バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

熊は語る

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 熊のぬいぐるみが僕のほうを見ている。確実に目が合っている。

 彼ら彼女らの目なんてプラスチックに過ぎないのだから、実際に「目が合っている」なんてことがないことは少し考えればわかるのだけれど、しかしいまこうやって「目が合っている」と感じている僕がいて、いろんな角度から検証してみたところやはり熊は僕を見ているとしか思えず、そうとしか思えない以上、やはり目は合っているのだろう。熊は僕を見つめ、僕もやはり熊を見つめていて、部屋には僕の呼吸の音だけが響いている。熊の呼吸の音はしない。熊は息を止めて、ただじっと僕を見つめている。熊はおそらく僕に何か言おうとしているのだろう。何か言おうとしているのが目から伝わってきて、わかる。人間相手でもわからなかったようなことが、この熊相手だとわかる。熊には口がないので、実際に音としての言葉を発することができない。その代わりにプラスチックの目で語る。おそらく熊は、
 おいおい、この熊のことを忘れたってのかい
 なんてことを言おうとしている。
 それとも、
 こんばんは、熊です、お久しぶりです
 と、まずはあいさつから始めているかもしれない。
 あるいは、
 さて、それではいまから、この熊があなたの部屋のクローゼットで過ごした20年間の話をしましょうか
 なんてふうに、恨めしげな語り部となっているのかもしれない。
 僕はプラスチックの目から精一杯読み取ろうとするが、熊が何を言おうとしているのか、正確にはわからない。僕は熊が言っていることを推測し、できるだけ会話が成立するように返事をする。僕の本物の目は、熊のプラスチックの目ほどには物を語らないので、僕は目ではなく口で返事をする。
 すみません、お久しぶりです、ご無沙汰していました、クローゼットに放りっぱなしにしてしまっていたみたいでどうもすみません、20年間とおっしゃられましたでしょうか、ずいぶん長い間閉じ込めてしまっていたみたいです、どうもすみません、しかしあれですね、20年前というと、僕もほんの子どもですね、その頃の僕はあなたと遊んでいたのでしょうか、どうも思い出せないのです、すみません、あなたとは初めて会ったという気がしています、20年前、僕とあなたは仲がよかったのでしょうか
 部屋には僕の発する言葉と呼吸の音だけが響いている。熊のプラスチックの目には僕がしゃべる姿が広角で映し出されている。
 熊は少し考えるような様子を見せてから言う。
 この熊も覚えていないのですよ、ただただ20年間クローゼットで過ごした記憶だけがあり、その前、あなたと遊んだ記憶はない、だからこの熊をクローゼットに閉じ込めたのがあなただとは限らないんですが、しかしこうやって20年後出てきたところがあなたのクローゼットだった以上、あなたが閉じ込めたと考えるのが自然なんです
 僕は頷いて言う。
 なるほどなるほど、僕も同意です、たぶん20年前にあなたをクローゼットに閉じ込めたのは僕なのでしょうし、それまであなたと僕は遊んでいたのでしょう、すみません、そしてそうですね、おそらくあなたと僕はこんなふうに遊んでいたはずです


 *


 熊と僕はおそらくこんなふうに遊んでいたはずだ。

 熊が現れたのは僕が4歳の頃のことだ。4歳の頃というと僕の弟が生まれた時期でもあるのだけれど、熊はおそらく、弟の誕生より少し前に僕の部屋に現れていたはずだ。熊が現れた日、家の中に赤ん坊の泣き声はなかった。
 熊はおとなしかった。熊のほうから僕に向けて何かしらのコミュニケーションを取ってくることはなかったし、僕のほうも、この初めて目にする生きものに興味こそあれ、遠巻きに観察することしかできなかった。熊は床の上に寝転がり、呼吸の音さえ立てることなく、ただただ虚空を見つめていた。
 熊はしかし、ただただ虚空を見ていたのではなかった。僕がようやくそのことに気がついたのは、熊が部屋に現れてから3日目のことだった。冒険心と警戒心の折衷案として、ほふく前進でそろりそろりと近づき、おもむろにその真っ黒な目を覗きこめば、その目もまっすぐこちらを見つめていた。その目には、4歳の僕が知っている限りのどんな感情も込められていなかった。ただただ何か言いたそうな目だった。熊はこの部屋に現れてからずっと、おそらく夜のあいだも絶え間なく、何か言いたげに僕のほうを見ていたのだろう。そしてそのとき熊は、あろうことか、しゃべった。
 よろしくお願いします
 目を大きく見開くだけにとどめた僕は褒められるべきだろう。冒険心と警戒心の結晶として、僕は悲鳴をぐっとこらえた。部屋は静かなままだった。熊は実際に声を発したのではなさそうだった。熊には口がなかった。熊は目で語りかけてきたのだった。4歳の僕にとって、それは初めての経験だった。何か特殊なことが起きているのはなんとなくわかった。僕の小さな世界が大きく揺らいでいた。この揺らぎがどちらに転ぶのか、そんなことを考えるまでもなく僕は応えていた。
 こちらこそ
 これが、僕と僕の秘密の友だちとの最

 

 いや、違いますね
 と、熊が言う。唐突に割り込まれて、僕の話はとたんに輪郭を失う。熊は続ける。
 まったく、ぜんぜん違いますよ、『E.T.』じゃあるまいし、感傷が過ぎますよ、大人が作った子どもの話って感じです、この熊をそんな話に使ってほしくないですね、勝手なノスタルジーを投影しないでください、最悪ですよ、やめです、もうやめにしましょう

 こんなに説教されるのは久しぶりで、さすが熊だな、と僕は思う。強く、かしこい生きものだ。