バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

日記(2021/09/17-2021/09/19)

 金曜日。ムビチケがあったので恋人と『リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』を観に行った。かなり元気モリモリになった。作り手が観客を喜ばせようという精神が至るところから感じられ、その結果登場人物たちが脈絡なく歌って踊り、そうしたほうがおもしろいからという理由だけでタイムスリップし、特に回収されない小ネタが満載の怪作が誕生していた。観る前は2000年代並みの3DCGが気にかかっていたけれど、そんなことたいして気にならないくらい、作品に強度がある。そして劇中で流れる歌がどれもキャッチーで、頭から離れない。映画としてはめちゃくちゃなのに心を掴まれたのは、「テニプリならなにが起こってもおかしくない」という特殊な信頼関係が、原作者であり今回も製作総指揮をつとめている許斐先生と、ファンとの間に成り立っているからだろうか。そういう特殊な文脈を踏まえて観るべき作品だという気がする。漫画で、アニメで、ミュージカルで、これまでテニプリというものが築き上げてきたブランドの力だ。

 僕たちが行ったのは無発声応援上映の回だった。隣に座っていたクールな女性のドリンクホルダーにはペンライトが二本ささっていて、場内が暗くなると待ってましたとばかりにそれらに明かりが灯された。それらは適切なタイミングで振られ、色が変わり、ほとんど休まず動き続けた。僕は正直ほとんど冷やかしのようなスタンスで観に来てしまっていたので、周りの方々が楽しめるよう、申しわけ程度に膝を叩いたり、拍手すべきタイミングではきっちり拍手したりした。しかし不思議なもので、そういう軽い形でも応援上映に参加してみると、なんとなく楽しさは増すのだった。

 興奮冷めやらぬまま帰宅。次の日の夜に新文芸坐で『ハッピーアワー』のオールナイト上映をやるというので、「世界を敵に回しても」(by テニプリオールスターズ)を口ずさみながらチケットを買った。三連休ならではの強気。『リョーマ!』と『ハッピーアワー』、ほとんど対極にあるような映画だ。

 土曜日。『ハッピーアワー』は夜からなので、それまでどうやって過ごそうか、という話になる。とりあえず『セックス・エデュケーション』のシーズン3を観てゆく。登場人物みんなが愛おしい。セックスにまつわるあれやこれやの話だけでなく、あらゆるコミュニケーションが誠実に描かれている。俳優の肌の補正をしないこと、ノンバイナリーの役をノンバイナリーの俳優が演じていることなど、制作そのものが誠実になされている(「トランスジェンダーやノンバイナリーは身体そのものに関わってくるので当事者が演じるべき。ゲイやバイセクシャルは可変なので非当事者でも演じうる」というのが僕個人のなかでの現時点での考えです)。同じくコミュニケーションを誠実に描いているのでも、濱口作品とではまったく感触が異なるのがおもしろい。濱口作品のほうが圧倒的に「言えない」度が高く、だからこそ言えるようになるまで辛抱強くカメラを回しつづける必要があり、作品自体が長くなるのだろうなとも思う。『ドライブ・マイ・カー』の家福さんが『セックス・エデュケーション』の登場人物だったなら、もっとはやく思いを吐露できただろうか。いや、そんなこともないな。

 オールナイト上映は23時からだったので、その前にひと眠りしておきたいよね、という話になる。家から直接行くのでもいいけど、どこかでゆったり過ごして、寝られるなら寝て、万全のコンディションで臨みたい。銭湯やスパ施設などの案が出るなか、恋人がホテルをとることを提案してきた。ホテルに入って、しっかり大浴場を満喫し、ちょっと寝てから、オールナイト上映に臨み、終わったらチェックアウトの時間まで寝てから帰るというのはどう? え、超最高! ということで僕たちはネットで急いでホテルを予約する。恋人はこういうアイデアを出すことに長けている。僕は長けていない。人類全体のなかでも長けていないほうだ。

 池袋へ向かい、ちょっといい回転寿司で食べ、ホテルへ。大浴場にはしっかりサウナもあり、ポカリスエットが無料サービスで提供されており、風呂上がりには無料のアイスもあった。超最高。サウナは1周で弱めのととのいに抑え、22時過ぎまで寝てから、新文芸坐へ向かった。ロビーにはたくさんのひとがいて、若いひとが多くて、これからこのひとたちみんなで朝まで『ハッピーアワー』を観る時間を共有するということがうれしくなる。映画館は舟のようだとときどき感じる。ひとつの旅を共にする舟、というか。旅とか舟とか、なにいっちゃってんの、という感じだけれど、なにいっちゃってんの、ということこそいっていきたい。恋人はオールナイト上映ははじめてだそうで感激していた。東京に住むってこういうことだよねえ、といっていた。たしかに、と思う。夜中にこんなにひとが集まっていることも、抑えめの場内アナウンスも、休憩時間に劇場の外に出てほとんどひとのいない池袋をふらっと歩いてみることも、東京に住む、ということのひとつの側面のように思う。

 休憩時間にトイレに並んでいると、久しぶりの友だちに会う。おっ。おっ、久しぶりじゃん。おお~。ひとり? いや、僕はふたりで来てるよ。きみは? 僕はバイトのときの友だちと。いいねえ。こんなところで久しぶりの友だちに会うこともとてもうれしく、これも、東京に住んでいる感じがして興奮する。2回目の休憩でトイレに並んでいるときにもまた会う。あ、ねえ、終わったらマック行こうよ。あ、いいね。

 『ハッピーアワー』は大学3年生か4年生のときに柏のキネマ旬報シアターで一度観て、その年の後期に三浦哲哉先生の授業で一学期間かけてゆっくり観た。濱口監督の『カメラの前で演じること』を読んだし、そのあと刊行された三浦先生の『『ハッピーアワー』論』も読んだ。だから映画の冒頭、神戸の山を昇ってゆくロープウェイのなかの主人公4人の顔が浮かび上がった瞬間、この映画のなかでどんなにいろんなことが起こっていたか、その豊かさがいっきに思い出され、うるっときてしまった。そしてその印象は、映画が進んでゆくうちさらに鮮やかに塗り替えられてゆく。前に観たときよりもさらに実感を伴って僕のなかに食い込んでくる感覚がある。前に観たときよりも映画のなかの男性に目がいく感じがあるのは、僕にも恋人ができたからだと思う。だからむしろ男性に目がいく。前に観たときには、拓也~、と思っていたけれど、いまは、拓也さん……、と思う。観るたびに新鮮な発見があり、これからも何度も観たいと思う。主人公たちと同じ37歳になったときにこそ観たいと思う。「37歳が楽しみになった」と恋人がいっていて、それはすごくいいことだし、その通りだと僕も思う。

 『ドライブ・マイ・カー』でも感じたけれど、脚本や俳優たちの身体が素晴らしいのはもちろん、やはり撮影が洗練されている。登場人物の正中線に相対するカメラ、(特に打ち上げの席での)規則的で幾何学的とまでいえる画角、(たとえば桜子が風間のほうに踏み出すような)決定的な瞬間を逃さない移動、そのすべてが美しい。土台がしっかりしているからこそ楽しめる、というのは間違いなくある。しかるべきタイミングでしかるべき位置にカメラがあることが、この映画の豊かさの一端を支えている。

 終わったあと、僕と恋人と友だちと友だちの友だちとマックへ。友だちの友だちとはとても話が合いそうで、今度またみんなで集まりましょう、ということになった。こういう出会いがあることがうれしい。僕たちまだやれんじゃん、と思う。解散し、僕と恋人はホテルへ戻り、朝風呂を浴び、チェックアウトの時間まで寝た。ホテルを出てから歩く日曜日の池袋の空には雲ひとつなく、日差しがどことなく令和っぽくない。

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