バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

日記(2月21日)

アマルコルド、ざらざら、ワールドツアー

 

・『フェリーニのアマルコルド』を観た。なんと! 3月12日までGyao!で無料で配信してくださっている。

gyao.yahoo.co.jp

・なんとも不思議な映画だ。イタリアのどこかにある小さな港町に暮らす人々の、とある一年間が描かれる。いちおう主人公と呼べそうな少年とその一家に焦点が当てられて話は進むのだけれど、映画の中心に据えられているのはむしろ町自体の姿であり、そこで流れる時間だ。細切れのエピソードの連なりによって映画が構成されているという点も、この映画が人物主体でないことの証しかもしれない。

・細切れのエピソードの連なりによって約2時間の映画が構成されている。短いものはほんの2分程度しかないし、長いものでもせいぜい15分といったところだったと思う。そのひとつひとつはなんでもないような寸劇だ。デフォルメされたような愉快な人物たちが駆け、怒鳴り、笑い、ほえ、泣き、カメラはそれをときに遠巻きに、ときに寄り添って映す。美しい演出と撮影に支えられてずっと見ていられるのだけれど、それはもう驚くほどに細切れで、ときおり、僕は何を観ているのだろう、という気にさせられる。ところが、死と祝宴によるエンディングを経てクレジットが流れるころには、不思議なことに胸にぐっとこみあげるものがある。なんでもなかったはずのあれやこれやが途端に輝きはじめる。なぜ?

・もちろん演出・編集の妙がバリバリにきいているのだろうけれど、フェデリコ・フェリーニが虚構性をはっきりと意識している、というのも大きな要因じゃないかと思う。登場するのはデフォルメされた人物ばかりだし、カメラに向かって話しかける人らもいるし、そもそも町全体が架空のもので、そこにフェリーニの少年時代の思い出が投影されているだけだというし。これって全部架空のものだもんな、という意識も相まって、“もうこのころには戻れない”という感覚が強調される。古きよき時代、といったらチープに過ぎるけれど、意図されているものはそれに近いと思う。それと、これは僕の側の事情になるけれど、パソコンの小さい画面で観たというのも関係しているかもしれない。小さな画面のなかで小さな人々がなにやらせわしなく動き回っている姿に涙してしまう。映画って、概して大きな画面で観た方がいいに決まっているけれど、でもなんだか小さい画面で観たからこその感慨って、たまにだけど、ある。

 

・『フェリーニのアマルコルド』みたいに、細切れのエピソードの連なりではあるけれど、短編・掌編オムニバスという感じでもなく、あくまでひとつの長編映画だという感じがする映画って、他になんかありませんか? 思いつきません。探しています。なんでもない瞬間の連なり、ということでいうと、小説だと川上弘美さんの『ざらざら』なんかが思い出される。あれはよかったなあ。あれに似た感じの小説ありませんか? 探しています。よく考えれば、Twitterのタイムラインなんかもなんでもないことの連なりだ。

 

・『アマルコルド』が映し出していた、なんでもなさの連なり、という要素をさらにぐーっと推し進めたのが三宅唱によるインスタレーション展示《ワールドツアー》といえるかもしれない。観ている僕の側でたまたま繋がったってだけで、三宅監督は今回の制作にあたって『アマルコルド』を参照したってことはたぶんないけれど。

・恵比寿映像祭っていう基本無料の特集展が東京都写真美術館・日仏会館で今週末までやっていて、そのなかに三宅唱による《ワールドツアー》という展示があるという。映画『きみの鳥はうたえる』における、あまりにみずみずしい夜のシーンが強く頭に残っている。あんなシーンを撮れる監督のインスタレーション展示とあっては、行かない手はないでしょう。しかも無料というし、寝転がれるというし。詳しいことは、三宅監督自身の文章( https://magazine.boid-s.com/articles/2019/20190218001/ )や、美術手帖webに掲載されているレビュー( https://bijutsutecho.com/magazine/review/14941 )を参照。 

 

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 ・目の前の三面スクリーンに映し出され次々と切り替わる映像、そのひとつひとつはほんとうになんでもない瞬間のはずなのだけれど、それをこういう形で提示されると途端に引き込まれてしまう。テンポよく切り替わり、ときに合流する三つの映像の何にここまで魅せられるのだろうか。ずっと見ていると、細切れに切り替わる映像の背後に四季が流れていることがわかる。時間がたつ、というのは世界を感じるための大切な要素のひとつなんじゃないか。しつこいけれど、さっきの『アマルコルド』もそうだったもんね。

・三面スクリーンの向かいにはもう一つ小さなスクリーンがあって、そこには、撮影したけれど使われなかった無数の映像が早送りで流れている。そっか、前の三面に流れている何でもない映像も、膨大な蓄積のなかから選定され、途方もない編集を経てここにこうして流れているのである。音に注意してもおもしろくって、そのときどきでスクリーンごとに音量の大小が違うのである。流れる映像も、その切り替わるタイミングも、音響も、おそらく高度に練られた映像なのであって、だとするとこんなに魅せられるのも納得がいく。日常を切り取るだけなら誰だってできるけれど、魅せる、ということになるとまったく話が変わってくるのだろう。日常物こそ難しい。

・小さい方のスクリーンの横には制作日記も印刷されていて、そこで三宅監督がとてもいいことを言っていた。僕も日常の美しさがどうのこうのなんて去年から言っているけれど、それでどうやってひとを魅せるかということについて意識的になっていきたいところである。なっていかなければならない。

2018年3月23日(金曜日)

ずっと「ワールドツアー」の編集をしている。「一体どういうカットが使われたり使われなかったりするのか」と尋ねられる。たとえば、実際に体験した方が明確に面白そうなイベントごとを映像でみるのは、なかなか面白くない。むしろ、実際に目でみただけならまるで気がつかないかもしれない瞬間や風景を、映像でみることではじめて面白いと思えること。例えば空き地とか。カメラや映像によってその場所の潜在的な可能性が示される、という感じ。映画が役に立てるとしたら、こういうことではないか。(中略)映像と映像の間には、撮られなかった無数の瞬間、無数の出来事がある。