バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

二〇二三年十一月の日記

11/1

 ここ三週間くらいの文学フリマの準備をしている。正確には文学フリマの準備のなかにいるといったほうがいいかもしれない。大きく見れば準備をしているといってもいいのだが、平日はもちろん、土日も準備をしていない時間のほうが長いので、準備のなかにいる、といったほうがニュアンスが近いのだ。こういうことは日常において他にも頻発していて、たとえば……、そう、僕はこういうときにパッとたとえが出てこないのが玉に瑕なのだけど、いつもそうやって自己言及することでなあなあにしようとする癖も持ち合わせており、自分でもよくないことをしているという自覚はあるので、今回はちゃんと具体例を出せるまで粘ろうと思う。たとえば、「休みの日ってなにしてますか」とひとから聞かれたら「散歩してます」と答えるけれど、べつに一日中散歩しているわけではないじゃないですか。散歩という大きな状態のなかにいるというか……、ちょっと違うか。すみません、今日は出ないです。すみません、後日必ず提出いたします。

 

11/2

 眠いので寝ます。

 

11/3

 一日中仕事をして、アツい気持ちにもなった。しかし文フリは進まず!

 

11/4

 原稿を進め、入稿作業に入り、なんかいけそうな感じがしてきたので、夜いったん映画を観に行った。おそらく今週観ないともう観ないのではないかという気がしたので『ゴジラ−1.0』にした。思っていたほど悪くなかったが、なんだかみんなセリフ回しが変だったのと、佐々木蔵之介の演技がなんかずっと変でウケた。帰宅し、入稿作業を進めた。いったん寝ます!

 

11/5

 文フリの製本は前回も前々回もBCCKSというサービスを利用している。わりと簡単に入稿できるうえ、日曜日の夜までに注文すれば次の金曜日に発送してくれるという単純明快な仕組みのため、デザインやページ割りに強いこだわりがないのなら非常に使いやすい。しかし文フリは来週の土曜日に迫っており、そもそももうぎりぎりなのだが金曜日に発送してもらえればどうにか間に合う、だがそれにしても今日の夜までに入稿して造本の注文をしなければならず、かつ入稿したレイアウトが実際の造本のレイアウトに変換されるのにおよそ一時間から六時間程度かかるといわれているため、造本レイアウトを見てから修正したくなる可能性があることを考えると今日の朝までには第一次入稿を済ませておいたほうがよく、昨日の夜がんばって四時頃に入稿を終わらせた。そのあと八時頃に目を覚ましてパソコンを確認すると造本レイアウトが終わっており、ぱらぱら見てみてよさそうだったのでそのままそれで造本の注文をし、一件落着となった。あとは金曜日に発送されるのを受け取るだけだが、なんと今度の金曜日はヨ・ラ・テンゴのライブがあるため受け取れないかもしれない。土曜日の朝、営業所に直接取りに行ってそのまま文フリの会場に向かう感じになるでしょうか。

 今日は眠気もあっておおむね家にいた。昨日『ゴジラ−1.0』を観たので、そういえば『シン・ゴジラ』ってどんな感じだったっけと思い同居人と観た。夕方に同居人がスシローの炙りサーモンバジルチーズが食べたくなったといい、しかしどうも元気がないということで、僕が五反田のスシローまで取りに行く運びとなった。のこのこと向かう道中で、せっかく五反田に行くならTSUTAYAに寄りたいと思い、かねてより見たいと思っていた『古畑任三郎』を借りることとした。TSUTAYAは何ヶ月か前にレンタルしたDVDを見ることなく延滞してしまってただ料金だけがかかったという苦い経験以来自粛していたが、もうみそぎの期間も済んだと判断し、久しぶりに入店した。

 お目当ての『古畑任三郎』は第一話~第三話が既に借りられていて置いていなかったが、一話完結型のようだったのでとりあえず第四話~第六話までを借りて帰った。僕は勝手に古畑というのはクールな天才だと思っていたのだが、実際はけっこう幼稚で身勝手で変なねちっこいしゃべり方をする猫背の賢めのひとという感じで、こんなんモノマネされるに決まってんじゃんと思いながら楽しく見ることができた。田村正和の仕草と、捜査のなかでごく自然に挿入される無駄な会話がとてもよい。犯人が先に視聴者に明かされるスタイルなうえに、トリックやギミックもそんなに複雑でなく、加えて古畑も毎回早々に犯人を疑ってかかるため、推理よりは古畑と犯人の会話に重点が置かれているドラマであることがわかった。古畑は空気を読まず、ことあるごとに犯人に「んーーー、二、三質問してもよろしいですかねえ」と話しかける。当世風にいえばウザ絡みやダル絡みなどと呼ばれそうなその会話にウケながら見ていた。特に鶴瓶が犯人の第四話はかなりウケ狙いなのだが、狙いどおりふつうにかなりウケてしまった。第五話と第六話はそれに比べれば真面目なトーンなのだが、第六話で犯人が木の実ナナであることを古畑が確信するきっかけが、古畑がその前に食べてポイ捨てしていた魚肉ソーセージの値札だったのでウケた。

 

11/6

 聞くところによればいまの世の中には映像配信サービスというものがあるらしく、昨日僕が五反田のTSUTAYAで借りた『古畑任三郎』もFODというところに上がっており、しかもあろうことか昨日借りることが叶わなかった第一話~第三話がちょうど無料で配信されているという。おったまげ!

 第一話の犯人は中森明菜なのだが、これが中森明菜か!とあらためて圧倒されてしまうほど美しいひとでおったまげた。古畑とのやり取りにもたった一夜の親密さが感じられ、中森明菜が演じる少女コミック作家が描いた作品を古畑が読んで涙するというだけの、本筋とは関係ないような美しいシーンもありつつ、全体的な時間の流れ方がゆったりとしていて、実は第十話くらいなんじゃないかと思ったが、これがほんとに第一話だというのだからすごい。今日はさっそく同居人に古畑のものまねを披露したが、まったくささらなかった。んーーー、そうですねなんといいますか、精進の必要がありますねえ。

 

11/7

 今日の早朝? それとも未明頃? 正確な時刻はわからないがすごい強風が吹いていたということを、いま日記を書いている夜になって思い出した。風が窓を揺らす音で幾度となく目が覚め、眠りをひどく乱されたというのに、いまになるまで忘れていたのだ。こうやって日記を書く習慣がなければ、あんなに強く吹いていた風を永遠に忘れ去っていたかと思うと恐ろしいです。それでいうと、今日の気候に関してもうひとつ忘れていけないのは、朝の雨上がりのなんともいえないぬるさが、捉えようによっては春のようにも思えたことだ。濡れたアスファルトから立ち昇るにおいが鼻腔に充満し、風が前髪を飛ばし、来たる夏の気配さえ感じられた今朝の様子は、まぎれもなく春のそれであり、今日が実際には秋であることを思い出させるのはただひとつ日付だけなのだった。そのことも忘れないうちに日記に書いておきます。

 

11/8

 仕事終わりに渋谷の東急ハンズに行って、文フリ用に黄色い布とポスターハンガーみたいなのを買った。ポスターハンガーという名前が正しいのかはわからない。セリフ体の「T」の字のような形で、テーブルの上に立てられ、Tの上の傘の部分に紙をはさんで吊るせるようになっているので、ポスターハンガーという呼び方はおそらくいい線をいっているのではないかと思ったのだが、買ってきたものをいま実際に確かめてみたところ「POPスタンド」という名前だそうだ。POPは思いつかなかった。そんなふうに、僕の身の回りには名前がわからないものが多い。今日だってほんとうはそのポスターハンガーだかPOPスタンドだかの他にも、A4のチラシを入れるための硬めのクリアファイルみたいなやつというか、中に紙を入れて下敷きみたいに使えるやつも欲しかったのだが、それの名称はけっきょく最後まで分からず、買えずに東急ハンズを後にした。代わりに「簡単ラミネート」というやつを買った。「お店のメニューやお気に入りの写真・イラストを、機器を使わずすばやく簡単にラミネートできます」とのことで、とても頼れる。探しているときにこそなぜか思い出せなくなる言葉というのがあって、この「ラミネート」というのもいかにもそういう類いの単語なのではないかという気がする。ラミネートラミネート。あのーー、ほらなんというんでしたっけ、ほらあのーー、紙の上からフィルムみたいなのを貼り合わせるような加工のことをなんとかっていいましたよねえ、と古畑が迷っているときに、横からすばやく、古畑さんもしかして「ラミネート」じゃないですか、と助け舟を出せるように、何度も書いて身体に染み込ませる。

 

11/9

 文フリがいよいよ迫ってきた。当日ブースの上に飾るつもりのチラシみたいなやつ、フライヤーっていうんですかね、を昨日の夜に作って、同居人に会社でプリントアウトしてもらい、持って帰ってきてくれたものを昨日買ったラミネート加工でしっかり挟み、同じく昨日買ったPOPスタンドに付けてみたらいい感じ! しかしここではたと気づく、五百円玉がない! 明日は仕事の合間に自販機やコンビニで千円札崩しチャレンジをします。

 

11/10

 仕事のあとヨ・ラ・テンゴのライブに行った。これがほんとによくて、涙ぐみつつ、笑顔になりつつ、絶えず揺れ、気がついたら二時間半くらい経っていて足がかなり疲れた。〝インディーズバンドを四十年続けるということ〟の一端に触れられたような気もして、ほんとに感動した。どんなにギターを弾きぐるい、みずみずしくて美しいノイズを鳴らしても、間奏が終わればすっとマイクの前に戻る。職業としてのインディーズバンド、職業としてのヨ・ラ・テンゴ。ところで明日は文フリなのだけど、販売する予定の新刊は明日の午前着予定で配達されるそうで、ぞくぞくしている。激ネムなのでとりあえず寝ます。

1984年にニュージャージー州ホーボーケンにて結成されたヨ・ラ・テンゴ

 

11/11

 文フリで販売予定の新刊は今日の午前着、すなわち八時から十二時のどこかで届くことになっていたのでぞくぞくしていたのだが、たいへんありがたいことに九時頃ピンポンを鳴らしていただけた。受け取った冊子も発色よく仕上がっていて、日本のみなさんありがとうという気持ちになった。というわけでせっかく早く受け取れたのに、そのあとダラダラしているうちに十一時前になってしまい、慌てて家を出たが、よく考えれば僕は今日までにけっきょく五百円玉を二枚しか用意できておらず、さらにお金を受け渡すトレーも、以前使ったものが家のなかのどこかにあるはずだというところで話が終わっていて、見つけずじまいになっていた。それがひとにものを売る態度なのか、だいたい私にもブースに座っていてほしいとお願いしたのか、お願いされた覚えはないぞ、当たり前のことだと思ってないか、と同居人に道中怒られながら会場へ。

 開場のぎりぎり前に到着して、コンビニで物資を買い、五百円玉も三枚に増やすことができた。開場してからは大学の後輩や会社の同僚が来てくれて勢いづき、そのあととてもうれしかったのは、二年前、一年前と僕たちのブースを訪れていただいていたという方が来てくださり、既刊で好きだったところを述べていただきつつ新刊も買ってもらえたことで、これには令和の鉄仮面と呼ばれる僕も思わず涙ぐんだ。その方に必ず来年も出しますと約束したので、少なくとも僕はその方に読んでもらえるように来年以降も書かなければならない。書くということのなかにそういう力学が含まれていく。僕の書くがひとの読むに繋がる。かなり久しぶりの高校の後輩も来てくれてブログも読んでますといってくれたり、他にも既刊を買っていただいたという方がいたり、何回か出ているとそういううれしいことが起きる。インターネットで繋がっているひとたちにも来ていただいて、とてもありがたく思った。実際に対面できるということのうれしさは技術がどんなに変化しようと損なわれない。

バナナ倶楽部

 終わったあとは来てくれていた友だちたちと庄やに行った。漫画やイラストを描いている友だちたちの創作についての話、生活の話、いろんなことを話しながら、僕の態度のやばさにも話題が及んで、へらへら笑いながら反省した。新刊がまあまあ売れたことは結果オーライでしかなく、態度はあらためないとならない。

 態度はあらためつつ、ささやかでもずっと制作を続けていくことが大事なのではないでしょうか。ヨ・ラ・テンゴのように!

 

11/12

 同居人が今日から泊まりがけで出かけるため朝から見送った。息が白い。昨日はぎりぎり秋だと思えたが、息が白くなってしまうともう擁護のしようがない。冬です。冬の日曜日というのは家でぬくぬくしていると一瞬で終わってしまうものなので、今日は朝家を出たそのままの勢いで渋谷に向かい、ユニクロで会社用の服を少し買い足してから、ヒューマントラストシネマ渋谷ゴダールの『軽蔑』とデヴィッド・フィンチャーの『ザ・キラー』をはしごで観た。『軽蔑』は映画館で観るとメインテーマが爆音でひたすらにリフレインするのがおもしろ悲しい。愛情が軽蔑に変わる瞬間が克明に映し出されていて、軽蔑されるミシェル・ピコリにはなぜ自分が軽蔑されたのかわかるようでわからずじまいなのだが、スクリーンの前の僕たちはそれをすべて目撃しているのでそのすれ違いも悲しいし、ミシェル・ピコリはよりによって二回も同じことをするので「あんたまじで……」と思いながら観た。でも僕だって同居人の教育によってこういう機微がわかるようになっただけなので、あまりえらそうなことはいえない。というかいまでもあまりわかっていないかもしれない。『ザ・キラー』は冒頭から主人公のこだわりのルーティンと、それに被せる形で仕事の流儀にかんするモノローグがおよそ十分ほど続き、フリを大きく作ったところで任務失敗するというオチがやってくるという無駄のなさに感嘆した。デヴィッド・フィンチャー流の引き締まった美しい映像のなかで地味な殺し屋の仕事が淡々と描かれるが、現実世界で無口な主人公はモノローグではずっとなにかしらを喋っており、仕事も基本的にはよくできるのだが不測の事態には弱く、作業用BGMとしてザ・スミスを聴き続ける、いっぷう変わったトーンの殺し屋映画でよかった。

 映画館を出てから中高の同窓会に行った。卒業以来会っていなかったひとも多く、とても全員とは話せそうになかったのでだいたいは遠目に見るだけだったが、話さずともみんなで一堂に会するというのはなんとなくよい。とはいえ大人数で疲れたので、終わってからは同じ組だった友だち二人とラーメンを食べるだけにして早めに解散し、しかしせっかくなのでそのあと散歩してから帰った。疲れたのに散歩するとはこれいかに、しかも寒いのに、と自分でも思ったが、動き出した足は止められない。せっせと歩いてみれば徐々に身体も暖まってきて、この冬の散歩の充実を予感させた。

 

11/13

 会社を出てから友だち三人と集まって、みんなで今年よかったものを話しながら飲んだ。おばあちゃん店員さんたちの腰があり得ないくらい低すぎて、こちらが申し訳なくなりつつも思わず笑ってしまう、かなりいいお店だった。その店員さんがポテサラの代わりにとおすすめしてくれた新じゃがの素揚げは、ポテサラの代わりにはなっていないような気はしたものの、たしかにおいしかった。食べながら今年よかった映画や音楽の話をした。音楽は下火で、いまは芸人と短歌の時代なんすよ、と友だちがいい切りながら、ワッチャイーティーエー、ワッチャイーティーエー、と歌うでもなくただ連呼していてウケた。音楽については各々の好みもあるのであーそれもいいよねーという感じで話が落ち着く場合が多いが、映画については意見が割れることがあって楽しい。けっきょくは音楽と同じく好みの問題ではあると思うのだけど、それでも楽しいのだ。たとえば『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』については、僕ともうひとりはよかった派、あとのふたりはつまらなかった派だったが、僕がよかったと思い、ふたりがよくなかったと感じたのが、同じくディカプリオの演じる人物の言動の一貫性のなさについてだったので、そこで意見が割れること自体が映画というもののおもしろさだとも思った。映画は画面に映っているものがすべてではないというか、観ているこちら側の考えや好みや体調、あるいは映画館の椅子の硬さや周囲の観客、そういうものがすべて混ざりあって物語となる。

 あとは、僕の文フリの新刊を読んでくれた友だちが文体を褒めてくれたのがとてもうれしかった。僕なりに文体にはこだわったつもりだったので、それが伝わっていることがうれしかった。こういう文体でもっと長い小説になったときにどうなるのか気になると友だちはいってくれて、僕もそれが気になるんだよね、となんだかえらそうな返しをしてしまったが、それは本心なので仕方がないというか、もっと長いものを書けるようになりたいというのがまさしく僕の今後の目標なので、なにはともあれまずは溜まりに溜まっている「ことばの学校」の授業をちゃんと受けようと思いながら帰ってきて、いったんだらだらして、けっきょく今日はそのまま寝る。読みたいもの:『近畿地方のある場所について』。

 

11/14

 泊まりがけで出かけていた同居人が帰ってきたので、土産話などを聞いた。ひとしきり話したあと、あっという間に寝てしまった。同居人は寝つきがかなりいい。僕はというと日記を書きながら〝無許可バナナ〟に想いを馳せている。福岡県久留米市の道路の中央分離帯に植えられていた三本のバナナの木、通称〝無許可バナナ〟が今日伐採された。中央分離帯でバナナを勝手に栽培する行為は道路交通法違反に当たるという。近隣に住む男性が二年前に植え、毎日欠かさず水をやり続けて大きく育った三本のバナナは今日、バナナをここまで育ててきた男性自らの手で伐採された。男性はまだ青い実をひと口食べて、「口のなかの水分持っていかれる」といってすぐに吐き出してしまった。伐採されたうちの二本は同市内の八十代男性宅へ。「家族に自慢したい」と語る八十代男性。残る一本は、バナナを植えて伐採した男性から知人男性のもとへ。「誕生日プレゼントだといわれて受け取ったらバナナだった。バナナに罪はない」と語る知人男性。バナナが紡ぐ友情。心なしか筆が乗っているように思えるニュース記事を見て、これは「バナナ倶楽部」を名乗って文学フリマに出ている僕が書くべき物語だったのではないかと思った。でも〝無許可バナナ〟は物語ではなく現実に植えられ、既に伐採されてしまった。僕がちんたらしているうちにこんなことが起こってしまった! 書け、現実に追いつかれる前に!

 

11/15

 今日も〝無許可バナナ〟のことを考えていた。あらためてすごい話だと思った。景観をきれいにしたいという理由で車道の中央分離帯に三株のバナナを植え、その後毎日欠かさず水をやり続けていたという男性が、最後には市に伐採を命じられ、「切腹するような、涙がちょちょぎれる」といいながら三本ともきれいに伐採したあと、ためしに一本食べてみてすぐに吐き出し、「口の中の水分取られますね、乾ききったスポンジ食べてるみたい」とつぶやくまでの二年間。同居人は「映画すぎる」といっていたが、まさしく二時間くらいの映画になりそうで、その映画はまず男性が三株のバナナを手に入れたところから始まる。男性がどうして中央分離帯を選んだのか、その理由が語られることはなく、彼が毎朝家でじょうろに水を汲み、家から少し離れた車道の真ん中までそれを持っていく姿が丹念に描かれる。車道は車通りも多く、秋には台風がいくつも通過し、冬の寒さはバナナにとって厳しすぎる。しかし男性の不断の水やりによって三本のバナナは順調に育ち、二年目を迎え、いかにも南国の木らしい大きな葉をつける。

 男性は毎朝の水やりのあとどこかへ仕事をしに行っているようだが、それが描かれることはない。映画はあくまでバナナを中心に進む。バナナにとっても暑いのではないかと思うほどの夏を迎え、ついに青い実が上に向かってなりはじめる。しかしここで映画は急展開を迎える。ある朝、男性はじょうろの代わりにはさみを手にしている。「ごめんなあ」、涙を流しながらはさみを動かす男性に、しかしバナナたちが言葉を返すことはない。水やり同様に丁寧な伐採によって、中央分離帯にはすっきりとした見晴らしが戻る。道路脇に横たえられたバナナからまだ青い実を取り、ゆっくり剥いてかじる男性。しかしすぐに吐き出して、「口の中の水分取られますね、乾ききったスポンジ食べてるみたい」と、まるで横にカメラがあるようにつぶやく。暗転。

 そのまま終わるのかと思いきや、また画面が明るくなる。カメラは件の中央分離帯を映している。男性はもういない。バナナの木ももうない。ひっきりなしに車が通る。やがて車の速度が速くなる。映像は早送りされている。いくつもの夜が訪れ、朝が訪れる。夜と朝の訪れさえもやがてコマ送りになり、尋常ではない早送りのなかで、徐々に周囲の建物が荒廃していくのが見える。やがてなにもなくなった荒野、ずっと昔に中央分離帯だったその場所に三本の木が生えてくるところで映画は終わる。許可もなにもない世界に三本のバナナだけが生えている。──そうやって映画は終わる。きっと賛否両論分かれることだろう。賛否両論分かれるとき、僕はだいたい賛のほうなので、きっとその年のマイベストテンに入れてしまうことだろう。

 ところで同居人は今日会社から出るときにエレベーターの隙間にスマホを落としたらしい。その旨を社用携帯から連絡してきたので、さぞ落ち込んでいるだろうと急いで帰ったが、意外にけろっとしていた。その後エレベーターの運転を停止してスマホは救出されたそうで、もうバキバキに割れておそらく使い物にならなくなってしまっていたのだが、そのショックよりも、まだ上司が帰っていないのにエレベーターを止めてしまって申し訳なく思う気持ちが勝っていそうだった。でもそんなこともすぐに忘れて、〝無許可バナナ〟の記事を再読しながらめちゃくちゃ笑い、あげく涙ぐんでいたのでたくましいと思った。

 

11/16

 昨日エレベーターの隙間に落とし、バキバキに割れてしまっていてもうだめかと思われた同居人のスマホだったが、なんと電源がついたらしい。スマホケースに入れていたプリキュアのカードが守ってくれたのかもね♪というのが同居人に会社のひとの見解だった。たしかにそうかもしれない! ちなみに僕のスマホのケースにはポケモンカードワンリキーが入っており、これまた衝撃に強そうなのであった。

 

11/17

 仕事を終えてからディズニーランドへ! というのも僕の父がいつしかチケットに申し込んでくれたらしく、でも父も母も弟も行かないというので僕と同居人のところに回ってきた、そのチケットが今夜の日付だったためありがたく行かせてもらったのだった。僕が最後にかの地へ赴いたのはたぶん中学生の頃のこと、同居人も高校生だか大学生だかのとき以来行っていないとのことでふたりともずいぶん久しぶりの訪問だったが、同居人はどのあたりになんのアトラクションがあるかだとかアトラクションの流れだとかを不思議と覚えていて、まず「カリブの海賊」に乗ったときにはモブキャラのような金髪のおじさん海賊を見て「あ、このひと懐かしい」といったり、そのあと「スプラッシュマウンテン」に乗ったときには隣で僕が「もうこのあとめっちゃ落ちるよね?」と何度もいうのを「いや、次も小落下だから」と制したり、異様な記憶力を見せつけてき、僕はとても感心した。僕が感心したのは同居人の記憶力だけでなくて、やっぱり日本一有名な遊園地というだけあって、キャストの皆さんのプロっぷりや細部まで作り込まれた設備に「おお」と声を上げ続けながら回った。電気代もすごいだろうなと思って「電気代──」まで口にしたところで同居人に制された。ディズニーランドは電気ではなく魔法で動いているのだ。

 僕が前に来たときにはたぶんまだなかったであろう「美女と野獣」のアトラクションはすごくて、城に入ってしばらくは城内をぐるぐる歩いてストーリーを見るくだりがあるのだが、そのまま最後まで見学して終わりかと思いきや、そのあとティーカップ的なものに乗れる運びとなっており、カップひとつにつき十人ほど乗り込んでいざ出発、カップは巨大なルンバのような構造になっていて、どうやってプログラミングされているのかうまく互いを避けながら回転しつつ進んで、ストーリーを最後まで見せてくれるのだった。ガストンのくだりが丸々カットされていたのはさびしかったが、アトラクションとしてはとてもよかった。そのあとは「バズ・ライトイヤーアストロブラスター」を楽しんだ。僕たちのひとつ前はストイックな雰囲気を醸したロン毛のおじさんで、ただ者でないに違いないと見ていたのだが、案の定とんでもない高得点を叩き出していて、令和に生きる武士かと思った。うかつに刀を抜くことのできない令和の世において、「バズ・ライトイヤーアストロブラスター」は武士の憩いの場となっているのだった。

誰もいないようだ……

 

11/18

 仕事のあと同居人と友だちと三人でロイヤルホストへ行った。ロイヤルホストはその名のとおりロイヤルな気分を味わえるので僕と同居人は特に三連休の初日の朝などに愛用していたのだが、夜に行くのは実は始めてだった。夜もやはりロイヤルな気分が味わえてよかった。ハンバーグに胡椒がきかせてあったり、フライドポテトにもなんだかほんのりコンソメっぽい風味を感じたり、パスタのもっちり具合が絶妙だったり、細々としたところの満足度が高かった。座席のふかふか具合もよく、ドリンクバーに行って戻ってくるたびに尻が思ったより沈みこむ感覚があり、最後帰るときにはむしろ少し腰が痛くなっていた。しかしその痛みもまたロイヤルなのであった。

 友だちとは互いの近況、といっても僕と同居人には話すべき近況なんて特になく、急に寒くなってきたなどという天気の話になってしまったのだがそれを話したり、さいきんの休日の過ごし方や、歳を取ることについて話したりした。歳を取ることについて、僕は同居人の考え方が好きで、同居人は映画や小説のなかで年上のひとが楽しそうにしているとその年齢が楽しみになるという。その感覚が顕著に出てきたというのが『ハッピーアワー』を観たときのことで、あの映画で描かれていたことの素晴らしさに感じ入ったのももちろんだが、三十七歳くらいの女性たちが生き生きと過ごしている姿のを見て、自分も三十七歳が楽しみになったという。さらにさいきんではヨ・ラ・テンゴのライブを見て、六十六歳のおじいがギターを弾きぐるっていたうえ、少しふらつきながらもそのギターを頭上に掲げて振り回していたのを見て、同居人だけでなく僕も、六十代もよさそうだと思ったのだった。──というのは余談だが、とにかくそんな話をしたりして楽しく過ごした。次はバーミヤンに行きましょうという約束をして解散した。

 帰宅すると家のなかも寒くて思わずエアコンの暖房をつけたが、まだ本格的な冬でもないのに(というか僕はまだぎりぎり秋だと思っている)暖房に頼っていてはだめだという考えから設定温度を控えめにしているために、部屋はなかなか暖まらず、同居人に除湿になっていないか疑われた、というのも昨日僕は暖房のつもりで除湿をつけており、同居人をがたがた震えさせてしまったので、疑いの目が向けられるのもやむなしという感じだったのである。間違えて除湿をつけていたのに同居人にいわれるまで気がつかなかったというのもやばいが、少しでも暑ければ冷房や除湿をがんがんにつけるくせに、寒いときの暖房は控えめにするなんて、いかにも男性の冷暖房ハラスメントという感じであまりよくない振る舞いなので、明日からはもっとちゃんと暖房をきかせようと決意した。

 

11/19

 激ネムのため、寝ます!

 

11/20

 さいきんは湯船に浸かるのがとても楽しい。いまの家の風呂は手動、それも水とお湯の蛇口をひねり、うまいこと調節することで適温を導き出さなければならない仕組みになっていて、湯船にベストなお湯を張るのには熟練技術が必要なのだが、僕と同居人のうち湯船に浸かりたい気持ちがより強いほうがお湯張り担当というルールのもと、この二年間僕が湯船にお湯を張り続けたところ、見事お湯張りのゴールド免許を取得することができ、毎晩極上のお湯を張ることができている。

 湯船に浸かって「エァ~」なんて声が出てきたらそれはもう冬の始まりであり、おじさんの始まりでもある。そういうことでいうと季節はもう冬であり、僕はもうおじさんになってしまった。でも実際のところ湯船で「エァ~」という声を出すのはなぜだかとても心地よく、そういう健康法なのではないかとすら思う。たまたま名付けられていないからおじさんの仕草のように思われているだけで、なんたらデトックスみたいな名前があれば誰もが遠慮なくできるのではないでしょうか。

 ところで、昨日は同居人の友だちが顧問をしているという中学校の部活が大会に出るといい、せっかくなので同居人と僕も見に行った。同居人とは高校の部活が同じだったというその友だちは、大学入学後は教師を目指し、教師になったあかつきにはぜったいにその部活の顧問をやりたいと思っていたほどの筋金入りの顧問で、毎週末を返上して顧問をやることをたいへんだとは感じつつも、基本的に前のめりで顧問をやっているようだった。サングラスをかけ、椅子に座りながら部員たちに指示を出し、ときに檄を飛ばすその姿は、同世代とは思えないほどに顧問そのものなのだった。試合が重要な局面を迎えると立ち上がってジャージを脱ぎ、部員たちと同じユニフォーム姿になるそのふるまいも、まさしく顧問だった。

 あまり日記に具体的なことを書きすぎてもよくないので、そのスポーツの内容は少し変えて書こう。そのスポーツは、マウンドと呼ばれる場所に立ったピッチャーというポジションの子が、少し離れた場所に座ったキャッチャーと呼ばれる子のほうに向かってなにかしらの曲の冒頭を歌い、その曲がなんなのかキャッチャーが答えるまでの間に、相手チームのバッターというポジションの子がその続きを歌うことができたら塁に出ることができるという競技で、ピッチャーとキャッチャーが事前に相談することがないよう、課題曲は試合開始の際に両チームに伝えられる。今回の課題曲は「ビートルズ(ただし各メンバーのソロ活動は除く)」で、ようするにビートルズの曲であればなんでもよく、試合序盤、ピッチャーはバッターとの駆け引きだけでなく、自分のキャッチャーがどこまで知っているかということも探らなければならず、まずは「ヘルプ!」あたりから攻める。バッターが続きを歌えず、キャッチャーが曲名を答えられた場合はストライク、キャッチャーも答えられなかった場合はボールとなり、バッターはスリーストライクでアウト、しかしボールが四つ出れば塁に出ることができ、ここらへんのルールは他のスポーツとも似ている。顧問をやっている友だちは「最初は歌われてもいいから、『赤盤』でとにかくストライクゾーンを狙え」と指示を出し、回が重なってリードし始めると「『ホワイト・アルバム』で攻めろ」といっていた。部員たちは「はい」と返事をするが、中学生の「はい」ほどあてにならないものはない。ピッチャーの子は『ホワイト・アルバム』を知らないようで、代わりに『イエロー・サブマリン』の収録曲を歌っていたが、それはそれで渋い選曲で、バッターに間違って歌わせ、アウトを取っていた。終盤には相手チームのフォアボールが重なり、押し出しでリードを広げたところで、時間切れとなり試合終了となった。試合に時間制限があるなんて僕は思ってもみなかったが、顧問の友だちは最後は時計とにらめっこをしていたそうで、そういう試合運びも同世代とは思えないほどに巧みだった。素晴らしい顧問っぷりだった。無事勝利となりよかった。

 

11/21

 昨日の夜に見た何週間か前のガキ使がおもしろくて今日もまた再生してしまった。久里浜駅周辺でおすすめスポットを聞き取ってベスト3を決めるという企画で、企画自体はもう何度もやっているものなのだが、今回は松ちゃんが浜ちゃんに向かって「始まる前ウンコしてたな」と振る冒頭からどうでもいい話が続き、ふつうの番組ならカットされていそうなやり取りが残されているというか、むしろそれだけしかないロケになっていて、独特のオフビートな雰囲気があった。特に、五人が久里浜の人びとにおすすめされたペリー公園に向かい、記念館に入ろうとしたタイミングでどこからか「マヨ、マヨ」と鳴く声が聞こえてきて、その正体を探るべく周辺を探したらその正体はカラスで、鳥に詳しいというココリコ田中にどうしてカラスが「マヨ、マヨ」と鳴いているのか訊ね、田中が「知りまへん」と即答したところでかなり笑ってしまった。いまこうして文字にすると少しもおもしろくないのですごい。同じように文字にするとおもしろくなさそうなのに映像だとすごくよかったのがYouTubeにアップされているマユリカと紅しょうがの湯河原旅行の動画で、居酒屋でたくさん注文した食べ物がテーブルに届くたびにじゃんけんするのがとてもよかった。文字にするとおもしろくないものをいかに文字にするか。そこに来年の文フリの種があるような気もする。

 

11/22

 柴田聡子の新曲が素晴らしい! アレンジのかっこよさもだが、実際に柴田聡子の家の付近にある白い椅子をモチーフにしたという歌詞の、詳しい内容はまだ咀嚼しきれていないものの〝近所の白い椅子をモチーフにした〟ということ自体になんとなく感動してしまい、それもう保坂和志じゃん……と思ったのであった。たくさん本を読もうと思った。さいきんはあまり本を読めていない。一ヶ月以上前に図書館で借りた『愚か者同盟』をまだ読み終わらずにいる。内容はとてもおもしろいし読みにくいわけでもないのだが、特に十月半ばくらいからは文フリの原稿を書いていたりなんとなく仕事が忙しかったりで読み進められず、文フリが終わってからもぼーっとしており、それに加えて本自体に物理的な重量があるということもあってページをなかなかめくれずにいる。平行して読んでいる『ワインズバーグ・オハイオ』はゆっくりとしかし着実に読み進められてはいてあと少しで終わる。今週末に両方とも読み終えられればいいなと思う。そのとき読んでいる本をいつまでも読んでいたいという気持ちと早く読み終わりたいという気持ちが相反しないものとして共存している。

 ところで今年はこうやって毎日日記を書くことが習慣づいてきたのに加えて、十月半ばからは文フリの原稿を書いていたこともあり、小説を書くということにも気持ちが向いている。日記と同様に文フリの原稿もGoogleドキュメントで書いていたのだが、「2023年秋のバナナ」と題していたそのドキュメントに書き足そうにも、季節はいつの間にか冬になってしまっているため、「2023年冬のバナナ」という新たなドキュメントを作成せざるを得なくなってしまった。バナナについての次の短い話を書こうと思って、なんとなく思った筋が、スチャダラパーの「彼方からの手紙」に似ていると思ったのであらためて聴いたらすごくいい曲だった。というか「彼方からの手紙」が収録されている『WILD FANCY ALLIANCE』全体が、実は僕が志向しているユーモアと感傷の理想的なバランスなのではないかという気もしてきて、とりあえず書こうと思っている話の仮の題名を「バナナからの手紙」とした。

 

11/23

 過ごしやすし! 同居人が朝から友だちと陶芸体験に行ったので、僕はテレビを見たり、仕事をしたり、本を読んだりした。『愚か者同盟』を読み終えた。最後までドタバタコメディでおもしろかったうえに最終頁に至ってはどういうわけか爽やかさを漂わせていてよかった。小賢しい屁理屈ばかりを垂れ流す肥満の主人公・イグネイシャスの姿が、僕のなかではずっと空気階段の鈴木もぐらに重なっていたので、最後も空気階段のコントのように愛を感じられてうれしかったというのもある。読み終えてから外に出て中華定食屋で小ラーメンと麻婆豆腐ご飯のセットを食べ、歩いて隣の駅まで行って本屋で町田康の『告白』を買った。その後陶芸体験から戻ってきた同居人と合流し、どうだったか訊ねたところ、教えてくれる職人さんがけっこう職人気質が強く、違う、そうじゃないです!といわれ続けて一緒に行った友だちはしゅんとなってしまい、同居人は怒られそうになったらすぐに席を立って職人さんのやりたいようにやってもらうという方式をとったところ、最終的に一番きれいな作品になってしまって恥ずかしかったという。上島珈琲に入ってカフェラテを飲んでから『首』を観に行った。

 『首』はざっくりいうと生真面目な明智光秀が不真面目で小賢しい秀吉たちにそそのかされてガキ大将・信長を襲うに至るという話が暴力と笑いをもって描かれるのだが、予告編で感じていたよりも暴力要素は少なく、むしろだらだらとした笑いのほうが多く描かれていて、初期の北野武監督作品にあったようなキレのある緩急とまではいかないものの、暴力と笑いが表裏一体であり、命は等しく儚いものであるという感覚は今回にも貫かれているように感じた。ノリノリの加瀬亮もいいのだが、個人的には西島秀俊がいつもの西島秀俊でしかないのがツボで、「すまん」のいい方は『きのう何食べた?』のシロさんだし、ふと遠くを見つめる姿は『ドライブ・マイ・カー』の家福さんだしで、どの映画においても西島秀俊になる(なってしまう)というようなある種の生真面目さのようなものがまさしく今回の明智光秀という役にぴったりで、ビートたけし大森南朋浅野忠信のおふざけ三人衆にいいくるめられる姿がかわいそうで笑ってしまった。

 そういう映画外の笑いの要素も含みつつ奇妙なバランスで成り立っている映画で、あらすじや予告編からは当然クライマックスになると予想されていた本能寺の変はなんだかあっさり終わり、その後も続く暴力と笑いは上滑りしている感じがあるのだが、これが意図してのことのようにも思えたといったら北野武を擁護しすぎでしょうか。ようするに信長(加瀬亮)がいい放っていたように「人間生まれたときからすべて遊び」という世界観が終盤にかけて強まり、暴力も笑いもすべてが遊びに収束していっていたように思ったのだ。映画冒頭から執拗に描かれる生首の重要性や価値がどんどん下落し、最後には意味なんてないと断言して終わるというのもまさに象徴的だった。昔のようにひりついたキレのある緩急を演出できなくなった北野武が、それならばぜんぶ遊びにしてやろうじゃないのと開き直って作った映画のようにも思えて、個人的には好きだった。観終わって帰ってからはおでんを食べ、日プ女子を見た。

 

11/24

 朝から頭が痛くて仕事を休んだ。午前中は寝て、お昼にはきしたかのパワプロ栄冠ナインプレイ動画をぼんやり見、午後も寝、そのあと仕事を少しして過ごした。あと洗濯もした。いかなるときも洗濯はする。

 

11/25

 朝ゆっくりしながら『ワインズバーグ・オハイオ』を読み進めて読み終わった。ひとが一生に一度どうしようもなく走り出したり叫び出したりする瞬間、あるいはそうしなかった瞬間がいくつも描かれ、それぞれの記憶のなかだけに秘匿されてきた思い出がぽつりぽつりと語られ、その集合がオハイオ州のワインズバーグという架空の小さな町を形作っていくすごい短編集だった。町の人びとの告白の聞き手として複数の短編にまたがって登場する若き新聞記者ジョージ・ウィラードが、ひとに心を開かせるなにかを備えていることは間違いないのだが、それでいて俗っぽいところもあるのがなんともよかった。ジョージ・ウィラードがワインズバーグを去って都市に向かう終章における「身を起してもう一度窓から外を眺めたときには、ワインズバーグの町は見えなくなっており、彼がそこで送ってきた生活は、これからの大人としての夢をその上に描き重ねていくための、ただの背景になってしまっていた。」という締めの一文(短編集全体の締めでもある)が、逆説的に作者アンダソンのワインズバーグへの愛あるまなざしを示しているようで、それもよかった。

 昼前に家を出て、友だちと遊びに行くという同居人を見送り、僕は図書館へ『愚か者同盟』を返却しに。その後渋谷に出て散髪してから『ゴーストワールド』を観た。退屈な町で誰にも理解してもらえないし全員クソだと悪態をつき続ける主人公イーニドの姿はとてもユニークかつ普遍的で、この映画を観るひとなら誰しも共感してしまうようなキャラクターなのだが、そんなふうに安易に共感してしまう僕たちのような輩こそイーニドからすればクソであり、そういう自己言及的な閉塞感とほんの少しの希望をはらんだ終わり方からは、この映画が九十年代~〇〇年代のアメリカのインディーズっぽい感触を持った映画群のなかにおいても特に支持を得ている理由がわかるような気がした。あとはなんといってもダニエル・クロウズの原作が読みたいと思った。何年か前にエイドリアン・トミネのグラフィックノベルを読んで感銘を受けて以来、同じくグラフィックノベルの人気作家だというダニエル・クロウズも読んでみたいと切望している。この『ゴーストワールド』再上映を期に復刊されて手に入りやすくなったりしないですかね。

 映画館を出てからは、来たる月曜日の来日公演に向けてAlex Gを聴きまくりながら歩いた。

 夜は同居人と再集結し、同居人の弟、そして今年大学生になったばかりという従弟と一緒に焼き肉を食べた。特に従弟くんからしたらなぜ知らないおじさんがいるのかという話だったろうが、そんなことはおくびにも出さず、僕ともにこやかに話してくれてよかった。弟くんは何度も会ったことがあるので勝手知ったりという感じだった。初めて会う従弟くんはこれ以上ないほどの好青年で、大学、サークル、バイト、寮生活すべて充実させており、希望に満ち満ちていて眩しかった。あまりにも明るい未来が待ち受けていすぎるので、逆にさいきんなんか悩んでることある?と聞いたところ、うーん、うーん、としばらく眉をひそめた彼がようやく絞り出した答えは、この前実家に帰ろうとしたら現金をぜんぶパスモに入れちゃっていて、新幹線の切符を買うためにわざわざコンビニでお金を下ろすはめになってしまい悲しかった、というもので、僕も同居人も爆笑してしまった。イーニドだったら悪態をついていたであろうが、まじでいい青年なのであまり悪くいわないでほしい。

 

11/26

 家のなかで季節の変化を最も感じられる場所はトイレではなかろうか、と、都内在住で今朝トイレに入ったひと全員が思ったはずである。冬の朝のトイレはとにかく厳しい。

 寒いうえに小雨も降っているとなると出かけることなんてできず、昼頃までだらだらと過ごした。そのまま終日だらだらするという手もあったのだが、これまでの経験上、日曜日の午後というのは家でだらだらしていると爆速で過ぎ去るものなので、一念発起して家を出て近所にお昼を食べに行き、そのまま美術館の無料の展示を見たり、喫茶店に入ったりして過ごした。喫茶店では同居人が今年よかったものをスマホや紙にまとめている間、僕はバーナード・マラマッドの『レンブラントの帽子』(夏葉社)を読んだ。これは昨日渋谷で『ゴーストワールド』を観てから散歩していた折に、奥渋谷の本屋SPBSで本棚に陳列されていたのを買ったのだった。というのもちょうど昨日読み終えて感嘆していた『ワインズバーグ・オハイオ』と翻訳者(小島信夫、浜本武雄)が同じだった(正確には『レンブラントの帽子』にはさらに井上謙治も共訳者として名を連ねている)ため、運命ですやん、と思って買ったのであり、僕だってなにもむやみやたらに本を買っているわけではない。そうやって昨日買って帰った本を今日は読んだ。

 同名の短編集から三つをセレクトして復刊したという本のなかで、さほど親しくない二人のささやかで大きなすれ違いを描いた表題作ももちろんだが、個人的には二つ目の「引出しの中の人間」がよかった。アメリカからソ連に旅行に来たユダヤ系作家の主人公が、タクシーでたまたまユダヤのあいさつを交わした運転手と懇意になる。運転手は実は小説を書き溜めているといい、いまのソ連では出版できそうにないのだが、自分の小説は必ず広く出版されるべきだと信じており、ヨーロッパかアメリカに持っていって出版してもらうよう取り計らってくれないかと主人公に頼む。主人公は出国の際にスパイ疑惑をかけられることを心配して断るが、渡された原稿には確かに素朴な力強さがあり、もしかするとほんとうにいい小説なのかもしれないと逡巡する。そのあとは主人公が悩み続け、タクシー運転手もめげずにお願いし続けたり業を煮やしたりして原稿は二人の間を行き来し、最後には……、という話なのだが、小説の最後にその運転手が書いた短編四つのあらすじを紹介して終わるという構成から、この世界のどこかに誰の目にも触れていないすばらしい小説が無数に存在するかもしれない、と思わせられてじーんときた。

 帰ってきてからは鍋を食べて、『呪術廻戦』のアニメを見た。アニメの表現はすごいと思った。しかしひとがどんどん死ぬのは、〝劇的な展開〟を作るための展開のようにも思える。

 

11/27

 仕事のあと"Alex God"ことAlex Gを見てきました。ルーズさとタイトさが理想的なバランスで噛み合ったライブでした。ほんとうによかったです。

(Sandy) Alex G

 

11/28

 昨日のAlex Gのライブのなにが素晴らしかったかって、インディーっぽいルーズさとバンド演奏のタイトさが共存していたところなんだな。途中で声が枯れちゃって思わず自分でも笑ってしまう姿と、観客に背を向け足を大きく開いてギターをかき鳴らす姿、そんな二つがひとりの人間の姿として連続して現れるんだから、まったくまいっちゃった。音源よりダイナミズムあふれるタイトな演奏を牽引していたのは間違いなくドラマーのひとで、彼が身体全体を揺らしながらこぢんまりと、しかし一音一音力強くドラムを叩き続けることでバンド全体が引き締まっていた。Alex Gはいかにもアメリカのインディーっぽいローファイなノリを引き継ぐアーティストだと思うけど、ルーズであることと未熟であることは違う。ルーズであることとタイトであることは両立する。それは映画でも小説でもいえそうなことだと思う。そんな大切なことを教えてくれたAlex Gとそのバンドに向かって「アレックス・ゴッド!」とかけ声を発していたひとがいたのも無理はない。ところで今日は仕事を終えてから同居人と五反田のTSUTAYAに行って、『アウトレイジ』を借りて帰った。『首』を観たから『アウトレイジ』も観返さない手はないと思ったのだ。『アウトレイジ』の頃のたけしには凄みがあって、やはり『首』はその凄みを失ったいまの彼がいまの方法で作った映画だったのだと再確認した。俳優としての凄み、監督としてのキレはもうないかもしれないが、それならばそれで、「すべて遊び」の映画を作ることはできる。いまできることをやる。Alex Gさん、北野武さん、大切なことを教えてくださりありがとうございます。

 

11/29

 Alex Gのライブについて「インディーっぽいルーズさとバンド演奏のタイトさが共存していた」というふうに書いたけど、「ルーズさ」というのはともかく、「タイトさ」という表現がそぐわしいのかどうかはわからない。しかし一昨日Spotify O-EASTでライブを見ながら僕は確かに「タイトだな」と感じたのであり、そうである以上、いちおうこのまま「タイトさ」という言葉を使う形で進めさせていただくべきだろう。

 タイトであるということはようするに引き締まっているということだ。これが技術的熟練を意味しているかというと、もちろんある程度の相関関係はあるだろうが、それだけではない。演奏が下手でもタイトに聞こえるということはあり得る。だって一昨日のAlex Gも、べつに下手というわけではないにしろ、既に書いたとおりインディーっぽいルーズさを持ち合わせていたのであり、それでも「タイトだな」と感じたということは、これは演奏の聞こえ方の話だけでなくて態度の話も含んでいるということなのではないかと思う。思い返してみれば同じくこの十一月に見に行ったYo La Tengoのライブも多分にルーズさを含んでいたにもかかわらず、同時にタイトでもあった。これについては僕自身が十一月十日の日記にて

「どんなにギターを弾きぐるい、みずみずしくて美しいノイズを鳴らしても、間奏が終わればすっとマイクの前に戻る。職業としてのインディーズバンド、職業としてのヨ・ラ・テンゴ。」

 と書いていて、これを「プロ意識」なんてふうに呼ぶとどうも仕事論みたいな方向性に行ってしまうような気もするので、やはり単語にするとしたら「タイトさ」なのだ。ライブがタイトであることは素晴らしい。ライブは一回一回が一回きりのものであり、演奏するひととそれを聞くひとがその日ライブ会場に集まって相互に作用しながら一体となって作り上げていくものであるがゆえに、ルーズであり同時にタイトであるという事態がいくらでも起こり得る。

 いっぽうでたとえば映画になると、一回一回の上映は一回きりで、その日映画館のスクリーンの前に集まったひとたちに向けて上映されるという一回性のようなものはライブと同じではあるけれど、ライブと決定的に違うのは、映画というものが既に撮影され編集され完成されたものとして上映されるという点であり、これが観客の目にタイトなものとして映るためには、映画そのものにタイトさが内包されていなければならない。ここで思い浮かぶのは、僕が今年最も好きだった旧作映画である『メーヌ・オセアン』のことだ。あの映画って、話の内容自体は間違いなくルーズでグダグダだ。でもただルーズでグダグダなだけの二時間超の映画なんて観ていられない。ルーズでグダグダなのにだれることなくずっと楽しめたのは、やはりあの映画がタイトだったからだと思う。そのタイトさが何によってもたらされていたのかといえばなにより編集だ。ルーズでグダグダなように思えた物語は、さりげない省略や小気味よい転換によってそう思わされていたのであり、その裏にはタイトな編集があった。Alex Gのライブにおいて、身体全体を揺らしながら力強くドラムを叩き続けるドラマーの彼がバンド全体の演奏のタイトさを牽引していたのと同じように。……そんなふうに無理やりAlex Gの話に戻してみたところで、「タイトさ」という単語がだんだんあいまいで概念的なものになってきていることは否めず、僕がライブで「タイトだな」と感じたときのもうちょっと具体的な感覚とはずれてきてしまっているような気もするので、この話はここでやめて、今日のことを書いて終わろう。

 今日は仕事を終えてから同居人と集合し、漫画や小説を買って帰った。帰路にも鼻をすすっていた同居人だが、家についてからはいよいよずびずびになってしまい、「顔面を取り替えたい」と嘆きながらベッドに入っていった。僕が寄り道して帰りたい素振りを見せたせいで寒いなか歩いたというのもあったので、申し訳ないことをしたと思った。しばらくしてから、無事に寝られたか確認しようと思って顔にかかっていた布団をちらっとめくったところ、まだ起きてスマホを見ており、申し訳ないけど少しだけ笑ってしまった。──というのが今日のことである。

 

11/30

 寒すぎ!