バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

伸るか反るか

 ノルカソルカ、やぶれかぶれ、はみ出しおパンツ、茄子のトルネード、デニデニデニム、犯人はGt. & Vo.、ゲーミング戦艦、バイオテニス、灼熱又五郎、じゃあお前がやれよ、ホーリーシッツ、マクソン、ギヴミーキスィーズ、おれにいわせれば、残忍豆腐、ミディアムレアメタル、サノスの小指、すれちがって夏、偽ホムンクルス、わからんでもナイン、ベースケ、ふんばりどころ、味噌派、生まれてバリカタ、ふれくしぼう、ナイトスイミング、そんなふうに架空の漫才コンビの名前を思い浮かべながら僕は手を動かしていた。手を動かしているというよりは手が動いているに近かった。僕が架空の漫才コンビの名前を思い浮かべていくあいだ、手は僕とは関係なく動いていた。でもそれは間違いなく僕の手で、それが僕の手だということを思い出したとたん、手はとても重く感じられてしまうのだった。重くなった手を、僕は思わず止めてしまった。ちょうどその瞬間、監督が僕のほうを見ていた。監督はどうしてかいつもタイミングよく僕のほうに目を向ける。それは僕にとってはタイミングが悪いということだ。僕はいつもそんなに長く手を止めているわけではなく、長くても10秒ほどなので、監督が怒鳴るのは少し理不尽だと感じる。けれど、たしかに僕は手を止めてしまっているので、それを見た監督が怒るのも無理はないとも思う。ただ、怒鳴らなくたって聞こえるので、怒鳴らなくたっていいのではないかとも思う。いまも監督は怒鳴ろうとしていた。監督は怒鳴るとき下唇を震わせる。よく目をこらせば、という言葉では収まらないほど、それは大きく前後に震える。だから監督が怒鳴ろうとするとすぐにわかる。手ぇ、動かせ、と監督が怒鳴るのと、手ぇ、動かします、と僕が叫ぶのとが重なった。僕は手ぇを動かした。手が重いのではなく、手に持っているスコップが重かった。なんで手ぇ止めとるんじゃ、と監督が追加で怒鳴ってきた。監督は別に関西のひとというわけではないのに、関西のひとみたいに怒鳴る。もう手ぇ動かしてるんだから、怒鳴らないでほしい、と僕は思った。周りのひとが手を動かしながらこちらをうかがっていた。僕が怒鳴られているとき、彼らはこちらをうかがい見る。僕が怒鳴られるのはいつものことなのだから、そんなに毎回見なくてもいいのに、と僕は思う。監督の怒鳴り方だっていつも同じなのだから。監督はもう怒鳴ってこなかった。監督はすでに違うほうを向いていた。監督はいつも2回怒鳴って、2回目の僕の応答を聞く前にはすでに違うほうを向いている。2回、というバランスがうまい、と僕は思う。もちろんできることなら0回に抑えてほしいけれど、怒鳴るにしても2回で済ますのは監督のうまいところだ。あともうひとつ、監督は誰に対しても平等に怒鳴るからうまいと思う。上のひとが視察に来ても、監督は、邪魔じゃボケカス、と怒鳴る。帰れナスが、と怒鳴る。上のひとにも怒鳴るのは、度胸があるというより、仕事なんてどうでもいいと思っているからだと僕は思う。監督は監督じゃなくさせられようがまったく構わないのだろうと思う。そういう顔をしている。だから上のひとにも平気で怒鳴るし、それを見てみんな、監督はすごい、と感嘆する。そんなみんなの様子を見て、上のひとも監督のことを骨太で人望のある現場リーダーだと評価する。そういうところがうまいと思う。でも当の本人は仕事なんてどうでもいいと思っている。

 僕は監督に怒鳴られる前から掘っていた穴を完成させて、次の穴に取りかかった。こんな穴掘ってどうするんだ、と投げやりになるフェーズと、せっかく掘るのだから完成度の高いものを、とやる気の漲るフェーズがあり、いまは後者だった。目の前のひとつひとつの穴としっかり向き合って、完璧に近いものを仕上げたかった。なんのための穴なのか僕たちは知らされていない。監督は知らされているのかいないのか、その表情からは読みとれない。監督の表情からは、もっぱら仕事なんてどうでもいいと思っていることしか読みとれない。なんのためかはわからないけれど、やるなら僕の本気を注ぎたいといまは思いながら、僕はスコップを動かした。とはいえこれは単純作業すぎる。どうしても飽きてきてしまい、周りの進捗が気になったり、グラウンドの向こうの金網と竹藪とその上の薄い色をした空に気を取られてしまったりする。集中して完璧を目指したいと思う気持ちと、単純作業に飽きてついつい他のことに気を取られてしまう気持ちは両立する。全力を注ぎたいのに飽きてくる。だから僕は頭のなかで目の前の穴とはまったく関係のないことを考えながら手を動かし続けなければならない。そうしているうちに頭のなかでなにかを考えるということと手をひたすら動かし続けるということが分離する。手は僕とは関係のないところで動き続けることになる。架空の漫才コンビの名前を思い浮かべていくのは5日前からやっていることだった。なかなかいい考えごとだった。どこで身につけたか、僕は架空のコンビ名をすらすら並べていくことができた。僕はコンビ名を次々と思い浮かべることに集中できた。僕が架空のコンビを次々に登場させているあいだ、僕の手は次々に穴を完成させていった。この5日間、監督に怒鳴られる回数も減っていた。架空のコンビ名を30個近く並べていって、そうやって頭のなかに並んだコンビ名を、今度はひとつひとつ精査していくのだった。茄子のトルネードは漫才コンビというよりはラジオネームっぽい響きだと思った。マクソンは角度のついたボケにストレートなツッコミがテンポよく被さる漫才をしそうだと思った。サノスの小指は3年で解散しそうだと思った。味噌派はいかにも新進気鋭っぽいと思った。そんなふうに僕は精査していった。別に精査してどうなるということもないけれど、僕は精査した。精査、という単語の響きのなかにはどこか真剣みが感じられて好きだった。

 僕が精査しているうちに、僕の手はまたひとつ穴を完成させていた。たぶん明日はまたここに来てこの穴を埋めなきゃいけなくなるはずだった。明日は雨の予報だった。雨が降ると僕たちは穴を元どおりにしなければならない。元どおりにせな危ないやんか、と監督は言う。監督の言うことももっともだ、と僕は思う。穴は上から見た印象よりずっと深くてたしかに危ない。けれど、別に雨だろうが晴れだろうが変わらず危ないのではないか、と僕は思う。雨の予報が出ていて、どうせ次の日に元に戻すのなら、その前日にわざわざ穴を掘らなくてもいいのではないか、とも思う。でも、なんのための穴なのかということも知らない僕がそんなことを考えたところでどうにもならない。雨の予報が出ていようが、僕は穴を掘るしかなく、いざ雨が降ったら元どおりにするしかない。現場というのはそういうふうに動くもんや、と監督は言う。明日は昼ごろから雨が降るらしかった。雨が降りはじめたら監督から電話がかかってきて、穴戻すから集合や、と告げられるはずだった。たまに、雨が降っても監督から召集がかからないことがある。それは雨の強弱には関係なく、監督の気まぐれとしか思えない。同じ雨でも召集がかかったりかからなかったりする、その一貫性のなさが気になるところではあるけれど、集合しなくて済むのは単純にうれしい。召集がかかったらもちろん行くけれど、かからなかったら僕は喜んで休む。当日召集がかかるかかからないかは、当日になってみないとわからない。明日召集がかかるかかからないかは、明日になってみないとわからなかった。わからないから、とりあえずいつでも行けるように準備をする必要がある。でも、それは明日考えればいいことだった。いまの僕はただ目の前の穴ひとつひとつに集中すればよかった。残忍豆腐は漫才とコントの二刀流で、なおかつ漫才をやるときはぜったいにコント漫才にはしないという厳格なルールを持っていそうだと思った。バイオテニスは超ハイテンションダブルボケ漫才でブレイクしたが、そのうちテンションはそのままにダブルツッコミに移行し独自の高みに達していそうだと思った。僕の手がまたひとつ穴を完成させていた。それを監督が見ていた。きみ、手ぇ止めてさえなければ、穴作るのほんまにうまいよな、とあたたかく声をかけてくれた。監督がそんなふうにひとのことを褒めるのをみたことがなかった。僕はとても驚いて思わず手を止めてしまった。けれど監督は怒鳴ることなく、手ぇ、とやさしく笑いながら注意してくれた。

 監督は僕と漫才コンビを組みたいのだろうか、と僕は考えた。いつも怒鳴る監督がいきなりこんなやさしい一面を見せてくるなんて、僕と漫才コンビを組みたいからのような気がしてならなかった。お笑いでいうところの緊張と緩和の手法だった。関西のひとでもない監督がいつも関西のひとのようなしゃべり方をするのも、関西の漫才に憧れているからだと思えば納得できた。いまどきそんなふうに怒鳴るひとも少ないし、関東にだっていい漫才コンビはたくさんいるということを教えてあげたかった。けれど、僕のつまらない指摘で監督の憧れを害するのも野暮かもしれないと思いなおした。監督が関西のひとみたいなしゃべり方で怒鳴るタイプのツッコミをやりたいのなら、僕はそれに合わせてアホなボケをやればいいのだった。僕は僕でほんとうは関東のしっとりしていて角度のついた漫才をやりたいけれど、それはそのうちふたりで相談してそういうネタも作っていけばいいのだった。いまはまず単純に監督と漫才コンビを組めることを喜べばよかった。実際、僕は喜んでいた。僕も監督と漫才コンビを組みたかったのだと僕は気づいた。誰かと漫才コンビを組みたいだなんて思うのははじめてだった。そんなふうにはじめて思えたことがうれしかったし、その相手が監督だということもうれしかった。自分でも意外だったし、監督が僕と組みたがるのも意外だった。僕がもともと穴を作る仕事をしてて、このひとがその現場の監督だったんですよ、なんてふうにテレビのトーク番組の収録で僕が話しているところを僕は思い浮かべた。それともその話をするのは監督のほうかもしれなかった。こいつが穴を作るスタッフで、俺がそこの監督だったんですよ、と監督が話しているのを想像してみて、そうだ、やっぱりこっちだ、と僕は思った。Wikipediaの略歴のところに、僕が監督を誘って結成、と、監督が僕を誘って結成、と、どちらで書いてあったほうがいいか想像してみて、監督が僕を誘って結成のほうがしっくりくると僕は思った。そうやって将来のトーク番組ベースで、あるいは将来のWikipediaベースで、コンビのことを考えていくのは楽しかった。監督と僕は結成4年目にM-1の3回戦、5年目に準々決勝まで行くはずだし、次の年にはABCお笑いグランプリで決勝進出、しかしM-1は2回戦で敗退するはずだった。同じ年、ラジオ番組がスタートした。しかし僕は僕たちのコンビの名前を考えていなかったので、そのラジオ番組の名前も考えることができなかった。僕は僕たちがいずれ持つ冠番組の名前も考えることができなかった。そうやって僕が行き詰まっているあいだにも、僕の手はさらにもうひとつ穴を完成させているのだった。

 やがて終業時刻を迎え、僕は帰る準備をするふりをしながら、監督のほうから話しかけてくれるのを待った。監督は来なかった。監督は終業と同時に帰ってしまったようだった。監督はいつも帰るのが早い。次の日は予報どおり雨が降った。監督は僕を招集しなかった。監督の気まぐれが発動したようだった。それも並みの気まぐれではなかった。その雨の日、監督は監督をやめたのだった。あとで他のスタッフから聞いた。監督……