バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

僕がジョン・レノンをはじめてカッコいいと思ったときのこと

 2000年、ビートルズのベスト・アルバム『1』が発売され、瞬く間に大ヒットした。日本国内だけでも20億枚も売れたというのだから、ビートルズ人気は本物だ。

 2000年というのは実に懐古趣味な数字だ。モーニング娘。だとか、プレイステーション2だとか、そういう年。当時僕は6歳で、右足の次に左足を出せば歩けるのだということ、そして、股ぐらに何か付いている人もいれば何も付いていない人もいるのだということを、ようやく覚えたくらいの時期だった。とにかく毎日小学校に通って、支え棒にくるくる絡まって上に伸びていく馬鹿正直なアサガオに馬鹿みたいに水をやっていた。僕のアサガオは人並みに咲いて人並みに枯れてしまった。

 さて、僕の両親ももちろん『1』を買って、リビングでひもすがら流していた。僕は当時大変な読書家だったので、夕方小学校から帰ってくるとリビングに居座って一日3000冊もの児童書をパラパラとめくった。僕が膨大な児童書と向き合っている間にも当然ビートルズの『1』がバック・グラウンド・ミュージックとして流れていた。僕は「いやいや園」や「エルマーの冒険」や「ナルニア国物語」をパラパラしながら、ジョンとポールと(たまの)ジョージと(たまの)リンゴの声に耳を傾けた。「ラヴ・ミー・ドゥ」に始まり、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」で閉じる。ビートルズの有名曲をリリース順に並べただけのアルバムなのだが当然すべて名曲だ。6歳の僕は「シー・ラヴズ・ユー」や「ペニー・レイン」や「イエロー・サブマリン」がお気に入りで、子供ながらに「ラヴ・ミー・ドゥ」はちょっぴり呑気すぎやしないかなと感じていた。でもまあ、とにかくいい曲を作るおじさんたちだ。この時期に僕の中でビートルズ愛の基礎工事が完了した。

 

 話は僕が中学生になったくらいの時期まで進む。「シー・ラヴズ・ユー・イェイ・イェイ・イェイ」や「ウィ・オール・リヴズ・イン・ザ・イエロー・サブマリン」と楽しそうに歌っているのを聞くのも良いけれど、「レット・イット・ビー」のギター・ソロに浸りたいと僕の中のロックが目を出し始める時期。そして、僕の中の小さな言語世界に黒船が襲来した時期。

 英語を習い始めたことで、ビートルズを歌詞付きで歌えるようになったのだ。僕は慣れ親しんできた曲たちを、めちゃくちゃな発音で口ずさんだ。「アワナホーリョーヘーエーエーンズ、アワナホーリョーヘンズ」、「シーズガラティケトゥラアイ、シーズガラティケトゥラアッアッアイ」、「ヘイジュードンメイキッバッ」、……。そんな僕にどうしてもうまく歌えない曲があった。「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」。結局愛だよ、とジョンが歌うこの曲の、いわゆるAメロが僕にはどうしてもうまく歌えなかった。「ゼアズ・ナッシング・ユー・キャン・ドゥ・ザット・キャント・ビー・ダン」、「ナッシング・ユー・キャン・シング・ザット・キャント・ビー・サング」「ナッシング・ユー・キャン・セイ・バット・ユー・キャン・ラーン・ハウ・トゥ・プレイ・ザ・ゲーム」、「イッツ・イージー」と歌うジョン・レノン。「ゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョ、イッツ・イージー」と歌う僕。ジョン・レノンがどうして発音できているのか全くわからなかった。マジシャンだ。このとき、僕はジョン・レノンをはじめてカッコいいと思ったのだ。彼はそれまで、僕の中の「いい曲を作る人」カテゴリーにはいたけれど、「カッコいい人」カテゴリーには入っていなかった。なんだジョン、いい曲を作るってだけじゃなくて、カッコいいのか! それで、今はどうしているんだい?

 彼は1980年の冬に殺されていた。動機は嫉妬に違いない。