バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

日記(2021/09/17-2021/09/19)

 金曜日。ムビチケがあったので恋人と『リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』を観に行った。かなり元気モリモリになった。作り手が観客を喜ばせようという精神が至るところから感じられ、その結果登場人物たちが脈絡なく歌って踊り、そうしたほうがおもしろいからという理由だけでタイムスリップし、特に回収されない小ネタが満載の怪作が誕生していた。観る前は2000年代並みの3DCGが気にかかっていたけれど、そんなことたいして気にならないくらい、作品に強度がある。そして劇中で流れる歌がどれもキャッチーで、頭から離れない。映画としてはめちゃくちゃなのに心を掴まれたのは、「テニプリならなにが起こってもおかしくない」という特殊な信頼関係が、原作者であり今回も製作総指揮をつとめている許斐先生と、ファンとの間に成り立っているからだろうか。そういう特殊な文脈を踏まえて観るべき作品だという気がする。漫画で、アニメで、ミュージカルで、これまでテニプリというものが築き上げてきたブランドの力だ。

 僕たちが行ったのは無発声応援上映の回だった。隣に座っていたクールな女性のドリンクホルダーにはペンライトが二本ささっていて、場内が暗くなると待ってましたとばかりにそれらに明かりが灯された。それらは適切なタイミングで振られ、色が変わり、ほとんど休まず動き続けた。僕は正直ほとんど冷やかしのようなスタンスで観に来てしまっていたので、周りの方々が楽しめるよう、申しわけ程度に膝を叩いたり、拍手すべきタイミングではきっちり拍手したりした。しかし不思議なもので、そういう軽い形でも応援上映に参加してみると、なんとなく楽しさは増すのだった。

 興奮冷めやらぬまま帰宅。次の日の夜に新文芸坐で『ハッピーアワー』のオールナイト上映をやるというので、「世界を敵に回しても」(by テニプリオールスターズ)を口ずさみながらチケットを買った。三連休ならではの強気。『リョーマ!』と『ハッピーアワー』、ほとんど対極にあるような映画だ。

 土曜日。『ハッピーアワー』は夜からなので、それまでどうやって過ごそうか、という話になる。とりあえず『セックス・エデュケーション』のシーズン3を観てゆく。登場人物みんなが愛おしい。セックスにまつわるあれやこれやの話だけでなく、あらゆるコミュニケーションが誠実に描かれている。俳優の肌の補正をしないこと、ノンバイナリーの役をノンバイナリーの俳優が演じていることなど、制作そのものが誠実になされている(「トランスジェンダーやノンバイナリーは身体そのものに関わってくるので当事者が演じるべき。ゲイやバイセクシャルは可変なので非当事者でも演じうる」というのが僕個人のなかでの現時点での考えです)。同じくコミュニケーションを誠実に描いているのでも、濱口作品とではまったく感触が異なるのがおもしろい。濱口作品のほうが圧倒的に「言えない」度が高く、だからこそ言えるようになるまで辛抱強くカメラを回しつづける必要があり、作品自体が長くなるのだろうなとも思う。『ドライブ・マイ・カー』の家福さんが『セックス・エデュケーション』の登場人物だったなら、もっとはやく思いを吐露できただろうか。いや、そんなこともないな。

 オールナイト上映は23時からだったので、その前にひと眠りしておきたいよね、という話になる。家から直接行くのでもいいけど、どこかでゆったり過ごして、寝られるなら寝て、万全のコンディションで臨みたい。銭湯やスパ施設などの案が出るなか、恋人がホテルをとることを提案してきた。ホテルに入って、しっかり大浴場を満喫し、ちょっと寝てから、オールナイト上映に臨み、終わったらチェックアウトの時間まで寝てから帰るというのはどう? え、超最高! ということで僕たちはネットで急いでホテルを予約する。恋人はこういうアイデアを出すことに長けている。僕は長けていない。人類全体のなかでも長けていないほうだ。

 池袋へ向かい、ちょっといい回転寿司で食べ、ホテルへ。大浴場にはしっかりサウナもあり、ポカリスエットが無料サービスで提供されており、風呂上がりには無料のアイスもあった。超最高。サウナは1周で弱めのととのいに抑え、22時過ぎまで寝てから、新文芸坐へ向かった。ロビーにはたくさんのひとがいて、若いひとが多くて、これからこのひとたちみんなで朝まで『ハッピーアワー』を観る時間を共有するということがうれしくなる。映画館は舟のようだとときどき感じる。ひとつの旅を共にする舟、というか。旅とか舟とか、なにいっちゃってんの、という感じだけれど、なにいっちゃってんの、ということこそいっていきたい。恋人はオールナイト上映ははじめてだそうで感激していた。東京に住むってこういうことだよねえ、といっていた。たしかに、と思う。夜中にこんなにひとが集まっていることも、抑えめの場内アナウンスも、休憩時間に劇場の外に出てほとんどひとのいない池袋をふらっと歩いてみることも、東京に住む、ということのひとつの側面のように思う。

 休憩時間にトイレに並んでいると、久しぶりの友だちに会う。おっ。おっ、久しぶりじゃん。おお~。ひとり? いや、僕はふたりで来てるよ。きみは? 僕はバイトのときの友だちと。いいねえ。こんなところで久しぶりの友だちに会うこともとてもうれしく、これも、東京に住んでいる感じがして興奮する。2回目の休憩でトイレに並んでいるときにもまた会う。あ、ねえ、終わったらマック行こうよ。あ、いいね。

 『ハッピーアワー』は大学3年生か4年生のときに柏のキネマ旬報シアターで一度観て、その年の後期に三浦哲哉先生の授業で一学期間かけてゆっくり観た。濱口監督の『カメラの前で演じること』を読んだし、そのあと刊行された三浦先生の『『ハッピーアワー』論』も読んだ。だから映画の冒頭、神戸の山を昇ってゆくロープウェイのなかの主人公4人の顔が浮かび上がった瞬間、この映画のなかでどんなにいろんなことが起こっていたか、その豊かさがいっきに思い出され、うるっときてしまった。そしてその印象は、映画が進んでゆくうちさらに鮮やかに塗り替えられてゆく。前に観たときよりもさらに実感を伴って僕のなかに食い込んでくる感覚がある。前に観たときよりも映画のなかの男性に目がいく感じがあるのは、僕にも恋人ができたからだと思う。だからむしろ男性に目がいく。前に観たときには、拓也~、と思っていたけれど、いまは、拓也さん……、と思う。観るたびに新鮮な発見があり、これからも何度も観たいと思う。主人公たちと同じ37歳になったときにこそ観たいと思う。「37歳が楽しみになった」と恋人がいっていて、それはすごくいいことだし、その通りだと僕も思う。

 『ドライブ・マイ・カー』でも感じたけれど、脚本や俳優たちの身体が素晴らしいのはもちろん、やはり撮影が洗練されている。登場人物の正中線に相対するカメラ、(特に打ち上げの席での)規則的で幾何学的とまでいえる画角、(たとえば桜子が風間のほうに踏み出すような)決定的な瞬間を逃さない移動、そのすべてが美しい。土台がしっかりしているからこそ楽しめる、というのは間違いなくある。しかるべきタイミングでしかるべき位置にカメラがあることが、この映画の豊かさの一端を支えている。

 終わったあと、僕と恋人と友だちと友だちの友だちとマックへ。友だちの友だちとはとても話が合いそうで、今度またみんなで集まりましょう、ということになった。こういう出会いがあることがうれしい。僕たちまだやれんじゃん、と思う。解散し、僕と恋人はホテルへ戻り、朝風呂を浴び、チェックアウトの時間まで寝た。ホテルを出てから歩く日曜日の池袋の空には雲ひとつなく、日差しがどことなく令和っぽくない。

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日記(食べることについて1)

 牛丼の味を覚えているか? 僕はもう牛丼の味を覚えていない。牛丼を食べれば僕は牛丼の味を思い出すだろう。しかし僕は牛丼を食べることができない。頭のなかの牛丼を司る部分が弱いのだという。牛丼を食べようと思って牛丼屋に行くところまではできる。メニューを見るまでは僕は牛丼を食べようと思っている。何も冠されていないもっともオーソドックスな牛丼を食べたいと思っている。しかしメニューを見たとたんに僕の意識は非オーソドックスな牛丼に向かってしまう。非オーソドックスな牛丼にはいろんなものが載っておりいろんな味がする。それはそれでおいしけれどそれは僕の食べたかった牛丼とは似て非なるものだ。似てすらいないかもしれない。しかし僕はいつの間にかその似非牛丼の名を口にしている。いや似非はひどい。亜か。亜だ。僕は亜牛丼の名を口にしやがて亜牛丼が運ばれてきて僕の前に置かれる。亜牛丼はおいしい。僕は亜牛丼をもりもり食べる。もりもり食べられる度合いに関しては牛丼と比べてもなんら遜色ない。僕は亜牛丼をあっという間に完食し支払いを済ませてごちそうさまをきちんと言って牛丼屋を出る。僕は牛丼を食べていないことに気がつく。僕はまたしても牛丼を食べることなく牛丼屋を後にしてしまっている。これを何度も繰り返している。それほどまでに亜牛丼の魅力には抗いがたく僕の頭のなかの牛丼を司る部分は弱い。もしもメニューが牛丼のみの牛丼屋があったなら僕は牛丼を注文することができるのだろうか。僕はそんなくだらない妄想をする。

 


 「MOWとハーゲンダッツを食感や味だけで区別することはできない」というのはよく知られた話だけれど、アイス界にはもうひと組、区別のつかないものがある。爽とフラペチーノだ。よく冷えたクリームの中に混ざる非常に粒の細かい氷を、舌先から奥に運び、上下の歯で挟む。砕く、と、溶かす、のちょうど中間。しゃり、と心地のいい音が頭蓋に響き、冷たさと甘さが鼻腔まで広がる。その食感において、爽とフラペチーノはほぼ同じである。いまここで目隠しをされて爽のカフェラテ味とフラペチーノを順番に口に突っ込まれたとして、どちらがどちらであると言い当てることは僕にはきっとできない。それとも簡単に言い当てることができるのだろうか。正直わからない。僕はいまこの文章を当てずっぽうで書いている。二週間ほど前に爽を食べたとき、ほぼフラペチーノだ、となんとなく感じた覚えがあった。フラペチーノのほうも飲んで確かめたわけではない。食べたのは爽だけだ。そのなんとなく感じたことのみを頼りにこうして書いている。文章にすればするほどに自信がなくなってゆく。

 


 いんげんを「隠元」と表記している本を立て続けに読んだ。隠元
 隠元は、江戸時代の前期に明の僧・隠元が日本に伝えたことからその名がついたという。Wikipediaにそう書いてある。Wikipediaによると隠元は82歳まで生きたそうで、これは長生きの部類だろう。Wikipediaにはっきりと「長生きである」と書いてあるわけではないけれど、間違いなく長生きだと思う。Wikipediaによると隠元には良静・良健・独癡・大眉・独言・良演・惟一・無上・南源・独吼など二十人ほどの弟子を連れて長崎へ来港したそうで、さすが僧というべきか、ひとり残らず名前がかっこいい。豆の名前とするには弟子たちの名前はいささかかっこよすぎ、隠元でよかった、と僕は思う。隠元もじゅうぶんかっこいいが、いんげんとひらがな表記にしたときのやさしさがある。これがどくげんとか、むじょうとか、どっくとかでは、手に取ろうとは思わない。

 ところでWikipediaには隠元が日本に伝えたから「隠元」という名がついた、ということ以上の情報は載っていない。具体的にどういうシチュエーションで、どのような流れで伝えたのか、そこまではわからない。僕は隠元師に想いを馳せる。帆を大きく膨らませた船のデッキにしっかり立ち、ようやく水平線上にその姿を現してきた東の小さな島国をまっすぐ見つめる隠元師。その手には、淡い緑の細長い鞘をしっかりと握りしめている。拳を視線の高さまで上げ、空と海のあいだに揺れる小さな島国の姿と鞘を重ね合わせる。海面には日光が幾重にも乱反射し、目の前に掲げた鞘をちらちらと縁取る。ここでカメラは大きく引いて、船の全貌、雲ひとつない青空に高く浮かぶ太陽、そしてはるか向こうの水平線を映したところで、オープニング曲(山下達郎「SPARKLE」)がイン。タイトル『隠元 ~豆を伝えし者~』が画面中央に浮かび上がる。

 


 多ければいい、の時代ではもはやない。濃ければいい、の時代ではもはやない。丼ものやピザにもいえるが、ラーメンにおいてもっとも顕著である。「濃いめ固め多め」の時代は過ぎ去り、「固め」のみが残る。やがて「固め」もどうしていっていたのかよくわからなくなり、「ぜんぶふつうでお願いします」になる。ふつう、の時代である。ご飯大盛り無料でできますけど。あー、ふつうでお願いします。焼き加減いかがしましょうか。あー、ふつうでお願いします。食前と食後どちらにお持ちいたしましょうか。あー、ふつうでお願いします。

伸るか反るか

 ノルカソルカ、やぶれかぶれ、はみ出しおパンツ、茄子のトルネード、デニデニデニム、犯人はGt. & Vo.、ゲーミング戦艦、バイオテニス、灼熱又五郎、じゃあお前がやれよ、ホーリーシッツ、マクソン、ギヴミーキスィーズ、おれにいわせれば、残忍豆腐、ミディアムレアメタル、サノスの小指、すれちがって夏、偽ホムンクルス、わからんでもナイン、ベースケ、ふんばりどころ、味噌派、生まれてバリカタ、ふれくしぼう、ナイトスイミング、そんなふうに架空の漫才コンビの名前を思い浮かべながら僕は手を動かしていた。手を動かしているというよりは手が動いているに近かった。僕が架空の漫才コンビの名前を思い浮かべていくあいだ、手は僕とは関係なく動いていた。でもそれは間違いなく僕の手で、それが僕の手だということを思い出したとたん、手はとても重く感じられてしまうのだった。重くなった手を、僕は思わず止めてしまった。ちょうどその瞬間、監督が僕のほうを見ていた。監督はどうしてかいつもタイミングよく僕のほうに目を向ける。それは僕にとってはタイミングが悪いということだ。僕はいつもそんなに長く手を止めているわけではなく、長くても10秒ほどなので、監督が怒鳴るのは少し理不尽だと感じる。けれど、たしかに僕は手を止めてしまっているので、それを見た監督が怒るのも無理はないとも思う。ただ、怒鳴らなくたって聞こえるので、怒鳴らなくたっていいのではないかとも思う。いまも監督は怒鳴ろうとしていた。監督は怒鳴るとき下唇を震わせる。よく目をこらせば、という言葉では収まらないほど、それは大きく前後に震える。だから監督が怒鳴ろうとするとすぐにわかる。手ぇ、動かせ、と監督が怒鳴るのと、手ぇ、動かします、と僕が叫ぶのとが重なった。僕は手ぇを動かした。手が重いのではなく、手に持っているスコップが重かった。なんで手ぇ止めとるんじゃ、と監督が追加で怒鳴ってきた。監督は別に関西のひとというわけではないのに、関西のひとみたいに怒鳴る。もう手ぇ動かしてるんだから、怒鳴らないでほしい、と僕は思った。周りのひとが手を動かしながらこちらをうかがっていた。僕が怒鳴られているとき、彼らはこちらをうかがい見る。僕が怒鳴られるのはいつものことなのだから、そんなに毎回見なくてもいいのに、と僕は思う。監督の怒鳴り方だっていつも同じなのだから。監督はもう怒鳴ってこなかった。監督はすでに違うほうを向いていた。監督はいつも2回怒鳴って、2回目の僕の応答を聞く前にはすでに違うほうを向いている。2回、というバランスがうまい、と僕は思う。もちろんできることなら0回に抑えてほしいけれど、怒鳴るにしても2回で済ますのは監督のうまいところだ。あともうひとつ、監督は誰に対しても平等に怒鳴るからうまいと思う。上のひとが視察に来ても、監督は、邪魔じゃボケカス、と怒鳴る。帰れナスが、と怒鳴る。上のひとにも怒鳴るのは、度胸があるというより、仕事なんてどうでもいいと思っているからだと僕は思う。監督は監督じゃなくさせられようがまったく構わないのだろうと思う。そういう顔をしている。だから上のひとにも平気で怒鳴るし、それを見てみんな、監督はすごい、と感嘆する。そんなみんなの様子を見て、上のひとも監督のことを骨太で人望のある現場リーダーだと評価する。そういうところがうまいと思う。でも当の本人は仕事なんてどうでもいいと思っている。

 僕は監督に怒鳴られる前から掘っていた穴を完成させて、次の穴に取りかかった。こんな穴掘ってどうするんだ、と投げやりになるフェーズと、せっかく掘るのだから完成度の高いものを、とやる気の漲るフェーズがあり、いまは後者だった。目の前のひとつひとつの穴としっかり向き合って、完璧に近いものを仕上げたかった。なんのための穴なのか僕たちは知らされていない。監督は知らされているのかいないのか、その表情からは読みとれない。監督の表情からは、もっぱら仕事なんてどうでもいいと思っていることしか読みとれない。なんのためかはわからないけれど、やるなら僕の本気を注ぎたいといまは思いながら、僕はスコップを動かした。とはいえこれは単純作業すぎる。どうしても飽きてきてしまい、周りの進捗が気になったり、グラウンドの向こうの金網と竹藪とその上の薄い色をした空に気を取られてしまったりする。集中して完璧を目指したいと思う気持ちと、単純作業に飽きてついつい他のことに気を取られてしまう気持ちは両立する。全力を注ぎたいのに飽きてくる。だから僕は頭のなかで目の前の穴とはまったく関係のないことを考えながら手を動かし続けなければならない。そうしているうちに頭のなかでなにかを考えるということと手をひたすら動かし続けるということが分離する。手は僕とは関係のないところで動き続けることになる。架空の漫才コンビの名前を思い浮かべていくのは5日前からやっていることだった。なかなかいい考えごとだった。どこで身につけたか、僕は架空のコンビ名をすらすら並べていくことができた。僕はコンビ名を次々と思い浮かべることに集中できた。僕が架空のコンビを次々に登場させているあいだ、僕の手は次々に穴を完成させていった。この5日間、監督に怒鳴られる回数も減っていた。架空のコンビ名を30個近く並べていって、そうやって頭のなかに並んだコンビ名を、今度はひとつひとつ精査していくのだった。茄子のトルネードは漫才コンビというよりはラジオネームっぽい響きだと思った。マクソンは角度のついたボケにストレートなツッコミがテンポよく被さる漫才をしそうだと思った。サノスの小指は3年で解散しそうだと思った。味噌派はいかにも新進気鋭っぽいと思った。そんなふうに僕は精査していった。別に精査してどうなるということもないけれど、僕は精査した。精査、という単語の響きのなかにはどこか真剣みが感じられて好きだった。

 僕が精査しているうちに、僕の手はまたひとつ穴を完成させていた。たぶん明日はまたここに来てこの穴を埋めなきゃいけなくなるはずだった。明日は雨の予報だった。雨が降ると僕たちは穴を元どおりにしなければならない。元どおりにせな危ないやんか、と監督は言う。監督の言うことももっともだ、と僕は思う。穴は上から見た印象よりずっと深くてたしかに危ない。けれど、別に雨だろうが晴れだろうが変わらず危ないのではないか、と僕は思う。雨の予報が出ていて、どうせ次の日に元に戻すのなら、その前日にわざわざ穴を掘らなくてもいいのではないか、とも思う。でも、なんのための穴なのかということも知らない僕がそんなことを考えたところでどうにもならない。雨の予報が出ていようが、僕は穴を掘るしかなく、いざ雨が降ったら元どおりにするしかない。現場というのはそういうふうに動くもんや、と監督は言う。明日は昼ごろから雨が降るらしかった。雨が降りはじめたら監督から電話がかかってきて、穴戻すから集合や、と告げられるはずだった。たまに、雨が降っても監督から召集がかからないことがある。それは雨の強弱には関係なく、監督の気まぐれとしか思えない。同じ雨でも召集がかかったりかからなかったりする、その一貫性のなさが気になるところではあるけれど、集合しなくて済むのは単純にうれしい。召集がかかったらもちろん行くけれど、かからなかったら僕は喜んで休む。当日召集がかかるかかからないかは、当日になってみないとわからない。明日召集がかかるかかからないかは、明日になってみないとわからなかった。わからないから、とりあえずいつでも行けるように準備をする必要がある。でも、それは明日考えればいいことだった。いまの僕はただ目の前の穴ひとつひとつに集中すればよかった。残忍豆腐は漫才とコントの二刀流で、なおかつ漫才をやるときはぜったいにコント漫才にはしないという厳格なルールを持っていそうだと思った。バイオテニスは超ハイテンションダブルボケ漫才でブレイクしたが、そのうちテンションはそのままにダブルツッコミに移行し独自の高みに達していそうだと思った。僕の手がまたひとつ穴を完成させていた。それを監督が見ていた。きみ、手ぇ止めてさえなければ、穴作るのほんまにうまいよな、とあたたかく声をかけてくれた。監督がそんなふうにひとのことを褒めるのをみたことがなかった。僕はとても驚いて思わず手を止めてしまった。けれど監督は怒鳴ることなく、手ぇ、とやさしく笑いながら注意してくれた。

 監督は僕と漫才コンビを組みたいのだろうか、と僕は考えた。いつも怒鳴る監督がいきなりこんなやさしい一面を見せてくるなんて、僕と漫才コンビを組みたいからのような気がしてならなかった。お笑いでいうところの緊張と緩和の手法だった。関西のひとでもない監督がいつも関西のひとのようなしゃべり方をするのも、関西の漫才に憧れているからだと思えば納得できた。いまどきそんなふうに怒鳴るひとも少ないし、関東にだっていい漫才コンビはたくさんいるということを教えてあげたかった。けれど、僕のつまらない指摘で監督の憧れを害するのも野暮かもしれないと思いなおした。監督が関西のひとみたいなしゃべり方で怒鳴るタイプのツッコミをやりたいのなら、僕はそれに合わせてアホなボケをやればいいのだった。僕は僕でほんとうは関東のしっとりしていて角度のついた漫才をやりたいけれど、それはそのうちふたりで相談してそういうネタも作っていけばいいのだった。いまはまず単純に監督と漫才コンビを組めることを喜べばよかった。実際、僕は喜んでいた。僕も監督と漫才コンビを組みたかったのだと僕は気づいた。誰かと漫才コンビを組みたいだなんて思うのははじめてだった。そんなふうにはじめて思えたことがうれしかったし、その相手が監督だということもうれしかった。自分でも意外だったし、監督が僕と組みたがるのも意外だった。僕がもともと穴を作る仕事をしてて、このひとがその現場の監督だったんですよ、なんてふうにテレビのトーク番組の収録で僕が話しているところを僕は思い浮かべた。それともその話をするのは監督のほうかもしれなかった。こいつが穴を作るスタッフで、俺がそこの監督だったんですよ、と監督が話しているのを想像してみて、そうだ、やっぱりこっちだ、と僕は思った。Wikipediaの略歴のところに、僕が監督を誘って結成、と、監督が僕を誘って結成、と、どちらで書いてあったほうがいいか想像してみて、監督が僕を誘って結成のほうがしっくりくると僕は思った。そうやって将来のトーク番組ベースで、あるいは将来のWikipediaベースで、コンビのことを考えていくのは楽しかった。監督と僕は結成4年目にM-1の3回戦、5年目に準々決勝まで行くはずだし、次の年にはABCお笑いグランプリで決勝進出、しかしM-1は2回戦で敗退するはずだった。同じ年、ラジオ番組がスタートした。しかし僕は僕たちのコンビの名前を考えていなかったので、そのラジオ番組の名前も考えることができなかった。僕は僕たちがいずれ持つ冠番組の名前も考えることができなかった。そうやって僕が行き詰まっているあいだにも、僕の手はさらにもうひとつ穴を完成させているのだった。

 やがて終業時刻を迎え、僕は帰る準備をするふりをしながら、監督のほうから話しかけてくれるのを待った。監督は来なかった。監督は終業と同時に帰ってしまったようだった。監督はいつも帰るのが早い。次の日は予報どおり雨が降った。監督は僕を招集しなかった。監督の気まぐれが発動したようだった。それも並みの気まぐれではなかった。その雨の日、監督は監督をやめたのだった。あとで他のスタッフから聞いた。監督……

日記(梅雨)

210621

 一年で一番日が長い日の夕焼け空を見ながら、ふいに、これからどんどん日が短くなっていくということが悲しくなる。明日は今日より日が短いし、明後日にはさらに短くなる。夏はまだまだこれからだというのに、日は日に日に短くなっていく。僕たちは夏が始まる前から、すでにその終わりを予感させられている。夏至は夏の終わりの伏線。そのことが悲しい。



210627

 朝から夜まで、たえず雨の気配を湛えた空。けっきょく雨が降ることなく一日は終わり、やり場のないなにかだけが後に残される。怒りや悲しみやむかつき、そのどれも少しずつ入っているようで、どれでもない。名状することのできないなにか、が残された、という感触のみが残っている。



210628

 下り坂を歩きながら、夏を夏たらしめているものは雲だと悟った。いわゆる入道雲、あるいはそれに準ずるようなもくもくした雲を見れば、僕たちはとっさに、夏、と思ってしまうのだった。



210629

 今日もけっきょく雨が降る。予め報じられていなかった雨。洗濯かごには我々人類が脱ぎ散らかしたあらゆる衣類が山積みになっている。クローゼットにはもはやなにも残されていない。今日洗濯しなかったら我々は滅ぶ。僕はしかたなく部屋干しを選択する。洗濯かごから下着とシャツ、必要最低限のものだけ掘り起こして洗濯機を回し、回っているあいだに水筒を洗う。

 

 

 5本入りのヤクルトと10本入りのヤクルトとでは、1本あたり換算で0.いくらほど10本入りヤクルトのほうが安いが、5本入りヤクルトには細いストローが付属していて飲みやすいので、そちらを買うが正解。というささやかで厳かな生活の知恵。スーパーに行った帰り、傘をさし、マスクに息を詰まらせながら歩いていると、無灯火で煙草を吸いながら自転車を漕ぐ青年に追い越される。その自由さ。しかし、僕にだって細いストロー付きのヤクルトがある。



210630

 一日中曇りとの予報だったので、賭けではあるけれど昨日洗濯できなかったタオル類を洗濯してベランダに干した。空よ、夜まで耐えてくれ! けっきょく小雨が降る。



210701

 今日も雨が降った。今日は洗濯しない、と決めるととたんに雨は味わい深いものに思えてくるのだった。まだ夜が明けるずっと前、恋人がベッドを抜け出してお手洗いに行ったついでに窓を開けたら、雨がものすごい勢いで降っていた、そのあまりの降りっぷりのよさに僕も思わず目を覚ました、僕たちは特に言葉を交わすこともなくその雨の音に耳を傾けながらまた眠りに落ちた、その雨が、朝ふたたび目を覚ましたときにもそのままの勢いで降っていた。

 職場の窓から見る梅雨の東京も好きだった。ときおり雨が止むと、窓の外の靄がなくなって、遠くのビル群まで見えるのだった。たっぷり水を含ませた水彩筆を気ままに走らせたような曇り空が、様々な長さを持つ鉄の棒の上に覆い被さっている。

「たっぷり水を含ませた水彩筆……、鉄の棒……、ふむ……」

 たとえというのは、生活の実感に基づく想像力のなかからしか出てこない。生活の実感が乏しければ、たとえも乏しい。しかし、だったら僕はこの梅雨の東京をなんとたとえればよかったのだろう?



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 こうも連日雨が降っていると、雨の話ばかりしかできない愚か者になってしまう。ほんとうは一年で一番日が長い時期のはずなのに、そんなことはすっかり意識の外に追いやられている。今日だって昨日だって一昨日だって、その前の日だって、分厚い雲の上では日が長かったはずなのだ。



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 朝から夜まで霧のような雨が降っていた。傘をさしていようがささないでいようがほとんど関係ない、ただ、さしているほうがかろうじてましな雨。朝投票に行って、昼過ぎに『ゴジラvsコング』を観に行った。久しぶりに天気に関することでないことを書けてうれしい。映画は非常にプロレスチックで、雑で、景気がよく、楽しかった。メインの登場人物のひとりは、大切なひとを失ってから陰謀論にとてもはまってしまったひとで、Podcastパラノイアじみた言説を配信しつづけている。でも、映画が進むにつれて彼の言っていることはすべてほんとうだとわかっていって、彼が潜入して働いていた会社は地下通路で香港と繋がっていたし、ごく一部のスタッフだけが知る謎の研究で人工モンスターを作り上げていたし、地球の内部には巨大な空洞があって、巨大生物の豊かな生態系が存在していた。「まじでなにいってるの?」状態の言説が次々と実証されていって、冷静になるとなんだか非常に珍妙な映画だった。雨はまだ降っている。



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 雨が降っていることが当たり前になり、雨が降っていない時間のことを「雨が降っていない時間」というようになる。たえずビートが鳴っているトランス・ミュージックの中で、ふいにビートが鳴りやみ、シンセサイザーのみになるパートがとても効果的なのと同じように、雨が降っていない時間は僕たちをハイにする。通りを歩く人びとは、あ、いま降ってないね、と傘をたたみ、オフィスビルで働く人びとも、口には出さないものの、あ、いまもしかして降ってないんじゃないの、と窓の外を見て思う。つかの間、雨がやみ、人びとが傘をたたむ時間。それは晴れ間というのとも少し違う。晴れる、というよりは、あくまで、降っていない、が前面に出ている。この時間にもなにか名前をつけたほうがいいのかもしれないという気がしてきて、あれこれ考えてみる。せっかくだからかっこいい名前がいいんじゃないの? なに、凪、とか? 雨と雨の間の凪だから、雨凪、みたいな? うーん、なんか、そういうんじゃなくて、なんか、ドラゴンとか? ウルトラとか、メガとか? じゃ、もう、メガドラゴンでいいね。それから僕たちは、メガドラゴンを楽しむ。



210706

 ひどく蒸し暑い。水は流れ、やがて川になり、海へと注ぎ、そこから雲ができ、流れ流れ、ビル群に覆い被さって、僕たちを蒸し暑くさせる。中島みゆきの歌詞に、そういうのがあるそうです。



210709

 Lucy Dacusの新しいアルバムがすごくいい。先行曲“Hot & Heavy”の、特に後半、曲そのものが自走してゆくような駆動力がとてもよくて、どことなくシャムキャッツの「このままがいいね」っぽさも感じるな~、なんて思いながらアルバム楽しみにしていたけれど、やはりよかった。“Hot & Heavy”同様疾走感のある曲もあるし、古きよきマナーにのっとったようなフォーキーな曲もあり、なにより全編に「それでもギターを鳴らしてゆく」という気持ちが乗っかっているように思えるのがとてもよい。そしてやはりどことなくシャムキャッツらしさも感じる。僕個人の感覚に紐づけていうと、この感じはなんとなく、僕が中学から大学まで乗っていた常磐線沿いのフィーリングなんじゃないか、という気がしている。常磐線といっても、上野から松戸あたりまでの、常磐線全体からしてみればごく短い区間の景色のことだ。あのあたりの夏の夕暮れどきの街の灯り、それほど遠くではない遠くに見えるスカイツリー、あるいは冬の朝早くのうすら靄がかった家々、住宅街のなかをひっそり流れる水路の深い緑、あるいは秋の昼下がりのすべてが眠気を帯びたようにゆるりと過ぎてゆく景色、斑点のように浮かぶ雲、何年もかけて僕の眼の裏あたりに染めついたような景色を思わせるような、そんなアルバムだと思う。そんなことを、数ヵ月ぶりに実家に帰る常磐線のなかで思う。実家の最寄り駅に着けばもう雨は降っておらず、誰も守らない横断歩道の赤が、靄のなかににじんでいる。梅雨はもうすぐ明けるらしい。



210710

「これ思いついたとき、かなり気持ちよかっただろうな、っていうもの。たとえば、たとえば……、そうだな、たとえば、ああ、たとえば高床式倉庫! あれは気持ちよかっただろうねえ。ふつうに暮らしてるとどうしても鼠が入ってくる、じゃあどうすればいい、そう、床を高くしちまえばいい! 気持ちよかっただろうなあ! なあ! ジゴロウくん、人類はそうやっていろんなものを生み出してきたんだ。数えきれないほどの発明を、文化を……。この私もねえ、死ぬまでにひとつはそういう発見をしたいと思って、思いついたときの気持ちよさを味わいたくて、いろいろ考えてみたんだよ。そこで私が注目したの、何だと思う? うん、うん……、違う。傘だ。傘だよジゴロウくん! 考えてみなさい! 人類がいまみたいな姿を手に入れて、文明を築いて、それからどれくらい経ったのか……、何千年、いや何万年……? 私たちはずっと、雨に対して傘という手段しか持っていないじゃんか! ジゴロウくん、きみ傘さすだろう、どうだ、雨が激しく降っている、どうだ、ほら、風が吹く、ほら、濡れるだろ、濡れるだろ傘じゃ! 片手も塞がるし、濡れるし……、ひでえ道具だねえ。梅雨なんかさいあくだ……。そこで、だ。私は考えた。考えたよ……。そして私は思いついた……、いきなり思いついたんだよ……、あの気持ちよさったら……、この、ここの側頭部の血管、ちぎれたかと思った……、それがなにかといいますと、あのねえ、ちょっと待ってね、ちょっと……あれ、待ちなさいね……、あのねえ……あのねえ……ジゴロウくん、あのねえ……、んと……」

「博士……」

「……ん? なに? なにかね?」

「博士もしかして……、思い出せないんじゃ……」

「……ジゴロウくん……」

 博士……。目の前でゆっくり膝から崩れ落ちる博士を、ジゴロウは黙って見守ることしかできなかった。博士、ほんとうに側頭部の血管ちぎれてしまったんじゃないだろうか。もっと早く本題に入っていれば、こんなふうに思い出せなくなってしまうこともなかったんじゃないだろうか。特に前半、家で考えてきたのであろうことが察せられる導入だったけれど、それにしては具体例が弱すぎなかったか。博士、高床式倉庫は弱いよ。なんか他にもっと、あるだろ……。

 しかし、ジゴロウが代わりに別の具体例を思い浮かべてあげられるということはない。ジゴロウは心やさしい少年だったが、具体例がぜんぜん出なかった。ジゴロウには教養がなかったし、想像力もさほどなかった。場数も踏んでいなかった。



210711

 蝉がないていた。遠くの空が鳴っていた。



210713

 雨の気配を湛えながらも、降りださない空。



210716

 夏合宿3日目、予報にない大雨が降って午後練がなくなった昼下がりの感じ、あの感じ……、がとうとつに思い出されて心がとらわれる。自ら実際に経験したことがあるだけに、より湿っぽい実感がこもってたちが悪い。でも、どうしていまになって思い出されたのかはよくわからないこの感じを、大切に取っておきたいと思う。次にいつ思い出されるかがわからない。走馬灯に出てくるような類いの記憶ではない。もしかしたらもう次はないかもしれない。だから文章にして残しておきたいと思う。文章にはそういう効果がある。夏合宿3日目、目を覚ましたときにはすでに汗をかいている。2日間で疲れの溜まった足を引きずって食堂に向かう。疲れている、と思う。食事が喉を通らない。通らないなりにがんばっておかわりする。僕はよく食べて大きくならなくちゃいけない。けっきょく食べ過ぎて、午前練まで部屋で寝転がる。バスの時間になる。宿からグラウンドへはバスで行くことになっている。3日目にもなるとバスのなかでの雑談もまばらになる。窓の外の林の奥をぼんやり眺めながら、僕はバスに揺られている。よく晴れていて、昼前から雨になるなんて考えられないけれど、いまこうしてこれを書いている僕は雨が降ることを知っている。グラウンドはすでにじんわり暑くて、僕ははやくも汗をかいていてユニフォームに袖が通りにくい。あちい、と誰かが言って、僕もそれに賛同する。あぶらぜみのなく声がどこからか響いている気がするけれど、気のせいだ。暑いのは気のせいではない。身体の節々が痛むのは気のせいだということにする。それから2時間か3時間練習をして、午前練を終える間際から空に濃い雲が広がってきて、バスで宿に戻る途中から雨が降り始める。雷が鳴るような低い音も聞こえて、気のせいかもしれないけれど、それで午後練はなくなる。雷が鳴ると、僕たちは練習をしてはいけないことになっている。合宿の3日目に雷が鳴るとうれしい。お昼には冷やし中華が出て、おいしい、と思う。食べ終わると午前練のビデオをみんなで見る。僕は同じプレーで何度も同じミスをしている。みんなでビデオを見る広間は縁側が広くて、外は雨が強まっている。宿の猫が僕たちの足の間を縫って歩く。ビデオを見る時間が終わって僕は部屋に戻る。何をするでもなく、かといって眠るでもなく、ただ寝転がって過ごしている。

ジゴロウと雨

 ジゴロウは雨が怖い。学校の行き帰りや、授業を受けてるときの雨は楽しいのだけれど、家にいるときの雨はとにかく怖い。なぜかというと、ジゴロウの家は雨の音がものすごく大きく響くからだ。ジゴロウが大人になってから判明したことだが、天井の裏にちょうどかなりいい具合にというか悪い具合にというか、音を増幅させることだけに特化したような空洞があって、そのせいで雨の音があんなに大きく響いていたのだった。でも、小学生のジゴロウにそんなことがわかるはずがないし、仮にわかったところで、怖さが軽減されるわけでもない。ただでさえ大きく響くのが怖いうえに、雨が屋根の金属のパイプにちょうど当たるとモワンモワン不気味に反響して、ジゴロウをさらに苦しめる。ただゴウゴウ大きいだけの雨の音なら耳を塞げばまだましになるのだけれど、このモワンモワンばかりはジゴロウがどんなに身体を丸めても必ず胸の奥まで刺さってくる。「ちっくしょう!」といくらジゴロウがいきがって叫んでみせても、モワンモワンには効果がない。「ふっざけやがって!」、「うざってえな!」、どんなにいきがってみせても。
 くそっ! だいたいこのパイプなんなんだよ!
 ジゴロウが泣きわめくのも無理はない話で、実のところ、その金属パイプはどこにも繋がっていない、ただの金属のパイプなのだった。もともとは使われていた、というわけでもなく、ほんとうに、屋根の上に設置された当初からなににも繋がっていなかったパイプ。いうなれば欠陥工事じゃなくて過剰工事。どこにも繋がっておらず、なんの通り道にもなっていない分、その空洞は純度が高く、より不気味な音を響きわたらせる。モワンモワン、さながら地獄のパイプオルガン。
 前に、屋根に登ってパイプをひっぺがそうとしたこともあった。けれど、ジゴロウは高いところも怖い。窓枠に片足をかけただけで気持ち悪くなってしまい、早々に断念したのだった。怖さは簡単に比べられるものじゃない、ということをそのときジゴロウは学んだ。雨に対しての怖さと、高いところに対しての怖さとを比較して、仮に高いところに対しての怖さのほうがましだったとしても、別に屋根に登ってパイプをひっぺがせるっていうわけじゃない。どちらも怖い、ということだってある。同じクラスのヨコバエくんと4組のスマデラくん、どちらとも怖くて、でもほんの少しヨコバエくんのほうがましだったとしても、ジゴロウがヨコバエくんをバカ呼ばわりすることはできない。そういうことだ。

 

 ジゴロウが住む地域一帯は幸いにも一年を通しての降雨量が少なかった。特に秋から冬にかけてはからっと晴れの日が続いた。遠くに見える山たちのおかげで雲がどうたらこうたらとかいうことだったけれど、理科が苦手なジゴロウには、そんな話、お手上げだ。
 雨の日が少ないといっても、梅雨の季節は例外。きちんと、しとしと降る。ジゴロウは小学5年生にしてはめずらしく、梅雨というものの持つ詩情をぼんやり感じ取っていた。4時間目の算数の時間に円の面積の求め方を教わりながら、校庭の水たまりの大きさがふと気になったり、帰り道にジロウくんと一緒に傘で遊びながら、雨粒に揺れる紫陽花にふと気をとられたり。梅雨の季節にはそういった「ふと」がたくさんあって、そのたびにジゴロウはおなかのあたりがむずむずするのだった。けれど、外でしとしと降る雨は、ジゴロウの家のなかではゴウゴウ鳴り、モワンモワン反響する。校庭の水たまりや通学路の紫陽花に感じたむずむずは、家に着いてしまうと、恐怖にすべて飲み込まれてしまう。「ちっくしょう……くそっ……」、強がりもやがて心細いつぶやきへと変わる。気の紛らわし方というものをいっさい知らなかったジゴロウは、夕方、パートを終えたお母さんが帰ってくるまで、リビングのソファで両手で耳を塞いで丸くなっているほかない。
 ジロウくんちに行っていい日は、なるべく行った。ジロウくんと遊びたいという気持ちも少しはあったけれど、家にいると雨が怖いから、という気持ちのほうが正直ずっと大きかった。ジゴロウとジロウくんは家も近く、ふたりとも深夜ラジオが好き。角度をつけたボケやツッコミができて、クラスの他の子たちとは一線を画していると思っている。名前も似ている。だから仲はよかったけれど、深夜ラジオが好きな子どもというのはだいたいひとりで遊ぶのが好きだ。なので、帰り道は一緒でも、そのあとどちらかの家で一緒に遊ぶにはよほどの理由が必要で、ジゴロウは「うちの雨漏りがひどい」ということにしていた。
「もう100回くらい直してんだけどさ、めちゃくちゃ漏れてくるんだよ」
「きみんちの屋根は、あれかい、リトマス試験紙並みに薄いのかい」
 理科が苦手でしかもジロウくんとは聞いているラジオも違うジゴロウにとっては「はて?」なセンスの返しだったけれど、梅雨の時期に家で遊ばせてくれるならよかった。ジロウくんちの天井はジゴロウんちの2倍高かったし、ジロウくんちのフローリングはジゴロウんちの100倍白くてきれいだった。ジロウくんはジゴロウが見たことないお笑いのDVDを見せてくれたし、文字の多い漫画もたくさん持っていた。ジロウくんのお母さんは甘くてふわふわした海外のお菓子を出してくれたし、ジゴロウのことを「ゴがつくほうのジロウちゃん」とやさしく呼んでくれた。しかしそんなあれこれより、ジロウくんちでは、家のなかにいても雨の音がほとんど聞こえないのがよかった。
 ジゴロウの家の屋根はいっこうに直らないことになっていた。ジロウくんが飽きないように、変な嘘をつきつづける必要があった。どの業者に頼んでも雨漏りを止めることができない。直らなさすぎて地元の新聞が取材に来た。雨が降っていない日にも雨漏りしている。漏れてきた水だけでお米をといでいる。取材が増えてきたのでお父さんが脱サラしてこの雨漏りで飯を食っていこうとしている。漏れてきた水の成分を調べたらトレビの泉とほぼ同じ成分だった。どこから漏れてきているのか調べるために屋根裏に上がったら100年後の世界へと通じていた。
「えー、それは嘘でしょ」
「ジロウくんごめん、いまのは嘘だった」
「こないだのトレビの泉も嘘でしょ」
「ううんジロウくん、あれはホントなんだ」
「ホントなの?」
「ホントホント」
「すごいなあ、ジゴロウくんちの屋根すごいよ」
「ジロウくん、あのさ、今日もいい? 遊びに行っても」
ジゴロウくんごめん……、今日ヨコバエくんに誘われちゃってるんだ」
「よ……、ヨコバエくん? そうなんだ、じゃあオレは家帰るよ」
ジゴロウくんもいるよ、って僕、ヨコバエくんに言ってみようか?」
「い、いいよ、オレ今日漢字ドリルやんなきゃいけないし」
「漢字ドリルをやらなきゃいけない感じ、ってわけかい」
「ハハハ、じゃあジロウくん、また明日」

 

 ちょうど土砂降りの日だった。家のなかには雨がゴウゴウ、モワンモワン響きわたって、うずくまるジゴロウを苦しめた。ヨコバエくん、どうしてよりによってこんな日にジロウくんと遊ぶんだろう。だいたい、ジロウくんとヨコバエくんが仲がいいとは、ジゴロウには思えなかった。ヨコバエくんはドッジボールとドロケイが強く、おもしろいことなんてひとつも言わない。7の段がまだきちんと言えないし、おもしろいことも言えないのに、クラスの人気者だ。ジゴロウとジロウくんはおもしろいことが言える。でも、たしかに、とジゴロウは思う。ジロウくんはジゴロウと比べるとわかりやすくおもしろいことを言って、ちゃんとクラスのみんなにもウケている。ジロウくんの声はよく通る。正直オレのほうがセンスある、とジゴロウは思っているけれど、自分の声がぼそぼそしていてあまり通らないこともわかっている。そして、ジロウくんはやさしい。ドッジボールもドロケイも強くないけれど、たしかにジロウくんはクラスの人気者なのだった。人気者どうしは対立するか、すごく仲よくなるか、どちらかしかない。今回は仲よくなったってわけだ。
 となると、これからジロウくんとヨコバエくんが遊ぶことが増えてくるかもしれない。そしたらオレ、どうすりゃいいんだ!
 ジロウくん!

 

 ジゴロウ
 すごく遠くから呼ばれているような気がして、ジゴロウは耳を塞いでいた両手を外した。すさまじく反響する雨の音のなかに、かすかにジゴロウを呼ぶ声が混ざっているのだった。けれどそれはジロウくんの声じゃない。よろよろ立ち上がって玄関のほうへゆき、「誰ですか」と大声で聞くと、「ヨコバエ!」と相手は返すのだった。
 ジゴロウがヨコバエくんのことを怖いのは、こういうところだ。土砂降りの日にいきなり家に押しかけてくるし、ドアのすぐ横についているインターホンを押そうともせず、大声で呼びかけてくる。ヨコバエくんはインターホンを押さないし、信号を無視する。横断歩道のないところで渡る。消しゴムを使わない。本に栞を挟まない。そういう、この世界に用意されているあれこれを使おうとしないところが怖く、しかしそこがもしかすると彼の人気の秘訣でもあるのかもしれない。
ジゴロウ、おまえんちの屋根、雨漏りがすごいんだってな」
「そ、そうだけど」
「まあ入れてくれよ!」
 そのまま押しきられる形でジゴロウはヨコバエくんを家に上げてしまう。ヨコバエくんの後にはジロウくんがもじもじしながら立っている。ごめんよ、ジゴロウくんちの屋根のことヨコバエくんに話したら、どうしても見てみたいって言って聞かなくってさ、という目でジロウくんはジゴロウを見るが、ジゴロウには伝わらない。ジゴロウは、こいつ!という目でジロウくんを睨み、それはジロウくんに伝わる。
 ジゴロウとジロウくんが玄関で目を交わしている間に、ヨコバエくんはずんずんとリビングのほうへ行ってしまっている。ふつう家のひとより先に部屋に上がらないだろ、という指摘はヨコバエくんには通じない。ジゴロウは慌ててリビングに入り、ジロウくんももぞもぞとついてくる。
「あれ、ジゴロウ、雨漏りしてないじゃんよ」
「あ、えっと、ん?」
 ジロウくんが、あれ、雨漏りしてないの、こんなに土砂降りなのに、という目でジゴロウを見、それはジゴロウにも伝わる。ヨコバエくんがジゴロウを見る目からは何も伝わってこない。
「えっと、今日はあれだ、今日はたまたま、いや、違うな、そうだな、そう、こんなに土砂降りだと逆に雨漏りしないことがあるんだよね、っていう、その、あれです」
「逆に? 逆にか」
 どうやらヨコバエくんは納得してくれそうだけれど、ジロウくんはそうはいかない。あんなに雨漏りが直らない雨漏りが直らないと繰り返し言いつづけてきたのだ、ジロウくんはジゴロウの家の屋根が晴れの日も雨の日も毎日欠かさず雨漏りすることを知っているし、土砂降りの日なんて家のなかに流れるプールができることも知っているし、そのプールの水をうまく使えば地球上の気候の問題がすべて解決するであろうということも知っている。逆に、なんてことがあるわけがないのだ。「ヨコバエくん、逆に、はないよ」とジロウくんがここで口を開く。
「え、そうなのか、おいジゴロウ、そうなのか」
「そ、そんなことないよ、逆、あるよ」
「ヨコバエくん、ジゴロウくん嘘ついてるよ」
「おいおい、どっちなんだい」
ジゴロウくん、はっきり言いなよ、だってきみんちの屋根はぜったいに雨漏りするんだろ」
「しかし、しかし、あれ、しかしなんて言っちゃった、しかし、今日に限ってってこともあるよ」
「おいおーい」
ジゴロウくん」
「じゃあ屋根裏に登って確かめてみたらいいじゃんか!」
 そうかいな、とヨコバエくんはリビングの中央からジャンプして、天井の一部をペリッと剥がす。そんなところがペリッと剥がれるなんてジゴロウも知らなかったし、きっとお母さんも知らないだろう。ヨコバエくんがみんなからかっこいいと思われている所以はきっとこんなところにもあって、しかしジゴロウは彼が怖い。自分にはとうていできないようなことをしでかす、その地肩の強さみたいなものがおそろしい。ヨコバエくんはペリッと剥がれたところからスルッと屋根裏に登っていく。暗いぞ、で、なんかくさいな、ひんやりしてるし、乾燥してる、なあジゴロウ、やっぱり漏れてないぞ、と実況していた声がとつぜん途切れる。あれ、どうしたのかね、という目でジゴロウはジロウくんを見るけれど、ジロウくんはまだジゴロウを怪しんでいる。雨漏りしてるって言ってたじゃんか。いや、ほんとに今日はたまたましてなくて。ほんとは雨漏りなんてしたことないんじゃないの。いや、ほんとに。そのまま何十分とお互い無言の時間が流れ、ヨコバエくんは帰ってこない。そういえば、いつからか雨がモワンモワン響く音もしなくなっている。あんなにジゴロウを苦しめていたあの轟音が、いっさいなくなっている。よかったじゃんよ、とヨコバエくんの声がどこからか聞こえる。まるで頭のなかに直接語りかけてきているような、やわらかな声だ。ジゴロウは、ヨコバエくん!と思う。

 

エンジェル

 

 ラジオネーム「全自動犬撫で機」。金のエンゼル銀のエンゼルに当たる方法ですが、湖に木のエンゼルを落とせばいいと思います。そうすると湖から神さまみたいなのが出てきて、お馴染みの「あなたが落としたのはどちら?」のくだりをやってくれるので、正直に「木のエンゼルです」と答えれば金のエンゼル銀のエンゼルをもらえます。なお、「金のエンゼルです」と答えてもふつうにもらえるそうです。

 

 

 ラジオネーム「おつかれサンバつかれタンゴ」。金のエンゼル銀のエンゼルに当たる方法ですが、日本全国のエンゼルの流通量を決めている全国エンゼル流通衛生組合連合会・通称全エン連に直接掛け合うのはいかがでしょうか。全エン連は金一封で金のエンゼルをくれるという噂です。銀のエンゼルのほうはどうすればもらえるのか、いろんな説があるようですが、どれもさいあくなのでここでは言えません……。

 

 

 ラジオネーム「フランクマウンテン」。金のエンゼル銀のエンゼルに当たる方法ですが、ふつうに買い続けていてもまず当たることはないので、いったんもう買うのをやめます。そうすると当然当たるわけがないのですが、当たらないのが当たり前、ん、それって当たるの当たらないのどっち?となってバグが発生するので、次に買ったときに当たります。

 

 

 ラジオネーム「フランクマウンテン」。金のエンゼル銀のエンゼルに当たる方法ですが、コンビニで買うときにクレジットカード決済を選んで、カードの向きを145回間違えるとバグが発生して当たります。ちなみに145は「チョコ」の145です。

 

 

 ラジオネーム「家賃千年滞納」。金のエンゼル銀のエンゼルに当たる方法ですが、どうしてもということでしたら私にお声がけください。必ずや当ててみせます。いま買えば必ず当てられる、という確信めいたものがあります。確信めいたもの、いや、これはたしかに120パーセント確信です。根拠はありません。ありませんよ。しかし、金のエンゼル銀のエンゼルが必ず当てられる、という確信に、根拠なんて必要でしょうか?

 

 

 ラジオネーム「キシリトール」。金のエンゼル銀のエンゼルに当たる方法ですが、結局は集中力の問題という気がします。僕は昔からほんとうに集中力がなくて、単語帳もぜんぜん続けられなかったし、本も数行読んだだけですぐに気が散って手の爪などをぼんやり見てしまうし、エンゼルも一度も当てられたことがありません。僕の姉は僕と比べてものすごく集中力があって、博物館などで売っている小さな化石を掘り出すキットを4時間連続でやっていられます。けれど、そんな姉でもエンゼルには一度しか当たったことがありません。世界は広いな、と思います。1日1つは必ず当てられるようなトッププレーヤーにもなると、集中力を示す逸話がすごくて、あるひとは豚汁に浮いた油を箸でつなげるやつを72時間ぶっつづけでやっていたそうです。たしかにすごいけれど、僕は、そこまでしてエンゼルに当たりたいとは思えません。

 

 

 ラジオネーム「フランクマウンテン」。金のエンゼル銀のエンゼルに当たる方法ですが、チョコを買いたい気分のときにチョコボールを買うと当たります。なぜなら、チョコを買いたいときにチョコボールは選択肢に入ってこないはずだから。チョコボールを買うのは、チョコボールを買いたいときだけ。だから、チョコボールを買いたいわけじゃないのにチョコボールを買ったらバグが発生して、エンゼルが当たります。
 今回はちょっと無理があったかもしれません。またバグを見つけたらご報告するので、よろしくお願いします。

 

 

 ラジオネーム「さいあくスリザリンでもいいや」。金のエンゼル銀のエンゼルに当たる方法、しばらく考えてみたけど疲れました。なんかもっと他にいいこと考えたいな、とも思ったけど、ふつうに生きてるなかでちゃんと考えなきゃいけないことってだいたい暗くて、だったらエンゼルに当たる方法のほうがまだましだな、と思ったので、とりあえずいまはまた考えてみています。なんかいい方法があったらいいけど、ほんとは地道に買い続けるしかないんじゃないかな。いろんなコンビニでひとつずつ買ってみるとか、逆にここだと決めたコンビニで買い占めるとか。ふつうに買って当たらなかったからって、バグとか、トンデモ理論とか、そういう変なのを集めてみるんじゃなくて、やっぱり当たらなくてもふつうに買い続けることが大切なんじゃないかな。でも、せっかくだしもう少し探してみます。いい方法が見つかったら、わたしもやっぱりうれしいし。

 

 

 ラジオネーム「「令和にもなって」なんて言わないで」。その生涯を通して金のエンゼル銀のエンゼルに当たり続けた男、古畑侍五郎 a.k.a. “ジ・エンゼル”。彼についてはその小説家としての側面が多く語られてきた一方で、“ジ・エンゼル”としての顔はこれまでほとんど参照されることがなかった。小学6年生のときに初めて金のエンゼルが当たって以来、53歳で世を去るまでに当たったエンゼルは、金が436個、銀が239個。フィクションだとしてもいささか過剰に思えてしまうほどの数字だが、現実に遺された何冊ものキャンパスノートを目の前にすれば信じないわけにもいかない。エンゼル1個につき1ページを割き、当たった日付、場所、何をしていたか、当たったときの感情、その日誕生日の有名人、……などが小説同様のチャーミングな語り口で記され、それぞれのページのいちばん下には実際に当たったエンゼルの切り抜きが貼られている。
 表紙に“The Angel”と記されたノートたち。これこそ、彼の“ジ・エンゼル”としての顔であり、記録である。
 架空の町「玄米町」を舞台にした一連の小説群と雑誌で15回ほど連載したエッセイのほかには表立った著作のない古畑侍五郎を知るうえで、これらのノートたちはかなり有効だろう。単にエンゼルに当たった記録として片づけてしまうにはあまりに収穫が多い。それはページをぱらぱらとめくっただけでも伝わってくる。我々は興奮気味に文章に目を落とす。たとえば、“The Angel Vol.10”のあるページ。

 

 2017年8月12日。おおむね曇り。
 前の日に雨が降ったこともあってちょっと涼しい日だった。8月なのにちょっと涼しくてうれしかった。3月のちょっと涼しい日と8月のちょっと涼しい日ではうれしさが違う。違うけれどどちらもうれしい。ちょっと涼しい日というのはいつでもうれしい。一年じゅうちょっと涼しければ、ずっとうれしい。実際にはとても暑かったりとても寒かったりする日があるわけで、一年じゅうちょっと涼しいというわけにはいかない。けれど、ちょっと涼しい、というのは気の持ちようのような気もしている。ものすごく暑いけれどちょっと涼しいとか、凍えるほど寒いけれどちょっと涼しいとか、そんな状況が想像できないこともない。いまにも倒れそうなくらいお腹が空いているけれどちょっと涼しい、とか、熊に追いかけられているけれどちょっと涼しい、とか、クラス全員が見ている前で跳び箱失敗したけれどちょっと涼しい、とか。今日も金のエンゼルが当たった。郵便局前のセブンイレブンに水を買いに行ったついでに買って、今日はちょっと涼しいから当たるかもなと思ったら案の定当たった。8月なのにちょっと涼しいことのうれしさと、金のエンゼルが当たったことのうれしさ、甲乙つけがたい。8月12日が誕生日のひと、徳川家光

 

 個人的にはあまり好きな文章ではなかったが、彼の創作にまたがるキーワードの1つである「涼しさ」について言及している点はたいへん興味深い。涼しいことのうれしさとエンゼルが当たったことのうれしさが甲乙つけがたいとは、どういうことなのだろうか。しかし、そうした我々の深読みを回避しているかのように、“ジ・エンゼル”の文章には捉えどころがない。意味なんてないようにも思えるし、実際そうなのかもしれない。
 あるいは、たとえば“The Angel Vol.6”のあるページ。

 

 2016年1月31日。曇り、かつ、寒い。
 庭の掃除。芝生の上に大量に転がっている食品サンプルを片づけた。去年と同じく、やっぱり多かったのは海老の天ぷら。これはまあ、食品サンプルの大定番なので納得の結果だ。次に多かったのは、おはぎ。これは意外だった。これまでほとんど見たことなかったし、食品サンプルの定番かといわれるとそんなこともない。でも考えてみれば、ノーマークだったものがランキングに食いこんでくるのはけっこう毎年のことで、それが今年はおはぎだったということだろう。去年はブロッコリーだった。海老の天ぷら、おはぎ、ハンバーグ、そば、……そのあとも片づけを続けていると、西側の隅っこでチョコボールの箱を見つけた。チョコボールの箱の食品サンプル食品サンプルの樹脂特有の質感は少しあるが、たしかにチョコボールの箱だし、開けられた。金のエンゼルだった。とうとうこんな形でも当たるようになってきたのか、と、うれしさ半分とまどい半分。まあでも、やっぱりうれしいですね。1月31日が誕生日のひと、香取慎吾

 

 この文章に関しては、ほぼ完全にフィクションである。古畑侍五郎の住んでいたところには庭などなかった。これがなんらかの隠語としての「庭」だったとすると我々の預かり知るところではないが、少なくとも、ページ下部に貼られた金のエンゼルには、食品サンプルの樹脂のような質感は認められない。
 もっといってしまえば、フィクションにしてもあまり深い意味のあるものとは思えない。やはり“ジ・エンゼル”の文章には意味なんてないのだと捉えるのがよいのだろうか。答えはわからない。ただひとつ、おそらく確実なのは、その生涯で信じられないほど多くのエンゼルに当たり続けた古畑侍五郎が、それでも毎回当たるたび「うれしい」と思っていたらしいことだ。

 

 

 ラジオネーム「さいあくスリザリンでもいいや」。わたし、エンゼルに当たる方法見つけました。でもこれってひとに教えられるようなものではないっぽくて、だから見つけたっていうのとはほんとは違うかもしれない。わたし、どうやらわかるみたいなんです。コンビニで並んでる箱を見れば、どれがエンゼルかわかる。透視とも違くって、ただ、あ、これだな、ってわかるんです。わたし自身つい一昨日気がつきました。エンゼルに当たる方法、なんかないかな、とぼんやり考えながらファミマに行ったときに気づきました。あれ、これじゃん、と思って選んだやつを開けたら金のエンゼルでした。もちろんたまたまかなと思ったけど、それから何軒かコンビニはしごして、同じように、これかな、と思って、その直感に従って買ったやつがぜんぶ当たりました。すごくないですか。でも、正直エンゼルに対してそんなに熱量のないわたしがこんな能力を持ってて、なんだか申し訳ない気もします。でも、エンゼルって当たるとうれしいんですね。

 

 

 ラジオネーム「フランクマウンテン」。金のエンゼル銀のエンゼルに当たる方法ですが、コンビニの棚の前で、“Angel”だったら発音的にエンゼルじゃなくてエンジェルじゃない?とつぶやくと裏面のボーナスステージに行けるというバグが発生するみたいです。この方法なら、めちゃくちゃ当たります。どうぞよろしくお願いいたします。

UberEats大追跡

 UberEatsの一部の配達ドライバーは、象に乗っているという。象って公道を走ってええん?と彼女は僕に尋ねるけれど、僕に聞かれたって知らない。僕だって、法学部卒だとはいえすべての法律に明るいわけではないし、そもそも法学部出身者のなかでも極端に法律に明るくないほうだ。でも、人間が歩いていい道を、象が歩いちゃいけないということはないはずだし、ベンツが走っていい道を、象が走っちゃいけないということはないはずだ。法律の考え方というのはそういうものだ。たまたまこれまで一度も見たことがないだけで、たぶん公道にも象はばんばん走っているんちゃうん。

 そういうもんかね。

 そういうもんなんちゃうん、見たことないけど。

 そんな話をしているうちに、僕たちは動物園に象を見に行きたくなる。けれどもう20時だ。こんな時間に動物園が開いているはずがないし、仮に忍び込むにしても、金曜日の夜ならまだしも、いまは月曜日の夜なのだった。ひとまず平日はこのまま仕事をがんばって、そして金曜日の夜に忍び込むことにしよう。いや、だったら、土曜日の朝にふつうに見に行きゃええやん。なにも法をおかす必要はないよ。というわけで、僕たちは土曜日の朝に上野動物園に行くことを決め、そしてひどい空腹におそわれていたことを思い出した。そもそも、なにも手につかないほどの空腹におそわれて、UberEatsを開いたところで、そういえば一部の配達ドライバーは象に乗っているらしいよ、という話になったのだった。

 象はいったん置いておこう。とりあえず、なにか食べなきゃ死んでしまう気がする。それこそ象でも食べてしまいたいほど、猛烈な空腹。いや、象は忘れようって。とんだジビエやな。いや象肉ちゃうねん、こわいわ。僕たちはスマホの画面を食い入るように見つめる。

 UberEatsには、この世のおよそすべての食べ物が並んでいる。ファストなフードから、スローなフードまでが、一堂に会する。たくさんのお店のたくさんのメニューをスワイプするなかで、けっきょく僕たちが選んでしまうのはマクドナルドだ。僕たちにマクドナルド理論は通じない。もうマクドでええんやない? え~マクドか~、マクドねえ、なんか他にないかな~、うん、まあ、でもマクドでええか。ポテトLが2つとナゲットが15個、まさに暴力的という形容がふさわしい「ポテナゲ特大」と、アイスレモンティーのLサイズをカゴに入れて、決済する。注文がマクドの店舗側に受理され、腕っぷしのいいコックがジャガイモの皮をちまちま剥きはじめる。もうひとりが、冷蔵庫から取り出した鶏むね肉をひと口サイズにカットし、油を温めはじめる。

 コックたちがそうしている間に、「ポテナゲ特大」とアイスレモンティーを僕たちのもとへ運んでくれる配達ドライバーが決まる。その配達ドライバーは、あろうことか象に乗っている。鼻だけでもゆうに2メートルは超えるような、リオのカーニバルだったら花形になっているような巨大な象だ。その巨大な背中には、寡黙で痩せ型の青年がUberEatsのリュックを背負って乗っている。青年と象の取り合わせからは、カーニバル的な熱など微塵も感じられない。象はゆっくり、ずっしりと、ここ東京の車道を進む。青年はマクドの前で象に声をかけ、象は路肩にその巨大な体を寄せて止まる。青年は象の背中をするりと滑って降りると、マクドに入ってシェフから「ポテナゲ特大」とアイスレモンティーを受け取って出てくる。青年はスマホで僕たちの家を確認し、マップを象にも見せる。象はそのどこまでも深い黒目でマップをちらっと見ると、了解した印に鼻を軽く鳴らす。

 そうして、青年と象が僕たちの家を目がけて歩きはじめる。

 家に待つ僕たちはそのことを知らない。自転車かバイクに乗って届けてくれるものだと思っている。

 ところが、UberEatsのアプリに表示された配達目安時間を過ぎ、10分、20分経っても「ポテナゲ特大」とアイスレモンティーは届かない。僕たちは霜降り明星せいやが醤油なしで赤身寿司100貫にチャレンジするYouTube*1をぼんやり見ながら待っていたけれど、なんか遅ない?という話になってくる。マクド、そんな遠くないもんね? 迷ってもうてるのとちゃう? たしかになあ、ここ、微妙に道が分かりづらいもんね。せいや、きつそうやなあ。これすごいなあ。醤油なしはやばいよ、けっきょく寿司って醤油なめてるみたいなもんだし。いや、そんなことないでしょ、ねえ、ちょっとUberEats見てみてよ。うん、あれ、あかん、ぜんぜん違うところ行ってもうてるわ。

 「ポテナゲ特大」とアイスレモンティーは、僕たちの家とはぜんぜん違う方角に行ってもうていたのだった。あかん、配達予定時間、どんどん遅くなってもうてる、あ、てか、象や。

 ん?

 象だわ、配達してるの。

 象? 象?

 「The Phantom of The Oppaiさんが象で配達しています」って出てるわ。

 象で? 象やっぱりいるん?

 そうみたいやな。

 そんでもって、Uberのドライバーってそんなふざけた名前で登録できるんだ?

 そうみたいやな。

 これ、あれやね。もう行くしかないね。だってこんなん、UberEatsのアプリでコミュニケーション取って方向修正してもらうより、僕たちのほうから受け取りに行っちゃったほうが早いもんね。というのは言い訳のようなもので、実際は、象に会いに行きたい、が感情のほとんどを占めて、あんなに猛烈だった空腹のこともほとんど忘れてしまったのだった。

 

 徐々に増えてきてはいるとはいえ、UberEatsの配達に象を使うのはまだまだ珍しく、人びとは、え、それきみの象なの?とThe Phantom of The Oppaiに聞いてきた。あ、いや、僕の象というわけではなくて……。え、野生? あ、ええっと、説明が難しいっすね……。え、てか、象って公道走っていいんだ? あ、んーと、よく知らないんすよねそのへん……。へえ~、あ、てか、UberEatsのドライバーの名前ってこんな感じでもいいんだ、え、これお兄さんが自分でつけたの? あ、そう、そうっすねそれは……。へえ~、そうなんだ、ありがとうね。あ、いえ、ありがとうございました。

 ほとんど会話になっていないようなこんなやり取りでも人びとはだいたい楽しそうで、ようするに彼らはひとになんて興味はなく、象を見て喜んでいるだけなのだった。それは当然だ。象にはそういう力がある。人びとの心の根源に触れて、どうしようもなく楽しくさせてしまう。象が公道を走っていることを誰も咎めないのも、そういうことだ。人びとは、そこに象がいること自体に気を取られて、象が公道を走っていることがおかしいとはちっとも思わない。象を見たときの、象だ!という気持ち。象! 象だぞ! 象だ象! まさかその象の背中に痩せた青年が乗っていることに目がいくはずはないし、その青年がUberEatsの四角いリュックを背負っていることになんて、ほとんど誰も気がつかないのだった。ただ唯一、象の背中に乗っている者どうしのみが、お互いの姿に気がつくことができた。

 

 こんなときだからこそ、僕たちはタイムズのカーシェアを使った。当然歩いてなんていられないし、自転車は疲れる、タクシーは高い。だったらタイムズのカーシェアだ。象を追うぞ!の興奮そのまま、僕たちは咄嗟に家を出たけれど、いざ開いている車両を見つけて乗りこんでエンジンをかけたところで、壮絶な空腹が戻ってきた。かろうじてアクセルは踏める、しかしブレーキを踏み込めるかどうかまでは自信がない。それくらいの空腹。でもなんか、お腹空かせて車乗るって「パン屋再襲撃」みたいやんな。素敵なたとえやん。僕たちはUberEatsのアプリを見ながらスズキのソリオを走らせて、青山通りを渋谷から表参道のほうへ向かう途中、ちょうど骨董通りと交わるあたりで象に追いついた。

 象はその一帯を走っているどの車よりもずっと大きく、遅かった。おいおい、マジで象やん。象やな。ハンパないで。鼻やっぱり長いな~。耳もやっぱりでかいしな~。でかいな~、ちゃうねん、あのひとやろ。

 すいませ~ん。

 ……。

 あの、すいませ~ん。

 ……あ、はい。

 あの、あの~、あれや、The Phantom of The Oppaiさんですか。

 あ、はい。

 あの~、あれです、僕たちUberEats頼んだ者なんですけども。

 あ、あ~、はい、マックの。

 そうそうそう、マクドの。

 ああ、マクド。ああ、すいませんわざわざ。

 象なんすね、ほんまに。

 あ、ですね、象です。

 いや~、象、すごいっすね。象、すごいな~。ほんまに、リオのカーニバルとかの象ですやん。

 あ、はい、リオの。カーニバル。あ、いや、すいません、あの、ほんとはそちらに伺いたかったんですけど、象って意外にあれで。こっち歩いてきちゃって。すいません。

 ほんまですよ~、なかなか来ないから、どうした思って見たら象って書いてあって、来てみたらマジで象やし。すごいな~。

 すいません。あ、これ、あの~、マクドのやつです。

 あ、ようやく。すいません、ありがとうございます。あ、どうしようかな。投げてもらっていいですか。

 え、投げる。あ、そうか、投げますよ、はい、あ、っと、あ、ナイスキャッチです。

 ナイスキャッチです、やないですよ。すいません、ありがとうございます。すいません、いや~、すごいっす。すいません邪魔して。あの~、がんばってください。

 あ、いやいや、こちらこそすいませんでした。すいませんわざわざ。すいません、あの~、あれですね、がんばります。すいませんありがとうございます。

 

 バックミラーに映る象の姿を見ながら、ついでだからドライブして帰ろうか、と言ったところで、僕は彼女に怒られる。いや、いっぱい聞くことあったやん。気になるところぜんぶスルーしてもうてるやん。その象なんなん、とか、その名前なんなん、とか、なんも聞かへんやん。僕は、たしかに、と思って、いや、自分で聞いてもよかったじゃん、とも思ったけれど、最終的にはやはり、たしかに、と思う。けっきょくきみはひとに興味がないんじゃん、という指摘も、もう何度されたかわからないけれど、今回の件ではっきりと自覚する。ポテトもナゲットも冷めきっていて、アイスレモンティーもぬるぬる薄レモンティーになってしまっている。