バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二三年九月の日記

9/1

 夜になってから家の外を少し歩いてみるとほんのり涼しくて、これが九月か、と思ったが、しかしよく考えてみるとそもそも数年前までは八月の夜もこれくらいのものだったような気がする。だから今日の夜のちょっとした涼しさを秋のものとして捉えてしまうとそれこそ猛暑の思うつぼというか、いや、夏の夜って前はこれくらい涼しかったでしょ、ということを口うるさく訴えていかないと、夏の夜はどんどん暑くなっていって、僕たちがやっと違和感に気づいた頃にはうだるような暑さが既成事実となってしまう。そういうずるさがここ数年の夏にはある。

 観たもの:ネットフリックスで『ワンピース』の実写版を見た。というか漫画もアニメも通っていないので、僕にとっての『ワンピース』初見は実写版になる。なんだか楽しかったのでよかった。みんなコスプレっちゃあコスプレだし、ゴムゴムの技のシーンもかなり珍妙なのだけど、それが許される場の雰囲気が形成されている。ルフィというひとはすぐにひとに夢を聞く癖があるが、それは原作からしてそうらしく、実写化するとなんとなく彼のやばさが浮き彫りになる感じがあると同居人は語っていた。聴いているもの:Big ThiefのギタリストことBuck Meekさんのソロアルバム"Haunted Mountain"と、Toro y MoiがAlex Gっぽいことをしている"Sandhills - EP"がすごくよくて聴いている。読んでいるもの:リディア・デイヴィス『話の終わり』を今日は少し読めた。「けっきょくのところ、思い出したいこともあれば思い出したくないこともあるということだ。自分が良識的にふるまったり、何らかの理由で面白かったり楽しかったりしたことは、思い出したい。自分がはしたなくふるまったことや、平凡で醜い出来事については、思い出したくない(ただしドラマチックな醜いことはそのかぎりではない)。」ということまで書いてしまっている語り手は、ある意味では非常に信頼がおけて、このひとの話なら長く読んでいられるかも、と思わせられる。

 

9/2

 同居人ともどもまだ具合があまりよくないので今日はほとんどを家で過ごした。座ったり立ったり、昨日の夜から見始めた『VIVANT』を最新話まで見進めたりした。『VIVANT』は王道と荒唐無稽とクサさが合わさっておもしろい。阿部寛があまりにも〝阿部〟が強い演技を終始披露していて、

「ダァー」

「ウォアー」

「ツァアー」

 それらを見ているだけでも楽しい。阿部寛は日本語だけでなくモンゴル語や英語でしゃべっているときにも〝阿部〟が出ていてすごい。そこに加えて、堺雅人の、無音で見たとしたら怒ってるのか笑ってるのかわからなさそうな顔の演技が、いかにも僕たちは日曜劇場を見ているのだという感覚を盛り上げる。話がおもしろいことももちろんだが、僕と同居人は見ているうちに話と〝阿部〟のどちらに楽しみの重心を置いているのかだんだんわからなくなっていった。

 ところで『VIVANT』もまた様々な考察を喚起するドラマのようで、ネットには万人による考察が溢れかえり、製作側も公式にそれを促している雰囲気がある。僕も同居人もそういう盛り上がりには乗りきれず、代わりにラパルフェの物真似動画を見てゲラゲラ笑っていたので、けっきょく僕と同居人は〝阿部〟を楽しむことに重心を置いているのだと思う。そのあとシャワーを浴びながら僕が考察文化に乗りきれない理由を考えてみたのだけど、究極の理由はやはりシンプルに、僕が物事を考えるのが苦手だからだと思う。考えられないのでガワを楽しむことになる。だから「ダァー」とか「ウォアー」とかいって笑っている。

 

9/3

 スーパーに買い出しに行く道すがら電動車いすに乗っているひとに追い抜かされた。老人といっていい領域に差し掛かっているそのひとの半袖半ズボンから出た腕や足は健康的に日焼けしていて、加えてその電動車いすにはパタゴニアモンベルの大小様々なステッカーが所狭しと貼り付けてあり、都市におけるアウトドアマンとしてただならぬ気配を漂わせているのだった。彼のアウトドアマンとしての熟達っぷりは圧巻のドライビングテクで証明された。彼の電動車いすは、べつにのんびり歩いていたわけではない僕をいとも簡単に抜き去り、その先に設置されていたラバーポールが形作るS字カーブも減速することなくするすると抜けていった。追い抜かれてからも広がり続けた差はついに縮まることなく、その先の信号において、彼は青のうちに渡りきり、僕は早足になるもあえなく引っかかる、という形でふたりの明暗は分かれた。

 ──というのが今日の朝のことで、そのあとは友だちがイラスト集を販売しているというコミティアに向かった。友だちは元気そうでよかった。見知らぬ青年からイラストを激賞されたらしく、まさにそういう出会いこそがコミティアのような即売会のよさだと思った。会場ではいしいひさいち『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』の原画展もやっていて、それはちょうど僕が前回のコミティアで買って読んでかなりよかった漫画なので思いがけず見ることができてよかった。いっけんシンプルな線で構成されている四コマのなかにも細かな描き直しの形跡が多々あり、そういう途方もないこだわりの積み重ねが、なぜだか漫画自体のストーリーも思い出させてじーんときた。『ROCA』はいしいひさいち朝日新聞で連載していた四コマ漫画ののちゃん』のなかにときおり登場していたというファド(ポルトガルの民謡)歌いの少女の話で、ばらばらだった登場回を作者自らまとめ、加筆し、一冊にまとめて自費出版したというその経緯だけでも感動的なうえに、いかにも新聞四コマ的な最小限の線で描かれるコミカルで余白の多い物語のすき間すき間に見え隠れする感情の鮮やかさに思わず涙ぐんでしまう。そんなふうに『ROCA』のことを思い出しながら、そのあとは大きな会場のほんの一画だけを周り、よさそうな作品をいくつか買って帰った。

 帰ってきてからは、きしたかのYouTubeでやっていて楽しそうだったパワプロを僕たちもやってみた。やってみたとは簡単に書けるが、実際のソフトの購入には八千円もかかっていることを僕たちはけっして忘れてはならない。夜は『VIVANT』を見た。途中、半沢直樹トーンになる部分があってウケた。

 

9/4

 ここ数日間ほとんど寝込んでいた同居人の体力回復も兼ねて夜少しだけ散歩した。外に出た瞬間は涼しいかと思われたが歩くうちにじんわり湿気がまとわりついてきて、ああ、はいはい、夏ね、とうんざりし散歩はあえなく終了となった。そもそも散歩に出た時間が微妙に遅いのもよくなかった。どうして微妙に遅い時間になってしまったのかというと、ニンテンドースイッチパワプロをやっていたからだ。高校野球の監督になって甲子園を目指す「栄冠ナイン」というモードで遊んでいるが、いつまで経っても公式戦で勝利できず、同居人は早くもいやになってしまいそうになっているが、僕は八千円!と心のなかで言い聞かせてコントローラーを握りしめている。

 

9/5

 細かいところにこだわらないのをかっこいいと思っているわけでも、感覚的で奔放なあり方にあこがれているわけでもべつにないのだけど、記憶を司る脳内機関がきちんと機能していないために、映画や小説の細かな筋や表現をすぐに忘れてしまう。ぼんやりとした〝感じ〟のみが残っている。読んだときの感じ。観たときの感じ。小説の後半の寒々しい砂漠が延々と続くような数十ページがすごかった気がするとか、登場人物ふたりがゆったりと温泉に浸かるシーンがそこだけ時が止まったようで心地よかった気がするとか。あるいは、雨の日に読んだので紙がしっとりしていた、映画館の空調が悪くてだるくなった、そういう小説や映画の外の要素もその〝感じ〟には関係する。〝感じ〟しか覚えていないので、小説のなかの好きな一節を問われてもなにも思い出せない。ただ好きだったという〝感じ〟だけがある。そうなるとせめてその〝感じ〟だけは手放したくないので、文章に残したりしてみる。〝感じ〟を残しておきたいというのも、こうして日記を書いている理由のひとつかもしれません。──そんなふうに書いてみればいかにもそれらしいが、実際はただ習慣として書いているに過ぎない。でもいい習慣だと思う。

 日記を書くことに意味や理由があるかどうかはわからないが、ときどき読み返すのは楽しい。たとえば七月の僕は『君たちはどう生きるか』を観て「よくわからないけどとてもよかった」という〝感じ〟を抱いたらしい。よくわからないのにとてもよかったと思った理由はもちろんよくわからないので、七月の僕は二回目を観に行きたいと思っていたようだが、その後僕が二回目を観に行った記録はない。もし観に行っていたならたぶん日記に書くと思う。でも書かれていない。もちろん日記にはすべてを書くわけではないので、たとえば二回目を観たがぴくりとも感情が動かなかっただとか、映画館を出たあと一緒に観た友だちと大喧嘩をして映画の感想どころではなくなってしまっただとか、そういう理由で日記に書かなかった可能性もあるにはあるが、実際に観に行ったかどうかは日記の書き手である僕自身がいちばんわかっている。それでいうと、僕は二回目を観に行っていないと思う。

 

9/6

 眠いので、寝ます!

 

9/7

 気がつけばそればかり聴いてしまっている、というアルバムが年に数枚ある。Tirzahの新しいアルバムは一周目からそういう絶え間ないリピートの気配をぷんぷん漂わせていて、事実この二日くらい何度となく再生している。話は変わるが──という断りさえ入れればどんなに強引にでも話題をぐにゃりと変えてしまえるという奇妙なルールがまかり通っていることがいまさらながらおもしろいが、一日のなかで何回かに分けて書かれることもあるのが日記という文章の性質であり、そうである以上強引な話題転換が必要になるケースはどうしてもある、たとえば今日のように──、会社を出てから同居人の母方の実家に伺うために中部地方に向かった。そもそもどうして伺うことになったのかが実はよくわかっていなくて、推測するにおそらく同居人が行こうとしていたところになんとなくの話の流れで僕もご一緒することになったのだと思う。

 運悪く台風接近の夜になってしまったが、途中で同居人のお母さんを拾いながら、僕たちは意気揚々と車を西へ走らせた。今日はそのお母さんのご実家までは行かず途中のホテルに入った。同居人が予約してくれていたそのホテルは、オーシャンビューと大浴場が売りだといういかにも昭和然とした海沿いのホテルで、プリンを模したような見たことのないお掃除ロボットがにこにこ顔で走り回るフロントでチェックインを済ませて部屋に行くと、たしかによく晴れた朝だったら絶景であろうオーシャンビューが窓の外に広がっている。しかしいまは雨降りの夜なのだった。

 それでも暗闇のなかに打ち寄せる波がかすかに見えて胸を高鳴らせる。

 大浴場という呼び名にふさわしい、いや、もう巨大浴場といってもいいのではないかと思われる大浴場はもう夜更けだからか空いていて、どんなにぶつくさつぶやいてもお湯の音にかき消されるというのもあり、「おお」とか「これはすごい」とかひとりごちながら入った。僕は目が悪いために、身体を洗う際にはボトルに目を著しく近づけて、それがシャンプーなのかボディソープなのかを確認する必要がある。そうやって目を近づけたままボディソープのノズルを押すと、想定以上に勢いよく飛び出たソープは僕の手のひらを滑り台のように使って飛び散りそのまま右目へと入った。しみる右目にシャワーを当てながら「いてて」とひとりごつ。

 夜更けでひとも少ないというのにしっかり熱されたサウナに入り、しっかり冷えた水風呂に浸かり、露天スペースに置かれた椅子に座ると、雨が足に当たり、ゆるやかにぬるい海風が頬を撫で、家の近所の銭湯と比べて格段に開放的なととのいが訪れた。海風は台風の気配を多分に含んでいて、目を閉じてそれを全身に受けていると、荒廃した世界に唯一残された大昔の施設で、人類最後のととのいを経験しているような気がしてきた。ここに住むひとたちは外の世界との交流を断って来る日も来る日もととのい続けていたが、あるとき外から来た僕たちによって、世界がまもなく滅亡しようとしていることを知らされてしまうのだ。

 部屋に戻ると同居人はもうほぼ寝ていて、その姿を見ると、世界の滅亡はいますぐじゃないと思う。

ものすごくかわいくてありえないほどうるさい掃除ロボット

 

9/8

 あわや大雨かと思われた今朝だったが、起きてみると意外にも雨はほとんど降っておらず、明るくなってついに開陳されたオーシャンビューを眺め「いい水平線だねえ」などとつぶやきながら朝食を食べることができた。そのあとはもちろんまた大浴場に行った。昨日の夜と同じように圧倒的なととのいを味わいながらも、広い場所で裸になっているということが徐々に奇妙に感じられるような気がした。自分の手や足がそれぞれ独立した心を持って、広い場所で露わになっていることを恥じらっているような気がするのだった。手や足は一度それぞれの心を持ってしまうとしつこくて、サウナに入っても、水風呂に浸かっても、まるで僕の手足ではないかのようにびっくりしてみせた。いや実際にはそこまで大げさな違和感ではなかったのだが、あの感覚を正確に描写する術を僕はまだ知らない。

 ホテルを出たら車を西に走らせ、同居人の母方の実家に来た。

 おばあさんに挨拶しスイカなど各種お菓子をいただいてから腹ごなしに同居人と散歩をした。家の近くの川沿いを歩いていくとやがて城址にたどり着くというのでそこを目指して歩いた。ちょうど地元の小中学生の下校時間と被って、首から水筒をぶら下げて楽しそうにしゃべりながら歩き、やがてそれぞれの家の道に分かれていく子らの姿に、ここで育っていく彼らの時間の堆積を思って感極まりかけた。途中でふらりと入ったコーヒー専門店でテイクアウトしたコーヒーのおいしさも、ここで暮らす人びとの生活の営みを想像させるには十分だった。いい気分で歩いた。しかしスイカを食べコーヒーを飲んだことでお腹をやや下し、城址の外のトイレに入ったら天井からでっかいクモが糸一本でぶら下がっていて、いつ垂れてくるか気が気でなく、トイレに集中しきれなかった。

 散歩から戻ると夕食をいただいて、おばあさんと二世帯住宅で同居しているという叔父さん家族ともいい時間を過ごさせていただき、知らない天井を見つめながら寝ようとしている。

「がんバターね!」

 

9/9

 のんきなもので、知らない天井は一晩も経てばもう僕のなかでは知っている天井になる。県の大きさをそのまま反映したかのように広い家の構造や物の位置もすっかり把握して、ひとんちなのに勝手に冷蔵庫を開けてコーラを取り出している。おばあさんにいわれた「あなたB型なの、じゃあわたしと同じでストレスが溜まらないほうだね」という言葉を免罪符に、朝ごはんを堂々といただき、そのあともリビングに居座って好き勝手くつろいでいる。おばあさんはこれまでのすべての旅行で泊まった宿の記録や、ひとと電話で何分間どんなことを話したかという記録をすべてつけてあるという驚異的な記録魔で、その記録ノートを見返せばだいたいのことは思い出せるという。「やっぱり記録するのは大事ですね」とかなり薄い相づちを打ってしまうが、ほんとにそう思っているのだから仕方がない。

 そうこうしているうちにおばあさんの妹さん、つまり同居人の大叔母さんにあたるひとがいらっしゃって、近所のおいしい店からテイクアウトしたというピザをいただいた。大叔母さんからすれば僕は謎の存在だったはずだが、ちゃんとした自己紹介をしそびれたまま食事に突入し、しかも僕がいちばんピザをいただいてしまい、恐怖のピザ男になってしまった。お昼をいただいてからピザ男とその同居人はおばあさんの家を後にした。

 途中休憩を挟みながらも一気に車を走らせて東京まで帰ってくるとさすがに疲れたようで、そのまま友だちと飲みに出かけた同居人を見送ってから、ピザ男のくせにうどんを食べて、そのあとはYouTubeを見たりしながらだらだらと過ごした。ひとの呼び名が最後に食べたもので決まるとしたら、ピザ男はいまはうどん男である。

 

9/10

 きしたかのYouTubeを見てげらげら笑ったり、渋谷の古本屋でトゥーサンというフランスの小説家の本とロバート・ジョンソンの評伝本を買ったり、友だちと飲んだりした。激ネムのため、寝ます。

 

9/11

 仕事の途中から発熱してしまい早退した。熱はぐんぐん上がった。まさかまた!

 

9/12

 「まさかまた!」という昨日の予感は見事に的中した。今年に入ってから三回「まさか!」と思うような熱の上がり方があり、いずれも予感は的中している。感染するウイルスが違うだけだ。会社に電話したら心配されつつ少し笑われた。僕も少し笑った。かかりすぎ。笑いごとではないか。処方された薬はゲームの悪役の技名のような聞いたことのない名前の薬で、四錠一気に飲んでくださいとの指示があり、加えて注意書きには異常行動の恐れがありますとも記載されていて、かなり怖かったがどうにか飲んだ。飲んでからベランダに干していたタオルを取り込んだのだが、そこで異常行動が出なくてよかった。

 熱は高いところで上下する、高止まりの状態が続いている。今年は高熱の経験が豊富になったのでだんだんわかってきたのだが、まず基本的に熱が上がるほど身体はきつい。頭痛もひどく出るし、味覚も後退する。しかしじっとしている分には、熱が上がっていっているときと下がっていっているときのきつさにはあまり違いがなく、むしろ熱が下がっていくときには汗もかくので頭痛と合わせてなおさら嫌な感じがする。寝るタイミングも重要で、頭が痛いときに無理に寝ようとするよりは、薬を飲んでしばらく座り、頭痛が少し治まってきてから寝たほうがいい。どうせ仕事はできないのだから、ある程度自由な時間で寝たほうがいいということだ。寝る。

 

9/13

 バスケの選手として国際大会に出場していた。僕らのチームはなぜか三人しかメンバーがいなかったのだが、それがかえって意表を突いたのか、五人チームを次々と打ち破っていった。僕は自分がレイアップを決めるのをゴールネットの上から俯瞰で見ていた。夢のなかでは僕自身も含めてチームメイトが誰なのかということを気にしていなかったようにも思ったが、目が覚めたときにはなぜか僕以外の二人が流川楓宮城リョータだったという認識になっていて、ということは僕は桜木花道だったのか、と思いながら少し二度寝した。夢についてはそのあとしばらく忘れていて、夕方になってからふと思い出したのだった。

 二度寝から起きて水道水でうがいをしたら少し冷たい気がした。まだまだ日中は暑いですが、水道水の温度には秋の気配が濃くなってまいりました。熱を出しているくせに細かいことで季節を感じていることに我ながらウケた。

 今日もまだ微熱と頭痛があった。しかしだんだん読書などができるようになってきて、リディア・デイヴィスの『話の終わり』があとちょっと残っていたのを読み終えた。高熱で脳細胞が死滅してしまっていないことを確認するための、リハビリとしての読書でもあった。『話の終わり』は主人公が失恋してからのあらゆる気持ちや行動の変遷、そしてそれを書いている数十年後の語り手が何を書いて何を書いていないのか、何があいまいになっていて何がごまかされているのかという、失恋と小説のプロセスをまさしく体験するような小説で、主人公が失恋したというひと回り年下の「彼」への執着のひねくれ具合も含めておもしろかった。「彼」と付き合っていた数ヶ月、あるいは別れてからの数年が重ね塗りのように何度も描かれるが、同じシーンでも思い出し方が違うから同じ描写にはならないというのがとてもよかった。読み終えて窓の外を見ていたときにさっきのバスケの夢を思い出したはずだが、それでは時系列として少し都合がよすぎるため実際は違ったかもしれない(というような語りが延々と繰り返されるのが『話の終わり』という小説である)。

 

9/14

 相変わらず頭が痛い。寝転がってみても簡単に寝られるわけでもないのでラジオを聞いている。今週はオールナイトニッポンが「お笑いラジオスターウィーク」というやつで、令和ロマンがオールナイトニッポンXをやっており、まさしく〝ラジオスター〟の称号にふさわしいノンストップの高速ラリーに笑わされ続けた。彼らのすごいのはボケやたとえの引き出しの多さとそれを引っ張り出してくる速さで、何年ぶりに聞いたかわからない「キクタン」や「クォーターパウンダーバーガー」という単語の懐かしさに加え、たとえばキクタンなら「株式会社アルクの」、クォーターパウンダーバーガーなら「あのイチローのクリアファイルがもらえたっていう」と、知らない情報まで即座に補足してくるのが心地よい。あるあるでは満足せず、未知の境地まで連れていこうという意志がある。「『アイシールド21』の鉄馬丈のベンチプレスが百十五キロ」なんてことをそもそもなんで覚えてるんだよ、とも思う。なんでそんなこと知ってるんだよ、というお笑いでもある。

 髙比良くるまが自らの自己肯定感の低さについて話しているなかで「自分の〝輪郭〟というものがないから、お前(相方の松井ケムリ)みたいに自分の〝輪郭〟のまま自由に芸人をやっていけるひとが羨ましい」というようなことを語っていて、これはおそらく〝ニン〟と呼ばれるようなものに近いのだろうが、特に漫才をやる芸人にとってそういう輪郭やニンというようなものが自分でわからないというのはきついのかもしれない。たとえばM-1で考えてみても、直近の優勝者であるウエストランドと錦鯉はかなり〝ニン〟あってこその漫才だし、あの鮮烈だったマヂカルラブリーでさえも野田クリスタルという代替不可能な身体≒〝ニン〟の漫才である。そのニンや輪郭が自分にはなく「人間としてのドーナツ化現象が起きてる」というくるまだが、その速くてあちこちに飛んでいくボケのスタイルは既に代替不可能な唯一無二の輪郭を形成しているような気がする。

 午後にはだんだん頭痛も治ってきて、ジャン=フィリップ・トゥーサンの『マリーについての本当の話』を読み進めた。夜には同居人を迎えに行きがてら少し外を歩いてみたら、なんとなく船酔いっぽい感じの、頭痛というほどじゃない気持ち悪い感覚があって、きもちわるかった。

 

9/15

 家で仕事をしたあと夕飯を食べに外に出ようという段になると、財布とスマホだけでも足りるに違いないというのになぜか本を持っていきたくなってしまう、なにかあるかもしれないから。といったって具体的な計画があるわけではないし、そもそも今週の僕はウイルス感染のために外出を控えなければならない立場なのでまっすぐ帰ってくるべきなのだ。それなのに僕は読みかけの本をショルダーバッグに入れ、それがもう少しで読み終わりそうだからということでもう一冊選ぼうとし、けっきょく当初出ようとしていた時間からは十五分も二十分も遅れて家を出て、駅のほうまで行ってうどんだけつるっと食べ、せっかく選び抜いた二冊の本を開くことはおろかバッグから取り出すことさえせずに帰ってきた。僕はだいたいいつもそうやって本を散歩させている。

 今日散歩させたのはジャン=フィリップ・トゥーサンの二冊で、ひとつは先週くらいから『話の終わり』と平行してちょびちょび読んでいた『マリーについての本当の話』、もうひとつはちょうど先週末に渋谷の古本屋で買った『カメラ』という小説だった。トゥーサンという作家ははじめて読んでいるが、もともと七月に『君たちはどう生きるか』を一緒に観た友だちにすすめられて以来読みたいとは思っていて、しかしどこの本屋にも並んでいなかったために忘れかけていたおり、先々々週くらいに図書館にふと寄ったときに見つけたのが『マリーについての本当の話』で、友だちにすすめてもらったものとは違うがとりあえずトゥーサンなので借りてちょびちょび読み進め、場当たり的なのかちゃんと着地点があるのかわからない流れるような語りがたしかにおもしろいかもと思っていたところ、たまたま入った古本屋に『カメラ』や『ためらい』があって、値段も安かったので買ったのだった。しかし買って帰ってきてから思ったのだがたぶん友だちがおすすめしていたのは『浴室』というやつで、たぶんそれも古本屋の棚の同じ並びにあったので今週末にでもまた行って、まだあれば買おうと思っている。なんでこんなどうでもいい、まだ読み終わってもいない本の話をしているのかというと、これが日記だからで、日記というのはなにを書いてもいいからだ。

 

9/16

 同居人が会社の同僚の結婚式に行くというので、僕は映画でも観ようと思い一緒のタイミングで家を出て、とりあえず渋谷に行ったはよかったが、観たかった『エドワード・ヤンの恋愛時代』はTOHOシネマズシャンテなので日比谷なのだった。とりあえず渋谷か新宿に行けばいいという考えは浅はかだった。しかしせっかく渋谷に来たので先週行った古本屋を再訪してトゥーサンの『浴室』を買おうかと思ったが、あるとしたらそこにあるべきという位置になく、そこでなんとなく思い出したがそもそも先週の時点で『浴室』がなかったために違う二冊を買ったのだった。こういう、そこにないことを確かめに行くだけの買い物を、僕はたびたびしてしまっているような気がする。行ってから「そうそう、ここには置いてないんだった」と気がつくような買い物。結果なにも買えていないので買い物ではない。点検だ。

 日比谷に移動して『エドワード・ヤンの恋愛時代』を観た。ドタバタコメディ調の会話劇に少し戸惑うが、ネオンや街灯のもとで顔や身体を浮かび上がらせた若者どうしの夜の会話をきっかけに、エドワード・ヤン節ともいえそうな感情の交感(あるいは交感未遂)が徐々に姿を見せる。やっぱりエドワード・ヤンは夜の作家だ。そうなると最初はただのドタバタに見えていたあれこれも、現代社会を生きるうえで避けては通れない悲喜こもごもに思えてきて、登場人物たちがいとおしく思えてき、その悲しみに寄り添いたくなってくる。それと同時にこの映画が『クーリンチェ』の次に撮られた映画であることも意識されてくる。『クーリンチェ』との連なりが特に強調されるのは、自分というものがいまいちわからなくなった女性・チチが、人生を悲観した小説家に「僕だけがきみを理解できる」と迫られるシーンで、これはまさしく『クーリンチェ』における小四と小明という少年少女の会話の反復だ。どちらの映画においても「僕だけが」と迫った男は拒絶されるが、そのあとの展開はほぼ逆といってもいいくらいで、しかしそれは語り直しというよりは、時代、年齢、関係性など背景の違いによるバリエーションという感じがして、これがまた違う映画のなかでも反復されたならばまた違う結果になるのだろうと思わせた。その可能性を思えることがエドワード・ヤンの映画の豊かさだとも思った。あとはなんといっても終わり方がよかった。邦題は原題と同じく『独立時代』でもよかったのではないかと思った。

 同居人が慣れないヒールを履いて足がボロボロだというので、夜、履き替えるためのサンダルを持って駅の近くで待機した。その間に図書館で借りていたトゥーサン『マリーについての本当の話』を読み終えた。「いつの間にか展開している話をいつの間にか読んでいる」とでもいうべき文章で楽しかった。帰ってきた同居人はよくそれで歩いてたねというくらいおぼつかない足取りだった。帰宅しシャワーを浴びてからも「足が疲れた」と繰り返していたが、そのまま疲れが頭のてっぺんまで伝播したように眠ってしまった。

 

9/17

 ホワイトシネクイントで『アステロイド・シティ』(構図と色彩のすべてを統制するウェス・アンダーソンの作風はもともと枠物語と相性がいい。そのことを最も意識しているのはおそらくウェス・アンダーソン自身であり、特に前作『フレンチ・ディスパッチ』と今作においては物語内物語的な構造のなかで、脚本の細部の整合性なんてどうでもいいとばかりに、撮りたい絵だけが撮られ、語りたいことだけが語られる。あらゆる要素が統制されているからこそ、登場人物たちがふとその枠組みから出ようとする瞬間が美しい。観てるこちらとしてはすべてわかったとはいいがたいけど、唯一無二の方向に突き進んでいる様はおもしろいと思った)、ユーロスペースで『福田村事件』(作られたことに意味がある、だけでは終わらず、ちゃんと映画としてよかった。射程距離の長い映画だった。新聞記者のくだりと〝事件〟を描くシーンの劇伴が少し浮いているような気もしたが、やはりそこは作られたことに意味があるからまあ多少はね、という話に戻る)、家で『VIVANT』最終話(やはり阿部寛が出てくると話に動きが出る)を観た。激ネム

 

9/18

 図書館に『マリーについての本当の話』を返し、ジョン・ケネディ・トゥール『愚か者同盟』を借りた。TOHOシネマズ渋谷で『グランツーリスモ』を観た。帰りにホルモンを食べて、店を出たらまだ明るくてよかった。帰ってシャワーを浴びたらもう激ネムになってしまった。

 

9/19

 昨日『グランツーリスモ』を観たのは、二〇二〇年に観た『フォードvsフェラーリ』の素晴らしさがまだ頭に残っていたからというのもある。カーレースには速さ、音、危険、勝負がある。すなわちある種の映画のすべてがあるといっても過言ではなく、実際にそれらすべてが詰まっていたのが『フォードvsフェラーリ』だった。予告編を見る限りでは、『グランツーリスモ』にもそれらすべてが詰まっている可能性があった。だから観に行った。

 というかカーレースそのものを描く映画において速さや音や危険や勝負を描かずにいることはむしろ難しいはずで、もちろん『グランツーリスモ』にもそれらは存在した。その密度においてはやはり圧倒的に『フォードvsフェラーリ』に軍配が上がるといわざるを得ないが、それでもたしかに『グランツーリスモ』には心踊る瞬間があった。予定調和的なきもちよさがあった。「ル・マンの二十四時間レースで表彰台に立ったレーサーは〝永遠〟になる」→「じゃあその〝永遠〟ってやつになってやるよ」という丁寧なやりとりがなされ、そして映画そのものが"based on a true story"であるということもフリになって、「ああ、これは最後けっきょく勝って表彰台に立つんだろうな」という予感を抱きながら僕たちはそのル・マンのレースを観進めた。途中には乗り越えなければならない危険があり、手に汗握る勝負が描かれ、そして予感どおり主人公たちは表彰台に立って〝永遠〟になる。途中の危険や勝負は、予定調和的な勝利をよりきもちよいものにするために配置されているに過ぎない。こういう映画においてはそれらが正しく配置されていることが大事で、『グランツーリスモ』においては危険も勝負も正しい位置にあった。ただしそこにはひとの死も含まれた。ひとの死を「正しい位置にあった」なんてふうに評するのはあまりに記号的でひどい見方なので取り下げたほうがいいかもしれないが、しかし『グランツーリスモ』におけるひとの死には実際そのような側面があったと思う。べつにそのことを非難するわけではないし、そもそも僕が勝手にそう感じたというだけなので映画側からすればいわれのない話だろうが、美しくはないと思う。美しくはないが、予定調和的なきもちよさがあることは否めない。そういう映画はたくさんある。きもちよさのためにひとが死に、別れ、傷つく。それらが正しく配置されることで後々きもちよさが訪れる。それが美しいか美しくないかといわれれば美しくないと思う。しかしきもちいいのだ。

 

9/20

 一週間ぶりにニンテンドースイッチを手に持ち、パワプロの「栄冠ナイン」をプレイした。一週間ぶりに姿を見せた監督を部員たちはまっすぐな目で迎えてくれた。僕が監督に就任して六年目か七年目の夏が終わったところだった。県大会の二回戦で負けて引退した三年生たちの顔を、僕は思い出すことができなかった。そのくせ七夕の短冊には「みんなで甲子園に行きたい!」なんて書いて、無垢な一年生や二年生の目を輝かせているのだった。新部長に就任した二年生の竹内が「監督、よろしくお願いしゃす!」と大きな声を張りながら深々とお辞儀してきた。竹内はなかなか見所のある選手だった。入学時から定評のあったバッティングを中心に、この一年で順調に力を伸ばし、夏の大会にも7番か8番か9番あたりでスタメン出場していた。夏の大会にスタメンで出場した経験のある選手がいるというのは新チームにとっては心強いものだった。「きみは新たな4番として打線を牽引してほしい」と僕は竹内にいった。竹内はちょっとだけ「4番っすか?」という顔をしていたが僕は気づかないふりをした。僕には打線を組むセオリーがよくわかっていなかった。とりあえずミートの能力が高い選手を上位に並べ、そのなかでパワーもある選手を4番に置いていた。それでいいのかはわからなかった。もっといえば僕はどの選手がどこを守っているのかをまったく把握していなかった。正直、守備はどうでもいいと思っていた。僕は感覚だけで監督をしていた。勝てばいいのだ。勝てていないからよくないのだが……

 

9/21

 一年生にばかりグラウンド整備をさせて自分たちはさっさと着替えはじめ、しかし一年生たちがトンボを片づけて部室に入ってくる頃になってもソックスすら脱ぎ終えておらず、おまけに「お前ら邪魔だな、とっとと帰れよ」と口にこそ出さないものの視線で圧をかける。かわいそうな一年生たちは自分のエナメルバッグを取って「おつかれした!」と小さくあいさつして立ち去るので精一杯だ。──そんな二年生の態度を変えたいと竹内は思っていた。自分たちが一年生のときにやられて嫌だったことを繰り返しちまってるじゃんか!と竹内は思っていた。こんなんで甲子園行けんのかよ!と竹内は思っていた。しかし竹内にはそれをみんなにいう勇気はなかった。代わりに監督の話をした。部員たちがチームのことをどう考えているのかを遠回しに探る作戦だった。なあ、監督のことどう思う? あのひと、なに考えてんのかわかんねえんだよな。理論的でもなければ根性論的でもない。どっちでもないなんてことあるかよ。ふつうどっちかだろ。もしかしてなんも考えてないんじゃないのかな。おれのこと4番だとかいってるしさ。

 そんな竹内の僕への不信感は数日で覆ることとなった。竹内を4番に据えた新体制のチームは、秋の県大会初戦を突破したのだ。竹内は僕をすっかり信頼した。監督はおれにはわからない高尚な考えを持ってるんだ。竹内だけでない。部員たちは一様に僕への信頼度を増していた。

 彼らには悪いが、僕は今回も感覚だけでオーダーを組んだ。それがたまたまうまくいっただけだ。僕にとってこのゲームは感覚で組んだオーダーが当たるか当たらないかという運任せのゲームとなっていた。僕が何も考えていないのではないかという竹内の元々の予感は的中していたのだ。なのにたまたま勝っただけで覆ってしまうなんて、高校生というのは案外たやすいものだ。

 

9/22

 夜、酔っ払って帰ってきた同居人が土砂降りの雨に爆笑していた。雨を見て爆笑するなんて謎だと思ったが、しかしたしかによく考えてみると雨はおもしろい。なぜ空から水が降ってくるのか。自然の摂理に反していやしないか。

 

9/23

 いま住んでいる部屋はマンションの最上階にある。といっても三階建ての三階というだけだ。しかし最上階であることに間違いはなく、特に土砂降りの雨の日にそのことは意識される。天井が薄いのか、それとも屋根裏に特殊な空洞でもあるのか、雨の音は外にいるときよりもむしろ増幅しているように聞こえる。……そんな話をしようと思ったが激ネムなので寝る。

 

9/24

 いま住んでいる部屋はマンションの最上階にある。といっても三階建ての三階というだけだし、べつに眺めがいいわけでもないので、最上階であることはふだん忘れられている。唯一意識されるのは土砂降りの雨の日で、天井が薄いのか、それとも屋根裏に特殊な空洞でもあるのか、雨の音は外にいるときよりもむしろ増幅して聞こえ、僕も同居人もそれに大ウケしている。実際の雨量よりもはるかに多く降っているように聞こえる。屋根に当たる雨の音に加えて僕が気に入っているのはベランダに降り注ぐ雨の音だ、というのも最上階の僕たちの部屋のベランダには雨避けの類いがいっさい付いていないため、雨が降るたびぴっちゃんぴっちゃん跳ねる音と、跳ね終わった水が排水溝へと流れていくちょろちょろという音が聞こえるのだ。僕と同居人はベランダのほうに頭を向けて寝るため、ベッドに入ってから眠りにつくまでの間、ベランダの排水溝に水が流れる音をじっくり聞くことになる。特に土砂降りの日には、頭のすぐ真上に小川が流れているのではないかと思えるくらいの音が響くなか、並々ならぬ心地よい入眠が訪れる。一昨日の雨はまさにそんな雨だった。

 そんな話を昨日の日記に書き残したかったのだが、眠くて途中で中断したのだった。

 どうしてそんなに眠くなってしまったかというと、そもそも昨日は仕事があって疲れていたのに加え、夜、同居人が友だちを連れてき、そこに僕の友だちも呼んでみたら来て、四人で夜遅くまで飲んでしまったからだ。僕はジンジャーエールかコーラしか飲んでいなかったのにえらく眠くなってしまい、そろそろ空が明るくなってくるんじゃないかという頃に寝た。

 それで今日は先週買った新しい冷蔵庫が午前中に届くので、九時前に起きて古い冷蔵庫の中身を整理した。古い冷蔵庫の奥にはこの何年かの僕の怠惰が蓄積されていた。賞味期限が三年前のものなんかもあってびびった。そんなびびるような整理を冷蔵庫交換の当日にやっているのも、同じく怠惰が招いた事態だった。十一時過ぎ頃に新しい冷蔵庫が来て、じゃあ古いほうの下取りもお願いしますという形で首尾よくいきたかったのだが、家電量販店のほうから業者さんにたいして下取りの指示が通っていなかったらしく、ちょっと指示がないと回収できないんですよね。あ、そうなんですか。しかし先週買った時点でちゃんと下取りもお願いしたという覚えがあったため、たぶん領収書にも書いてあるはず、と探したがこれがなんと見つからず、けっきょく今日は回収されないという無念な結果となってしまった。領収書をどこかにやってしまうのも怠惰やだらしなさの致すところである。

 古い冷蔵庫の回収は来週末になった。いまキッチンスペースには冷蔵庫が二つ並んでいる。怠惰ゆえのツインタワーである……

 しかし外を見れば気持ちのよい晴れ模様。昼過ぎには気を取り直し、自転車を引き連れて家を出た。自転車は半年前にパンクして以来(これまた怠惰ゆえに)マンションの外に放置され、雨風にさらされ続けていた。そのパンクを直してもらいに自転車屋へ行こうというわけだった。二十分ほど歩いて買った店まで持っていったところ、なんとそこは今日で閉店らしく、パンクだけなら直せるかもなんですけど、これチェーンもだいぶ錆びちゃってますね、これだと交換しなきゃなんですけど、うち今日で閉店なんで替えがなくて。あ、そうなんですね。この道まっすぐ行ったところに別店舗があるんで、そちらに行っていただければ。あ、そうなんですね、ありがとうございます。いえいえ、すいませんね。あ、いえいえ、こちらこそすいません、とそのまま別店舗まで歩いた。二時間程度で修理できるといわれたので近くのスタバに入って『ワインズバーグ・オハイオ』を読んだ。途中までだがかなりよい。自転車を受け取ったらそのままサイクリングでもしちゃうか、それとも映画もいいな、と考えながら読んだ。いい頃合いを見て自転車屋まで受け取りに行くと、なんと替えのチェーンに不良があってまだ修理が終わっていないそうで、仕方ないことではあるが、受け取れると思っていた自転車が受け取れず、当然サイクリングに行くこともできず、映画もちょうどいい時間がなくなってしまい、そのままなんとなく歩いて、けっきょく家に帰った。そんなふうに今日は過去の怠惰のしわ寄せが来る形でいろいろうまくいかなかったが、気持ちのよい気候だったのと、『ワインズバーグ・オハイオ』がよかったのと、あちこち移動する間にラジオや音楽を聞けたのでよかった。アントニオ・カルロス・ジョビンにかなりハマっている。

その後結局夜になってから受け取りに行った自転車

 

9/25

 ものすごく短くてありえないほど心地よい秋という季節をいかに味わうか、それが目下の課題である。ほんとはあれこれ考えすぎず、ただありのままの秋を感じて過ごしたいが、そんなのんきなことをいっていられないほどに秋は短い。きちんと備え、やれることをしっかりやり、身の回りのいろんなものにたいして積極的にちいさい秋を感じていかないと見逃してしまう。多少の幅は許容して秋判定を下していかないと、秋というものがひとつの独立した季節の体をなすほどの秋を集められなくなってしまう。この先きっと夏の揺り戻しのように暑い日が訪れるだろう。毎年そうなのだから今年もそうなるに決まっている。世間はいうだろう、秋になったと思ったのに夏が戻ってきやがったと。でも僕はそんなことは思わない。少しくらい暑くたって秋だと思わなければいけない。秋をかき集めろ!

 

9/26

 昨日に比べて少し暑かったが、水道水はひんやりしていたし、日陰に入れば涼しいしで、ぜんぜん秋の範疇だった。これくらいなら余裕で秋。今朝は昨日作った豚汁を白米と納豆と共に食べた。平日にしてはかなり久しぶりのしっかりした朝食だった。しっかり朝食を食べると目が覚めるし昼前にしっかりお腹が空く。週末に新しい冷蔵庫が届いたおかげで野菜や調味料を多く入れられるようになり、それが豚汁としてさっそく実を結んでいる。豚汁を食べ終わったら次はミネストローネにしましょうなんてことを同居人と話している。この素晴らしい習慣がいつまで続くか。少なくとも秋の間は続けたいと思う。冬になったら寒くてベッドを出られないだろうから……

 夜は『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』を観に行った。最高だった。ティーンエイジャーの少年たちのくだらないやり取りにしっかり時間を割いて描いているのがとてもよかった。同居人もかなりよかったといいつつ、最後に続編をほのめかして終わったことだけ気に食わなかったそうで、その感覚は僕もなんとなくわかる。食事の最後に口に入れた部位が噛みきれない感じというか。でも映画本編がよかったことに変わりはない。セス・ローゲンへの信頼が増した。

 

9/27

 昨日観た『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』はほんとによくできたアメリカのアニメーションという感じで、起承転結の〝転〟があるべき位置に何度も配置され、生き生きとして粒の立ったキャラクター造形も見事で、いかにもちゃんとした大人たちが活気ある生産的な話し合いを経て考えたのであろうと思える映画だった。そのなかで十代の少年たちの、本人たちだけが楽しいようなやり取りを描くことににしっかりと比重が置かれていたことがまた素晴らしかった。こういうバランスの取れた作品を美しいと思う一方で、おかしな方向に展開したり、物語の本筋とは関係のないグダグダがあるような、端的にいうとバランスの崩れた作品こそを観たいと思う気持ちもある。そういう作品はやはり健全な話し合いからではなく、強烈な個性を持ったひとりの作家の内面の発露によって生まれるのだ、とも──映画とはたくさんの人びとの仕事の集合体であり、あらゆるコントロールしきれない環境要因が互いに影響しあった結果であり、けっしてひとりで作るものではないということを承知しつつ──思ってしまう。『君たちはどう生きるか』のことが気になって仕方ないのも、そういう作家至上主義に基づく感情なのではないかという気がする。〝天才が生み出した作品〟に惹かれてしまう気持ち。

 今日は先に帰宅した同居人が作ってくれていたミネストローネを食べながら『セックス・エデュケーション』を観進めた。風呂上がりには君島大空の今年二枚目のアルバムや柴田聡子の新曲を聴いて素晴らしさに震えながら日記を書いた。明日は暑いらしいが、秋のわりに暑い日として過ごすか、夏の終わりの日として過ごすか決めかねている。夏の終わりという言葉の持つエモーションに惹かれつつ、秋としてカウントしてできる限り秋を楽しみたいという気持ちもある。

 

9/28

 ……しかし今日を夏として数えてしまうと夏がつけ上がりますよ。じゃあ十月もいいすかね、なんてことになりかねませんよ。なあ兄さん聞いてくれ、これはね、おれら秋にとっては生きるか死ぬかの問題なんですよ。なあ、考えてもみてくれ、もう九月末ですよ。夏なわけないでしょう。九月末が夏でたまるかってんですよ。おれらは夏にね、なあ兄さん、おれらは夏にどんどん縄張りを取られてるの。ほんとになくなっちまいそうなんですよ。なあ、どうしたら納得してくれますか。どうしたら今日が夏じゃない、秋だ、っていってくれますか。涼しければいいんですか。けっきょく気温ですか。わかるよ。まあ気温だよね。じゃあさ、兄さん、せめて朝だけは涼しくするからさ、昼はしょうがないよ、昼は暑くなるだろう、でも朝だけは涼しくするからさ、秋を感じてくださいよ。

 そんな秋の渾身のうったえが聞こえてくるかのように、真夏日になると予報されていた今日も朝はまだ涼しくて、僕としては秋判定を下さざるを得なかった。昼間は会社にいたのでほんとに暑かったかどうかはわからず、夜会社を出たときには少し蒸し暑いような気もしたがぎりぎり秋だった。というわけで、今日は秋でした。

 同居人は今日の帰り道にねずみに足を踏まれたらしい。小さいながらも衝撃的な事件だと思う。「犬の重さだった(原文では「重さ犬すぎる」)」とLINEしてきたが、そのとき僕はまだ会社にいたためそんなにきちんと返信できなかった。帰ってから詳しく聞こうとしたが「もうそれについては話したくない」とのことだったのでやめた。ねずみに足を踏まれたにも関わらず、自炊の熱はまだ続いており、帰ってきてから焼きうどんを作ってくれていた。ありがたくいただいた。その後『セックス・エデュケーション』を観進めたりしていたら夜中になってしまって、同居人はすぐに寝たが僕はシャワーを浴びるなどやることがあって夜更かししてしまっている。今週は夜中にも仕事をした日があったのと、シンプルに夜更かししている日があるのとで睡眠時間が短くなってしまっており、激ネムになっている。

 

9/29

 「フットボール」という単語がボールを足で蹴りあうことではなく、頑丈なヘルメットとショルダーガードを装着し、ボールを投げたり、持って走ったり、互いをタックルしたり、とにかく「蹴る」以外のすべてをやる競技のことだとされている奇妙な国アメリカにおいて、ナショナル・フットボール・リーグはレギュラーシーズンの第四週に突入していた。日本時間の金曜日の午前中というのはアメリカではサーズデイ・ナイト・フットボールをやっている時間で、今日はデトロイト・ライオンズグリーンベイ・パッカーズの試合があった。その二つのチームだと僕はデトロイト・ライオンズの肩を持っていた、というのもデトロイト・ライオンズにはジャレッド・ゴフというクォーターバックがいるからで、彼は僕がナショナル・フットボール・リーグをそれなりに見るようになった二〇一六年に、僕が応援することにしたロサンジェルスラムズにドラフト全体一位指名で入団した選手なのだった。その年のラムズは以前の本拠地だったセントルイスから新天地ロサンジェルスへと移転したばかりで、それに加えて地元ロサンジェルスの大学で活躍していたスタークォーターバックであるゴフをドラフト全体一位で指名したという話題性は、ナショナル・フットボール・リーグを見始めようという初心者の僕がロサンジェルスラムズを応援チームに選ぶ理由として申し分ないものだった。

 しかしそれほどの話題性を振りまき、莫大な期待を背負って鳴り物入りで入団したジャレッド・ゴフには、その裏返しとして計り知れないほどの重圧がかかったに違いない。彼がロサンジェルスラムズで過ごした数年間の間、その期待に応えられたかどうかは賛否が分かれるところであろう。五シーズン中の三シーズンでプレーオフ出場、うち一回はスーパーボウル進出という一見華々しい結果とは裏腹に、ジャレッド・ゴフには相手ディフェンスのプレッシャーに対する弱さが常に指摘され続けた。たしかに彼はプレッシャーに弱かった。スーパーボウルではニューイングランド・ペイトリオッツの強力ディフェンスを前にオフェンスがまるで繋がらず、史上稀にみるロースコアで敗北した。それでも彼が輝いていた試合を僕はいくつも見ていた。特に二〇一八年のカンザスシティ・チーフスとの激戦を制したときの彼は自信に満ち溢れ、とてつもなく輝いていた。

 彼の輝く姿を知っているからこそ、紆余曲折あって彼がデトロイト・ライオンズに移籍したときから、僕はライオンズのことも気になって仕方がないのだった。彼が移籍したときライオンズはナショナル・フットボール・リーグ全体で見ても弱小の部類に入るチームだったし、移籍した二〇二一年シーズンの成績は散々だった。しかし勝敗数以上に惜しい試合が多かったことも事実で、その後昨年二〇二二年シーズンにはプレーオフ進出まであとわずかというところまで迫り、チームはいい雰囲気を保ったまま今シーズンに突入していた。今日のグリーンベイ・パッカーズとの試合も見事勝利し、ゴフはいつしかの輝きを取り戻しているように見えた。

 そんなふうに僕のジャレッド・ゴフへの思い入れを書いている途中で思い出したが、僕がロサンジェルスラムズを応援し始めたのは正確には二〇一五年、まだセントルイス・ラムズだった頃のことであり、ということはラムズロサンジェルスへと移転したことやそこでゴフを全体一位で指名したこととは関係なく既に僕はラムズを応援していたのだった。二〇一六年に話題性があったから応援し始めたというのは間違いだった。そんなふうに記憶というのは語りやすいように書きかえられる。だから日記を毎日書いて残しておくほうがいい。しかし毎日書いているからといって正確とは限らず、実際のところ僕はその日あったことの順序を入れ替えたり、因果関係を簡潔にするために削ったり、書きやすいように少し編集を加えて書いている。たとえば、今日は同居人が会社のひとたちと飲んでくるというので、帰ってくるまでのひとりの時間にこれを書いている。というこの文も、実際は既に同居人が帰宅し就寝してから書いている。

 

9/30

 休日の朝にはレコードをかけてゆっくりしようという気持ちはあるものの、前回かけたとき以来ターンテーブルに置かれっぱなしになっているレコードを取り替えるほどのまめさを僕も同居人も持ち合わせておらず、したがってここ一週間何度も流されているアントニオ・カルロス・ジョビンのレコードのB面がそのまま今朝も流された。チャツツ、チャツツ、チャツツツチャ、ツツチャというボサノヴァのドラムパターンは、レコードが止まってからも頭から離れない。朝ご飯を食べた皿を洗いながら、ニンテンドースイッチパワプロで「栄冠ナイン」をプレイしながら、スーパーで買い物をしながら、僕はチャツツ、チャツツ、チャツツツチャ、ツツチャと口ずさんだ。ふだん僕のそうした口ずさみに苦言を呈してくる同居人が今日はなにもいわず、むしろご機嫌そうにノッてくる節さえ見せていたので、ボサノヴァはいい。

 竹内たちの代は夏の県大会準決勝で敗れて引退した。いいチームだったと思う。

 竹内たちが負けてしまったのは、僕がアマプラで『呪術廻戦』を流しながら片手間でプレイしてしまっていたからかもしれない。同居人にところどころ説明してもらいながら見た『呪術廻戦』はたしかにおもしろかった。『鬼滅の刃』や『進撃の巨人』にもあったが、シリアスな場面でもところどころギャグが挟まるのはまさに漫画やアニメでしかできない表現で、これがたとえば実写映画であったとしたら作品のトーンが修復できないほどに崩れるのではないかと思う。画風もテンションも自由に行き来できるのがアニメのすごさだ。だけどそれが激しすぎると疲れるかもしれませんね、とも思った。

 そうこうしているうちに冷蔵庫回収の業者さんが来て、ここ一週間キッチンスペースに置かれっぱなしになっていた古い冷蔵庫をあっという間に引き取っていってくれた。そもそも先週回収してもらえなかったことがおかしかったのだが、一週間も経てば冷蔵庫がふたつもそびえ立っているという珍妙な状況にも慣れてきているもので、その片割れがなくなったキッチンスペースはなんだか広く思えた。新しい冷蔵庫は背が高くて、これまで冷蔵庫の上に置いていた電子レンジを置くことができず、行き場をなくした電子レンジはしょぼくれて、床の、夜中にトイレに行こうとしてぼんやり歩こうものなら足の指が当たるような非常に邪魔な位置にいる。それをどこに置こうかまだ決められていないために、せっかく冷蔵庫を新しくして冷凍スペースが増えたというのに、レンチンしなきゃいけないものを食べられずにいる。レコードをまめに取り替えられて、電子レンジの位置をすぱっと決められるような優秀な人材に、僕たちはならなければいけない。

 午後、外に出て、同居人はご両親との用事へ、僕はヒューマントラストシネマ渋谷へと向かった。先週同居人が観てとてもよかったといっていた『バーナデット ママは行方不明』を観た。ケイト・ブランシェット演じるバーナデットという女性の心の危機を中心にかなり奇妙な話が展開されていくのが、あくまで〝よきアメリカ映画〟というトーンでまとめ上げられていてとてもよかった。世界と自分とのずれに適応できずにバランスを崩していく天才肌の女性という役どころは『TAR/ター』に続いて(制作年はむしろ『バーナデット』のほうが先らしい)ケイト・ブランシェットの面目躍如といったところだが、映画そのもののトーンはまるで違う。リディア・ターという女性を一定の距離感を保ちながら描いていたように思った『TAR/ター』に対して、『バーナデット ママは行方不明』におけるバーナデットへの眼差しは常にやさしい。行動だけ見ればけっこうやばいひとなのだけど、そのすべてに共感ができるように作られている。特に娘との連帯は素晴らしくて、ふたりで歌う"Time After Time"に涙ぐんだ。