バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

バナナ・ボム

 店に警官がやってきた。私は法律書コーナーの埃をはたきではらっているところだった。

 警察です、と彼らは言った。背が高く胸を張った男と、背が低いうえに猫背の男の二人組。内側にひどく窪んだ眼と、息も吸えなさそうな鉤鼻からは、正義感のかけらも感じられなかった。それに何と言っても唇だ。彼らの唇は薄く、白く、乾燥し、陰気そうに歪んでいて、ついさっき墓地から掘り出してくっつけたみたいだった。が、警察を名乗っている以上、ほんとうに警察なのだろう。制服もそれなりにきっちり決まっていた。疑う余地はない。

 微笑を浮かべているつもりなのだろうか、彼らは口元に黒ずんだ皺を寄せながら、私の店に入ってきた。背の低い方の警官が狭い店内をぐるりと見回し、いいお店ですね、と私に言った。深い井戸の中でジメジメした蛙が鳴いているような声だった。

 狭いですし、ほとんど人も来ませんけどね、と私は応えた。慌ててはたきをエプロンのポケットにしまい、慌ててレジの方へ戻った。実のところ少し緊張していたのだ。平日の午前中の狭い古本屋に、警官が二人も踏み込んできている光景というのはあまり穏やかではない。

 お話を伺ってもよろしいですか、と背の低い方が言ったあと、蛙よろしくゲロッと鳴いた。少しだけお時間をいただけるとありがたいのですが。ゲロッ。

 こういう場合、よろしいもよろしくないもないのだ。ええどうぞ、どうせ暇ですから、と私は言った。奥に上がりますか?

 いえ、ここで結構です、と丁寧に蛙は言った。ルノワールの画集の背を短い指でなぞりながら彼は続けた。では早速本題に入りたいのですが、昨日の午後、この店に来た男のことを覚えていますか? 年齢は30くらいで、身長は、そうですね、ちょうどこの本棚のこの段くらいだったはずなのですが。

 お話というから、失踪した夫や息子のことだと思ったのだがどうやら違うらしい。夫は30歳より更に30くらい年をとっていたし、息子はちょうど30歳だが、背は蛙が指し示した位置よりずっと高かった。私はポケットに入れたはたきを手でいじりながら応えた、昨日の午後ですか? 30歳で160センチメートルの男?

 そうです、と蛙は頷いた。難しいかもしれませんが、昨日の午後に来た男の客をできるかぎり思い出してみてほしいのです。

 昨日の午後に来た男の客をできるかぎり思い出してみるのは、そんなに困難なことではなかった。せいぜい片手の指で数え切れる程度しか来なかったからだ。20年前のスペインの観光ガイドを売りに来た男が一人。一時間近く店内を歩き回ったあげく、何も買わずに出ていった男が三人。文庫のドストエフスキーを買っていった男が一人。このうち30歳くらいで160センチメートルくらいの男といったら、最後に挙げた一人しかいない。

 30歳で160センチメートルの男ですよね、思い出せそうだわ、と私は蛙に言った。蛙と、もう一人の背の高い警官は顔を見合わせ、陰気そうに歪んだ唇をさらに歪ませて頷きあった。

 よかったです、その男のことを詳しく覚えていますか、と蛙が聞いてきた。

 ええ、覚えています、と私は言った。

 実際、その男のことははっきり覚えていた。新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』の上巻と下巻を買っていったのだ。お客さん、これほんとうは中巻もあるんですよ、うちには置いていませんがね、と私は言った。構いません、と彼は応えた。それより、申し訳ないのですがいまお金を持っていなくて、代わりにバナナで支払ってもよろしいでしょうか? バナナで? 別に構いませんが。どうもありがとうございます、はいこれ、バナナです。こうして彼は『カラマーゾフの兄弟』の上巻と下巻を手に入れ、私の手元にはバナナが残った。奇天烈な出来事だったし、昨日の今日なのではっきり覚えていた。いくら寂れた古本屋とはいえ、支払いにバナナが使われるなんてめったにあることではない。

 私がこの話をすると、警官たちの陰気そうな白い唇にほんのり朱が差したようだった。蛙はゲロッと鳴いた。バナナ! 男はバナナで支払ったっていうのですね? それでもって、どうしてあなたはバナナでの支払いなんて許可したんです?

 だって、中巻の抜けた上中下巻セットなんてあまり価値があるとは言えませんからね、バナナだとはいえ、支払ってもらっただけでも御の字ですよ、と私は応えた。それに、バナナで支払ってもらうなんて素敵だとあのときは思ったのだ。生活の中にちょっとのユーモアは欠かせない。しかし、もしかしたらそのユーモアを許容したせいで厄介なことに巻き込まれたのかもしれない。

 すみません、あの男がどうかしたのでしょうか、と私は蛙に聞いてみた。

 いえいえ、その男がどうかしたかという点はこの際気にしないことに致しましょう。ゲロッ。正直なところ、我々としてはその男自体よりその男があなたに渡したバナナの方に興味があるのです。

 あのバナナにですか、と私は驚いた。するとこの警官たちはバナナに関する捜査を進めているのだろうか。私が知る限りでは、バナナが違法になったという話は聞いたことがなかったが。あのバナナにご興味が?

 ええ、どんなバナナだったか覚えていらっしゃいますか?

 そうですねえ。どんなバナナだっただろう。いかにもバナナ然としたバナナだった気がします。ここ5年で見たバナナのうちでは一番美しいバナナでしたよ、反り方も、明るく上品なイエローの発色も。

 ええ、そのはずです、見た目はとっても良いのです、と蛙は鳴いた。ただ、そのバナナはちょっとばかり特殊なものでしてねえ。渡していただけたら実際にご説明して差し上げられるのですが、いまどこにあるのです?

 特殊! 私は思わず上ずった声を出してしまった。特殊なバナナですって? バナナに特殊も特殊じゃないもあるんですか? 先にどう特殊なのか説明していただけませんか? そうしていただくまでは、バナナのありかをお教えするわけにはいきませんよ。こちらにもなんとか権とかいうものがあると思いますので。私は仕方がなく少し強気に出た。私自身のためだった。あのバナナがどのように特殊なのか、その特殊さの種類によっては、このあとの私自身の身の振り方にも関わってきそうだったからだ。

 蛙ともう一人は顔を見合わせた。しばしの沈黙のあと、乾いた唇をピンクの舌で舐め回し、蛙が声をひそめ言った。いいですか、奥さん、そのバナナは、爆弾になっているのです。時限爆弾ではなく、何らかの刺激がきっかけになって爆発するタイプの爆弾です。しかしどんな刺激がスイッチになるのかは我々にもまだ分かっていない次第でしてね。とにかく恐ろしい威力を持っていることは明らかなのです。この店なんて木っ端みじんになってしまうような。我々はある男がその爆弾を所持していることを突きとめ、足取りを追っていたのですが、どうやらその男は、いつ爆発するともわからない爆弾に恐れをなして、誰かに押し付けることに決めたらしいのです。そしてなぜだか町のしがない古本屋が選ばれた。そう、昨日あなたが貰ったバナナが、その爆弾です。あなたは彼に厄介なものを体よく押し付けられたわけです。奥さん、そのバナナは我々が慎重に回収いたしますので、どうぞ、どこにあるのか教えてください。

 

 

 総合的に判断するに、私が今日の朝ミキサーにかけ、ミルクと混ぜ、シェイクにして飲んだものは爆弾だったらしい。

 私は警官たちに応えた。それがですね、昨日受け取ってからレジの横に置きっぱなしにしておいたのですけど、今朝私が店に降りてきたときには既になくなっていたのです。店のどこかに転がっているのか、それとも夜のうちに誰かが忍び込んで持って行ってしまったのかはわかりませんけどね。ただのバナナだと思って、なくなったこともそんなに気に留めていませんでしたが、爆弾となると事情が違いますね。どうぞ、店の中はご自由に探してみてください。どうせ誰も来ませんからね、お気になさらず、お好きなだけ。

 私の返答を聞いている間、彼らの薄い唇は白を通り越して藍色に染まっていき、歪みきり、乾燥しきって真ん中でぱっくり左右に割れてしまった。彼らは黙りこくって、窪んだ眼で5分も私を見つめ、ゲロッと小さく鳴いた。

 そのあと、彼らは私の店の中を慎重に5時間もうろうろし、念のためと言って2階の私の部屋まで3時間もきょろきょろして回った。私は彼らがそうしている間、法律書コーナーの掃除を済ませ、文庫本コーナーを出版社順から作者順に並べ直し、たまに訪れる客の相手をし、古いVHSを順番に再生して状態を確認した。日が傾いてきたころになって、警官たちは捜索を打ち切った。蛙がルノワールの画集をレジまで持ってきて、代金をきちんと現金で払った。

 去り際に蛙が私に聞いてきた。すみません、あなたが食べたってことはありませんよね?

 とんでもない、と私は言った。食べていたら素直に白状していますよ。だって爆弾なんでしょう?

 

 

 彼らが帰るのを見届けてから私は店を閉めた。入り口のドアに鍵をかけ、ブラインドを下ろし、大して増えも減りもしないレジの金を数え、そこにも鍵をかけ、電気を消し、2階の自分の部屋へと上がった。電気ポットでお湯を沸かし、コップに注ぎ、アールグレイのパックを入れて椅子に座った。なぜ警官に嘘をついたのか自分でも不思議だった。我ながら大胆なことをしたな、と思った。

 私の体内には小さな爆弾が無数に存在していた。それらは、いつ、どんなことで爆発するのかわからなかった。