バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

卵を焼く(二)

卵二個朝来るたびに焼いて巻く この真面目さがローマを築く

レシピ見てサラダをごまに置き換えし吾はごま油万能論者

全日本殻割り大会予選落ち 力かげんが未だ分からぬ

なにもせず今日も明日もただ焼かれ 向上心のなき卵焼き

信じがたき朝の光 卵焼きとまだ起きぬひとに平等に注ぎ

 

 

 毎朝卵焼きを作るようになってから、毎朝卵焼きを作っています、と僕は周りにいってまわった。あたかもずっと前から続けている規則正しく健康的な習慣であるかのように。もし僕がマッチングアプリをやっていたならアピール欄に載せていただろう(「#卵焼いてます」)。もし僕が就職活動中だったなら履歴書に書いていただろう(「資格・免許等:資格というわけではありませんが、毎朝卵焼きを作っています。」)。それほどまでに僕は僕の卵焼き作りを吹聴していた。僕の卵焼き作りは世間の人びとの広く知るところとなり、やがて小さなウェブメディアでの連載が始まることとなった。一回あたり原稿用紙一枚から二枚程度の短い文章のなかで、僕は卵焼きを軸に僕なりの料理論や人生観を開陳し、超現実的な想像を繰り広げた。テーマは多岐にわたったが、僕のなかでの線引きとして、卵焼きを利用して世相を斬ったりはしない、というものがあり、その一点をもって僕は卵焼きにたいする高潔さを保っていた。卵焼きは俗世と切り離すべきであり、云々。僕の連載(『卵焼きを作ることについて語るときに我々の語ること』)は、しかし好評を博すことができず、僕は僕の高潔さを保ってなどいられなくなった。僕は卵焼きとからめてばんばん世相を斬っていった。なんでもいいからとにかく世相を斬れば人気が出るだろうという思惑だ。しかしそんな取ってつけたような理由では世相をうまく斬ることができず、僕の連載はけっきょく好評を博さないまま終了した。僕は卵焼きにたいする高潔さも失った。それでも僕の卵焼き作りは続く。

 

 

「西沢さんは卵焼きがお得意なんですってね」
「そう……、そうなんです。僕は毎朝卵焼きを作っておりまして」
「毎朝作ってらっしゃるの!」
「あ、そうですね、毎朝というか、ほぼ毎朝ですね。基本平日に作ってます。すいません、土日はあまり作ってないですね。あとあれか、卵を買い忘れたときも作れてないですね。でもそれ以外の日は基本的に作っています」
「あら、じゃあ毎朝ってわけではないのね」
「……あ、でもまあ、いちおうほぼ毎朝って感じですね」
(『徹子の部屋』より)

 

 

卵焼き、玉子焼き(たまごやき)は、溶いた鶏卵を食用油脂を引いた調理器具で焼き上げた日本の料理(和食)。

一般的には、四角い専用の鍋で厚みのある方形に巻き上げて整形する厚焼き卵を意味することが多い。

なお、地域や世代、業種などによっては、厚焼き卵と薄焼き卵の総称、あるいはもっぱら薄焼き卵を指す言葉として、また目玉焼きなども含む卵を用いた料理全般を指して「卵焼き」という表現を用いる場合もある。
ウィキペディアより(*太字強調は筆者による))

 そんなことをいったらあれもこれも卵焼きってことになっちゃいますけど!
 そんなことをいったらスクランブルエッグなんて卵焼きの最たるものだし、オムレツだって、ニラ玉だって、と列挙していこうとしたところでさっそく限界が訪れ、僕は自分の知識不足が悲しい。こういう文章においては列挙されているもの(あるいは、いくつも列挙されている、ということ自体)が説得力を生み、ひいてはおもしろみに繋がるのであり、スクランブルエッグとオムレツとニラ玉だけではどう考えても役不足だ。それにスクランブルエッグとニラ玉なんてほぼ同じだし。けっきょく僕は卵焼きしか作れない卵焼き専用マシンに過ぎず、卵料理のことなどこれっぽっちも知らないのだ。しかしせっかくウィキペディアまで引用してこうやって文章にしようとしているのだから、架空でもなんでもいいから列挙すべきである。ポテ玉(ペースト状にしたじゃがいも、ながいも、やまいもを卵と混ぜて強火で一気に焼く)、友玉(卵仲間である鶏卵とたらこをマヨネーズと混ぜ合わせ、強火で一気に焼く)、フィリ玉(スクランブルエッグをベースにフィーリングで調味料を加えていく)、熊玉(大暴れしていたヒグマがこれ一発でおとなしくなるほどうまい)、二死玉(死んでいたひとが生き返るほどうまいが、あまりのうまさにそのひとはまた死んでしまった)、暮れ玉(朝ごはんとして食卓に出ると、あまりのうまさにおかわりを求め続けてあっという間に日が暮れてしまう)、オリ玉(あまりにうますぎるため、オリンピックのように四年に一度しか作ってはいけないとされている)、これらはすべて卵焼きである。

 

 

 人類ではじめて納豆を食べたひとはすごい、みたいな話題がよくあるが、それでいうとはじめて卵焼きを作ったひともすごい。卵をただ薄く伸ばして焼くのみならず、あのように成型するという並々ならぬ発想力。火を通した卵のほろほろとした食感に加え、巻くことで自然に空気が内包され、朝昼晩どのシーンにもふさわしい柔らかさが出る。上下左右どの角度から見ても隙のない、愛らしく美しいデザインも、その食べ心地にひと花添えているといえよう。こんなにも完成度が高くオールラウンダーな料理の発明は、いやしかし、どう考えてもひとりの業ではあるまい。はじめて卵を溶いたひと、それをはじめて薄く伸ばして火を通したひと、はじめて巻いてみたひと、はじめて何度も巻いてみたひと、はじめて四角く成型してみたひと。きっと何十年何百年にもわたる試行錯誤があり、何代にもわたる師弟関係があってようやく誕生したはず。いや、あるいは琳派のように、時代を越えた断続的な継承によって発達していったものかもしれないですよね。なんかそんな気がするな。そのほうがロマンがありますよね。
 それは違うんじゃないかしら、と目の前の徹子さんはいう。だって琳派には後世に残るものとして先人たちの作品があったじゃない。尾形光琳俵屋宗達の作品を見たから私淑できたわけでしょ。でも卵焼きって後世に残らないじゃない。その日の食卓限りのものなんだから。だから卵焼きの場合、時代を越えた私淑は無理なんじゃないの。
 ししゅ……? すいません、ししゅく……? すいません、ちょっとわからないです、と僕はいう。

 

 

 卵を切らしていたり、頭が痛かったり、起きるのが遅かったりで、卵焼きを作れない日が頻出する。もはや「(ほぼ)毎朝作っている」とはいいがたい状態になる。卵焼きを作っているなかでのなにがしかの実感が得られにくくなり、その実感に基づいた文章を書こうとしても、書こうとすればするほど実際の感覚から遠ざかっていき、ありもしないことが書かれていく。僕は『徹子の部屋』にゲストとして呼ばれるもはまらず、小さなウェブメディアでの連載を持つも短命に終わらせてしまい、ありもしない卵料理の名を叫び続ける。
 卵焼きにたいする実感を取り戻すためには、卵焼きを作り続けるしかない。しかし、ただ作り続けるだけではもうだめだった。先ほどは書かなかったが、実をいうと僕と卵焼きとの関係は完全なマンネリに突入しており、それも僕が卵焼き作りをすっぽかす一因となっているのだった。べつに僕が銀座で三百年続く老舗割烹の料理長のように卵焼きを極めたというわけではない。そうではなくて、毎朝作るなかで、できあがりの美しさに差はあれど、その他の面における成長がひと段落し、さらに上のフェーズを目指すためのとっかかりを見つけられずにいたのだ。僕の卵焼き作りは作業のようなものへと接近していた。そういうマンネリのなかから新たな実感が見出だされるはずなんてないんですよ。
 なにか混ぜてみればいいんじゃないかしら、と目の前の徹子さんはいう。
 なるほど! たしかにそれはそのとおりで、溶き卵の段階でなにかを混ぜることによってこのマンネリは打破できそうだった。ほうれん草なり、しらすなり、たらこなり、混ぜればよさそうなもののいくつかはすぐに思い浮かべることができたし、グーグルで検索すればきっと百も二百もご提案していただけるのだろう。
 でもね、徹子さん、やっぱりいきなり混ぜるのは怖いです。マンネリって安定でもあるし。僕と卵焼きとのこの穏やかな関係を揺さぶることが怖いんです。
 じゃああーた、一回他の料理でも作ってみれば? と目の前の彼女がいう。彼女は徹子さんではない。徹子さんはいつしか僕の前から姿を消している。
 あれ? 徹子さんは?
 徹子さんなんていないよ。
 あれ?

 というわけで、僕は卵焼き以外の料理にも進出する。肉じゃがと筑前煮とカレーは、構造的にはほぼ同じだということに気がつく。
 料理を作るうえで、自分で味や食感をコントロールできている感覚というものが大事だと僕は気がつく。それは単純に料理の完成度に直結しているし、うれしさや楽しさといった感情にも繋がる。たとえばある日、僕は麻婆豆腐を作っていた。終盤で片栗粉がないことに気づいたが、「とろみのない麻婆豆腐=硬派」ということにして事なきをえた。隠し味に中本のカップ麺についている辛旨オイルを入れた。豆板醤、甜麺醤、砂糖、醤油、料理酒、中本の辛旨オイル。甜麺醤を入れすぎた感はあるがおいしかった。どれがどういう風味に寄与しているかがなんとなくわかるような気がして、僕はうれしかった。うれしいのとおいしいのとで、白米がぐんぐん進んだ。まだ麻婆豆腐が残り三分の一ほどあるかというところでお茶碗の米が尽きてしまい、万事休すかと思われたがここは家である、ジャーにはまだ米がある。
 片栗粉がなくてもおいしく仕上がるだろうという確信。中本の辛旨オイルを入れたらさらにおいしいのではないかという機転。これらは定型のレシピからの逸脱であり、以前の僕にはなかったものだった。大通りから裏道へと逸れて近道を発見するような、あるいは遠回りだが好きな建物があるだとか、においがいいとか、そういう道を開拓するようなきもちよさがあった。
 定型をおさえたうえで逸脱することの楽しさを、卵焼き作りに持ち帰ればよろしいのではないか、と僕は思った。なにも混ぜないプレーンな卵焼きを定型とするならば、ほうれん草を混ぜた卵焼きは逸脱となる。やがてほうれん草入り卵焼きが定型となり、じゃあ他の野菜ならどうでしょうか、と試してみたものが逸脱となる。野菜じゃなくてしらすならどうでしょうか、と試すことで逸脱の枝分かれが起こり、もしよかったならその枝はさらに伸びていき分かれていく。定型と逸脱を繰り返すことで、僕と卵焼きとの関係は転がり続けるだろう。そんな予感を抱えながら、いまはまだプレーンな卵焼きを作っている。



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