バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

ホラーチャーハン(Horror Chahan)

 ものごとがもっとも美しい状態にある時間というのは存外短いものだ、という話の流れでナデヒコくんが鼻を鳴らしながら発したのが「百年経ってもパラパラなチャーハンがあったら、怖いだろ」という台詞だったが、ハミスケくんによると、百年経ってもパラパラなチャーハン、実際にあるらしい。ハミスケくんはそれを斎藤さんから聞いたという。斎藤さんがいうなら間違いなく実際に存在するのだろうが、そうなるとたまらないのはナデヒコくんである。

「なんだよ、百年経ってもパラパラなチャーハン、あるのかよ」

「あるって斎藤さんがいってたんだよ」

「斎藤さんは食べたことあるのかよ」

「ごめん、そこまでは聞けてないよ」

「今度会ったら聞いとけよ、食べたかどうか」

 たしかに斎藤さんが食べたかどうかは重要だ、とジゴロウも思った。実際にパラパラしていたのかどうか。あと、そのチャーハンがほんとうに百年経っていたのかも重要だ。斎藤さんのことだから何かしらの方法できちんと確かめたのだろうが、それにしたって百年というのは長い。パラパラかどうかという以前に、そもそも百年前のチャーハンが現存していること自体が奇跡だ。我ながらいいところに目をつけたと思ってジゴロウは話に入ろうとしたが(「斎藤さんはそのチャーハンが百年経ってるってどうしてわかったの」)、もうナデヒコくんとハミスケくんは昨日の国会中継の話へと移っていた。小学五年生の話題の移り変わりは、ときにジゴロウには速すぎる。

風呂で聴け! / 2022年よかったもの

 世は大ポイント時代!

 今年のはじめごろ、まだ僕が右も左もわからなかったころのこと。渋谷のビックカメラでテレビのレコーダーを買ったときに、なんらかのキャンペーンとまた別のなんらかのキャンペーンの相乗効果みたいなものでかなりポイントがつき、これくらいポイントつくともはやポイントにプラス千円くらいでこの小さいスピーカーも買えちゃうんだぜ、と店員さんにすすめられるがままに謎の小さいスピーカーも一緒に買ったのだ。いま考えるとビックカメラに踊らされたような気もするが、まあスピーカーなんていくつあってもいい。踊らぬよりは踊るべきだ。

 僕たちは真新しいレコーダーと小さなスピーカーを引き連れて家に帰った。

 防水なのとストラップが付いていて持ち運び可能なのがうれしく、青緑とキャメルのカラーリングもかわいいJBLのスピーカーである。しかし、通常スピーカーを置くべき場所として想定されているであろうリビングには、すでにソニーのスピーカーが鎮座していた。ではこの新入りをどこに配属すべきかといったら、風呂場である。

「申し訳ないけど、きみには風呂場を担当してほしい」

「わかりました。風呂場とフロアは響きも似てますしね。沸かしますよ!」

 なるほど、その視点は僕にはなかった。彼が納得してくれたので、僕は彼を風呂場に置いた。それから彼は毎晩気分よく風呂場を沸かしてくれた。新入りのスピーカーの配属先としてはまずまずよかったのではないかと僕は思った。

「風呂場は任せてください!」

 そしてこの新入りは、僕の入浴問題をも解決してくれたのだった。風呂に入っているあいだなにもやることがなくて暇だ、というのが、僕にとって生活における主な懸念事項だった。特にシャワーを浴びている時間はほんとうに暇だった。僕にとって顔や髪や身体を洗うことはまったく退屈なルーティンでしかなかった。そこに発展や深化はなく、感情の入り込む余地もなかった。思考が入り込むことは稀にあったかもしれない。しかしそれも、並行世界の三重県、五重県、という程度のことであって、けっしてそれ以上深まることはないのだった。裸眼と湯気による焦点の定まらなさが、僕から思考力を奪っていた。そうやってただぼんやりとシャワーを浴びつづける日々を送っていた僕にとって、風呂場で音楽が聞けるというのは天恵に近かった。

 それからというもの、僕は毎晩のように風呂場で音楽をかけた。さほど高くはないスピーカーといえども、スマホで直接かけるのとはやはり明確に違った。音の解像度が違い、低音の鳴りが違った。もちろん、シャワーを浴びているあいだは聞こえにくい。しかしそのときはそのときで、鼻歌で自分なりにベースラインを補ったり、舌を鳴らしてドラムを足したりした。それはそれで楽しかった。

 風呂に入っている時間というのはせいぜい十五分から長くても三十分なので、アルバムというフォーマットとの相性はさほどよくない。長さ的には、EPか、あるいはシャッフルで流してもいい感じになるものが適していることになる。スピーカーを風呂に置いてから、僕が最もかけていたのはVegynの"Don't Follow Me Because I'm Lost Too!"(『僕に聞くななぜなら僕も迷ってるから!』)というミックステープで、数十秒からおよそ三分まで、長さはまちまちの曲が七十五曲、計二時間半分入っているものである。Vegynは二〇一九年のアルバムや去年のEPがとても好きなので、七十五曲も入っているミックステープが出て僕はまず大喜びしたのだが、それに加えてうれしかったのは、このミックステープがどうぞシャッフルしてくれといわんばかりの作りになっていたことだ。七十五曲、よくできたものから作りかけのようなものまでが、アルファベット順に並んでいる。そこには単にアルファベット順に並べたということ以上の意図は(おそらく)なく、すなわちシャッフルしろ!ということなのだろうと僕は受け取った。僕はこのミックステープを風呂場でシャッフルで流した。特に夏場はほぼ毎晩のようにこれを流していたと思う。だから、Vegynが同じようなミックステープを二〇一九年にも出していたと気づいたときはうれしさ二倍だった。"Text While Driving If You Want to Meet God!"(『神に会いたければ運転中にスマホをいじれ!』)という七十一曲入りのミックステープである。

songwhip.com

 Vegynのミックステープ二枚・計一四六曲でも飽きずに一年過ごせそうだったが、もちろん気分というものがある。夏の終わりから秋の盛り上がりのメロウな時期、僕の風呂場ではSam Gendelが活躍した。Sam Gendelは、特に活動を追っていなくても、たまに確認すると新しいアルバムがしれっと二、三枚出ていてすごい。パートナーの妹である十一歳の少女と一緒に作ったというアルバム"LIVE A LITTLE"には特に異様なよさがあり、とてもよかった。

 同じSam仲間の、Sam Wilkes & Jacob Mannの"Perform the Compositions of Sam Wilkes & Jacob Mann"もとてもよかった。ゆるい空気をまといながらもよく引き締まった良曲が続くアルバムだ。

 また、風呂場と相性がいいのがトラップである。僕はLil Babyの"It's Only Me"やDrake & 21 Savageの"Her Loss"をシャッフルでかけた。特にDrakeの声というのは、やはりいつもフロアを沸かしているからか、風呂場でも響きがよく、スターのなんたるかを教えられた。21 Savageのローテンションの「トゥニワン……」もよい。

 これ以上はふつうに羅列になりそうなので、それならば今年よかったアルバムをふつうに羅列します。



■よかったアルバム

 

  • Big Thief "Dragon New Warm Mountain I Believe In You"(2022年もっとも好きだったアルバム。11月の来日公演に行ってからさらに好きになりました。2枚組アルバムのなかでのオールタイムベストかもしれない)

    songwhip.com

  • Vegyn "Don't Follow Me Because I'm Lost Too!"(2022年もっとも聴いたアルバムですが、曲と曲名は最後まで一致せず……)
  • 柴田聡子 "ぼちぼち銀河"(ブルース的なかっこよさが格段に増した気がします。特に「夕日」~「ぼちぼち銀河」の流れ。そしてそのあとの跳ねるような「24秒」のよさよ……)
  • Alex G "God Save The Animals"(レコードの帯に「万物を救う「神」の歌」と書いてあってウケました)
  • Rosalía "MOTOMAMI"(9月くらいにようやくこのアルバムの凄まじさに気づきました。"SAOKO"のMV、衝撃的にかっこいい。そして2022年もっともグッドメロディ、"HENTAI"かもしれない……)

    www.youtube.com

  • The Weeknd "Dawn FM"
  • Arctic Monkeys "The Car"
  • THE 1975 "Being Funny In a Foreign Language"(よきポップアルバム。いい意味ではったりがうまい気がする)
  • SZA "SOS"(SZAはラッパーなのかもしれない。と思いきやポップパンクあり、テイラー・スウィフト調もあり。アルバム中2回出てくるTravis Scottがまたよい)
  • Jockstrap "I Love You Jennifer B"
  • Perfume Genius "Ugly Season"
  • サニーデイ・サービス "DOKI DOKI"(なんというみずみずしさ!)
  • Weyes Blood "And In The Darkness, Hearts Aglow"
  • BEYONCÉ "RENAISSANCE"
  • Florist "Florist"
  • Sam Wilkes & Jacob Mann "Perform the Compositions of Sam Wilkes & Jacob Mann"
  • caroline "caroline"
  • Black Country, New Road "Ants From Up Here"
  • Ulla "form"
  • Mura Masa "demon time"
  • Little Simz "NO THANK YOU"
  • Drake & 21 Savage "Her Loss"
  • Blood Orange "Four Songs - EP"(これもまた風呂場でよく流しました。ポコポコした音がいい)
  • Tohji "t-mix"
  • Steve Lacy "Gemini Rights"
  • Shygirl "Nymph"
  • Fontaines D.C. "Skinty Fia"
  • Kendrick Lamar "Mr. Morale & The Big Steppers"(僕にとってはスルメ盤でした。正直、出てしばらくはあまりはまっていなかったのですが、リリースされるMVのかっこよさにやられ聴きなおしてみるとなんとかっこいいこと……)
  • Denzel Curry "Melt My Eyez See Your Future"
  • ゆるふわギャング "GAMA"
  • Wu-Lu "LOGGERHEAD"
  • Cass McCombs "Heartmind"
  • Tomberlin "i don't know who needs to hear this…"
  • The Smile "A Light for Attracting Attention"
  • Sam Gendel & Antonia Cytrynowicz "LIVE A LITTLE"
  • Sam Gendel “blueblue”
  • Whatever The Weather "Whatever The Weather"
  • 坂本慎太郎 "物語のように"
  • Harry Styles "Harry's House"
  • Ethel Cain "Preacher's Daughter"
  • Vince Staples "RAMONA PARK BROKE MY HEART"
  • Wilma Vritra "Grotto"
  • 優河 "言葉のない夜に"
  • 岡田拓郎 "Betsu No Jikan"(柴田聡子のライブでも機材をいじりながら弾きぐるっていた岡田拓郎さん、彼岸へ……)
  • Animal Collective "Time Skiffs"
  • Charli XCX "CRASH"
  • tofubeats "REFLECTION"
  • Mount Kimbie "MK 3.5:Die Cuts  City Planning"
  • 中村佳穂 "NIA"(ライブはほんとうにすごかった)
  • FKA Twigs "CAPRISONGS"
  • 宇多田ヒカル "BADモード"



■よかった本

 

 読んだ順に、乗代雄介『十七八より』、近藤聡乃『A子さんの恋人』、シオドア・スタージョン『不思議のひと触れ』、滝口悠生『長い一日』、佐川恭一『舞踏会』、町屋良平『ほんのこども』、乗代雄介『パパイヤ・ママイヤ』、エイドリアン・トミネ『長距離漫画家の孤独』、ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』、デニス・ジョンソンジーザス・サン』、後藤明生『蜂アカデミーへの報告』、村上春樹羊をめぐる冒険』、ジョン・ウォーターズジョン・ウォーターズの地獄のアメリカ横断ヒッチハイク』、ハーラン・エリスン『死の鳥』、マシュー・シャープ『戦時の愛』がよかったです。あとはさいきん『SLAM DUNK』を読んでいます。すごいです。試合中、全員に見せ場があり、でもそれらが単なる作劇上の都合ではなく、見せ場のための見せ場ではなく、あくまで自然な試合展開のなかに次々現れるのがすごい。登場人物たちが生きている、と強く感じさせるような。そしてその延長線上に『A子さんの恋人』もある気がします。作者自身の思索を登場人物にしゃべらせているのではなく、登場人物たちが自分たちで考え、感じ、言葉を発している感じ。その結果、恋バナから人生の話へ……。

 やはり僕は、登場人物たちが生きている(あるいは生きていた)と感じさせる作品が好きで、そういった意味で滝口悠生や乗代雄介の小説もかなりいいです。特に『長い一日』はすごかった。作者自身が見た、聞いた、触れた感覚の延長で「私」が描かれる。そしてその「私」がいつしか、妻や友人にもすり替わりながら文章が進んでいき、世界が拡張されてゆく。そこにユーモアがあるのもよかったです。

 いっぽう、積ん読はどんどん増えてゆきます。 



■よかった映画

 

  • 『みんなのヴァカンス』(シンプルに脚本がいい、そして俳優の最もみずみずしい表情を映画に収めている。それがギヨーム・ブラックのすごさだと思いました。物語のフォーカスがひとからひとへと自然にスライドしていき、予期せぬタイミング、予期せぬ形で相互理解が訪れる素晴らしさ。奇跡のようなカラオケシーンがとてもよかったです)
  • リコリス・ピザ』(最高)
  • 『ケイコ 目を澄ませて』(三宅唱監督はなによりまずみずみずしい瞬間を映画のなかに収めるのが抜群にうまい。そしてリズミカルなミット打ちの気持ちよさ……、あれのことを、一緒に観たひとは「ヨネダ2000みたいだった」といっていたけれど、でもまさしく音と動きの映画だった)
  • 『NOPE/ノープ』(最高)
  • 『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(今年観たので今年)
  • ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』(旧作)(徹底的に生活の導線と反復が描かれるなかで、やがてそれが揺らぎ、乱れてゆく。規則的に配置された定点カメラによって、ひとりの女性の心の機微が克明に記録されている。反復する日常のなかで、映画的な面白さや緊張感を保つための省略がなされ、いっぽうでなんでもないような長回しが入る。その長回しがかなりよかったです。皿を洗うとか、じゃがいもを剥くとか、映画史上で見落とされてきたであろうシーンが連続し、それらと同じテンションでとうとつな幕切れが訪れる)
  • 『RRR』
  • 『北の橋』(旧作)
  • 『カモン カモン』
  • 『あのこと』(やっていることはとてもシンプルなようで、シンプルゆえにものすごい緊張が続く。全員観たほうがいい)
  • 『彼女のいない部屋』(技巧があくまで話を語るために存在する、いい例)
  • トップガン マーヴェリック』
  • 『THE FIRST SLAM DUNK』(すさまじい緊張感。回想も多く交えているとはいえ、描かれているのはあくまで試合の40分間だけなのに、2時間みっちり作って、しかも体感としては試合を観戦しているかのように感じさせるすごさ。時間の魔術師……)
  • 『グリーン・ナイト』(これと『ザ・バットマン』は青年の成長譚としてとてもよかった。でも単なる成長譚ではなく、ものすごく変な映画だったのでなおよし)
  • 『女っ気なし』(旧作)
  • 『スペンサー ダイアナの決意』
  • 『LAMB/ラム』(雄大な自然)
  • 『さかなのこ』
  • 『アネット』(観た直後は戸惑いが勝ちましたが、けっきょく年末になって思い出すのは『アネット』のあれやこれや……)
  • フィールド・オブ・ドリームス』(旧作)

 

 みずみずしさと緊張感、大事。



■その他よかったもの/こと

戦場ヶ原へ……
  • 戦場ヶ原:夏と秋の間くらいのどこかの休みの日、昼過ぎにふと思い立って戦場ヶ原まで車で行った。途中から雨が降ってきて、車の外はとても半袖では立ちゆかないほど寒くなった。いろは坂を上り、中禅寺湖を横目に車を走らせた。僕たちは道の駅のようなところでものすごく薄いただのビニールのようなレインコートを買って、戦場ヶ原へと足を踏み入れていった。僕たちと、もうひとり妙齢の女性しかひとはおらず、戦場ヶ原にはしとしとと雨が降り、靄がかかっていた。早朝に見る謎の夢のような日だった。
  • 101回目のプロポーズ』:ほんとうにおもしろかった。名作と呼ばれているものはきちんとおもしろくてすごい。
  • 文フリ:今年はふたりで書いて出せました。
  • Big Thief来日公演:ほんとにすごいバンドだと思います。
  • 『メディア王』:まだ途中ですが、とてもおもしろい。ケンダル、元気を出して……!

 

 以上になります。

スタンドバイミー

 その夏、わたしたちのあいだで映画『スタンド・バイ・ミーごっこが流行した。といってもわたしたちは十二歳ではなく二十七歳だったし、死体を探しに行っていたわけでもない。映画終盤の「あの頃のような友だちはそのあと持ったことがない」みたいなせりふ、あるじゃないですか。あれをいかにしんみりいえるか、ということを競うゲームをやっていた。

 せりふをしんみり響かせるためには、その前段階として思いきりはしゃぐ必要がある。はしゃぎっぷりがよければいいほど、そのあとのせりふとのコントラストが際立ち、しんみり度が増す。いかにしてはしゃぎ/どのタイミングで/どのような表情で/どのような声色でせりふを発するか、といういくつかの点で工夫しがいがあり、ちゃんとやれば実は競技性の高いゲームなのだ。

 しかしわたしたちには、競技性をさらに高めていこう、とか、業界全体を盛り上げていこう、とか、そのような志はいっさいなかった。部活でもあるまいし。そもそもわたしたちははしゃぎのバリエーションを持っていなかった。はしゃぐとは、わたしたちにとって、夜の公園でブランコに乗って靴飛ばしをやることや、夜の公園でジャングルジムのてっぺんで小さく高笑いをすることだった。とにかく夜の公園でしかはしゃいだことがなく、他のアイデアも思い浮かばなかった。当時のわたしたちはふたりとも会社員として働いていて、それぞれに残業があり、一度家に帰って湿気を存分に吸い込んだ洗濯物を取り込むなどしてから、ジャージに着替え、集まれるのは夜の十時頃のことだった。わたしたちは決まって平日に、週二回か三回ほど集まった。

 ひどく暑い夏だった。昼間の暑さは、日が落ちてからも肌にまとわりつき、錆びついた遊具をもじめっと湿らせた。鉄のにおいがした。

 わたしたちは夜の公園ではしゃぎ、せりふを発し、しんみりした。

 いま思うと、映画内のリバー・フェニックスらはべつになにも考えないではしゃいでいたわけではなく、それぞれに切実さを抱えており、だからこそあのせりふが効果的に響いたのだろう。その夏のわたしたちに切実さがあったのかはわからない。文子ちゃんが切実だったかどうかはわたしにはわからないし、わたしも当時のわたしのことをわからない。切実だった可能性はおおいにある。二十七歳というのはひとが切実さをまとう年齢だ。しかし、仮に当時のわたしたちが切実だったとしても、それとはまったく関係なく『スタンド・バイ・ミーごっこをやっていた。文脈から切り離された「あの頃のような友だちはそのあと持ったことがない」が夜の公園に響き、わたしたちをしんみりさせた。

 せりふをいうのは文子ちゃんの役目だった。それはもともとこのゲームの発案者が文子ちゃんだったからというのもあるし、単純に文子ちゃんのほうがせりふの発し方がうまかったからというのもある。わたしは何度やっても直前まではしゃいでいた余波を引きずってしまい、ほのかな笑い交じりのせりふになってしまうのだった。文子ちゃんは大学時代に演劇をやっていたからか、全力ではしゃいでいるところから急転換して厳かな調子でせりふを発することができた。せりふは文子ちゃんの自由なタイミングで発せられた。ブランコから飛ばした靴が砂山のいちばん高いところに乗って、ふたりとも思わず歓声をあげたその刹那、「あの頃のような友だちはそのあと持ったことがない」。公園の入り口近くに置いてある自販機でポカリを買ったとき、ルーレットが7、7、7、ときて最後どうなるか緊迫の一秒、「あの頃のような友だちはそのあと持ったことがない」。文子ちゃんはぼんやり遠くを見るような顔でせりふを発し、すんとした。せりふが発せられると、わたしもはしゃぎを急いで引っ込め、すんとした。夜の公園に、ばったや鈴虫の鳴く声と、ときおり近くを走る車の音だけが響いた。

 自由なタイミングとはいっても、文子ちゃんがせりふを発するタイミングは、わたしもここだろうなと思うタイミングとだいたい重なった。わたしたちが夜の公園ではしゃいでいると、決定的瞬間といえそうなタイミングが訪れるのだった。決定的瞬間はひと晩に一回しか訪れないこともあれば、四回も五回も訪れることもあった。ふつうに遊んでいるだけだったら気がつかず、なんとも思わないような瞬間が、せりふを発しよう発しようと意識を張ることではじめておもしろいと思える瞬間へと転じる。もちろん、同じ夜を過ごしていてもどの瞬間をおもしろいと思うかはひとによって違うだろうが、文子ちゃんとわたしはたまたま同じ瞬間をおもしろく思うことが重なった。

 八月も終わりに近づいたある夜、今日はすずりちゃんのせりふ聞いてみたい、と文子ちゃんがいった。ほのかに秋のにおいの混じった夜だった。あたし、すずりちゃんの声好きなんだよね、こんなちょっと涼しい夜にぴったりだと思う。そういってくれたのを覚えている。その夜、わたしたちははしゃぎの舞台を砂場に設定した。熱帯夜にはじめじめしていてはしゃぎにくかった砂も、その夜はさらさらしていて、月の光を受けてかすかに光っていた。どこかの子どもたちが昼間に遊んだまま忘れていったのだろうか、砂場にはショベルカーのおもちゃが五台も置いてあって、それを使ってわたしたちは大掘削工事を進めた。砂場からはビーズ、しゃぼん玉を吹く棒、グミのごみ、金のイヤリング、ファミレスでレシートを丸めて入れる透明の筒、シャネルの香水瓶、ブラックパンサーのマスク、入道雲のミニチュア、石油、鯨の心臓、瓶にホルマリン漬けになったガラケー縄文時代弥生時代のあいだの幻の時代の土器が次々と出土した。

 なにかが出土するたびにせりふを発すべき決定的瞬間であるように思われた。しかしためらっているうちにもう次のものが出土してしまう。いつまでも入れない大縄跳びのようだった。これ、止まらないね、これじゃ火炎大縄跳びだね、と文子ちゃんもいってくれた。文子ちゃんとわたしの感性が似ているのであれば、文子ちゃんも今夜は決定的瞬間を見極めるのに難儀しているはずだった。わたしは次から次へと現れる出土品に戸惑いながらも、この状況を文子ちゃんと共有できているのがうれしかった。わたしが頭のなかで思っていたのと同じたとえを使ってくれたのもうれしかった。正確にいうとまったく同じというわけではなく、文子ちゃんはなぜか縄跳びに火炎をまとわせていたが、でもいまそんなことはどうだっていい。わたしがそのあともタイミングを見つけられず、けっきょくせりふをいわなかったこともどうだっていい。その夜を境にわたしたちの集まりがめっきり減り、いまとなってはどこでなにをしているのかお互いに知らなくなっているのもどうだっていい。とにかくそのとき、文子ちゃんとわたしは、止めどなく出土するわけのわからないものたちを前に、戸惑いながらも、ほんとうのはしゃぎを体験していた。

ひげ、上から剃るか? 下から剃るか?

 ひげ剃りって、どんな感じでやってます? というのも、ひげを剃るときって、みんなそれぞれ決まった順序があると思うんですね。だってそりゃ、肌に刃物をあてるわけですから、無秩序にはやってられないでしょう。私の場合、あ、私の場合どうするかをお話ししていいですか。すみません、私の場合は、まず顎からいきます。顎というか、喉仏のあたりから、剃刀を逆さに持って、ゆっくりこう、すいっといくわけです。というのも、私はいまだにT字剃刀を使っていまして、T字剃刀というものは、逆さにしたほうが切れ味が出るからなんですね。ひげが生える角度に対して、逆目にいくわけです。しかし実際のところどのくらいなんでしょうかね、T字ではなく電動を使っているひとの割合というのは。私も電動がいいかな、電動のほうがいいんだろうな、とは思いつつ、ただただ惰性でT字剃刀を使い続けていますね。失礼、脱線しました。とにかく、私はT字剃刀を逆さに持って、こう、顎をすいっといきます。それで、顎の頂点まで達するんですね。頂点というか、なんですか、顎先とでも形容しましょうか。そこから今度は、えらにいくわけです。右のえらから、頬へ。外側から内側へと、これも剃刀を逆さに持ってすいっといくんです。そして今度は左のえらから頬をすいっと。そして次に人中をいきます。人中というのは、ここ、鼻と唇の間のここですね。すみません、もしかするとご存じだったかもしれません。しかし私は私のひげ剃りについてひとに語るとき、いつもこの人中の説明をしてしまうんです。というのも、ご存じないひとが多いのですよ、ここを人中と呼ぶことをね。まあ私にしたって、人中と呼ぶということを知ってるだけであって、意味や由来は知りませんので、偉そうなことはいえないのですけれども。それで、まあなんですか、この人中をすいすいっと剃るわけです。そして最後に眉毛のあたりを整えるなら整えて終わり。これが私のひげ剃りの一部始終です。これを全部、T字剃刀を逆さに持ってやっているわけですね。しかし、このひげ剃りルーティーンのなかで、実は剃り残しが出てしまっているんです。というのも、私は左利きなのですが、左手でT字剃刀を逆さに持って、こう、すいすいっと顔のうえを動かしていくなかで、どうしても手首の構造上剃りにくい場所があるんですよ。それが、先ほど顎先といいましたこの顎の先の、ちょっと左、ここですね。私は割れてないのであれですが、仮に顎が割れているひとでしたら、左の山ですね。いわゆるけつ顎の、左の山です。私はここを毎回剃り残して、そのまま気づかずにお風呂を出てしまいます。結果、どういうことが起こると思いますか。そう、剃り残されたこの部分のひげだけが長く長く伸び続けていくんですね。見ていただければわかると思いますし、さわっていただいてもけっこうです。このひげがどうも、なにかの仙人みたいだということで、私は知人の間では、すけべ仙人と呼ばれています。

 僕の目の前に座っている男は、そこまでいっきに話すとレモンサワーをすすった。彼がさっき身振り手振りを交えながら話していた間に、仙人みたいだというその細長いひげの束が少し漬かってしまっていたレモンサワーだった。
 僕と彼は面識がなかった。僕と彼がどうして一緒のテーブルにいるのか、僕にはよくわからなかった。店内でサッカー日本代表の親善試合にさほど興味のない客が、このテーブルになんとなく自然に集まったのかもしれない。でも僕はサッカー日本代表にまったく興味がないわけではない。いまの代表が歴代でもトップクラスに強いことくらいは知っているし、目の前の男が顎を突き出してエア剃刀をすいすい動かしている間、奥のテレビをぼんやり見て、青のユニフォームの選手が攻めているときには少し前のめりになっていたのだ。それなのに僕は、いつのまにかこのテーブルに集められて、知らない男の知らない話を聞かされていた。一緒に店に来たはずの住岡くんは、前のほうでポロシャツをぴちぴちに着たお兄さんたちとがっしり肩を組んで試合を見ていた。
 目の前の男の、仙人みたいだというその細長いひげの束を僕は見た。毎日のひげ剃りルーティーンのなかで剃り残しになり、そこだけいつまでも剃られないまま気がつけば長く伸びてしまっていたというそのひげの束は、しかしそうとは思えないほど小ぎれいに整えられていた。およそ三十本ほどの黒く美しい毛は、長さもよく揃えられ、さっき先のほうがレモンサワーに浸かってしまっていたとはいえ、清潔な艶もあり、毎日しっかりケアされているに違いなかった。なにより、全長二十センチほどあるひげの中央のあたりが、ピンクのかわいらしいゴムで束ねられていて、そうなるともう「毎回つい剃り残しちゃう」という男の話はまったく信用ならないのだった。

 いや、あんたそのひげしっかり整えてますやん、と僕じゃないひとがいった。うちの髪よりきれいやわ。ひげの男の話を僕と同じように聞かされていた女性だった。メッシのシュートくらいきれいやん、知らんけど、と彼女は続けた。メッシのシュートがどれくらいきれいなのか僕も知らなかった。ひげの男も知らなさそうだった。サッカーのことをあまり知らない三人がこのテーブルに集まっていた。三人ともサッカーを知らないし、お互いのことも知らないのだった。うちサッカー興味ないのよ、と彼女は僕に向かっていった。そうなんですか、と僕は思った。サッカーよりよっぽどこの仙人のひげのほうに興味あるわ、と彼女はいった。それについては、悔しいけれど僕も同意見だった。
 いやあね、私としても不本意なんですよ、このひげを整えるのは、と男がいった。最初から整えていたわけではないんです。さっきの話のとおり、最初は剃り残しでした。剃り残しているうちに、いつの間にか伸びて長くなっていた。自分でも気づかぬ間に。そこまではほんとうなんです。でもね、あるときふと、知人にいわれました。なにその仙人みたいなひげ、というふうにね。そこで私も気づいたわけです。あれ、なにこの仙人みたいなひげ、とね。その時点でもう十センチくらいになっていたんでしたっけ。もう立派な仙人になっていたんですよ。しかし、気づいてしまってはもうしょうがない。あくまで剃り残しということにしながら、伸ばしていくしかないわけです。一箇所だけ長く伸びて、すけべ仙人だなんて呼ばれて。ようするに、「おいしい」と私は思ってしまったわけですね。剃り残してしまった結果、仙人と呼ばれ、みんなに愛されているというこの状況が。そうなるとこのひげは非常に大切です。私に仙人の地位をもたらしたわけですから。顎の左側だけでなく右側も伸ばしたらもっと仙人の雰囲気が増すでしょうが、そうなるととたんに剃り残し感がなくなってしまう。このアンバランスな感じも、親しみやすさを生んでいるのでしょうね。ですので、あくまで左側だけ剃り残すようにしています。あくまで自然な感じで。そうやって、剃り残してしまっている感じをナチュラルに残したいのですが、しかしどうしてもかわいくてかわいくて。だから毎日シャンプーとリンスで洗って、やさしくドライヤーで乾かして、ときどきこんなふうにゴムで束ねているんです。これくらい許されると思いませんか。
 うーん、わかんないけど、やっぱりゴムで束ねてると自然じゃなくなっちゃってますよね、と女性がいった。シャンプーとかリンスとかくらいだったらいいと思うけど。
 そうか、そうですよね。ゴムはやめます。ありがとうございます。そういうと男はピンクのゴムを外して、アロハシャツの胸ポケットに入れた。どうですか、自然な感じ、出ていますでしょうか。出ていますかね、ありがとうございます。それでね、実はここからが本題なのですけれども、と彼は今度は僕に向かっていった。あなた、ひげ剃りって、どんな感じでやってます? というのも、あなた、かなり剃り残してるんですよ。
 え、ほんまや、きみ、めっちゃひげあるやん! 毛量やば! こんな生える? なんで気づかんかったんやろ。やば。
 そう。この方の剃り残し、やばいんですよ。
 仙人どころやないやん。
 ええ、悔しいですが、正直私なんかとは比べものになりませんね。入店したとたんに目に飛びこんできました。なんだ、あの異様な風体のお方は、とね。
 異様どころやないよ。モリゾーやん。
 モリゾー、ですか。すみません、私はモリゾーを存じ上げないのですが、あなたがいうとおりおそらくモリゾーなのでしょうね。しかしあなたがこちらのモリゾー様に気づかなかったのも無理はありません。剃り残しというのは、剃り残され、忘れられているものであるわけですから、まずモリゾー様ご本人も気づいていないわけです。そうなると、周りの人間もなかなか気づきにくい。なにせご本人が平気な顔をして暮らしているわけですから。ほら、私ひげ生やしてますよ、かっこいいですよね、というアピールがまったくなされないまま、そのひげは生えているわけですから。よほどふだんからひげに興味を抱いて生活しているひとでないと、ひと目で気づくのはなかなか厳しいでしょうね。
 そういうもの?
 ええ、まあ、そういうものです。
 そんできみもなにかいいなさいよ。
 いえ、おそらく、モリゾー様はショックで固まっておられるのでしょう。なにせこんなにすさまじい量のひげがご自身に生えているなんて思ってもみなかったでしょうから。
 かわいそ……。
 モリゾー様、さっき私がひげ剃りのルーティーンの話のなかで、人中について少ししつこく言及していたのを覚えてらっしゃいますか。あれ、伏線だったんですよ。
 なんであんた側が伏線張んねん。ヒントやろ。
 そう、ヒントですね。私からモリゾー様に、人中にすさまじい量のひげ生えてますよ、剃り残しちゃってますよ、というヒントを出していたわけです。しかしまあ、これだけの量になるまで剃り残していたお方だ、それしきのヒントではお気づきになられませんでしたね。
 この量生やしてて気づかんことある?
 実際お気づきでなかったわけですからね。ほんとうにこのお方は仙人どころではない、大天使のポテンシャルがありますよ。
 剃り残しの量に比例して位が高くなるシステム?
 まあそういうことになるでしょうね。いまはショックで固まっておられますが、これからも剃り残しつづけて、大天使の道を突き進んでいただきたいものですね。しかしもう気づいてしまったわけですから、あくまで自然にね。
 気づかせたのあんたやねん。あんたが教えなかったらそのまま大天使道を爆走してんねん。
 ははは、大天使モリゾーですね。
 なにがやねん、もうええわ、ありがとうございました。

 そういって僕に向かって一礼すると、ふたりはテーブルを去っていった。僕は漫才コンビ誕生の瞬間を見せつけられたのだった。マジなことをいうと、ショックで固まっていたわけじゃなくてひげが邪魔で口を動かせなかったのだった。あの仙人は大天使の道を突き進めとかいってたけど今日帰ったらすぐ剃るつもりだった。僕は自分のべしゃり一本でやっていきたいのだった。こんなひげがあってはしゃべれない。大天使の地位なんていらない。僕はべしゃりで生きていく。べしゃりでいいグルーヴを生む。あのふたりの掛け合いはまだまだ荒削りだったが、たしかにあの時間、このテーブルにはいいグルーヴが生まれていた。いいコンビになると思う。僕も早くグルーヴを生みたい。だから帰ってすぐ剃る。剃るし、今後はぜったい剃り残しがないようにマジで気をつける。住岡くん、僕、先帰るね。がんばれ日本代表!

ザ・ライズ・アンド・フォール・オブ・ウズシオブルー

 東に千葉のラッカセイント、西に福岡の明太番長、北に山形のちぇりちぇりレディがそびえ立つ、かつてないほどの群雄割拠のなかで、わが徳島のウズシオブルーがいかにご当地ヒーロー界の覇者となり、やがて鳴門海峡の泡のごとく消えたか。
 「鳴門の渦潮の力を操る女の子」。ヒーローの特徴というものは端的にひと言でいい表されるべきだ、という信条を持つ文子ちゃんによって、ウズシオブルーはそのように形容された。詳しい説明なんてのは気になったひとがあとから聞けばいいわけで、まず興味を持ってもらうことが大事。だからまずは端的にいわなくちゃ。それで、相手がもし詳しく聞きたくなったなら、こんな感じにいえばいい。「水星で生まれたウズシオブルーは、朝から晩まで元気はつらつな女の子。ひととおりの教育を受けたのち、広い銀河系のなかから武者修行の地として選んだのはここ徳島。ある日たまたま乗った観潮船のうえで、彼女は渦潮の力を手に入れて……」
 徳島出身でないどころか、地球生まれですらないんだ、とわたしは思った。これだと徳島である必然性がないし、渦潮の力を手に入れる経緯もただの観光客みたいじゃない? てか武者修行ってなに?
 そう、まさにそここそがミソなの、と文子ちゃんはいった。いわく、ヒーローは偶然誕生するべきものなのだ。特に深い意味のない武者修行で徳島にやって来て、たまたま渦潮の力を得る。ヒーローの誕生なんてものはそれくらいがちょうどよくて、宿命なんていらない。死んだ親から引き継いだ力とか、何千年も前から続いてきた神話的な因縁とか、そういう暑くるしいものが出る幕はない。伏線や文脈や意味があってはいけないの。
 水星生まれなのはなんで? なんか意味ありそうじゃん? とわたしが聞くと、文子ちゃんは、あたし実は水星好きなんだよね、とはにかみながら答え、しかしその笑顔をすぐに引っ込めて、でも、と続けた。あくまであたしが水星好きというだけであって、作中のウズシオブルーとはなんら関係はないから。そういうものか。週に一度、わたしたちはゼミ室に集まってこんなふうに会話をしていた。四月に先生が関東の学会に出るために休講になって、以来先生は戻ってこず、もともと学生もわたしたちふたりだけだったこともあって、こうやって毎週集まって自由研究をしているのだった。先生が戻ってこないなんてそれこそ意味ありげだが、わたしも文子ちゃんも現実の意味ありげなことにはあまり興味がない。「地球人の友だちに連れられて乗った観潮船のうえから、彼女はエメラルド色の飛沫を上げる水面を眺めていた。渦潮とよばれるその自然現象は彼女の目の前でいよいよ勢いを増してゆくようだった」それでこのあとどうなると思う? どうなるって、力を手に入れるんじゃないの? そう、あたしは力を手に入れる。あたしは目の前でぐるぐる回る渦潮に吸い込まれて、ぐるぐる、ぐるぐる回って、自分の部屋のベッドで目を覚ます。ベッドはびしょびしょに濡れてて、あたしは自分の手からエメラルドの水がどくどく流れ出してることに気づく。地球人なら慌てるところだろうけど、水星人は慌てないかな。すぐにその力にも慣れて、ウズシオブルーとして覚醒するってわけ。いや、手から水は変か。手っていうか、手首からかな。
 てことはスパイダーマンと同じ位置だね。
 しっ!
 どうやらわたしの知らぬ間に、文子ちゃんのなかでは文子ちゃん=ウズシオブルーということになっているようだった。現実の文子ちゃんと作中のウズシオブルーはなんら関係がないとさっき文子ちゃん自身がいっていたが、それでも文子ちゃんはウズシオブルーなのだった。ひとが物語の主人公になるとき、論理なんて必要ない。しっ、と左の人差し指を立てて古典的な仕草をしている文子ちゃんのその細くて白い手首をわたしは見た。ふれると簡単に裂けてしまいそうなきめ細やかな肌にうっすら透けて見える血管はたしかにエメラルド色にも思えた。けれど文子ちゃんがこの華奢な手首から螺旋状に渦巻く必殺技ウズシオトルネードを炸裂させる姿や、あるいはジェット噴射によって空高く飛翔してゆく姿は想像しがたく、わたしは思わず、ちょっとどんな感じかやってみてよ。
 一瞬の間があいたのち、文子ちゃんは背筋をぴんと伸ばして、やります、と宣言し、口の前に掲げっぱなしになっていた左手をほどくと、今度は中指と薬指を折り込んでアロハの亜種みたいな形を作った。その形は明らかにさっきのスパイダーマンということばに引っ張られていて、文子ちゃんが、しゃ、と振ってももちろんなにも出てこな、いや、なんかティーシャツ濡れたんだけど。え? しゃ! え、出てる? 出てる! しゃ! しゃ! しゃ! しゃ! しゃ! しゃ! そうしてわたしたちのゼミ室はあっという間に水浸しになった。

 文子ちゃんはそのあともウズシオブルーに情熱を注ぎ続けた。週に一度ゼミ室に集まって、文子ちゃんがウズシオブルーの物語を語り、わたしはそれに相槌を打った。ウズシオブルーは連戦連勝、挫折も敗北も知ることなく邁進し、徳島県内ではすぐにあるていどの地位を築いた。
 ウズシオブルーが勝ち続けられたのは、単にめちゃくちゃ強かったから。彼女が操る渦潮の力は常に敵を圧倒した。文子ちゃんの口から語られるウズシオブルーの戦闘シーン、ウズシオブルーが一度たりとも窮地に陥ることなく、必殺技ウズシオトルネード一発で敵を撃退する描写には、常にそうなるとわかっているのにも関わらず毎回カタルシスがあった。文子ちゃんの語り口には現場で見ているかのような臨場感があり、それは語りが進むごとに増し、ウズシオブルーとの距離は縮んでゆき、戦いの最後にウズシオトルネードを放つのは常に語り手である文子ちゃんになっているのだった。
 それでね、敵も火炎玉みたいなのを撃ってくるんだけど、そんなのこっちにかすりもしないわけ。当たりそうになったところでどうせウズシオにかき消されちゃうんだけどね。そしてやけくその火炎玉を撃ちつくしてぜえぜえいってる敵に最後にあたしは放つのです、必殺、ウズシオトルネード! しゃ! しゃ! しゃ! 文子ちゃんはウズシオブルーの戦いを気持ちよさそうに語り、聞いているわたしとしても気持ちがよく、週に一度、ゼミ室にただただ気持ちよい時間が流れた。週に一度、水浸しになるゼミ室でわたしたちはぷかぷか浮かんだ。
 楽しい時間は、しかし長くは続かない。気持ちのよい数週間が過ぎたのち、わたしたちの自由研究タイムはとつぜん終わりを告げた。水曜日の夕方、わたしがいつもみたいにゼミ室に行くと先にいたのはなんと先生。あ、先生、戻られたんですね。おや浦島さんじゃないですか、元気でしたか、見るからに元気そうですね、ところで単刀直入にお聞きするが、白石さんがウズシオブルーなのかね? あまりにも単刀直入だったのでわたしは思わず、え、はい、そうみたいですけど、と答えてしまった。やはりそうか……、ふふ、まさかこんなに近くにいたとはねえ、といいながら両手を後ろに組む悪役仕草で、ゼミ室をゆっくり歩き回る先生を前に、わたしは縛られているわけでもないのに手も足も口も動かせず、とにかく文子ちゃんが来ないことを祈った。しかしもちろん文子ちゃんは来る。バァンと勢いよくドアを開け、開口いちばん、きさまは千葉のラッカセイント! よくもすずりちゃんに! と縛られてもいないわたしの手や足を縛っていた紐をほどいてくれ、そこでわたしは自分が縛られていたことに気づいた。関東の学会に出席するといってそのままずっと留守にしていた先生が、千葉のラッカセイントとして戻ってくるなんて、ヒーローの物語に伏線はいらないといっていた文子ちゃんの信条に反するんじゃないの、とわたしは思ったが、先生と文子ちゃんはすでに戦いはじめており、わたしの疑問の差し込まれる余地はない。
 さすがに関東の守護神と呼ばれるラッカセイント、ウズシオブルーとも渡り合うかと思われたが、しかしよく見るとラッカセイントの放つ落花生はひとつもウズシオブルーには当たっておらず、たいしてウズシオブルーのウズシオは確実にラッカセイントの右ボディ左ボディを削ってゆき、必殺技ウズシオトルネードが放たれるまでもなくラッカセイントのギブアップで戦いは終了した。かのラッカセイントがこんなに弱いなんてにわかには信じがたいうえに、彼が戦いに突入する前に悪役っぽい雰囲気を出していたのもよくわからず、それにさっきはいえなかったけれどやっぱり先生の正体がラッカセイントだったなんてそんなべたな伏線、文子ちゃんらしくないよ、とわたしは思った。床にうつぶせてまだ起き上がれずにいるラッカセイントに尋ねると、やはり彼はラッカセイントではなく、ただ学会からの帰りが遅くなってしまっただけの先生だった。いくら文子ちゃんが先生のことを嫌いだからといっても、さすがにこれはやりすぎだとわたしは思った。文子ちゃん、このひとラッカセイントじゃなくてわたしたちの先生だよ、とわたしが振り返ったときにはもう文子ちゃんはゼミ室を飛び出していて、走れば文子ちゃんになんてすぐに追いつけただろうけれど、わたしはただ立って、長い廊下の向こうに消えようとしている細い脚や細い腕や長い髪を見ていた。窓からさす夕日がそのすべてを照らしていて、水星人みたい、とわたしは思った。

 その後のウズシオブルーの活躍は広く知られるとおり。若くして徳島一、ひいては四国一のヒーローに上りつめたウズシオブルーは、山形のちぇりちぇりレディ率いるガールズチームに合流。ここ三百年で最も大きく凶悪なダークゲートが長野に開いてしまったときには、ウズシオを逆回転させることで時を戻し、闇の勢力をみごと封じ込めた。不仲説が囁かれていたラッカセイントとも茨城事変の際に共闘してファンを大いに沸かせ、初の単独主演ドラマ『水星にも渦潮はあるか』がファンと批評家筋の双方から絶賛された年、史上三番目の若さで人気総選挙第一位に輝いた。名前を呼ばれ、照れくさそうに壇上に上がってトロフィーを受け取るウズシオブルーの姿を、わたしはスマホの割れた画面で見ていた。あの、みなさんほんとにありがとうございます。トロフィーけっこう重いね。えっと、あたしがいいたいのは、あたしだけの力じゃここまで来られなかったということです。まずはファンのみなさん、そしてちぇりちぇりレディ、そして、……と名前が列挙されていくお決まりのくだりの最後に自分の名前が呼ばれたので、わたしはびっくりしてスマホをラーメンの上に落としてしまった。
 最後に、もちろん、すずりちゃん。きみがいなければあたしは地球での暮らしのことなんてなんにもわからなかっただろうし、きみがあの日観潮船に誘ってくれたから、いまこうしてウズシオブルーとしてここまで来られました。ほんとにありがとうね。すずりちゃん、ねえ、久しぶりに会わない? 明日の夕方、あのゼミ室で。明日の夕方ってそんな急な、と思いながらわたしは残りのラーメンをすすり、オフィスに戻って私用で早退すると告げてその足で羽田空港に向かい、その三時間後には徳島阿波おどり空港にいた。二年ぶりの徳島だった。勢いで早く来たものの、このままでは明日の夕方までやることがなく、わたしは文子ちゃんに、もう徳島着いちゃった、とラインした。すぐに既読がついて、あたしも笑。もう集合する? どこ? 銅像のところにする? はーい。阿波踊り銅像のほうに向かって歩きながら、ゼミ室集合じゃなくていいのかい、とわたしは笑った。
 ねえすずりちゃん海行かない? 文子ちゃんはわたしの顔を見るなりそういった。何年かぶりの文子ちゃんは相変わらず透き通るように白く、相変わらず華奢な手首にはエメラルド色の血管が流れていた。どこかで飲むのもよさそうだと思っていたけれど、別に海に行かない理由もなかったので、いいね、と答えた。あたし実は渦潮見たことないんだよね、と文子ちゃんはいった。そんなことだろうと思った。
 濃い橙色の海のうえを観潮船は走った。なにも考えずに、海きれいだねー、夕日きれいだねー、なんてつぶやいているわたしを尻目に、文子ちゃんは渦巻いているところがないか、波と波の間に目を凝らしていた。ねえ、すずりちゃんも手伝ってよ、といわれて、わたしも仕方なく探しはじめたらすぐにそれっぽいのが見つかって、ねえ、文子ちゃんあれじゃない? え、どこ? どこってほらあそこじゃん、ほら、わたしのところから見てさ。え、どれだ? え、あれ? あれ渦潮? うお、え、やばいすずりちゃん、渦潮だ! え、やば! こわ! すずりちゃん、こわい! 吸い込まれそう! やばい! と文子ちゃんはびびりにびびり、わたしは笑いをこらえるあまりちょっと泣いた。それから数日後、ウズシオブルーはとつぜん引退を宣言する。人気絶頂のヒーローが引退するなど前例がなく、無数の憶測が流れるが、ウズシオブルーは引退に至った理由をついに明かすことなくあっさりと表舞台から姿を消してしまう。しかしそれはいまこの瞬間よりもう少しあとのこと。いまウズシオブルーはわたしの腕のなかで震えている。渦潮やばかったね。

 

(第五回阿波しらさぎ文学賞落選作)

ズームするバカ(二)

 六月に突入して以降も僕はスマホのカメラでズームすることにはまっていた。スマホの空き容量が少なかった問題も、てきとうにいじっていたら奇跡的にやや空きができて短期的には解決した。長期的な解決には第四次産業革命かなにかを待たなければならないだろう。それは僕ひとりの力ではどうすることもできない問題なので、いまはとりあえず容量がいっぱいになってしまったと通知されるたびに短期的な解決をしつづけるしかない。行こうと思ってけっきょく行っていないレストランのメニュー表のPDFを削除するとか、内部ストレージの隅っこにスラム街を築く容量うめうめマンを退治するとか。

 とにかく空き容量がほんの少しできたため、僕はスマホのカメラでズームして撮影した。撮影は写真だけでなく動画にも及んだ。スマホのカメラを起動し、画面上の任意の場所を指一本でひょいっとさわるだけで、写真モードから動画モードへと切り替わるのだった。日に日に不可解さを増していくこの世界において、写真モードから動画モードへの切り替えだけを僕は迷わずやりつづけ、心の拠り所とすることができた。

 ズームして写真を撮ることが対象物の形を純粋に楽しむことに繋がっているならば、ズームして動画を撮るとはどういうことだろうか。動画の場合であっても、ズームすることはなにかを純化することに繋がっているのだろうか。……そんな疑問はもちろん後づけで、僕はただ楽しくてズームで動画を撮るのだった。動画の場合でも画質の粗さはいい方向に効果をもたらしており、ブラウン管に流れる煙たくて色褪せた映像のようなノスタルジーを僕は感じていた。加工アプリによる作りもののノスタルジーとは違って、スマホのマジのスペックによってもたらされるマジの粗さなので、僕はそれをよしとしていた。よいノスタルジーとよくないノスタルジーがあるとすれば、僕のスマホのカメラのズームがもたらすのはよいノスタルジーだと思った。ノスタルジーのよいよくないがなんなのかはよくわからない。

 しかし撮るうちに否応なしにわかってきたのは、どうも動画というのは字面どおり動きが重要そうだということ。「動画のなかに動きがあることによって、動画に動きが生まれるのか!」と僕は叫んだ。僕がスマホでズームして撮影する動画のなかの動きは、いくつかのパターンに分類された。

 まず僕が定点でスマホを構え、対象物が動くパターン。たとえば走る電車の窓から外をズームで撮影する。どの方向にカメラを向けるかによってできあがる動画はまったく趣を変える。ホームに並ぶ人びとや高層ビルのガラス窓に写る雲を捉えるのもよかったが、僕はレールや電線など、自分の乗っている電車にまつわる機構をおもしろく感じた。車窓から見る電線のおもしろさは"Star Guitar"のMVによってもすでに証明されているとおりだったが、自分の実感として持つことができてうれしかった。工業的なものはおもしろい。巨大であればなおいい。

 次に、僕がスマホを動かして、静止している対象物を撮るパターン。たとえば上野公園の西郷隆盛像を撮るとか。これには多少の技術を要した。というのも、カメラのズームを十倍にまで引き上げると、少しの揺れが画面上の大きなぶれに直結するからだ。ぶれを最小限にするために、僕は極力シンプルな軌道でスマホを動かした。対象物が静止している場合、写真とやや似て、対象物の形そのもののおもしろさが動画のおもしろさにも寄与するようだった。形そのものがおもしろいかどうかと、それが上下左右どこからフレームインしてくるのか、あるいはフレームアウトしていくのか。そしてそのタイミング。同じものを何度も撮影して、どうすればいちばんおもしろいか検証するのがよさそうだと思うが、試してはいない。

 そして、僕もスマホを動かすし、対象物も動いているというパターン。たとえば離陸する飛行機を追うとか。これもスマホの動かし方に技術を要するし、さっきと同じように、対象物のフレームイン/フレームアウトの場所やタイミングを考える甲斐がある。さらにおもしろいと思ったのは、対象物の動きを追って撮影しているときに、その手前をなにかが横切ること。対象物とは関係のないなにかが映り込むことで動画はより充実する。関係がなければないほどよい。

 

 スマホを定点で構えるか、それとも動かすか。対象物が動いているか、静止しているか。二かける二の組み合わせで僕のスマホでの動画撮影は成り立っていた。そうなると、四つ目のパターンとして、静止している対象物を定点で撮る、ということが考えられる。これはまだやっていない。その動画単体でおもしろいかどうかはわからないが、たとえば動画と動画を繋げたなかに、ふとまったく動きのないそういう動画が入っていたら、それはおもしろいかもしれない。「動画と動画を繋げるって、それもう映画じゃないですか!」と僕は叫んだ。それはもう映画だった。そして映画であれば、この動画のなかにひとが登場する。もしかしたら何人か登場し、会話をしたり、歩いたり、走ったり、転んだり、急に叩いたり叩かれたり、笑ったり泣いたりするかもしれない。それらの動きは動画をいっきに充実させる。べつにひとである必要はないが、ひとはおもしろい。おもしろいから映画によく登場するのだろう。さらに映画であれば音響にもこだわることができる。劇伴をつけたっていい。主題やテーマを持たせることだってできる。もちろんなんのテーマもない物語を描いたっていい。長さだって自由だ。無駄なくコンパクトにまとめてもいいし、ただ長くしたいがために長くしてもいい。どんなコンテクストに則ったっていい。則らなくてもいい。『トップガン マーヴェリック』と『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』と『ブンミおじさんの森』と『ヴァンダの部屋』と『話の話』を同じ映画という言葉でくくることができるのが映画というものだ。観るほうも好きにしていい。どんな映画を好きになってもいいし、好きにならなくてもかまわない。映画はそれを観るひと、観ないひと、すべてのひとに開かれている。映画はすごい!

ズームするバカ

 夏のにおいが立ちはじめる五月という季節がそうさせるのか、それとも単にそういう機能を活用するすべを見つけた喜びからか、僕はスマホのカメラでズームして写真を撮ることにはまっていた。いや、季節は関係あるまい。
 僕のスマホのカメラでは十倍までズームすることができた。べつにスペシャルなスペックのカメラというわけではないが、僕の目ではこんなにズームすることなどできないので、まず間違いなく僕自身よりは有用だった。考えてみれば僕はなにもできない。ズームもできないし撮影もできない。LINE Payの登録の仕方もわからない。僕には有用なところがなにもない……。そ、そんなことねえっすよ! ほら、がんばってズームしたんで見てくだせえ! へへ、画質が悪いのはご愛嬌でさあ! とカメラが見せてくれた写真はいうとおり明らかに画質が悪く、しかしそんなところも愛らしい。

f:id:hellogoodbyehn:20220520232142j:image

 ズームすることのよさはいくつかあった。まずズームすることそれ自体が楽しいのだった。目の前に広がる風景に向かってスマホを向け、カメラを起動し、左手の人差し指と親指で画面を広げるようにフリックする。画面の端にはその時点でカメラが何倍までズームしているかが表示されていて、僕はいっきにそれを十倍まで引き上げる。そうすると画面に写っているのがなんなのか一瞬わからなくなる。それはもちろん目の前の風景のどこか一部だ。しかしそうとはわからないほどに、画面に写るものはユニークな色や形をしている。そのことがまた、ズームすることのひとつのよさでもある。ズームは目の前の風景を異物にする。画質の粗さもまた異物感を助長している気がする。未確認飛行物体がまさに地球に降り立たんとする瞬間を捉えた写真だといわれればそんな気がするし、じゃがいもとさつまいもの禁断の逢瀬を捉えた写真だといわれればそんな気がする。なんといわれてもそんな気がするほどに、ズームした画面に写るものは、ズームされた目の前の風景から切り離されている。

f:id:hellogoodbyehn:20220520234207j:image

 もうひとつのよさはテクニカルな部分の話で、というよりはノンテクニカルな部分の話といったほうがいいのかもしれないが、ようするにズームして写真を撮る場合、いわゆるうまい/へたというような価値判断は関係なくなるのだった。写真の何をもってうまいとするかはひとによるだろうし、そもそも写真にうまい/へたなどないという議論ももちろんあるだろう。しかしここではいったんそういう話は置いておいてください。とにかく、ズームして写真を撮るとき、すべてのうまい/へたは関係なくなる。構図も光も関係なくなるし、現代社会を鮮やかに切り取る視線も、親密な者どうしにのみ生まれる弛緩しきった空気感も関係なくなる。すべてがズームされ、すべての価値判断が無効化された場で、僕たちはなにも気にすることなく写真を撮ることができる。
 つまるところ、ズームをするということは、あらゆる文脈から解き放たれるということなのだ。目の前の風景からも、世の中に存在するあらゆる価値判断からも。すべてを置き去りにして突き進んだところに、ズームをするという行為のみが立ち上がり、ズームするものとされるものが正対するのだ。

f:id:hellogoodbyehn:20220521000813j:image

 いや、そんなことなくないすか? とカメラがいい、これまで僕がズームで撮った写真を見せてくる。たしかにそんなことないかも……。それらの写真のほとんどは風景から切り離されてなどおらず、構図があるていど気にされており、僕なりのうまい/へたの価値判断に照らされ、へたと見なされたものは削除されていた。僕と僕の写真はまったく文脈から解き放たれてなどいなかった。そうなると、僕がさっきズームすることのよさとして挙げていたことのうち、「目の前の風景を異物にする」ことと「うまい/へたという価値判断から関係なくなる」ことは嘘ということになる。僕はそれらをただ文章としてかっこよさそうだからという理由で挙げていたに過ぎず、そもそもズームすることのよさが「いくつか」あると書いたのも、ひとつだとなんだか収まりが悪いと思ったからで、ほんとうははじめから「ズームすることそれ自体が楽しい」というだけでズームしていたのだ。ただ楽しくてズームしているだけのおバカだと思われたくなくて、見栄を張ってしまいました……。でもそれでよくないすか? と僕がいう。カメラはいわない。カメラははじめからひと言もしゃべっていない。まるでカメラが言葉を発しているかのように書いていたのも、そのほうが文章としてかっこいいのではないかと思ったからというだけに過ぎない。
 でもそれでよくないすか?
 いや、よくないのだろう。それでよくないすか、がまかりとおるなら警察はいらない。カメラが言葉を発しているかのような文章を意味もなく書いてはいけない。理由がひとつだと収まりが悪いからといって、見栄を張って「いくつか」と書いてはいけない。意味ありげなことを意味もなくやってはいけないのだ。しかし、ただ楽しいからズームすることはべつに悪いことではないだろう。世のなかの多くのひとだって、ただ楽しいから、寝たり食事をしたり風呂に入ったりしているのだ。意味ありげなことを意味もなくやってはいけないが、意味のないことなら意味なくやっていい。意味がないのだから。

f:id:hellogoodbyehn:20220521000903j:image

 ということで僕は意味なくズームした。ズームすることにはまると、日常のなかでなにをズームしたら楽しそうか、視線を巡らせるようになった。色より形が目に入るようになり、きれいだから/美しいから/かっこいいからというよりは、純粋に形がおもしろいからという理由でものにカメラを向け、ズームするようになった。たとえば、橙色の夕焼けより、その手前で影になっている電柱の形のおもしろさを写真に残したくなった。水面に映る飛行機雲より、その水面に揺れる波のひとつをとらえたくなった。なんでもないドアノブや、フライパンの持ち手を撮りたくなった。でも僕がそれらを撮ることはもうない。スマホの容量がいっぱいだからだ。僕にはスマホの容量の空け方がよくわからなかった。そんなに古い機種ではないし、そんなに重いデータが入っているわけでもないだろうに、なぜ容量がいっぱいになってしまっているのかもよくわからなかった。とにかく容量がいっぱいだといわれてしまっているのだった。ローカルに溜まりに溜まってしまったデータを、この壮大な宇宙のどこかにあるクラウドと呼ばれる地に移すことができればいいのかもしれない。そんな地がほんとうにあれば、の話だが……