バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二三年七月の日記

7/1

 散々っぱらいわれているだろうが湿気がやばい。というかそもそも雨が降っているので湿気がやばいのは当たり前ではあるのだが、雨が降っていることによる湿気という以上に空気の一粒一粒が湿り気を帯びていて、雨によって湿気が増しているというよりは、やばすぎる湿気がたまたま雨という形を取っている、そんなふうに思えてくる。連日の頭痛もたぶん、この湿気が鼻や口や耳を通して頭のなかに入り込んできていることに因るものだ。それは鼻をいきおいよくかんだくらいでは追い出せない。

 Joanna Sternbergというひとの新しいアルバム"I've Got Me"がとてもよかった。Neil Youngの"Harvest"やJoni Mitchellの"Blue"を初めて聴いたときのように沁みわたる。単純にめちゃくちゃいいメロディが、けしてうまいわけではない歌声で綴られる、なんとなく外れものの雰囲気を持った作家だ。

 

7/2

 日差しの強さだけ影は濃くなる。今日みたいな日は影にとっては最高の日で、僕が日なたに出たとたん、僕の影は水を得た魚のようにくっきりと現れて跳ね回る。

 一年前にも同等かそれ以上のものを体験したであろうに、生まれて初めて浴びるようにしか思えない残虐な日差しに顔を歪め、身を焼かれながら歩く僕の重い足取りとは裏腹に、足の裏にぴたりとくっついて離れない僕の影はコンクリート固めの地表をすいすいと泳ぐ。段差を見つけるごとに楽しそうにひらひらと踊ったり、戯れにタクシーに轢かれてみたり。身体中のあらゆる穴から汗を垂れ流しながら日陰を求めてさまよう僕には、自らの影をたしなめる余裕はない。

 こんなふうに書くとまるで僕がずっと外を歩いて日差しに焼かれ続けていたかのように響くけど、そんなことはなくて、今日はむしろなるべく日差しに当たらないように上手に過ごせたほうだと思う。ただ、ちょっと外を歩いたときの暑さについて文章にしようとするとどうしても大げさになる。なんというか、ひとを大げさにさせる暑さなのだ。ところで実際の僕がどのように過ごしたかということを日記に書くべきだとすると、それはこんなふうになる──朝早く起きて、五反田のTSUTAYAで借りた『それでも、生きてゆく』の続きを見た。今日は晴れているおかげなのか頭は痛くなかった。一話分を見てから外に出て、同居人の運転の練習をすべくタイムズのカーシェアを借りて、なんとなくで武蔵小杉を目指し、そのあと阿佐ヶ谷を目指し、そのあと帰ってきた。日曜の午前中の都内は比較的空いていて、ペーパードライバーの同居人の練習にはうってつけだった。車内ではいつの間に出ていたネバヤンの新譜などを流した。車を返却してからお昼を定食屋で食べ、僕は家へ戻り、同居人は爪をやりに行き、そのままご両親とインディ・ジョーンズを観に行った。家に戻った僕は部屋を涼しくして乗代雄介の新刊『それは誠』を読んだ。ホールデン・コールフィールドじみた語りのなかに、「僕(たち)にしかわからない僕(たち)のことを、それでも長々と書きつけることで何光年か先にいるかもしれないひとに読まれるかもしれない」とでもいうような乗代雄介らしい信念が貫徹されており、かつ美しさに満ちた小説でとてもよかった。しばらくしてから僕も僕でインディ・ジョーンズを観に行った。映画館への行き帰りではリル・ウージー・ヴァートの新譜を聴いた。僕はリル・ウージー・ヴァートの快楽的でありながら憂いを帯びた楽曲が好きで、そこからメタルにも接近した今回のアルバムはさらなる唯一無二性を獲得していると思った。めちゃくちゃなことをしているとも思った。インディ・ジョーンズは相変わらず史料を破壊しまくっており、話の内容はこれまでにもしかすると過去最大級にトンデモで変な映画だった。インディ・ジョーンズの話の筋なんてトンデモでいいと思うし、実際今回はかなりトンデモだったのだが、ジェームズ・マンゴールドという監督は真面目なひとなのか、トンデモなりにきちんと過程を描こうとするあまり途中でダレる感じがし、眠くもなった。でも老いたインディ・ジョーンズのほぼ裸体が序盤で現れるところや、終盤の死にゆく老人の郷愁のようなものにはマンゴールドらしさが現れているようでもあって、そこはよかった。いい終わり方だと思った。映画館を出てから、夕方以降はなんとなく涼しくなってよかった。同居人は帰ってきてから美容院にも行っていた。

 

7/3

 蒸し暑いねえ、昨日の夜はちょっと涼しいと思ったのに、今日はどうしちまったってんだ、といいながら会社を出た。同居人と集合して、イメージフォーラムで『こわれゆく女』を観た、あらためてすごい映画だ。大学生の頃にパソコンの小さな画面で観たのとはやはり迫力が違って、たゆたうジーナ・ローランズの一挙手一投足、ピーター・フォークの怒声、子供たちのイノセンス、カサヴェテスお得意の顔面どアップ撮影、すべてが目や耳に迫ってき、「とにかく人間の顔や身体をカメラで追い続けりゃ映画になんねん」といわんばかりの生の実感を伴った映像に圧倒された。ジーナ・ローランズ演じるメイベルが精神的な不調をきたしていく様を描いているようで、実はおかしいのは彼女を取り巻く環境すべてで、とりわけピーター・フォーク演じる夫のニックのモラルハラスメントや自分本位の思いやりのなさはひどい。そういう意味では描かれている事象の意味が反転するフェミニズム的な文脈の作品なのかと思いきや、メイベルとニックの間には単なる機能不全の夫婦としては片づけられないほどの親密さがあって、単純な読解を拒否する。イメージフォーラムの地下スクリーンは冷房がやや効きすぎていて、同居人は鼻水を出してしまっていた。

 

7/4

 『それでも、生きてゆく』を見進めた。

 

7/5

 『それでも、生きてゆく』を見進める日々。

 

7/6

 今日見た夢:昼間だった。同居人の運転で車に乗っていて、たぶん僕の実家のほうの沼沿いを走っていた。ふつうに仕事のある平日なのに、僕は会社に「私用で遅れます」とでもいってそんなことをしているようだった。僕は助手席に座っているつもりだったが、いつの間に助手席には空気階段の鈴木もぐらが座っていて、僕は後部座席に移動していた。もぐらが不意に僕のスマホを取り上げていじり始めたので、むきになって取り返そうとしたが、もぐらの力が妙に強くて歯が立たなかった。僕ともぐらがそんなことをしているあいだにも同居人は黙々と運転していた。車は一度も止まることなく走って、日差しが眩しいと思ったところで目が覚めた。

 今日の昼休み:会社のオフィスビルの下には緑と水色と白のコンビニがあって、そのさらに下にはスーパーがある。スーパーとコンビニでは同じ商品でもスーパーのほうが断然安い場合が多く、たとえば五〇〇ミリリットルのペットボトルだとコンビニではもはや一六〇円くらいしてしまう(隔世の感!)のが、スーパーではギリ二桁円に留まっていたりする。その値段の差はコンビニのコンビニエンス性に由来するものなのかもしれないが、僕個人としてはコンビニのコンビニエンス性がペットボトル一本につき六〇円もあるとは思えないため、さいきんはできる限りスーパーで買うようにしている。実家にいた頃の習慣からか、スーパーといえば大仰なカートを引いて家族の生活の買い出しをする場所という印象が強いため、カートを引かないばかりかカゴも持たず、ペットボトル一本のみを握りしめてレジに並ぶのはちょっと大げさな感じがしておもしろい。いまどきのスーパーにはセルフレジもあって、ペイ系をやっていればそちらで支払うこともできるのだが、(思想・信条から来るこだわりではなく単に怠惰なゆえに)僕はペイ系をやっていないので、大げさなレジに並ぶしかない。というわけで今日も大げさなレジに並んでいたのだが、もう次が僕の番だというところで財布を持っていないことに気がついた。ポケットにはSuicaしか入っていなかった(Suicaこそペイ系なんかより先にスマホに入れるべきものなのだが、もちろんこれも怠惰ゆえにやっていない)。スーパーではSuicaでの支払いができない。上のコンビニならできる。オフィスまで財布を取りに帰るのもめんどくさい。というわけで、僕はコンビニで六〇円高いペットボトルをSuicaで買った。コンビニのコンビニエンス性の核は、Suicaでの支払いができることでございます。

 今日の僕:会社からの帰りにひげ剃りのフォームと替え刃を買うことができてよかった。いつも買い忘れていて、もうこのままじいさんになるまでガタガタの刃で肌を傷つけながら剃り続けるか、もしくはそのガタガタの刃で怪我をして死んでしまうかしかないと思っていた。John Carroll Kirbyの新譜を聴きながら帰って、そのままの勢いで家事をやることができた。John Carroll Kirbyはいつも蒸し暑い時期にアルバムを出してくれている印象があり、調べたら当たらずも遠からずという感じで、なんともいえなかった。『それでも、生きてゆく』はいよいよ最終回を残すのみとなり、同居人と一緒に見ようと思っているが、同居人は今日友だちと飲んでくるので帰りが遅い。井戸川射子『この世の喜びよ』を読んだり、日記を書いたりしながら待っている。

 

7/7

 今日の日中はずいぶん暑かったようだし夜もさぞかし暑いんだろうねえ、ああやだやだ、と思いながら退社したら存外過ごしやすくて、というか蒸し暑いには蒸し暑いけど予想していたほどではなくて、昼間の暑さと夜の過ごしやすさってもしかしてそんなに関係ないのでは、と思った。けっきょく風が吹いてるかどうかなんだよ。風が頬を撫でりゃ涼しくなる。それは昼の暑さとは関係ねえ。いい風が吹いてるか。いい風が吹いてんのか。それが大事なんだ。けっきょく風なんだ、大事なのは。

 

7/8

 ところで一昨日の夜はけっきょく同居人が夜帰ってきてから『それでも、生きてゆく』の最終回を見て、共に生きていきたいと互いに思いながらも、生き方の問題で別々の道を行く主人公たちの姿に目頭を熱くした。瑛太のいいよどむ発話と満島ひかりのはにかみはほんとうに素晴らしいと思った。徹底的にわかりあえない他者として描かれ続ける文哉(風間俊介)と、それでもいつか一緒に朝日を見たいと願う洋貴(瑛太)のあり方は坂元裕二の真髄なような気もして、それでいうとたしかに『怪物』はあれでいいのかい、という感じもする。ただ、僕はどちらかというと『怪物』は脚本よりは終盤の子どもたちの素晴らしさを評価しているので、話自体がどうこうということについては深く考えられていない。話が逸れたがとにかく『それでも、生きてゆく』は素晴らしかったということです。でも、僕も同居人も一致して「『最高の離婚』のほうが好きだな」という結論になった。題材が違いすぎるので比べるものでもないのだが、同じ坂元裕二脚本で、同じ瑛太主演となればどうしても念頭に置いて話さざるを得ず、見たのがもうしばらく前になるので細部は覚えていないのだが、『最高の離婚』は会話のぜんぶが〝ほんとうのこと〟に満ちていて凄まじい密度だったというおぼろげな印象だけがある。見ている途中にも、見たあとにも、「こういう話を書きたい」と思ったことを覚えている。べつに書くわけじゃないんだけど。でもこの「こういう話を書きたい」という感覚は自分のなかでひとつの拠り所となっているような気もしており、それはようするに「こういうふうに世界を見たい」ということでもあると思うからだ。さいきんでいうと『こわれゆく女』をあらためて観ても「こういう話を書きたい」と思ったし、大橋裕之『シティライツ』にも思った。去年くらいまで遡れば滝口悠生『長い一日』にも思った。「こういう話を書きたい」≒「こういうふうに世界を見たい」という思いを叶えるには書くしかないので、書いてみるしかない。

 

7/9

 先週借りたDVDを五反田のTSUTAYAに返さなきゃいけないので、午前中は借りたなかでまだ観ていなかった北野武座頭市』を観た。同居人の調べによればたけしはこの映画きっかけで金髪になったそうで、似合ってよかったね、と思った。やってみたら似合ったから今日まで続けているのだろうし。DVDを五反田まで返しに行って、帰ってきてから午後はABCお笑いグランプリを見た。令和ロマンはやっぱりすごい。ネットのノリっぽい感じをうまく消化して身体化し、きちんと自分たちのものにしていて、その具合があれくらいの世代(というか僕と同世代なのだけど)の芸人のなかではたぶん頭ひとつ抜けているのだと思った。同じくネットのノリっぽいのといえば真空ジェシカだが、彼らはシンプルに大喜利力が強い。ネットのノリや偏見やあるあるをネタに持ち込むときには、うまく消化したうえでその奥に行けているか、あるいはシンプルに視点やフレーズが強いかじゃないとおもしろくなくて、浅い表層だけを掬っているだけだと個人的には冷めてしまう。今回のABCお笑いグランプリの話に戻れば、ストレッチーズもおもしろかった。屁理屈具合と身体の動かし具合のバランスがとてもいい。

 夜はWBC侍ジャパンのドキュメンタリーも見た。この前映画館で上映されて大ヒットを飛ばしていて、さほど野球に興味のない僕と同居人からすれば信じられず、どんなもんなんだい、と思って見た。興味ないとはいえWBCはちょこちょこと見ていたのでなんとなく知っているひとたちが出てきて見やすかった。野球とはストーリーのスポーツであって、栗山監督は「魂」や「日本人」や「全力で」という言葉を何度も繰り返す。それがいい悪いではなく、これまで形成されてきた文化の集積だと思うし、今回のWBCのストーリーはあまりにもそれらの言葉にマッチしていて、これが上映されていてヒットした理由もそこにあるのかもしれない。いっぽう当の選手たちの言葉は「すげー」とか「やべー」とかが多くて、なんとなくよかった。グラウンドの外であれこれ語っても、けっきょくプレーしている最中にはすげーとかやべーとかにしかならない。

 

7/10

 昼間は会社にいるのでマジの暑さは味わわないで済むのだが、怖いもの見たさというか、天気の話したさで、昼休みに少しだけ外を歩いてみてしまう。暑い! 僕は天気の話をするのが好きなので、昼休みのわずかな時間に得た暑さを持ち帰って、

「今日ほんとに暑いですね」

「今日ほんとに暑いよ」

「今日ほんとに暑かったね」

 と時間帯や相手によって語尾を変えながらいろんなひとに天気の話を振る、といっても今日みたいな平日には会社のひとか同居人くらいしか振る相手はおらず、夜くたくたになって帰ってきた同居人に「今日ほんとに暑かったね」とあいさつのようにいうが、同居人は暑さでへとへとになっていて、暑さについて話すのもいやだという。それならそれでべつに話さなくてもいい。

 『かが屋鶴の間』で、賀屋さんが子どもの頃犬と話せるという設定で暮らしていた、という話になったときに、「出た、海外の緊急来日するひと」「動物と話せる女性ハイジ」という会話になって、聞いている僕もにっこりした。僕も「緊急来日するひとじゃん」と思いながら聞いていたので、かが屋のふたりがバッチリ同じことを思って口に出してくれたのがうれしかった。欲しいフレーズや音がバチッと来てくれたときの気持ちよさというのはお笑いにも音楽にもあって、さいきん聴いているなかだとMetro Boominはそのツボを押さえるのがうまい気がする。ときに、ANOHNIの新しいアルバム"My Back Was a Bridge For You To Cross"(タイトルからして素晴らしい!)がかなり素晴らしくて今日三回聴いた。

 

7/11

 さいきんはもうだいたい頭がうっすら痛い。頭が痛いときには、VegynがプロデュースしてVegynのレーベルPLZ Make It Ruinsから出ているHeadacheというアーティストの"The Head Hurts but the Heart Knows the Truth"というアルバムを聴いている。アーティスト名にもアルバム名にも頭痛を冠していて、どういう意図かはわからないがたしかにこの淡々としたビートとシンセとポエトリーリーディングは頭痛にいい気がする。べつに頭痛を和らげてくれるわけではないがすんなり聴ける。でもこのHeadacheがどういうアーティストなのかはさっぱりわからず、音の感じも匿名的ながらいかにもVegynっぽいあたたかさがあるようで、ほんとはHeadacheなんてアーティストはおらずVegyn本人なのではないかという気もしてくる。この謎をはっきりさせるべくアルバム名でググってみると、一番上にはBandcampのページが出てきて、あの、グーグルの検索結果画面にディスクリプションっていうんですかね、リンクの下にそのページの説明のような文言が出てくるじゃないですか、あそこに"About this album. Produced & mixed by Vegyn, all lyrics written by Francis Hornsby Clark, voice by AI."と書いてある。"voice by AI"なの?と思ってBandcampのページに入ると、そんなことはどこにも書いていない。はて、と検索結果画面に戻ると、"voice by AI"の文字列はなくなっている。僕の勘違いだったのでしょうか、それともグーグルとAIが手を組んで僕を貶めようとしているのでしょうか……。なにを信じればいいかわからない世界で、僕たちはどう生きるか。

 

7/12

 たとえば千葉生まれの僕が関西弁をしゃべるとそれはもうエセにしかならず、それはしゃべるのではなく書くとしても同じだ。僕が関西弁で書いたとして、たぶん本場のひとが見ればエセやってすぐばれんねん。僕がどうしてもエセやない関西弁を書きたいんやったら、関西生まれの友だちを連れてきて監修やなんやしてもらわなあかん。それはべつに関西弁に限った話やない。僕が学校の先生のつもりでなにかを書くんやったら、やっぱり本物の学校の先生に見てもらうなり、取材するなりせんと成り立たん。もしくは現実にはない特殊な学校の先生ってことにすればええのんかもしれんけど、そうやなくて小学校の先生ってもんを書くんやったらやっぱり小学校の先生に聞かなあかん。文章って自由なもんやねんけど、いざ書こうとするとそういう困難さがあるんやろうなと思う。だから身の回りのことから書いていくのかなと思う。

 

7/13

 雨がぱらついたおかげかここ数日では最も過ごしやすい日だった。ほんとは少しも過ごしやすくなんてないのに連日の非常識な暑さのせいでこの程度でも過ごしやすいと錯覚させられてしまっていることが悔しいっすよね、と息もつかずにいうことが、このかりそめの過ごしやすさにたいするせめてもの抵抗である。

 帰ってきたら「ことばの学校」から募集要綱が送られてきていて、たしかに六月のいつかにガイダンスを受けっぱなしで応募もなにもせずに放置してしまっていたので、こういうリマインドはありがたかった。せっかくだから受講しなよ、と同居人にもいわれ、とりあえず聴講生として受講することにしてスマホで応募フォームを順繰りに埋めていったが、意外に項目が多くて挫けそうになりつつ、ことばを扱う講義なのだからそりゃ項目は多いよねと腑に落ちつつ、なんとか埋めきって応募完了した。「言語表現に興味を持ったきっかけはなんですか」みたいな質問があって、えーいつだろう、記憶を遡ってもきっかけっぽいものは見つからない。だいたい僕は昔のことをきちんと覚えていなくて、極端な話、僕にとって昔の記憶というものは「こういうことがあったっぽいです」というような伝聞に近い形になってぼけていっている気がする。三人称視点とまではいかないが少なくともはっきりとした一人称では語られない。『ヤンヤン 夏の想い出』の、映画のスクリーンを背景に、主人公ヤンヤンに稲妻のように初恋が訪れるシーン、ああいうはっきりと映画的なシーンというのは、僕の記憶のなかにはなかなかないかもしれない。むしろ、西向きの窓から差し込んだ夕日が壁に当たって異様に輝いている瞬間とか、日が高くなっても寝ている同居人を謎の角度から見ている瞬間とか、そういうなににも結びつかず脈絡のないシーンばかりが浮かんでくる。そういう瞬間ばかりを描いていたという点でも『aftersun/アフターサン』は好きだった。……「言語表現に興味を持ったきっかけ」はけっきょく思い出せず、とりあえず、藤本和子訳のブローティガンアメリカの鱒釣り』を読んだときです、と回答した。そう回答すればなんとなくそんな気がしてくるので我ながらちょろい。

 

7/14

 流行りものがいいものだとは限らないが、少なくともちいかわはいいものだということが、ここ数日アニメを見進めてわかった。同居人とふたりで「よかったねえ」「こわかったねえ」「あらら、泣いちゃったねえ」などといいながらちいかわたちの生活を見守っている。今日なんて同居人はちいかわとハチワレのかけがえのない友情を見ながら涙ぐんでいた。

 ある日、ちいかわの友だちハチワレが大きな穴に落ちてしまう。底からは空が丸く切り取られて見えるほどに穴は深くて、怖いのを我慢してよじ登ろうとするハチワレだったが、雨が降り始めると滑って登れなくなってしまう(ここで僕は「雨だと登れないのはゼルダと同じだねえ」と本筋からずれたことをいい、同居人は「怖いねえ」とハチワレを思いやっていた)。もう出られないかもしれないと思って泣き出してしまうハチワレ。そのとき、穴の上からちいかわが顔を覗かせる。

 ちいかわは穴の底で泣いているハチワレを見てすぐに降りてこようとするが、ハチワレに「それだとふたりとも出られなくなっちゃうよ」といわれて思いとどまる。なにを考えたかちいかわはどこかに行ってしまい、ハチワレは一瞬不安になるが、戻ってきたちいかわを見て安堵の声をあげる。ちいかわはどこからか集めてきたツタを繋ぎ合わせて、片方の端を木の太い幹に結び、もう片方の端を穴のなかに投げ入れてハチワレが登ってこられるように準備していたのだ(ここで僕も同居人もちいかわの意外な賢さに驚いた)。ちいかわが用意したツタを登るハチワレの背後、穴の底になにかが落ちている。それはハチワレがいつかたくさん働いて貯めたお金で買ったさすまた的な棒で、ハチワレにとって大切なものだったが、それを持ったまま穴を登ることはできないために諦めて置きっぱなしにしていたのだった。

 ちいかわは棒を見つけるとすぐさま穴を駆け降りる。

 ハチワレは驚いて、ちいかわがハチワレの棒のために降りてきてくれたことはうれしく思うが、「それを持ったままだと登れないよ」という。ちいかわは棒を口に咥えて一生懸命登ろうとする。その姿のおもしろさと、自分のためにそこまでやってくれることへのうれしさとで、ハチワレは手に力が入らなくなってなかなか登れない。それでもようやく上まで登ったハチワレが、今度は登ってくるちいかわの手をがっしり掴む、そこで僕が「よかったねえ」と同居人のほうを見るとさめざめと泣いていた。ちいかわは言葉を持たない代わりによく泣く。同居人は言葉を持っているうえによく泣く。多くを語らない作劇とシンプルな線で構成されたちいかわには余白が多くあって、アニメでは語られていない彼らの生活に想いを馳せつつ、それを見ている僕たちの生活や世界の出来事がなんとなく重なりつつ、泣いてしまうのだと思う。

 

7/15

 出かける前に見たちいかわのアニメがまた素晴らしい回で、同居人は朝から涙していた。

 草むしり検定を受けようとしているちいかわを見て、内緒で勉強して一緒に受かって喜ぼうと計画するハチワレ。しかしなんとハチワレだけ受かってしまい、ちいかわは俯いてしまう。ハチワレは自分だけ受かってしまったこともあってなんとなく励ましの声をかけられず、家に帰っても気分が乗らなくて夕飯が喉を通らない。

「同じ気持ちじゃないときって、どうしたらいいんだろ……」

 次の日目を覚ますと、洞窟(ハチワレは洞窟みたいなところに住んでいる)の外からちいかわが覗いている。照れくさそうに渡してくれたのは、ハチワレの形をしたクッキー。草むしり検定の合格祝いで買ってきてくれたのだという。ちいかわは付箋をたくさん貼った草むしり検定の参考書をハチワレに渡してきて、そこから問題を出してくれるように頼む。ハチワレは喜んで引き受けて、ちいかわに向かって問題を読み上げる、その目には涙が浮かんでいる──。というところで「よかったねえ」と同居人のほうを向くと泣いていた。

 三連休初日の朝から泣いていてもしょうがない。同居人が実家のほうで家族と食事するというので、レンタカーを借りて送ることにした。しかし僕たちの頭からは〝三連休初日〟ということが抜けてしまっていて、長く曲がりくねった渋滞にはまり、同居人は家族との食事に遅れてしまった。結果的には遅刻してちょうどいい感じだったらしいのでよしとする。食事のあとは高校のソフトボール部の面々で集まって、そのうちのひとりは中学校の先生でソフトボール部の顧問をしており、ちょうど母校との合同練習があるので、みんなでOGとして参加しようではないかという段取りだったそうで、いまの同居人はふだんまったく運動をしていないのでぶっ倒れないか僕としては心配だったが、今日は曇りだったのでいい感じに楽しめたらしい。

 僕はというと、同居人を送り届けたあと、帰り道では綱島というところの大きなブックオフにも寄れてよかった。レンタカーを返却して一度帰宅してから、五反田のTSUTAYAに行き、おにやんまでうどんをつるっと食べ、渋谷に向かった。イメージフォーラムで『オープニング・ナイト』を観た。今回のカサヴェテス特集では、これで『こわれゆく女』と合わせて二本観たことになるが、大学生のときにパソコンので観たときと同じ、いやむしろスクリーンで観たことで初めて観たとき以上の鮮やかさを持って迫ってきた。大学生のときからいくぶんかいろんな映画を観て、経験値のようなものは少し貯まってきているであろうに、カサヴェテスの映画を観ると新鮮な衝撃を受けてしまうのは、彼の映画が映像的な新しさを追求するより、俳優たちの顔や身体を克明に映し続けることにフォーカスしているからであろう(そしてその結果、あくまで副次的に唯一無二の映像になっているのがすごい)。今日『オープニング・ナイト』を観て、カサヴェテスの映画を観に行くというのは、ジーナ・ローランズを観に行くこととほぼイコールであるとまた実感した。それほどまでにジーナ・ローランズというひとはすごい。『こわれゆく女』と同様に精神のバランスを崩してゆく様ももちろんだが、映画終盤のカサヴェテスとの長いやり取りに果てしなくわくわくさせられた。

 ジーナ・ローランズ演じる舞台女優マートルと、カサヴェテス演じる同じく舞台俳優であるモリス、実生活で夫婦であったふたりが、映画中の演劇でも夫婦役を演じるという二重構造のなかで、自らの、そして相手の老いを認め、即興的に笑いへと昇華して、満員の客席から万雷の拍手を受ける。それをスクリーンの前で観ている僕たちは映画の観客であり同時に演劇の観客でもあって、思わず立ち上がって拍手してしまいそうになるのだ。『こわれゆく女』と似て、一筋縄ではいかない実存の危機を描きながら、最後には喜びの光が射してくるような映画だった。映画までの待ち時間で読んだ井戸川射子『この世の喜びよ』も一筋縄ではいかない愛についての話であると個人的には思えてよかった。併録の「キャンプ」という短編は少年視点の話で、『ここはとても速い川』といい、井戸川さんは少年の話を書くとやはりかなりいいと思った。

 

7/16

 ちっとも笑いごとではない暑さ。

 朝から新宿のTOHOシネマズで『君たちはどう生きるか』を観た。事前情報をほぼ入れず、ジブリ宮崎駿)というブランドとあのポスターだけで二日前からチケットを予約するという稀有な体験と、初っぱなから宮崎駿が監督したジブリの絵が動いているという感激だけで反射的に高評価してしまいそうになり、実際そういった熱に浮かされているという面も多分にあるのだろうが、それを差し引いたとしてもとてもいいと思った。観ているこちらの予想を超えながらとにかく絵の力で推進していく物語、その結果わからない部分も出てくるが、わからないことはわからないままにして説明せず(世界とはようするにそういうものなのだ)、語れることだけを語り、語りたいことだけを語り、最後には「いい友だちを作れ」という単純明快なメッセージだけが手元に残っているという美しさ。あのキャラクターは誰々をモデルにしてるだとか、この描写にはこういう意味があるだとか、そういうことを考えるのももちろんいいが、わざわざそんなことせずにただ二回目を観に行くのもよさそうだと思えた。

 一緒に観た同居人と友だちと焼き肉を食べて、どう生きるかの話もちょっとし、そのあと同居人はまた別の友だちたちとバッティングセンターに行ってから飲むというので別れ、僕と友だちは僕の家に行った。同居人は昨日も今日もかつてないくらいアクティブで、ぶっ倒れるんじゃないかと今日も心配だったが意外に平気そうだった。家に着いたら友だちにちいかわのアニメを見せたり、ニンテンドー64のマリオテニスでもやったりしようかと考えていたが、涼しくした部屋でいったんだらだら過ごしているうちに眠くなって、ふたりともソファに座りながら寝てしまった。起きたらもう日はすっかり暮れていて、ぼんやりしながら解散した。その後もぼんやりしているうちに同居人が帰ってきた。

 

7/17

 池袋で『CLOSE/クロース』を観てから、サンシャインシティ地下のトプカという店でカレーを食べ、そのあと僕はとにかく髪を切りたかったので、同居人がカフェで本を読んでいる間に床屋を探して行った。入った床屋はまだ平成が続いているような雰囲気のところで──単なる印象だけの話だが、池袋にはそういうところがたくさんある──、僕の担当にはおじいさんがついた。おじいさんはヘアブラシを探すのに苦労する様子を見せたり、ハサミをふと見つめて「これでいいんだっけ?」というような顔をしてみせたりと、切られる僕としてはやや不安な幕開けだったが、頭の下から上へとハサミを入れていく手つきはゆっくりとやさしく、かと思えばすきバサミを扱う手さばきは俊敏で、いい緩急のある散髪だった。仕上がりもおおむねよくて、少し前髪が揃いすぎているきらいもあったが、それはそれで味だと思えた。帰ってきてからは先にシャワーを浴び、『ニューヨークで考え中』の最新巻を読み、早めに夕飯を食べて、もう眠い。バルガス=リョサ『緑の家』を少しだけ読み進めてから寝ようと思う。

 

7/18

 週末あんなに暑かったのに、会社で仕事をしている間は誰もその話をしない。帰り際に後輩と一緒になって、

「週末暑かったね」

「まじで暑かったですね」

「日中暑いのはもういいよ。

 でも夕方になってさ、だんだん涼しくなるべきじゃん、なのにぜんぜん暑いのね、西日まで暑いっていうのはおかしいよね。

 西日っていうのは暑くないべきじゃんね」

「そうっすね」

 という話ができてよかった。西日のくだりはうまく伝えられず、西日への思いが強い謎のひとみたいになってしまったかもしれない。

 日曜日に『君たちはどう生きるか』を観て、僕はよくわからないけどとてもよかったと思った。「よくわからないけどとてもよかった」という感覚を僕自身は愛しているけど、よくわからないものをわかりたいという欲望もあり、そして「よくわからないけどとてもよかった」という感想だけをいつまでも持ち続けることは作品にたいして不誠実なような気もして、自分でもちょっと考えてみたり、いろんなひとの感想や考察を見てみたりしている。

 特に映画に関して顕著な現象だと思うけど、新しい作品が公開されるとYouTubeTwitter上にはわらわらと「最速レビュー」や「徹底解説」が出現する。映画は動画、静止画、演技、台詞、劇中の音、劇伴の総合的な芸術であるうえに、そこに誰が出演しているかということや、誰がどういう経緯で作ってきたかという外的な情報も加わり、思考を巡らすときの拠り所となるテクストが豊富で語り代が多いために、多くのひとの考察を喚起するのだろう。

 考察のなかには非常に説得力があって作品理解を助けてくれるものや、作品を補強して僕たちを勇気づけてくれるものもあれば、トンデモなもの、陰謀論にしか思えないものもある。個人的には考察の内容そのものにはそこまで興味を持てなくて、それはまず僕自身がなにかを考えることが苦手だからというのがある。僕が映画を観た直後の感想なんて、たいてい「よかったな」か「(予想を)超えてこなかったな」くらいなもので、そんなぼんやりした状態のところに「あのシーンの謎を全部解説します」と意気込まれても気持ちは追いつけない。(それに、全部わかってしまう映画は、それはそれでつまらないと思う。むしろわからなさが残る映画にこそ惹かれてしまう。)

 そしてそういう僕自身の愚かさとは別に、〝徹底解説〟的なものにたいする反感のようなものもある。それらが僕たちの「よくわからないものをわかりたい」という欲望にうまくハマってしまうからこそ、余計に反感は大きい。〝徹底解説〟と銘打っているひとはなぜすべてを断定的に語れるのか、なぜすべてを意のままに解釈できるのか、という違和感、端的にいえば「お前は誰なんだ!」ということだ。そしてそれは「お前自身がどう思ったのかを聞かせてくれよ」ということでもある。すべての考察や解釈は(そして作品の読解を豊かなものにしてくれる優れた批評でさえも)それを書くひと自身の主観からは逃れられない。考察するひとと考察される作品を作ったひとが別個の人間である以上は、考察というものは断定されえない。断定されえないのなら断定するべきではないし、「私はこう思います」というところから語り始めるべきだと思うのだ。そして僕はそういう文章のほうが読みたい。自分が書くとしてもそういう文章を書きたい。

 というわけで僕はとてもいいと思った『君たちはどう生きるか』に関して書きたいけど、正直もう一度観ないとよくわからない。作品自体のなかにわからなさや筋の通らなさが(意図してか意図せずか)放置されている。アオサギという信用のおけない〝友だち〟の言動によって混乱させられるし、物語の本筋が徐々にずれていくような作劇がされている。「死んだはずのお母さんを見つけに来なさい」というアオサギの当初の誘い文句は眞人くんがなかなか異界に行こうとしないことで躱され、その後夏子さんを助けるためにけっきょく来た異界で、眞人くんが最初に訪れた墓場からはなにも現れない。夏子さんを助けるという目的も、やがて(お母さんの若き日の姿である)ヒミという少女を助けるための冒険へとスライドし、それも気がつけば大叔父さんとの対話に変わり、そうやってずれてずれてずれた先で「いい友だちを持て」というメッセージが手渡される(こんな感じの話じゃなかったでしたっけ)。二時間の映画の脚本としての強度は低いかもしれないし、アニメーションの躍動感も映画が進むなかで徐々に失われていっていたように思う。でもこのずれていく物語が個人的には心地よかった。その心地よさになんらかの理由があるのか、それとも単にずれること自体が楽しいというようなジェットコースター的快楽に過ぎないのかを僕は考えたほうがいいのだけど、今日はやめる。それより今日は友だちの結婚式のスピーチを考える。変なところでやめられるのも日記のよさだ。

 

7/19

 昨日の夜にスピーチや日記を書くために夜更かししたせいで眠い。頭も痛い。スピーチはともかく、日記を書くために夜更かしして、次の日頭を痛くするなんて本末転倒だ。よかったものだけ書いて寝よう。細野晴臣が「幸宏」と「坂本くん」について語った文章がよかった。乗代雄介のブログにアップされた、『それは誠』とサリンジャーにまつわる文章がとてもよかった。僕が『それは誠』についてホールデン的だと感じたのはある面においては正しくもあるが、それだけでは読みが浅すぎるということを思い知らされもした。『水曜日のダウンタウン』でザ・マミィ酒井が語った、妻になったひととのエピソードがよかった。名前が「たかし」だけどこれまで呼ばれたことのない呼ばれ方がいいといったら、妻さんは「たかやなぎ」と呼んでくれている、という話など。チャンス大城の口笛教室の話もよかった。美しさは世界に遍在する。先に寝た同居人の様子を見たら、ついさっき眠りについたばかりであろうに小さめの大の字になっていてよかった。

 

7/20

 夏と冬のどっちがいい?みたいな議論については答えがおおよそ固まっていて、はっきり冬である。夏は暑すぎる。夏の暑さはどうしようもないけど、冬の寒さはとりあえずたくさん着込むことである程度解消される。しかしこういう呑気な答えを出せるのは、僕が関東在住の二十代の比較的健康な男性だからであって、条件の組み合わせ次第では答えが変わるだろうということもわかっている。あくまでいまの僕にとっては、という留保付きで、とりあえずの答えを出す。そういう年齢──大げさにいうとこの世界にたいする態度を決めるべき年齢──になってきた。うどんかそばかラーメンのうち死ぬまで一種類しか食べられないとしたら。たぶんうどん。猫か犬、もしどちらかと暮らすとしたら。うーん、犬。いや、猫かも。わからないです。あとすみません、さっきのうどんかそばかラーメンのやつももう一回考え直していいですか。あと、住むなら海と山どっちの近くがいいかってやつも、ぜんぜん決められてないです。すみません、ほぼなにも決まってないです。でも、夏と冬どちらがいいかと聞かれたら、間違いなく冬。

 でも今日の夜、頬をなでる風が心地よかった。こういう日があるから夏をやめられねえんだよなあ。

 僕のなかでは『君たちはどう生きるか』は傑作だったという印象を日を追うごとに増していて、しかしその根拠は揺れている、というか根拠なんてないに等しい。ただ美化しているだけなのかもしれない。場当たり的に展開していった物語は、宮崎駿自身も制御しきれていないアニメーション制作の結果のようにもやはり見えるし、逆に、すべてが意図通りに進む箱庭的な世界だったようにも思える。「空から降ってきた塔とはなんなのか」とか「どうしてアオサギなのか」ということについては考えたくなる一方で、「大叔父のモデルが誰なのか」とか「どうしてペリカンやインコなのか」みたいな話には不思議とさほどの興味が持てない。同じく鳥であるアオサギペリカンの何が違うかといえば、アオサギが塔に入る前からいたのに対し、ペリカンは塔のなかの世界にいた鳥であるということで、その差異が僕にとってのキーのような気がする。塔のなかで起こったことに興味がないわけではないが、どうでもいいというか、どうでもいいなんていったら語弊があるけど、べつに投げやりなわけではなくいい意味で「好きにしてください」という感じなのだ。

 

7/21

 映画のなかで登場人物や作者の内的世界(あるいはそのバリエーションとしての並行世界や電脳世界)が描かれるとき、そこに登場するモチーフが何を示しているかということを解き明かしていく営みは大切だと思う。優れた批評は作品理解を豊かにする。でも個人的には、作中の内的世界を能動的に読み解いていくことにそんなに興味を持てない。その映画の作り手が信頼できるひとたちであればあるほど、描かれているままを受け取ってしまえばそれでいい、意味なんてわからなくてもいいという気持ちになる。

 宮崎駿は信頼できる。運動としてのアニメーションを異様なまでに突き詰めてきたひとだ。彼の監督作においてはなによりもアニメーションの躍動感が追求され、そのアニメーションを動かすための場として物語が展開する。動きがあってこそ物語がある、という態度は、しかし世界の真理のようにも思える。だからこそ宮崎駿が生み出してきた物語に僕たちは惹かれるのだろう。そんなことを、金曜ロードショーで『もののけ姫』を観てあらためて実感した。

 今日『もののけ姫』を観てもうひとつ思い当たってしまうことがあって、それはやはり『君たちはどう生きるか』のアニメーションの躍動感は過去作に比べて弱まってしまっていたのではないかということだ。冒頭の火事の描写や、アオサギが最初に現れるときの美しい緊張、そしてアオサギが湖の上で眞人くんを異界へと誘い、魚や蛙が合唱するシーンなどには宮崎作品を観る喜びがつまっていた。問題は塔のなかの世界に行ってからのパートで、基本的に楽しんで観ることはできたものの、『もののけ姫』と比較するとアニメーションの凄みのようなものはたしかに弱まってしまっていたように思い出される。そして悲しいことに、アニメーションの力が弱まってしまった部分というのは、ちょうどこれまで僕が宮崎駿に全権委任してきた内的世界のパートなのだ。アニメーションの躍動感への信頼があったから、僕は宮崎駿の描く内的世界や並行世界をあるがままに受け取れてきた。では、その躍動感が失われてしまったとしたら、僕は宮崎駿の内的世界をどのように受け止めればいいのか。……大げさに書いてしまったけど、僕としての答えはそんなに難しくなく、そんなに暗くないような気がする。今日は寝る。

 

7/22

 友だちの結婚式があって軽井沢まで来ている。ひとがひとを思いやる言葉が交わされるとてもいい式だった。寝る。

 

7/23

 初めて来た土地のローカル線のボックス席、それも窓側なんかに座ると、窓の外の景色に気を取られざるを得ない。広大な山並みの靄がかった線が遠くに横たわり、その上には何度見ても「ノスタルジック」という単語と安易に結びつけたくなる夏の雲が浮かんでいる。もっと線路の近くに目を向ければ青々と茂る森があり、一軒家がいくつかまとまって建っており、実りの秋を待ちきれない豊かな田んぼが並んでいる。

 田んぼと田んぼを縫うように、舗装された畦道が走っていて、山や雲よりもその道の行く末を確かめたくなって目で追う。もともと田んぼがあったところに後から通した道なのだろう、畦道はくねくねと曲がりくねっていて、線路に近づいたり離れたり、二股に分かれたり、また合流したり、そこを自転車で走ることを想像させたり、その自転車に乗っている少年としてその地域で生まれ育つことについて考えさせたりする。

 小学五年生の頃に作った秘密基地がいまどうなっているか、酒屋の裏の林を見に行ったが、ビニールを巻いた段ボールがわずかに転がっているくらいで、置きっぱなしにしていたはずの黒ひげ危機一髪はなくなっていた。そんな日の帰り、畦道を自転車で走る中学三年生の少年。

 ──たとえばそんな少年がいるかもしれない。

 なぜこんな話を書いているかというと今日まさにしなの鉄道というのに乗って中軽井沢駅から小諸駅まで向かったときに線路際の畦道に意識を取られたからで、なぜ軽井沢にいたかというと昨日友だちの結婚式があったからだ。新郎新婦ともによき友だちだが、新郎のよき友だちとしての歴のほうが長いために、新郎の友人として僕ともうひとりの友だちは参列した。新婦の幼なじみのひとたちとも仲よくなれてよかった。参列者のほとんどは新郎新婦のご親族で、友人代表スピーチを仰せつかった僕には緊張があったが、やってみればアットホームな雰囲気のなかで笑いも取れてよかった。場合によっては笑いどころになるかもしれないと意識はしつつも基本的に新郎新婦のことを生真面目に考えながら書いた文章を読み上げて、皆さんが笑ってくれつつ頷いてくれつつ耳を傾けていただけたというのはとてもありがたいことだった。誰かが誰かのことを生真面目に思いやった言葉ばかりが交わされる式だった。新郎のいっていた「特別な仲間として支え合って生きていくことにした」という言葉は、結婚することの意味としてひとつの素晴らしい回答のように思えた。

 式のあとには僕ともうひとりの友だちとで温泉に入り、その際せっかくなのでサウナにも入ったのだが、友だちが「このまま夏が暑くなっていって、十年後とかにはふつうにサウナぐらいの暑さになるんじゃないかって思うんだよね」といっていて、たしかにさいきんの暑さを思うとそれもあり得ない話ではなく、かなり怖くなってしまってすぐに外に出た。そうなったとき、僕たちはどう生きるか。ホテルに戻ると新郎新婦がもうふだんの姿に戻っていて、新婦の幼なじみたちとも合流してみんなでしゃべった。幼なじみ同士が共有している記憶の数々は鮮度と解像度が抜群で、一方の僕たち新郎含め三人はいくら考えてもエピソードらしいエピソードは浮かんでこず、ほんとうにだらだらと時間を過ごしてきたのだと実感し、しかし多感な時期にそういう無意義な時間を過ごせてきたことというのも真にありがたいことなのではないかと僕は思うので、それはそれでありだと思ったのだった。……ということがあっての今日、せっかくだから東京に帰る前に小諸まで蕎麦を食べに行った、その電車のなかから見えた畦道に、そこに生きる少年の姿を幻視したのだ。

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7/24

 昨日は夕方頃に東京に戻ってきてから同居人とその友だちと飲み、そのあと『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』を観に行ってかなり楽しかったが、おかげで今朝は眠かった。『ミッション:インポッシブル』はほぼすべてのアクションがスリルに満ちていて、追う/追われるの関係が鮮やかに反転し続けながら最後まで突っ走るすごみがあった。CGもスタントも使わず自らやるというトム・クルーズ自身と、映画内で東奔西走するイーサン・ハントの〝インポッシブル性〟がリンクしているのもずるい。「これ、本人がまじでやってるんだよね」みたいなのがスリルに繋がる俳優なんてたぶんトム・クルーズが最後だし、今回の映画の内容も人智を超えたAIの暴走を食い止めろ!という感じで、ざっくりいうとイーサン・ハント対テクノロジーみたいな構造なので、トム・クルーズ自身もかなり意識的にやっているのだと思う。そういう無邪気な話を大真面目に展開させているので全力で楽しめる。なにごとも本気というのは大切だ。やっぱりイーサン・ハントとアシタカはすごい。イーサン・ハントとアシタカが組めば、インポッシブルなミッションなんてない。

 

7/25

 会社を出てから、延滞してしまっていたDVDを五反田のTSUTAYAに返しに行った。各種配信サービスにない映画やドラマのDVDをTSUTAYAで借りるのはとてもいいアイデアだと思っていたが、僕と同居人のようなひとにはそもそもきちんと期限内に返すということが向いていないのだった。それは盲点だった。しかも、借りたDVDを見るためにやむなく延滞したというのならまだいいものの、けっきょく今回借りた三枚とも見られていないまま漫然と時が経ち、でも見るかもしれないしなあ、と家に置きっぱなしにしていたところを、同居人が今日思い立って返しに行きましょうということになったのだ。延滞料金はレンタル料金を遥かに上回る金額でおったまげた。同居人が今日一念発起してくれたからまだおったまげるくらいで済んだが、まあ今週末とか来週末とかでいいか、と呑気に過ごし続けていたら激やばだった。今日もなにか借りて帰るか迷ったが、謹慎期間としてしばらくは借りないことにした。

 しかし、延滞料金がおったまげるくらい高かったことによる思わぬ収穫は、本屋に行っても「延滞料金より安いな」と思えて積極的に買えることで、今日は『推し、燃ゆ』の文庫版が出ていたので買った。文庫なんて延滞料金に比べれば激安だ。しかも返却しなくていい。本屋に行ったあと、せっかく五反田なのでスシローで食べて帰った。スシローの三皿なんてそれこそTSUTAYAのDVD三枚の延滞料金に比べれば激安だ。しかも返却しなくていい。

 今日は延滞料金におったまげて思わず本を買って帰ってきてしまったが、本来は「家にある積ん読本を一冊読むごとにしか新しい本は買ってはいけない」というルールをいつか設けたはずなので、これはルール違反だった。しかしそんなルール、僕も同居人も忘れているので仕方がない。ちなみにここ一週間くらいほとんど本を読めておらず、バルガス=リョサの『緑の家』はプロローグっぽいところだけ読んでから先に進めずにいる。長編小説と会社員生活は相性が悪い。とりわけラテンアメリカの小説はそうだ。

 

7/26

 いつの間に出ていたゆるふわギャングの新しいアルバムを聴いて、いい気分になった。"Journey"というアルバム名のとおりどこかに行きたくなる音楽という感じがしたし、それはべつに大げさな旅という感じではなく、単にドライブとかでもよさそうだと思った。

 

7/27

 誰のためにもなっていない暑さ!

 

7/28

 会社を出てから盆踊りを見に行き、そのあと友だちたちと居酒屋に行った。いろんな話をするなかで最終的には僕と同居人の間の真面目な話になった。僕はほんとうにこれまで生きてきたなかで真面目な話をした試しがないので、真面目に話そうとすると涙目になってしまう。同居人も自分の話をすると泣いてしまう性質だし、元を辿れば、否、辿るまでもなく僕がよくないという内容の話なので、同居人にも、その場に居合わせた友だちたちにも申し訳なかった。これまで真面目に話すべき場面でことごとくちょけてきたことで、その場その場では先延ばしにできてきたかもしれないが、長い目で見ればそれは自らの行く末を狭めてきたということでもあり、その狭まった先のあたりにいま僕はいて、ちょけていられなくなってきている。というかちょけている場合ではまったくなくて、涙目になりながら真面目な話をしなければならない。

 

7/29

 東京の東の端から出発してチーバくんの鼻のあたりを横切り北へと抜けていく常磐線は、その名の通り茨城県福島県を主な走行区間とする路線だが、ちょうどチーバくんの鼻の付け根あたりに実家を構える僕からしてみれば、あくまで気軽に都内へと出ることのできる楽チン電車であったに過ぎず、あんなに北のほうまで路線が延びている長大な路線であると知ったのは、皮肉にも東日本大震災のときに一部区間運休になってしまったときのことだった。皮肉にも、なんていう言葉を使うのは、災害の大きさにたいしていささか無邪気すぎるような気もするが、当時高校一年生だった僕の心情を簡潔に表すならそうなる。(僕はあの災害にたいしてあまりに無邪気だったように思う。でもその話はべつにいまする必要はなく、そもそも「皮肉にも」という表現をさっきの文のなかに入れていなければ言及せずに済んだ話なのだが、文章の流れをせき止めてでもそういう言葉を入れてしまうところに日記の日記性とでもいえそうなものの一端が表れているような気がする。)

 福島まで路線が延びていると知ってからもべつにそこまで行ってみようという探求心があったわけではなく、せいぜいが一度雨の降る日に自分の最寄り駅で降りず水戸までぼんやり乗り過ごしてみたくらいだ。その日の雨は土砂降りで、わざと乗り過ごすにはかっこうの日だった。電車が茨城県に入ってからも雨は続いたが、どこかの駅で特急の通過待ちをしていたときにちょうど降り止んで、冗談のように晴れ間がのぞいた、そのとき目の前に広がっていた田園風景とその鮮烈な日差しばかりが記憶に残っていて、それがいつのことだったかは覚えていない。高校生か大学生の時のことだったと思うけどわからない。

 そんなふうに僕の記憶はあいまいなことが多く、今日だって何ヶ月かぶりに訪れた最寄り駅の、駅前の歯医者が改装したことはわかるが前がどんなだったかは思い出せない。

 

 

7/30

 実家に帰るとみんな朝が早くて驚く。七時半に起こされて「もうみんな朝ごはん食べたからあんたも食べなさい」といわれる。朝ごはんがあるのはありがたい。とりあえず起きて食べてからも眠くて、けっきょくそのあと午前中は断続的に寝た。ベッドに横になったときにたまたま変な体勢になってしまい、でも体勢を正すことなくそのまま寝てしまったので、昼前に起きたときには身体が変に固まっていた。昼ごはんをいただいてしばらくしたら東京に帰るべくおいとました。実家に帰るのも東京に帰るのも、どっちも「帰る」だ。

 電車のなかではバルガス=リョサの『緑の家』を読み進めた。もう一週間以上前くらいに冒頭だけ読んで、そこからはずっと停滞していたのが、今回の実家への行き帰りの電車のなかや昨夜実家の自分の部屋で大幅にページを進めることができて、これも今週末の成果のひとつだった。今日の午前中ずっと眠かったのも『緑の家』による夜更かしの結果だった。『緑の家』は読み進めてしまえばかなりおもしろくて、群像劇的な展開もさることながら、やはり語りのドライブ感がいい。会話と地の文が並ぶのは他の小説でもよくあることだけど、鉤括弧で囲われた会話のなかで平気でひとも場所も時間も移り変わっていく様にしびれる。『緑の家』が発表されたのが一九六六年だということを踏まえると、たとえば一九六〇年に公開された『勝手にしやがれ』のジャンプカット的な手法との共鳴のようなものも感じ取れる。小説と映画という違いはあれど、いずれの作品もそれまで先人たちが築き上げてきた作法を下敷きにしたうえで、形式的でわかりきっている部分をすっ飛ばしてドライブ感を生んでいる。そのおもしろさが日本語に翻訳されて、二〇二三年の僕に届いているということもまた感情を動かす。

 家に着いたら即エアコンをつけた。やはり東京は暑いと思った。同じように実家のほうに帰っていた同居人もやがて帰ってきて、せっかくなので行ったことのない居酒屋で食べた。今日は土用の丑の日らしくてうなぎの蒲焼きも注文した。おいしい居酒屋でかなりいい気分になった。帰りに駅ビルの本屋をちらっと見ているときに僕の友だちに会って、「あれ、フジロック行ってないの」と同時に聞いた。行きたかったけど、行ってないからここにいる。行きたかったのに行っていない特別な理由は特にない。こういうことが僕には多い。

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7/31

 辛さは舌の痛覚だと聞いたことがありますけども、たとえば手の甲をつねるのでも細くつまむのと大きくつまむのとでは痛みの質が違うように、食べ物によって当然辛さの質は異なる。そのなかでも山椒というものの辛さはいっそう独特で、よく「痺れる」と形容されるあのピリピリした感じは他の食べ物では得難い。山椒のついたものを食べたあとはもうなにを食べてもなにを飲んでも味にフィルターがかかってしまう。だから山椒のついたものを食べる場合はいっきに食べてしまったほうが、フィルターが一度で済むのでいい。そんなことを考えながら、この前軽井沢で買った山椒のせんべいをむさぼり食べている。おかしな味になってしまった水を飲んで、おかしな顔で笑っている。