バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

わたしとケンタウロス

 雨がざあざあ降る金曜日、雫は「雨って大嫌い」と言い放つ。もちろん、実際にそう思っているわけじゃない。雨の降る日に家のなかから外を眺めるのは好きだし、耳をすませば、ベランダの鉄の手すりや、アパートの下の植木の葉の一枚一枚に、雨粒が当たる音がひとつひとつ聞き分けられるようでとても楽しい。雨のにおいも好きだ。雫、という名前だって、雨の仲間みたいなものだし。でもその金曜日の午後、雫はむしゃくしゃしている。ぶっきらぼうに、偽悪的に、「雨って大嫌い」と言い放つ。それを傍らで聖司が聞いている。聖司は、雫がほんとうは雨が好きなのを知っている。雨が降るたびに、雫が興奮ぎみに「雨、雨だよ、聖司」とささやきかけてくるのをいつも傍らで聞いているし、ときには聖司の録音マイクを勝手に持ち出して雨の音を収録しているのも見ている。聖司のパソコンのなかの「shizuku」というフォルダには、雫が収録した雨音のMP3ファイルが少しずつたまって、そろそろ20になる。聖司は雫が眠りについたあと、ときどきそれらのファイルを再生している。イヤホンを通じて、雨音は最初、とても匿名的に聞こえる。聖司は、それを録音していたときの雫の様子を思い出す。目を閉じて窓の外へと右手を伸ばす雫の姿を、すると、イヤホンのなかの雨音は徐々に、ベランダの手すりや植木の葉の一枚一枚にぶつかって弾ける現実の雨粒と結びつきはじめる。目をつぶると、雨の日にこの部屋から聞こえる雨音が、そして世界が立ち上がってくる。聖司がとても好きな瞬間だ。もしかしたら雫よりもむしろ僕のほうが雨を好きなのかもしれない、と聖司は思っている。雨が好きだから、ときに雨なんて大嫌いだと言い放ちたくなる気持ちも、聖司にはわかる。

 

 

 こういう仕事をしていると、この世にはほんとうにいろんなひとがいるんだということを自分の肌で感じることになる。この世、というか、ここはあの世なのだけれど。

 俺はね、ケンタウロスだったんすよ、とそのひとは言う。そのひとの身体の下半分は、ここにやって来る他のひとと同じくやはり霞になっていて、そのひとが自称する生きものの特徴であるところの四本足は見えない。

 ケンタウロス、あるいはケンタウロスを自称するひとに会うのは初めてのことだったので、わたしは面食らう。少し遅れて、そうですか、と答える。ケンタウロスを自称するそのひとは、わたしのとまどいを見てとり、そうですよねえ、と顔をしかめる。

 そうなんすよ、この姿になっちゃうと、ケンタウロスですってったって信じてもらえないんです。

 いえ、信じていないというわけではなくて、ただ、わたしが個人的にケンタウロスにお会いするのが初めてだったもので、とわたしはしどろもどろになる。

 いや、信じてもらえないのも無理はないです、そもそもケンタウロスってものが存在すると思ってるひとが少ない、っていうかもっと言えば、存在するしないの議論にすらなってないですもんね、それが、こんな姿のやつに俺ケンタウロスだったんですなんて言われても、そりゃあとまどいますよね。

 そのひとは間を埋めるかのように早口で話す。これまで何回もそうしてきたのだろうそのひとを、必ず成仏させたいとわたしは強く思う。

 

 

 しばらくふたりとも黙ったあとに、「ケンタウロスの幽霊って、やっぱり他の幽霊と同じで下半身ないのかな」と私は言う。

「どうしたの出し抜けに」と雫ちゃんが応える。

 出し抜けに、なんていう言葉がとっさに出せるのは、私の友だちでも雫ちゃんくらいだ。

「ほら、幽霊って下半身がないじゃん」

「でも、幽霊が下半身ないとは限らないんじゃない。日本流はそうかもしれないけどさ」

「そう、そうなんだけど、仮にそうとして、ね」

「そうとして、ね」

「そうだとすると、いくらケンタウロスが4本足だっていったってわかんないよね、ないんだから」

「下半身見えてないんだったら、確かめようがないってこと」

「そうそう」

「そうか、たしかにね、でもそれって、ケンタウロスにとってはけっこう悲しいことだね」

「悲しいの」

「そう、だってさ、ケンタウロスがいくら自分はケンタウロスだっていったって、相手にはわからないってことだしさ」

 雫ちゃんは、会ったことのない、存在するのかどうかすら分からないケンタウロスの抱える悲しさにも想いを馳せることができる。私は雫ちゃんのこういうところが好きで、だから今回も、ああ、好きだよ、と思う。そして私までなんだかケンタウロスの悲しさが伝わってきてしまう。「そうか、悲しいね」

「でもまあ、あれかもね、ケンタウロスのつなぎ目の部分ってどうなってるか知らないけど、もしかしたら、下半身は消えてても、つなぎ目の部分がぎりぎり見えるかもね」

「おお、毛とかね」

「そう、毛とか」

「おお、じゃあもしケンタウロスの幽霊に出会ったら消えかけの部分をよく見たほうがいいね」

「そう、でも、あんまりじっくり見ると失礼かも」と雫ちゃんは真面目な調子で言って、そのあとぷっと吹き出す。

 私もつられて笑う。

 でも、この会話はここで終わる。雫ちゃんと私、昔はもっと話すことがあったような気がするのだけれど、さいきんではこんなことばかり話している気がする。

 

 

 その年、ケンタウロスたちがはじめてオリンピックに出場する。ケンタウロス男女別100m走、200m走、400m走、10000m走、走り幅跳び三段跳び陸上競技のみ、しかも限られた種目でしかなかったが、ケンタウロスたちにとっての悲願のひとつが達成される。ケンタウロス男子100m走・200m走・300m走の三冠を達成したイタリアのジョヴァンニ・ドローゴ選手は、優勝スピーチで「我々にとっては小さな一歩に過ぎない」と述べ、人びとはそれが感動のスピーチなのか、それともケンタウロス流のジョークなのか判断しかねる。ナイキがこのスピーチの瞬間を使用したCMを制作する。しかし、ケンタウロスたちがエア・ジョーダン1を履くことはない。

 

 

 いつのまにか雫はケンタウロスのことばかり考えている。おととい、夕子とケンタウロスの話をしたからだ。雫は聖司にもケンタウロスの幽霊のことを話す。聖司は「なんか思考実験っぽいね」という。シュレーディンガーの猫、胡蝶の夢ケンタウロスの幽霊。そう言われるとたしかになんだかそんな気はするけれど、雫はそういうことが言いたかったわけではない。「そういうことが言いたかったわけじゃないか」と聖司も言う。雫がそういうことを言いたかったわけではないことくらいは聖司にもわかる。でも、じゃあ何が言いたかったのだろう、と聖司は思う。どうしてケンタウロス?と聖司は思う。「どうしてケンタウロス?」と聖司は訊く。「わからない」と雫は言う。雫にはわからない。たぶん夕子にもわからない。