バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二三年五月の日記(自選)

 五月の日記から自選してまとめます。日付は省いています。

 

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 へえー、この時間でもけっこう外明るいんですね、といえる季節。五月も中旬以降になるともう暑くなってきて、日が長いことにたいする意外性がなくなってしまい、それに梅雨に入るので、そもそも日の長さを実感する機会が減る。かといって四月の下旬は、ついこないだまで桜が咲いてたのにね、という話に繋がってしまい、外の明るさをちゃんと味わうには雑味が多すぎる。だから五月のゴールデンウィーク明けといういまの時期こそがもっとも適している。へえー、この時間でもけっこう外明るいんですね、あ、でもそっか、もうあと一ヶ月ちょっとで夏至ですもんね、と僕はいう。今年も暑くなるんですかね、なんかいまくらいの時期だとまだ夜は涼しくていいですけどね、と僕はいう。天気の話をするのはたのしい。

 

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 帰ってきて風呂を沸かそうと思ったらどういうわけかお湯が出ず、お湯が出ないということはガスが止まっている、というところまでは結びつくものの、なぜガスが止まっているのかはわからない。しかしここで家の外に出てメーターを確認するという発想に至り、引っ越してきて以来初めて見てみたところ、メーターにはガスが止まったとき用の案内のシートみたいなものがちゃんと付属していて、その説明を一言一句逃さないようにきちんと読みながらガスを復帰させることができた。僕みたいになにも知らないがとりあえずメーターを見てみたようなひとのために、こうやってフィジカルな形でシートを置いておいてくれているのは非常に助かる。ゲームなんかでも遺跡やダンジョンっぽいところに行くと案内の文書がご丁寧に残されていてありがたいことがあるが、現実世界でもこういうことはある。世界はご丁寧さで回っている。

 ちなみに調べてみると、地震のときにはメーターの安全装置が作動することがあるらしい。ひとつ賢くなった。ひとつも賢くならない日が多いなか、思いがけず貴重な機会をいただけた。

 

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 しっかり寝たはずなのに朝から身体が重く、なんかそういうCMあったな、と思う。

「しっかり寝たはずなのに朝から身体が重……、くない!

 しっかり寝たので大丈夫でした!

 みんなもしっかり寝て元気を出そう!」

 こんな感じのCMだったでしょうか。違うかもしれない。そんなこんなで今日は重い身体をずるずる引きずって仕事し、しかし尻上がりに調子が出てきて、会社を出てから友だちと集合してジムに行った。ちょうど帰ってきた同居人もプールに行った。三人の偉人。そのまま帰ればかなり偉かったのに、ジム終わりにラーメンを食べてしまったので、偉さも努力もすべてチャラになってしまった。

 昨日観た『TAR/ター』のことを考えている。権力や芸術や様々な暴力について重層的に語られるが、それによって積極的な問題提起がなされているというよりは、いうなれば「ただ語られている」という印象で、この観客への委ねっぷりこそがこの映画のすごさのひとつだと思う。そしてこの語り口を支えているのが時間の使い方だと思う。たとえば映画の序盤、リディア・ターの公開インタビューのシーンが長く続くが、あそこの長さなんて映画でしか許されない(ドラマでは耐えられない)もので、しかしあの長さがあるからこそリディア・ターという人物の人となりが浮かび上がってくるし、後半の転調が利く。指揮者として完全に時間をコントロールしていたターが、やがてそのコントロールを失っていく様とも重なる。

 ああいう時間の使い方というのは、やっぱり映画じゃないとできない気がする。同じようなことを『ジャンヌ・ディエルマン』を観たときにも思ったことを思い出したけど、それでいうと『TAR/ター』はまさにシャンタル・アケルマンに影響を受けているところもあるらしい。

 

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 会社を出てからヒュートラ渋谷で『EO イーオー』を観た。撮影、劇伴、ロバ、すべてがすごい激ヤバ映画だった。ロバ視点で展開される物語には多分に人間による解釈が入り交じっていて、そういう意味ではこれも「物語とはなにか」「映画とはなにか」ということを投げかける作品かもしれない。ロバの瞳はそれ単体ではなにも語らない。語るのは人間……。一緒に観た同居人は「才気あふれる若手の長編デビュー作かと思った」といっていたが、まさしくみずみずしさと大胆さに満ちた映画で、八十五歳のおじいの監督作とは思えない。帰ってからYouTubeであらためて予告編を観ようと思ったらイエジー・スコリモフスキ監督のコメント動画が出てきて、ほんとにかなりおじいで笑ってしまった。

 

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 ところで僕は風呂場でだいたい(去年渋谷のヨドバシカメラでテレビのBlu-rayレコーダーを買ったときに大量にポイントが付与され、「このポイントだったらついでにこの小さいBluetoothスピーカーも買えちゃいますよ」という店員さんの言葉に乗せられてまんまと買った、JBLの小さいスピーカーで)音楽を流しながらシャワーを浴びているのだが、風呂場で過ごす時間というのは、湯船に浸かるとしてもせいぜい二十分から二十五分くらいのもので、そうなると一枚のアルバムを流すには少々短い。EPならちょうどいいくらいの時間かもしれない。しかしそもそも風呂場というのは一枚のアルバムやEPをじっくり聴くには不向きな場所で、それはシャワーの音に音楽がかき消されるというのもあるが、湯船にゆっくり浸かったり、せわしなく髪や身体を洗ったり、慎重かつ大胆に髭を剃ったりという非連続的な動作のなかに、なにかしらのテーマやコンセプト、あるいは基調となる気分を持って作られたであろうアルバムやEPという連続的な作品を位置づけるのは場違いだという気分になってしまうからだ。非連続的な動作のなかには、非連続的な曲たちを流すのがふさわしいという気がする。というわけで、風呂場で流すにはなにかをシャッフルするのがちょうどいいのだが、毎日の風呂のためにプレイリストを作成するほどていねいにはなれない。かといって、「Daily Mix」とか「はじめての○○」みたいに、サービス側が用意したプレイリストを流すのもなんとなく癪だ。

 ならばなにを、というときにうってつけなのが、大量に曲が入っているアルバムなのであった。けっきょくアルバムか、といわれてしまうかもしれないが、ちょっと違う。大量、というのは、二十曲、三十曲のレベルではなく、七十曲とか百五十曲とかのレベルだ。そこまで来るともう、なにかしらのコンセプトを持って、連続性を持って作られたアルバムではなく、おそらく作った側もシャッフルを想定しているのではないかという気がする。たとえば去年でいうとVegynの"Don't Follow Me Because I'm Lost Too!!"というアルバム(ミックステープ)は七十五曲入りで、しかも曲順をよく見てみると単にアルファベット順で並べられているだけで、そうなるともうどうぞシャッフルしてくださいといっているようなものなので、たいへん重宝した。今年はMac DeMarcoの"One Wayne G"というアルバムが百九十九曲入りで、各曲のタイトルには日付が付けられており、おそらくそれぞれの曲が録音された日を示している。二〇一八年から二〇二三年にかけてのそれらの音源が日付順に収められているだけなので、これもシャッフルしてくれといわんばかりのアルバムなのである。たいへん重宝している。

 

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 前作をクリアできていないのに新作をやっていいものかというためらいや、プロモーション動画を見た感じだとできることが増えていそうでゲームが下手な僕にとってはいやな方向に進化していやしないだろうかという疑いがどうしても拭えず、発売から一週間買わずにいた『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』だったが、今週何度かニンテンドースイッチを起動するたびに何人ものフレンドがプレイしており(そもそもふだんそんなに触ることのないニンテンドースイッチを週に何度も起動すること自体、『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』のことが気になってしまっている証左でもあった)、やはりこのビッグウェーブに乗るべきなのではないかということでついに昨日の夜購入した。

 僕も同居人もそんなにゲームをしてこないで生きてきたために、こうやってみんなが一斉にプレイしているお祭り騒ぎに以前から憧れがあり、しかし二人とも下手なのでいつも指を咥えて遠巻きに眺めるしかできていなかったのだが、前作『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』をプレイした経験からおそらく今作もゲームが下手なひとにもやさしい内容であろうと想像できたため、今度こそこのお祭りに参加しようではないかという気になれたのだ。とはいえ最初に書いたようにべつに前作をクリアできているわけではないので、「ゲームが下手なひとにもやさしい」というのは中途半端な主観とネット上でちらっと見た浅い知識に基づく判断に過ぎない。

 というわけで半分わくわく、半分びびりながら始めた『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』であったが、ここではゲームの内容よりも、同居人のプレイっぷりについて触れておきたい。

 前作『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』は基本的に僕ひとりでプレイしたので、同居人がゼルダをプレイするのは今回が初めてだったのだが、僕がおもしろいと思ったのは、同居人が主人公リンクを動かしてなにかさせるたびにその表情を確認することだ。リンクを木に登らせて、てっぺんまでたどり着いたらその表情を覗き込み、どや顔しているか確認する。敵を倒したらどや顔しているか確認する。そのへんに生えているキノコを採取したらどや顔しているか確認する。リンクにはべつにどや顔がプログラミングされているわけではなく、まったくの気のせいだとは思うのだが、たしかにゲーム内のリンクはなにかするたびにどや顔しているようにも見える。そんな同居人の「リンクまたどや顔してるね」というおもしろがり方が僕にとってはおもしろく、遊び方を拡げているようにも思える。

 しかしこれがたとえば「リンクはなにかするたびにどや顔する」というプログラミングが実際にされていたとしたら、おそらく僕たちは白けてしまう。開発側があらかじめ用意したおもしろにまんまと乗せられて、おもしろがるように誘導されている、と感じてしまうと思う。これが難しいところで、特にこういう自由度の高いゲームにおいては、開発側の誘導が透けて見えるとなぜか白けてしまうという現象が発生する。自由に動けはするけど、これってけっきょくこの順番でこなしていかないと先に進まないのね、みたいな。その点、前作『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』は自由度の設定がとてもうまくて、けっこうほんとに自由なので楽しかった。というのもあって、今回リンクのやれることが増えていそうなぶん、「こうやってプレイしてください」という誘導も増え、魅力が損なわれてしまっていないかちょっと不安だ。でもいまのところぜんぜん楽しい。

 

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 日中はゼルダを進め、夕方に一度だけ外に出てスーパーで日用品を買い、ピザを頼んで『THE SECOND』を見るという一日だった。『THE SECOND』はいい大会だったと思った。まず大前提として十六年以上も漫才をやり続けてきているひとたちなので、各々の仕上がりはもちろんすごく、かつ今回はネタ時間が六分間ということもあって、その使い方にそれぞれの色が濃く表れていた。事前に令和ロマンのYouTubeの『THE SECOND』考察動画を見ていたこともあり、出場者それぞれのネタの楽しみ方──特にテンダラーに対する「ネタ時間が六分の場合テンダラーさんは〝一分を六回〟という形で戦ってくる」や「テンダラーさんの動きはディズニーのアニメーションに似ていて、基本的に2Dなのだがときおり観客に振って3Dになる瞬間が訪れる」という分析は非常に鋭い──がわかった状態で見ることができた。特によかったのは一回戦のテンダラーギャロップ、二回戦の囲碁将棋対ギャロップ、決勝のマシンガンズギャロップで、奇しくもすべてギャロップ絡みだった。一回戦、二回戦はそれぞれテンダラー囲碁将棋のほうが個人的に好きだった(囲碁将棋はネタ二本ともかなり美しいと思った)が、決勝のギャロップを見て「こりゃ優勝だい!」と手を打った。

 会場で観覧している一般審査員のひとたちにコメントを求める奇妙な時間、わくわくもすれどどちらかというとまどろっこしい点数の出方など、初回かつ生放送ならではの手探り感があり、ややぐだぐだしてしまいそうだと思いながら見ていたが、急にできた大会ということもあって出場者たちもM-1ほど「これだけに懸けてやってきた」感がなく楽しんでいて、なんとなくわいわいしながらゆったり見られた気がする。松本人志が審査員という立場を降りて(アンバサダーという謎の立場で)純粋に楽しんでいる感じもなんだかよかった。特に『THE SECOND』が出場資格として規定している芸歴十六年以上の芸人のなかには「ダウンタウンに憧れて芸人になった」というひとも少なくないはずで、未だに芸人として漫才を続けているそのひとたち一組一組に対してどこか労いも含めたようなトーンでコメントしている姿も印象的だった。たしかM-1が当初掲げていた「芸人をやめられるきっかけとして芸歴制限を設ける」というコンセプトの逆というか、逆ではなくむしろ延長線上というか、いつまでもやめずにやっているひとたちへのリスペクトが、大会全体にあった気がする。

 『THE SECOND』終了後にはNHKでキンプリがテレビラストパフォーマンスをしていて、べつにキンプリに思い入れはないが見て、僕も同居人もじいさんばあさんのように「がんばったねえ」といいあった。そのあとまたゼルダをやり、同居人は寝、僕は台所のシンクをめちゃくちゃ洗った。土曜日の深夜のシンク洗いが、この世で最も捗る。Blurの新曲がよい。

 

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 平日仕事しているときには、土日はたんまり寝てやるぞいと強く思っているのに、いざ土日になると夜更かししてしまう。特に土曜日の夜というのは絶好の機会で、平日の疲れもほとんど解消され、かつ明日もまだ休みであるという余裕ある状態で最高に気持ちよく夜が更かされる。昨日の夜は夏の気配も含んだ涼しさに雨の名残りのようなにおいが付され、三時を過ぎる頃にはすずめや烏の鳴き声も聞こえ始め、やがて訪れるであろう朝の予感、蒸し暑さの予感、そして近いうちに始まるであろうじっとりとした梅雨の予感、あるいはそのあとのうだるように暑い夏の予感までもが鼻や耳を通して伝わってくるようだった。もしかするとそれは予感ではなく記憶かもしれない。これまで過ごしてきた梅雨や夏の記憶が、五月の土曜日の夜更かしのなかで甦って迫ってきたのかもしれない。その記憶のなかには僕自身の体験したことだけでなく映画や小説で知った風景も含まれている。たしか侯孝賢ホウ・シャオシェン)の『風櫃の少年』だったと思うが、何年か前に観たときに、涼しくて蒸し暑くて鮮やかな梅雨の描写が素晴らしく、いまとなっては話の内容はほとんど覚えていないのに、どしゃ降りの雨の下で上裸で跳ね回る少年たちの姿だけが毎年梅雨の時期になると思い出されてくる。何年も経つうちに映画のワンシーンと僕自身の記憶との境界があいまいになっていっているような気がする。

 けっきょく昨日は三時半頃までなにをするわけでもなく起きていて、鳥の声が聞こえ始め、そろそろ西の空が白んでくるのではないかというときに就寝した。まだ日が昇らないうち、つまり「明日」が「今日」にならないうちに寝るのがポイントだ。今日は八時半頃起きた。昨日のピザの残りを食べながらプリキュアを見て、そのあと『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』をプレイした。前作でも今作でもゼルダ姫は遠いところに行ってしまいがちで、しかも今作では行方すらわからなくなってしまっている。ところが僕たちのリンクはゼルダがどこに行ってしまったのかということにはあまり興味がないようで、関係のないキノコ狩りばかりしている。とにかく世界は広いのでゆっくり探索しよう、という姿勢が僕たちと似ている。ゲーム内の主人公はゲームのプレイヤーに似る。

 同居人は再来週末に友人の結婚式を控えており、それがはじめての結婚式出席だというので、既に結婚式に何度か出席したベテランである僕が特別アドバイザーとしてドレス選びを共にすべく、昼前に家を出て新宿に向かった。しかしたいしたアドバイスができず、解任となった。同居人にはスカートではなくパンツスタイルがいいというこだわりがあり、そうなると一気にドレスの選択肢は減る。ここに今回のドレス選びの難しさがあり、途中で棄権しかけたが、いいジャズ喫茶に入るなどして持ち直し、どうにか選びきることができた。今後のパンツスタイルの隆盛を願いつつ帰宅し、ふたりとも疲れたのでだらだら過ごした。日曜日の夕方のだらだらは実に素晴らしい。夕飯は白米、豚汁、鯖の塩焼き、納豆。リンクにも食べさせてあげたかったが、彼はキノコを食べていればそれでいいようだった。

 

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 なんだか左目が乾燥している気がしたので、仕事を早めに切り上げて、友だちと区民センターのジムに行った。目をしぱしぱさせながらトレーニングし、近くの駅前のうどん屋まで歩いてうどんを食べ、そのあとその隣駅の近くに引っ越したという友だちの家にお邪魔したその間にも左目はずっと乾燥しているようで、その旨を友だちに話したら「ドライアイなら目薬させば?」といわれた。友だちの家は飲み屋街の真上のマンションで、建物全体がコの字形の独特な形状をしている、そのコの下辺の付け根あたりの部屋に友だちは住んでいた。飲み屋街の真上、というのは文字通りほんとに真上で、要するに一階に飲み屋が連なっているのだが、建物自体はコの字のため、上から確認するとどこにどう飲み屋があるのかがよくわからなかった。住人なら誰でも入れるという屋上も見せてもらった。一階の飲み屋街の欲望渦巻く喧騒が嘘のように屋上は静かで、周囲にも同じくらいのマンションが所狭しと立ち並んでおり、その一部屋一部屋に明かりが灯って生活が営まれていることが視認できる一方で、建物と建物の隙間からは駅前の数多の電光掲示板が漏れ見えて、都会の雑居マンションの趣きがかなり感じられた。雨ぱらつく曇り空だったこともあり、『ブレードランナー』っぽさもあった。街が何十年もかけて自然に生み出した『ブレードランナー』っぽさ。再開発されたエリアの取って付けたようなサイバーパンク演出とはまるで違う野生の感触があってとてもよかったが、しかし実際に人びとが暮らしているマンションに踏み入って「『ブレードランナー』っぽい」と述べることも、野暮ったい再開発の感性とそう変わらないのではないかと少し反省した。

 同居人から「手羽先が食べたい」という連絡が来ていたため、スーパーに寄って買って帰り、塩を振って焼いた。同居人にも左目の乾燥のことを伝えると「ドライアイなら目薬させば?」とやはりいわれた。

「きみは身体の不調があったとき、解決策がわかっていてもやろうとせず、しかし騒ぐというほどでもなく、ただぼそぼそとアピールしてくる」

 と指摘も受けた。

「たしかにね」

 と僕はいった。

 

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 連日洗濯をしすぎて、同居人に「洗濯おじさん」、通称「せんおじ」と呼ばれてしまった! おじさんのなかではわりといい部類なのではないかと思う。

 

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 ceroの新譜『e o』はおそらく難しいことをやっているのに非常に耳馴染みがよく、結婚式で食べる謎のコース料理のようだとも、Radioheadのようだとも思った。今回のceroも往年のRadioheadも、音楽的挑戦の以前にまず歌ものとしての強度があり、加えて共通点を述べるとするならば、髙城晶平もトム・ヨークも生楽器のような美しい情感がそのヴォーカルに込められているということで、それは心地よさに大きく寄与しているところだと思う(というか、髙城晶平の歌声はいつの間にこんなに艶っぽくなったのですか!)。

 新譜がとてもよかったなら前のアルバムも聴きたくなるという当然の流れに乗って、僕は『POLY LIFE MULTI SOUL』も再生した。「魚の骨 鳥の羽根」の冒頭のシンセサイザーが入ってくるところ(「ヴィーーーン」)は何度聴いても高揚感があり、妖しげな曲名も相まってぞくっと来るものがある。話は少し逸れるが、「魚の骨 鳥の羽根」、「琥珀色の街、上海蟹の朝」、『国境の南、太陽の西』というような、「◯◯の◯◯、◯◯の◯◯」という形式のタイトルには、ひとを高揚させる刺激物質のようなものがあらかじめ含まれているような気がしてならない。タイトルを見聞きするだけでわくわくしてしまう。しかし、もし僕がそういう曲を作るなら、

「脱ぎっぱなしの靴下、シミだらけのシャツ」

「腕っぷしのヤス、頭脳派のトシ」

「茄子の煮浸し、里芋の煮っころがし」

 となってしまい、わくわくは生まれない。

 ところで今日は同居人が首を寝違えてしまったらしく気の毒だった。同居人はいつもベッドに入ってからも横向きでスマホを見続けてそのまま寝落ちするスタイルなので、僕は常々「寝つきも目も悪くなるし、いいことがひとつもないからやめなよ」と指摘していたのだが、昨日の夜は珍しくベッドに入ってからはスマホを見ずに仰向けになって寝たそうで、それなのに首を寝違えてしまい、「じゃあやっぱりいつものスタイルが正しかったんだ」といって今日はまた横向きでスマホを見ている。

 

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 家のそばにあまり流行っていないそば屋がある。ひとが入っていないわりに焦るふうでもなく、月~水は夜営業せずに閉めているし、木~日の夜営業がある日にも、積極的にひとを呼び込むために店の外にのぼりなどを出すなどすればいいのにしていない。前に住んでいた部屋のそばにもそば屋があった。そっちのそば屋はいまの家のそばのそば屋より人気があるように見えたが、なくなってしまった。いまの家のそばのそば屋より人気があったってなくなってしまうのだから、いまの家のそばのそば屋の経営状況やいかに、と推し量ってしまいたくなるところだが、僕たちがいまの部屋に引っ越してきたときからいままでなくなっていないので余計な心配なのかもしれない。この世のすべてを手に入れた大海賊が道楽で経営しているのかもしれない。今日の夜は同居人とそのそば屋で食べた。鮎の天ぷらや茄子の揚げびたしの冷蕎麦など季節のメニューも気が利いているし、店員さんもいいひとたちだし、値段も高くない。だから僕たちはたまに行っている。去年の大晦日、紅白が始まる前に行ったら、同じことを考えているひとたちがいて珍しく満席だった。今日は僕たちの他には中年男性がひとりいるだけだった。

 同居人の首の寝違えは徐々に解消されつつあるようだったが、まだまだ予断を許さない状況であることには変わりないそうで、明日朝早く仕事に行かなければならないということもあり、早めに寝てしまった。同居人がソファに放りっぱなしにしていた田島列島『みちかとまり』一巻と井上雄彦SLAM DUNK』一巻を僕も読んだ。『みちかとまり』は民俗信仰的な話に子どもの無邪気さと残酷さが絡まり合い、田島列島らしい底知れなさを感じる物語で、読んでから喉がひっくひっくとなった。『SLAM DUNK』というのはあのスラムダンクで、同居人はもう人生で何度も読んでいるのだが、今回は水戸洋平に注目して読んでいるらしい。たしかに水戸洋平は桜木軍団のなかでも異質で、花道たちと共にふざけているようで、一歩離れて俯瞰で見ているようなところもあり、しかし俯瞰といってもその花道への眼差しには愛が込められていて、とにかくかっこいい人物なのだ。そのかっこよさはスラムダンクがまだギャグ漫画トーンだった一巻から既に発揮されている──と思いながらぱらぱらめくっていると、桜木花道流川楓が初めて対峙するシーンで、水戸洋平から発せられた「誰だオマエ!?」という問いに対して流川が「流川楓」と返していて、流川あんたそんないきなりフルネームで、やっぱり「楓」っていう名前自分でもかっこいいと思ってんじゃん~、ひゅ~!

 

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 五時に目が覚めてトイレに行った。尿意があって目が覚めたのではなく、自然に目が覚めたらちょうど尿意があったような感じだったため、もうそのまま起きてしまってもよかったが、ちょうど同じタイミングで目を覚ましていた同居人(僕のおぼろげな記憶だと、おそらく同居人が先に目を覚まし、それにつられた形で僕も目を開けてスマホを見たら五時だったのだ)に「調子乗ってない!?」とベッドのなかから声をかけられ、たしかに五時起床は僕たちにはまだ早い気がしたため、再度入眠した。八時過ぎに起きた。洗濯機とコーヒーメーカーを回し、昨日コンビニで買ったクリームパン五個入りを食べてから、『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』を粛々と進めた。進めたといってもただ時間が過ぎていっているだけで、ストーリー上はまだなにも展開がない。ただキノコや木の実を採取し、ときおり弓矢で鹿や狼を狩っている。ちょっと高い山があればてっぺんまで登り、「まだまだ世界は広いぞ……」と呟いて降りる。同居人と僕でコントローラーを交互に握るが、同居人はわりとするすると進もうとするタイプで、僕が横から

「そっちも見たほうがいいんじゃない?」

「さっきのところってちゃんと見た?」

「いまそれ使うのはもったいなくない?」

 などとかなりやかましい横槍を入れまくるため、すぐ嫌になってしまう。「じゃあきみがやりなよ」という同居人からコントローラーを受け取り、僕はなめなめとプレイする。ときに同居人が進んできたところを戻ってまで、なにか見逃しがないか確認したりする。それがまたうざがられる。

 今日はAmazonの荷物が届くだろうということで家にいたが、同居人は夕方から友だちとマリオの映画を観に行くために出かけ、だったら僕も、と思い、しびれを切らして外出した。僕も僕でマリオの映画を観ようと調べたが、新宿でIMAXで3Dの回しかちょうどいいのがなく、それだと料金が三千円近くするのと、新宿の喧しさのことを思うとなんだか気乗りせず、けっきょく散歩することにした。ちょうど気温もいい感じだったし、ceroの『e o』を聴きながら歩くのもよさそうに思えた。実際よかった。書肆侃侃房から新しく出た福田節郎というひとの『銭湯』という小説が気になっていて、大きめの本屋ならあるかもと思い青山ブックセンターを目指した。なかった。けっきょくなにも買わずに出て、表参道と原宿の間の細道を歩いた。美容室や服屋や隠れ家的飲食店や謎のサロンが並ぶおしゃれ細道なのに、なぜかうんちのようなにおいが強く漂っていて、表参道でもこういうことあるんだ、とウケた。渋谷まで歩いてから電車で帰ってきて、もう少しで同居人も帰ってきそうな時間だったのでマックで待った。ゴーゴリの『外套・鼻』を読んでいる。かなりおもしろい。話の脱線具合や小心者の物悲しさのようなものに後藤明生の『挾み撃ち』を思わせるものが強くあって、それは影響関係からすると当たり前なのだが、当たり前でもうれしいものはうれしい。

 同居人はマリオの映画を観てとても楽しかったらしく、帰ってきてからなにかしらゲームがやりたいということだったので、そうなるともちろん『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』である。しばらく楽しそうにやっていたが、僕がまた横槍を入れてしまい、あえなく終了となった。

夜景

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 どうせ値段が同じなら大きなのを選びたい、そしてピーラーでの剥きやすさを考えるとなるべく凹凸がなくちょっと細長いか平べったいかするのを選びたい、そうなると河原で水切りするための石の選び方に似てくる、というのが、僕がスーパーでバラ売りのじゃがいもを選ぶときに思うことだった。多摩川の河原ならぬピーコックの野菜コーナーに並ぶじゃがいもを吟味し、水切りによさそうなのを手に取り、肘から手首までをスウィングしてみて、これなら五バウンド、いや七バウンドはいけるな、と感じたものをカゴに入れるのだった。買って帰ったじゃがいもをいざピーラーで剥いてみると果たしてするすると剥くことができるのでこの選び方はうまく機能しているようだったが、ではそのじゃがいもで水切りしてみたらほんとに七バウンドもするのかどうかはわからない。僕は水切りが下手くそなので、凹凸がなくて平べったいほうが水切りしやすい、というのはうまいひとから聞いた話に過ぎなかった。じゃがいもを手に持ってスウィングしてみるのも、おそらくそんな感じで投げるのだろうというイメージでてきとうにやってみているに過ぎなかった。でも考えてみればそもそもべつに水切りとじゃがいもはまったく関係がないので、てきとうでかまわない。

 

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 夜中に雨の音で目が覚めた、あるいはふと目を覚ましたらすさまじい雨の音が聞こえた、のほうかもしれない、徐々に湿度の高い夜が増えてきて、昨日なんてそれでも涼しいほうだったと思うが、肌はじとっとシーツに張り付き、眠りはアスファルトの水たまりのように浅かった。何時だかわからなかった。とにかく夜中だった。雨は天井を突き破らんばかりに降っていて、隣の部屋の窓を開けっ放しにしていたので吹き込んでいないか少し心配になったが、それを確かめに行くための身体が起き上がらなかった。雨すごいね、と隣で寝る同居人に話しかけて、うん、と返事があったように思ったが、朝起きてから、雨すごかったね、とあらためていっても、へえ、としかいわないので、同居人は寝ていたか、それとも僕がそもそも話しかけていなかったのかもしれない、もっとそもそものことをいえば、そんな強い雨なんて降っていなかったかもしれない。夜中に五分だけ目を覚ますというのは、これくらいぼんやりしたものだ。

 Gia Margaretの"Romantic Piano"が素晴らしい。最高の梅雨にしようね、と思えるアルバムだ。