バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

卵を焼く

 卵焼きの作り方を僕は知らなかった。せっかく毎日作ることになりそうならきちんとした料理本を買ってもよかったが、しょせん卵焼き、と思っている節もあり、事実、ググっていちばん上に出てきたクックパッドのレシピのままに作ってみても、きちんとおいしいのであった。クックパッドにどこかの主婦の方がアップして人気を博しているそのレシピには「これで完ペキ♡」や「黄金比!」というようなことが謳われていた。実際そのレシピどおりに僕が作った卵焼きを、彼女は「完璧です」といって食べてくれた。「黄金比!」とはいわなかった。「黄金比!」はもしかすると卵焼きではなく肉じゃがのレシピに書いてあったフレーズだったかもしれない。僕は肉じゃがのレシピもクックパッドで見ていた。卵焼きの完ペキ♡なレシピはもう覚えたのでクックパッドを見ることはないが、肉じゃがのレシピはまだ覚えきれていないところがあるのでたぶんあと一回は見る必要があった。醤油、みりん、砂糖、料理酒を入れればいいことはわかっているが、どれをどれくらい入れればいいのかをまだ覚えきれていなかった。目分量や感覚で入れてもよかったが、まだその段階ではまだないと思っていた。まずはレシピにもう一度目を通して忠実に作りたかった。レシピを見るときに「黄金比!」と書かれているかどうかも確かめようと僕は思った。
 卵焼きの話をしようとしたのに、肉じゃがの話として終わってしまった。次は卵焼きの話をしたいと僕は思った。

 

 

 卵焼きを毎日作ることになったのだった。毎日作るには習慣化しなければならないわけだが、僕はなにかを習慣化するということをすこぶる苦手としていた。でも彼女は僕になにかを習慣化させる方法を心得ていた。ようするに、ごみ捨てや皿洗いや歯磨きや入浴のように、もっといえば食事や睡眠のように、生活のなかの当然の一部として組み込んでしまえばよいのだ。習慣であるとかルーティーンであるとか意識する間もなく、当然の如くこなしているもの。卵焼きを作るということをそういうものとしてしまえば、僕はきちんと毎日卵焼きを作れるようになるのだった。朝起きたら、カーテンを開ける。うがいをして水を一杯飲む。卵焼きを作る。朝の僕の一連の行動のなかに挿し込めばよい。彼女にとってそれはプログラミングに近かったかもしれない。実際、ほとんどそれはプログラミングといって差し支えない。僕の左膝の裏には小さな蓋があり、それを開くとこれまた小さなキーボードとスクリーンが引き出される。スクリーンには僕の一日の習慣が書き出されている。彼女は、「水を一杯飲む」と「トイレに行く」との間に一行挿入して「卵焼きを作る」と新たに書き込む。動作確認をして大丈夫であれば、キーボードとスクリーンを奥にしまって、蓋を閉める。そうするだけで僕は毎日卵焼きを作れるようになった。なぜ膝の裏などにその装置があるのかというと、僕を作った博士が「人間は考える葦である」の「葦」を「足」と勘違いしたからだ。口承のよくないところであり、おもしろいところでもある。

 

 

 卵焼きといっても大きく分けて二種類ある、しょっぱいか、甘いか。実家にいたとき、母はどちらも作ってくれた。だいたい交互に味が変わっていたような気もするが、実際どうだったかは思い出せない。交互でもなんでもなかったかもしれない。しかし、もししょっぱいのと甘いのと両方作るなら、僕ならなんとなく交互にしそうな気がする。僕は変なところでまめだといわれる。バスタオルは三つ折りにしたい。本の栞紐はきれいなままにしたい。画像加工をするときは中央線を必ず意識したい。そういうまめさが発揮されて、僕はしょっぱい卵焼きと甘い卵焼きを交互に作りそうな気がする。しかし、そのまめさが卵焼きにおいてはまったく発揮されないという可能性もある。その場合僕はしょっぱい卵焼きと甘い卵焼きを交互に作れないだろう。塩と砂糖のどちらでも、そのときたまたま近くにあったほうを取ってボウルに入れるだろう。ということはもしかするとずっとしょっぱい卵焼き、あるいはずっと甘い卵焼きが続くことになるかもしれない。もっとひどいと、作り終えて口に入れるまで自分が作ったのがしょっぱい卵焼きなのか甘い卵焼きなのかさえわからないかもしれない。まめさが発揮されるかされないかは、そのときにならないとわからない。しかしそのときはやってこない。僕はいまのところしょっぱい卵焼きだけを作ればいいことになっている。なので、卵焼きに関して存在するかもしれない僕のまめさが日の目を見ることはない。

 

 

 卵焼きを作るとき、卵焼き器を使っている。「卵焼き器」というとまるで卵焼き専用の特殊な器具のようだが、その実、ただの長方形の小さめの鍋である。僕が特殊な呼び方をしているというわけでもなく一般にもそう呼ばれていると思う。たしかにその名のとおり卵焼きを作るのに最適な幅だと思う。僕は日本中のいろんな台所に置かれた卵焼き器を想像する。やわらかな光がさしこむそれぞれの台所で毎朝それぞれの卵焼きが作られる。それぞれに味付けやアレンジは違えど、どれもサイズはまったく一緒である。なぜなら卵焼き器の大きさはどれも同じだからだ。まったく同じサイズの卵焼きが、四等分、六等分、あるいは三等分や五等分、八等分のひともいるかもしれない、に切られ、ほのかに湯気を上げながら、食卓に並べられる。卵焼き器製造会社が独自の調査に基づいて決定した理想のサイズ感で、卵焼き器というものは作られている。「いまこの瞬間、頭のなかで卵焼きをイメージしてみてください。みなさんひとりひとりがイメージした卵焼き、実はサイズがすべて同じになるんです」と開発担当者は語る。僕たちが手にしている卵焼き器は、僕たちが頭のなかでイメージする概念としての卵焼きのサイズを象って作られたものだという。そんな非現実的な開発秘話があってたまるかと僕は思うが、事実そうなのだから認めざるをえない。「そうか、だからこんなにおいしく作れるんですね」と僕は感想を述べて、なんだか媚びたような感じになってしまい恥ずかしくなる。

 

 

 卵焼きを作りながらいろんなことを考える。たとえば、なんの脈絡もなく大浴場のことが思い出される。温泉旅館でも銭湯でもなく、ビジネスホテルの大浴場のこと。備え付けの寝間着に着替え、タオルと替えのパンツを持って部屋を出る。カードキーをうっかり忘れないように気をつける。エレベーターに乗り大浴場のある階で降りる。乗り合わせたひとたちも同じく大浴場を目指している。脱衣所にはひとびとの肌から発せられる湿気とせわしなく回る扇風機からの冷風がせめぎあっている。なるべく奥まったシャワーの前に座り、頭と身体をさっと洗う。シャンプーやボディソープを洗い流すためにシャワーのボタンを何度も押す。ひとの少ないほうの湯船にゆっくり浸かる。「あー」と「えー」の間の音を小さく発する。新たにひとが浸かってきて「あー」と「えー」の間の音を大きく発する。サウナに設置されたテレビになにかのドラマがぼんやり流れている。河川敷のようなところで誰かが誰かにぼんやり話しかけている。裸眼だとそれが誰だかわからず、さらに熱気のせいなのか耳まで遠くなった気もし、話している内容もよく聞き取れないまま僕はテレビをぼんやり眺めている。ぼんやりした感じを引きずったままサウナ室を出て外の椅子に座る。露天風呂にも少しだけ浸かり、もう一回サウナに入り、シャワーをさっと浴びて脱衣所に戻ってきてもなおぼんやりした感じは引きずられている。廊下に出ると先に出てきていた彼女が冷たい飲み物を持って座っている。「サウナ暑くて一瞬で出ちゃった」といっているこのひとのためにいま僕は卵焼きを作っている。

 

 

 卵焼きをうまく作れるひとこそ真に料理がうまいひとである、というようなことがいわれてはいないだろうか。よい書道家は「一」という文字にこだわる。アパレルブランドの理念はそのブランドが出している黒いアイテムの黒さにあらわれる。というようなことと同じような並びで、料理家の腕を見るには卵焼きを作らせればよい、という格言があったりしないだろうか。おそらくあるだろう。卵焼きには料理のすべてが内包されている。繊細さと大胆さの奇妙に美しいバランスのうえに成り立っている。銀座で三百年続く老舗割烹に弟子入りしたひとは、最初の十年、毎日卵焼きのみを作るという。ひとによってそれは二十年にもなる。いまの十四代目料理長は十八年それを続けたのちに他の料理を作ることをはじめて許されたという。彼の卵焼きはメニューには載っていないがお願いすると作ってくれる。「先代に比べると自分なんてまだまだです」と彼はいうがその卵焼きから立ち上る湯気にはほのかに矜持が混ざっている。というようなことがあったりしないだろうか。おそらくあるだろう。僕はそんなことを想像しながら、十八年毎日卵焼きのみを作る、という行為の時間的質的厚みに圧倒される。それに比べたら僕の卵焼きなんて塵のようなもの、とも思うが、僕は僕で矜持を持って卵焼きを作っている。矜持は大げさだっただろうか。自信、いや、誠実さ、いや、真面目さ。そう、真面目でないと卵焼きは作れない。卵を丁寧に巻いてゆく工程には真面目さが求められる。その真面目さのはるか先に十四代目料理長の十八年があり、老舗割烹の三百年がある。

 

 

 卵焼きを作るという毎朝の行いを料理と捉えるかそれとも作業に近いものと捉えるか、そのはざまに僕はいた。卵を二個割ってボウルに入れ、塩を振り、顆粒だしを少量まぶし、箸でかき混ぜる。卵焼き器を火にかけ、ごま油を垂らし、卵焼き器をてきとうに傾けて延ばし、そこに卵を注いでゆく。ここまでの工程は完璧に身体に染みつき、寝起きのストレッチのような目覚ましの効果さえ発揮していた。そこに創意工夫ややりがいの入り込む余地は、少なくとも僕にとってはない。できることといえばせいぜい味つけを変えるくらいだが、彼女からは塩で味つけするように命ぜられており、僕の主体性の出る幕はない。しかしいっぽうで、卵焼き器に卵を注ぎ、固まってきたら箸で上端を持ち上げてくるりと内側に折り、そのまま手前に巻いてゆき、できたものをまた卵焼き器の奥に持っていって卵を注ぐ段階においては、クオリティや美しさという観点が登場する。完成した卵焼きは完成させた僕によって主観的に評価される。きれいかきれいではないか。きれいに巻けたときはうれしいし、きれいに巻けなかったときは悲しい。評価に感情が合わさる。作ったものによって感情を動かされるのなら、それは作品と呼んで差し支えないものであり、料理と呼ぶにふさわしいものだと思う。つまり僕の卵焼き作りにおいて、卵を卵焼き器に注ぐ以前の段階は作業に近いものであり、注いで以降は料理といえるものだということだ。僕は僕の卵焼きをもっと料理にしていきたいと思っている。油の垂らし方や、卵のかき混ぜ方、塩の振り方にもやがてこだわっていって、卵焼き作りにおける料理の割合を増やしていきたいと思っている。思うだけなら自由だ。


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