バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

お引越し!

 引っ越しをした。

 長いアーケードのある町か、中央線沿いに住んでみたかった。おそらくいろんなものからうっすら影響を受けてそのふたつに憧れがあった。友だちがひとり暮らしを始めるにあたって阿佐ヶ谷を検討しているというのでついていった。阿佐ヶ谷にはとんでもなく長いアーケードがあり、かつ中央線沿いだった。正解の町だ、と思った。正解の町じゃん、と友だちもいっていた。友だちは正解の町に住むことを決めた。僕はけっきょく正解の町には住まず、もともと住んでいたところの近くに引っ越した。けっきょく怖気づいてしまったのだった。正解の町に引っ越すには僕はまだ若すぎたようだった。それとも遅すぎたのだろうか。

 築五十年超のところから築二十年のところへと引っ越した。昭和から平成へと時代は流れた。築二十年のところもけっして新しい!という感じではなかったけれど、少なくとも水回りははるかにきれいになった。築五十年超のところでは僕たちは照明をつけずにお風呂に入っていた。築二十年のところでは照明をつけてお風呂に入ることができそうだった。そもそも照明をつけなければ真っ暗でとても入れそうになかった。その点でいうと、築五十年のところでは風呂場に窓があり、照明をつけずとも外からの光でお風呂に入ることができていた。風呂場がきれいじゃないからという理由でそうしていたにせよ、外から差し込んでくるぼんやりした光のなか、ラジオを流しながら狭い湯船に浸かっている時間は好きだった。尊い、とすら思っていた。築五十年のところには築五十年のところなりの尊さがあった。夕方になると西日が窓から差し込んで、玄関横の壁を強烈な橙色に照らした。ベランダから見える向こうの家がなんとなくアメリカの郊外の家のようで、Yo La Tengoがよく似合った。雨の日、階段が図書館のようなにおいになって好きだった。住んでみてわかる尊さがあった。今度の築二十年の家にも尊さがあるのだろうか。いまのところ、ベランダに出たときの月明かりが、築五十年のところよりも明るい気がしていいなと思っている。月明かりは驚くほど明るい。ベランダに手すりの影が落ちている。

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西日

 

 築二十年のところでM-1を見た。築五十年のところで見たM-1もおもしろかったけれど、築二十年のところで見るM-1もおもしろかった。築年数に関わらずM-1はおもしろくていいですね。

 個人的に好きだった決勝ネタは、ランジャタイとモグライダーと錦鯉(二本目)でした。三組とも、四分間のネタ中に一貫して野性が噴出しているように見えて、実はかなり知性的に組み立てられたネタだと思いました。そういう漫才が僕は好きだと思ったし、審査もなんとなく野性のおもしろさを高く評価する傾向があったような気がしました。

 漫才というのは知性と野性のバランスだと思います。

 知性というのは、どこに笑いどころを持ってくるか=なにをおもしろいとするか、あるいは、笑いどころに持ってゆくためになにを前提とするか、ということ。これまでのすべての漫才師の、すべての漫才によって形作られたもの。そのなかには漫才における前提のようなものも含まれるだろうし、そのうえでそれを裏切ることも許される。たとえば、漫才においては、「ウィーン」といいながら両手を開けることはコンビニに入店することを示すし、それを踏まえたうえで、「いや少年合唱団かよ!」とボケツッコミをすることも、まったく脈絡なくどこかの宮殿や宇宙ステーションに入っちゃうこともできる。そしてそのどれもが即座に観客にも伝わる。これまでのあらゆるネタのなかから好きなように切り取って、フリに使うことができる。それが漫才における知性だと思います。

 漫才における野性というのは、身体のこと。ツッコミのひとがボケのひとの頭を叩いていい音がするとか、床に転げまわるとか、ツッコミのひとの声がいいとか、思わぬミスがウケるとか、ネタ中に五時の鐘が鳴ってウケるとか、そういう、漫才師自身にまつわることや、ネタ中の偶然がもたらすものを、僕は漫才における野性と呼んでいます。そしてさっきも書いたように、漫才というのは知性と野性のバランスだと思っています。

 今回のM-1決勝でいうと、たとえばモグライダーは、ともしげさんがまごついたりミスしたり成功したりする、そういう野性=偶然性・身体性をあらかじめネタのなかに織り込んであるすごく知性的なネタだし、かつ、それを受ける芝さんの佇まい、声、言葉選びやタイミング、すべての野性にぞくぞくさせられました。ランジャタイはなにをおもしろいとするかが非常に練られているようで、圧倒的に身体が重要なネタでした。錦鯉は、バカなひとが一貫してバカなことを繰り返す、というまさに知性と野性がくっついたようなネタで、バカを極めた先の美しさに涙しました。三組とも知性的なネタだけど、表出しているのは圧倒的に野性のほうでした。(逆に、野性の裏に知性がちらついてしまうと個人的にはそこまでウケることができなかったかもしれません。インディアンスはおもしろいけどボケ数を増やすべくして増やすようにきちんと作ったネタだという感じがちらついてしまう。作られた野性というか。ゆにばーすもそうかも。ハライチは、いちファンとして、ああこれやりたかったんだろうなあ、という感慨はあったけど、新ネタなだけあって、岩井の転げまわり方や発声が未成熟だった感じがありました。むしろ真空ジェシカみたいに知性でぐいぐい引っ張ってくれるとすごくおもしろい*1。すみません、ぜんぶめちゃくちゃ偉そうにいってます。)

 なにがおもしろいか、なにをおもしろいとするか、というのはものすごく複雑になってきている気がします。去年マヂカルラブリーが優勝したのも大きいのかしら。漫才師たちはこれまでのネタをフリにしながらその裏をかかなければならないし、裏の裏とか、裏の裏の裏とか、逆に表とか、いろんな方向に自分たちのネタを持っていかなければならない。漫才における知性がどんどん複雑化するしていく一方で、漫才における野性というのはけっこうずっと単純で、僕たちはけっきょく大きな声を出されると笑っちゃうし、天然ボケに笑っちゃうし、おじさんが寝転がっていると笑っちゃう。繊細に積み上げた知性を、巨大な野性が蹂躙していく。それが漫才のよさだとも思います。そしてそれをさらに超える、時代を変えるほどの知性が出てくるのもまたおもしろい。

 僕は自分でも漫才の台本とか書いてみようかなと思っていましたが、けっきょく漫才ってやらなければなにもわからないな、ということを実感させられたM-1でした。ということは僕は漫才の台本を書くだけでは意味がないし、いや、意味はあるかもしれないけど、でもやっぱりやらなければひとを揺らすほど笑わせることはできないし、やるためにはM-1に出たほうがいいのかしら……、別にM-1じゃなくてもいいのかもしれないけど、きっかけとしてもっともわかりやすい。僕のなかにどういう野性があるのかということを知るためにも……。まあまずは書いてみることですね。

*1:ちなみに個人的にM-1後もよくYouTubeでネタを見ているのは真空ジェシカモグライダーです。真空ジェシカはやっぱり知性のネタだという感じが強い。前提知識として想定されているものの多さ、そこからさらに崩すボケとツッコミ。まさにYouTubeで見たい感じの漫才です。