バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

日記(カヤホガ)

 僕が最初に自分で買ったCDは、R.E.M.の『グリーン』というアルバムだ。といっても、そもそもこれまでそんなにCDを買ってきた人生ではなかったし、この『グリーン』だって古本屋で300円くらいで買ったCDだ。

 僕が最初に自分で買ったCDは、だなんて高らかに話しはじめるのはおこがましかったかもしれない。

 とにかく、中学生のときにR.E.M.の『グリーン』を買った。R.E.M.の長く豊かなキャリアにおいてこのアルバムがどれほどの立ち位置なのかはわからないが、他のアルバムよりほんのちょっぴりへんてこぐあいが高めで、適度に政治的主張を含みつつ、R.E.M.らしい土台のしっかりしたポップなギターロックが鳴っていて、なかなかいいのだ。そもそも一曲目からして、“Pop Song 89”だもんね。“Get Up”における溌溂としたコーラス。“Stand”のどこか遊園地のようなサウンド。しかし特に後半にかけて、実はどちらかというとどんよりした曲の方が多い。

 

 今みたいに検索窓に打ち込めばなんだって聴ける時代になる前、つまりもうかれこれ300年くらい前のことになるのだろうが、僕はブックオフやどこそこの古本屋でときどきCDを買っていた。その細々とした集積の結果がいまも僕の部屋にはあって、ラインナップのなかにはさっきの『グリーン』に加えて、『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』と『ニュー・アドベンチャーズ・イン・ハイ・ファイ』、合計3枚のR.E.M.のアルバムがある。

 つまり、僕はどういうわけかR.E.M.が好きなのだ。

 どういうわけだろうか。

 R.E.M.はよくその歌詞が文学的だなんていうふうに評価されているみたいだが、当時中学生だった僕が歌詞から入ったなんてことはない。いまでこそ歌われている内容を多少なりとも気にするようになったが、中学生の頃なんて、知っている英単語といったら“Hello”と“Sorry”と、ちょっとエッチな言葉くらいのものだったのだから。では、歌詞じゃない部分でR.E.M.のどこが中学生の僕を惹きつけたのかというと、その土台のしっかりしたバンドサウンドと、しっかりしつつキラキラしたメロディと、マイケル・スタイプの声だろう。

 少しざらついていて、あたたかみのある声。“声に説得力があるロック・ミュージシャン”として、デヴィッド・ボウイと並び称されている。

 “We can be heroes, just for one day”と歌ったデヴィッド・ボウイ、“Don’t let yourself go, `cause everybody cries, and everybody hurts sometimes”と歌ったマイケル・スタイプ

 

 しかし、バンド初期のマイケル・スタイプの歌唱はボソボソとしていて、アメリカ人でも何を歌っているのかわからなかったそうだ。いずれかのアルバムのライナーノーツにそう書いてあったはずだし、日本語版のWikipediaにも書かれている。

「インディーズ時代;アルペジオを多用したギターサウンドと、メロディアスなベースラインが特徴である。/この時期の作品には歌詞が一切掲載されておらず、スタイプの歌唱も聞き取りづらかった為に、「アメリカ人でも殆ど何を歌っているのかわからない」と言われたほど。」Wikipediaより)

 初期というのがどれくらいまでのことを指すのかわからないが、1枚目のアルバム『マーマー』のときにはたしかになんとなくボソボソ歌っているように聞こえる。しかし、僕が持っている3枚のうち最も古い『グリーン』の頃にはすでにボソボソ期を脱していたようだ。かなり聞き取れる歌唱というか、正確に言うと、僕は聞き取ることはできないけれどこれがもしアメリカ人だったら聞き取れているだろうな、という感じの歌唱になっている。そのあとのアルバムも同じだ。僕はいつまで経っても断片的にしか聞き取れないけれど、アメリカ人だったら聞き取れていそうな歌唱。

 

 *

 

 僕はそんなにきちんとしたファンではないので、きちんと聴いたとはいえないアルバムもいくつかあるのだが、最近になって『グリーン』の2つほど前の『ライフズ・リッチ・ページェント』というアルバムがとんでもなく素晴らしいということに気づいた。『グリーン』で遊園地じみる前の、直球のギターポップ西日暮里駅で降りて、西日暮里公園を通ってそのまま谷中銀座の上へと抜け、朝倉彫塑館を左手に見ながら進めば谷中霊園の出口と合流し、上野桜木の細っちい歩道をおそるおそる這い、やがて芸大前、上野公園へと開ける道を歩きながらこの『ライフズ・リッチ・ページェント』を聴いて、その老成したみずみずしさ、とでもいうべき音に心酔してしまった。

 このアルバムもまた、ボソボソ期を脱しているように思う。マイケル・スタイプは多くの単語をはっきりと発音しているし、後期に見られるような説得力をはやくも手にしている。ところが、何曲目だか、イントロのベースラインが心地よく、老成とみずみずしさがまさしく同居する曲の、サビといえそうな部分にさしかかったとき、まったく聞き取れない箇所が出てきたのだ。それはもう、言葉を失うくらい聞き取れなかった。

 これが例のボソボソ歌唱か! 脱したんじゃなかったのか?

 

 そんなに大した話でないので結論から述べると、曲のタイトルが“Cuyahoga”というオハイオ州の地名になっていて、それがサビでも繰り返されていた、というだけだ。それがわかってから聴くと、たしかに「くやーほーがー」とはっきり発音している。まったくもってボソボソ歌唱なんかではない。なるほどねえ、地名というパターンか。

 

 *

 

 ようするに、「R.E.M.の曲でまったく聞き取れない箇所が出てきて、これが初期のボソボソ歌唱ってやつか、と思ったけれど、調べたら聞いたことのない地名を歌っているだけだった」というだけの話がしたかっただけなのだが、こういう、意味も教訓もなく、誰の興味も惹かないような話を書き残すことができてよかったです。そういう話って、ふだん、行き場がないから。

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  ”Cuyahoga”、ほんとうにいい曲なのでぜひ聴いてください。

日記(2月5日)

 

 散歩もいいが、たまにサイクリングするのもたまらなく楽しい。自転車で都内を走ると途端に冒険アドベンチャーになる。しかし車どおりの多い道をサイクリングするのはやはり少し怖くって、方角になんとなくあたりをつけながら、裏道へと逃げてみる。

 大通りの轟々から解放され、静けさのなかにカラカラ回る車輪の音が耳を打つ。

 裏道というのはちょっと曲者で、大通りに並行していると予想して進むといつの間にやらまったく違う方向に逸れてしまっていたり、どうもだんだん先細っていくようだぞ、不安不安、とおそるおそる進むと案の定行き止まりだったりする。そういうとき、徒歩と違って自転車のいいのは、引き返しやすさ。けっこう進んだのに実は間違った道だったとき、徒歩だと膝から力が抜けてやんなっちゃうでしょ。自転車ならば、くるっと回って、すいすい戻る。

 

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 自転車だと徒歩よりフットワークが軽くなるため、ほんとかよ、っていうような裏道にもズンズコ入っていける。ほんとかよ、っていうような裏道沿いにはやはり、ほんとかよ、っていうようなものが建っており、置いてある。信じられないくらい安いビジネスホテル、そこだけ妙に咲きほこった黄色い花、落ち着きはらったゴミ屋敷、異界のバイク、

 

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 異界のバイク!

 

 確かめるまでもない。いかにも異界っぽいバイクである。一目見て、こりゃこの世のもんじゃねえな、と悟った。異界のバイクがあるということは、おそらく僕は異界に来てしまったのだろう。気まぐれにサイクリングなんてしたのが良くなかった。徒歩と違って自転車の危ないのは、こういうところにある。異界にもズンズコ分け入ってしまうような、フットワークの軽やかさ。

 

 異界といっても表面的に何か大きく変わるわけではない。さっきのバイクみたいなものは極端な例であって、ほとんどのものの見た目や音やにおいは現実世界と変わらない。変わらないけれど、ただなんとなく、しかし確かに何かが違う、そういう感触が湿った肌にまとわりつく。何か違うのは僕の方なのかもしれないという気もする。白っぽくて、はっきりしない楕円形の濃い雲が、眼の裏あたりに棲みついて離れないような。上下の歯の噛み合わせが不可逆的にずれてしまったような。車輪のカラカラ回る音も、薄くてすべすべした紙が挟まって聞こえるような。この手もこの足も、ぬるっとして、ぐにゃっと曲がる石膏でできているような。

 

 しかし自転車はすいすい進む。ペダルを漕ぎ続けることは異界でもどうにかできるのである。そうやってどこかが決定的に変わってしまった世界を漕ぎ進むうち、代々木公園に着いた。

 異界と言えど、公園の中をサイクリングするのは気持ちがいい。

 大きな公園の多分に漏れず、代々木公園にもサイクリング専用の道が用意されている。せっかく用意されていることだし、現実世界に戻る何かの手掛かりが得られるかもしれないので、アスファルトに「サイクリングコース歩行禁止」と白く印字されたその道をさっそく走ってみる。

 

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 気持ちがいいことにはいいけれど、しかしそれはサイクリングそのものの持つ本来的な気持ちのよさに過ぎず、このサイクリングコースはそこに何も寄与していないみたいだ。そう感じはじめると、いっちょまえにくねっているのも、なんだかシステマティックでわざとらしいように思えてきてしまう。ペダルを漕ぎ続けてはいるものの、ぬるっとした違和感は一向に消えることなく、さらにそこに痒さのようなものが加わる。もしかしたらこんなところでこんなふうにしているのはまちがっているのかもしれないなあ、という、焦りといったら大げさだけれど、焦り未満の、痒さのようなもの。でも、もう来ちゃったし、今さらどうしようもない、いや、どうしようもないなんてはずはなくって、とりあえず漕ぎ続ければいいのだろうけれど、それにしてもこのサイクリングコースとやら、いつになったら本流と交わるのだろう、気がつけばもう日が暮れている。サイクリングコースからすぐ隣には本流が見えているのだけれど、いつまで経ってもそっちに繋がらない。繋がらないなら繋がらないで、ちょっとアスファルトから逸れて土を跨げば本流に乗ることはできるのだが、それができない。踏ん切りがつかないのとも少し違う。ただなんとなく目の前の道を漕ぎ続けている。まだ帰れそうにありません。

日記(1月25日)

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 高層マンションが西日をモロに浴びてそびえている姿が好きなのです。

 周りの建物は低くて、辺り一帯ではそのマンションだけ突出して高かったりすると、なおよい。この写真の場合、隣にそれなりの高さのマンションが写ってしまっているけれど。

 

 周りの建物は低くて、辺り一帯ではそのマンションだけ突出して高い、という事態を具体的に想像してみる。低い建物がびっしり生えたその地域に、どうしてずば抜けて高いマンションが建ってしまったのか。

 

 きっとこういうことではないだろうか。

 その辺りはもともと、高度経済成長期以来の一軒家の立ち並ぶ住宅街があり、高齢化の進む古き良き狭き商店街があり、2階建てのアパートや、ちょっと高いといっても駅前の4階建ての雑居ビルくらいしか建っておらず、昼間にぶらつくと人の数より電柱の数の方が多いくらい、そういう地域だった。しかしそんな冴えない土地に高層マンションが出現する。それはほとんど、“突如として”という表現を使ってしまってもいいくらいのスピーディーさでいつの間にかそびえている。実際にはもちろん、突如建ったなんてことがあるはずはなくて、ずっと前、おそらく1年以上前から、こつこつと積みあがってきた結果なのだ。もちろん周囲には工事の音が響き渡っていたことだろうし、ここに50階建てのマンションを作ります、という掲示だってされていたはずだ。天に向かって徐々に伸びていく建築物の、朝には西側、昼には北側、夕方には東側に日陰が広がる。美しい日の出が最近になって見えなくなってきた、だとか、洗濯物が最近になってなかなか乾かなくなってきている、だとか、そういう日常の些細な変化に漠然とした違和感を抱える人もいたかもしれない。しかし、いったい何が太陽の光を遮っているのか、閑静な街を揺るがす轟音はいったいどこで鳴っているのか、そういうことにまで考えを巡らす人はいなかった。

 そうして、高層マンションは人々の目をうまくかいくぐり完成した。

 

 高層マンションの存在がようやく人々に認知されはじめるのは、工事用のグレーシートがすべて剥がれた日の夕暮れどきのことだ。新築の生身の姿が、全身に西日を浴び、夕暮れの空に一本屹立しているのを見て、人々は、あ、と声を上げる。

 最初に騒ぎ始めるのは、放課後、校庭でドッヂボールをした帰りの小学生たちだ。あの年代の子らは上ばかり見て歩いているし、町の変化に敏感。なんだよこれ。でっけー。すっげえもんがいつの間に。子らが騒ぐ姿につられて大人たちも次々に足を止め、橙色に光る巨大な塊を見上げてあれやこれやと論評する。あれま。こんなんあったっけか。あれいつの間に。またしょうもないもん作りやがって。こんなの作っちゃってどうするのかねえ。やだようるさくなるのは。何階建てかな。たまげた。なんだよこれ。でっけー。あれ、ここって前、なにがあったっけ。なんだっけ、なんもなかったんじゃねえの。

日記(1月3日)

 大晦日や年越しの瞬間や年始一発目にどんなものを聴くかとか、観るかとか、読むかとか、そういうことって現実的には些末に過ぎないのかもしれないけれど、個々人にとっては予想外に悩ましい問題であったりする。そんなことって別に何の意味もないじゃん、みたいにむずがゆい指摘をされてしまうかもしれないけれど、しかしどうしても年跨ぎにはこだわりたい。外に出てむやみに騒いだりするわけではないけれど、年を跨ぐということに対して静かなる情熱を燃やす。そういうところにほんのちょっとだけこだわりながら、生活を進めていく。

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 2019年はじめは『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』(“The Big Sick”)を観た。

 昨年公開の映画だけれど、Amazon Studios配給だったのでもうPrime Videoにあります。

Amazon.co.jp: ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめを観る | Prime Video

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 移民2世のコメディアンが主人公であるというところや、移民として・非キリスト教徒としてアメリカで生きていくことの困難を軽妙に描くユーモア感覚や、差異を超えた普遍的な人間の情動のあり方を描いているところは、Netflixのかの名作ドラマシリーズ『マスター・オブ・ゼロ』(“Master Of None”)を彷彿とさせる。人物も環境も話の展開ももちろん全くの別物だけれど。それにしても、どちらの作品も、生活していくうえでの困難をドラマ的にテンポのいいやり取りへと昇華させる手腕が見事だ。

 『ビッグ・シック』の場合、テンポのよさは人物同士のやり取りから醸成されていたように思う。あえてセリフを削り余白を観客に想像させることでグッドなテンポを生んでいるような作品もあるけれど、今回は逆で、別になくてもいいセリフを入れることで逆にテンポがよくなっていたように思う。なにしろ登場人物たちが饒舌な映画なので本筋と関係ないやり取り自体はかなりあるのだけれど、しかしそれにしたって、本筋と関係ない上にそのやり取りの中においても見当違いになってしまっているような、別になくてもいいセリフが多い。

 別になくてもいいセリフ?

 

 たとえば1時間13分40秒あたり、ネットで病院の口コミを調べているときに「ネットは悪口ばかりだ 『フォレスト・ガンプ』も最高の映画なのに」とお父さんが言うくだりがある。「『フォレスト・ガンプ』も最高の映画なのに」! 別になくてもいい。なくてもいいけれど、これがあることで映画が豊かになっている。このシーンの場合はさらに、このセリフがあることでシリアスさが緩和されている。お父さんのセリフを受けての二人の反応がまたユーモラスだ。

 

 たとえば7分52秒あたり、クメイルがエミリーを部屋に連れ帰ったところで、それを見たルームメイトのクリスが「やるじゃん 上出来だ」と呟くのはいいとして、そのあとクリスがリモコンをソファに叩きつけるのをわざわざ別カットで映しているけれど、これだってなくてもいいシーンなわけだ。あった方が豊かになることは間違いないけれど。

 

 たとえば、

 

 たとえば、……

 

 もっとあると思ったけど、意外に見つかりませんね……

 

 別になくてもいい、別になくてもいい、とさっきから繰り返しているけれど、別になくてもいい、なんていうのは作劇上の判断に過ぎない。実際に僕らが日常生活を送っていく上では、別になくてもいい発話の方が多いくらいだ。でも、そういうどうでもいいような部分を作品の中に落とし込むとなると話が違ってくる。そういうセリフまで脚本に記し、編集の段階でも削らず、それらが結果として、むしろ映画を豊かにしテンポをよくしているのは素晴らしいことだ。なんというか、えらいことだと思う。「別になくてもいい、だからいらない」じゃなくて、「別になくてもいい、けれどあった方がいいんじゃないか」という判断がえらい。

 『パルプ・フィクション』においても『ダウン・バイ・ロー』においても、その他の僕が観てきた映画においても、幾度となく、別になくてもいいやり取りは為されてきたけれど、『ビッグ・シック』に現れていたのはもう一段上の“なくてもよさ”だったように思う。あの『パターソン』をも上回るような日常賛美・“なくてもよさ”賛美だったように思う。

 

 それとも、僕が今まで気がついていなかっただけで、このレベルの“なくてもよさ”って他の作品にもあったのかな。これまでは見過ごしてしまっていた部分が突然見えるようになっただけかな。だとしても、こうして気づけるようになったことはいいことだ。これまでは見過ごしてしまっていたかもしれないけれど、少なくとも今後はしっかり捉えることができる。

 去年の秋くらいからはじまった、ひとつひとつの枝葉までもが美しく見える症状はこんなところにまで及んでいたらしい。散歩をしては冬のはだかの枝一本一本がきらめいて目に映る。家に帰って本を読んでは些末な表現やフォントまでにも目をとめ、映画を観ては別になくてもいいやり取りに心を震わせる。散歩のおかげです。あてのない散歩が僕らの生活にいかにいい影響を及ぼすかがわかります。

 「書を捨てよ、町へ出よう、で、帰ってから読もう」ということでしょうか。

2018年よかったもの

2018年よいと思ったものを列挙してゆきます。備忘録として……

 

・2018年よかった新作映画、ベスト10を挙げるなら、

  『ファントム・スレッド

  『ROMA』

  『スリー・ビルボード

  『きみの鳥はうたえる

  『寝ても覚めても

  『君の名前で僕を呼んで

  『ア・ゴースト・ストーリー』

  『四月の長い夢』

  『ナチュラル・ウーマン』

  『ラブレス』

です。僕、愛を描いた映画が結構好きらしい。というか、世の中の大多数の映画は、何らかの形で愛を描いているのではないか、という気がしてきました。さすがに暴論でしょうか。

・一番素敵だったのは『彼の見つめる先に』です。まっすぐすぎた……。『レディ・バード』もよかったなあ。ダサかったはずの地元をドライブしてみた途端にきらめきだす描写、グッときました。ほかには、『勝手にふるえてろ』、『シェイプ・オブ・ウォーター』、『ブラック・パンサー』、『リメンバー・ミー』、『ラッカは静かに虐殺されている』、『レディ・プレイヤー1』、『フロリダ・プロジェクト』、『犬ヶ島』、『ビューティフル・デイ』、『万引き家族』、『運命は踊る』、『バスターのバラード』、『15時17分、パリ行き』がよかったです。

・バーフバリも観ました。楽しかったです。『アンダー・ザ・シルバーレイク』、観た直後は正直「は?」と思ったけど、あとから「なんかあれ楽しかったな」と思えてきたのでよしとします。あとは、観逃がした映画がかなりあった気がします。『わたしたちの家』とか『あみこ』とか観たかったなあ。あとなにかなあ。いろいろ観のがしてしまったような気がします。

・『カメラを止めるな!』も『ブラックミラー:バンダースナッチ』も楽しかったです。いい映画だった、というよりは、いいバラエティ番組だった、という感覚に近い気がします。M-1みたいな。

・旧作映画だと、『裸足の季節』、『光のノスタルジア』、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』、『グッド・タイム』、『早春』、『パラダイス 希望』、『髪結いの亭主』、『歩いても 歩いても』、『お早よう』、『バートン・フィンク』、『少年と自転車』、『父、帰る』、『ノー・マンズ・ランド』、『かいじゅうたちのいるところ』、『クラッシュ』、『アメリカン・ハニー』、『フルートベール駅で』、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』、『フェリスはある朝突然に』、『ファンタスティック・プラネット』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』、『マイティ・ソー バトルロイヤル』、『魔女の宅急便』、『オルエットの方へ』、『グーニーズ』、『走れ、絶望に追いつかれない速さで』、『舟を編む』、『ラ・ジュテ』、『ヴァンダの部屋』、『コロッサル・ユース』、『秋のソナタ』、『世紀の光』、『最後の追跡』、『ブルース・ブラザーズ』、『ノスタルジア』、『ロスト・ハイウェイ』、『マルホランド・ドライブ』、『息もできない』、『シュレック』、『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』、『草原の実験』、『ターミネーター2』、『ハント・フォー・ザ・ワイルダーピープル』、『ゼロ・グラビティ』、『風立ちぬ』、『白夜』、『男はつらいよ』、『続・男はつらいよ』、『ミステリー・トレイン』、『パリ、18区、夜。』がよかったです。

・一昨年くらいからまあまあ映画を観るようになりましたが、まだまだちょくちょく僕の映画観を押し広げるような作品に出会うことができて、とても幸福なのです。今年だと『ヴァンダの部屋』・『コロッサル・ユース』と『オルエットの方へ』と『ラ・ジュテ』と『マルホランド・ドライブ』が、そういう作品でした。昔の作品が時代を越えて僕の目に新鮮に映るということ自体に、まず感動してしまいます。別にこれは映画に限った話ではないけれど。

・年末にユーロスペースで観た『白夜』と『パリ、18区、夜。』はとてもよかった。どちらもパリが舞台で、どちらも夜のシーンの色味がよかった。『汚れた血』にも似た色味でした。パリという街に特有の色味なんですか? 夜なのに、色の粒が立っているような感じ。めちゃくちゃ好みなのですが、しかし考えてみるとこういう色味の映画というのはあまりない。どうなのかな。エドワード・ヤンの『カップルズ』なんかも同じような色味だったような気がするし、そういえば、今年だと『きみの鳥はうたえる』がとってもいい色味でした。夜は必ず明けてしまうものだからこそ美しい。

 

・今年も今年とて全然ドラマを見られませんでした。残念無念。

 

・2018年最も感情を突き動かされたイベント、小沢健二の武道館でのライブです。僕自身の感想を引用すると、

「しっかしおとといのオザケンほんとうにすごかったね。音楽と言葉と身体があんなにリンクした経験ははじめてだ。合唱しようにも泣いてしまってうまく歌えなかった。『LIFE』と『刹那』からの曲が多めだったけど、ちょっぴり密室感のあったスタジオ音源のあの感じが"36人編成ファンク交響楽"によって解放され、再生され、更新され、武道館が生と刹那に満ちていた。LIFEと刹那だけじゃない。これまでの楽曲が一様に化けてた。すべての曲が化けてたね… 化けてたって言ったって元からべらぼうにいい曲ばかりなんだからね… それが100倍にも1000倍にも化けちゃうんだからそりゃもう…… "36人編成ファンク交響楽"の現在の中心に位置付けられた「フクロウ」なんてもう… 言葉の力、音楽の力は強い… 意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていくっていうのたぶんほんとうだね… あと「男子の気分の人、女子の気分の人」っていうの、僕の知る限り最良の表現だ。"気分"っていう刹那的で不定な表現に託すことで、セックスもジェンダーも解体してる。ラストの「生活に戻ろう」も粋だ… それに、単純にオザケンめちゃくちゃ声出てたね。満島ひかりすらも超えてたと思う。昔を知らないけど、今が最盛なんじゃないかという気がした。懐古趣味的な人じゃない。更新してた。」

 だそうです。はて……

 

・2018年よかった音楽、プレイリストにしました。

 

・アルバムのベスト10を挙げるなら、

  落日飛車 / Cassa Nova

  cero / POLY LIFE MULTI SOUL

  Blood Orange / Negro Swan

  優河 / 魔法

  A$AP Rocky / Testing

  Dirty Projectors / Lamp Lit Prose

  Earl Sweatshirt / Some Rap Songs

  Noname / Room 25

  Kids See Ghosts / Kids See Ghosts

  折坂悠太 / 平成

かなあ。次いで、Jerry Paper、Louis Cole、Jamie Isaac、Kanye West、中村佳穂、Arctic Monkeys、Superorganism、シャムキャッツ、Mitski、The Internet、MGMT、Stephen Steinbrink、冬にわかれて、ゆるふわギャング、Georgia Anne Muldrow、KID FRESINO、Father John Misty、tofubeats吉澤嘉代子小袋成彬、カネコアヤノ、OLD DAYS TAILOR、Mac Miller、Khruangbin、Oneohtrix Point Never、Lucy Dacus、Puma Blue、Angelique Kidjo、Low、Travis Scott、Adrianne Lenker、Empress Of、Young Fathers、Sen Morimoto、Ross From Friends、BROCKHAMPTON、Everything Is Recorded、George Clanton、Sandro Perri、Michael Seyer、Thom Torke、パソコン音楽クラブが好きでした。コンピレーションっぽいやつだと、ブラック・パンサーのアルバムとBrainfeederのアルバムがかっこよい。いい音楽多すぎる……

・最近リリースされたなかだと、七尾旅人Charaがかなりよさそうです。

・EP単位だとTyler, The Creatorのやつが一番好きです。Boy Pabloもいいですね。シングルだと、Disclosureの連続リリースが全部好きでした。

・一番かっこよかった曲はAnderson Paak.の“Til’ It’s Over”です。未来のファンク(notフューチャーファンク)って感じがしませんか? この曲を使ったAppleのCMもめちゃくちゃかっこよかった。一番美しかった曲はFrank Oceanがバレンタインデーにリリースした“Moon River”のカバーです。

・ミュージックビデオはやっぱり“This Is America”が一番インパクトありました。個人的には、PUNPEEの“タイムマシーンにのって”や、落日飛車の“Slow / Oriental”や、Kendrick LamarとSZAの“All The Stars”や、Oneohtrix Point Neverの“Black Snow”や、A$AP Rockyの“Fukk Sleep”や、カネコアヤノの“祝日”や、Vince Staplesの“FUN!”や、吉澤嘉代子の“女優”のビデオもよかったです。プロモーションとしてというより、作品としてのビデオが確実に増えてきている気がします。

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・2018年に読んだなかでよかった小説、スティーヴン・ミルハウザーの諸作と、多和田葉子の諸作と、ボルヘスの諸作と、フラナリー・オコナー短編集と、ミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』と、アントニオ・タブッキの『レクイエム』・『インド夜想曲』と、町田康の諸作と、ミシェル・ウェルベックの『闘争領域の拡大』・『素粒子』と、ミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡:迷宮』と、アブー・ヌワースの『アラブ飲酒詩選』と、『夫のちんぽが入らない』と、E・L・カニグズバーグの『ベーグル・チームの作戦』・『クローディアの秘密』です。いくつかの小説を読んで思ったことについては、別の日記にも書きました。

hellogoodbyehn.hatenablog.com

 

・美術展にはあまり行っていませんが、横浜美術館でやっていたモネ展、ヌード展と、ワタリウム美術館のマイク・ケリー展と、国立新美術館東山魁夷展がよかったような気がします。

 

・2018年のベストラジオ、「ハライチのターン」のたしか6月くらいのスペシャルウィーク回です。たしか澤部がカンパチの刺身と対決するみたいな企画で、たしか岩井がずっと躁で、お得意の、日常に潜むオカルトのトークがたしか炸裂していて、たしか、たしか、って全然細部を覚えていないのですが、その覚えられなさというか、刹那性のようなものがまさしくラジオの醍醐味だという気もします。

 

ジャルジャルYouTubeの公式チャンネルに一日一本アップしているコントが好きです。8000本アップするまで続けるそうですので、みんなもチャンネル登録して応援してください。箸にも棒にも掛からない回もあるけど、何割かはとっても面白くて、そのうちのさらに何割かはエモーショナルで泣きそうになってしまいます。僕の去年からのテーマとして「ユーモラスさとエモーショナルさはほとんど同じものだ」というのがありますけれども、ジャルジャルのネタなんかはまさにそれだと思います。M-1も泣きそうになっちゃったな。ちなみに、個人的なベストは「最初笑ってたのに、じわじわキレる奴」です。福徳の仕草のリアリティ!

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・今年もたくさん散歩をしました。特に秋から冬にかけてがすごくって、計300キロくらい歩いたような気がします。東山魁夷展に行った影響だと思われるのですが、そこらへんの木の枝なんかもすべてが美しく見えて、なんなら古びたアスファルトビルや、「危険 スピード落とせ」の看板でさえきらめいていて、この世界にたくさんの人が暮らしているということ、生命の営みそのものが僕の心を震わせ、熱情がはねっかえり、底のほとんどなくなった靴でスタスタ歩き続けました。能天気なことも自覚しつつ、でもなんだかそんなフェーズに入ってしまいました。今年は恋人とよく散歩をしました。とても楽しいです。

hellogoodbyehn.hatenablog.com

 

 

 

 

2019年も楽しいといいね……

日記(秋から冬にかけて)

映画や展覧会を観に行って、その行き帰りで音楽を聴いて、家についたらベッドにゴロンと横になって、いや~よかったなあ、すげえなあ、なんてつぶやいて、でだいたいそのまま、何がどうよかったのかきちんと言語化することなく生活に戻っていくのだけれど、しかしこっそりどこかで影響を受けていたりする。『勝手にふるえてろ』を観た帰りにそのまま紀伊国屋綿矢りさの原作を買うとか、『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観てから道端の犬のふんが何かの暗号に見えて仕方がなくなるみたいな、即効性の強い影響もあるけれど、しかし遅効性の影響というのも実はかなりあって、ひとつひとつはだいたい些細なものに過ぎないそれらが、日常生活を営んでいくなかでひょっこり顔をのぞかせる。何かをしたあとで、これってこの前観たあれの影響じゃん!みたいに気づく。へえ、これとあれがこんなかたちで繋がんの⁉みたいに自分で驚いちゃったりする。

たとえば、僕はこのまえ東山魁夷展に行ってからというもの、散歩をしていても自然の造形美にばかり目が行くようになっちゃっているのだけれど、そのこと自体はどちらかというと即効性の影響だ。でも、

 

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こんな感じに写真を撮っていって、このアングルを銅像なんかにも応用すると、

 

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こうなる。『君の名前で僕を呼んで』じゃん! こうして、東京の下町と北イタリアが地続きになり、渥美清ティモシー・シャラメアーミー・ハマーが一堂に会するのである。ええ? 結構毛だらけ猫灰だらけってかい?

 

……。

 

 

 

 

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……。

 

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さくら~!

日記(11月17日)

  ネットフリックスで『バスターのバラード』というオムニバス西部劇を観た。パソコンの小さな画面でコーエン兄弟の新作が観られる時代だ。

 すごく皮相的に言うと、死ぬことについての映画だった。

 人は意外にあっさり死ぬし、うまく逃れたかと思いきや結局死ぬし、自分ではどうにもならないことで死ぬし、いつのまにか死んでいたりする。

 

 オムニバスの4話目にトム・ウェイツが出ていた。トム・ウェイツは素晴らしいミュージシャンだし、とてもいい俳優だ。

 今回の映画ではもう70近いトムさんがガッツのある独り者のじいさんの役をやっていて、僕は彼がゼエゼエ息を切らしスコップで穴を掘っている姿を見ながら、彼が昔歌っていた“I Don’t Wanna Grow Up”という曲を思い出した。

 

www.youtube.com

 

 この曲が入った“Bone Machine”というアルバムは1992年に出ている。気の抜けるようなパーカッションとゲロゲロ声を中心に構成されたアルバムだ。

 80年代からオルタナティブな活動を続けてきたトム・ウェイツは、90年代に入って、ニルヴァーナら若いオルタナティブがバカ売れしているのを傍目に、どんな気持ちでこのアルバムを制作したのだろうか。すでに40代に突入していた彼が歌った、「おとなになんてなりたくない」というロックソング。

 

When I'm lyin' in my bed at night

I don't wanna grow up

Nothin' ever seems to turn out right

I don't wanna grow up

How do you move in a world of fog

That's always changing things

Makes me wish that I could be a dog

When I see the price that you pay

I don't wanna grow up

I don't ever wanna be that way

I don't wanna grow up ...

 

 僕の調べたところによれば、というかウィキペディアによれば、このミュージックビデオはジム・ジャームッシュが撮ったものだそうだ。それも、『コーヒー・アンド・シガレッツ』の撮影の前日に! このバカ騒ぎみたいなビデオを撮影して、翌日疲れ果てたまま撮影現場に現れ、

「タバコをやめてよかったよ。やめただろ? だから堂々と吸える」

 と名台詞を吐くトム・ウェイツ

 

 金塊を求めひたすら土を掘り返す70近いトム・ウェイツはとても若く見えた。一方、僕はもうすぐ24。

 24⁉