バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

ズームするバカ(二)

 六月に突入して以降も僕はスマホのカメラでズームすることにはまっていた。スマホの空き容量が少なかった問題も、てきとうにいじっていたら奇跡的にやや空きができて短期的には解決した。長期的な解決には第四次産業革命かなにかを待たなければならないだろう。それは僕ひとりの力ではどうすることもできない問題なので、いまはとりあえず容量がいっぱいになってしまったと通知されるたびに短期的な解決をしつづけるしかない。行こうと思ってけっきょく行っていないレストランのメニュー表のPDFを削除するとか、内部ストレージの隅っこにスラム街を築く容量うめうめマンを退治するとか。

 とにかく空き容量がほんの少しできたため、僕はスマホのカメラでズームして撮影した。撮影は写真だけでなく動画にも及んだ。スマホのカメラを起動し、画面上の任意の場所を指一本でひょいっとさわるだけで、写真モードから動画モードへと切り替わるのだった。日に日に不可解さを増していくこの世界において、写真モードから動画モードへの切り替えだけを僕は迷わずやりつづけ、心の拠り所とすることができた。

 ズームして写真を撮ることが対象物の形を純粋に楽しむことに繋がっているならば、ズームして動画を撮るとはどういうことだろうか。動画の場合であっても、ズームすることはなにかを純化することに繋がっているのだろうか。……そんな疑問はもちろん後づけで、僕はただ楽しくてズームで動画を撮るのだった。動画の場合でも画質の粗さはいい方向に効果をもたらしており、ブラウン管に流れる煙たくて色褪せた映像のようなノスタルジーを僕は感じていた。加工アプリによる作りもののノスタルジーとは違って、スマホのマジのスペックによってもたらされるマジの粗さなので、僕はそれをよしとしていた。よいノスタルジーとよくないノスタルジーがあるとすれば、僕のスマホのカメラのズームがもたらすのはよいノスタルジーだと思った。ノスタルジーのよいよくないがなんなのかはよくわからない。

 しかし撮るうちに否応なしにわかってきたのは、どうも動画というのは字面どおり動きが重要そうだということ。「動画のなかに動きがあることによって、動画に動きが生まれるのか!」と僕は叫んだ。僕がスマホでズームして撮影する動画のなかの動きは、いくつかのパターンに分類された。

 まず僕が定点でスマホを構え、対象物が動くパターン。たとえば走る電車の窓から外をズームで撮影する。どの方向にカメラを向けるかによってできあがる動画はまったく趣を変える。ホームに並ぶ人びとや高層ビルのガラス窓に写る雲を捉えるのもよかったが、僕はレールや電線など、自分の乗っている電車にまつわる機構をおもしろく感じた。車窓から見る電線のおもしろさは"Star Guitar"のMVによってもすでに証明されているとおりだったが、自分の実感として持つことができてうれしかった。工業的なものはおもしろい。巨大であればなおいい。

 次に、僕がスマホを動かして、静止している対象物を撮るパターン。たとえば上野公園の西郷隆盛像を撮るとか。これには多少の技術を要した。というのも、カメラのズームを十倍にまで引き上げると、少しの揺れが画面上の大きなぶれに直結するからだ。ぶれを最小限にするために、僕は極力シンプルな軌道でスマホを動かした。対象物が静止している場合、写真とやや似て、対象物の形そのもののおもしろさが動画のおもしろさにも寄与するようだった。形そのものがおもしろいかどうかと、それが上下左右どこからフレームインしてくるのか、あるいはフレームアウトしていくのか。そしてそのタイミング。同じものを何度も撮影して、どうすればいちばんおもしろいか検証するのがよさそうだと思うが、試してはいない。

 そして、僕もスマホを動かすし、対象物も動いているというパターン。たとえば離陸する飛行機を追うとか。これもスマホの動かし方に技術を要するし、さっきと同じように、対象物のフレームイン/フレームアウトの場所やタイミングを考える甲斐がある。さらにおもしろいと思ったのは、対象物の動きを追って撮影しているときに、その手前をなにかが横切ること。対象物とは関係のないなにかが映り込むことで動画はより充実する。関係がなければないほどよい。

 

 スマホを定点で構えるか、それとも動かすか。対象物が動いているか、静止しているか。二かける二の組み合わせで僕のスマホでの動画撮影は成り立っていた。そうなると、四つ目のパターンとして、静止している対象物を定点で撮る、ということが考えられる。これはまだやっていない。その動画単体でおもしろいかどうかはわからないが、たとえば動画と動画を繋げたなかに、ふとまったく動きのないそういう動画が入っていたら、それはおもしろいかもしれない。「動画と動画を繋げるって、それもう映画じゃないですか!」と僕は叫んだ。それはもう映画だった。そして映画であれば、この動画のなかにひとが登場する。もしかしたら何人か登場し、会話をしたり、歩いたり、走ったり、転んだり、急に叩いたり叩かれたり、笑ったり泣いたりするかもしれない。それらの動きは動画をいっきに充実させる。べつにひとである必要はないが、ひとはおもしろい。おもしろいから映画によく登場するのだろう。さらに映画であれば音響にもこだわることができる。劇伴をつけたっていい。主題やテーマを持たせることだってできる。もちろんなんのテーマもない物語を描いたっていい。長さだって自由だ。無駄なくコンパクトにまとめてもいいし、ただ長くしたいがために長くしてもいい。どんなコンテクストに則ったっていい。則らなくてもいい。『トップガン マーヴェリック』と『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』と『ブンミおじさんの森』と『ヴァンダの部屋』と『話の話』を同じ映画という言葉でくくることができるのが映画というものだ。観るほうも好きにしていい。どんな映画を好きになってもいいし、好きにならなくてもかまわない。映画はそれを観るひと、観ないひと、すべてのひとに開かれている。映画はすごい!