日記(ひとり暮らし掌編2)

「一般的に、何ごとにも終わりがあるということが知られているが、唯一、皿洗いには終わりがない。」(『一人暮し大全』(1969)p.42より)

 

 

 「皿洗いには終わりがない」って、ふふ、それはさすがに言いすぎだと思うけど、でもほとんどそんな感じはする。油をたんと使って料理をしたあとの洗いものなんて、これほんとうに終わんないんじゃないのって気がする。まあ結局そのうち終わるんだけどね。これ徹夜しても終わんないんじゃないのって思ってた皿洗いも、結局10分かそこらで終わっちゃうんだよね。これって、山登ってるときの感覚にちょっと近いのかなって思う。わたしは山登りなんてしないけど、山登りよくするひとが言ってた。最初はめちゃくちゃ遠くてあんなところぜったい無理っしょと思ってた遠くの景色のなかにいつの間にか自分が立ってる感覚がマジでパネえって。パネえってなんなのって話だよね。

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 投票に行った帰り、コンビニでコンドームとそうめんを買った。そういうアンバランスなことをするのがかっこいいかなと思ったから。電線にカラスが5羽もとまっていた。

 

 

「扇風機の首振りをちょうどいいところで止めるために待っている5秒間。カップ麺にお湯を注いでから箸をつけるまでの90秒間。そういう時間が積み重なって、人生になる。」(『一人暮し大全』(1969)p.368より)

 

 

 夕方に銭湯に行ってから、なるべく汗をかかないよう、細心の注意をはらって帰宅。

 

 

「料金を払わないと、電気は本当に止まる。」(『一人暮し大全』(1969)p.157より)

 

 

 今年は本を読むことが多くて、それは僕のなかでなんとなくいま読書がアツいということなのだけれど、でも本を読むことが多いからといって、別に読んだ本の数が特別多いというわけではない。ただ、たしかにここ何年かではいちばん、意識的に読書に力を入れている。いろんな本を読みたいと思っている。いつか読んだほうがいいかなと思っていた『白鯨』も買ったし、蓮實重彦の『監督 小津安二郎』を、小津映画を特に観なおすことなく読んだらおもしろいかな、と思って本棚にスタンバイさせているけれど、いずれもまだ読んでいない。ただ、読みたいという気持ちは強く持っている。

 ここ10日くらいは保坂和志の『カンバセイション・ピース』を読んでいた。たとえるならば、"ヒト版『吾輩は猫である』"といったような感触の小説。『吾輩は猫である』だってヒトが書いた、少なくともヒトが書いたとされているのだから、そんなたとえはおかしいのかもしれないけれど、とにかくそういう感触の小説だった。作家をやっている語り手が、風もひとも猫も時間も通り抜けていく広い家のなかで、時間や世界や猫についてああだこうだ考える。外に出る用事といえばベイスターズの試合に行くことくらいで、あとは終始家のなかで、人間たちや、猫たちや、天井や、壁や、窓から見える景色や、庭の木々や、縁側と向き合って、対話しながら、世界のあり方に触れ、ときに変容させながら、日々を過ごしていく。その思考の変遷やどうしようもない会話の数々がおもしろくてそれだけでも飽きずに読めてしまうけれど、しかしこの長い小説にメリハリを生んでいるのは、なんといっても野球観戦のシーンだろう。長い思考の連鎖からつかの間離れて、試合展開にただ一喜一憂するくだりは、読み手にとっても息抜きになっている。

 

 小説の後半のどこかで、語り手が抽象的/具体的であることについて思考をめぐらせる部分がある。ひとが何かを見たり聞いたり触れたりするとき、その何かを具体的なものとして認識していると同時に、抽象的なものとしても捉えている、みたいな話。目の前にあるのは、具体的なそれであり、抽象的なそれでもある。僕たちが散歩している犬を見るとき、「飼い主を連れて散歩をしている、白くてでかくて息の荒いボルゾイ」として捉えるだけでなく、「散歩をしている犬」として、犬にまつわるイメージを頭のなかから引っ張り出して、その目の前の犬に当てはめることになる。あらゆるものには具体性と抽象性がそなわっていて、そのどちらも欠けることはない。と、そんなような話をしている部分だったのだけれど、定かではない。僕の読み間違いかもしれない。でもそれを確かめる術はない。『カンバセイション・ピース』は分厚いので、その話をしていた箇所を見つけ出すのはハードすぎる。それに、そういう読み方をすべき小説とは思えない。そういう書かれ方をしていない。

 それで、その、あらゆるものにそなわっている具体性と抽象性についての話で、僕はひどく納得してしまった。そうだろうなあ、あらゆるものには具体性と抽象性の両方がそなわっているだろう。そしてもちろん、そのバランスはものによってまちまちで、具体性が前面に出ているものもあり、抽象性が前面に出ているものもあるだろう。それに、そのバランスというのは流動的なものだ。部屋のなかでアイスを食べながらぼーっと甲子園を見ているかぎりは抽象的な夏を味わうことができるけれど、ひとたび外に出れば日差しがブワブワ降り注ぎ、それ以上ないほどの具体的な夏が身に迫ってくる。

 あらゆるものに備わっている具体性と抽象性。それはさいきん、世田谷文学館原田治展と東京オペラシティアートギャラリーのジュリアン・オピー展に立て続けに行って感じたことでもある。どちらもとても刺激的で素晴らしかったのだけど、僕は、いちおう目鼻立ちまで描きこんでいる原田治の絵をむしろ抽象的に感じ、ごくシンプルな線と色とでしか構成されていないジュリアン・オピーの人物画のほうこそ究極に具体的だと感じた。

 原田治のほうは(その成立過程から鑑みても)デザインとしての絵である。たとえば有名なECCジュニアの少年少女、あの子たちにはごくシンプルながらもきちんと目鼻立ちがあって、表情も立っている。でも、僕は彼と彼女の生活や人生まで想像することができない。それはあくまであの子たちが「英会話教室の少年少女」という抽象を背負って描かれているからなんじゃないかなと思う。「ブロンド」で、おそらく「白人」で、シャツには「We are friends!」とプリントされているあの子たちは、抽象を見事に背負いきってみせ、スマイルを浮かべている。(ステレオタイプすぎやしないか、という指摘はひとまず置いておこう。)そこには具体性の入りこむ余地などない。

 一方で、ジュリアン・オピーのほうはどうだったろう。

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Sam Amelia Jeremy Teresa. 2019

今回の展示では、ニューヨークやボストンの街を行き交うひとびとの姿を捉えたポートレートがメインに配置されている。具体性を拒否するかのようなシンプルな線と色使いが作品の抽象性を強調しているかのようだけれど、ほんとうはそこにひどく具体的なひとびとの姿を見てとることができやしないだろうか。だって、たとえば、4人の姿を写したポートレートには《Sam Amelia Jeremy Teresa》(https://www.julianopie.com/painting/2019/sam-amelia-jeremy-teresa)という題名が付けられていたりするのだ。そうしたら、ああ、たぶんこれがサムだな、彼はさいきん少し出てきたお腹を気にして、こうやって毎朝走って、家に帰ればちょうど起きてきた妻ジェシーと息子マイクとテーブルについて、さっきのジョギングで見てきた街の風景やすれ違ったひとびとの話をするのかもしれない。そんなふうに、勝手に想像を膨らませることができやしないだろうか。抽象的な造形がなされているからこそ、見る側がそこに勝手に具体性を見出だしてしまう。あるいは、付与してしまう。そういうことが起きやしないだろうか。少なくとも、僕が展示を見ていたときにはそういうことが起きた。