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スリッパ

 ここ数年間というもの、僕ら一家は、冬を迎えるたびに家族全員で中型のマツダ車に乗り込んで、沼沿いのユニクロに行き、厳しい3、4か月を越すためのスリッパを買い占めていた。僕ら一家は4人構成だったが、なにぶん田舎のユニクロなもんだから、僕らが4対のスリッパを買ってしまうともう在庫がなくなってしまうのが毎年のことだった。

 

「ええ、スリッパですがねえ、ついさっき4人家族のお客さんがいらして全部買い占めていかれたんですよ、ええ4対、ええ、来年まで入荷の予定はございません、なにぶん、田舎の、沼沿いのユニクロですからねえ」

 

 そんな田舎の沼沿いのユニクロも去年の秋頃、よくわからない田舎の沼沿いのステーキ屋に変わってしまった。

 

 沼沿いのユニクロがなくなってしまったことで僕ら一家はもっと遠くまでスリッパを買いに行かなければならなくなったが、実はなんてことなく、ユニクロはどこにでも存在した。ユニクロは電車で2駅行ったところの駅ビルに入っていたし、僕らの家からちょっと行ったところにはイオンもあった(確かめたことはないけれどイオンにはユニクロは必ず存在するだろう)。それにそもそも最近はユニクロのオンラインショップもあるので、駅ビルのユニクロやイオンにあるはずのユニクロなんかに行かずとも、暖かい家の中でポチポチやれば、次の日にはクロネコヤマトかなにかが家まで持ってきてくれるのだった。おかしな話だが、オンラインショップでは在庫切れということは起こらない。たぶんインターネット回線上のどこかに月ぐらい巨大な倉庫が存在して、1千万対ものギラギラしたスリッパが出庫を待っているのだろう。

 

 とにかく去年も、冬がいよいよ正体を現す前の11月のある日、僕ら一家はオンラインショップでポチポチやって、次の日にはクロネコヤマトに乗せられた4対のスリッパが我が家に到着した。

 別に特筆するほどのイベントではない。スリッパを買うのは毎年のことだった。

 そして、僕とスリッパとの間に「おじさんのかさ」的関係が発生するのも、また毎年のことだった(「おじさんのかさ」の説明は省いていいだろう。小学一年生の国語の教科書に載っているような、一人のおじさんと一本の美しい傘の話だ)。要するに、履きつぶしてスリッパ的ふわふわ感が失われてしまったり、世界の終わりみたいな臭いがついてしまったりというようなことが嫌で、僕はあんまりスリッパを履くことができないのだ。足元がちょっと冷える程度だったら我慢するし、一日中荒野をさまよったような日に、帰ってきてから履くなんてことはモッテノホカだ。

 

 ユニクロのスリッパはそれなりに優れているものの、だいたいワンシーズン履きつくすとつぶれるようになっている。毎年春を迎える頃には父や弟のスリッパはいい感じに潰れているが、僕のスリッパはビンビンのままである。スピッツの「春の歌」がラジオで盛んにかかるようになると、足が防寒具としてのスリッパを拒否し始め、そうなると僕ら一家の4対のスリッパはゴミに出される。父や弟のペタペタになったスリッパも僕のビンビンのスリッパも一様にゴミに出されてしまうのだが、クリーンセンターできっと僕のビンビンのスリッパだけ選り分けられて、群馬か栃木あたりに再出荷されているに違いない。