バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

ジゴロウと雨

 ジゴロウは雨が怖い。学校の行き帰りや、授業を受けてるときの雨は楽しいのだけれど、家にいるときの雨はとにかく怖い。なぜかというと、ジゴロウの家は雨の音がものすごく大きく響くからだ。ジゴロウが大人になってから判明したことだが、天井の裏にちょうどかなりいい具合にというか悪い具合にというか、音を増幅させることだけに特化したような空洞があって、そのせいで雨の音があんなに大きく響いていたのだった。でも、小学生のジゴロウにそんなことがわかるはずがないし、仮にわかったところで、怖さが軽減されるわけでもない。ただでさえ大きく響くのが怖いうえに、雨が屋根の金属のパイプにちょうど当たるとモワンモワン不気味に反響して、ジゴロウをさらに苦しめる。ただゴウゴウ大きいだけの雨の音なら耳を塞げばまだましになるのだけれど、このモワンモワンばかりはジゴロウがどんなに身体を丸めても必ず胸の奥まで刺さってくる。「ちっくしょう!」といくらジゴロウがいきがって叫んでみせても、モワンモワンには効果がない。「ふっざけやがって!」、「うざってえな!」、どんなにいきがってみせても。
 くそっ! だいたいこのパイプなんなんだよ!
 ジゴロウが泣きわめくのも無理はない話で、実のところ、その金属パイプはどこにも繋がっていない、ただの金属のパイプなのだった。もともとは使われていた、というわけでもなく、ほんとうに、屋根の上に設置された当初からなににも繋がっていなかったパイプ。いうなれば欠陥工事じゃなくて過剰工事。どこにも繋がっておらず、なんの通り道にもなっていない分、その空洞は純度が高く、より不気味な音を響きわたらせる。モワンモワン、さながら地獄のパイプオルガン。
 前に、屋根に登ってパイプをひっぺがそうとしたこともあった。けれど、ジゴロウは高いところも怖い。窓枠に片足をかけただけで気持ち悪くなってしまい、早々に断念したのだった。怖さは簡単に比べられるものじゃない、ということをそのときジゴロウは学んだ。雨に対しての怖さと、高いところに対しての怖さとを比較して、仮に高いところに対しての怖さのほうがましだったとしても、別に屋根に登ってパイプをひっぺがせるっていうわけじゃない。どちらも怖い、ということだってある。同じクラスのヨコバエくんと4組のスマデラくん、どちらとも怖くて、でもほんの少しヨコバエくんのほうがましだったとしても、ジゴロウがヨコバエくんをバカ呼ばわりすることはできない。そういうことだ。

 

 ジゴロウが住む地域一帯は幸いにも一年を通しての降雨量が少なかった。特に秋から冬にかけてはからっと晴れの日が続いた。遠くに見える山たちのおかげで雲がどうたらこうたらとかいうことだったけれど、理科が苦手なジゴロウには、そんな話、お手上げだ。
 雨の日が少ないといっても、梅雨の季節は例外。きちんと、しとしと降る。ジゴロウは小学5年生にしてはめずらしく、梅雨というものの持つ詩情をぼんやり感じ取っていた。4時間目の算数の時間に円の面積の求め方を教わりながら、校庭の水たまりの大きさがふと気になったり、帰り道にジロウくんと一緒に傘で遊びながら、雨粒に揺れる紫陽花にふと気をとられたり。梅雨の季節にはそういった「ふと」がたくさんあって、そのたびにジゴロウはおなかのあたりがむずむずするのだった。けれど、外でしとしと降る雨は、ジゴロウの家のなかではゴウゴウ鳴り、モワンモワン反響する。校庭の水たまりや通学路の紫陽花に感じたむずむずは、家に着いてしまうと、恐怖にすべて飲み込まれてしまう。「ちっくしょう……くそっ……」、強がりもやがて心細いつぶやきへと変わる。気の紛らわし方というものをいっさい知らなかったジゴロウは、夕方、パートを終えたお母さんが帰ってくるまで、リビングのソファで両手で耳を塞いで丸くなっているほかない。
 ジロウくんちに行っていい日は、なるべく行った。ジロウくんと遊びたいという気持ちも少しはあったけれど、家にいると雨が怖いから、という気持ちのほうが正直ずっと大きかった。ジゴロウとジロウくんは家も近く、ふたりとも深夜ラジオが好き。角度をつけたボケやツッコミができて、クラスの他の子たちとは一線を画していると思っている。名前も似ている。だから仲はよかったけれど、深夜ラジオが好きな子どもというのはだいたいひとりで遊ぶのが好きだ。なので、帰り道は一緒でも、そのあとどちらかの家で一緒に遊ぶにはよほどの理由が必要で、ジゴロウは「うちの雨漏りがひどい」ということにしていた。
「もう100回くらい直してんだけどさ、めちゃくちゃ漏れてくるんだよ」
「きみんちの屋根は、あれかい、リトマス試験紙並みに薄いのかい」
 理科が苦手でしかもジロウくんとは聞いているラジオも違うジゴロウにとっては「はて?」なセンスの返しだったけれど、梅雨の時期に家で遊ばせてくれるならよかった。ジロウくんちの天井はジゴロウんちの2倍高かったし、ジロウくんちのフローリングはジゴロウんちの100倍白くてきれいだった。ジロウくんはジゴロウが見たことないお笑いのDVDを見せてくれたし、文字の多い漫画もたくさん持っていた。ジロウくんのお母さんは甘くてふわふわした海外のお菓子を出してくれたし、ジゴロウのことを「ゴがつくほうのジロウちゃん」とやさしく呼んでくれた。しかしそんなあれこれより、ジロウくんちでは、家のなかにいても雨の音がほとんど聞こえないのがよかった。
 ジゴロウの家の屋根はいっこうに直らないことになっていた。ジロウくんが飽きないように、変な嘘をつきつづける必要があった。どの業者に頼んでも雨漏りを止めることができない。直らなさすぎて地元の新聞が取材に来た。雨が降っていない日にも雨漏りしている。漏れてきた水だけでお米をといでいる。取材が増えてきたのでお父さんが脱サラしてこの雨漏りで飯を食っていこうとしている。漏れてきた水の成分を調べたらトレビの泉とほぼ同じ成分だった。どこから漏れてきているのか調べるために屋根裏に上がったら100年後の世界へと通じていた。
「えー、それは嘘でしょ」
「ジロウくんごめん、いまのは嘘だった」
「こないだのトレビの泉も嘘でしょ」
「ううんジロウくん、あれはホントなんだ」
「ホントなの?」
「ホントホント」
「すごいなあ、ジゴロウくんちの屋根すごいよ」
「ジロウくん、あのさ、今日もいい? 遊びに行っても」
ジゴロウくんごめん……、今日ヨコバエくんに誘われちゃってるんだ」
「よ……、ヨコバエくん? そうなんだ、じゃあオレは家帰るよ」
ジゴロウくんもいるよ、って僕、ヨコバエくんに言ってみようか?」
「い、いいよ、オレ今日漢字ドリルやんなきゃいけないし」
「漢字ドリルをやらなきゃいけない感じ、ってわけかい」
「ハハハ、じゃあジロウくん、また明日」

 

 ちょうど土砂降りの日だった。家のなかには雨がゴウゴウ、モワンモワン響きわたって、うずくまるジゴロウを苦しめた。ヨコバエくん、どうしてよりによってこんな日にジロウくんと遊ぶんだろう。だいたい、ジロウくんとヨコバエくんが仲がいいとは、ジゴロウには思えなかった。ヨコバエくんはドッジボールとドロケイが強く、おもしろいことなんてひとつも言わない。7の段がまだきちんと言えないし、おもしろいことも言えないのに、クラスの人気者だ。ジゴロウとジロウくんはおもしろいことが言える。でも、たしかに、とジゴロウは思う。ジロウくんはジゴロウと比べるとわかりやすくおもしろいことを言って、ちゃんとクラスのみんなにもウケている。ジロウくんの声はよく通る。正直オレのほうがセンスある、とジゴロウは思っているけれど、自分の声がぼそぼそしていてあまり通らないこともわかっている。そして、ジロウくんはやさしい。ドッジボールもドロケイも強くないけれど、たしかにジロウくんはクラスの人気者なのだった。人気者どうしは対立するか、すごく仲よくなるか、どちらかしかない。今回は仲よくなったってわけだ。
 となると、これからジロウくんとヨコバエくんが遊ぶことが増えてくるかもしれない。そしたらオレ、どうすりゃいいんだ!
 ジロウくん!

 

 ジゴロウ
 すごく遠くから呼ばれているような気がして、ジゴロウは耳を塞いでいた両手を外した。すさまじく反響する雨の音のなかに、かすかにジゴロウを呼ぶ声が混ざっているのだった。けれどそれはジロウくんの声じゃない。よろよろ立ち上がって玄関のほうへゆき、「誰ですか」と大声で聞くと、「ヨコバエ!」と相手は返すのだった。
 ジゴロウがヨコバエくんのことを怖いのは、こういうところだ。土砂降りの日にいきなり家に押しかけてくるし、ドアのすぐ横についているインターホンを押そうともせず、大声で呼びかけてくる。ヨコバエくんはインターホンを押さないし、信号を無視する。横断歩道のないところで渡る。消しゴムを使わない。本に栞を挟まない。そういう、この世界に用意されているあれこれを使おうとしないところが怖く、しかしそこがもしかすると彼の人気の秘訣でもあるのかもしれない。
ジゴロウ、おまえんちの屋根、雨漏りがすごいんだってな」
「そ、そうだけど」
「まあ入れてくれよ!」
 そのまま押しきられる形でジゴロウはヨコバエくんを家に上げてしまう。ヨコバエくんの後にはジロウくんがもじもじしながら立っている。ごめんよ、ジゴロウくんちの屋根のことヨコバエくんに話したら、どうしても見てみたいって言って聞かなくってさ、という目でジロウくんはジゴロウを見るが、ジゴロウには伝わらない。ジゴロウは、こいつ!という目でジロウくんを睨み、それはジロウくんに伝わる。
 ジゴロウとジロウくんが玄関で目を交わしている間に、ヨコバエくんはずんずんとリビングのほうへ行ってしまっている。ふつう家のひとより先に部屋に上がらないだろ、という指摘はヨコバエくんには通じない。ジゴロウは慌ててリビングに入り、ジロウくんももぞもぞとついてくる。
「あれ、ジゴロウ、雨漏りしてないじゃんよ」
「あ、えっと、ん?」
 ジロウくんが、あれ、雨漏りしてないの、こんなに土砂降りなのに、という目でジゴロウを見、それはジゴロウにも伝わる。ヨコバエくんがジゴロウを見る目からは何も伝わってこない。
「えっと、今日はあれだ、今日はたまたま、いや、違うな、そうだな、そう、こんなに土砂降りだと逆に雨漏りしないことがあるんだよね、っていう、その、あれです」
「逆に? 逆にか」
 どうやらヨコバエくんは納得してくれそうだけれど、ジロウくんはそうはいかない。あんなに雨漏りが直らない雨漏りが直らないと繰り返し言いつづけてきたのだ、ジロウくんはジゴロウの家の屋根が晴れの日も雨の日も毎日欠かさず雨漏りすることを知っているし、土砂降りの日なんて家のなかに流れるプールができることも知っているし、そのプールの水をうまく使えば地球上の気候の問題がすべて解決するであろうということも知っている。逆に、なんてことがあるわけがないのだ。「ヨコバエくん、逆に、はないよ」とジロウくんがここで口を開く。
「え、そうなのか、おいジゴロウ、そうなのか」
「そ、そんなことないよ、逆、あるよ」
「ヨコバエくん、ジゴロウくん嘘ついてるよ」
「おいおい、どっちなんだい」
ジゴロウくん、はっきり言いなよ、だってきみんちの屋根はぜったいに雨漏りするんだろ」
「しかし、しかし、あれ、しかしなんて言っちゃった、しかし、今日に限ってってこともあるよ」
「おいおーい」
ジゴロウくん」
「じゃあ屋根裏に登って確かめてみたらいいじゃんか!」
 そうかいな、とヨコバエくんはリビングの中央からジャンプして、天井の一部をペリッと剥がす。そんなところがペリッと剥がれるなんてジゴロウも知らなかったし、きっとお母さんも知らないだろう。ヨコバエくんがみんなからかっこいいと思われている所以はきっとこんなところにもあって、しかしジゴロウは彼が怖い。自分にはとうていできないようなことをしでかす、その地肩の強さみたいなものがおそろしい。ヨコバエくんはペリッと剥がれたところからスルッと屋根裏に登っていく。暗いぞ、で、なんかくさいな、ひんやりしてるし、乾燥してる、なあジゴロウ、やっぱり漏れてないぞ、と実況していた声がとつぜん途切れる。あれ、どうしたのかね、という目でジゴロウはジロウくんを見るけれど、ジロウくんはまだジゴロウを怪しんでいる。雨漏りしてるって言ってたじゃんか。いや、ほんとに今日はたまたましてなくて。ほんとは雨漏りなんてしたことないんじゃないの。いや、ほんとに。そのまま何十分とお互い無言の時間が流れ、ヨコバエくんは帰ってこない。そういえば、いつからか雨がモワンモワン響く音もしなくなっている。あんなにジゴロウを苦しめていたあの轟音が、いっさいなくなっている。よかったじゃんよ、とヨコバエくんの声がどこからか聞こえる。まるで頭のなかに直接語りかけてきているような、やわらかな声だ。ジゴロウは、ヨコバエくん!と思う。