バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

日記(梅雨)

210621

 一年で一番日が長い日の夕焼け空を見ながら、ふいに、これからどんどん日が短くなっていくということが悲しくなる。明日は今日より日が短いし、明後日にはさらに短くなる。夏はまだまだこれからだというのに、日は日に日に短くなっていく。僕たちは夏が始まる前から、すでにその終わりを予感させられている。夏至は夏の終わりの伏線。そのことが悲しい。



210627

 朝から夜まで、たえず雨の気配を湛えた空。けっきょく雨が降ることなく一日は終わり、やり場のないなにかだけが後に残される。怒りや悲しみやむかつき、そのどれも少しずつ入っているようで、どれでもない。名状することのできないなにか、が残された、という感触のみが残っている。



210628

 下り坂を歩きながら、夏を夏たらしめているものは雲だと悟った。いわゆる入道雲、あるいはそれに準ずるようなもくもくした雲を見れば、僕たちはとっさに、夏、と思ってしまうのだった。



210629

 今日もけっきょく雨が降る。予め報じられていなかった雨。洗濯かごには我々人類が脱ぎ散らかしたあらゆる衣類が山積みになっている。クローゼットにはもはやなにも残されていない。今日洗濯しなかったら我々は滅ぶ。僕はしかたなく部屋干しを選択する。洗濯かごから下着とシャツ、必要最低限のものだけ掘り起こして洗濯機を回し、回っているあいだに水筒を洗う。

 

 

 5本入りのヤクルトと10本入りのヤクルトとでは、1本あたり換算で0.いくらほど10本入りヤクルトのほうが安いが、5本入りヤクルトには細いストローが付属していて飲みやすいので、そちらを買うが正解。というささやかで厳かな生活の知恵。スーパーに行った帰り、傘をさし、マスクに息を詰まらせながら歩いていると、無灯火で煙草を吸いながら自転車を漕ぐ青年に追い越される。その自由さ。しかし、僕にだって細いストロー付きのヤクルトがある。



210630

 一日中曇りとの予報だったので、賭けではあるけれど昨日洗濯できなかったタオル類を洗濯してベランダに干した。空よ、夜まで耐えてくれ! けっきょく小雨が降る。



210701

 今日も雨が降った。今日は洗濯しない、と決めるととたんに雨は味わい深いものに思えてくるのだった。まだ夜が明けるずっと前、恋人がベッドを抜け出してお手洗いに行ったついでに窓を開けたら、雨がものすごい勢いで降っていた、そのあまりの降りっぷりのよさに僕も思わず目を覚ました、僕たちは特に言葉を交わすこともなくその雨の音に耳を傾けながらまた眠りに落ちた、その雨が、朝ふたたび目を覚ましたときにもそのままの勢いで降っていた。

 職場の窓から見る梅雨の東京も好きだった。ときおり雨が止むと、窓の外の靄がなくなって、遠くのビル群まで見えるのだった。たっぷり水を含ませた水彩筆を気ままに走らせたような曇り空が、様々な長さを持つ鉄の棒の上に覆い被さっている。

「たっぷり水を含ませた水彩筆……、鉄の棒……、ふむ……」

 たとえというのは、生活の実感に基づく想像力のなかからしか出てこない。生活の実感が乏しければ、たとえも乏しい。しかし、だったら僕はこの梅雨の東京をなんとたとえればよかったのだろう?



210702

 こうも連日雨が降っていると、雨の話ばかりしかできない愚か者になってしまう。ほんとうは一年で一番日が長い時期のはずなのに、そんなことはすっかり意識の外に追いやられている。今日だって昨日だって一昨日だって、その前の日だって、分厚い雲の上では日が長かったはずなのだ。



210704

 朝から夜まで霧のような雨が降っていた。傘をさしていようがささないでいようがほとんど関係ない、ただ、さしているほうがかろうじてましな雨。朝投票に行って、昼過ぎに『ゴジラvsコング』を観に行った。久しぶりに天気に関することでないことを書けてうれしい。映画は非常にプロレスチックで、雑で、景気がよく、楽しかった。メインの登場人物のひとりは、大切なひとを失ってから陰謀論にとてもはまってしまったひとで、Podcastパラノイアじみた言説を配信しつづけている。でも、映画が進むにつれて彼の言っていることはすべてほんとうだとわかっていって、彼が潜入して働いていた会社は地下通路で香港と繋がっていたし、ごく一部のスタッフだけが知る謎の研究で人工モンスターを作り上げていたし、地球の内部には巨大な空洞があって、巨大生物の豊かな生態系が存在していた。「まじでなにいってるの?」状態の言説が次々と実証されていって、冷静になるとなんだか非常に珍妙な映画だった。雨はまだ降っている。



210705

 雨が降っていることが当たり前になり、雨が降っていない時間のことを「雨が降っていない時間」というようになる。たえずビートが鳴っているトランス・ミュージックの中で、ふいにビートが鳴りやみ、シンセサイザーのみになるパートがとても効果的なのと同じように、雨が降っていない時間は僕たちをハイにする。通りを歩く人びとは、あ、いま降ってないね、と傘をたたみ、オフィスビルで働く人びとも、口には出さないものの、あ、いまもしかして降ってないんじゃないの、と窓の外を見て思う。つかの間、雨がやみ、人びとが傘をたたむ時間。それは晴れ間というのとも少し違う。晴れる、というよりは、あくまで、降っていない、が前面に出ている。この時間にもなにか名前をつけたほうがいいのかもしれないという気がしてきて、あれこれ考えてみる。せっかくだからかっこいい名前がいいんじゃないの? なに、凪、とか? 雨と雨の間の凪だから、雨凪、みたいな? うーん、なんか、そういうんじゃなくて、なんか、ドラゴンとか? ウルトラとか、メガとか? じゃ、もう、メガドラゴンでいいね。それから僕たちは、メガドラゴンを楽しむ。



210706

 ひどく蒸し暑い。水は流れ、やがて川になり、海へと注ぎ、そこから雲ができ、流れ流れ、ビル群に覆い被さって、僕たちを蒸し暑くさせる。中島みゆきの歌詞に、そういうのがあるそうです。



210709

 Lucy Dacusの新しいアルバムがすごくいい。先行曲“Hot & Heavy”の、特に後半、曲そのものが自走してゆくような駆動力がとてもよくて、どことなくシャムキャッツの「このままがいいね」っぽさも感じるな~、なんて思いながらアルバム楽しみにしていたけれど、やはりよかった。“Hot & Heavy”同様疾走感のある曲もあるし、古きよきマナーにのっとったようなフォーキーな曲もあり、なにより全編に「それでもギターを鳴らしてゆく」という気持ちが乗っかっているように思えるのがとてもよい。そしてやはりどことなくシャムキャッツらしさも感じる。僕個人の感覚に紐づけていうと、この感じはなんとなく、僕が中学から大学まで乗っていた常磐線沿いのフィーリングなんじゃないか、という気がしている。常磐線といっても、上野から松戸あたりまでの、常磐線全体からしてみればごく短い区間の景色のことだ。あのあたりの夏の夕暮れどきの街の灯り、それほど遠くではない遠くに見えるスカイツリー、あるいは冬の朝早くのうすら靄がかった家々、住宅街のなかをひっそり流れる水路の深い緑、あるいは秋の昼下がりのすべてが眠気を帯びたようにゆるりと過ぎてゆく景色、斑点のように浮かぶ雲、何年もかけて僕の眼の裏あたりに染めついたような景色を思わせるような、そんなアルバムだと思う。そんなことを、数ヵ月ぶりに実家に帰る常磐線のなかで思う。実家の最寄り駅に着けばもう雨は降っておらず、誰も守らない横断歩道の赤が、靄のなかににじんでいる。梅雨はもうすぐ明けるらしい。



210710

「これ思いついたとき、かなり気持ちよかっただろうな、っていうもの。たとえば、たとえば……、そうだな、たとえば、ああ、たとえば高床式倉庫! あれは気持ちよかっただろうねえ。ふつうに暮らしてるとどうしても鼠が入ってくる、じゃあどうすればいい、そう、床を高くしちまえばいい! 気持ちよかっただろうなあ! なあ! ジゴロウくん、人類はそうやっていろんなものを生み出してきたんだ。数えきれないほどの発明を、文化を……。この私もねえ、死ぬまでにひとつはそういう発見をしたいと思って、思いついたときの気持ちよさを味わいたくて、いろいろ考えてみたんだよ。そこで私が注目したの、何だと思う? うん、うん……、違う。傘だ。傘だよジゴロウくん! 考えてみなさい! 人類がいまみたいな姿を手に入れて、文明を築いて、それからどれくらい経ったのか……、何千年、いや何万年……? 私たちはずっと、雨に対して傘という手段しか持っていないじゃんか! ジゴロウくん、きみ傘さすだろう、どうだ、雨が激しく降っている、どうだ、ほら、風が吹く、ほら、濡れるだろ、濡れるだろ傘じゃ! 片手も塞がるし、濡れるし……、ひでえ道具だねえ。梅雨なんかさいあくだ……。そこで、だ。私は考えた。考えたよ……。そして私は思いついた……、いきなり思いついたんだよ……、あの気持ちよさったら……、この、ここの側頭部の血管、ちぎれたかと思った……、それがなにかといいますと、あのねえ、ちょっと待ってね、ちょっと……あれ、待ちなさいね……、あのねえ……あのねえ……ジゴロウくん、あのねえ……、んと……」

「博士……」

「……ん? なに? なにかね?」

「博士もしかして……、思い出せないんじゃ……」

「……ジゴロウくん……」

 博士……。目の前でゆっくり膝から崩れ落ちる博士を、ジゴロウは黙って見守ることしかできなかった。博士、ほんとうに側頭部の血管ちぎれてしまったんじゃないだろうか。もっと早く本題に入っていれば、こんなふうに思い出せなくなってしまうこともなかったんじゃないだろうか。特に前半、家で考えてきたのであろうことが察せられる導入だったけれど、それにしては具体例が弱すぎなかったか。博士、高床式倉庫は弱いよ。なんか他にもっと、あるだろ……。

 しかし、ジゴロウが代わりに別の具体例を思い浮かべてあげられるということはない。ジゴロウは心やさしい少年だったが、具体例がぜんぜん出なかった。ジゴロウには教養がなかったし、想像力もさほどなかった。場数も踏んでいなかった。



210711

 蝉がないていた。遠くの空が鳴っていた。



210713

 雨の気配を湛えながらも、降りださない空。



210716

 夏合宿3日目、予報にない大雨が降って午後練がなくなった昼下がりの感じ、あの感じ……、がとうとつに思い出されて心がとらわれる。自ら実際に経験したことがあるだけに、より湿っぽい実感がこもってたちが悪い。でも、どうしていまになって思い出されたのかはよくわからないこの感じを、大切に取っておきたいと思う。次にいつ思い出されるかがわからない。走馬灯に出てくるような類いの記憶ではない。もしかしたらもう次はないかもしれない。だから文章にして残しておきたいと思う。文章にはそういう効果がある。夏合宿3日目、目を覚ましたときにはすでに汗をかいている。2日間で疲れの溜まった足を引きずって食堂に向かう。疲れている、と思う。食事が喉を通らない。通らないなりにがんばっておかわりする。僕はよく食べて大きくならなくちゃいけない。けっきょく食べ過ぎて、午前練まで部屋で寝転がる。バスの時間になる。宿からグラウンドへはバスで行くことになっている。3日目にもなるとバスのなかでの雑談もまばらになる。窓の外の林の奥をぼんやり眺めながら、僕はバスに揺られている。よく晴れていて、昼前から雨になるなんて考えられないけれど、いまこうしてこれを書いている僕は雨が降ることを知っている。グラウンドはすでにじんわり暑くて、僕ははやくも汗をかいていてユニフォームに袖が通りにくい。あちい、と誰かが言って、僕もそれに賛同する。あぶらぜみのなく声がどこからか響いている気がするけれど、気のせいだ。暑いのは気のせいではない。身体の節々が痛むのは気のせいだということにする。それから2時間か3時間練習をして、午前練を終える間際から空に濃い雲が広がってきて、バスで宿に戻る途中から雨が降り始める。雷が鳴るような低い音も聞こえて、気のせいかもしれないけれど、それで午後練はなくなる。雷が鳴ると、僕たちは練習をしてはいけないことになっている。合宿の3日目に雷が鳴るとうれしい。お昼には冷やし中華が出て、おいしい、と思う。食べ終わると午前練のビデオをみんなで見る。僕は同じプレーで何度も同じミスをしている。みんなでビデオを見る広間は縁側が広くて、外は雨が強まっている。宿の猫が僕たちの足の間を縫って歩く。ビデオを見る時間が終わって僕は部屋に戻る。何をするでもなく、かといって眠るでもなく、ただ寝転がって過ごしている。