バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

逆上がりを盛り上げろ!

 クラスのみんなが逆上がりを成功させていくなかで、一度もできていないのはとうとうゴロコちゃんと志の輔くんだけ。ゴロコちゃんには逆上がりのメカニズムがどうしても理解できなかった。志の輔くんはシンプルに腹筋がかなり弱かった。しかし生まれながらの努力家だった志の輔くんは、自らに腹筋一日五百回を課し、はんぺんのようだった腹筋をみるみるうちにワッフルのように変貌させた。「僕、今日は逆上がりできると思う」。ある夏の日の給食の終わり、そんな宣言と共にTシャツをたくし上げ、焼きたてのワッフルをちらっと見せた志の輔くんに、クラスみんな沸き立ち、一斉に校庭へ。鉄棒をしっかり握りしめて息を整える志の輔くんに、生唾ごくり。不格好に地面を蹴った足はやや前方に力がかかりすぎているように思われたが、鍛え上げた腹筋の力でどうにか持ち上げ、最後は一気にくるり。一拍遅れて沸き起こった歓声はそのまま志の輔コールに変わり、周囲の下級生まで巻き込んで昼休みじゅう校庭に鳴り響いたのだった。でも、そのとき、ほんとうはゴロコちゃんも逆上がりできるようになっていた。うちのほうがアピールが下手くそだったから盛り上げられなかったってわけ。もちろん志の輔くんは悪くない。すごいと思う。でも、うちの逆上がりには誰も注目してくれなかったの、ちょっとひどくない?

 とゴロコちゃんはいうのだった。

 小学三年生のときのそんな苦い思い出話を聞かされて、わたしは最初に「志の輔くんって、あの〝腹筋王〟志の輔?」と聞き返してしまった。サマリちゃんがいぶかしげにわたしを見た。

「うん」

 ゴロコちゃんがさほど気にする様子もなく答えてくれたので、いまが軌道修正のチャンスだとばかりに、「へえ、ゴロコちゃんあの志の輔と小学校同じなんだね。いや、でもゴロコちゃんに誰も注目してくれなかったっていうのはひどいね」とサマリちゃんがいった。

「まあ、たかが逆上がりの話なんだけどさ、志の輔くんがあんなに喝采浴びてたからなんか余計に寂しかったな」

「なるほど、志の輔ってやっぱり小学生のときからスターなんだね、なるほどなるほど、でもそれにしたって誰もってのはひどいなー、誰もかー、そうだ、いまから鉄棒探して逆上がりしようよ、あたしたち盛り上げるからさ」

 サマリちゃんもやはり志の輔のことが気になっているようで、それを取り繕おうとするために会話が変な方向に行っていた。でもわかるよ。わたしはもう〝腹筋王〟志の輔に思考のほぼすべてが支配されていて、ゴロコちゃんの逆上がりエピソードにかまう余裕がない。

 サマリちゃんの変な提案によって、わたしたちは鉄棒を探しに外に出なくてはならない。わたしもサマリちゃんも正直志の輔の話をもっと聞きたいし、そもそもいまさら逆上がりで盛り上がってゴロコちゃんはうれしいのか、とゴロコちゃんを見ると、よし、じゃあお会計しようか、と店員さんを呼んでいて、ややうきうきしているようにも見えるので、ならいいか。

 

 〝腹筋王〟志の輔がメディアに登場し始めたのはおよそ五年前のことだった。最初はおもしろ一般人みたいな感じで取り上げられ、トークバラエティーや、ときに単独での街ブラロケまでこなすうちに、あれよあれよという間に〝腹筋王〟としてお茶の間に定着していった。この時代にお茶の間なんてないか。リビング、湯舟、ベッドのなか、どこでもいいが、彼を映す画面があるところに定着していった。「とんでもない腹筋を持つ男性」。それが〝腹筋王〟という呼び名の由来だった。「っ」と「ん」と「おー」が入って絶妙に舌ざわりがいいうえに、まるで腹筋ひとつで一国一城の主まで昇りつめたかのようなコミカルなストーリーまで喚起される。完璧な名前だった。

 王という言葉の印象もあってか、彼は単なるおもしろの枠を超え、いつしかスター性を纏っていくようになった。彼の放つ言葉は、聞いたその場で感銘を覚えることはないものの、なんとなく含蓄があるような気がし、聞いた各人がそれぞれの心のなかで咀嚼するうちにゆっくり消えていった。彼がロケで訪れた店は、その後飛ぶように売れるということはないものの、なんとなく来客が増えたような気がし、売り上げなどの数字では測れない効果がありそうなのだった。短期的で一時的なインパクトを与えるのではなく、じんわりと残って、いつの間にか消えている。その掴みどころのない神秘性が、彼をスターへと押し上げた。

 彼の神秘性を一段と高めているのはその腹筋だった。「とんでもない腹筋を持つ男性」としてメディアに登場した当初から彼は、ただの一度も、その腹筋を見せたことがなかった。誰も見たことがなかった。彼が自らの腹筋に言及することもなかった。見せてもらえないかどんなに懇願されても、彼はくだんの神秘的な調子でやんわり断るのだった。腹筋を見るためならば強硬手段をも辞さない構えでいた者も、彼に断られるとまあいいかという気分になった。「まあ、とんでもないっていう噂なんだし、実際とんでもないんだろう」。火のない所に煙は立たぬ理論で、どうもとんでもない代物らしい、という噂だけがひとり歩きし、彼は〝腹筋王〟の地位を確固たるものにしていった。

 そんなわけで、志の輔の腹筋が実際どんなふうにとんでもないのかはこれまで誰も知り得なかった。〝腹筋王〟研究は完全に停滞しきっていた。しかしそんな業界に目覚めの一石を投じるのが、さっきのゴロコちゃんの話なのではないか──。わたしとサマリちゃん、特にサマリちゃんは興奮を抑えきれずにいた。だって、さっきの話だと、志の輔は努力でとんでもない腹筋を作り上げたってことじゃん? すごくない? てか小三で学校を沸かすレベルなら、そのあとどうなっちゃうのさ? てかゴロコちゃんって中学校とか高校とかも志の輔と一緒なのかな? てかゴロコちゃん地元どこだっけ? 口からトランプが飛び出すマジックみたいにサマリちゃんは次々と疑問を繰り出して、わたしに囁いてきた。

 わたしはそれらに相づちを打ちながらぼうっと歩いていた。

 外はえらく寒かった。

 わたしたち三人の鉄棒探しの隊列は、いつの間にか先頭ゴロコちゃん、その後ろに並列でサマリちゃんとわたし、というワントップ型になっていて、しかもあろうことか後ろのふたりはゴロコちゃん抜きでこそこそ話しているのだった。本来ならばわたしかサマリちゃんが前を歩いてもっと積極的に鉄棒を探し、ゴロコちゃんにきもちよく逆上がりさせてあげるべきはずだった。それなのにゴロコちゃん前を歩かされていてかわいそうだな、とわたしも頭の隅ではわかるものの、思考のほとんどが腹筋王に支配されており、そこに寒さも加わって、なかなか動き出すことができない。だいたい、わたしたちが歩いているのはラブのホテル街で、こんなネオンひしめくなかに鉄棒なんてあるのかいな、とわたしは頭の隅で思うが、それを指摘することもできない。ゴロコちゃんはずんずん進んでいた。わたしとサマリちゃんはただただ足を動かしていた。

 

 しかし意外なことに、そのホテル街のなかに鉄棒はあった。ホテルとクラブに挟まれた小さな緩衝地帯のような一ブロックに、鉄棒がひとつぽつんと立って、黄色と桃色のネオンを受けて鈍く光っていた。うちここに鉄棒あるって知ってたんだよね、とゴロコちゃんがいった。なんであるんだろうね、酔い醒ましで回ったりするのかな、とゴロコちゃんがいった。うわ、冷た、とゴロコちゃんがいった。てか、うち、鉄棒さわるの超久しぶりだ、とゴロコちゃんがいった。わたしとサマリちゃんはそのあいだずっとぼうっとしていた。わたしとサマリちゃんがようやく目を覚ましたのは、ためらいがちに鉄棒を握りしめたゴロコちゃんが、すごい速さでぐるぐる逆上がりしはじめたときだった。

 ゴロコちゃんは回り続けていた。わたしが目を覚ましたときにはおそらく連続でもう五回転か六回転はしていて、それでも勢いは衰えるどころか、むしろいよいよ増してゆくように見えるのだった。わたしたちは

「ゴロコちゃん……」

 とだけいって、しばらく唖然としていたが、その唖然としているあいだにもゴロコちゃんは回り続けていた。わたしはいったん止まって説明してほしいと思う一方で、でもこういうのって一度波に乗れたらなるべく止めずに続けたいもんね、と妙に寄り添う気持ちもあり、どう声をかけようか決めあぐねているそのあいだにもゴロコちゃんは回り続けていた。わたしたちがどうしようと、たぶんゴロコちゃんは回り続ける。そうなるとわたしたちとしては当初の目的である盛り上げに徹するしかなかった。

「すごい」

「すごすぎる」

「回りすぎじゃない?」

「そういうボケかと思ったけど、顔がマジそのものだね」

「何回転した?」

「どっち回りかもわからなくなってきた」

「盛り上げ方も正直よくわからない」

「いい意味でね」

 盛り上げ方がわからない、に、いい意味なんてない。

 そして、すべてのものごとには終わりがある。ゴロコちゃんの逆上がりもその例外ではなかった。わたしたちがけっきょく盛り上げきれないまま、ゴロコちゃんはふと回転を止めてしまった。息ひとつ切らしていないゴロコちゃんはわたしたちの盛り上げ失敗など気にしていないふうだったが、そんなゴロコちゃんに甘えるのもよくないと思い、わたしはとりあえず

「ゴロコちゃん、ごめん」

 といった。

「ううん」

「でもすごかったよ」

「マジですごかった。てか、小三のときもゴロコちゃんがすごすぎてみんな盛り上がり方がわからなかったんじゃないの」

 とサマリちゃんがいった。これはかなり気が利いているとわたしは思った。盛り上がり方がわからない、をいい意味で使えていて、さすがサマリちゃん、とわたしは思った。

「そんなことないよ。うちらの小学校、みんなこれくらいできたし」 

「あ、そうなんだ」

 気が利いているかのように思えたサマリちゃんの言葉だったが、みんなできたのなら仕方ない。ゴロコちゃんも笑いながらいっていたし、わたしもサマリちゃんも、あーそうなんだなるほどねー、とへらへらしていたが、場の空気はしんみりしてしまった。

 

 うちもうちょっと逆上がりしていくね、というゴロコちゃんを置いて、わたしとサマリちゃんは緩衝地帯を後にした。盛り上げに失敗したうえにしんみりした空気にしてしまったのはわたしたちなので、ゴロコちゃんが逆上がりしているのを待って、一緒に帰るべきなのではないか、とわたしは思ったが、サマリちゃんいわく、今日はそっとしておいたほうがいいらしい。そこの塩梅がわたしにはまだわかっていない。ホテル街の細い道を曲がって、ぐるぐる回転するゴロコちゃんの姿が見えなくなると、サマリちゃんが「てかさ」と口を開いたので、さっき失敗しちゃったね、という話が始まるのかと思いきや、

「てかさ、ゴロコちゃんの小学校の子、みんなあれできるんだったら、みんな腹筋すごいってことかな? だって逆上がりってほぼ腹筋じゃん? そのなかでいったら志の輔の腹筋もふつうなのかな? どういう地域? あ、てか志の輔が腹筋見せたがらないのって、志の輔の腹筋なんて地元じゃたいしたことないからかな? 謙遜ってことかな? ゴロコちゃんが志の輔のこと話したのって、志の輔の腹筋なんて地元じゃたいしたことないんだってことを暗に伝えたかったからかな?」

 と怒涛の考察が展開されたので、わたしは「ああ」と相づちを打ちながら、サマリちゃん、考察を話すためにゴロコちゃんを置いてきたのかいな、と思い、考察が一段落したタイミングで「やっぱり戻ろうよ」といった。サマリちゃんが「それもそうだね」というので、わたしたちは歩いた道を引き返し、さっきの緩衝地帯に戻った。ゴロコちゃんの逆上がりはますます速さを増していて、周りのホテルのネオンを反射して光の車輪みたいになっていた。それがはたしてゴロコちゃんなのかどうかももうわからなかった。日も沈んでますます寒くなっていたけれど、光の車輪のそばはほんのりあたたかいような気がした。わたしとサマリちゃんはどちらからともなくその場に体育座りして、どちらともなく手を前にかざして焚火の体勢をとった。サマリちゃんが「あったかいね」といって、わたしは「あったかいね」といった。そうしてわたしたちはいつまでも回る光の車輪を見ている。