バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二三年十月の日記

10/1

 図書館で借りた『愚か者同盟』を、家にいるときに少しずつ読み進めている。国書刊行会の本のご多分に漏れず非常に重量感のある単行本のため外出時には持っていけない。そのため家にいるときは『愚か者同盟』、外に出るときは講談社文芸文庫の『ワインズバーグ、オハイオ』という形で並行して読み進めている。『愚か者同盟』の主人公イグネイシャスは引きこもりで肥満で、口を開けば屁理屈か言い訳か皮肉しか出てこない最悪の人物なのだが、それゆえに台詞のドライブ感がすさまじくてかなり笑ってしまう。丁寧語で屁理屈を並べてゆく様は空気階段の鈴木もぐらがラジオでよくやっている笑いに近い気もして、僕のなかではイグネイシャスともぐらが自然に重なっていっている。朝は白米と納豆と卵焼き、昼はルーカレーを食べ、その間に読書したり洗濯したり少しだけ寝たりして過ごした。

 午後は早稲田松竹に行ってロバート・アルトマンの『雨にぬれた舗道』を観た。これがほんとうにすごい映画だった。特に中盤まではとんでもなくおもしろい映画を観ているという興奮が止まらず、そこから終盤にかけての物語の展開については、こっちに行くのかい、と戸惑いもしたものの、しかしあの〝長い一日〟の夜──産婦人科に行って待合室での露骨に静的な会話や男性医師による診察で削られ、社交クラブでだらだらと続く付き合いに削られ、そのあと執拗に家まで送ってくるうえに「きみには愛が足りない」とのたまってくる老齢の男性に削られ、そうやって削られきった夜──に、ベッドで眠る青年に向かって最後の助けを求めるかのようにすべての心情を吐露し、「あなたに抱いてほしい」と告白して布団をめくると青年の姿がなく、代わりにまるでおちょくるかのような人形が置かれていたというのは、主人公の女性が精神を失調するにはおそらく十分すぎるほどで、そう思えば終盤の展開もうなずけてしまう。というかうなずかされてしまう。しかもそれを、ことさらホラー風味を強調するでもなく、あくまで前半までのトーンの延長線上で描いてみせ、終盤まで話の行き着く先がわからないまま進んでいたのもすごい。ジャンル分けするとすればサイコスリラーとかホラーとかということになるのかもしれないが、演出や撮影はジャンルを拒否しているようにも思えた。特に撮影は素晴らしくて、室内でズームイン/アウトを繰り返し、動き回る人物を常に追い続け、感情が動く決定的な瞬間の表情を捉える。あるいは孤独な女性の姿を室外から覗き見るように撮りながら、女性を疎外して展開される周囲の会話を観客に聞かせる。そうやってカメラが女性の姿を追いかけ続けることで、彼女の感情が動く瞬間を僕たちは目撃することになり、その結果として終盤の展開にもうなずかされてしまったのかもしれない。あと、僕もスマホで動画を撮るときには拡大して動くものを追いかけ続けるのが好きなので、そういう個人的な好みと一致していたのもよかった。

 二本目の『ロング・グッドバイ』を観たい気持ちもありつつ、同居人とその会社の同僚との飲みに合流すべく帰った。楽しかったのでよかった。トウモロコシ茶とジャスミン茶を持ってきてくれた店員さんに、どっちがどっちか尋ねたところ、それぞれのグラスを指さしながら「モロです、ジャスです」と教えてくれて、その省略の仕方が妙におもしろかった。

 

10/2

 さいきんの僕の生活における三大「そういえばあれどうするの」といえば、新しい冷蔵庫の背が高いためにその上に置けなくなってしまった電子レンジの行き場と、ぜんぜん受講できておらず溜まってゆく「ことばの学校」の授業と、ついに来月に迫ってしまった文フリ東京だ。このなかでも特に文フリはたちが悪くて、こうやって毎日日記を書いていることで、文フリに向けての進捗を生んでいるというふうに身体が誤解して安心しきっている。しかし現実には文フリに向けての進捗はなにも生まれておらず、そもそも僕は文フリが十一月のいつに開催されるのかということさえわかっていない。重ねてよくないのは、さいあくの場合この日記を冊子にすればいいと考えてしまっていることだ。そういうBプランを持ち合わせてしまっていることでさらなる油断が生まれている。進捗の代わりに油断だけが生まれている。

 しかしこうやって問題を自覚できていることはせめてもの救いであり、僕のえらいところであろう。僕は日記ばかり書いていないで、毎日少しずつでもいいから文フリに向けての文章を書いていくべきなのだ。文章というのは書いていくことでしか書かれえないものなのだ。とはいえ毎日数百字程度の日記を書くというこの習慣も捨てがたいため、書く時間を増やすなりなんなりしなければならない。かといって一年でもっとも愛おしいこの秋という季節を散歩せずに過ごすのももったいない。ということは、日記を書く時間は削らず、しかし書く時間の総量は増やさずに文フリのための文章を書く必要がある。そうなると、まず僕がやるべきなのは、いまこうやって毎日書いている日記に虚実を入り混ぜていくことだろう。そうしているうちにだんだん文フリのための文章のかけらのようなものが生まれていくと信じて。たとえば──今朝家を出るときと夜ごみを出しに行くとき、あまりに心地よい涼しさに思わず「おお」と感嘆の声を出した。恥ずかしいことに朝も夜もちょうど隣部屋のひとがドアの前にいて、僕の「おお」を聞かれてしまった。というか隣部屋のひとは今日一日中ドアの前にいたらしい。それを知ったのは夜ごみ出しのために外に出た僕の「おお」に彼が「今日ほんまに涼しいすよね」と勝手に応じてきて、そのまま語り始めたからだ。おれ今日ずっとここにいたんすよ、だって秋の涼しさって家を出た瞬間がいちばん気持ちええやないすか、てことはずっとドアの前にいればあの瞬間の気持ちよさを永遠に味わえるんちゃうかなと思ったんすよね。僕は勘弁してくれと思ったのと、でも僕が会社から帰ってきたときこのひとドアの前にいなかったよな、とも思った。「話盛ってません?」と聞こうとしたがやめて、なにもいわず会釈だけして部屋に入った。だいたいどうして彼が僕に対して話を盛る必要があるのだ。

 

10/3

 会社を出て同居人といったん夜ご飯を食べてから、近所に住む友だちと散歩をした。道中で銭湯にも寄って、今日はサウナを二周した。ふだんはサウナ一周論を唱えている僕だが、友だちと行くと二周入るのもやぶさかではなくなる。僕のサウナ一周論なんてしょせんその程度なのだ。銭湯を出ると僕はすっかり眠くなってしまい、ぼんやり歩きながら左右にゆっくり流れてゆくマンションの名前を声に出して読み上げた。帰ってきてからそれらの名前を思い出そうとしてもひとつも思い出せない。しかしそれらのマンションひとつひとつの、ひとつひとつの部屋に住んでいるひとたちがいて、この世界に存在する様々な申し込みフォームにそれらのマンション名を記入している。僕がその名前を思い出せないマンションに住んでいるひとたちがいる。反対に、誰かが思い出せないマンションに僕は住んでいる。そういう類いの対称性が世界にはある!

 

10/4

 今朝は半袖では寒いくらいで、まだ家にいた同居人に寒いからジャケットかなにかを羽織って出ることをおすすめするLINEをしたが、夜帰ってきてから聞いたところ、ジャケットが見当たらずけっきょく半袖で家を出て震えながら出社したらしい。僕も僕で会社に着くまでにお腹が冷えた。まったく愚かなふたりが同居したものだ。しかしいまはまだ暑さが去ったうれしさが勝っている段階なので、急な気温の低下による腹痛なんてむしろ大歓迎なくらい。とはいえ身体には少し響くものがあり、ひどく疲れて激ネムになった。

 

10/5

 たぶん今日はかなり散歩にいい気候だった。会社の窓から見るだけでもそれがわかった。

 今日は文フリの開催日を知った。十一月十一日開催ということは十一月に入った頃くらいには入稿していないといけなくて、ということはあと一ヶ月しかなく、もう何かしらを書き始めたほうがいい。僕は「掌編」のジャンルでブースを申し込んだので短い小説をいくつか書ければ理想だが、書くにもとっかかりが必要だ。とっかかりというかテーマというか……。そんなことを考えていたところ、同居人に「バナナ倶楽部なんだから『バナナ』でしょ」といわれ、たしかにその通りだと思った。僕たちは「バナナ倶楽部」として昨年も一昨年も出ていて、そんな名前だからなのかおそらくバナナ好きなのであろうひとたちがときおり僕たちのブースを訪れ、バナナの話なんてほとんど出てこない冊子をぱらぱらめくって残念そうに去っていくのを覚えていた。出店者カタログに「東京でバナナについて研究しています」なんていう自己紹介文を載せていたのもよくなかったと思う。それがバナナを真に愛するひとたちへの冒涜であり挑発であるといわれれば反論のしようがなかった。僕たちはもっと真剣にバナナに向き合う必要があった。バナナについての掌編を書くことが〝真剣にバナナに向き合う〟ことなのかどうかはわからないが、とりあえず書き始めるとっかかりとして「バナナ」という単語を念頭に置くのは少なからず意味がありそうだった。バナナには広がりがある。喜劇があり、悲劇がある。ひとが滑って転ぶまでのほんのわずかな時間を永遠に感じさせる魔法があり、「いずれにせよひとは滑って転ぶ」と断言する冷酷さがある。何かを書き始めるにあたって、「バナナ」ほどとっかかりとしてふさわしい単語は他になかった。……なんてことを文章で書くのは簡単だが、実際に文フリへの出店を控えた身としては、バナナについての文章をどう書いていくかということを現実に落とし込む必要がある。たとえば、バナナを使った自由律俳句。

 釘を打ったバナナを解凍して作ったパウンドケーキ

 これは自由律俳句としては長いが、時間的な前後を想像させるという点で広がりを持った句だと思う。記録的な寒さを記録したある冬の北海道、テレビでは凍りついたバナナで釘を打ってみせる姿が放送され、以上、夕張市からの中継でした、というアナウンサーの鼻づまりの声に重なる形で画面には「このあとスタッフがおいしくいただきました」というテロップが映し出されるが、そのあとバナナはスタッフにいただかれることなく夕張市のスーパーに陳列され、それを夕張市在住の中年男性が手に取って、冬にバナナ、とも思ったが買って帰る。冬にバナナ、と相変わらず奇妙に思いながら家に着いた男性は、なんだかふつうに食べてしまうのも違うような気がして、ふとこれまで作ったこともないパウンドケーキを作って、誰に見せるでもなく写真を撮ってひと切れ食べる。半分は冷蔵庫で冷やして、残りは計画性のない先送りとして冷凍する。釘を打ったバナナを解凍して作ったパウンドケーキはこうやって冷凍されて、男性が三年後に冷蔵庫を買い替えるまで冷凍庫に置かれっぱなしになっている。……こういうふうに少しずつ書いていくことで文フリに向けた出稿へと繋がるのだ。

 

10/6

 秋という季節に照準を合わせてきたとしか思えない新譜のラッシュ! 君島大空さん、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーさん、ウィルコさん、アニマル・コレクティヴさん、クレオ・ソルさん、くるりさん、スフジャ……、スフィアン・スティーヴンスさん、サム・ゲンデルさん、サム・ウィルクスさん、ドレイクさん、ありがとうございます。スフジャ……、スフィアン・スティーヴンスの新譜は特に素晴らしくて泣きそうになる。聞きながら、文フリに向けてディスクレビューを書くことを思いつく。「バナナ」という単語がアルバム名かアーティスト名に入っている架空のアルバムのレビューというのはどうだろうか。架空のアルバムのレビューを書くことには、そのアルバムが世界に存在し、すなわちそれを作ったアーティストも存在したかもしれない、していてほしい、という祈りにも近い気持ちが含まれる。しかしもちろんそれだけではなく、いやむしろそれ以上に、ただ書いていて楽しいから書くという要素が大きい。今日は激ネムなので書かないが……

 

10/7

 今年ベスト級のよい気候! これ以上ないほど気持ちのよい秋晴れの朝、洗濯物をベランダに干し、しばらく日光とそよ風にまかせ、出かける前になってタオルやシャツや下着のひとつひとつを手でさわりながら乾いている/まだ湿っているの判定を下し、乾いているものから取り込んだ。夏であれば午後に雨が降ることもあるし、そうでなくともすさまじい湿気のために夕方まで出しっぱなしにしておくとむしろしけってくるので、出かけるまでに乾かなかったものは浴室乾燥に切り替えていたものだが、こんな秋の日には雨が降る心配などいっさいないし、空気にもさわやかな抜けのよさがある。これならば夕方まで外に出しっぱなしでも大丈夫だろうと判断し、厚めのシャツやズボン数点をベランダに干したまま家を出て、同居人の秋冬用のコート二着をクリーニングに出しに行った。なぜ僕が、と思わないでもなかったが、そんなことはほんの微々たる些末な問題としてすぐにそよ風に吹かれてどこかに飛んでいった。

 コートをクリーニングに出してから、ネイルをやりに行っている同居人と落ち合うまでに少し時間があるようだったので、近所の商業施設のなかのベンチに座って『ワインズバーグ、オハイオ』を読み進めた。商業施設とはいうもののそこには僕のオフィスビルも建っているため、ほぼほぼ庭みたいなものだと思っており、今日座ったベンチのこともとうぜんそこにあるものとして以前から認識はしていたが、実際に座ったのは今日が初めてで、いざ座ってみると、最高の秋晴れということもあってか周囲の景色がえらくいいものに思えてうろたえてしまった。しばらく座っていると足元を鳩が歩いた(という文章ではまったく伝わりきらない感動を、僕はその鳩が僕の足元を通過したときに覚えたのだが、そのことを文章にしようとするとなぜか「しばらく座っていると足元を鳩が歩いた」としか書きようがない。似たような話は実はもうひとつあって、僕がベンチで本を読んでいるときに隣のベンチに犬の散歩中のひとが来て、そのひとはベンチに座ると犬を膝の上に抱きかかえてなにか話しかけながら撫で、犬も気分よさそうにときおり身体をくねらせており、僕はその犬の黒い鼻に目を取られながら鳩のときと同じようにちょっとした感動を覚えたのだが、そのことを書くと長くなりそうだったのでやめる)。

 家で洗濯物を取り込み、クリーニング屋に行き、ベンチに座って本を読み進める間にスフィアン・スティーヴンスとサム・ウィルクスの素晴らしい新譜を聴いていた。

 同居人と落ち合うとそのまま隣駅まで歩き、うどんを食べ、下着と本を買い、喫茶店でひと息つきながら買った本を眺め、カラオケに行った。帰ってきてからは冷蔵庫にあった野菜と豚こまとキムチと味噌で炒めものを作ったらかなりうまくいった。いい一日だった。ところが同居人はなぜか今日ずっとおなかの調子が悪いらしくてかわいそうだった……

 

10/8

 家で読書したり、ルーカレーを作ったり、昼寝したり、『ジョン・ウィック:パラベラム』を観たりして過ごした。夜、近くの映画館で『ジョン・ウィック:コンセクエンス』のちょうどいい上映回があったので観に行った。『ジョン・ウィック』はある種の美学に貫かれているので楽しく観られる。作り手がはっきりと意志を持って作り上げた作品は楽しい。一方、僕は文フリのことをなにも進めずに時を過ごしている……

 

10/9

 今日はやたらと眠かった! ベランダを雨水が流れる音が心地よく、いつまでもベッドにいたくなってしまったということかもしれない。あるいは、秋になったはいいものの、予想していたよりも少し寒く、それに耐えうるほどの衣替えができていないために、ベッドを抜け出せなかったということかもしれない。とにかく眠かった。しかし三連休の最終日を楽しく過ごそうということで昼に焼き肉を食べることとし、そういえばさいきん近くに越してきた友だちがジンギスカンを食べたがっていたので誘い、僕と同居人と友だちでジンギスカンを食べに行った。おいしかった。そのあとプリンを購入して(プリン屋さんでは「うっせえわ」のオルゴールバージョンがかかっていてウケた)、散歩し、友だちの家に少しお邪魔してから帰った。帰路で眠気がよみがえってきて、帰宅後はふたりとも昼寝した。よく考えたらジンギスカン帰りでシャワーも浴びずにベッドに横になってしまったけどにおいとかは大丈夫かしら、と思いながらも眠気に抗えずに寝て、起きたら夜で、同居人がおでんを食べたいということだったのでスーパーまで買いに行ってあたためて食べたが、同居人はあまり調子がよくなかったそうで、あまり食べられずなんと卵を残していた。おでんの卵を! 夜は文フリの話を少しした。日記を振り返るまでもなく自分でもわかっていたが、絶好の三連休だったのになにひとつ進んでいない! 急に気温が下がったので身体がびっくりして進められずでした……、なんてふうにチョケることもできるが、そろそろちゃんと考えなければならない。「バナナ」をテーマにするということと、架空のディスクレビューをやるかもしれないということしか決まっておらず、しかし数日経ってみるとディスクレビューもそこまでいい企画とは思えず、けっきょく振り出しに戻っている感覚がある。とりあえず文フリ用の原稿を書きためるためのGoogleドキュメントは作ったので、スマホでもパソコンでも書ける環境は整った。

 

10/10

 朝起きたときから頭が重い感じがしたのだけれど、経験上こういうときは会社に行ってしまえばなんてことはないので行って、しかし会社に着いて以降もどんよりとした感じは拭えないどころかむしろ次第に増し、昼過ぎにピークを迎え、早退も視野に入れつつあまり頭を動かさないように仕事していたところ、どういうわけか夕方頃から頭痛は引いていって、夜にはばっちり明瞭な頭脳を手に入れることができた。せっかく明瞭な頭脳を手に入れたのだから文フリに向けての原稿を書こうと考えた。掌編といったっていろんな長さや文体や展開を持ったものがある。リディア・デイヴィス的な超短編を書くのもおもしろそうだし、乗代雄介がブログにアップしているようなくだらないようできらめきのある掌編を書くのもよさそうだとあれこれ考えたが、最終的には特になにも考えないままに「バナナを食べなさいと世間もお母さんもいうけれど、朝起きてすぐに丸一本なんて食べられないよ!」と少年が語り始めるスタイルで始めてみてとりあえず二千字書いた。難しいことは考えずに書いてみたほうがいい。会社はとりあえず行ったほうがいいし、文章はとりあえず書いたほうがいい。豆が腐って変なにおいを発していても、とりあえず食べてみたほうがいい。きっと納豆もそんなふうに見つかった。数々の〝とりあえず〟が人類を推し進めてきたのだ。

 

10/11

 今日はニンテンドースイッチのスイカゲームをダウンロードしてしまった! しょうもないのに時間が溶けるという噂のとおり何度も連続でプレイしてしまった。テトリス的な箱のなかにフルーツを入れていき、同じフルーツ同士がくっつくとひと回りサイズの大きい別のフルーツに変わり、それでポイントが加算されるというルールになっていて、こういうふうに物と物をくっつけて大きくしていくゲームというのは定期的に流行るような気がするが、しかしこのスイカゲームの場合、くっつき具合というか、フルーツの落ち具合が絶妙で、小さなフルーツは大きいフルーツのすき間にするすると落ちていくし、フルーツ同士がぶつかるとその反動でお互いに跳ね返されたりする。それを利用して同じフルーツを近づけてくっつけるというのがどうもミソになっているようなのだが、くっついたかくっついていないかという判定は意外にシビアなようで、「くっつけ、くっつけ!」と思わず口に出したり、スイッチ本体を傾けたり斜めに振ったりして、くっついたときにはきもちがいいし(くっついた瞬間にほんの少し弾けるような演出があるのがそのきもちよさを助長する)、最後までくっつかずに箱からフルーツが溢れてゲームオーバーになったとしても、あと一ミリだったのに……という惜しさから思わずリトライを押してしまう。同居人はそのループから抜け出せなくなってしまい、ベッドに入って目を閉じてからも「もうちょっとだけやろうかな」とスイッチを要求してきた。僕はそれから少し仕事をして、文フリ用の原稿を書き進めた。……という文章を、仕事にも原稿にもまだ手をつけていない段階で書いている。このあと僕は仕事と原稿をするかもしれないし、スイカゲームのループに飲み込まれてしまうかもしれない。それは明日の僕のみが知る。

 

10/12

 久しぶりに会った友だちと焼き肉を食べ、散歩し、解散際に「これ返すわ」と漫画を十二冊返してくれた。それらの漫画をその友だちに貸していたことを僕も同居人も忘れていて、思わぬサプライズプレゼントとなった。

 ところで昨日の夜はけっきょく仕事もしたし原稿も進めたのだが、一昨日二千字書いたのに比して昨日は千字しか書けず、今日はもう書かずに寝ようとしている。急ブレーキ!

"New York, New York"みたいな感じで"Roppongi Roppongi"

 

10/13

 今日はまあまあ仕事した。夜、社内にひとがほとんどいなくなってから、少しだけ文フリ用の原稿も進めた。相変わらず少年の一人称語りによって進む話を書いていて、今日は「僕とユフスケだけが感じていると思っていたことが、実は日本中、あるいはもしかすると世界中のひとたちみんなが感じていることだったというのが、なぜだかわからないけどとてもうれしく思えて、小さいことかもしれないけれど、こういううれしい一致のなかに、その日テレビの前に座って『ゆうやけバナナくん』を見ていることの素晴らしさが凝縮されていると感じたんだ。」というくだりが我ながらよかった。日記を毎日書いていることによって文章体力的なものが上がっているような気がし、書きながらこれくらいで四百文字くらいかな、みたいな、体内時計に似た感覚がある。

 

10/14

 昨日は同居人が飲み会から友だちを連れ帰ってきてそのままうちに泊まったため、今朝は三人でパンを食べに行った。秋の朝はよい。気分もよろしくなって、スフィアン・スティーヴンスの新譜のLPを買いに行くのはどうかと同居人に提案したところ、内心どうだったかはわからないが少なくとも表向きは賛成してくれて、僕たちはそのまま渋谷に行った。スクランブル交差点に面するあの三千里薬品の上のマグネットという商業施設では、同居人が幼き頃に見ていたという『ぴちぴちピッチ』というアニメの二十周年記念かなんかのポップアップショップが開催されていて、その告知ポスターが道路に面する形で掲示されているのを見つけた同居人がそのままマグネットに吸い込まれていったので僕もついていった。僕は『ぴちぴちピッチ』のことを知らなかったのだが、ポップアップショップのグッズ展開の雰囲気と同居人の断片的な説明から察するに、どうも七つの海を舞台に、少女たちが人魚に変身しつつ、歌声を響かせる物語らしい。歌声を響かせてなにをするのかはわからなかった。『セーラームーン』にも『プリキュア』にも悪役が存在するので、もしかすると『ぴちぴちピッチ』にも悪の人魚、あるいはもっと直截的に潜水艦とか巨大艦隊とかが存在し、歌声で倒すのかもしれない。

 その後タワレコに行って無事にスフィアン・スティーヴンスさんのLPを購入した。いったん帰って買ったLPを流してから、恵比寿ガーデンシネマに『ギルバート・グレイプ』を観に行った。『ギルバート・グレイプ』はいかにも八十年代後半~九十年代前半くらいのアメリカ映画っぽいルックの素晴らしい映画で、ややもっさりした音楽とともに暗転して場面転換していく作りが一周回って非常に心地よいうえに、アメリカの田舎のどこにも行けない感じが、ちょうど同時代くらいのケリー・ライカート『リバー・オブ・グラス』とはまったく異なるテイストで描き出されていて、なんともじんわり来た。主人公家族の造形にそこはかとなくジョン・アーヴィングっぽい雰囲気を感じたのだが原作は違うひとのようで、しかし監督のラッセ・ハルストレムジョン・アーヴィング原作の『サイダーハウス・ルール』も監督しているそうなので、近からずも遠からずという感じかもしれない。

 夕方にはまた違う同居人の友だちが来て少し飲んだあと、早めに家に帰ってだらだらし、その後文フリの原稿と日記を並行して進めている。『ギルバート・グレイプ』のなにげない日常描写のよさと、物語の着地の思いがけなさを、文フリの原稿にも取り入れられたらうれしいと思っている。

 

10/15

 一般的に雨が降ると気温が下がる感覚がある、というか事実として気温は下がるのだが、特に秋の雨というのはその感覚が強く、今朝なんてほぼ冬だった。今期のドラマでおもしろそうなものの一話を見たり、昼寝したりして過ごし、夕方雨が上がったときに僕は文フリの原稿を進めるべく、同居人は読書をすべく近所の喫茶店に行った。そのあと買い物をして帰宅し、僕は外国にいる友だちとズームでしゃべった。夕飯の支度ができずにズームに突入したため、途中で音声を繋ぎながら台所に移動して手羽先を焼いたりした。「なんか焼いてる?」と友だちにいわれた。そのまま同じフライパンで冷凍の餃子も焼いて、そのあとそのフライパンを洗った。「フライパン洗ってる?」と友だちの指摘の精度が上がっていた。

 

10/16

 朝から激ネムで、仕事をしているうちに目が覚めたが定時を過ぎる頃にはやはり激ネムになって、会社を出て家で夕飯を食べたり風呂に入ったりテレビを見たりしているうちにまた目が覚めたものの、そのあとはやはり激ネムで、文フリの原稿も少ししか進められなかった。少ししか進まないなりにいい方向に持っていけたような気もするが、なにせ激ネムなため、いったん寝て明日見直してみるしかない。

 

10/17

 ベンザブロックのCMにおける綾瀬はるかは、最後だけ出てきてただ「ピンポン」というだけのひとになっている。水曜日のダウンタウンにおける浜田雅功にも同じようなことがいえる。プレゼンターから「今回の説こちらです」と振られるたびに、大きくて高い声でその説を読み上げるだけのひと。役割が形骸化し、ただのシンボルと化し、〝そこにいる〟ということが仕事のひと。そのポジションまで行けるのはすごいと思う。僕はまだ程遠い。僕はちゃんと文フリの原稿を書かなければならない。書き進めて、この話はここで終わってもいいかもしれないと思うところまで来た。そこで終わると明らかに尻切れトンボなのだが、それでもそこで終わるのもありだと思う。でもそれは僕が持ち前の飽き性ゆえにそう思うだけかもしれなくて、とりあえずはもう寝て、明日もう一度見たほうがいい。

 

10/18

 昨日書き終えたつもりの掌編はあらためて読んでみるとやはりかなり尻切れトンボで終わっていて、なにかしら続きを書いたほうがいいが、しかしこの掌編の終わり方はこれでいいという気もし、「その後」と題した短い文章を付すことにしようと思っている。思ってはいるが、今日は激ネムのため寝ます。

笹だんごの食べ方がバナナでたとえられていた

 

10/19

 連日の仕事の疲れもあるだろうが身体がかなりだるくて激ヤバ!

 

10/20

 仕事の疲れからなのか昨日の夜は激ヤバな高熱が出て、早めに寝たが汗をびっしょりかきながら二時間おきに目が覚め、頭痛も激ヤバで、朝にはほとんど熱も下がっていたがまだ疲れていたので会社を休んだ。頭痛が治まってきたタイミングで少し仕事をしたり文フリの原稿を進めたりした。この日記も文フリの原稿もGoogleドキュメントなのでスマホでもパソコンでも書ける。町屋良平だか誰だかがスマホで小説を書いていると以前インタビューだか何だかで答えているのを読んだ気がするので、スマホで書くことがなんとなくかっこいいと思っていたが、ある程度の長さを持つ文章になるとやはりパソコンのほうが書きやすい、というのもスマホフリック入力とパソコンのローマ字入力とではやはり後者のほうがスピードは速いし、予測変換もパソコンのほうが気が利いている。それにスマホとパソコンでは一行の幅がまったく異なるため、スマホでは文の量が増えるほどにどんどん縦に長くなっていってしまい、大きめの構造を把握しにくい。そんなこというとまるで僕が全体の構造を把握しながら書いているようだがそんなことはございません……

 

10/21

 午前中から『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を観に行ったら映画館を出る頃にはもう夕方の空気になっていた。長い映画を観るとそういうことが起きる。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』、通称『キラフラ』はその長さにふさわしい重厚な映画で、特に熱心なファンというわけではないのだがスコセッシとディカプリオへの信頼感がまた上がった。スコセッシは古いフィルムの修復事業もしていたり、今回みたいな語られてこなかったアメリカ史を描いたり、映画というものを信じているひとだと思う。その想いを体現してみせるべく、ディカプリオは今回とにかくへの字口で浅はかな男を演じていて、デ・ニーロとのへの字口対決も最高だったし、すべてを見透かすような賢さを帯びた目を持つリリー・グラッドストーンとの夫婦関係もすごくよかった。三時間半のなかですごく目立つようなスペクタクルっぽいシーンはそんなに多くはなくて、どちらかというと顔の映画であり、たびたび大写しになるその顔を見ながら、そこに刻まれた浅はかさと、それが引き起こした凶悪な連続犯罪の顛末にぞっとしつつ、『ギルバート・グレイプ』からずいぶん遠くまで来たのね、とディカプリオというひとの旅路にも想いを馳せた。

 帰ってきてから一度昼寝して、キングオブコントを見た。優勝したサルゴリラはすっとんきょうなセリフの裏にそれを発している登場人物の来し方のようなものがにじむ演技の繊細さがあって、ただ変なワードを羅列しただけになっていないのがよかった。個人的には蛙亭と隣人が好きだった。わかりあえない者同士がどうにかわかろうとする対話の過程が描かれていて美しいと思った。毎年楽しみなニッポンの社長の一本目は最初おもしろかったけど、登場する武器が派手になるに連れて、いまこの瞬間にも世界で起きている戦争のことが思い起こされて笑えなくなってしまった。二本目はかなりウケた。

 

10/22

 午前中から早稲田松竹シャンタル・アケルマンの二本立てを観て、出たころには昨日と同様にやはり夕方の空気になっていた。一本目の『ノー・ホーム・ムーヴィー』(二〇一五)は、アケルマンが実家に戻って高齢の母の看病をしつつ、それまであまりしてこなかった親密な会話を重ね、その日常を記録していくというドキュメンタリーで、ある種の法則に基づいて室内に設置されたカメラがその家に暮らすひとの日常を定点で映し取るという形式はやはり『ジャンヌ・ディエルマン』を思い起こさせたけど、『ジャンヌ・ディエルマン』が中年の専業主婦女性を映していたのに対してこちらは高齢女性なので、まずそれだけで動作ひとつひとつがまったく違うし、それにこちらには映されている対象(=母)への親密さ、気まずさ、あらゆる感情が記録されている印象があり、やはり劇映画とは異なる非常に私的な映画だと感じた。ともすればただのホームビデオになってしまいそうなところを、構図の美しさと編集、そしてなによりときおり挿し込まれる風景の長回しが映画たらしめる。映画冒頭で映されるのはどこか荒涼とした野原で強風にさらされ激しく揺れ続ける細い木の姿で、まずそれが(僕の体感で)五分続くのでウケる。しかしそれが冒頭にあることで映画全体のトーンが決定づけられていることは間違いなく、そのあとどんなに親密な会話が繰り広げられようとも、どことなく〝終わり〟へと向かっていることを感じさせられ、そして実際母娘の会話は次第に途切れがちになり、母が起き上がることも減り、映画は静かに終わる。そういう詩的効果のようなものを帯びた風景の長回しが何度か入って、その演出的効果に驚嘆しつつ、ひとつひとつの長さにウケていた。特に中盤の、車窓から荒野を映した長回しがほんとに長すぎて、思わず隣に座っていた同居人と顔を見合わせた。

 もう一本の『家からの手紙』(一九七六)は、ベルギーを離れて数年間滞在していたニューヨークの風景に、実家の母から届く手紙を朗読するアケルマンの声が被さるというインスタレーションみたいな作品で、『ジャンヌ・ディエルマン』をその前年に公開したアケルマンが「ウチ、今後もこういう感じでやっていくんで」と活動声明を出しているかのような長回しがひたすらに続く。この作品における長回しはほんとにあきれるほどに長くて、地下鉄のホームを映したシーン、ニューヨークの街並みを車のなかから映したシーンはいずれも間違いなく十分くらいあったと思う。最後、ニューヨークを離れる船の上から、遠ざかっていく摩天楼を映し続けるシーンも、これで終わりだろうなと思いながら見ていたら延々続いたのでウケた。いずれの作品もそういう長回し狂、車窓狂の側面を感じさせつつ、母娘のかなり私的な内容を描いた映画で、しかし私的で具体的なゆえに普遍性を獲得してもいて、疲れたけどかなりよかった。併映のデビュー短編『街をぶっ飛ばせ』は後の作品と比べるとかなりテンポがよく、粗削りではあるものの、台所に閉じ込められ、さらに自らを閉じ込めて最後にすべてを爆発させる女性の姿は確実に『ジャンヌ・ディエルマン』に繋がっており、そしてそれを抜きにしてもみずみずしさがあってよかった。

 早稲田松竹を出てから新宿で同居人の服を買い、そのあと同居人は友だちとの飲みに出かけ、僕は家に戻った。心地よい眠気が訪れていたが、今日文フリの原稿を進めないでどうするんだという局面だったので一念発起して家の外に出た。近所のカフェに入っていざパソコンを開くと充電がなく、あえなく通常の読書へ……。そのあと会社まで充電器を取りに行って、うどんを食べ、ネットカフェに入った。ネットカフェのブースは信じられないほど狭くて、あまり集中できず進まなかった。

 

10/23

 頭痛につき就寝します!

 

10/24

 昨日の頭痛の延長線上に今日もいるような感じがして、案の定午前中仕事を進めるうちに頭が痛くなってきた。昼にバファリンを飲んだら徐々に治まって、夕方にはほぼ頭痛はなくなっていたが、頭痛薬を飲んで仕事するくらいならおとなしく帰りなさいよと思った。文フリは次になにを書くかなんとなく決まったのだが、文章の持って行き方がわからずに進められずにいる。もう「進められずにいる」とかいっていていい段階ではないというのに……

 

10/25

 遠回しにではあるが、シャンタル・アケルマンが『家からの手紙』において発揮していたおそろしいほどの長回しの反商業主義っぷりにあらためて感嘆するようなことがあり、あの珍妙すぎる映画をなんともう一度観てみたい気持ちになってきている。僕の文フリの原稿もあんな感じでかっこよく進められればいいとも思う。ところで文フリの入稿だが、前回と同様のサービスを使って製本する場合、①今週末二十九日の夜までに入稿して文フリ一週間前の十一月三日に発送してもらうパターンか、②来週末五日の夜までに入稿して文フリ前日の十日に発送してもらい、十一日の当日に一か八か間に合わせるパターンが考えられ、①が安心安全だとは思いつつ、②のほうが書ける時間が増えてうれしい。いずれにせよ大詰めなのは間違いないが、仕事をしたり、仕事で軽率なミスをしたり、テレビを見てしまったり、散歩に心惹かれたりと、日常のあれやこれやによって時間がなくなっている。でもとりあえず今日は少し進められた。

 

10/26

 おやすみなさい!

 

10/27

 今日は早めに帰って原稿を進めようと思っていたが、案外遅くまで会社にいてしまい、ちょうど帰ろうかという頃合いに近所の友だちから

 散歩どう? てかドライブしない? 

 とLINEが来たため、それはおもしろそうだねということで帰らずに友だちと合流した。スカイツリーのほうまで行って、高いねえ、と連呼した。車内では僕がキャバクラや性風俗店やパチンコに行ったことないし行ってみたいとも思わないという話になり、不景気が生んだ悲しい青年だといわれてウケた。友だちも僕もべつに本気でそんなふうに思っているわけではないが、おもしろい表現なので今度から使っていきたいと思った。他には互いの仕事の話や僕の文フリの話になり、こういうのはとりあえず申し込んじゃうことが大切なんだよ、申し込んじゃったら書かざるを得ないからね、とさほど書いていないくせにえらそうに高説を垂れた。いまは基本的に毎日文章を書いてるから身体が文章を書くモードになっていて、文フリが終わってからもこの感じをキープしたいと思ってんだよね、ともいっていて、我ながらえらそうだった。そのあと、友だちと飲んでいた同居人が帰っているところにちょうど通りかかり、終電をなくしてうちに泊まろうとしていた同居人の友だちを家まで送るという運びになった。ひとつの文章のなかに僕の友だちと同居人の友だちが登場してしまいわかりにくくなってしまったが、ようするに僕、僕の友だち、同居人、同居人の友だちの四人でそのまま車に乗って、同居人の友だちを家まで送ったということだ。僕の友だちは結果的にかなり運転してくれたので非常にありがたかった。今日はけっきょく原稿が進まなかったが、たまにはこういう日があってもいい。こういう日が頻出するのはよくないが……

 

10/28

 今日は仕事だった。AIによる画像生成の話のときに「風刺画とかも出せるのかな」と誰かがいったのに対して僕はすかさず「ほら明るくなったろう、みたいなやつですね」とガヤを入れることができて、べつにそんなにウケなかったが自分では満足した。今日は他にもとっさの思いつきでガヤを入れることのできたシーンがあってよかったが、年をとったときにだじゃれが駄々漏れになってしまう現象と同じかもしれない。他にも今日は、お昼に会社の何人かで外に食べに行って階段が急な店に入ったとき、僕が誰かとその店に行くたびにいっている「この階段で毎年五人くらい亡くなってるらしいね」という不謹慎なジョークをいったら後輩が笑ってくれたが、これこそまさにいやなおじさんの第一歩かもしれない。既に第二歩、第三歩くらい行っちゃってるかもしれない。気をつけたいとは思っている。でも問題は、こんなふうに書いていても実際には少しも反省していないことだ。基本的に反省のない生活を送っている。だから文フリの原稿もギリギリになる。

 

10/29

 いい気候の日だった。朝には雨が降っていたのがやがて上がり、涼しい秋晴れの日へと転じたのがうれしさを増した。日記によると、おとといの僕は友だちに向かって、いまは基本的に毎日文章を書いてるから身体が文章を書くモードになっていて、文フリが終わってからもこの感じをキープしたいと思ってんだよね、などとえらそうなことをいっていたそうだが、文フリの原稿を書き終える前にそのモードが弱火になってしまっているのを感じる。というか、もう入稿をぎりぎりまで伸ばすという決断をしたことでいったん気が緩んでいる。そんなときにはいっそ書かずに他のことをしたほうがいいのだが、今日はちょうど何週間も前に借りてから貸し出し延長を繰り返していた『愚か者同盟』の返却期限だったため、図書館に行って再貸し出しの手続きをし、ここ一週間くらい読み進められていなかったのをちょっとだけ読み進めた。相変わらずおもしろいのだが、しかし頭のどこかにはやはり原稿を書かなくちゃという気持ちもあり、大きくは読み進めずに閉じた。あと今日は僕の母と同居人の母を交えて四人で昼ご飯を食べるというイベントもあり、けっこう平和で悪くない回になったとは思うのだが、やはり疲れたようで、帰宅後僕も同居人も昼寝をした。

 

10/30

 毎日日記を書くという行為によって、例年に比べて秋をしっかり味わえているような気がする。日付と文章、日付と文章、日付と文章、……というひとかたまりを毎日書くことによって、秋の一日一日をしっかり噛みしめている。そういう実感がある。でもここ一週間近くの日記を見返してみると「頭痛につき就寝します!」や「おやすみなさい!」みたいな短すぎる日記が頻出しており、これでほんとに秋を噛みしめられているのか疑わしいが、しかし逆にこんなに短くても季節を感じられるというのなら、日記というものは永遠に続けたほうがいい。

 

10/31

 昨日「永遠に続けたほうがいい」と思った日記というものを、今日は一行で終わらす。