バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

日記(1月25日)

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 高層マンションが西日をモロに浴びてそびえている姿が好きなのです。

 周りの建物は低くて、辺り一帯ではそのマンションだけ突出して高かったりすると、なおよい。この写真の場合、隣にそれなりの高さのマンションが写ってしまっているけれど。

 

 周りの建物は低くて、辺り一帯ではそのマンションだけ突出して高い、という事態を具体的に想像してみる。低い建物がびっしり生えたその地域に、どうしてずば抜けて高いマンションが建ってしまったのか。

 

 きっとこういうことではないだろうか。

 その辺りはもともと、高度経済成長期以来の一軒家の立ち並ぶ住宅街があり、高齢化の進む古き良き狭き商店街があり、2階建てのアパートや、ちょっと高いといっても駅前の4階建ての雑居ビルくらいしか建っておらず、昼間にぶらつくと人の数より電柱の数の方が多いくらい、そういう地域だった。しかしそんな冴えない土地に高層マンションが出現する。それはほとんど、“突如として”という表現を使ってしまってもいいくらいのスピーディーさでいつの間にかそびえている。実際にはもちろん、突如建ったなんてことがあるはずはなくて、ずっと前、おそらく1年以上前から、こつこつと積みあがってきた結果なのだ。もちろん周囲には工事の音が響き渡っていたことだろうし、ここに50階建てのマンションを作ります、という掲示だってされていたはずだ。天に向かって徐々に伸びていく建築物の、朝には西側、昼には北側、夕方には東側に日陰が広がる。美しい日の出が最近になって見えなくなってきた、だとか、洗濯物が最近になってなかなか乾かなくなってきている、だとか、そういう日常の些細な変化に漠然とした違和感を抱える人もいたかもしれない。しかし、いったい何が太陽の光を遮っているのか、閑静な街を揺るがす轟音はいったいどこで鳴っているのか、そういうことにまで考えを巡らす人はいなかった。

 そうして、高層マンションは人々の目をうまくかいくぐり完成した。

 

 高層マンションの存在がようやく人々に認知されはじめるのは、工事用のグレーシートがすべて剥がれた日の夕暮れどきのことだ。新築の生身の姿が、全身に西日を浴び、夕暮れの空に一本屹立しているのを見て、人々は、あ、と声を上げる。

 最初に騒ぎ始めるのは、放課後、校庭でドッヂボールをした帰りの小学生たちだ。あの年代の子らは上ばかり見て歩いているし、町の変化に敏感。なんだよこれ。でっけー。すっげえもんがいつの間に。子らが騒ぐ姿につられて大人たちも次々に足を止め、橙色に光る巨大な塊を見上げてあれやこれやと論評する。あれま。こんなんあったっけか。あれいつの間に。またしょうもないもん作りやがって。こんなの作っちゃってどうするのかねえ。やだようるさくなるのは。何階建てかな。たまげた。なんだよこれ。でっけー。あれ、ここって前、なにがあったっけ。なんだっけ、なんもなかったんじゃねえの。