(あといま思い出したけど、弁護士の女性が連れていた犬が「大統領」という名前だったことも書いておいたほうがいい。犬がずっとおとなしくてほとんど映画の内容には絡んでこないために昨日のあらすじからは抜け落ちたが、とても素敵な名前だ。)

 ところで『トルテュ島の遭難者たち』でも『メーヌ・オセアン』でもブラジルの音楽がフィーチャーされていて、これはやはりブラジル音楽を聴かない手はないと思い、昨日はユーロスペースを出てからまた渋谷のレコード屋に行ってみた。この前も探したナナ・ヴァスコンセロスのレコードは相変わらずなかったが、代わりにジャケットと名前に惹かれてミルトン・バナナというジャズ・ボサ・ノヴァのドラマーのアルバムを買った。家に帰って聴いてみたらやはり最高だった。あとは、ここ数日はだいたいオウテカを聴いている。高校生のときにだめだったアルバム"Confield"も聴いて、かなりかっこいいと思えている。シングルカットするとしたらこれだな、と三曲目の"Pen Expers"に思うなどしている。

 今日は宮益坂近くに移転したル・シネマでライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『不安は魂を食いつくす』を観た。ファスビンダーの映画を初めて観た。彼の作品群のなかでも比較的わかりやすいという今作は、しかしその輪郭をなぞりやすいからこそ、そこからはみ出す心の機微や、作品全体に徹底された構図の美学をより味わえるように思った。特に構図の美しさは、冷徹という言葉を用いたくなるほど全編に徹底されていて、画面のなかでひとが動けばその分だけカメラも動いて美しい構図を保とうとするし、階段の何段目に立つか、道路のどこを横断するか、そういう微細な点までコントロールされているように見える。もちろん映画撮影においてそれらはふつうに考慮される点なのだろうが、『不安は魂を食いつくす』においては偏執的なまでにこだわられていたように思う。徹底したこだわりが生む冷徹な視線は、大小様々な差別やすれ違いをあぶり出し、しかもそれらが本人の意識とは関係なく容易に反転するということを僕たちに突きつける。一方で、本来出会うことのなかったであろうふたりがふと手を取り合って踊り始める、あるいは互いの姿を認めたふたりが駆け寄って抱きしめ合う、そういう、登場人物たちが大きく動いて構図から飛び出そうとする瞬間をも捉えることで、彼らの〝生〟を描き出すことにも繋がっている。……なんて書いたけど、まだファスビンダーの映画はこれひとつしか観ていないので、他の作品はぜんぜん違うかもしれない。あるいは昨日の『メーヌ・オセアン』と比較してしまったために冷徹に見えただけかもしれない。もしくは「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー」という名前の響きから禁欲的なこだわりを勝手に連想しただけかもしれない。世界にはいろんな〝かもしれない〟が転がっている。

 

8/16

 昨日の夜に途中まで読んだ『推し、燃ゆ』の続きを朝に読んだ。そのあと今日は上野の東京都美術館マティス展に行った。およそ六十年ほどの作家生活において常に芸術的探求を続けながらも、孤高の求道者という感じでもなく、周りのひととの関わり合いのなかから作品を生み出すひとだったという印象を(少なくとも今回の展示の流れからは)受けて、とても好感を持った。人物と背景の静物が色彩を通じてほぼ同化してしまっているような中期の絵と、「色彩と輪郭を同時に表現するならこれじゃん」と行き着いたという後期の切り絵の躍動感が最高だった。自分の作品が〝よい肘掛け椅子のような存在〟であってほしいと述べた彼の作品のまさに集大成であるヴァンス・ロザリオ礼拝堂は、僕のなかでいつか訪れてみたい場所になった。美術館を出てからは松屋で期間限定のうまトマハンバーグ定食を食べた。うまトマハンバーグ定食は、ひと口に含有できるトマトの味の限界を超えているのではないかという濃さでとてもおいしかったが、なんらかの条例で取り締まったほうがいいと思う。あれはなんなのでしょう、にんにくでブーストしているのでしょうか。そのあとは神保町に移動して古本やレコードをしばらく見たが、なにも買わず。表参道に移動して青山ブックセンターに寄り、『代わりに読む人』の創刊号を買って帰った。

まるで僕たちは動物じゃないかのような

 

8/17

 ほぼ一週間ぶりに会社に行って一日働いたら疲れた。帰ってきてからJames Blakeの"The Colour in Anything"を聴いて、あらためておののいた。アルバム中にクライマックスが何度も訪れる。特に終盤の、いったん落ち着いたかと思いきやの"Two Men Down"での昇天にびびらされる。

 

8/18

 仕事を終えてからソニックマニアに行った。迷った末レンタカーで行った。お金はかかるけど行き帰り快適でよかった。お金がかかることは僕と同居人にとってはほとんど問題にならない(ゆえに貯金はない)ので、レンタカーにして正解だったと思う。先ほど帰宅してシャワーを浴びて激ネムなのでさらっとだけ感想を残して寝よう。Shygirl:アンダーグラウンドの女王の風格があった。絶えず揺れているShygirl自身の姿がとてもよかった。Flying Lotus:こんなに踊らせてくれるスタイルなのか!という喜びとメインステージは音がいいな!という驚きがあった。James Blake:背高し、姿勢よし、ファルセット美し、低温すごしのオール満点。耳ではなく身体全体に直接響いてくる低音。響いてくる? 浸透してくる? なんでしょうあれは。あの迫力で割れていないのがすごい。"Limit to Your Love"、"Choose Me"、"The Wilhelm Scream"あたりはほんとにすごくて、気がついたらめちゃくちゃ天井のほうを向いて音を浴びていて首が凝った。近くにいた知らないひとが「James Blakeはまじでライブの音響にこだわってて」云々と話していて、もっと詳しく聞きたかった。そういうこだわりこそがえもいわれぬすごみを生み出すのだと思った。あと、べたに"Godspeed"でうるうるきてしまった。次のMura Masaとのあいだに友だちと出会った。Autechreは気になったものの、やはり個人的に〝僕たちの世代の音楽〟という感覚がかなり強いMura Masaを選んだ。Mura Masa:生ドラム、生ボーカル、とにかく生にこだわった生の祝祭。最高に楽しかった。たしか三年くらい前の来日公演に行ったのだが、そのときから変わらず歌うまおねえさんがぜんぶ歌うスタイル。あの方はなんというお名前なのでしたっけ……、原曲では男性ボーカルのところもラップも日本語もぜんぶ歌ってくれて、「あんたが歌うんかい」というおもしろさもある。"Boy's a lier"はIce Spiceのラップありのほうをやってくれたり、"slomo"のTohjiの日本語ラップもきれいに歌ってくれたり、ほんとに盛り上げ上手だ。Mura MasaのドラムはMPCより破裂音に近くて、それも祝祭感を増すことに寄与していた。ふたつの新曲"Whatever I Want"と"Drugs"はまさにそのMura Masaドラム大活躍で、このスタイルのライブのために生まれた曲だとも感じた。Mura Masa終わりで会場を後にし、車ですいすい帰宅。シャワー。激ネム

いい夜

 

8/19

 朝の七時に寝て、昼頃起きた。しばしゆるりと過ごしてから、僕も同居人もそれぞれ友だちと会う用事があったので家を出た。僕は西日暮里集合だったので久しぶりに上野から散歩した。ゆるやかに楽しい飲み会だった。激ネム

 

8/20

 ユーロスペースでウルリケ・オッティンガーの『アル中女の肖像』を観た。めちゃくちゃかっこいい女性映画だった。美しい服を着て、周りの声には耳も貸さず、ひたすらに飲み続け、空になったグラスを割り続け、酩酊し続ける女性の片道切符の旅。気高さと喜劇性を併せ持った主演タベア・ブルーメンシャインがほんとに美しかった。ユーロスペースを出てからは近くにあった焼き肉屋に入り、味は正直ふつうだったけどふつうでも昼から焼き肉という行為にはそれなりの満足がついてくるものだ。そのあと青山ブックセンターに行っていくつか本を買った。僕はフォークナーの『八月の光』やコーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』を買ったけど、それはもう読むために買ったというよりは積むために買ったというほうが近い気がする。もちろんいつかは読むのだが、おそらくすぐではない。いつかふと読み始める日に向けていったん積む。そうやって積むために買われた長編小説たちが家の本棚に何冊も控えている。そうなると、本屋の本棚に並んでいたのをお金を払って家の本棚に移動させただけのようだが、やはり本屋と家だと違う。家だとたまに手に取って、ぱらぱらとめくって、読まずに戻すということが気軽にできる。いつか読みたいと思っている本がすぐそこにある、という心地よさ。帰ってきてからはNetflixで『あいの里』を見た。

 

8/21

 昨日の夜からの頭痛を引きずって今日は会社を休んだ。午前中は寝るか、横になって裸眼のぼんやりした視界で甲子園を見るかして、昼は炊飯器に残っていたご飯といつか買ってあった無印のグリーンカレーを食べ、午後は昨日同居人が買っていた『花四段といっしょ』を読んで、少し仕事をしてから同居人が帰ってくるまで「ことばの学校」の講義記録を見た。「ことばの学校」はせっかく申し込んで受講料も払って、もう三回分の講義記録が送られてきていたのにひとつも見ていなかったのだった。一回あたり三時間というのが、僕に再生ボタンを押すのを躊躇させていた。どこかで本腰を入れて見始めないと永遠に見ずに終わるぞという危機感はあり、そうなると先週のお盆休みは大チャンスだったわけだが、どういうわけかまったく見ずじまいだったので、ああ、これはもうだめかもしれないと諦めかけていたところ、今日たまたま見ることができた。見始めてしまえば意外とすんなりいけた。特に、見ながらきちんと自分なりの講義録を取ろうとグーグルドキュメントを開いたのがでかかった。話されている内容を咀嚼するためというのももちろんあるが、なによりきちんと集中する手段としての講義録。夜は僕もちょいと外に出て同居人とラーメンを食べた。もうすっかり日は沈んでいるのに蒸し暑くて、夕食のためだけの外出だのに汗をかいた。帰ってきてシャワーを浴びた。ひげを剃る段になって、顔に塗ったひげ剃りフォームが目に入ってしまいそうになったので、今日は目をつぶって剃った。僕はいつも鏡を見ずにT字カミソリの刃先と自分の指先の感覚でひげを剃っているので、目は開けていようがつぶっていようが同じことなのだが、それでも奇妙なことに、目をつぶると一気に感覚が失われたように思える。目をつぶった途端にカミソリの刃が刃物として意識される。

 ふたつの関係なさそうな感覚が奇妙に繋がっているように思えるというのは、たとえばプールに行ったときにもあって、ふだん眼鏡をかけている僕はもちろん裸眼でプールに入ることになるのだが、視界がぼやけるとなぜか耳も遠くなるように思う。とりわけあらゆる音が白い壁に反響し水面に吸収されるプールという場だからなのか、その感覚は強い。すべての輪郭が白くにじみ、すべての音が遠い謎の空間で、僕はゆっくりと平泳ぎをしている。

 

8/22

 一般的に〝ととのう〟と表現される心地よい酩酊状態は、ひどく暑い室にしばらく篭らされた対価としてたしかにふさわしいものだが、それでもそれを三周もやるべきだとは思えない。一周でも十分ぼんやりできるし、そもそもあのぼんやりとした酩酊状態が健康にいいとも思えない。というわけでサウナ一周論者でありサウナ半懐疑派でもある僕だが、サウナ室から出て水風呂に浸かったときに、徐々に身体の外側に膜が滞留していく感じは好きで、このまま誰も入ってくるな、この膜を壊してくれるな、と祈りながらじっと座っているあの時間、身体の外側だけでなく内側にも水が漲ってきて、体内のすべてが水になって喉までせり上がってきているような、「おれって水なん?」と感じずにはいられないようなあの感覚、あれはたしかにサウナ後の水風呂でしか味わえないものだと思う。「おれって水なん?」と思うために、たまに銭湯に行って、混んでいるサウナにわざわざ入っているようなところもある。

 しかし、そこまでして味わいたいと思っていた「おれって水なん?」を、サウナ→水風呂という方法以外でも味わえることに今日気づいた。というのも、僕はさいきん家でシャワーを浴びるとき、終わり際にシャワーから放たれるお湯を水に切り替えて、身体をいい塩梅に冷ますことでシャワー上がりに気持ちよく過ごせるようにしているのだが、その水シャワーの時間を少し延ばしてみたのと、さらにこれまでびびって首から上には水を当てないようにしていたのを今日は顎あたりまで当ててみたところ、なんとあの「おれって水なん?」が来たのだ。これは思わぬ大発見だった。今後はサウナに行かずとも家のシャワーでセルフ「おれって水なん?」ができます。

 

8/23

 同居人の会社の同僚がついさいきんひとり暮らしを始めたという、その引っ越したばかりの部屋にごきぶり、とひらがなで表記するとなんだかごきげんな雰囲気が出て、実際のごきぶりのおそろしさからは少し遠ざかるような気がするが、とにかくそのごきぶりが出て、同居人の同僚だけでは手も足も出ず、駆除業者を呼ぶことにしたという。しかし駆除現場にひとりで立ち会うのは不安でしょう、わたしも行くよ、とここで手を上げたのが同居人、せっかくなら車で行こうと僕も駆り出され、会社を出たあとレンタカーを借りて同僚の家へと向かった。僕も僕でのりのりで運転した。こういう謎のイベントの際に平気でレンタカーを借りてしまう、そんなところに僕と同居人の貯金できない理由が隠されているような気はしている。(ちなみに、べつに同居人は友だちの家にごきぶりが出たら毎回駆けつけるというわけではなく、今回はいろんな状況を鑑みて駆けつけることにしたのだが、そんな微妙なニュアンスのことは日記には書かない。あと、僕も〝駆り出され〟というよりはむしろ自分から運転を買って出たのだが、それも書かない。そんなことは書かなくても後で読み返せば思い出す。思い出さなかったとしたらどんまいだ。)

 車で同居人の同僚の家の近くまで行ったはいいが、同居人はともかくとして、僕まで立ち会うのは謎なので、僕は近くのロイヤルホストの駐車場に車を停めて待機することにした。せっかくだから店内で何か食べようかと思って財布を見るとなんとお札どころか小銭も一枚も(一枚も!)なくて、仕方なく車内に留まった。しばらくスマホをいじりながら過ごし、時刻はおよそ二十二時半、ロイヤルホストは二十三時で閉まるというし、他に一台も車が停まっていないのでそろそろ駐車場を出たほうがいいかも、と精算しようとしたところで、あらためて小銭が一枚もないことを思い出す。同居人にお金をもらうためにけっきょく同僚の家まで歩いていって、同居人に一度出てきてもらった。

 まだかかりそう?

 まだかかりそう。てか、まだ雑談しかしてないよ。

 そうですかい。

 業者の方はその道三十年のベテランで、同僚のことを安心させようといろいろ体験談や豆知識を語ってくれるそうだが、いかんせん話が長いという。でもいい感じの方だそうで、これなら同僚をひとり置いて帰っても大丈夫そうだと判断し、そのあと少しして僕たちは帰った。今日の豆知識:ごきぶり対策のブラックキャップは放置するとむしろ彼らの巣になってしまうらしい。

 

8/24

 さっきごみを出しに外へ出たとき、やさしくて涼しい風が頬を撫でました。秋のティザー予告が解禁されたっぽいです。

 

8/25

 夜風が涼しくなってきた、とはいえ、ベースとして蒸し暑いというのは変わらない。しばらく外にいると湿気が肌にまとわりつく。でも僕は「夜風が涼しくなってきた」という表層だけを掬って散歩をしてしまう。ほんとはそんな表層すらなくて、たまたまやわらかい風が吹いたのを秋の気配だと勝手にいいように解釈して、散歩をする方向に持っていっているだけなのかもしれない。今日の夜は同居人が友だちと飲むというのにお金がないというので隣駅まで渡しに行って、帰りに歩いた。隣駅から家までの道は何通りかあるが、そのなかでもとりわけきついのは登山かと思うくらい急な坂を登る必要のある道で、きつすぎて正直おもしろい。この道のよくないところとして、まず単純にかなり息が切れる、きついのにべつに近道にもなっていない、そして勾配のきつい坂を登りきったあとに当然期待されるべきよき眺めがまったくない、という三つが挙げられる。それなのに僕の足はその道に向かってしまっていた。これもおそらく「きつすぎておもしろい」という表層だけを掬ってしまっているのであり、ようするに僕の散歩というのは表層だけの薄っぺらな成り行きなのだ。息をはあはあ切らし、汗をだらだらかきながら登りきって、やがて家に着いた。

 

8/26

 仕事の後、友だち数人で集まって、留学へ行く友だちの送別会をした。みんなが近況を話して盛り上がるが、僕は特に話すことがなかった。それはそれでいい。楽しかった。

 

8/27

 昨日の夜寝る直前くらいから喉に違和感があり、朝起きたら痛かった。熱もぐんぐん上がった。その後喉の痛みはほぼなくなったが、代わりに頭がとにかく痛い。寒気がする時間帯とひたすら汗が出る時間帯が交互に訪れる。これはなんらかの進化の予兆か、──それともなんらかのウイルスに感染したのかもしれない。

 

 

8/28

 発熱と頭痛には波があり、波の穏やかなときを縫って昨日はバスケの日本代表戦を見たり、今日はリディア・デイヴィス『話の終わり』を読み進めたりした。バスケはかなりおもしろい試合だった。第四クォーターでの富永と河村のスリーポイントシュートの集中力は特にすさまじくて、発熱しているくせに声を上げて応援してしまった。こうしてバスケをおもしろがれるのも去年『SLAM DUNK』を読んだり観たりしたからだと思うと、スポーツやカルチャーを広めるものとしての漫画や映画の持つ意味みたいなものも強く感じるし、さらに昨日みたいな現実のすごい試合があると、やりたいひとも増えるだろうなあ、と勝手に感慨にふけった。

 リディア・デイヴィス『話の終わり』は、この前まで読んでいた『緑の家』に比べてドライな語り口で、なかなか入っていきにくく一週間ほど放置していたのだが、文体はドライでも内容はなかなか細かいことをうだうだと述べていて実は楽しいのと、記憶について書くことの語り手の持論のようなものまで登場し、そういうことも交えて文章の断片が自然発生的に連なっていく様子が心地よく、徐々にハマってきている。

接写したらNine Inch Nailsの"The Fragile"みたいになった蒟蒻畑

 

8/29

 今日は熱がすごく上がるわけではないが頭が痛くて、寝るか、起きている時間もYouTubeを見て力なくへらへら笑うくらいしかできなかった。カミナリのYouTubeファミコンの『かまいたちの夜』をプレイする企画がアップされており、彼らのこれまでのゲーム実況企画も楽しかったので見てみたら、今回はたくみくんが堺正章を模した〝止章(とめあき)〟というキャラクターに扮してずっとふざけていて、個人的にはかなりウケたが、コメント欄は「いつもみたいに素でやってほしかった」や「さすがにしつこいかも」とまったくの不評で、それもまたウケた。僕はどうもしつこいお笑いが好きなようで、この前観たジャック・ロジエの二本の映画にハマったのも、フィルムに焼き付けられたしつこさが一因かもしれない。『トルテュ島の遭難者たち』における〝なかなか辿り着かない〟というしつこさ、そして『メーヌ・オセアン』における(終盤だけだが)〝なかなか帰れない〟というしつこさ、そして二本ともに貫徹していたとにかくグダグダし続けるというしつこさ。うだつの上がらない思春期的・モラトリアム的なグダグダとは違う、成熟したグダグダとしつこさ。……みたいな話をしようと思ったけど、頭が痛すぎるため中断。

 

8/30

 熱はなくなってきたが相変わらず頭が重い。このぼんやりとした重みがやがてはっきりとした痛みに転じたのが昨日のことで、べつに昨日だっておとなしくしていたのにそんな悲劇が起こったのだから、今日はより繊細に、綱渡り的に過ごそうと思った。というと大げさだが、ようするに基礎に立ち返ろうというわけだ。たとえば額に冷えピタを貼るだけでも頭痛は軽減される。眠くなったときには抗おうとせずに昼寝をする。逆に目が覚めたときには安易に起き上がってはならず、寝返りを打ってみたときに脳みそがついてきているか確かめてからゆっくりと身体を起こす。非常に感覚的な話だが、頭痛のときには身体の動きに脳みそが遅れる感じがある。立つ、座る、歩く、首を振るという生活のなかでの基礎動作だけでなく、たとえば本を読んでいるときにも目の動きに脳みそがついてこない。それは頭痛になりかけの今日みたいな日も同じで、だから今日はリディア・デイヴィスの『話の終わり』を読み進められなかった。

 昨日考えていた『トルテュ島の遭難者たち』と『メーヌ・オセアン』における成熟したグダグダについては、昨日と似てはいるが少し違うことを今日は思った。〝なかなか辿り着かない〟とか〝なかなか帰れない〟というしつこさももちろんグダグダに寄与しているのだが、それよりは地味ながら実はグダグダに輝きを与えているのは、それぞれの映画に挿入されている脱線としかいいようがないシーンたちなのではないか。(ここでその脱線といえるシーンを例示したかったが、そろそろ頭の重みが痛みに転じそうなためやめる。)それらのシーンは本筋とは関係ないようで、登場人物がどういうひとたちなのかを伝えるにはそれ以上ないほどに豊かな映像であり、しかしそれはそれとしてやはり本筋にほとんど関係ないことには変わりがない。それらの脱線がないほうがもしかすると物語としてはスムーズでスマートかもしれない。しかしそれでも、脚本、撮影、編集の各段階でそれらの脱線が削られず(むしろジャック・ロジエのことだから脚本段階ではなかったものが撮影で足された可能性もある)、最終的な完成版としていま僕たちが目にすることができるフィルムに残っているということに、豊かで成熟したグダグダを感じるのだ。映画的スマートさより、人間が描けている豊かさを選んだ結果としてのグダグダ。そしてグダグダさせることを選んでなお、いやむしろ、グダグダしてこそおもしろい、というところにジャック・ロジエのすごさがある。やはり人間を描こうとしている映画はいい。エドワード・ヤンも『クーリンチェ』において、数十人にもなるすべての登場人物のバックグラウンドや生い立ちや行く末をひとつひとつ考えたという。そういう厚みが映画を動かす。今日観させていただいた友だちの短編映画にもそういう厚みが感じられて(それは僕が彼や彼の考えていることをほんの少し知っているからかもしれないけど)、なんだかそれがとてもよかった。

 

8/31

 日付を見て驚くなかれ! かつて小さな僕たちの濡れた羊のように震える心をかき乱し、やがてただの日付に過ぎないと各々が心にいい聞かす時期を迎え、べつにその日を境に季節が変わるというわけでもあるまいしとうそぶいてみせるも、いざその日を迎えるとやはり動揺せざるを得ず、ある種の神話じみた雰囲気さえ纏ったまま、大人になった僕たちをいまでもぞっとさせる、かの有名な八月三十一日ではないか! 十二ヶ月それぞれの月末に順位付けをしたならば、十二月三十一日と三月三十一日に次いで三位に食い込む、いやもしかすると三月三十一日と二位争いを繰り広げているかもしれない、かの屈強な八月三十一日ではないか! なんとなくその日を境に一年が前後半に分かれる気が未だにしてしまう、かの非論理的な八月三十一日ではないか! 先述のとおり季節の変わり目というわけではないにもかかわらず、日が暮れる頃になると、来るべきさびしい季節の予感を含んだ乾いた風が頬をなで、なにかが終わるとき特有の取り返しのつかない感傷へとなし崩し的に持っていかれてしまう、かの強引で懐古的な八月三十一日ではないか! かつての僕たちにとっては長く短い夢のような日々の終わりを象徴する日であったが、一介の会社員になったいまとなってはただ目の前を流れてゆく一日に過ぎず、それなのにこうしてあれこれ口を出したくなるのは、子どもの頃の思い出にすがっているだけなのではないか、あるいはいまを小学生として生きている未来ある子どもたちの無垢な感傷にフリーライドしているだけなのではないか、と稚拙な自省を促されてしまう、かの教訓的な八月三十一日ではないか! 人気者で、強くて、やさしくえ、なんだか懐かしくて、でもどこかさびしい影があって、ふれようとするたびに離れていって、──そんな日をどうして好きにならずにいられようか。