バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

日記(1月25日)

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 高層マンションが西日をモロに浴びてそびえている姿が好きなのです。

 周りの建物は低くて、辺り一帯ではそのマンションだけ突出して高かったりすると、なおよい。この写真の場合、隣にそれなりの高さのマンションが写ってしまっているけれど。

 

 周りの建物は低くて、辺り一帯ではそのマンションだけ突出して高い、という事態を具体的に想像してみる。低い建物がびっしり生えたその地域に、どうしてずば抜けて高いマンションが建ってしまったのか。

 

 きっとこういうことではないだろうか。

 その辺りはもともと、高度経済成長期以来の一軒家の立ち並ぶ住宅街があり、高齢化の進む古き良き狭き商店街があり、2階建てのアパートや、ちょっと高いといっても駅前の4階建ての雑居ビルくらいしか建っておらず、昼間にぶらつくと人の数より電柱の数の方が多いくらい、そういう地域だった。しかしそんな冴えない土地に高層マンションが出現する。それはほとんど、“突如として”という表現を使ってしまってもいいくらいのスピーディーさでいつの間にかそびえている。実際にはもちろん、突如建ったなんてことがあるはずはなくて、ずっと前、おそらく1年以上前から、こつこつと積みあがってきた結果なのだ。もちろん周囲には工事の音が響き渡っていたことだろうし、ここに50階建てのマンションを作ります、という掲示だってされていたはずだ。天に向かって徐々に伸びていく建築物の、朝には西側、昼には北側、夕方には東側に日陰が広がる。美しい日の出が最近になって見えなくなってきた、だとか、洗濯物が最近になってなかなか乾かなくなってきている、だとか、そういう日常の些細な変化に漠然とした違和感を抱える人もいたかもしれない。しかし、いったい何が太陽の光を遮っているのか、閑静な街を揺るがす轟音はいったいどこで鳴っているのか、そういうことにまで考えを巡らす人はいなかった。

 そうして、高層マンションは人々の目をうまくかいくぐり完成した。

 

 高層マンションの存在がようやく人々に認知されはじめるのは、工事用のグレーシートがすべて剥がれた日の夕暮れどきのことだ。新築の生身の姿が、全身に西日を浴び、夕暮れの空に一本屹立しているのを見て、人々は、あ、と声を上げる。

 最初に騒ぎ始めるのは、放課後、校庭でドッヂボールをした帰りの小学生たちだ。あの年代の子らは上ばかり見て歩いているし、町の変化に敏感。なんだよこれ。でっけー。すっげえもんがいつの間に。子らが騒ぐ姿につられて大人たちも次々に足を止め、橙色に光る巨大な塊を見上げてあれやこれやと論評する。あれま。こんなんあったっけか。あれいつの間に。またしょうもないもん作りやがって。こんなの作っちゃってどうするのかねえ。やだようるさくなるのは。何階建てかな。たまげた。なんだよこれ。でっけー。あれ、ここって前、なにがあったっけ。なんだっけ、なんもなかったんじゃねえの。

日記(1月3日)

 大晦日や年越しの瞬間や年始一発目にどんなものを聴くかとか、観るかとか、読むかとか、そういうことって現実的には些末に過ぎないのかもしれないけれど、個々人にとっては予想外に悩ましい問題であったりする。そんなことって別に何の意味もないじゃん、みたいにむずがゆい指摘をされてしまうかもしれないけれど、しかしどうしても年跨ぎにはこだわりたい。外に出てむやみに騒いだりするわけではないけれど、年を跨ぐということに対して静かなる情熱を燃やす。そういうところにほんのちょっとだけこだわりながら、生活を進めていく。

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 2019年はじめは『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』(“The Big Sick”)を観た。

 昨年公開の映画だけれど、Amazon Studios配給だったのでもうPrime Videoにあります。

Amazon.co.jp: ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめを観る | Prime Video

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 移民2世のコメディアンが主人公であるというところや、移民として・非キリスト教徒としてアメリカで生きていくことの困難を軽妙に描くユーモア感覚や、差異を超えた普遍的な人間の情動のあり方を描いているところは、Netflixのかの名作ドラマシリーズ『マスター・オブ・ゼロ』(“Master Of None”)を彷彿とさせる。人物も環境も話の展開ももちろん全くの別物だけれど。それにしても、どちらの作品も、生活していくうえでの困難をドラマ的にテンポのいいやり取りへと昇華させる手腕が見事だ。

 『ビッグ・シック』の場合、テンポのよさは人物同士のやり取りから醸成されていたように思う。あえてセリフを削り余白を観客に想像させることでグッドなテンポを生んでいるような作品もあるけれど、今回は逆で、別になくてもいいセリフを入れることで逆にテンポがよくなっていたように思う。なにしろ登場人物たちが饒舌な映画なので本筋と関係ないやり取り自体はかなりあるのだけれど、しかしそれにしたって、本筋と関係ない上にそのやり取りの中においても見当違いになってしまっているような、別になくてもいいセリフが多い。

 別になくてもいいセリフ?

 

 たとえば1時間13分40秒あたり、ネットで病院の口コミを調べているときに「ネットは悪口ばかりだ 『フォレスト・ガンプ』も最高の映画なのに」とお父さんが言うくだりがある。「『フォレスト・ガンプ』も最高の映画なのに」! 別になくてもいい。なくてもいいけれど、これがあることで映画が豊かになっている。このシーンの場合はさらに、このセリフがあることでシリアスさが緩和されている。お父さんのセリフを受けての二人の反応がまたユーモラスだ。

 

 たとえば7分52秒あたり、クメイルがエミリーを部屋に連れ帰ったところで、それを見たルームメイトのクリスが「やるじゃん 上出来だ」と呟くのはいいとして、そのあとクリスがリモコンをソファに叩きつけるのをわざわざ別カットで映しているけれど、これだってなくてもいいシーンなわけだ。あった方が豊かになることは間違いないけれど。

 

 たとえば、

 

 たとえば、……

 

 もっとあると思ったけど、意外に見つかりませんね……

 

 別になくてもいい、別になくてもいい、とさっきから繰り返しているけれど、別になくてもいい、なんていうのは作劇上の判断に過ぎない。実際に僕らが日常生活を送っていく上では、別になくてもいい発話の方が多いくらいだ。でも、そういうどうでもいいような部分を作品の中に落とし込むとなると話が違ってくる。そういうセリフまで脚本に記し、編集の段階でも削らず、それらが結果として、むしろ映画を豊かにしテンポをよくしているのは素晴らしいことだ。なんというか、えらいことだと思う。「別になくてもいい、だからいらない」じゃなくて、「別になくてもいい、けれどあった方がいいんじゃないか」という判断がえらい。

 『パルプ・フィクション』においても『ダウン・バイ・ロー』においても、その他の僕が観てきた映画においても、幾度となく、別になくてもいいやり取りは為されてきたけれど、『ビッグ・シック』に現れていたのはもう一段上の“なくてもよさ”だったように思う。あの『パターソン』をも上回るような日常賛美・“なくてもよさ”賛美だったように思う。

 

 それとも、僕が今まで気がついていなかっただけで、このレベルの“なくてもよさ”って他の作品にもあったのかな。これまでは見過ごしてしまっていた部分が突然見えるようになっただけかな。だとしても、こうして気づけるようになったことはいいことだ。これまでは見過ごしてしまっていたかもしれないけれど、少なくとも今後はしっかり捉えることができる。

 去年の秋くらいからはじまった、ひとつひとつの枝葉までもが美しく見える症状はこんなところにまで及んでいたらしい。散歩をしては冬のはだかの枝一本一本がきらめいて目に映る。家に帰って本を読んでは些末な表現やフォントまでにも目をとめ、映画を観ては別になくてもいいやり取りに心を震わせる。散歩のおかげです。あてのない散歩が僕らの生活にいかにいい影響を及ぼすかがわかります。

 「書を捨てよ、町へ出よう、で、帰ってから読もう」ということでしょうか。

2018年よかったもの

2018年よいと思ったものを列挙してゆきます。備忘録として……

 

・2018年よかった新作映画、ベスト10を挙げるなら、

  『ファントム・スレッド

  『ROMA』

  『スリー・ビルボード

  『きみの鳥はうたえる

  『寝ても覚めても

  『君の名前で僕を呼んで

  『ア・ゴースト・ストーリー』

  『四月の長い夢』

  『ナチュラル・ウーマン』

  『ラブレス』

です。僕、愛を描いた映画が結構好きらしい。というか、世の中の大多数の映画は、何らかの形で愛を描いているのではないか、という気がしてきました。さすがに暴論でしょうか。

・一番素敵だったのは『彼の見つめる先に』です。まっすぐすぎた……。『レディ・バード』もよかったなあ。ダサかったはずの地元をドライブしてみた途端にきらめきだす描写、グッときました。ほかには、『勝手にふるえてろ』、『シェイプ・オブ・ウォーター』、『ブラック・パンサー』、『リメンバー・ミー』、『ラッカは静かに虐殺されている』、『レディ・プレイヤー1』、『フロリダ・プロジェクト』、『犬ヶ島』、『ビューティフル・デイ』、『万引き家族』、『運命は踊る』、『バスターのバラード』、『15時17分、パリ行き』がよかったです。

・バーフバリも観ました。楽しかったです。『アンダー・ザ・シルバーレイク』、観た直後は正直「は?」と思ったけど、あとから「なんかあれ楽しかったな」と思えてきたのでよしとします。あとは、観逃がした映画がかなりあった気がします。『わたしたちの家』とか『あみこ』とか観たかったなあ。あとなにかなあ。いろいろ観のがしてしまったような気がします。

・『カメラを止めるな!』も『ブラックミラー:バンダースナッチ』も楽しかったです。いい映画だった、というよりは、いいバラエティ番組だった、という感覚に近い気がします。M-1みたいな。

・旧作映画だと、『裸足の季節』、『光のノスタルジア』、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』、『グッド・タイム』、『早春』、『パラダイス 希望』、『髪結いの亭主』、『歩いても 歩いても』、『お早よう』、『バートン・フィンク』、『少年と自転車』、『父、帰る』、『ノー・マンズ・ランド』、『かいじゅうたちのいるところ』、『クラッシュ』、『アメリカン・ハニー』、『フルートベール駅で』、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』、『フェリスはある朝突然に』、『ファンタスティック・プラネット』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』、『マイティ・ソー バトルロイヤル』、『魔女の宅急便』、『オルエットの方へ』、『グーニーズ』、『走れ、絶望に追いつかれない速さで』、『舟を編む』、『ラ・ジュテ』、『ヴァンダの部屋』、『コロッサル・ユース』、『秋のソナタ』、『世紀の光』、『最後の追跡』、『ブルース・ブラザーズ』、『ノスタルジア』、『ロスト・ハイウェイ』、『マルホランド・ドライブ』、『息もできない』、『シュレック』、『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』、『草原の実験』、『ターミネーター2』、『ハント・フォー・ザ・ワイルダーピープル』、『ゼロ・グラビティ』、『風立ちぬ』、『白夜』、『男はつらいよ』、『続・男はつらいよ』、『ミステリー・トレイン』、『パリ、18区、夜。』がよかったです。

・一昨年くらいからまあまあ映画を観るようになりましたが、まだまだちょくちょく僕の映画観を押し広げるような作品に出会うことができて、とても幸福なのです。今年だと『ヴァンダの部屋』・『コロッサル・ユース』と『オルエットの方へ』と『ラ・ジュテ』と『マルホランド・ドライブ』が、そういう作品でした。昔の作品が時代を越えて僕の目に新鮮に映るということ自体に、まず感動してしまいます。別にこれは映画に限った話ではないけれど。

・年末にユーロスペースで観た『白夜』と『パリ、18区、夜。』はとてもよかった。どちらもパリが舞台で、どちらも夜のシーンの色味がよかった。『汚れた血』にも似た色味でした。パリという街に特有の色味なんですか? 夜なのに、色の粒が立っているような感じ。めちゃくちゃ好みなのですが、しかし考えてみるとこういう色味の映画というのはあまりない。どうなのかな。エドワード・ヤンの『カップルズ』なんかも同じような色味だったような気がするし、そういえば、今年だと『きみの鳥はうたえる』がとってもいい色味でした。夜は必ず明けてしまうものだからこそ美しい。

 

・今年も今年とて全然ドラマを見られませんでした。残念無念。

 

・2018年最も感情を突き動かされたイベント、小沢健二の武道館でのライブです。僕自身の感想を引用すると、

「しっかしおとといのオザケンほんとうにすごかったね。音楽と言葉と身体があんなにリンクした経験ははじめてだ。合唱しようにも泣いてしまってうまく歌えなかった。『LIFE』と『刹那』からの曲が多めだったけど、ちょっぴり密室感のあったスタジオ音源のあの感じが"36人編成ファンク交響楽"によって解放され、再生され、更新され、武道館が生と刹那に満ちていた。LIFEと刹那だけじゃない。これまでの楽曲が一様に化けてた。すべての曲が化けてたね… 化けてたって言ったって元からべらぼうにいい曲ばかりなんだからね… それが100倍にも1000倍にも化けちゃうんだからそりゃもう…… "36人編成ファンク交響楽"の現在の中心に位置付けられた「フクロウ」なんてもう… 言葉の力、音楽の力は強い… 意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていくっていうのたぶんほんとうだね… あと「男子の気分の人、女子の気分の人」っていうの、僕の知る限り最良の表現だ。"気分"っていう刹那的で不定な表現に託すことで、セックスもジェンダーも解体してる。ラストの「生活に戻ろう」も粋だ… それに、単純にオザケンめちゃくちゃ声出てたね。満島ひかりすらも超えてたと思う。昔を知らないけど、今が最盛なんじゃないかという気がした。懐古趣味的な人じゃない。更新してた。」

 だそうです。はて……

 

・2018年よかった音楽、プレイリストにしました。

 

・アルバムのベスト10を挙げるなら、

  落日飛車 / Cassa Nova

  cero / POLY LIFE MULTI SOUL

  Blood Orange / Negro Swan

  優河 / 魔法

  A$AP Rocky / Testing

  Dirty Projectors / Lamp Lit Prose

  Earl Sweatshirt / Some Rap Songs

  Noname / Room 25

  Kids See Ghosts / Kids See Ghosts

  折坂悠太 / 平成

かなあ。次いで、Jerry Paper、Louis Cole、Jamie Isaac、Kanye West、中村佳穂、Arctic Monkeys、Superorganism、シャムキャッツ、Mitski、The Internet、MGMT、Stephen Steinbrink、冬にわかれて、ゆるふわギャング、Georgia Anne Muldrow、KID FRESINO、Father John Misty、tofubeats吉澤嘉代子小袋成彬、カネコアヤノ、OLD DAYS TAILOR、Mac Miller、Khruangbin、Oneohtrix Point Never、Lucy Dacus、Puma Blue、Angelique Kidjo、Low、Travis Scott、Adrianne Lenker、Empress Of、Young Fathers、Sen Morimoto、Ross From Friends、BROCKHAMPTON、Everything Is Recorded、George Clanton、Sandro Perri、Michael Seyer、Thom Torke、パソコン音楽クラブが好きでした。コンピレーションっぽいやつだと、ブラック・パンサーのアルバムとBrainfeederのアルバムがかっこよい。いい音楽多すぎる……

・最近リリースされたなかだと、七尾旅人Charaがかなりよさそうです。

・EP単位だとTyler, The Creatorのやつが一番好きです。Boy Pabloもいいですね。シングルだと、Disclosureの連続リリースが全部好きでした。

・一番かっこよかった曲はAnderson Paak.の“Til’ It’s Over”です。未来のファンク(notフューチャーファンク)って感じがしませんか? この曲を使ったAppleのCMもめちゃくちゃかっこよかった。一番美しかった曲はFrank Oceanがバレンタインデーにリリースした“Moon River”のカバーです。

・ミュージックビデオはやっぱり“This Is America”が一番インパクトありました。個人的には、PUNPEEの“タイムマシーンにのって”や、落日飛車の“Slow / Oriental”や、Kendrick LamarとSZAの“All The Stars”や、Oneohtrix Point Neverの“Black Snow”や、A$AP Rockyの“Fukk Sleep”や、カネコアヤノの“祝日”や、Vince Staplesの“FUN!”や、吉澤嘉代子の“女優”のビデオもよかったです。プロモーションとしてというより、作品としてのビデオが確実に増えてきている気がします。

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・2018年に読んだなかでよかった小説、スティーヴン・ミルハウザーの諸作と、多和田葉子の諸作と、ボルヘスの諸作と、フラナリー・オコナー短編集と、ミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』と、アントニオ・タブッキの『レクイエム』・『インド夜想曲』と、町田康の諸作と、ミシェル・ウェルベックの『闘争領域の拡大』・『素粒子』と、ミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡:迷宮』と、アブー・ヌワースの『アラブ飲酒詩選』と、『夫のちんぽが入らない』と、E・L・カニグズバーグの『ベーグル・チームの作戦』・『クローディアの秘密』です。いくつかの小説を読んで思ったことについては、別の日記にも書きました。

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・美術展にはあまり行っていませんが、横浜美術館でやっていたモネ展、ヌード展と、ワタリウム美術館のマイク・ケリー展と、国立新美術館東山魁夷展がよかったような気がします。

 

・2018年のベストラジオ、「ハライチのターン」のたしか6月くらいのスペシャルウィーク回です。たしか澤部がカンパチの刺身と対決するみたいな企画で、たしか岩井がずっと躁で、お得意の、日常に潜むオカルトのトークがたしか炸裂していて、たしか、たしか、って全然細部を覚えていないのですが、その覚えられなさというか、刹那性のようなものがまさしくラジオの醍醐味だという気もします。

 

ジャルジャルYouTubeの公式チャンネルに一日一本アップしているコントが好きです。8000本アップするまで続けるそうですので、みんなもチャンネル登録して応援してください。箸にも棒にも掛からない回もあるけど、何割かはとっても面白くて、そのうちのさらに何割かはエモーショナルで泣きそうになってしまいます。僕の去年からのテーマとして「ユーモラスさとエモーショナルさはほとんど同じものだ」というのがありますけれども、ジャルジャルのネタなんかはまさにそれだと思います。M-1も泣きそうになっちゃったな。ちなみに、個人的なベストは「最初笑ってたのに、じわじわキレる奴」です。福徳の仕草のリアリティ!

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・今年もたくさん散歩をしました。特に秋から冬にかけてがすごくって、計300キロくらい歩いたような気がします。東山魁夷展に行った影響だと思われるのですが、そこらへんの木の枝なんかもすべてが美しく見えて、なんなら古びたアスファルトビルや、「危険 スピード落とせ」の看板でさえきらめいていて、この世界にたくさんの人が暮らしているということ、生命の営みそのものが僕の心を震わせ、熱情がはねっかえり、底のほとんどなくなった靴でスタスタ歩き続けました。能天気なことも自覚しつつ、でもなんだかそんなフェーズに入ってしまいました。今年は恋人とよく散歩をしました。とても楽しいです。

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2019年も楽しいといいね……

日記(秋から冬にかけて)

映画や展覧会を観に行って、その行き帰りで音楽を聴いて、家についたらベッドにゴロンと横になって、いや~よかったなあ、すげえなあ、なんてつぶやいて、でだいたいそのまま、何がどうよかったのかきちんと言語化することなく生活に戻っていくのだけれど、しかしこっそりどこかで影響を受けていたりする。『勝手にふるえてろ』を観た帰りにそのまま紀伊国屋綿矢りさの原作を買うとか、『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観てから道端の犬のふんが何かの暗号に見えて仕方がなくなるみたいな、即効性の強い影響もあるけれど、しかし遅効性の影響というのも実はかなりあって、ひとつひとつはだいたい些細なものに過ぎないそれらが、日常生活を営んでいくなかでひょっこり顔をのぞかせる。何かをしたあとで、これってこの前観たあれの影響じゃん!みたいに気づく。へえ、これとあれがこんなかたちで繋がんの⁉みたいに自分で驚いちゃったりする。

たとえば、僕はこのまえ東山魁夷展に行ってからというもの、散歩をしていても自然の造形美にばかり目が行くようになっちゃっているのだけれど、そのこと自体はどちらかというと即効性の影響だ。でも、

 

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こんな感じに写真を撮っていって、このアングルを銅像なんかにも応用すると、

 

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こうなる。『君の名前で僕を呼んで』じゃん! こうして、東京の下町と北イタリアが地続きになり、渥美清ティモシー・シャラメアーミー・ハマーが一堂に会するのである。ええ? 結構毛だらけ猫灰だらけってかい?

 

……。

 

 

 

 

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……。

 

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さくら~!

日記(11月17日)

  ネットフリックスで『バスターのバラード』というオムニバス西部劇を観た。パソコンの小さな画面でコーエン兄弟の新作が観られる時代だ。

 すごく皮相的に言うと、死ぬことについての映画だった。

 人は意外にあっさり死ぬし、うまく逃れたかと思いきや結局死ぬし、自分ではどうにもならないことで死ぬし、いつのまにか死んでいたりする。

 

 オムニバスの4話目にトム・ウェイツが出ていた。トム・ウェイツは素晴らしいミュージシャンだし、とてもいい俳優だ。

 今回の映画ではもう70近いトムさんがガッツのある独り者のじいさんの役をやっていて、僕は彼がゼエゼエ息を切らしスコップで穴を掘っている姿を見ながら、彼が昔歌っていた“I Don’t Wanna Grow Up”という曲を思い出した。

 

www.youtube.com

 

 この曲が入った“Bone Machine”というアルバムは1992年に出ている。気の抜けるようなパーカッションとゲロゲロ声を中心に構成されたアルバムだ。

 80年代からオルタナティブな活動を続けてきたトム・ウェイツは、90年代に入って、ニルヴァーナら若いオルタナティブがバカ売れしているのを傍目に、どんな気持ちでこのアルバムを制作したのだろうか。すでに40代に突入していた彼が歌った、「おとなになんてなりたくない」というロックソング。

 

When I'm lyin' in my bed at night

I don't wanna grow up

Nothin' ever seems to turn out right

I don't wanna grow up

How do you move in a world of fog

That's always changing things

Makes me wish that I could be a dog

When I see the price that you pay

I don't wanna grow up

I don't ever wanna be that way

I don't wanna grow up ...

 

 僕の調べたところによれば、というかウィキペディアによれば、このミュージックビデオはジム・ジャームッシュが撮ったものだそうだ。それも、『コーヒー・アンド・シガレッツ』の撮影の前日に! このバカ騒ぎみたいなビデオを撮影して、翌日疲れ果てたまま撮影現場に現れ、

「タバコをやめてよかったよ。やめただろ? だから堂々と吸える」

 と名台詞を吐くトム・ウェイツ

 

 金塊を求めひたすら土を掘り返す70近いトム・ウェイツはとても若く見えた。一方、僕はもうすぐ24。

 24⁉

日記(最近)

 夏前くらいからいくつかの小説を読んで思っていたことがあるので、メモを残しておきたいです。世の中の文章は実感を伴ったものと実感を伴わないものに分けられるような気がしますが、今回は実感を伴った文章についてです。実感を伴わない文章ももちろん素晴らしいですが。

 

*****

 

 文章には、自分が体験していない思い出のことさえ思い出させる力がある。

 

 前の日記で触れたスティーヴン・ミルハウザーの『エドウィン・マルハウス』という小説は、まさしく僕の体験していない思い出の宝庫だった。あの小説で描かれているのは1940~50年代のアメリカの郊外に住む少年少女の思い出だけれど、僕は廃園になった遊園地の姿をありありと思い出すことができたし、町はずれの鬱蒼とした森の中に立つあの怖い家が燃えていたときのことだって思い出すことができる。

 もうちょっと僕らに近い話で言うと、Aマッソの加納さんがWebちくまで連載しているエッセイの9月号がすごく良かった。

www.webchikuma.jp

 これは青森で中学時代を過ごしたときの思い出についての話だけれど、千葉県に生まれ一面の雪景色なんてそうそう見たことのない僕にも全部思い出せる。ああ、翔太ってやつ、そういえばいたなあ。

 

 ポイントは、どちらもフィクションであるということだ。

 『エドウィン・マルハウス』のほうは、作者のスティーヴン・ミルハウザーと作中のエドウィン・マルハウスが同じ年生まれになっていることもあって、作中で語られる無数の思い出のいくらかはおそらく実際の出来事を参考にしているのだろうと思うけれど、加納さんが青森で過ごした中学時代はまったくのでっちあげだ。

 自らも体験していない思い出について語り(/騙り)、それを読んだ側も見ず知らずの思い出を懐かしむ。これって実はすごいことなんじゃないか。

(このすごさは何も思い出について書かれた文章に限らず、フィクション全体、ひいては語るという行為全体に関わるもののような気がしているけれど、そこまで考えるとなんだか恐ろしい気持ちになってくるので、蓋をして気づかなかったふりをしよう。)

 

 そして、思い出について語る場合、抽象的で公約数的な言葉を並べるよりは、より具体的で個人的な言葉を尽くした方が、イメージが喚起されやすいのではないか。

 たとえば、夕暮れ、下町、商店街、と曖昧な単語を並べることによって、それらの単語に染み込んだイメージを想起することはできる。その場合、自分の知っている夕暮れ像、下町像、商店街像を手繰り寄せてぼんやりした全体像を形作ることになる。

 でも、そうではなく、2018年10月7日の夕方5時ごろの西日暮里の谷中よみせ通り、と具体的な情報を並び立てたほうが伝わるものが多いのではないかと思う。それは言い換えれば、思い出の輪郭を整えるということである。輪郭をできる限り確定させていく。受け手が谷中よみせ通りのことを知っている場合には、もちろん受け取る情報量がけた違いになる。知らない場合にすら効果があるだろう。知っているか知らないかが問題にならない場合も多い。架空の地名が出てくることもあるのだから。

 そうやって言葉を尽くしていくのは、書き手の側からしても大事なことだ。物語世界を丁寧に作り、その中に暮らす人々を息づかせる。細かければ細かいほうがいい、と100%言い切ることはできないけれど、そうである場合は確かに多い。言霊的な発想かもしれないし、「神は細部に宿る」的な発想かもしれないけれど、とにかくそういう気がしている。

 小説中で主人公が聴いている曲の名前がやたらと出てきたりするのも、なにもかっこつけているわけではなくて、細部を尽くすということなんだと思う。中学生の僕に言ってあげたいな。

 

 最近読んだうちだと、ミランダ・ジュライの短編集『いちばんここに似合う人』に収録された「何も必要としない何か」という、女の子二人が一緒に暮らそうとする話にとてもいい描写が出てきた。二人が喧嘩して、片方が出て行ってしまったとき、もう片方の女の子はお湯を張った浴槽に片足だけ突っ込んで、(あの子が帰ってくるまでここで私がこうして真っ裸で固まっていたら、あの子なんて思うかな、なんとも思わないかもしれないな)と考える。とても具体的で奇妙な描写だけれど、だからこそ共感を生む。

 

 言葉を尽くすことは重要だ。

 一方で、文章では何とでも書けるけれど、何も伝えることができないのかもしれない、とも思う。少なくとも、ある種の事柄に関しては。

 たとえば、無限、とか。ボルヘスの『エル・アレフ』という短編集の表題作「エル・アレフ」の中に、とっても面白いことを言っている箇所があった。エル・アレフというのは古今東西の世界のすべてを映し出す2,3センチほどの虹色の球体だ。世界のすべて(=無限)がわずか2,3センチほどの球体の中に実物大で映し出されているということについて、ボルヘスは文章で描写することの不可能性を語る。たしかに、「世界のすべてがわずか2,3センチほどの球体の中に実物大で映し出されている」と文字でつらつら書くことはできるし、それを読んで僕らはかなりぼんやりとイメージすることはできるけれど、しかしこのイメージというのは、あくまで、なんとなく、に留まる。「世界のすべてがわずか2,3センチほどの球体の中に実物大で映し出されている」って、実際にはどういうことなの、と聞かれたら僕らは黙りこくるしかない。エル・アレフがどういうものなのかは実際に目にした人にしかわからない。無限ということを文章で表現すること自体は可能かもしれないけれど、それに実感を伴わせるということは不可能なのだ。

 

 でも、すべての非現実的なものが実感を伴った文章で表現できない、ということはない。

 いま僕らがいる世界を(異論はあるだろうけれど)“最も現実的な世界”、無限を“最も非現実的な世界”とした軸を考えると、僕らはどこまでならば実感を伴った文章を書けるのだろうか。『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハリー・ポッター』の世界は僕らにとって実感を伴っていないのだろうか。

 少なくとも『ハリー・ポッター』の方には学園ものという側面があって、恋だとか、ライバルだとか、親子だとか、いろんな点で僕らの世界と繋がっている。そうやって“最も現実的な世界”にしっかり足をつけて共感を得たうえで、魔法の世界を語る。

 でも、ここからが不思議なのだけれど、実は僕らは、僕らの世界とつながっていないはずの部分、ようするに魔法の世界についても、ある程度の実感を伴ってイメージできる。僕らは9と3/4番線のホームに突っ込むときのドキドキ感や、はじめて自分の守護霊を呼び出すことができたときの全身そばだつ感覚や、空飛ぶ箒でとんでもなく高いところまで昇ってしまったときの手汗を思い出すことができる。

 なぜなら僕らはそれらを見たことがあるから。

 『ハリー・ポッター』シリーズを読み進めていくにあたって映画版の果たした役割はとてつもなく大きかった。たしか僕が小学校低学年のときに『賢者の石』の翻訳を読んで、そのちょっとあとに映画版が出て、以降、小説版と映画版がだいたい交互に発表されていった。かなり素晴らしい映画化だったと思っている。文字で読んだ魔法の世界がスクリーンで再現されていることに感極まったし、反対に、映画で目にしたイメージを小説に持ち込んで読み進めた。小説版と映画版が相互にイメージを補完し、想像をかきたてた。小説の描写に具体的な映像イメージを重ねることで、僕は魔法の世界をも実感することができるようになった。

 

 文章で表現されているイメージを映画や映像や写真や広告によって補完するということを、僕らはいくらでも行ってきた。意識的にも、無意識のうちにも。なにもファンタジーの世界だけがその対象ではない。補完は“最も現実的な世界”にまで及んでいる。さっきの『エドウィン・マルハウス』中の40~50年代アメリカの姿だっておそらく映画かなにかで目にしたものだろうし、青森の雪景色だって、僕らはすでにJRの広告やらなにやらを通していくらでも目にしている。補完なしに実感はない。

 できるだけ具体的に書いて輪郭を整えるということだって、要するに補完しやすい環境を作るということなのだろう。

 補完の材料もどんどん増えてきている。アニメーションは実写では表現しきれない世界を描くことができるし、VRやARがもっと一般化したら、実感が伴う領域はとんでもなく増大するんじゃないかと思う。技術の進歩によって文章の可能性も拡がる。10年後にはどんな文章が生まれているのだろう。

 

*****

 

 この前、こんな文章を書いた。

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 はっきり言ってしまうのはなんだかさみしい気もするけれど、これはフィクションだ。実際に目にした光景や、最近考えていたことを練り込んだつもりではあるけれど、しかし紛れもなくフィクションだ。

 この文章で実践したかったことはいくつかある。

 

  ・伝記文学のようなものを書く

  ・架空の曲のイメージを喚起する

  ・思い出を喚起する

 

 まず、伝記文学のようなもの、について。

 まったくの架空の人物や作品について語っている伝記文学が面白い、ということは去年くらいから感じていた。架空の何かについて、それが実際に存在する/したかのような重量感を伴って、つらつら書き連ねる。それはなにも伝記文学だけでなく、物語全般に言える特徴なのかもしれないけれど、しかし伝記文学には特に濃厚な狂気を感じてしまうのだ。いや、でもこれって全部嘘なんでしょ、とでも言おうものなら、真顔で「何を言っているんですか、すべて実際に存在しますよ」と返してきそうな、生真面目な狂気。

 今回特に意識したのは、ロベルト・ボラーニョの『アメリカ大陸のナチ文学』やさっきの『エドウィン・マルハウス』のように、理知的な文章の隙間から語り手のエモーションが漏れ出してくるような作品だ。というか、そもそもあんまり読んだことがないので、たまたま読んだことがあったそれらしか参照できなかった。他にいい作品があったら教えてください。

 形式については、ライナーノーツなんてイマ風で良さそうだな、と思った。当初は、知人によるライナーノーツにして、『エドウィン・マルハウス』のように語り手から語られる対象への愛憎が見え隠れするような文章にしたいなあ、なんて考えていた。けれど、僕の現在の力量的にキビしそうだと感じたので、結局セルフライナーノーツにした。客観性を保ちたいのにどうしても主観が混ざってしまっている文章、というものを意識的に書くのは、たぶん結構困難なことなのだ。それよりは、すべて主観によるセルフライナーノーツの方がちょっとは書きやすそうだった。というわけでセルフライナーノーツ。「制作まで」「各曲コメント」「制作後」の3章立てにして、時系列に沿って語っていった。

 各曲のタイトルについては、ちょうどよく聴いてきた折坂悠太の『平成』っぽさが出てしまった。ジャケットのデザインはそんなにじっくり考えたわけではないけれど、何となく風通しがいいような、BROCKHAMPTONのシングル“1999 WILDFIRE”のジャケットのようなイメージで作った。

 というわけで、この「伝記文学のようなものを書く」という点については、少なくとも形式の上ではうまくいったと思う。

 

 架空の曲のイメージを喚起することについて。

 ありもしない楽曲についてライナーノーツのみからどんな曲なのかイメージができたら面白そうだなと思った。具体的なメロディや歌詞の一言一句までイメージすることはいくらなんでもできないだろうけれど、たとえば、ああ、あの曲っぽい感じかな、みたいに、サウンドの全体的な印象が喚起できればとてもいいな、と。

 でも、この点に関しては大きな障壁があった。僕には音楽的な知識がほとんどないのだ。ドリームポップっぽく、とか、ローリング・ストーンズの“Sway”っぽく、みたいな曖昧なことは書けるけれど、コード進行やエフェクターやトラックメイキングの話になるとさっぱりダメだ。そうなるともはや音楽的な話を書くのはあきらめて、制作風景の描写に専念した方がよさそうだった。実際、「各曲コメント」においても音楽的な話はほとんどしていない。でも、これはこれで“そういう面白さ”が生まれるかなと思ったので別にいいや。

 いちおう申し訳程度に、制作にあたって参照した曲のプレイリストを付けておいたけれど、これで各曲のイメージが喚起されるとは言い難い。なので、この点に関しては失敗。

 

 思い出を喚起することについて。

 言葉を尽くすことで思い出を喚起するというのは、上の文章でも言ってきたことだけれど、実践となると話しが違う。なにごとも理論と実践では話がまったく違う、というのは有名だ。

 いくつかの箇所ではそれなりにうまく書けたはずだけれど、いくつかの箇所では失敗している。難しいっすね……

日記(8月19日)

 晴れ。涼しめ。

 

 このところスティーヴン・ミルハウザーさんの『エドウィン・マルハウス』(河出文庫)を読み進めている。

 少年が少年のことを語る伝記文学であるというところ。語られる対象であるエドウィン少年ではなく、むしろ語り手であるジェフリー少年の異様さこそが徐々に立ち現れてくるところ。そういう、物語の骨格に近い部分だけでもゾクゾクさせられるけれど、それを上回って毎シーン毎シーン染みてくるのは、少年の目から見た世界の姿だ。雪の降った次の日に輝くつららの美しさや、自分の家が見えなくなるところまで遊びに行ったときの不安と興奮や、身の回りに文字や数字が溢れていると気づいたときの居ても立ってもいられなさを、ジェフリー少年はとんでもなく緻密な筆致で捉える。ジェフリー少年が「ずば抜けた神がかり的なまでの記憶力のよさ」(p.34)によって語る風景の一つ一つを、僕は手触りを伴ったものとしては忘れてしまっているけれど、それでもたしかに思い出すことができる。アメリカの広い芝生の庭で回るスプリンクラーなんて触れたことがないのに、僕はあの意外な冷たさを思い出すことができる。

 「共感」と「驚異」によって物語は進む、っていうお馴染みの話を持ち出して言うなら、こんなに細部にまで緻密な共感を染み渡らせつつ、全体としてはとんでもない驚異の地平にまで連れていく物語というのは、ちょっとなかなか、他には思いつかない。まだ半分も読み終わっていないのにこんなことを言ってしまうのは大袈裟に過ぎるかもしれないけど、でも間違いなく、チョーすごい小説だ。岸本佐知子さんの翻訳も素晴らしい。全員読んでください。

 

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 ジェフリー少年の美しい描写に中てられて、思わず地元をサイクリングした。

 一昨日、髪を切りに行った帰りにもちょっとサイクリングしたし、今日もまたやってしまった。もうとっくにしゃぶりつくしたと思っていた地元にも、まだまだ風味が残っている。肌をかすめる涼しい空気がジトッと湿りはじめないくらいのスピードで走る。太陽は雲の向こうに、まだそれなりの高さを保っている。一昨日、夕暮れも終わる頃に通ってストレンジャー・シングスみたいだなと思った道は、明るい時間に見るときちんと舗装されていて、ちょっと辿っていくと、謎の研究所ではなくゴルフ場に続いている。そりゃまあ、そうだろうとは思っていたけれど、しかしなあ、確かめなけりゃよかった。

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 はじめて出会う道に対して、僕はなにがしかの期待を持ってしまう。「道」という名のついた原風景みたいなものを集めたファイルから、どれか一枚イメージを引っ張り出してきて、両手にしっかり持ち、心なしか足早に進む。ああいう感じだったらいいな、と勝手に想像を巡らせて、しかしほとんどの場合それは良かれ悪かれ裏切られる。想像通りの風景が広がっていることはほとんどない。まあまあ散歩して経験を積んでいるはずなのに、いつまで経っても適切なイメージを用意できない。そもそもそんな余計な期待をせずに歩けばいいのだけれど、これは軽度の呪いのようなものなので、そうはいかない。まあ、だいたい良い方向に裏切られるのでいいんですが。

 

 でもたまに、なんとなくこの先は確かめたくないな、と思うことがある。ものすごいいいイメージが描けてどうしてもそれを手放したくないだとか、どうしようもなくショボい道だったら嫌だとかっていうわけではないのだけれど、しかしなんとなく確かめたくない道がある。そういうとき、僕は確かめないままにする。その道の先を、いつまでも残しておく。

 子どものころからそう感じていて、実際にまだ一度も確かめたことのない道が、母方の祖父母の家の近くにある。僕は祖父母の家からほど近い幼稚園に通っていたし、今でもよく祖父母のところへは行くので、ちびっ子だった当時から現在に至るまで、もう何百回と目にした曲がり角だ。

 古くから並ぶ住宅街の狭い道路が二手に分かれる角。右に折れると幼稚園へと向かう、何度となく歩いた道だ。左には行ったことがない。ちびっ子の僕は幼心に、あっち側の先には何があるのかな、海かな、ジャングルかな、おしゃれ都市かな、めっちゃでっかい家かな、といろんな可能性に思いを巡らせながら、常に右の道へと曲がった。キリスト教系の幼稚園だったことも手伝ってか、左に進んだ先には、金色の光が降り注ぐ空間があるような、光り輝く何かが降臨しているようなイメージを持っていた。小学生になり、学年が上がり、海やジャングルは地理的にあり得ない、ということはわかってきたけれど、それでも光り輝く空間のイメージは残り、そんなに気になるならいいかげん確かめに行っちゃうっていうのはどうかな、という迷いもありつつ、しかし妙な頑固さが僕を左の道から遠ざけ、ふてくされてばかりの10代を過ぎ分別もついて齢をとり、おそらくこのまま光り輝く空間のイメージを抱き続け、結局左の道には行かず、そしていつか死ぬ。

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