バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

『ひよっこ』について

 『ひよっこ』(http://www.nhk.or.jp/hiyokko/)、ねえ。良いですよねえ。最近の朝ドラじゃ一番じゃないかなと思うわけです。有村架純は作品に恵まれている感があるし、良い女優になってきた感もあります。

 さて、このドラマの良さについていくつか考えたので、今回は3つ発表します。

 

 まずひとつは、物語が進まないこと。

 このドラマ、もちろん細かい部分は常に動き続けているけれど、大筋としてはずっと「行方不明になったお父さん(沢村一樹)を探している」状態で止まっているんですよね。なんでそんなことになるか。それは、主人公・谷田部みね子(有村架純)が“待ち”のヒロインだからなのです。彼女は、お父さんを探すといっても、血眼になって東京中を捜索するわけではない。電柱にポスターを貼ったりもしない。「お父さん、どこにいますか」と心で問いかけながら、彼女は、東京の街で懸命に彼女自身の生活を送っているのです。

 この“待ち”の人物像が、物語全体のペースメーカーとなっていることは間違いありません。『ひよっこ』がどれくらい遅いか。去年の『べっぴんさん』と比較してみましょう。『べっぴんさん』では早くも4週目くらいにはヒロインは結婚して子供までいたのですが、『ひよっこ』においては、10週経過した今も、ヒロインのみね子にはまだカレシすらいないんですよね。遅い。

 物語が進まないことによって、周囲の人々とみね子とのコミュニケーションが密になる。話が大きく動かない分、会話が密に描かれることになるのです。『ひよっこ』においては、人々が輪になって語らうシーンが幾度も描かれます。奥茨城の谷田部家の居間において。乙女寮のあの夕日差す部屋において。すずふり亭裏のたまり場において。あかね荘の共同キッチンや漫画家の青年たちの部屋において。そこでは、ときに語り手が声を震わせながらそれぞれの物語を明かし、思いをぶつけ合います。みね子と時子(佐久間由衣)は悪口をぶつけ合い、ケンカし、最後には「あんたが好きだよ!」なんて怒鳴り合います。あかね荘の住人たちはお互いの悪口をあげつらい、みね子の「お互いのことよくご存じなんですね?」にハッとします。

 そして、ときに語り手は、声が割れるまで叫ぶ。腹の底から発声された叫びは、テレビの前の僕らのはらわたにまで届きます。トランジスタ工場閉鎖の時の豊子(藤野涼子)の閉じこもり事件、あの長ゼリフ、涙なしには見られませんでしたよね。先週の、宗男おじさん(峯田和伸)とみね子の叫びも!

 

 ふたつめは、ナレーション。

 『ひよっこ』においては、全く異なる2種類のナレーションが混在します。片方は、みね子によるお父さんへのパーソナルな語りかけ。作中の様々な場面で、彼女は「お父さん、」と語りかけます。「お父さん、どこにいるのですか」、「お父さん、みね子は東京で生きています」、「お父さん、この年の瀬に、私、失業者です」、「お父さん、みね子は東京に自分の部屋を借りました」、……娘から父への極めてパーソナルな報告が、テレビのこちら側の僕らと共有されます。それは切なく響く。いまここにいない人に向けての語りかけを、有村架純は目を潤ませ、けれどしっかり前を見つめて繰り返します。

 もう片方のナレーションは、マラソン解説などで活躍する増田明美による実況。彼女がこのドラマでやっていることは完全に実況であり、その視座は僕らと同じ現在=2017年に置かれています。「今とは全然違うんですねえ」、「おや、この青年、要注目ですね」、「あら! 今日は部屋の中だけで終わってしまいましたね」、「こういうおかしなおじさん、いましたよねえ」、「ビートルズ、大変な人気だったんですねえ」、……増田明美は絶妙なタイミングで物語の実況をし、感想を述べ、場合によっては解説を入れます。その視線は、僕らと同じくテレビのこちら側からの視線です。彼女は、僕らの代表的視聴者として、持ち前の明るいトーンで『ひよっこ』を彩るのです。

 この、パーソナルとコモン、切なさと陽気さ、対照的な2種類のナレーションが全く並列的に立ち現れるのが、『ひよっこ』の大きな魅力の一つなわけです。

 

 そしてみっつめ、生き生きとした暮らし。

 『ひよっこ』は時代設定が主に60年代以降なため、現在にも通じる戦後カルチャーがさまざま登場します。みね子たちは奥茨城で東京オリンピック聖火リレーを走り、上野駅は老若男女でごった返し、向島電機の乙女寮ではカレーやナポリタンを食べ、仲間たちと銭湯に出かけ、メロンソーダを飲み、爽やかな御曹司の慶應ボーイが登場し、薬局の前にはマスコット人形が置かれ、夜の赤坂には色とりどりのネオンが煌めき、やがてビートルズが来日します。そうした生き生きとした暮らしを、みね子は逐一お父さんに報告し、増田明美は今と繋げて僕らと共有するのです。そうして僕らは毎朝15分間だけ60年代を覗き見ることになります。それを、「古き良き時代」ではなく、この2017年と確実に陸続きになっている暮らしとして体感しているのは僕だけでしょうか。

 ああ、それに、そう、あの赤坂のセットが大変良いんですよねえ。

 

 以上です。今回発表した3つの他にも、有村架純をはじめとする演者それぞれの魅力、「東京」の描かれ方など注目ポイントはさまざまあるのですが、今回はこれでおしまい。もう寝ます。

写真について

 へえ、俺の若い頃の話を聞きたいの? あ、そうなの、大学で研究してるんだ。うーん、じゃあ、今でもいい? じゃあ今から話しちゃうね。あ、お茶いる? あ、いらない? えっと、そうだなあ、何から話そうか。まずは、そうだなあ、当時の東京に暮らしてた俺らが、なんでああいうことを始めたかってことから話そう。

 カメラって、そうか、今のカメラってすごく小さいんだってね。五百円玉くらい? 昔はもっとずっとでかくて不格好でさ、昔のカメラって、だいたいこう、……これくらいの大きさだな、こうやって両手で持ってここらをカチリと押すんだ。あのダサさもむしろ味があったんだけどねえ、へえ、あんまり知らないんだ。というか今って、みんなあんまり写真を撮らなくなっちゃったんだってね。……しょうがないか、まあ。

 とにかく、昔はみんな不格好なカメラを使って写真を撮っていた。何を撮っていたのかって、きみらが聞いたらとってもおかしいと思うだろうけどさ、風景とか、建物とか、歴史的なあれこれや、珍しいあれこれや、家族や友人や恋人や、知らない美人や、場合によっては自分を撮ったり、街中のあれこれ、電線とか、交差点とか、アスファルトとか、公園とか、塀とか、水たまりとか、空や雲や、抒情的なものや、煽情的なものや、ちょっとエッチなものだったり、エモい(これは死語だな)ものだったり、とにかくいろいろなものを写真に収めていたのよ。変だよね。そういうわけで、街にはカメラを構えてる人が溢れかえっていた。そのこと自体は別に良かったんだけど、そこには「カメラを構えている人の前を横切ってはいけない」っていう暗黙のルールというか、一般良識みたいなものがあったわけですよ。いや、「横切ってはいけない」ってほど強いものじゃなかったけどさ、でもとにかく、「ふつうは横切らないものだよね」みたいな、「人として当たり前じゃない?」みたいな空気さえ漂っていたわけ。カメラ構えてる人がいたら、その後ろを通るなり、前を横切るにしても、できるだけササっと通るなりして、とにかく邪魔にならないようにするの。なんなら前を横切る側が「すみません」とか言ったりしてさ。

 まあ今考えれば、そんな窮屈なものじゃない。ほんの少しの優しさだよね。この世界を構成している優しさの一つだ。

 でも、当時の俺らにはこれが許せなくてさ、「優しさって強要されるものじゃねえじゃん」とか「このまま一生カメラ族に屈するのかよ」とか言って。ギラギラとかパンク精神とかってのとは、たぶんちょっと違う。きっと俺ら、ムラムラしてたんだろうな。

 それでさ、それから俺らふざけ始めたんだ。避けるんじゃない、むしろがっちり写り込んでやろうぜ、って言って、写真撮ろうとしてる人がいたら真ん前に立ってさ、満面の笑みを浮かべてピースするの。ちょうどシャッターが切られる瞬間にスッと入り込んで、後で写真見返して「あれ、誰だこいつら!」って台無しにさせるのが一番良いんだけど、まあそううまくいく場合ばかりじゃない。もしカメラ持ってる奴がシャッターを押し渋るようだったら、「ほら撮って撮って!」って囃し立てて、ときには強制的に押させたりしたの。まあ本当に無意味でくだらないことなんだけどさ。

 俺らの仲間は10人くらいいて、渋谷の街にゲリラ的に現れては、そういうことをして自己満足してたんだ。最初は別に大きな話題にもならなかったんだけど、2週間くらい経った頃だったかな、仲間の一人がカメラの前でチ、……下半身を露出し始めてさ、いやいやお前そりゃマジいだろー、なんて笑ってたら、やっぱりマズくて、テレビのニュースになり始めてさ、うわー、ってな間にだんだん話題になってきて。俺らの顔も割れていくわけですよ。

 それで、なぜかそのときは危機感みたいなものはなくて、コウフン状態でニュースを追っていたのね。毎日てきとうにふざけて、毎晩酒を飲んで、好きな時間に寝る。そういうのが楽しかったんだ。

 おかしなことになってきたのは、覚えてる、ちょうど20日目、6月10日だね。俺は家でテレビを見てたんだけどさ、昼のワイドショーの中で、「昨日撮られた写真です、最新です」って、スクランブル交差点の前で俺が引き攣った笑いを浮かべて昭和の妖怪みたいなポーズしてる写真が出てきたの。いや、目隠しはされてたけど、完全に俺なんだ。スタジオのキャスターが「気味が悪いですねえ」なんて言っててさ、でも、気味が悪いのはこっちも同じだった。だってさ、俺は前の日は街に出てないし、だいいちスクランブル交差点は嫌いだったから全然行ってなかったのよ。だから写り込むわけがないんだ。でも、写真に写ってるのは確かに俺だった。あれれおかしいなあ、って。その日が始まり。

 次の日も、また次の日もワイドショーは俺が昭和の妖怪ポーズで写り込んでる写真を流し続けた。外国人カップルの記念写真、女子大生のフラペチーノ写真、シティボーイの路地裏写真、麻薬取引の瞬間をとらえた決定的写真、……渋谷周辺で撮られた多くの写真に俺が写っていた。その枚数は日に日に増えていって、「多くの」どころじゃない、「ありとあらゆる」のレベルになった。渋谷周辺で撮られたありとあらゆる写真に俺が写り込んでたんだ。引き攣った笑いを浮かべて、昭和の妖怪ポーズで。そのうちテレビでも目隠しが外されたんだけど、そこに現れたのは、まあやっぱり俺の顔なんだ。

 仲間は「お前すげえじゃん」なんて騒いでたけど、俺は気持ち悪くてしょうがなかった。もう外に出たくなかった。俺は部屋に閉じこもって、たまに吐いた。でも、やっぱり気になって、ニュースは見ちゃうんだよな。そうしたら、渋谷に全国からたくさんの人が来ててさ、カメラを持ってあちこちでパシャパシャやってんの。「うわ~写りました、気味が悪いっすね~」ってニコニコしてるんだけど、俺はもう、怖くて怖くて。誰とも顔を合わせたくなかった。俺がコミュニケーションを取りたがらないもんだから、そのうち仲間も顔を見せなくなった。

 テレビではキャスターが相変わらず「誰なんでしょうかねえ」なんてことを言ってるし、ネットにも情報は上がってなくて、なぜかみんな俺が誰なのか特定できずにいたんだ。俺は誰からも特定されず、でも今にでも特定されるんじゃないかっていう恐怖におびえながら部屋に引きこもった。もうね、テレビを見るのも怖くなった。カーテンも開けないで一日中丸くなってたんだ。

 一週間もするとさすがにものがなくなってきて、買い物に出かけなくちゃいけなくなった。仕方がないから仲間に頼もうと思って連絡してもなぜか繋がらないし、仲間だけじゃない、家族も知り合いも誰にも繋がらない。だから俺は自分で出るしかなかった。アパートを出て、心臓が飛び出しそうなくらいバクバクしてさ、俯きながら外を歩いたんだけど、おかしい。誰も気がつかないんだ。ふとした瞬間にすれ違う人と目が合っちゃうと俺はドキッとするんだけど、でも向こうは俺が写真の奴だってことには気づいてない。誰も。近くの肉屋のおばさんも「こんにちは~」なんてのんきに挨拶してくれるし、スーパーの店員も、アパートの大家さんも、誰ひとり気づかなかったんだ。

 俺は部屋に戻るとテレビをつけた。知らない間に事態は収束したのかもしれない。

 でも、むしろ悪化していた。渋谷だけじゃない。日本中のあらゆる写真に俺が写り込んでるみたいだった。そして、それから数日後かな、今度は俺が写り込んでるだけじゃなくて、「友達の顔があの顔になってるんです、これです」なんて言う女子大生が現れてさ、画面に表示された写真を見て俺は悲鳴をあげちゃったよ。小柄な女の子の身体に、俺の顔が乗ってたんだ。

 そこからさらに一週間も経った頃には日本中のあらゆる写真に写った人に俺の引き攣った笑顔が乗っかっていた。エイフェックス・ツインの「カム・トゥ・ダディ」って曲のPV知ってる? あれみたいな感じだよな。で、俺はというと、相変わらず誰とも連絡が取れないし、外を歩いても誰にも気づかれないわけだ。世界は壊れてしまった。

 それから一年も経つと、日本でカメラ持ってる人なんて本当に少なくなっちゃったんだ。せっかく写真撮っても、俺が写り込んでるか、みんな俺の顔になってるかのどちらかなんだからな。ケータイにカメラ機能が付いた時もみんな使わなかったし、スマホが流行ったときもカメラの性能は上がらないままだったもんな。だって使わないんだから。世界ではカメラはどんどん新しいのが出て、あの小さいやつに進化していったんだけど、日本では300個も売れなかったらしいからなあ。

 それで、俺はというと、そういう流れをすべて他人事だと思って見てた。だってそうするしかなかったから。俺だって、2、3年もすりゃあ少しは慣れちゃってさ、ふつうに働いて、人並みに恋人を作って、週末には映画を観てさ。

 でも、すべて長続きしないんだ。何をやってても、気持ち悪くなっちゃうんだよ。「ああ、この人たちは気づいてないんだな」って。何年経っても相変わらず、写真を撮るとそこには俺がいて、俺が年を取ると写真の中の俺も同じように年を取って、引き攣った笑みを浮かべ続けてる。でもみんなにはそれがわからないんだ。俺はもう長い間笑ってないのにさ、写真に写る俺はいつまでも笑ってるんだよ。でもみんなはそれがどういう感覚なのか知らないんだ。そうだ、ねえ、きみ、カメラ持ってる? あ、ありがとう。ほら、今こうやって写真を撮ってみてもさ、……あれ?

 

 ……あれ?

 

 

遅刻はよくない、という話

 遅刻はよくない、という話をしよう。

 

『プリーズ・プリーズ・ミー』

 1963年春、ビートルズの一作目のアルバム。歌の内容は、だいたい「カノジョがどうしようもなく好きなんだ」や「キミはたまらないよ」なんてこと。ジャケットは、どこかのビルの吹き抜けで四人がカメラを見下ろして笑ってるようなもの。とてもチャーミングだし、最高のファーストアルバムだと思う。ただひとつ残念なのは、僕がこのジャケット撮影に間に合わなかったことだ。そもそものきっかけは、ジャケット撮影日の3日前、渋谷センター街で道に迷い途方に暮れていたジョージ・ハリソンを、僕がつたない英語で助けたことだ。「アリガトウ、アリガトウニシザワ」、「ノープロブレムっすよジョージさん」、そして二人は意気投合、ジョージはそのまま僕をファーストアルバムのジャケット撮影に誘ってくれた。しかし3日後、僕はまだ成田空港にいた。春の嵐のせいで足止めを食らったのだ。僕が電話するとジョージが出て、「ソーリーソーリー、遅刻するね」、「しょうがないねニシザワ、もう撮影しちゃうね、次回は来なよ」、「ソーリー、センキューね、じゃあ次回ね」、そしてあのチャーミングなジャケットが撮影されたのだ。ちなみに僕は正直に言うとこのアルバムはあんまり聴いていない。

 

『ウィズ・ザ・ビートルズ

 1963年冬。撮影日を勘違いしていた僕はまた遅刻した。電話。「ソーリー、ジョージさん」、「しょうがないねニシザワ、次回こそ来なよ」。漆黒に浮かび上がるメンバー4人の顔が印象的なジャケットの左下に、まだ顔を2つ並べられそうなスペースがあるだろう。あそこに入るはずだったのが、僕と、長澤まさみだ。長澤まさみもなんらかの理由で遅刻したらしい。

 

『ハード・デイズ・ナイト』

 1964年夏。これは好きなアルバムの一つだ。「アンド・アイ・ラヴ・ハー」、「テル・ミー・ホワイ」なんざ最高じゃないか。しかし、そう、ジャケットを見ればわかるだろうけれど、このときも僕は写っていない(僕の顔がどこに入る予定だったかはみんなも一発でわかるはずだ)。このときは旅費が工面できなかったからそもそも行かないつもりだったのだけど、連絡し忘れて無断欠席となってしまった。これも客観的には遅刻だ。僕が冷房の効いた山手線に乗っているところに、イギリスのジョージから電話がかかってきた。「ニシザワ、今回も遅刻かい」「オー、ジョージさん、ソーリーね、連絡忘れてたね」、「イッツオーライニシザワ、次回こそね」。とてもいい人だった。

 

ビートルズ・フォー・セール』

 1964年冬。なんとなく『ハード・デイズ・ナイト』に収録されていると思われがちな名曲「エイト・デイズ・ア・ウィーク」は、実はこのアルバムに入っている。さて、このときはなんで遅刻したのだっけ。本当にどうでもいいことで遅刻したのだろう。そしてジョージはいつになっても現れない僕のことで他の3人と口論になり、結果、あのように憔悴しきった顔の殺伐としたジャケットになったという。「あのときは参ったよ、ジョンったら撮影中も俺の首根っこをずっとつかんで離さないんだぜ」と後で電話で語ってくれたジョージに、僕は「ソーリーソーリー」と返した。

 

『ヘルプ!』

 1965年夏。およそ考えうる限り完璧なA面だ。イトーヨーカドーで何万回と耳にした「ヘルプ!」に始まり、およそ考えうる限り最高のイントロを持つ「チケット・トゥ・ライド」に閉じる。B面も負けじと良曲ぞろいで、白眉は、うーん、やっぱり「イエスタデイ」だ。ベタだと言われようが良いもんは良い。仕方ない。ジャケットは、HELPを手文字で表しているのかと思いきや別にそんなことない。この撮影にも遅刻した。「ニシザワ、いったいいつになったら来てくれるんだい」、「ソーリーソーリー」。

 

ラバー・ソウル

 1965年冬。僕がビートルズで最も好きなアルバムだ。どこが好きって、たとえば「ドライヴ・マイ・カー」のポールの歌唱がやけにソウルフルなところが好きだし、「ユー・ウォント・シー・ミー」のシルバニアファミリーみたいなコーラスが好きだし、「ガール」のジョンのあの舐めまわすような息継ぎが好きだし、「イン・マイ・ライフ」の間奏のピアノソロが本当に好きだ(あれを聴いたら、ジョージ・マーティンビートルズの第五のメンバーであることを認めないわけにはいかないだろう)。ジャケットはジョンがiPhoneを自撮り棒に付けて撮ったものだ。このときの僕は本当に惜しくて、あと10秒もらえれば間に合ったはずなのだけれど、ジョンは非情にも時間通りにシャッターを切り、撮り直しはなかった。ジョン以外の3人は向こうから必死に走ってくる僕の姿を見ている。本当に惜しかったのだ。でも、ジョンが正しい。遅刻は遅刻だ。

 

リボルバー

 1966年夏。2番目か3番目に好きだ。ジョージから電話が来て、「今度のジャケットは写真と絵のコラージュにするから撮影はしないけど、代わりにニシザワもなにか写真を送ってくれよ」と言われたらしいのだが、僕はろくすっぽ話を聞かずに今回も既に撮影が終わってしまったものだと思い込み、「ソーリーソーリー」と返して電話を切ってしまった。これは遅刻というのだろうか。

 

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド

 1967年初夏。この遅刻はほんとうに怒られた。各ジャンルを代表する著名人が忙しい合間を縫ってわざわざ集合しているのに、ど素人の僕が遅刻するのはちとマズい。

 

『マジカル・ミステリー・ツアー』

 1967年冬。「ボクはキミに参っちゃってるんだ」なんてことをのほほんと歌っていた数年前とは全く別人のようにブッとんだ音だし、偉大な曲がいくつも入っている。だから僕はこれも彼らのオリジナルアルバムの一枚としてしっかり数えたい。あと、わかってほしいのだけれど、このときは遅刻ではなく、連絡が取れなかった。ジャケットを見ても、曲を聴いてもわかるように、この頃の彼らはラリっていて、まともに話ができる状態ではなかったのだ。

 

ザ・ビートルズ

 1968年初冬。いわゆるホワイト・アルバムだ。真っ白。もちろんジャケット撮影なんて行われなかった。ノー撮影、ノー遅刻。ちなみに、かなり迷うけれど、僕は「ロッキー・ラクーン」がフェイバリットだ。そしてもちろん「ブラックバード」。

 

『イエロー・サブマリン』

 1969年初め。このアルバムは僕にとって最も疎遠だ。何の思い入れもない。このアルバムが地球上から消滅しても十年は気づかないだろう。ジャケットはイラストだから撮影はなかったし、アルバム自体3回くらいしか聴いたことがない。

 

アビイ・ロード

 1969年秋。最高だ。キャリアハイの渋さを纏ったA面と、ポールが独りでちまちま繋げたという至上のB面。ちなみに、僕は長い間、B面は「ビコーズ」から始まると思っていたのだけど、実際は「ヒア・カムズ・ザ・サン」からである。普段iPodで聴いていると気がつかないことというのはたくさんある。iPodの小さな画面ではジャケットに写るポールが裸足であることにも気づかない。それで、そう、そのジャケットを撮影する直前、彼ら4人は日本にいた。それまで散々遅刻し期待を裏切り続けてきた僕が、せめてものお詫びにと4人を日本に招待したのだ。上野、秋葉原、浅草、スカイツリー、東京タワー、銀座、皇居、新宿、朝の埼京線など東京を巡る中で、渋谷のスクランブル交差点を見たリンゴが、「ここでジャケット撮影しようぜ」。僕は、「グッドアイディアだね、じゃあ明日の朝6時にハチ公前に集合しよう。ちょっと早いけど、頑張って起きてね。朝のうちは空いてるからさ。絶対にクールなジャケットにしよう」と言って4人と別れ、その日はぐっすり寝て、翌日午後3時に目を覚ました。一番やってはいけないパターンの遅刻だ。4人は昼前まで待ってくれていたらしいけれど、さすがにプッツンして、僕がベッドから起き上がった頃には成田から発っていたという。ロンドンに帰った4人が代わりに撮ったのがあのジャケットだ。どうしても横断歩道の上で撮るというアイディアは残したかったらしい。アビイ・ロードの横断歩道で撮ったからタイトルは『アビイ・ロード』。もし予定通りスクランブル交差点で撮っていたなら、『渋谷』になっていただろう。惜しいことをしたものだ。

 

『レット・イット・ビー』

 1970年春の終わり。前回あんなひどい遅刻をしたのにジャケット撮影にまた誘ってくれたジョージには感謝の念しかない。そんな彼は、このジャケットに本当にいい顔で写っている。僕は写っていない。遅刻した。

 

 

 

 遅刻はよくないということが、お分かりいただけたであろうか。

対話1

 暑くなってきたねえ、最近。そうだなあ。もう夏なんだねえ。そうだなあ。

 おいらもたまには外の空気を吸いたいんだけど、いいかねえ。いやー、よかないよ、なるべく我慢するようにしてくれよ。冗談だよ、おいらだってお前を困らせるようなことはしたくないよ、二人三脚だろ。二人二脚一本だろ。はー、ところでさ、みんな夏になると途端に“エモ”を求めだすじゃんか、それも、浴衣や花火やサイダーや夏祭りなんかに求めるんだったらまだしも、連中ときたら、アスファルトや空き缶や、カーブミラーにさえ見出そうとするじゃないの、おいらにはあれがいまいち理解できないってんだよね、それに第一、“エモ”ってなんなのさって話。あーそれね、“エモ”っていうのは要するに、ようするに、さあ、僕もよくわかってないんだよね、そもそも人によって全然使い方が違ってさ、ラーメン食べて「エモい~」なんて言い出す人もいれば、人生が真に輝きを放つ瞬間にだけ「エモい~」って人もいて、もうガバガバなワードなわけよ。へえ、そもそものルーツは何なんだろうね。そう、そのルーツにしたって曖昧なものでさ、「EMOTION」から来ているとも「えも言はず」から来ているとも言われてるわけ。そうかー、誰もわからないまま広まってるんだ、そりゃ氾濫するわな。そうそう、でも僕個人としてはあんまり使いたくないけどね、なんとなく気恥ずかしいじゃん。そうかい。そう。

 というかたぶんあれじゃない、おいらたちがこれまでそれなりに温めてきた夏への思いみたいなもの、あるじゃない、それを、「エモ」とか「チル」みたいなカタカナ語に集約しないでほしいなってのがあるんじゃない。あー、あるかもしれない。あるでしょ。

 でもあれだよ、アスファルトや空き缶やカーブミラーをエモいって言うのはあながち間違いでもなくてさ、ちゃんと科学的根拠があるのよ。いやいや、お前てきとう言うなー。いやいやいや、フィンランド環境学者チームが5年前に発表した研究によれば、夏の日差しって一年の他の時期とは性質が違うみたいでさ、この日差しがアスファルトや空き缶やカーブミラーに当たると、確かに反射の仕方も変わってくるの。へえ。実際に見てみてもなんとなくわからないかな、ヒリヒリしているし彩度も上がっているんだけど。まあ言われてみればそんな気はするけど、でも、言われてみれば、って程度だよ。そりゃそうだよ、僕がてきとうに言った話なんだから。はー、じゃあ嘘なの。うーん、嘘っていうか、僕としては本当に思ってることなんだけどね。はー、お前じゃあさ、フィンランド環境学者チームってのはなんだったの。それはさー、「フィンランド環境学者チーム」って付けたらやっぱり説得力増すじゃん、でもきみさ、考えてみろよ、そもそもフィンランドって一年中曇ってるらしいし夏なんてもちろんないんだから、こんな研究してるわけないじゃん。はー、そりゃそうだけど、うわー、だまされたなあ。

 ははは、ごめんよ。

 いいよ、そういえばおいらさ、気づいちゃったんだけど、四季ってあるじゃん、フォー・シーズンズ、春夏秋冬。ある。あれね、見かけ上は夏が終わると秋を経て緩やかに冬に向かって、寒さをしのげば春が開いて緩やかに夏に向かう、そういうサイクルが繰り返されてるように見えるじゃない。そうだね。

 あれね、実は全部夏なの。

 うーん、それは突飛過ぎるよ。

 突飛過ぎるもなにもないよ、あれ、全部夏なのよ、説明しよう。説明してよ。

 たとえばお前さ、冬になるとよく夏を恋しがっているじゃない。ああ、記号としての“夏”ね。そうそう、あの、入道雲、あぜ道、サイダーとか。

 夏祭り、線香花火、汗ばむあの子、触れ合う手と手、オールナイトロングとかね。

 そうそう。あの、実際にはないやつね。それがね、それがあるんだよ。へえ。まず基本的に、この世界は一年を通して夏なんだけど、どこかでラジカセの音量みたいにつまみをいじくってる人がいて、9月とか10月とかになるとその人が徐々に徐々に寒さのつまみを上げていくのよ。ちょっとよくわからないな。うーん、だからね、だんだん寒さのつまみが上がっていって、見かけ上は冬になっていくんだけど、実のところ根底に流れているのは常に夏なんだ。ほう。常にStay Tune in 夏なんだけど、その音量が一年の中で変わっていくってわけ。ほう。ってことは見かけ上の冬の間もおいらたちは本当は夏を生きているわけで、それがさっき言ったような「記号としての“夏”」として顕れるんだ。ってことは本当は記号じゃないんだね。そう、あれはリアルな夏なんだ、寒い時期用の夏。じゃあ春とか秋とかはどうなのよ。ははは、春と秋は、ただの過渡期。え、でも、僕は春には春的情緒を感じるし、秋には秋的情緒を感じるぜ、あれって、立派な季節でしょ。お前、それは残念だけど、実は春的情緒とか秋的情緒ではないよ、それは、「もうすぐ夏が来るなあ」的情緒と「ああ夏が終わったなあ」的情緒だよ。また夏かよ。そうだよ、なにしろ一年中夏なんだから、すべては夏的に解釈できるし、夏的に解釈されたものが本来の姿なんだよ。

 じゃあ、さっきの話に戻るけど、寒い時期用の夏ってあったじゃない、僕が前まで「記号としての”夏”」って呼んでいたやつ、あれがどうして7月とか8月とか、いわゆる夏本番を迎えるとなくなっちゃうのさ。いやいや、あるにはあるんだよ、でも7月8月っていうのは寒さのつまみがゼロになってる時期でさ、今度はふつうに暑すぎて全部頭から抜けちゃうの。抜けちゃうって言ったって、それでも僕はサイダーとか夏祭りとか線香花火とか汗ばむあの子とかの夏にしたいんだけどなあ。うーん、こればかりはしょうがなくてさ、暑すぎるとどうしても生理的な嫌悪感が勝っちゃうのよ、だから、「暑さも含めて夏を愛するぞ~」ってどんなに強く意気込んで7月8月に突入したって、どうしても頭から抜けちゃうの。いやあ、全然納得できないよ、こんなん屁理屈だよ、だいたい、じゃあそのつまみをいじくってる人っていうのはどこの誰なのさ。

 中条あやみ

 中条あやみかーーー! なんか急に全てが納得できたよ、じゃあ、僕らが春夏秋冬だと思ってるあのサイクルはまやかしで、実際は常に夏なんだね。そういうこと。そうかー、常夏かー、なんか僕がんばるよ、きみにもいい思いをさせてやりたいしさ。おう、頼むぜえ、ほんとに。

コーヒーについての問題

僕:このコーヒーうまいなあ。

識者:そうかな? どうもコクがないように思えるけどね。それに、キミね、一口にコーヒーと言っても実にいろいろな種類があるのだよ。そもそもキミは、コップに一杯のコーヒーが作られるまでにどんな過程をたどっているのか知っているか。豆を選んで、焙煎し、その豆をブレンドし、挽いて、そして淹れる。途方もなく奥が深い業なのだよ。過程ごとに幾多もの分岐があり、そのそれぞれをあるいは意識的に、あるいは無意識に選ぶことによって、いまここにこうやって一杯のコーヒーが出来上がってくるのだ。まず、もちろんどんな豆を選ぶかによって変わる。焙煎にかける時間やそのときの熱のかけ方によって風味が全く異なってくるし、焙煎機が鉄製かステンレス製かによってもものすごく違うのだ。それに、たとえば焙煎しているときの周囲の環境も決定的な要素だ。梅雨の時期に焙煎した豆はやはりどうしても感傷的になる。真夏に湘南の海沿いで焙煎した豆からは、かすかに桑田佳祐のしゃがれ声が聞こえてくる。フランク・オーシャンを聞かせた豆はウェットで繊細な質感をまとうことになるし、谷崎潤一郎を読んで聞かせた豆は官能的な陰翳の中に身を落ち着かせることになる。それから、そう、ブレンドの仕方も星の数ほどありえる。キミね、ブレンドと言ったって、ただ豆と豆を組み合わせてシャカシャカすればいいというものでは決してないのだよ。ブレンドという作業は、ひたすら自省を繰り返し、我々自身の内面に深く潜り込んでいくプロセスだ。それは言うなれば宇宙の旅。豆と対峙した時に、我々の内部の最も深い水面に微かに揺らぐ波を…………

僕:うーん、わからないなあ、うまいと思ったんだけど、やっぱりまずいのかなあ……

ちぢれ毛

 ブックオフ谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』を買った。

 僕は文庫108円の「た」のコーナーにいた。おそらく谷崎潤一郎か誰かの本を探していたのだけど、谷崎潤一郎みたいな文豪かつヘンタイの本がそんな108円なんかで叩き売られているはずはなかった。だから代わりに谷川俊太郎の詩集を買ったのだ。もっとも、谷川俊太郎レベルの人のデビュー作の、しかもなかなか最近の刷が、108円ラベルを貼られてせせこましい本棚に縮こまっていることもおかしかったのだけど。

 僕はこれまで詩にも谷川俊太郎にも明るいわけではなかった。「世の中には詩という一大ジャンルが存在していて、なかでも日本の詩人界には谷川俊太郎という巨人が存在している」くらいの、なんとも薄暗い知識しか持ち合わせていなかった。そんな僕が『二十億光年の孤独』を手に取ったのは、単に、ネームバリューと、すでに確立している高評価と、値段と、その瞬間のなんとなくのあれに惹かれてのことだった。それに、ちょっと開いてみると冒頭の一編がなんとも素敵だったのだ。

 それは「生長」という詩だった。

 

「生長」(※)

 

三才

私に過去はなかった

 

五才

私の過去は昨日まで

 

七才

私の過去はちょんまげまで

 

十一才

私の過去は恐竜まで

 

十四才

私の過去は教科書どおり

 

十六才

私は過去の無限をこわごわみつめ

 

十八才

私は時の何かを知らない

 

 素敵じゃありませんか?

 だから僕は潤沢な資金で巨人を買収した。

 家に着いてからあらためて目次から目を通してみると、なんとも素敵そうなタイトルが並んでいる。「わたくしは」、「霧雨」、「停留所で」、「かなしみ」、「地球があんまり荒れる日には」、「警告を信ずるうた」、「一本のこうもり傘」、「日日」、「それらがすべて僕の病気かもしれない」、「曇り日に歩く」、「初夏」、……素敵そうじゃありませんか? そうしてそのままページをペラペラめくっていると、真ん中らへんのページにちん毛が挟まっていた

 

 

 

「まったく恐れ入った! この世のありとあらゆる場所にはちん毛が落ちているのです!」

 というのはハムレットの著名なセリフだ。

 21世紀の日本に暮らす僕はこの言葉をさすがに度が過ぎると感じてしまうけれど、シェイクスピアの生きていた16世紀イングランドにおいてはちん毛との共生が常態化していたのかもしれない。

 あるいは後世の誰かがシェイクスピアの作品を勝手に改竄したのかもしれない。

 でも、僕らの日常にちん毛がまあまあ多く出現することはたしかだ。もちろん彼らの大半は「もともといる場所」に収まっているのだけど、ときに人為的な力によって、ときにパンツの具合によって、そしてときに彼ら自身の気まぐれで、そこから抜け落ちる。抜け落ちたその場所で誰かに回収されるまで絶望的な時間を過ごす引っ込み思案な毛もいるが、一方である種のちん毛は広い外界への冒険アドベンチャーに繰り出す。僕らが財布の中に、地理資料集の北アメリカのページに、GINZA SIXのエスカレーターの手すりに発見するのは、後者の類のちん毛だ。

 そしてときに、彼らは「もともといる場所」に戻ってこようとする。さながら鮭の遡上のように。

 僕はすね毛に交じってもがく彼らをつかまえて質問するのだ。

 

「どうだった?」

「いやあ、駅前の中華料理屋に行ってきたんだけど、とってもいい場所だったよ。老夫婦が経営してる店なんだけど、とってもいい感じなんだ。麻婆豆腐をごちそうになった。これまた山椒がきいていて、とってもいいお味なんだ」

 彼は駅前にある中華料理屋に行ってきたようだった。まっとうな中華料理屋らしく赤看板に黄字で「ナントカ房」と書かれたその店は、いかにもおいしそうな雰囲気を醸していた。僕も以前から気になっていたのだ。でも、こういう中華料理屋の常として、(というよりこれは僕の側の問題でもあるのだけれど、)最初一人では入りづらいという問題を抱えていた。おそらくおいしいのだけれど、なんとなく入れない。家族や友人と行けばいいのだけれど、いやあ、なんとなくまだ行けていない。そんな中華料理屋にちん毛が行ってきたというのだ。

「へえ、そりゃ結構なことだ。僕も今度、お礼がてら行ってみようかな」、僕はそう言って、彼をパンツの中に戻す。

 

「どうだった?」

「クラブに行ってきたんです。西沢さん、前からクラブに行ってみたいと思ってたでしょう、だから私が偵察してきてやりましたよ。すごくね、楽しい場所でしたよ。高揚感? って言いますか、多幸感? って言いますか。それに、一人で来ている人も、内気そうな人も、一人で来ていてなおかつ内気そうな人もたくさんいましたよ。とにかく、行ってみりゃあいいじゃありませんか」

「へえ、そりゃ結構なことだ」、僕はそう言って、彼をパンツの中に戻す。

 

「どうだった?」

「アタシはハリウッドを見てきたわ。この前地理資料集で目にしてから、実際に行ってみたいと思ってたの。やっぱりすごいのね。桁違い。いくつかオーディションも受けてみたんだけど、全然ダメね。『また連絡するよ』って言ってたのに、あの人たちったらすっかりオトサタなしなの。それから、有名な人たちも見かけたわ。ビル・マーレイがトボトボ歩いてた。あの人意外にトボトボ歩くのね。それと、なんと、レオナルド・ディカプリオがトボトボ歩いてたんだけど、アタシ、すっかり慌てちゃって、『ジャック・ニコルソンさん!』って叫んじゃったの。ほら、レオ様ったら最近ジャック・ニコルソンそっくりになってきたじゃない。だから間違えちゃったんだけど、そうしたらレオ様ったら笑って許してくれて、しかも『シャイニング』のときのジャック・ニコルソンの顔真似までやってくれたわ。最高! アタシすっかりまいっちゃった。でも、もしかしたらレオ様じゃなくてジャック・ニコルソンご本人だったかもしれないわね」

「へえ、そりゃ結構なことだ」、僕はそう言って、彼女をパンツの中に戻す。

 

「どうだった?」

「僕はポール・マッカートニーのワールドツアーに、サポートのパーカッショニストとして随行していたんです。ステージ上の僕のすぐ近くでポールのパフォーマンスを見ていたんですが、やっぱり『タックス・マン』のサビのベースはイカしますね。いやあ、やっぱり彼はとんでもなく偉大なミュージシャンですよ」

「へえ、そりゃ結構なことだ」、彼をパンツの中に戻す。

 

「どうだった?」

「私は北野武監督の『アウトレイジ』の続編にちょい役で出演させてもらいました。すぐ撃ち殺されちゃうチンピラの役で、そのシーンの撮影自体はすぐ終わっちゃったんですけど、それからも毎日撮影所に通って見学さしてもらってたんです」

「へえ、そりゃ結構なことだ」、パンツの中に戻す。

 

「どうだった?」

「俺は今年のスーパーボウルを観に行っていたんだ! トム・ブレイディのサインはさすがに無理だったけど、怪我でフィールド外に立ってたグロンコウスキーのサインならもらったぜ!」

「へえ、そりゃ結構なことだ」、パンツ。

 

「どうだった?」

「僕は、月の裏側に行ってきたよ」

「月の裏側?」

「真っ暗で、何も見えなかった」

「うさぎはいた?」

「ううん、真っ暗で何も見えなかったんだ」

 

 僕は彼らの報告をいつも楽しみに待っているのだ。

 

 

 

 この『二十億光年の孤独』に挟まっていたちん毛も、どこかの、誰かの「もともといる場所」を飛び出して冒険アドベンチャーに繰り出したのだろう。だとしたら、そのどこかの誰かは報告を楽しみに待っているはずだ。僕にはこのちん毛をどうにかして懲らしめてやる権限はないし、もちろん、どこかの誰かの楽しみを妨害する権限もない。

 僕は部屋の窓を開けて、開いたままの『二十億光年の孤独』に息を吹きかけ、そのちん毛を外へ飛ばした。

 春の夕暮れ時の風は優しい。ちん毛はふわりと舞っていった。彼、あるいは彼女は報告するのだろう、「私は谷川俊太郎の詩を見てきました」

 

 

 

 

 

 

※引用文献

谷川俊太郎著『二十億光年の孤独』(1952年)(集英社、2010年)