バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

25年後のBreath of the Wild

 ここ数ヶ月、ニンテンドースイッチで『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(2017)をプレーしている。すでに国内外でさんざん絶賛されているとおり、「エモーショナルかつ知的な試みに満ちた」、「最低でも2ヶ月は他のことがいっさい手につかなくなること間違いない」、「ゲーム史上最も偉大な」、「100点満点で点数をつけるとするならば、いや、私なんぞが、この神のゲームに点数をつけることなんておこがましい」、「このゲームに限界はない。悲しいのは、私の時間に限界があることだ」、「私はこの『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』を通じて、自分の魂が震える音をはじめてリアルに耳にした」、「このゲームのために、私はセックスもドラッグもロックンロールもすべて断ち切った」、「実にクレイジーな」ゲームだ。いわゆるオープンワールド、ゲーム内世界を自在に探索できるように設計されたなかで、僕は崖登りに明け暮れ、雪山のてっぺんから滑空し、何度となく殺され、あるいは自分の操作ミスで死に、ダンジョンのひとつひとつにゆっくり取り組み、考えてもわからないところはネットで調べ、あるいは考える前に調べ、先人たちの集合知と、ほんとうに細やかなゲームデザインに感動する。そうしてすでに数ヶ月が経ち、ストーリーはまだまだ進められずにいる。

 ある朝、身に覚えのない洞穴で眠りから覚めた主人公・リンクが、いっさいの記憶もないままあちこち散策するなかで、出会うひと出会うひとに「お前は100年も眠っていた」だとか「早く城へ向かえ」だとか言い聞かされ、いつしかこのハイラルという国を救う一縷の望み、ということにされている。——それが、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』の大まかなストーリーだ。僕もまだまだプレー中なので、この先どうなるのかはわからない。僕が操作するこのリンクという少年はほんとうに救世主なのかもしれないし、国を挙げてのドッキリの線も残っている。救世主でもドッキリでもなくて、闘えど闘えど状況が少しも好転しない不条理な物語の可能性もある。

 とにかく出会うひとみんな、「お前が早くしないとハイラルは滅ぶ」なんて言って急かしてくる。

 けれどおもしろいのは、ぜんぜん急がなくてもいいところ。いかにも邪悪なオーラを放っている場所はとことん避けて、雄大な自然を心ゆくまで堪能したっていい。すぐにやると約束した重大なミッションにはいつまでも手をつけず、たいして重要でないキノコ集めに奔走したっていい。僕がどんなに無為に時間を過ごしていても、彼らはなにもしてこない。こちらから話しかければ「もう時間がないんです」とは言うけれど、かといって僕が急ぐように具体的に働きかけてくるわけではない。ほんとうに時間がないのなら、そしてほんとうにこの国を救えるのが僕だけなのなら、もっと働きかけてきてくれてもいいような気がするのだけど、彼らは特になにもしてこない。もちろん、僕が自発的にがんばればいい話なのだろうけれど。でも、そうやって救世主ばかりに負担がかかる構造というのも不健全な気がする。

 そういう問題意識から、というよりは、単に強い敵と闘うことに怖気づいて、僕はハイラルの救済を後回しにしている。

 

 僕は僕の操作するこのリンクという少年に想いを馳せる。

 自分にはいっさいの記憶がなく、周りから言い聞かされるがままに、国を救うたったひとりの救世主ということになっている。広大な国を思うがままに巡るなかで、いろんな場所で出会ったひとそれぞれとの、いろんな約束。果たせそうなものはどうにか果たしたけれど、難しそうなもの、怖そうなもの、単に面倒くさそうなものには手をつけられていない。そしてなにより、この国の中央にそびえる城、その周りにとぐろを巻いている黒雲。最終的にはあれを倒さなければならないらしいけれど、あまりに難しそうで、怖そうで、面倒くさそう。

 それよりは、キノコを採取したり、キツネを追いかけたり、険しい崖登りに挑戦したり、よく晴れた日にできるだけ遠くまで滑空するほうが楽しい。

 ひとと話すのだって、嫌いではない。天気やご飯の話題から入って、最後には必ず「でもきみ、早くこの国を救ってね」というお約束の話になる。僕はできるだけにこやかに「もちろん!」と応えて、キノコ集めに戻る。みんなそれ以上は言ってこないし、僕のほうももはやストレスには感じていない。

 そうこうしているうちに時は流れ、僕もいつしか40歳を迎える。この国を救うたったひとりの救世主と呼ばれつづけて、25年が経つ。約束を果たせないまま死んでいってしまったひともいる。城の周りには、相変わらず邪悪そうな黒雲がとぐろを巻いている。「早くこの国を救ってくださいよ」「もちろん!」の応酬は続く。すべてが形骸化している。おそらくこのまま僕はこの国を救わないだろうし、それでいいのだろうと思っている。

2020年よかったもの

 2020年よかったものを振り返っていきます。



■よかった音楽

 

 

 2020年よかったアルバム10選、

 

  Phoebe Bridgers “Punisher”

  Moses Sumney “grae”

  Tame Impala “The Slow Rush”

  Playboi Carti “Whole Lotta Red”

  Haim “Women In Music Pt. III”

  Perfume Genius “Set My Heart on Fire Immediately”

  The Weeknd “After Hours”

  Fleet Foxes “Shore”

  Jacob Collier “Djesse Vol. 3”

  Waxahatchee “St. Cloud”

 

です。

 The WeekndやFleet Foxesは、(方向性はまるで違えど)2020年のサウンドトラックとしても機能しそうなところがある一方で、Moses SumneyやPlayboi Cartiみたいに自らを突き詰めていったようなアルバムもやはり魅力的でした。Moses Sumneyのファルセットは荘厳さすら帯びているし、Playboi Cartiはただフロウを聞いているだけでも楽しい。

 Phoebe BridgersやHaimやWaxahatcheeはまずもってメロディがいいので好きでした。Phoebe Bridgersなんかは詞もすごくいいみたいなので、はやく英語を勉強してわかるようになりたいです。A、B、C、D、E、F、G、……

 Mura MasaとかTHE 1975とか、あとDua Lipaとかもそうなのかもしれないけど、ちょっとダサい音色やリズムをうまく料理する流れが来ていたようにも思います。THE 1975でいうとIf You're Too Shy (Let Me Know)だったり、Dua LipaでいうとDon't Start Now(あの曲の1:03あたりの2連ドラムとかすごくいいですよね)だったり。完成されたダサさは、とてもクセになります。

 

 MVは、HaimとOneohtrix Point Neverがよかった。映画作家と組んだらそりゃかっこいいに決まっているのです。




 

■よかった小説

 

 読んだ順に、村上春樹騎士団長殺し』、ヴァージニア・ウルフ灯台へ』*、大前粟生『私と鰐と妹の部屋』、ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フライデー・ブラック』、町屋良平『1R1分34秒』、コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』、山下澄人『小鳥、来る』*、カルメン・マリア・マチャド『彼女の体とその他の断片』、ハン・ガン『すべての、白いものたちの』、スタニスワフ・レムソラリス』、ガルシア=マルケスコレラの時代の愛』、ハーマン・メルヴィル『白鯨』*、リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』*、ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』、ディーノ・ブッツァーティタタール人の砂漠』、ブルース・チャトウィンパタゴニア』、ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』*、ジャネット・フレイム『潟湖』がよかったです。「*」をつけた本は特によかった。

 2020年の、というか、2021年も続けていきたいテーマとして「積ん読消化」というのがあって、なんとなく長編を読む機会が多かったです。長編って、読み終えたときにクるものは一入なのですが、なにせ長い。長いから、積む。積まれた長編の側も「まあ俺のことはそりゃ積むわな」という顔をしているので積むこと自体にはなんの問題もないのですが、積んでしまっていることで読めていない、ただその一点のみが心に引っかかる。なので、「積ん読消化」というのをテーマに掲げていたわけです。

 それでもって、いざ読みはじめるととんでもなくおもしろい。よき長編小説にはよき長編小説のリズムやグルーヴ感というものがあって、最初のページに目を通せば、そのあとはもう半ば自動的に最後までページをめくりつづけられるようになっているのです。特に『白鯨』のおもしろさには驚かされました。すべてが大げさすぎるコメディ。途中でひたすらに並べ立てられる「鯨学」の章も、そういうお笑いとして読み進められる、というか、「“すべてを大真面目に大げさに書く”というお笑い」こそメルヴィルがやりたかったことなんじゃないのこれ?という気もしてきて、その冗長さを楽しむことができました。『白鯨』がほんとうにそういうお笑いをやりたかった小説なのかどうかはともかくとして、長編小説というのはどれも、作者がやりたいことがひとつあって、それを達成するがために書き上げられるものなんじゃないか、という気がしています。たとえば『舞踏会へ向かう三人の農夫』だったら、それは「1914年から始まった20世紀という時代を、マクロにミクロに、縦横無尽に語りなおす」ということかもしれないし、『野生の探偵たち』は「ありえたかもしれない、いたかもしれない詩人たちを現前させる」という試みだったのかもしれない。そしてそれは、その結果としてできあがった小説を読む僕たちを前に、大なり小なり達成され、僕たちの魂を震わせる、というわけです。2021年も長編小説をいくつかは読めるといいな。

 山下澄人の『小鳥、来る』は、時間も視点も自在に行き来する山下澄人の文章が、現時点での頂点に達したと思わせる小説で、読みながらすげ~となりました。このひとの文章って、そう、まさに子どもの視点なのかもしれない。話の途中で、場所も視点も違うところに脱線して、本線に戻ってこないまま話が終わる、みたいな。あと、『タタール人の砂漠』は単純に寓話として刺さったのと、ちょうど見ていたハガレンのアニメのなかの北端の砦の雰囲気が、物語のなかの砦の姿とオーバーラップしたのでとてもよかったです。大前粟生『私と鰐と妹の部屋』は、短編小説≒漫才、という可能性に気づかせてくれた超キュートな短編集です。



■よかった漫画

 

 漫画は少しずつ読む数を増やしていければと思っています。漫画には漫画にしかできない表現があり、ストーリーももちろん大事ですが、個人的には、その漫画ならではの表現の部分に惹かれて読んでいます。2020年に読んだなかでよかった漫画は、島田虎之介『ロボ・サピエンス前史』・『ラストワルツ』、近藤聡乃『ニューヨークで考え中』、あずまきよひこよつばと!』、井上雄彦SLAM DUNK』(途中です)、INA『牛乳配達DIARY』、西村ツチカ『北極百貨店のコンシェルジュさん』、大島弓子『ダリアの帯』、浦沢直樹BILLY BAT』(これまた途中)でした。見開き絵や大ゴマ(というらしいですね)のすごさ、とか、線だけで伝えることのすごさ、とか、まだまだこれからですが、語れるようになったら楽しいだろうなあと思っているところです。お付き合いしている方は漫画をけっこう読まれる方なので、師と仰いで学んでいきたいです。あとは、『A子さんの恋人』が家に全巻揃った状態で積ん読になっている、というかなり贅沢なことをしてしまっているので、2021年はさっそく読んでいきたいと思います。



■よかった映画

 

 2020年よかった映画10選、

 

  『フォードvsフェラーリ

  『ストーリー・オブ・マイライフ』

  『スパイの妻』

  『パラサイト』

  『レ・ミゼラブル

  『ヴィタリナ』

  『燃ゆる女の肖像』

  『はちどり』

  『ジョジョ・ラビット』

  『私をくいとめて』

 

です。

 端的に、いちばん手に汗握った『フォードvsフェラーリ』が1位でした。まっすぐ“男の世界”を描いた映画なのですが、そうそう、こういういいところもあるよね、と再認識できたような気がします。喧嘩する男たちを見て「やれやれ」する妻の描き方はあれでいいのかな?とも思いましたが……。

 年の瀬に観た『私をくいとめて』がすごくよくて、ランクインしてきました。エピソードの羅列ではあるし、演出も好き放題すぎるきらいはあるのだけど、ひとつひとつしっかり揺さぶってくるのと、のんのすごさでぜんぶプラスになってました、のん、すごいな~。

 2021年はもっと観たいね。

 以上です。

わたしとケンタウロス

 雨がざあざあ降る金曜日、雫は「雨って大嫌い」と言い放つ。もちろん、実際にそう思っているわけじゃない。雨の降る日に家のなかから外を眺めるのは好きだし、耳をすませば、ベランダの鉄の手すりや、アパートの下の植木の葉の一枚一枚に、雨粒が当たる音がひとつひとつ聞き分けられるようでとても楽しい。雨のにおいも好きだ。雫、という名前だって、雨の仲間みたいなものだし。でもその金曜日の午後、雫はむしゃくしゃしている。ぶっきらぼうに、偽悪的に、「雨って大嫌い」と言い放つ。それを傍らで聖司が聞いている。聖司は、雫がほんとうは雨が好きなのを知っている。雨が降るたびに、雫が興奮ぎみに「雨、雨だよ、聖司」とささやきかけてくるのをいつも傍らで聞いているし、ときには聖司の録音マイクを勝手に持ち出して雨の音を収録しているのも見ている。聖司のパソコンのなかの「shizuku」というフォルダには、雫が収録した雨音のMP3ファイルが少しずつたまって、そろそろ20になる。聖司は雫が眠りについたあと、ときどきそれらのファイルを再生している。イヤホンを通じて、雨音は最初、とても匿名的に聞こえる。聖司は、それを録音していたときの雫の様子を思い出す。目を閉じて窓の外へと右手を伸ばす雫の姿を、すると、イヤホンのなかの雨音は徐々に、ベランダの手すりや植木の葉の一枚一枚にぶつかって弾ける現実の雨粒と結びつきはじめる。目をつぶると、雨の日にこの部屋から聞こえる雨音が、そして世界が立ち上がってくる。聖司がとても好きな瞬間だ。もしかしたら雫よりもむしろ僕のほうが雨を好きなのかもしれない、と聖司は思っている。雨が好きだから、ときに雨なんて大嫌いだと言い放ちたくなる気持ちも、聖司にはわかる。

 

 

 こういう仕事をしていると、この世にはほんとうにいろんなひとがいるんだということを自分の肌で感じることになる。この世、というか、ここはあの世なのだけれど。

 俺はね、ケンタウロスだったんすよ、とそのひとは言う。そのひとの身体の下半分は、ここにやって来る他のひとと同じくやはり霞になっていて、そのひとが自称する生きものの特徴であるところの四本足は見えない。

 ケンタウロス、あるいはケンタウロスを自称するひとに会うのは初めてのことだったので、わたしは面食らう。少し遅れて、そうですか、と答える。ケンタウロスを自称するそのひとは、わたしのとまどいを見てとり、そうですよねえ、と顔をしかめる。

 そうなんすよ、この姿になっちゃうと、ケンタウロスですってったって信じてもらえないんです。

 いえ、信じていないというわけではなくて、ただ、わたしが個人的にケンタウロスにお会いするのが初めてだったもので、とわたしはしどろもどろになる。

 いや、信じてもらえないのも無理はないです、そもそもケンタウロスってものが存在すると思ってるひとが少ない、っていうかもっと言えば、存在するしないの議論にすらなってないですもんね、それが、こんな姿のやつに俺ケンタウロスだったんですなんて言われても、そりゃあとまどいますよね。

 そのひとは間を埋めるかのように早口で話す。これまで何回もそうしてきたのだろうそのひとを、必ず成仏させたいとわたしは強く思う。

 

 

 しばらくふたりとも黙ったあとに、「ケンタウロスの幽霊って、やっぱり他の幽霊と同じで下半身ないのかな」と私は言う。

「どうしたの出し抜けに」と雫ちゃんが応える。

 出し抜けに、なんていう言葉がとっさに出せるのは、私の友だちでも雫ちゃんくらいだ。

「ほら、幽霊って下半身がないじゃん」

「でも、幽霊が下半身ないとは限らないんじゃない。日本流はそうかもしれないけどさ」

「そう、そうなんだけど、仮にそうとして、ね」

「そうとして、ね」

「そうだとすると、いくらケンタウロスが4本足だっていったってわかんないよね、ないんだから」

「下半身見えてないんだったら、確かめようがないってこと」

「そうそう」

「そうか、たしかにね、でもそれって、ケンタウロスにとってはけっこう悲しいことだね」

「悲しいの」

「そう、だってさ、ケンタウロスがいくら自分はケンタウロスだっていったって、相手にはわからないってことだしさ」

 雫ちゃんは、会ったことのない、存在するのかどうかすら分からないケンタウロスの抱える悲しさにも想いを馳せることができる。私は雫ちゃんのこういうところが好きで、だから今回も、ああ、好きだよ、と思う。そして私までなんだかケンタウロスの悲しさが伝わってきてしまう。「そうか、悲しいね」

「でもまあ、あれかもね、ケンタウロスのつなぎ目の部分ってどうなってるか知らないけど、もしかしたら、下半身は消えてても、つなぎ目の部分がぎりぎり見えるかもね」

「おお、毛とかね」

「そう、毛とか」

「おお、じゃあもしケンタウロスの幽霊に出会ったら消えかけの部分をよく見たほうがいいね」

「そう、でも、あんまりじっくり見ると失礼かも」と雫ちゃんは真面目な調子で言って、そのあとぷっと吹き出す。

 私もつられて笑う。

 でも、この会話はここで終わる。雫ちゃんと私、昔はもっと話すことがあったような気がするのだけれど、さいきんではこんなことばかり話している気がする。

 

 

 その年、ケンタウロスたちがはじめてオリンピックに出場する。ケンタウロス男女別100m走、200m走、400m走、10000m走、走り幅跳び三段跳び陸上競技のみ、しかも限られた種目でしかなかったが、ケンタウロスたちにとっての悲願のひとつが達成される。ケンタウロス男子100m走・200m走・300m走の三冠を達成したイタリアのジョヴァンニ・ドローゴ選手は、優勝スピーチで「我々にとっては小さな一歩に過ぎない」と述べ、人びとはそれが感動のスピーチなのか、それともケンタウロス流のジョークなのか判断しかねる。ナイキがこのスピーチの瞬間を使用したCMを制作する。しかし、ケンタウロスたちがエア・ジョーダン1を履くことはない。

 

 

 いつのまにか雫はケンタウロスのことばかり考えている。おととい、夕子とケンタウロスの話をしたからだ。雫は聖司にもケンタウロスの幽霊のことを話す。聖司は「なんか思考実験っぽいね」という。シュレーディンガーの猫、胡蝶の夢ケンタウロスの幽霊。そう言われるとたしかになんだかそんな気はするけれど、雫はそういうことが言いたかったわけではない。「そういうことが言いたかったわけじゃないか」と聖司も言う。雫がそういうことを言いたかったわけではないことくらいは聖司にもわかる。でも、じゃあ何が言いたかったのだろう、と聖司は思う。どうしてケンタウロス?と聖司は思う。「どうしてケンタウロス?」と聖司は訊く。「わからない」と雫は言う。雫にはわからない。たぶん夕子にもわからない。

ディスクレビュー:バナナ倶楽部『Banana Club 21』

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バナナ倶楽部21枚目のアルバム『Banana Club 21』、通称『すべり出し窓』。

 バナナ倶楽部21枚目のアルバム『Banana Club 21』、通称『すべり出し窓』は、彼らのアルバムのなかでも人気・評価ともに高いアルバムのひとつだ。お馴染みの13曲が、このアルバムにおいては幾度となく切り刻まれ、サンプリングされ、再定義される。まるで、散らかった部屋を一気に模様替えするように。それでいて、全身を浸したくなるような心地よさは、彼らの全アルバム中でも随一だ。彼らがこのアルバムでやったのは、この「すべり出し窓」ジャケットに象徴されるように、まさしく模様替えと“換気”だった。

 その年の夏、アルバムは小さいながらもたしかな熱狂をもって迎えられ、バナナ倶楽部は何度目かのブレイクを果たした。代表曲「サイクリング」は夏のアンセムとしての新たな一面を獲得し、少ないながらもたしかに若者たちを踊らせた。このアルバムのおかげで「すべり出し窓」という名称を知った、というひともいたことだろう。

 

 僕はバナナ倶楽部の熱心なリスナーというわけではなかった。彼らが既に20枚近くアルバムを出していること、それらのアルバムはすべて同じ13曲を、アレンジを変えて収録したものであること。僕がバナナ倶楽部について知っていることといえばそれくらいのものだった。アルバムだって、2枚目と8枚目と16枚目しか聞いたことがない。そんな僕がこのアルバムの制作に参加したのは、まったくの偶然だったといっていい。僕と彼らの最寄りのまいばすけっとがたまたま同じだったからというのと、その年、僕が四六時中指を鳴らしつづけていたから。

 

 誰に強制されるわけでもなく、喜怒哀楽その他どんな感情も抱くことなく、その年、僕は右手の親指と中指を鳴らしつづけていた。鳴らしつづけていた、というより、あるいは、鳴りつづけていた、という表現のほうが僕自身の感覚には近いかもしれない。それはほとんど、僕の意思とは関係のないところで鳴りつづけていた。どうしてそんなことが現実的に可能だったのか、いまとなってはわかる由もないけれど、とにかく24時間指は鳴りつづけていた。寝るときも、仕事中も、セックスをするときにも、そのせいで口論になったときにすら、指は鳴りつづけた。どうにかしてよって言われても仕方ないだろ、と僕が声を荒げている最中にも、僕の指は鳴りつづけていた。生活のあらゆる局面に支障が出た。そのうちのいくつかは相手方の妥協という形でいちおうの収束を見せ、残りのほとんどは決定的な破局を迎えた。それまで築き上げてきたささやかながら健やかな生活があっという間に崩壊していくのを、どうすることもできないまま、僕は指を鳴らしつづけた。

 そのようにすべてが崩れ去っていくことに対して、僕は何の感慨も抱けなかった。なにしろ、鳴っているのは他でもない僕の指なのだ。怒ったり悲しんだりしてもどうしようもない。病院で診てもらってどうにかなる類のものでもない。僕はリモートで仕事を続け、週末には家でネットフリックスを見て、ときおりまいばすけっとで食料を調達した。

 ある日曜日の昼、いつものまいばすけっとで僕は、すみません、その指って、と話しかけられる。すみません、その指って、と話しかけられるのはいつものことだったけれど、すみません、その指って止められないんですか、と、すみません、その指ってすごくないですか、ではちょっと違う。そのときは後者だった。振り返ると、僕と同世代くらいの細身の青年が立っていた。あとからわかったことだけれど、その青年がバナナ1号だった。

 

 バナナ1号が興奮ぎみに話すところによれば、僕の指が鳴らしているリズムは音楽的に珍しいということだった。僕は僕の指の鳴らしているリズムを音楽的な見地から判断したことなんてなかったので、彼の言っていることはとても新鮮に思えた。詳しい話は僕には理解できなかったし、正直なところ彼のほうも理論的な部分はよくわかっていないようだったけれど、とにかく、僕の指のリズムは完全に新しいみたいだった。完全に新しいし、これまで聞いてきたどんなリズムより気持ちいいですよ。

 そうやって指を鳴らしていると、もう他のことなんてどうでもいいくらい気分がよくなりませんか、と彼は聞いてきた。

 どうなんですかね、僕が鳴らしたいと思って鳴らしているわけではないのでどちらとも言えないんですが、たしかに鳴らしていて嫌な気持ちになったことは一度もないし、やめたいと思ったこともありません。

 そう、つまりはそういうことなんですよ。

 なにがそういうことなのかは僕も彼もわかっていなかったと思うけれど、とにかく僕はそのまま彼に連れていかれ、レコーディングに参加した。バナナ倶楽部ではレコーディングに参加したひと全員に番号を振っているらしく、僕は栄えあるバナナ100号だった。

 

 そういった経緯で、僕の指のリズムを全曲に加え、完成したアルバムが『Banana Club 21』・通称『すべり出し窓』だ。僕の完全に新しい(らしい)リズムはバナナ倶楽部の13曲に新たな命を吹き込み、前のアルバムで煮詰まってしまっていたアレンジを完全に“換気”した。

 すごいよきみ、腕のいい整体師に診てもらったみたいに完全に新しく聞こえる、とバナナ1号は言った。

 嵐のようなジェットコースターに乗って、天と地がひっくり返ってしまったみたいな音だ、とバナナ2号は言った。

 大根だと思って育てていたものが、実はNASAのロケットだったとわかったときと同じ気分がするぜ、とバナナ3号は言った。

 まったくだ、とバナナ4号は言った。

 どれもぴんとこないたとえだった。

 僕は全曲にきちんと「バナナ100号」としてクレジットされた。クレジットされている以上、彼らは僕の指のリズムを曲中に使ったのだろうけれど、しかし自分で聞いてもどれが僕の指の音かはまったく判別がつかないのだった。僕が音楽に疎いというのもあったかもしれないけれど、わかっていないのは僕だけではなさそうだった。実際、数は少ないながらも好意的なレビューがいくつか出たなかで、リズムの新しさに言及しているものはひとつもなかった。騒いでいるのはバナナ倶楽部の面々だけのようなものだったし、その彼らでさえ、ほんとうはよくわかっていなかったのではないかと思う。僕とバナナ倶楽部は自分たちだけでささやかなリリースパーティーをして、それ以来会うことはなかった。

 僕の指はそれからもやはり鳴りつづけた。完全に新しいリズム。そう意識すればするほど、凡庸にしか聞こえないのだった。ちっぽけでつまらない、僕の指のリズム。アルバムのどこにどのように使われたのかもわからない、誰も踊らせることのできない、ぴんとこないたとえしかされない、僕の指のリズム。そうして不快感は徐々に増していき、その年の冬、いやな気持ちが頂点に達したところで、指は鳴りやんだ。

熊は語る

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 熊のぬいぐるみが僕のほうを見ている。確実に目が合っている。

 彼ら彼女らの目なんてプラスチックに過ぎないのだから、実際に「目が合っている」なんてことがないことは少し考えればわかるのだけれど、しかしいまこうやって「目が合っている」と感じている僕がいて、いろんな角度から検証してみたところやはり熊は僕を見ているとしか思えず、そうとしか思えない以上、やはり目は合っているのだろう。熊は僕を見つめ、僕もやはり熊を見つめていて、部屋には僕の呼吸の音だけが響いている。熊の呼吸の音はしない。熊は息を止めて、ただじっと僕を見つめている。熊はおそらく僕に何か言おうとしているのだろう。何か言おうとしているのが目から伝わってきて、わかる。人間相手でもわからなかったようなことが、この熊相手だとわかる。熊には口がないので、実際に音としての言葉を発することができない。その代わりにプラスチックの目で語る。おそらく熊は、
 おいおい、この熊のことを忘れたってのかい
 なんてことを言おうとしている。
 それとも、
 こんばんは、熊です、お久しぶりです
 と、まずはあいさつから始めているかもしれない。
 あるいは、
 さて、それではいまから、この熊があなたの部屋のクローゼットで過ごした20年間の話をしましょうか
 なんてふうに、恨めしげな語り部となっているのかもしれない。
 僕はプラスチックの目から精一杯読み取ろうとするが、熊が何を言おうとしているのか、正確にはわからない。僕は熊が言っていることを推測し、できるだけ会話が成立するように返事をする。僕の本物の目は、熊のプラスチックの目ほどには物を語らないので、僕は目ではなく口で返事をする。
 すみません、お久しぶりです、ご無沙汰していました、クローゼットに放りっぱなしにしてしまっていたみたいでどうもすみません、20年間とおっしゃられましたでしょうか、ずいぶん長い間閉じ込めてしまっていたみたいです、どうもすみません、しかしあれですね、20年前というと、僕もほんの子どもですね、その頃の僕はあなたと遊んでいたのでしょうか、どうも思い出せないのです、すみません、あなたとは初めて会ったという気がしています、20年前、僕とあなたは仲がよかったのでしょうか
 部屋には僕の発する言葉と呼吸の音だけが響いている。熊のプラスチックの目には僕がしゃべる姿が広角で映し出されている。
 熊は少し考えるような様子を見せてから言う。
 この熊も覚えていないのですよ、ただただ20年間クローゼットで過ごした記憶だけがあり、その前、あなたと遊んだ記憶はない、だからこの熊をクローゼットに閉じ込めたのがあなただとは限らないんですが、しかしこうやって20年後出てきたところがあなたのクローゼットだった以上、あなたが閉じ込めたと考えるのが自然なんです
 僕は頷いて言う。
 なるほどなるほど、僕も同意です、たぶん20年前にあなたをクローゼットに閉じ込めたのは僕なのでしょうし、それまであなたと僕は遊んでいたのでしょう、すみません、そしてそうですね、おそらくあなたと僕はこんなふうに遊んでいたはずです


 *


 熊と僕はおそらくこんなふうに遊んでいたはずだ。

 熊が現れたのは僕が4歳の頃のことだ。4歳の頃というと僕の弟が生まれた時期でもあるのだけれど、熊はおそらく、弟の誕生より少し前に僕の部屋に現れていたはずだ。熊が現れた日、家の中に赤ん坊の泣き声はなかった。
 熊はおとなしかった。熊のほうから僕に向けて何かしらのコミュニケーションを取ってくることはなかったし、僕のほうも、この初めて目にする生きものに興味こそあれ、遠巻きに観察することしかできなかった。熊は床の上に寝転がり、呼吸の音さえ立てることなく、ただただ虚空を見つめていた。
 熊はしかし、ただただ虚空を見ていたのではなかった。僕がようやくそのことに気がついたのは、熊が部屋に現れてから3日目のことだった。冒険心と警戒心の折衷案として、ほふく前進でそろりそろりと近づき、おもむろにその真っ黒な目を覗きこめば、その目もまっすぐこちらを見つめていた。その目には、4歳の僕が知っている限りのどんな感情も込められていなかった。ただただ何か言いたそうな目だった。熊はこの部屋に現れてからずっと、おそらく夜のあいだも絶え間なく、何か言いたげに僕のほうを見ていたのだろう。そしてそのとき熊は、あろうことか、しゃべった。
 よろしくお願いします
 目を大きく見開くだけにとどめた僕は褒められるべきだろう。冒険心と警戒心の結晶として、僕は悲鳴をぐっとこらえた。部屋は静かなままだった。熊は実際に声を発したのではなさそうだった。熊には口がなかった。熊は目で語りかけてきたのだった。4歳の僕にとって、それは初めての経験だった。何か特殊なことが起きているのはなんとなくわかった。僕の小さな世界が大きく揺らいでいた。この揺らぎがどちらに転ぶのか、そんなことを考えるまでもなく僕は応えていた。
 こちらこそ
 これが、僕と僕の秘密の友だちとの最

 

 いや、違いますね
 と、熊が言う。唐突に割り込まれて、僕の話はとたんに輪郭を失う。熊は続ける。
 まったく、ぜんぜん違いますよ、『E.T.』じゃあるまいし、感傷が過ぎますよ、大人が作った子どもの話って感じです、この熊をそんな話に使ってほしくないですね、勝手なノスタルジーを投影しないでください、最悪ですよ、やめです、もうやめにしましょう

 こんなに説教されるのは久しぶりで、さすが熊だな、と僕は思う。強く、かしこい生きものだ。

ドライブ1

 ニッポン放送『オードリーのオールナイトニッポン』に、ニチレイの冷凍食品をレンジでチンしている間リスナーからの投稿を読み上げる、というコーナーがあって、そのコーナーのこないだまでのテーマが「怒ったわけでもおもしろかったわけでも悲しかったわけでもないのになぜか忘れられない記憶」だった。

 

 小学生の頃、家族で九十九里のほうまでドライブに行きました。ふだんどちらかというと寡黙だった父が、海が見えた途端にカーステレオでサザンを流し始め、一曲終わったところで止めて、まあ、海といったらサザンだしな、とだけ呟いたあとの、何故だか車内の誰も言葉を発しなかったあの一分間、きらきら光る海が窓から見えていたことが忘れられません。

 

 そういう類の記憶。

 次々と読み上げられ、電波に乗せられてゆく知らない誰かの記憶たちを、いいなあ、と思いながら聞いていた。読み上げながら、あー、こういうことあったよなあ、俺もさあ、と自分自身の記憶と紐づけて話を展開する若林を、すごいなあ、と思いながら、僕自身はひとつも記憶を引っ張りだすことができないまま、何週間かが過ぎ、メールテーマは変わってしまったのだった。

 振り返ってみれば僕自身にはそういう類の記憶がなくて、というか少なくとも思い出せる範囲にはなくて、もしかしたらどこかに手つかずのまま眠っているのかもしれないけれど、とにかくぱっと引っ張りだせる範囲にはない。

 でも、過去は語りなおすことができる。時代そのものを書き換えることはできないかもしれないけれど、個人の過去は語りなおすことができる。たとえば、スマホに入っているいつか撮った写真を眺めながら、たしかこうだったような気がする、もしかしたらこうだったかもしれない、と、ありえたかもしれない記憶を引っ張りだすことができる。いまとなってはどうして撮ったのか忘れてしまった写真であっても、シャッターを切った瞬間にはシャッターを切るだけの感情の動きがあったはずで、その瞬間に立ち戻ろうとすれば、過ぎ去った感情をもう一度手繰り寄せることができる。そうやって僕自身の「怒ったわけでもおもしろかったわけでも悲しかったわけでもないのになぜか忘れられない記憶」を語ってみることができる。

 

 

 

 

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  友だちと旅行していたときの写真。

 

 その街にはどうしてかこういう展望台みたいなものが屋上からニョキっと生えている建物が多かった。前の日に街に着いたときにはもう夜だったので気がつかなかったけれど、次の日、ゲストハウスを出て辺りを見回してみると、五階建てくらいのいくつもの建物の上に、こういう展望台みたいなものが生えているのだった。その街には、1970年代に様々な分野の作家が集まって暮らしていたコミューンの跡地があって、そこを見に行くつもりで来たのだったけれど、その朝、僕たちは展望台にすっかり気を取られてしまった。ひとつならまだしも、見える範囲でも十に近い展望台がその街にはあった。

 展望台のひとつを見上げていると、ふいに後ろから

 あれ、入れんねんで

 と話しかけられ、振り返れば、自転車に乗ったおじさんが去っていくところだった。おじさんはそのまま一度も振り返ることなく、建物と建物の陰に消えていった。えらく痩せ細ったおじさんだった。

 

 その日、けっきょく展望台の謎を放置したまま目的のコミューンの跡地を見に行って、そのあと入ったカフェでアイスカフェラテをすすりながら、

 入れんねんで、って、入れる、と、入れない、のどっちだっけ

 と友だちが呟いたのを、ずっと覚えている。たしかに、と妙に強く返事したのも覚えている。

 

 

 

 

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 『世界の奇妙な木を見に行く2泊3日』と題されたツアーで、連れていかれたのが山梨の山中湖の近くだったから、驚いちゃった。

 世界、近くない?

 でも、たしかにバスの外に流れる景色の中には奇妙な木がたくさんあって、奇妙な木に囲まれちゃってる家とかもあって、こういう木に囲まれた暮らしって、どんなんだろうな、って考えこんだ。でも、いくら考えてもそういう暮らしがいっこうに想像できなくて、そういうひとって何色のパンツ穿くのかな、とか、悲しいときには素直に悲しいって言うのかな、とか、なんか細かいことばかりが気になってしまって、でも、それらの疑問に答えてくれるひとなんていないままツアーは終わっちゃって、私は家に帰った。

 

 

 

 

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 何人かでレンタカーを借りて出かけた日の、帰りの車内。用意してきたプレイリストもひと通り流し終えて、とりあえず二周目をシャッフル再生している。濡れた靴も靴下も、とりあえずそのまま履いている。氷も溶けきって限りなく薄まったカフェラテを、手持ちぶさたそうにすする。スピーカーはちょうど星野源を流していて、誰かが、あ、ふつうに星野源のアルバム聞こうよ、と言う。

2019年よかったもの

 2019年よかったものを振り返ってゆきます。なにより、自分のために必要だと気づいた……

 

■よかった映画

 新旧含めてよかった映画、観た順で『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』、『バーニング 劇場版』*、『ファニーとアレクサンデル』*、『フェリーニのアマルコルド』、『スパイダーマン:スパイダーバース』*、『運び屋』*、『ワイルドツアー』*、『ハイ・ライフ』、『あみこ』*、『わたしたちの家』*、『聖なるもの』、『7月の物語』、『旅のおわり世界のはじまり』、『COLD WAR あの歌、2つの心』、『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』、『さらば愛しきアウトロー』、『サマーフィーリング』*、『海獣の子供』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』*、『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』、『アド・アストラ』*、『ジョーカー』、『サタンタンゴ』*、『象は静かに座っている』、『わたしは光をにぎっている』、『マリッジ・ストーリー』*です。*をつけた映画は特に好きだったものです。

 以下、ひと言コメントです。

 映画体験としてよかったのは、5/2の新文芸坐オールナイトです。日本の新鋭監督の作品をラインナップした回で、特に『あみこ』がよかった。

 12月に『サタンタンゴ』を観た日のことが忘れられません。イメージ・フォーラムの固めの座席で、よく7時間も耐えられたものです。ぜったい忘れないだろうな。降りやむことのない雨、歩いても歩いても終わりのない閉塞感、ただ飲んだくれて踊り、やがてやってきた「救世主」にすがることしかできない人びと。ちょいちょい寝てしまったけど、はっと目を覚ましてもまだ同じシーンが続いてる。驚異的な長回しからは、画面のなかの人びとが “そこにいる” 感触が立ち上がってくる。おもしろいのは、観てるこっちもだんだん長回しのテンションに同期してくるような心地がしてくること。たとえば、冴えない男が荷造りしてるシーンなんてふつう描かれないけど、サタンタンゴではそれをすべて映す。たとえば、ひとが歩いてるカットが始まったら、その姿がはるか遠く、豆粒のように小さくなるまで終わらない。ひとつひとつのカットが長く続くことへのある種の信頼感みたいなものが生まれてくることで、そこに映っているなんでもない物ごとに目がいくようになって、そこにある世界への解像度が上がる。そこにいる人びとの一挙手一投足が目に刻まれる。その分、どこにも行くことのできないやるせなさが沁みる。すごい映画でした。

 三宅唱監督の『ワイルドツアー』は、映画そのもののみずみずしさもそうだけど、映画より前に見ていた同監督のインスタレーション展示『ワールドツアー』との相乗効果みたいなものがほんとうに素晴らしかった。

 『マリッジ・ストーリー』、映画館で観たほうがよかったかもしれないな。さいきん、アダム・ドライバーが奇妙な状況に陥っているのを見るのが好きです。あのデカさのひとが、奇妙な状況に陥って困り顔を浮かべている姿、それだけで楽しくなってきます。こないだの『スター・ウォーズ』の冒頭5分くらい、アダム・ドライバーが無言であちこちに移動する映像だったんですけど、それだけでちょっと笑ってしまった。あと、ついこないだの『テリー・ギリアムドン・キホーテ』でも最高に奇妙な状況に陥っていてよかった。あ、『スター・ウォーズ』と『ドン・キホーテ』は2020年の話ですね。

 

■よかった読み物

 新旧含めてよかった読み物、だいたい読んだ順で、多和田葉子『飛魂』、panpanya『足摺り水族館』『枕魚』、ミランダ・ジュライ『最初の悪い男』*、朝吹真理子『きことわ』*『流跡』『TIMELESS』*、ミシェル・ウエルベック服従』、伊藤計劃虐殺器官』、大島弓子『バナナブレッドのプディング』*、舞城王太郎『短篇五芒星』、村上春樹柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』、今村夏子『こちらあみ子』、滝口悠生『死んでいない者』、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』*、町屋良平『青が破れる』、山下澄人『鳥の会議』*『砂漠ダンス』『しんせかい』『緑のさる』『ギッちょん』*、村上春樹1Q84』*、アメリア・グレイ『AM/PM』*、川上未映子『ヘヴン』*『夏物語』、オカヤイヅミ『ものするひと』、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、岸政彦『断片的なものの社会学』、森泉岳土『ハルはめぐりて』*、夏目漱石『坑夫』*、三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』*、アントニオ・タブッキ『遠い水平線』、保坂和志『プレーンソング』『カンバセイション・ピース』*『カフカ式練習帳』*『書きあぐねている人のための小説入門』、鶴谷香央理『メタモルフォーゼの縁側』*、高山羽根子『オブジェクタム』、奥田亜紀子『心臓』*、大橋裕之『シティライツ』*、高野文子『棒がいっぽん』*『るきさん』『黄色い本』、佐藤泰志きみの鳥はうたえる』、フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』*、エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』*、植田りょうたろう『はなちゃんと、世界のかたち』、レベッカ・ブラウン『若かった日々』、エイドリアン・トミネ『サマーブロンド』『キリング・アンド・ダイング』*、フランチェスカ・リア=ブロック『"少女神"第9号』、ニック・ドルナソ『サブリナ』、田島列島『ごあいさつ』、石黒正数ネムルバカ』、西村ツチカ『アイスバーン』、山里亮太『天才はあきらめた』、レイチェル・ギーザ『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』、ティリー・ウォルデン『スピン』、テッド・チャン『息吹』*です。

 2019年はけっこう本に興味が向いていた一年で、いろんなものを読みました。個人的には、山下澄人保坂和志に出会ったのはけっこう大きかった。

 読んでいていちばん楽しかった本は、エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』です。RPGゲームになったら、ぜったいに買う。

 

■よかった音楽

 新譜でよかったもの、リリース順で、というか僕のApple Musicのライブラリに追加した順で、James Blake*、Sharon Van Etten、Deerhunter、Julian Lynch、Toro y Moi*、Beirut*、Homeshake*、Yves Jarvis*、Nicholas Britell、Little Simz、Solange*、柴田聡子*、さとうもか、Helladusty、Billie Eilish、ミツメ*、Anderson Paak.、Julia Jacklin、Gus Dapperton、Kevin Abstract*、Christian Alexander、Matt Martians、Kelsey Lu、Vampire Weekend*、Big Thief*、never young beachMac Demarco、Jamila Woods、Tyler, the Creator*、王舟、Steve Lacy*、Faye Webster*、東郷 清丸、ゆるふわギャング、MIKE、Kate Bollinger、Thom Yorke*、Daniel Caesar*、Weyes Blood、北里彰久*、KAINA、Blood Orange*、Cuco*、Hi'Spec*、Clairo*、Bon Iver*、Taylor Mcferrin、Ross from Friends、BROCKHAMPTON*、Whitney*、Salami Rose Joe Louis、Chinatown Slalom、Ginger Root、Sandro Perri、Santi、(Sandy) Alex G*、Men I Trust、JPEGMAFIA*、カネコアヤノ、優河、Cate le Bon、Wilco*、Kim Gordon、Slow Hollows、Rex Orange County、Jack Larson*、Kanye West、Earl Sweatshirt、Mndsgn、シャムキャッツ*、Jadasea、Winona Forever、FKA twigs、Matt Maltese*、Vegyn*、小沢健二、Tei Shi、KAYTRANADA、Danny Brown、小袋成彬*、Lana del Reyです。アルバムタイトルは、たいへんなので省略します。

 個人的な年間ベストアルバム、諸説ありますが、意外とJames Blakeなんじゃないの、という気がしています。

 あとは、このほかで曲単位だと『スパイダーマン:スパイダーバース』で使われていた”Sunflower”がけっこう好きでした。Post Malone、声がカッコいいんですよね。

 

 なんとなくですが、僕のなかの指標として、新作だけじゃなく旧作も掘れていると時間的・空間的余裕があるという証で、逆に新作しか追えていないときはそんなに余裕がないという証だという感じがあります。それでいうと、映画や本に関しては比較的余裕があって、音楽に関してはあまり余裕がなかった年でした。というか、音楽に関しては年々余裕がなくなってきている気がして、さいきんではいい音楽がリリースされる間隔があまりに短く、そのこと自体は世界にとってよいことのはずなのだけれど、僕個人としてはそれらを受け止めきることができず、すくってはこぼし、すくってはこぼすうちに残酷に時は過ぎていきます。せっかく好きになったそれらの作品が僕のなかで見失われないようにと、せめてこうやって備忘録をつけているわけですが、でもけっきょく次々と新作が出てくる日々のなかで備忘録に記されたことにかまっている暇もない。いちいち聴き返したりしている時間もない。しかも、備忘録に書かないという選択をした作品たちについては、もはやすくい上げる手段もないままに忘れていってしまうのかと思うと、とっても悲しいのです。そもそも、映画だってもっと観たいし、本だってもっと読みたいし。展示とかだってもっと行けたらいいなと思うし、演劇だって見てみたい。無限にきいていたいし、みていたいし、よんでいたい。僕という有限性のなかで、世界に無限に存在するいいものに対峙していく、そのバランスをまだ探っている途中なのかもしれません。

 

■そのほかによかったもの

 時の流れに逆らえず、何もかも忘れてしまいました……