バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二三年六月の日記

6/1

 あらゆるものの値段が上がっている。昼休みにコンビニでチョコボールを買ったら百円近くした。昔って一箱六十円くらいじゃなかったっけ、そういえばマックのハンバーガーも昔六十円だったじゃんね、いまいくらか知ってる? ……三十五億。

 

 

6/2

 まさかこんな雨になるとは思わず、『怪物』の夜の回を予約してしまっていた。梅雨に紛れた台風。同居人が雨でびしょびしょになってしまったというので、僕は会社を出てからいったん家に寄って、同居人の着替えを持って出た。太古から降り続けている雨というものにたいして人類が講じる手段といえばいつまでも傘ばかり。しかし傘なんてものは土砂降りや横殴りの雨の前にはまったく意味をなさなくなってしまうわけで、もう何万年もの間、我々はびしょびしょになり続けることしかできていない。これだけあらゆるものが進化した世界において、まだ傘なんてものが幅を利かせているのだから、人類はもう雨に対抗することを諦めたということなのだろう。そうなのであれば、傘を使うしかないというこの状況を、むしろ積極的に肯定する方向に向かっていったほうが気分がいい。つまり「傘をさしながらいかに濡れないように歩くか」ということを追究すべきなのだ。

 僕が編み出した解が、秘技・小股歩きだった。傘によって守られる範囲は、傘の大きさのぶんしかない。そこからはみ出すほど大股で歩くから濡れるのであって、はみ出さないように小股で歩けば、理論上濡れることはない。

 理論は実践によって証明される。僕は会社から家、そして家から駅まで傘をさしながら小股で歩き、見事に濡れたのであった──。

 『怪物』は子どもを描いた映画として傑作だと思った。大人中心のサスペンス的に進んでゆく前半から、そんなところを遥かに超えて、子どもの目から見る世界へといっきに解き放たれる後半への展開の鮮やかさ。主役となる二人の子どもが抜群にいいのももちろんだが、周りの子らのちょっとした遊び声やガヤのリアリティも抜群だった。同居人は水辺で石から石へとひょいと飛び移る子どもの動きが「〝子どもの動き〟すぎてすごい」といっていた。ただし公開前から議論が見られたクィア的な表現については、あいまいさを大切にしたいというような是枝監督や坂元裕二の発言にたいして、映画のなかではむしろわりとはっきりと描かれていた印象を受けた。たしかに多面的な映画なのでそれだけが中心的なテーマというわけではないが、少なくとも非常に重要なシーンでのクィア的な表現もあったので、あいまいさだけを語るのはむしろ単純化をしてしまっているのではないかと思った。ここらへんはまだうまくいえない。僕が東京在住の二十代ヘテロ男性なので見えていないこともあると思う。ただ、傑作だとは思った。だから難しい。

 

 

6/3

 昨日の続きで、映画というものは「誰が作ったのか」や「なにが描かれているのか」というのがもちろん重要だが、「誰が観るのか」ということを考えるのも忘れてはならないと思った。スクリーンの前に座ってこの映画を観ているひとはいったい誰なのか。観ているひとと観られている映画との一対一の関係が結ばれて、そのたびに映画というものは違う様相を見せる。

 今日は『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』をたくさんプレイした。『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』は誰がプレイしても同じリンクというキャラクターが動くが、コントローラーを僕が握るか同居人が握るかによって、リンクの行動は大きく異なる。オープンワールドのゲームをプレイすることはむしろ物語を作る側に近い行為ともいえて、そうなると映画を観ることとはまったく別種の体験だということになるのでしょうか。いや、映画を観ているひともまたその映画を形作る一員であり、広くいえば物語を作る側に含まれるのでしょうか。わからなくなってまいりました……

 

 

6/4

 同居人が友人の結婚式に行くので見送ってから僕はマリオの映画を観た。同居人は朝美容院でのへアセットも予約していて、いつになく盛り盛りヘアーにしてもらっており、それはそれでいい感じだった。本人的には「なんかWhiteberryみたいで変じゃない?」と思ったそうで、いわんとすることはわかるが、僕はべつにそんなに思わなかった。マリオの映画はよくできていて、誰もが知っているキャラクターや音楽の偉大さをあらためて感じたし、いろんなゲームの要素を強引すぎないで滑らかに取り込む展開も楽しかった。アニメーションはやっぱりすごいと思った。親子連れも多く来ていて、この子たちにとっての映画というものの原体験になるのかもね、となんとなく感慨深くもあった。映画館を出て富士そばを食べまた次の映画館へ。『Rodeo ロデオ』を観た。とてもよかった。郊外でバイクを転売して生計を立てながらウィリーに熱中する若者たち、そこに部外者として入ってゆく主人公ジュリアの姿が描かれる。ジュリアはバイクに乗っているときにだけ笑う。お金には興味がなく、バイクは盗めばいいと思っている。ひとが怪我したらどうにか助けようとし、組織のボスの妻とその子どもを外に連れ出して一緒にバイクに乗って笑う。既存の規範からはみ出し続けながら生きるジュリアが、男性ばかりのコミュニティのなかで自らの居場所を切り開き、抑圧された女性をも解放し、短く燃えて走り去ってゆく。疾走感が身体に強く残る映画だった。とにかくバイクのシーンがイカしていて、Rosaliaの"SAOKO"やMigosの"Bad and Boujee"のビデオを思い出した。というか『Rodeo ロデオ』とそれらのビデオはかなり共鳴しているのではないかと思った。

 結婚式はとてもよかったらしい。同居人は慣れないヒールを履いて足の裏がとても痛くなったというので、先に帰っていた僕はスニーカーを持って駅まで迎えに行った。帰宅後も足を揉んでほしいとの指示があり、応じた。

 

 

6/5

 会社を出て同居人とラーメンを食べてからジムへ。プラマイゼロ。いや昨日の夜もラーメンだったのでマイナス。

 昨日の『Rodeo ロデオ』のことをまだ考えていて、この映画についても「誰が作ったか」とか「誰が観るのか」という話に照らしてみると、まず監督のローラ・キヴォロンさんはこれが長編デビューだそうで、郊外で育った身としてずっと近くで見てきたバイクのウィリー(フランスでは「クロスビトゥーム」と呼ばれるらしい)を撮りたいというのがあったそうだ。自らが生まれ育った環境の周りにあったものやそこに生きるひとたちの姿をかっこよく撮る、という、ある種ドキュメンタリー的でもあり当事者性を持った作品であったことは間違いない。だからこそ心に刺さるものがあったのだとも思う。いっぽうで、映画を観ている僕はバイクに乗らず日々の暮らしにも困っていない東京の男性なわけで、生まれは郊外だとはいえああいうカルチャーをまったく通っていない。そういう意味では当事者性はほとんどない。そんな僕の心をも揺さぶるというのがこの映画の、もっといえばこの映画に限らず優れた映画が等しく持っているすごさなのだと思う。「ショットがすごい」とか「演技がすごい」とかいろんなことが映画というものにたいして語られるが、映画というものは観るひとの感情を動かす芸術であるという大前提があったうえで、それらの分析はあくまで感情が動いた根拠に過ぎないというか、ショットも演技も劇伴もすべて、ひとびとの感情を動かすためのものとしてのみ存在すべきなのだと思う。しかしだからこそ分析や批評の重要性が増すのでもある。あるショットにどうして感情が動かされるのか、ちゃんと説明できたほうが映画観賞は豊かになる。

 

 

6/6

 夏至を擁する六月は、すなわち一年で最も日が長い月ということになる。たしかに仕事を終えてから会社を出てもまだ外は明るく、日は長いには長く、うれしいにはうれしいのだが、いっぽう心のどこかで、こんなもんですかい、ともひとかけら思う。日が長いといったって明るいのはせいぜい七時半や八時くらいまでで、そこから先はもう夜。〝一年で最も日が長い〟と謳うのであれば、九時とか十時とかまで明るくあってほしい。加えてなんとこの時期、日本の上空には梅雨前線が停滞する。日が長いといったって、雨が降っていては、なんかぼんやり空が明るい気がする程度にしか感じられないではないですか。「うちの宿は薬草サウナが最高なんですよ」と受付でおすすめされたのに、いざ入浴したら「すみません、今日薬草切らしてまして、代わりにほうれん草になります」といわれたみたいなものではないでしょうか。違いますか。

 今日も会社を出たら雨が降っていて、いわんこっちゃない、と思いながら傘を差した。同居人と集合して『aftersun/アフターサン』を観た。すごい映画だった。ずびずび泣いていた同居人は、観たあと「でも考えてみたらよくわからない部分も多いのに、なんでか泣いてた」といっていて、まさしくそれがこの映画のすごいところだと思った。二十年前の夏に父と過ごしたひと夏の記憶が、おおむね時間軸どおりではありながらもかなりコラージュ的に描かれる。あのときあのひとは何を考えていたんだろう、という想像がそのまま映像になったように、二十年前には気がつかなかった父の姿をカメラが映し出す。最高のバカンスのなかに絶えず漂う別れの予感が、"Tender"や"Losing My Religion"や"Under Pressure"によって強調されながら進んでゆく。眠たげに重ねられた手と手とか、父が潜ったままなかなか姿を現さない水面とか、映像には細かくて豊かな感触がありながら、話自体は穴だらけという挑戦的な構成が、脚本と編集の妙で形になっていたと思う。「David Bowieが流れる」・「長尺のカラオケシーンがある」という個人的いい映画ポイントを押さえてきたうえに、BlurR.E.M.も流れ、無邪気だけどいろんなものが見えている十一歳という娘の年齢設定もかなり絶妙で、そりゃいいに決まっている。やや巧みすぎる気もするが、よかったのでよいです。

 映画のなかだけどR.E.M.を久しぶりに聴いて、やはり最高だと思った。書きながら"Automatic For The People"を聴いている。やはりこれがオールタイムベストアルバムかもしれない。

 

 

6/7

 エスカレーターの段の部分と手すり部分の動く速度がほんのわずかに違って、手すりに置いた左手だけが徐々に前のほうに行ってしまい、どうすることもできずにただそれを見ている。

 

 

6/8

 寝苦しい夜で、おそらく三時くらいに一回と、六時くらいに一回、目を覚ました。六月でこれだもんね、八月とかどうなっちゃうんだろうね、という話を同居人とした。天気の話はいい。今日はビルのエレベーターのなかで会社のひととも天気の話をした。エレベーターに乗っている時間なんてせいぜい数十秒から一分くらいなもので、まとまった会話をするには短い、というわけで必ず天気の話になる。明日またけっこう雨降るみたいですよ。え、そうなんですか。先週も降りましたもんね。先週すごかったですよね。僕はけっこうこういう会話が好きで、今日他によかったのは、昼休みに後輩と話しているときに、よく行くお店とかありますか? えっと、僕、駅の向こうにあるうどん屋によく行きますね。あ、あの不動産屋の向かいのところですよね。そう、うまいのよ。え、一回くらいしか行ったことないかも、今度また行ってみます。ぜひ。そういえばこっち下ったほうの道沿いにもうどん屋あるじゃないですか。ありますね。あそこのうどん屋の店内、まじでまったく電波ないんですよ、と急に話が逸れたのがおもしろかった。誰か撮っておいてくれればおもしろかったのに、と思うほどにおもしろかったのだが、あとで見返しておもしろいかはわからない。

 そういえばフィクションの映画を観ているときにときおり「いまこの映像は誰が撮ってるんだ?」とか「誰の視点の映像なんだ?」と思う。それでいうと『aftersun/アフターサン』におけるカメラは、主人公たちが撮影したビデオか、現在の娘が二十年前を振り返っている記憶の映像か、二十年前にはわからなかった父の姿を想像した映像のいずれかで、「誰が撮ってるんだ?」となる瞬間がなく、なおかつその三つの入り混じり方もよかった。たとえば冒頭、二人でホテルに着いた夜、ベッドに入ったとたんにすやすやと眠りだすところまでは娘の記憶かもしれないが、そこから先、父親のほうにピントが合って、ベランダでゆらゆらと揺れる姿を娘越しに映している部分はおそらく二十年後からの想像で、そういう移ろいがカメラのピントによって表現されていたのがすごい。なんだかむりやり『aftersun/アフターサン』の話にしてしまいました……。昨日から何度も"Tender"を聴いている。

 

 

6/9

 会社で作業の進捗を訊かれたときに「十位集団くらいです」といったらウケた。もちろん箱根駅伝を念頭に置いているわけだが、「箱根駅伝でいうと」というのを付けずに「十位集団」という単語だけで伝えられたのがかっこいい。「十位集団」なんて箱根駅伝の実況くらいでしか聞かない言葉だが、だからこそ瞬時に箱根駅伝のことだと伝わる絶妙なワードチョイスだといえるし、「十位集団」だけで伝えようとする〝皆までいうな〟的な精神性が美しく、自由律俳句にも似た素養も感じさせる。なおかつ「十位じゃなくてもっと上を目指しなさいよ」や「シード権ギリギリじゃんよ」というツッコミを相手から自然に引き出すような、会話が盛り上がるきっかけにもなる順位設定がさらにニクい。とにかくこの美しい返しが僕の口からとっさに放たれたというのはすごいことで、最初にもいったようにちゃんとウケたのだが、ウケただけで、誰もこのすごさに言及してくれなかったのでいま自分で言及した。

 

 

6/10

 午前中からプールに行き、帰ってきて寝、起きてだらだらし、寝、シャワーを浴びて家を出、新文芸坐北野武のオールナイト上映で『その男、凶暴につき』・『3-4×10月』・『ソナチネ』を観た。あらためて観ると『ソナチネ』は明確に世界を見据えている感じがあってすごいが、「『3-4×10月』のほうが好きかも」という同居人の気持ちもわからなくはない。

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6/11

 五時に終わったオールナイト上映から帰ってきて、朝ごはんを食べたりしてなんやかんや七時くらいになり、そこから寝て目を覚ましたら十時半だった。まだ寝てもよかったがちょうど同居人も起きたのでそのまま起きて『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』をプレイするなどした。前作よりできることが増えてむしろつらく感じてしまうのではないかという当初の危惧は外れ、ストーリーはまったく進まないながらも楽しくプレイできている。できることが増えたというよりはできることが変わったという感じで、よりプレイヤーそれぞれの発想が活かされる趣があるが、あまり考えず雑にやってもできてしまったりするのがいい。ただ個人的にはリモコンバクダンを使えなくなったのはかなり痛手で、前作では敵を倒すときは基本的に高所からバクダンをひたすら投下し続ける形で体力を削っていたのに、今回はそれができないために近接戦を強いられることとなり、そうなると僕は「戦わない」を選ぶ。戦わず、ミッションもこなさず、ただのキノコ集め人間と化している。

 それはちょうど『ソナチネ』の沖縄パートと似ているかもしれない。組同士のドンパチを止めるべく東京から沖縄まで来たはいいものの、どうやら思っていたより事態が深刻だったので、いったん誰も来ない海沿いの隠れ家に避難し、東京からの連絡も特に来ないのでそのまま砂浜でゲラゲラ遊ぶ日々を送るたけしたちの姿と、行く先行く先でゼルダ姫を助けて災厄を止めてくれと懇願されるも、敵と戦って勝てる気がせず、いったんミッションを進めることを放棄してただキノコ集めに邁進する勇者リンクの姿は重なりうる。

 というところでオールナイト上映の話に戻ると、『3-4×10月』も『ソナチネ』も沖縄に行ってだらだらするパートがある映画だが、あらためて観ると、撮影・編集を洗練させ、音楽に久石譲を起用し、たけし軍団ではなく専業俳優を使った『ソナチネ』は、明確に世界に出ることを見据えた作品だという感じがした。『3-4×10月』の時点で表れていた緩急はさらに先鋭化していて、『ソナチネ』ではひとはますます急に死ぬ。ひとが死んでも誰も声を上げずに退屈そうな顔をしている。北野武が自らの作家性を意識しつつ、やりたいことの自然な発露として作られていて、やっぱり知性と野性のバランスが最も美しかった作品なのではないかと思った。

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6/12

 湿度がやばい。同居人は体内の水分量が多い気がしてきもちわるいとうったえている。そんなことあるかいな、と思う僕もたしかにいつもよりトイレに行く回数が増えているようである。

 同居人が会社の先輩からayuこと浜崎あゆみのLPをもらってきたので家で流した。ayuのLPといってもリミックス盤で、僕たちはそもそもayuを通ってきておらず原曲を知らないのでどこがどうなっているのかがわからない。"Connected"という曲と"M(※華美なフォント)"という曲のリミックス盤で、「"M(※華美なフォント)"って有名な奴じゃん!」と思って流したが、ayuの歌声がまったく使われていないリミックスで、かなりかっこいいのだがayuを聴いた気がしない。いっぽうの"Connected"は原曲を知らないがリミックスはやはりかっこよくて、途中からayuの歌声も入ってきてよかった。ayuの歌声はハウスリミックスとかなり相性がいい感じがする、極端にいうとシンセっぽいというか、オートチューンも似合いそうな感触がある。リミックス盤を流しながらayuのウィキペディアを見ると、ayuの歌詞は「哲学的で、人々の心を救える影響力があり圧倒的な支持を得た」らしく、ぜったいファンが書いた偏った意見だと思ったが、そのあとApple Musicで聴いてみるとたしかに歌詞はけっこうよかった。"Connected"の原曲はいまでいうハイパーポップ的なものの源流のような雰囲気があって、やはりビート映えする歌声も含めてCharli XCXを思わせた、というかほんとに源流かもしれない。

 ちなみにayuのウィキペディアでは、デビュー以来快進撃を続けていたayuがはじめてオールナイトニッポンの生放送をやったときに、アンチからかかってきた電話に出て、自らの生い立ちなどを語り聞かせ、最終的には電話をかけてきたひとも共感して泣いてしまった、というエピソードがかなりよかった。

 

 

6/13

 仕事のあとジムに行った。Amaaraeというひとの新しいアルバム"Fountain Baby"がかなりよかった。さいきんだとKing Kruleの"Space Heavy"も非常によい。しょっぱなから深く潜っていくような雰囲気をまとった冒頭曲に始まり、そのまま潜り潜り、ときおりギターをかき鳴らし、声を荒げ、潜った先の安らぎのなかで終わる。あと『ソナチネ』のサントラも聴いている。『ソナチネ』といえばテーマ曲のピアノのリフレインが有名だが、そのあとシンセがグィーンと入ってくるところからがいい。

 同居人が会社で怒られてへこんでいた。しきりに鼻をかんで、額に冷えピタまで貼っていた。ほぼほぼ風邪の症状だ。

 

 

6/14

 仕事のあと同居人と飲みに行った。新しいお店を開拓するムーブメントの最中なので入ったことのない立ち飲み屋に入った。おいしかったけど、隣のおじさんたちが最悪で、女性店員さんへのセクハラ、会社の後輩の容姿や学歴含めた悪口、性的マイノリティ差別、……と〝おじさん〟のオンパレードでかなりびっくりした。同居人も店を出てから「きもすぎ博物館かと思った」と述べていた。同居人は特に店員さんへのセクハラに耐えられなかったらしく、飲んでいるときにもちょいちょい僕を見て「いっていいかな?」といっていたが、僕は同居人に危害が及ぶのが嫌だったのでそれを制してしまっていた。あと、おじさんたちと店員さんの関係もわからないし、こういう立ち飲み屋ならではの文脈みたいなのもあるかもしれないし、聞こえてきた会話の感じだと店員さんは大学で社会学を学んでいるらしくて、もしかしたらこのおじさんたちも観察対象かもしれないし、……なんてふうにてきとうな理由をつけたが、ほんとはただただ西沢のことなかれ主義が発動してしまっただけだ。だいたい店員さんもおじさんたちをあしらいつつ「わたしのなにを知ってるんですか」とは明確にいっていたので、ちゃんと嫌がっていたかもしれない。店を出てから「わたしがいうのが危ないと思ったんなら、きみがいえばよかったじゃん」と同居人はいい、僕もたしかにそれはそうだったかもと思ったが、イメージが湧かなかった。いえればいいだろうけど、いい方がわからない。おそらく僕たちとは世界の見え方がまるで異なるひとたちに、もちろん僕たちが必ず正しいわけではないということも明示しつつ、せめて目の前のひとが嫌がっているかもしれないことはやめませんか、ということを伝える、その伝え方がまだわかっていない。ほんとに当たり前のことをいえばいいだけなのだろうが。

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6/15

 同居人が会社のひとと飲みに行ったので、僕は家で白米、納豆、セブンイレブンで買った中本のカップ焼きそば、という雑な夕飯にしてしまった。中本のカップ焼きそばは、スープを全部こぼして麺だけになってしまった中本という感じで、個人的にはさほどヒットしなかった。白米と納豆のほうがずっとおいしいと思った。白米と納豆は美しい相互関係を築いている。白米を食べるために納豆があり、納豆を食べるために白米がある。

 斎藤潤一郎の『武蔵野』を読んだ。都会でも田舎でもなく、かといってニュータウンっぽい情緒があるわけでもなく、ただの郊外である武蔵野一帯を散歩する漫画。武蔵野線とはまた異なるかもしれないが、僕は常磐線ユーザーだったので、電車から見える、うだつの上がらない、見続けていたらふとそこに自分も収まってしまいそうになる風景、という著者の感覚はなんとなくわかる気がして、そういうなんでもない駅で気まぐれに降りてみる散歩の漫画としても楽しめた。詩情、という言葉では済まされないほどの黒塗りっぷりからは「散歩とは影である」という精神が感じられた。自ら足を運んだ場所について漫画に描いていく途中で、徐々に実際の出来事と空想とが混ざりあっていき、そのことに漫画内でも自己言及するというやり方は『長い一日』のようでもあった。僕も日記を書いているなかであることないことをつい交えたくなるが、いまのところはできるだけあることばかりを書こうと思っている。

 

 

6/16

 会社に先輩が実家から送られてきたという新玉ねぎおよそ十キロ分を持ってきて、欲しいひとが欲しい個数持って帰るという行事があってうれしかった。僕も三個いただいた。社内の中央に置かれた新玉ねぎの周りにひとが集まり、新玉ねぎは水にさらさずにそのまま食べてもうまいだとか、十字に切り込みを入れてレンちんするだけでもうまいだとか、めんつゆで煮るのもいけるだとか、各々の玉ねぎ観を口々に語るのがよかった。玉ねぎのありがたみ、という、ふだんの仕事のなかでは話題にならないようなことを実はみんなが胸の内ではしっかり思っており、それがオフィスの中央に玉ねぎの実物が出現したことで発露したのがおもしろかった。

 仕事のあとには『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』をTOHOシネマズ六本木に観に行った。こういう映画は公開初日にTOHOシネマズ六本木の七番スクリーンで観るに限る。日本人より外国人のほうが多くて、盛り上がりに加われるのがうれしい。もちろん映画自体がその盛り上がりに値するものでなくてはだめで、それでいうと『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』は超特大満点だった。映像革命だと思った前作をも軽く凌駕する激やばアニメーションが、二時間二十分のあいだ絶え間なく続く。その映像の洪水を目でただ追っているだけでも幸せなのだが、話もよいのがさらにすごい。人類の叡智の結晶といってもいい作品だと思った。

 そもそも何度となく映画化されていることが証明しているようにスパイダーマンというキャラクターはきわめて映画に向いていて、それはなによりも手から糸を出してビルとビルの間を飛びまわるというシンプルながらスリルに満ちた運動の素晴らしさに因るところが大きい。歴代のスパイダーマンは地面すれすれを滑空し、壁にぶつかる寸前のところで次の壁へと飛び移る運動センスにあふれ、それは『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』の主人公であるマイルス・モラレスにもこれ以上ないほどの形で受け継がれている。しなやかに飛びまわるマイルスをカメラ(=作画)が縦横無尽なベストポジションで追い続け、ビル群は瞬く間に後方へと流れ、僕たちを際限なく興奮させる。その興奮がスパイダーマンが増えるほどに高まるというのは当然予想されるべきことなので、今回の映画が素晴らしいことは約束されていたようなものだったけれど、予想を遥かに超えてきた感じがした。

 

 

6/17

 昨日の『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』の余韻に浸りながらMetro Boominとその仲間たちが作ったアルバムをあらためて聴いたらすごくよかった。特にJames Blakeが参加しているのが効いている気がして、映画の雰囲気にとても合っていると思った。あとやっぱりLil Uzi Vertはいい、彼の憂いを帯びたフロウが一オクターブ上がるところで、聴いている僕たちの(「感情」や「感傷」といった訳語とは違う)エモーションも否応なく高まってしまう。それはマイルス・モラレスの疾走とも呼応している。

 アルバムを流し、その随所に散りばめられたマイルスやグウェンの台詞を聞くと、昨日観た映画のシーンが思い出される。マルチバースを扱った映画のなかでもピカいちだったのではないかとも思う。観客を飽きさせないためではなく、ファンを喜ばせるためでもなく、話の当然の行き先としてマルチバースが現れる感じが美しかったし、ことスパイダーマンというキャラクターにかんしては、これまで何度も映画化されてきているという状況がメタ的にマルチバースの存在を証明していて、作品の強度を上げている。このまま続編がもし作られなかったとしてもいいくらい素晴らしかったと思う。

 今日は同居人の友だち二人が遊びに来るので、ゼルダをやりつつ部屋を片付けまくった。たまに誰かが遊びに来ることで部屋が片付くという方式を採用している。天気は完全に夏で、洗濯物を干すためにベランダに裸足で出て火傷しそうになった。雲の形に夏らしい立体感があり、しかしなかにはあまりにも〝雲〟すぎる雲も浮かんでいて、AIが自動生成したフェイク雲なのではないかと思った。夜はみんなでピザを食べに行った。ビートたけしが来店したときの写真も飾ってあってうれしかった。ピザ屋のあと銭湯に行って、天井に緑色の見たことないクモがいて、僕がこのバースのスパイダーマンになるのかと思ったが、そいつは天井から降りてこず、したがって僕が噛まれることもなかった。

 

 

6/18

 朝から友だちとプールに行った。プールに行ったあとは必ず眠くなる。そこで昼寝するのももちろん最高なのだが、あえてせずにそのまま起きていると、徐々に眠気が解消されていくか、靄がかかったように頭が痛くなっていく。そのどちらになるかはわりとランダムで、今日は眠気が解消されてよかった。同居人が会社の同期と『リトル・マーメイド』を観に行くというので、僕もシネクイントの『M3GAN/ミーガン』を予約して、二人とも昼過ぎに家を出た。『M3GAN/ミーガン』はおもしろかったけどノリきれなかった。シネクイントを出てからふらふらとレコードショップに行ってR.E.M."Lifes Rich Pageant"と松任谷由実"PEARL PIERCE"の中古盤、細野晴臣"HOSONO HOUSE"のリイシュー盤を買い、イメージフォーラムまで歩いてジョン・カサヴェテス特集上映の前売り券を買って帰宅した。金曜日に会社でいただいた新玉ねぎを丸ごとレンチンするやつをやってみたらほんとにおいしかった。そのあと朝のプールの眠気が再び訪れてけっきょく少しソファで寝ているうちに同居人が帰ってきた。

 

 

6/19

 おとといの土曜日、同居人の友だちを家に迎えるにあたって猛烈に部屋の片付けをしたときに、同居人が前々から考えていたという部屋の模様替えを行った。模様替えというと大げさだが、やったことといえば部屋の中央に鎮座しているローテーブルをなくすということに尽きる。もともとこたつ兼テーブルとして購入したものだったが、季節は過ぎてとっくにこたつ布団は取り払われ、ただのテーブルとしてはややガタイのよすぎるそのローテーブルのみが部屋のど真ん中に残り、テレビも積ん読の本も食べかけのお菓子もその上に載せてしまっていたのだが、「部屋が片付かない元凶はこのテーブルにある!」と看破した同居人が、このテーブルを部屋に置き続けるというのなら引っ越しも辞さないというほどの構えになってしまったために、土曜日の掃除のタイミングでテーブルの撤去を余儀なくされたのだ。はたしてテーブルをどかしてみると部屋は元の広さを取り戻し、いや、むしろ最初より広くなったのではないかと思えるくらいに風通しがよくなった気がして、いまのところ模様替えは大正解だったと思えている。同居人の提案はだいたいいつも正解なので、愚かで無策な僕はおとなしく従っておくべきなのだ。ところで撤去されたテーブルをどこにやったかというと、寝室のベッド脇にとりあえず立て掛けてあって、もし倒れてきたら僕が死んでしまう。

 

 

6/20

 朝起きたら寝汗がすごくて頭も痛かった。会社を休んだ。午前中は寝て、昼頃起きて蕎麦を茹でて食べた。薬味も付け合わせもない、ただ腹を満たすためだけの蕎麦だけの蕎麦を、僕はこうしてたまに食べるのだった。午後は日曜日に買ったR.E.M.の"Lifes Rich Pageant"のレコードを流しながら本を読んだ。僕は高校生のときに近所の古本屋でそのときは知りもしなかったR.E.M.というバンドの"Green"というアルバムのCDをなぜか買ったときからR.E.M.が好きで、でもすべてのアルバムをちゃんと聴いたわけではなく、"Lifes Rich Pageant"も大学生のときに何回か聴いたっきりで、しかしそのときにかなりいいアルバムだと感じたなんとなくの記憶があり、さらにさいきん『aftersun/アフターサン』のなかでR.E.M.が流れて以来R.E.M.のことを考えていたこともあって、渋谷のHMVでたまたま中古のレコードを見つけたときに迷わず買った、それが日曜日のことで、今日再生してみて、あまりのよさに三回連続でかけた。そのあと夕飯の買い出しに出かけた際に聞いた『空気階段の踊り場』の今週分のなかで、鈴木もぐらが頭に浮かんできた曲をひたすら口ずさむというおもしろい流れのなかでスピッツの「スパイダー」が登場してよかった。R.E.M.スピッツが好きであることをあらためて確認できた。

 いまは福田節郎というひとの『銭湯』という小説を読んでいる。居酒屋を気まぐれにはしごするような独特のグルーヴ感を持った文章が魅力的で、僕自身も酒飲みだったらもっと楽しいのかなとも思う。「◯◯は◯◯した」という主述の繋がりが一文のなかで二組以上出てくるときに、ふつうならどちらかの「は」を「が」にしてしまいそうなところを、福田さんはどちらも「は」で繋げていて(たとえば「◯◯は◯◯しているときに、◯◯は◯◯していた」みたいに書くこと)、それが生のグルーヴを生んでいるのかもしれないと思った。その『銭湯』を読みながら"Lifes Rich Pageant"のレコードを三回連続で流し、三回目の途中で眠くなって少し昼寝したのが今日の午後のことで、さっきは昼寝したことを書き漏らしたのでいまもう一度書いた。わざわざ文章に残すほどのことでもないことを、日記だからこそ残せる。

 

 

6/21

 講師陣に惹かれて受講を検討している「ことばの学校」の募集ガイダンスが今日で、オンラインなので気楽に構えていたのだが、しかし十九時半のスタートには間に合いそうになかったのでアーカイブ配信や巻き戻し再生があるかどうか質問するメールを夕方頃にして、アーカイブ配信もあるし巻き戻し再生もできますと返事をいただいたので、じゃあいいか、と仕事が終わって帰ってきてからもけっきょく見ていない。いまやるかあとでやるかを選ぶ場面で常に「あとで」を選び続けてきた果てに、いまの僕があるのでございます。

 

 

6/22

 同居人は有給を取って、昔からの友だちの結婚式のドレス選びに付き合っていた。横浜のほうの景色のいいサロン的な場所に黄色いポロシャツにデニムジーンズという恰好で同行して、そんな服装だと浮いたのではないかと思うが大丈夫だったらしい。幼い頃から知っている友だちのドレス姿に感動するのはもちろん、ドレスの長い裾をはらりと広げてみせるスタッフの方の手さばきにも感心し、とても楽しい時間を過ごした。サロン的な場所を出たあとは野毛エリアで一杯五十円のハイボールを飲んだ。平日の昼間から飲めているという状況のうれしさも手伝い、ついつい飲みすぎてしまって駅のトイレで少し吐いてしまった。それから友だちを家に連れてきた。今日は梅雨らしい涼しさのある日で、吐いてすっきりいい気分になり、友だちもドレス選びで疲れていたようなので、二人で昼寝した。同居人は大の昼寝好きだが、友だちを家に連れてきて一緒に昼寝するというのはなかなかないことで、これは昼寝の可能性を拡げたといっても過言ではないのではないだろうか。夕方に目が覚めてからは一緒にインディ・ジョーンズの一作目を一緒に観た。常になにかが起こっていて楽しい画面だった。スター・ウォーズに続いてハリソン・フォードのにやけ顔もいい。続けてアメトークの踊りたくない芸人の回を見て、くだらないと思いつつもついつい爆笑してしまった。特にザ・マミィの酒井が優勝だと思った。友だちを駅まで送ってからシャワーを浴び終えたタイミングで僕が帰ってきて、一緒にアメトークを見返した。何度見てもザ・マミィの酒井が優勝だと思った。そういう一日を、同居人は過ごしたという。一方の僕は、昼に食べたセブンイレブンのうどんがぜんぜんおいしくなくて悲しかった。

 

 

6/23

 いつの間にか夏至を通り過ぎてしまっている! 毎年夏至の日には西の空を眺めながら「今日以降日が短くなっていくんですねえ」とつぶやいて感慨に浸るのが通例となっていたが、今年はそれをやれなかった。「でも夏至って思ってるほど日長くないよね。八時には暗いし。夏至の本領はむしろ朝にこそ発揮されると思ってる。この時期って朝の三時とか四時くらいにはもう東の空が白みはじめてて、鳥も鳴いてるんだよね。やっぱり鳥が鳴いてると朝って感じがするんだよな」という話もできなかった。来年はします。

 

 

6/24

 仕事の日だった。今日は活躍できてよかった。仕事のあと、八月から留学でアメリカに行く友だちを囲む会に参加すべく横浜に向かった。一次会が終わる頃に着いて少しだけ参加し、そのあと腹を満たすために一時離脱して、二次会のカラオケに途中から合流するという変な動きをかましてしまったが、それもいたしかたなし、というのも今日の会は同居人の企画なのだが、僕以外のメンバーはみんな中学が同じだったひとたちで、僕にとってはアウェイともいえる状況だったのだ。むしろなぜ僕がそこにいるかというと、僕とその友だちは大学のクラスが一緒で、同居人のこともその友だちに紹介してもらったという経緯があり、ようするに僕と同居人にとっては非常に感謝すべき友だちなので、アウェイだろうがなんだろうが僕は参加したいし、しなくてはいけなかった。しかし、かなりアウェイだと思って臨んだら、既に同居人を通じて会ったことのあるひとも何人かいて助かった。カラオケでは「いとしのエリー」を少しだけ桑田に寄せて歌って、たぶんいい感じだった。帰ってきてから同居人に僕の今日の仕事での活躍っぷりを語ったが、うまく伝わらず、ふざけていると思われた。寝る前に大橋裕之『シティライツ』を読み返している、こういうフィーリングを持った小説を書きたいと思う。

 

 

6/25

 同居人の友だちに誘われて午前中から新宿のバッティングセンターに行った。今日は暑くて、「さすがに三十度くらいあるよね?」とスマホで調べたら実際に気温は三十度近くてよかった、いや、よくはないのだが、たとえば今日の暑さで二十五度しかなかったとしたら、そこからさらに十度近く上がるであろう真夏は耐えられそうにないので、今日の暑さで三十度あったことはせめてもの救いだった。友だちはさいきん野球を見ることにハマっていて打ってみたくなったのだといっていて、何回かやるうちに上達していてうれしそうだった。高校でソフトボールをやっていた同居人はやはりフォームがきれいで、バットにも多く当たっており、しかしそれでもボールがなかなか前に飛ばないことに対して悔しげだった。僕はというと、バットを振ってもほとんどボールには当たらず、三百円払って二十回素振りしていたようなものだったが、バットをただ振るよりも実際にボックス内に立って、飛んでくるボールに対峙することにはなんとなく満足感があって楽しかった。バッティングセンターには他にもゲーム機が置いてあって、僕たちはそのなかの「THE 握力」というただ両手の握力を計測するだけのゲームをやった。ぜんぜん打てなかったのを挽回したい気持ちもあったかもしれない。しかし強いと思っていた握力もたいしたことなく、微妙な感じになって終わってしまった。同居人の左手なんて六キロしかなかったので、たぶんあの機械の調子が悪かったのだと思う。お昼にはいつか僕が友だちと行ったミートボール専門店に行って、そのあと解散した。午前中から遊んで昼ご飯を食べて解散するのはいい。帰ってきてシャワーを浴びてから、テレビをつけたらちょうどベイスターズ対タイガース戦をやっていて、それを見ているうちに眠くなって昼寝した。起きたらもうすっかり夕方だった。

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6/26

 野球の素振りというものはなかなかの運動だったようで、今日は腹斜筋と骨盤の周りの謎の部分に筋肉痛が来ていた。同居人も筋肉痛に苦しめられていて、おそらく腹斜筋のことをいっているのだと思うが、あばらが折れているのではないかと思ったらしい。腹斜筋のあたりに筋肉痛があると笑ったときに痛いのだが、夜、同居人はなぜか『女の園の星』を読み返してゲラゲラ笑いながら痛がっていた。『女の園の星』はめちゃくちゃおもしろいので仕方がない。僕は昨日のガキ使の「TANAKER」を見てゲラゲラ笑っていた。「TANAKER」はココリコ田中がジョーカーに扮してガキ使の先輩メンバー(ようするにダウンタウンや方正やたまにゲストで来るフジモン)への鬱憤を晴らすという企画で、田中以外のメンバーはTANAKERに気づかずに通常企画を進めているというていで生クリーム攻撃を受け続けなければならない。とはいえ、まったく気づいていないままだとそれはそれでつまらず、間近で生クリームを振り回し続けるTANAKERに思わずビビってしまうという、くすくす笑い的な局面があってこそ成立している感じがある。このくすくす笑い的なものはダウンタウンの番組における特徴のひとつだといえるかもしれない。松本人志が上を向いて鼻の下を伸ばしながら笑いを堪えている姿を、僕たちは容易に思い出すことができる。しかしくすくす笑いというものは扱い方を間違えればただの冷笑にもなってしまうため、ある程度親密な仲間内でないと成立しない。それゆえに出演者は次第に固定されていき、番組は内輪ノリへと走っていくことになる。……となぜかダウンタウン批判的な方向に話が進んでしまったが、僕なんてべつにダウンタウンの番組を見て育ってきたわけではないので、こんなのは放言に過ぎない。

 

 

6/27

 じめじめじめじめ、じめじめじめじめ、こうも毎日湿気に溺れそうなほど蒸し暑い日が続くというのなら、こちらも相応の手段を講じなければならない。湿気の野郎、おれたちが何も抵抗しないと思って、図に乗ってやがるんだ。ふざけやがって! まじでおれたちを怒らせたらやべえってことを、一回教えてやんねえといけねえみてえだな! とはいうものの具体的な手段は何ひとつとして思い浮かばず、僕はとりあえず少しでも納涼になればいいと思って音楽を聴く。たとえば僕は「ハウ・トゥ・ディサピア・コンプリートリー」を聴く。ジャケットの印象も相まって、暗く凍える山脈のなかにゆっくりと入っていくような感覚を覚え、ほんの少し身体の周りが涼しくなる気がする。レディオヘッドは納涼のためにこの曲を作ったのではないと思うが、一度世に放たれた曲は作り手の意思とは関係なく聴かれる。

 

 

6/28

 今日はジムに行った。Lana Del Reyの"Norman Fucking Rockwell!"を聴きながらやった。

 今週はインディ・ジョーンズの過去作を観ている。というか主に観ているのは同居人で、僕は洗濯物を干したりシャワーを浴びたりしながら断片的に見ている。インディ・ジョーンズはとにかくハラハラドキドキ展開が延々と続くすごいシリーズで、登場人物全員が「人間」ではなく紋切り型の「キャラクター」として動き続ける作劇はよくも悪くもスピルバーグだというか、『フェイブルマンズ』でそのオリジンが描かれていた〝映画モンスター〟っぷりが遺憾なく発揮されている感じがして、これは当時子どもとして観たらかなり楽しかっただろうなと思う。延々と訪れるハラハラドキドキはいってしまえばすべてベタなのだが、これらがベタになったのも、スピルバーグがあまりに巨大な存在として君臨する七十年代以降のハリウッド映画の歴史のなかで徐々にそうなっていったということなのだろう。そう考えるとやはりすごい。

 インディ・ジョーンズは考古学者としての探求心を持ちつつ、(非常にステレオタイプ的な)悪役たちの陰謀に巻き込まれつつ、毎回古代遺跡のなかを進んでいく。スーパーヒーローというわけではないので闘い方が泥臭く、けっして強すぎはしないのがいい。作戦が功を奏したときのハリソン・フォードのにやけ顔が毎回かわいい。学者ということもあってか闘いのなかでときおり賢さを見せてくるのもいいし、そうはいってもだいたいは運のよさで助かっているのもいい。……といいところはいくつもあるのだが、振り返って考えてみると、インディが訪れた遺跡はいずれも、なんやかんやあって最終的に崩落するなり爆発するなりしていて、考古学者としてはかなりまずいのではないかと思う。保全せえ。

 

 

6/29

 頭痛でもインディ・ジョーンズくらいなら楽しく観られる。『クリスタル・スカルの王国』は前三作以上にトンデモな話で、しかしインディ・ジョーンズにそんなに話の筋のしっかりさをを求めていない僕としてはむしろよかった。インディが若者に説教を垂れそうでぎりぎり垂れないじいさんになっていてやや奇妙なバランスなところを、ノリノリのケイト・ブランシェットのおかげで全体のテンションが保たれた感じがあり、最終的にはハリソン・フォードのにやけ顔も見られたのでよかった。人間は知識を得すぎると発火して塵になる、ということも学べた。でもここまででいうと三作目の『最後の聖戦』のノリが一番好きだったかもしれない。

 

 

6/30

 上半期最後の頭痛。