バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

日記(最近)

 夏前くらいからいくつかの小説を読んで思っていたことがあるので、メモを残しておきたいです。世の中の文章は実感を伴ったものと実感を伴わないものに分けられるような気がしますが、今回は実感を伴った文章についてです。実感を伴わない文章ももちろん素晴らしいですが。

 

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 文章には、自分が体験していない思い出のことさえ思い出させる力がある。

 

 前の日記で触れたスティーヴン・ミルハウザーの『エドウィン・マルハウス』という小説は、まさしく僕の体験していない思い出の宝庫だった。あの小説で描かれているのは1940~50年代のアメリカの郊外に住む少年少女の思い出だけれど、僕は廃園になった遊園地の姿をありありと思い出すことができたし、町はずれの鬱蒼とした森の中に立つあの怖い家が燃えていたときのことだって思い出すことができる。

 もうちょっと僕らに近い話で言うと、Aマッソの加納さんがWebちくまで連載しているエッセイの9月号がすごく良かった。

www.webchikuma.jp

 これは青森で中学時代を過ごしたときの思い出についての話だけれど、千葉県に生まれ一面の雪景色なんてそうそう見たことのない僕にも全部思い出せる。ああ、翔太ってやつ、そういえばいたなあ。

 

 ポイントは、どちらもフィクションであるということだ。

 『エドウィン・マルハウス』のほうは、作者のスティーヴン・ミルハウザーと作中のエドウィン・マルハウスが同じ年生まれになっていることもあって、作中で語られる無数の思い出のいくらかはおそらく実際の出来事を参考にしているのだろうと思うけれど、加納さんが青森で過ごした中学時代はまったくのでっちあげだ。

 自らも体験していない思い出について語り(/騙り)、それを読んだ側も見ず知らずの思い出を懐かしむ。これって実はすごいことなんじゃないか。

(このすごさは何も思い出について書かれた文章に限らず、フィクション全体、ひいては語るという行為全体に関わるもののような気がしているけれど、そこまで考えるとなんだか恐ろしい気持ちになってくるので、蓋をして気づかなかったふりをしよう。)

 

 そして、思い出について語る場合、抽象的で公約数的な言葉を並べるよりは、より具体的で個人的な言葉を尽くした方が、イメージが喚起されやすいのではないか。

 たとえば、夕暮れ、下町、商店街、と曖昧な単語を並べることによって、それらの単語に染み込んだイメージを想起することはできる。その場合、自分の知っている夕暮れ像、下町像、商店街像を手繰り寄せてぼんやりした全体像を形作ることになる。

 でも、そうではなく、2018年10月7日の夕方5時ごろの西日暮里の谷中よみせ通り、と具体的な情報を並び立てたほうが伝わるものが多いのではないかと思う。それは言い換えれば、思い出の輪郭を整えるということである。輪郭をできる限り確定させていく。受け手が谷中よみせ通りのことを知っている場合には、もちろん受け取る情報量がけた違いになる。知らない場合にすら効果があるだろう。知っているか知らないかが問題にならない場合も多い。架空の地名が出てくることもあるのだから。

 そうやって言葉を尽くしていくのは、書き手の側からしても大事なことだ。物語世界を丁寧に作り、その中に暮らす人々を息づかせる。細かければ細かいほうがいい、と100%言い切ることはできないけれど、そうである場合は確かに多い。言霊的な発想かもしれないし、「神は細部に宿る」的な発想かもしれないけれど、とにかくそういう気がしている。

 小説中で主人公が聴いている曲の名前がやたらと出てきたりするのも、なにもかっこつけているわけではなくて、細部を尽くすということなんだと思う。中学生の僕に言ってあげたいな。

 

 最近読んだうちだと、ミランダ・ジュライの短編集『いちばんここに似合う人』に収録された「何も必要としない何か」という、女の子二人が一緒に暮らそうとする話にとてもいい描写が出てきた。二人が喧嘩して、片方が出て行ってしまったとき、もう片方の女の子はお湯を張った浴槽に片足だけ突っ込んで、(あの子が帰ってくるまでここで私がこうして真っ裸で固まっていたら、あの子なんて思うかな、なんとも思わないかもしれないな)と考える。とても具体的で奇妙な描写だけれど、だからこそ共感を生む。

 

 言葉を尽くすことは重要だ。

 一方で、文章では何とでも書けるけれど、何も伝えることができないのかもしれない、とも思う。少なくとも、ある種の事柄に関しては。

 たとえば、無限、とか。ボルヘスの『エル・アレフ』という短編集の表題作「エル・アレフ」の中に、とっても面白いことを言っている箇所があった。エル・アレフというのは古今東西の世界のすべてを映し出す2,3センチほどの虹色の球体だ。世界のすべて(=無限)がわずか2,3センチほどの球体の中に実物大で映し出されているということについて、ボルヘスは文章で描写することの不可能性を語る。たしかに、「世界のすべてがわずか2,3センチほどの球体の中に実物大で映し出されている」と文字でつらつら書くことはできるし、それを読んで僕らはかなりぼんやりとイメージすることはできるけれど、しかしこのイメージというのは、あくまで、なんとなく、に留まる。「世界のすべてがわずか2,3センチほどの球体の中に実物大で映し出されている」って、実際にはどういうことなの、と聞かれたら僕らは黙りこくるしかない。エル・アレフがどういうものなのかは実際に目にした人にしかわからない。無限ということを文章で表現すること自体は可能かもしれないけれど、それに実感を伴わせるということは不可能なのだ。

 

 でも、すべての非現実的なものが実感を伴った文章で表現できない、ということはない。

 いま僕らがいる世界を(異論はあるだろうけれど)“最も現実的な世界”、無限を“最も非現実的な世界”とした軸を考えると、僕らはどこまでならば実感を伴った文章を書けるのだろうか。『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハリー・ポッター』の世界は僕らにとって実感を伴っていないのだろうか。

 少なくとも『ハリー・ポッター』の方には学園ものという側面があって、恋だとか、ライバルだとか、親子だとか、いろんな点で僕らの世界と繋がっている。そうやって“最も現実的な世界”にしっかり足をつけて共感を得たうえで、魔法の世界を語る。

 でも、ここからが不思議なのだけれど、実は僕らは、僕らの世界とつながっていないはずの部分、ようするに魔法の世界についても、ある程度の実感を伴ってイメージできる。僕らは9と3/4番線のホームに突っ込むときのドキドキ感や、はじめて自分の守護霊を呼び出すことができたときの全身そばだつ感覚や、空飛ぶ箒でとんでもなく高いところまで昇ってしまったときの手汗を思い出すことができる。

 なぜなら僕らはそれらを見たことがあるから。

 『ハリー・ポッター』シリーズを読み進めていくにあたって映画版の果たした役割はとてつもなく大きかった。たしか僕が小学校低学年のときに『賢者の石』の翻訳を読んで、そのちょっとあとに映画版が出て、以降、小説版と映画版がだいたい交互に発表されていった。かなり素晴らしい映画化だったと思っている。文字で読んだ魔法の世界がスクリーンで再現されていることに感極まったし、反対に、映画で目にしたイメージを小説に持ち込んで読み進めた。小説版と映画版が相互にイメージを補完し、想像をかきたてた。小説の描写に具体的な映像イメージを重ねることで、僕は魔法の世界をも実感することができるようになった。

 

 文章で表現されているイメージを映画や映像や写真や広告によって補完するということを、僕らはいくらでも行ってきた。意識的にも、無意識のうちにも。なにもファンタジーの世界だけがその対象ではない。補完は“最も現実的な世界”にまで及んでいる。さっきの『エドウィン・マルハウス』中の40~50年代アメリカの姿だっておそらく映画かなにかで目にしたものだろうし、青森の雪景色だって、僕らはすでにJRの広告やらなにやらを通していくらでも目にしている。補完なしに実感はない。

 できるだけ具体的に書いて輪郭を整えるということだって、要するに補完しやすい環境を作るということなのだろう。

 補完の材料もどんどん増えてきている。アニメーションは実写では表現しきれない世界を描くことができるし、VRやARがもっと一般化したら、実感が伴う領域はとんでもなく増大するんじゃないかと思う。技術の進歩によって文章の可能性も拡がる。10年後にはどんな文章が生まれているのだろう。

 

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 この前、こんな文章を書いた。

note.mu

 はっきり言ってしまうのはなんだかさみしい気もするけれど、これはフィクションだ。実際に目にした光景や、最近考えていたことを練り込んだつもりではあるけれど、しかし紛れもなくフィクションだ。

 この文章で実践したかったことはいくつかある。

 

  ・伝記文学のようなものを書く

  ・架空の曲のイメージを喚起する

  ・思い出を喚起する

 

 まず、伝記文学のようなもの、について。

 まったくの架空の人物や作品について語っている伝記文学が面白い、ということは去年くらいから感じていた。架空の何かについて、それが実際に存在する/したかのような重量感を伴って、つらつら書き連ねる。それはなにも伝記文学だけでなく、物語全般に言える特徴なのかもしれないけれど、しかし伝記文学には特に濃厚な狂気を感じてしまうのだ。いや、でもこれって全部嘘なんでしょ、とでも言おうものなら、真顔で「何を言っているんですか、すべて実際に存在しますよ」と返してきそうな、生真面目な狂気。

 今回特に意識したのは、ロベルト・ボラーニョの『アメリカ大陸のナチ文学』やさっきの『エドウィン・マルハウス』のように、理知的な文章の隙間から語り手のエモーションが漏れ出してくるような作品だ。というか、そもそもあんまり読んだことがないので、たまたま読んだことがあったそれらしか参照できなかった。他にいい作品があったら教えてください。

 形式については、ライナーノーツなんてイマ風で良さそうだな、と思った。当初は、知人によるライナーノーツにして、『エドウィン・マルハウス』のように語り手から語られる対象への愛憎が見え隠れするような文章にしたいなあ、なんて考えていた。けれど、僕の現在の力量的にキビしそうだと感じたので、結局セルフライナーノーツにした。客観性を保ちたいのにどうしても主観が混ざってしまっている文章、というものを意識的に書くのは、たぶん結構困難なことなのだ。それよりは、すべて主観によるセルフライナーノーツの方がちょっとは書きやすそうだった。というわけでセルフライナーノーツ。「制作まで」「各曲コメント」「制作後」の3章立てにして、時系列に沿って語っていった。

 各曲のタイトルについては、ちょうどよく聴いてきた折坂悠太の『平成』っぽさが出てしまった。ジャケットのデザインはそんなにじっくり考えたわけではないけれど、何となく風通しがいいような、BROCKHAMPTONのシングル“1999 WILDFIRE”のジャケットのようなイメージで作った。

 というわけで、この「伝記文学のようなものを書く」という点については、少なくとも形式の上ではうまくいったと思う。

 

 架空の曲のイメージを喚起することについて。

 ありもしない楽曲についてライナーノーツのみからどんな曲なのかイメージができたら面白そうだなと思った。具体的なメロディや歌詞の一言一句までイメージすることはいくらなんでもできないだろうけれど、たとえば、ああ、あの曲っぽい感じかな、みたいに、サウンドの全体的な印象が喚起できればとてもいいな、と。

 でも、この点に関しては大きな障壁があった。僕には音楽的な知識がほとんどないのだ。ドリームポップっぽく、とか、ローリング・ストーンズの“Sway”っぽく、みたいな曖昧なことは書けるけれど、コード進行やエフェクターやトラックメイキングの話になるとさっぱりダメだ。そうなるともはや音楽的な話を書くのはあきらめて、制作風景の描写に専念した方がよさそうだった。実際、「各曲コメント」においても音楽的な話はほとんどしていない。でも、これはこれで“そういう面白さ”が生まれるかなと思ったので別にいいや。

 いちおう申し訳程度に、制作にあたって参照した曲のプレイリストを付けておいたけれど、これで各曲のイメージが喚起されるとは言い難い。なので、この点に関しては失敗。

 

 思い出を喚起することについて。

 言葉を尽くすことで思い出を喚起するというのは、上の文章でも言ってきたことだけれど、実践となると話しが違う。なにごとも理論と実践では話がまったく違う、というのは有名だ。

 いくつかの箇所ではそれなりにうまく書けたはずだけれど、いくつかの箇所では失敗している。難しいっすね……