バナナ茶漬けの味

東京でバナナの研究をしています

壮大なこと

「たとえば今、こうやって2人で電車に揺られているじゃん。僕は右手、君は左手で吊革につかまって立っている。目の前には池田エライザがとっても健康的な格好で写った広告があって、そこからちょっと右に目を移せば、窓の外にはいかにも山手線沿いらしい景色が流れている。いかにもハイソな百貨店や高層マンションが立ち並んでいるかと思えば、黄色い飲み屋街があり、すべて溶けきってしまったみたいなアスファルトの舗道があり、学習塾があり、煤に汚れた雑居ビルがあり、蔦に締め付けられてひび割れてしまった一軒家がある。そういう景色とともに、殺人鬼のような7月の太陽が差し込んできているけれど、もちろん紫外線はカットされている。車内に目を戻して左右を見回せば、紫、白、青、緑、橙、黄、赤、黒、世界のありとあらゆる色を使った中吊り広告が冷房にはためいている。ほら、今週も誰かに疑惑がかけられているし、誰かの過去のほんの小さな失態が大々的に暴かれている。ほら、あの発泡酒はたぶんそれなりにおいしいんだろう。あれはたぶん生き方指南書みたいなものだろう。夏のチークはあれで決まりだ。そしてそこからちょっと視線を下げれば、乗客のみんなだ。じいさん、ばあさん、中学生、大学生、サラリーマン、観光客、にいちゃん、ねえちゃん、4人家族、こわい人たち、よくわからない人たち。趣向もかかっているお金もてんでバラバラだけど、とにかくみんな服を着ている。僕はユニクロのTシャツにユニクロのジーンズ、ユニクロ・オン・ユニクロだ。もちろんパンツも履いている。君はよくわからないブランドのTシャツによくわからないブランドのハーフパンツだ。そして2人ともおかしなことにビーサンを履いている。君は赤いゴムの髪留めもしている。それで、何がすごいかって、いま列挙してきたすべてのものに数人、数十人、場合によっては数百、数千もの人たちが携わっているってことなんだ。吊革も、広告も、百貨店も、マンションも、飲み屋も、アスファルトの舗道も、学習塾も、雑居ビルも、一軒家も、紫外線をカットする窓ガラスも、中吊り広告とそこで紹介されているものも、乗客のみんなも、みんなの服も、僕らのまだちょっと早いビーチサンダルも、君のその髪留めも、そのほか列挙しきれなかったあらゆるものも、それぞれの関係者たちが携わってできた成果だ。それらが発表会のようにこうして山手線の1両目に集まり、そして君がいて、僕がいる。こういうことって、すごく壮大だと思わない?」と僕は言った。

「でもそれって、要するにどういうこと?」と彼女が言った。

「わからない」、僕は肩をすくめた。

 その夜、僕は彼女と寝た。

エレベーターにおける問題

こに行こうとしていたのか覚えていないが僕はエレベーターに乗っていた。なにしろエレベーターだ、おそらく上か下に行こうとしていたのだろう。たとえば、地下2階で乗って最上階まで行こうとしていたのではないだろうか。朝、僕が地下2階で乗ったとき、エレベーターには他に誰も乗っていなかった。床から壁までピカピカの室内はまるでキリスト教の大聖堂のよう。階数を表すバロック調のボタンや天井から僕を照らすドイツ製のライトやなんかが神聖な雰囲気を盛り立てる。地下1階で乗り込んできたのは聖歌隊だ。そろいもそろってブロンドのヘアーにライトブルーの瞳を持った少年少女たちが30人ほど入ってきて、大聖堂に清廉潔白な歌声を響かせた。僕はエレベーターの奥の方まで押し込まれてしまった上に、聖歌を歌えないのでなんとなく背中を丸めて存在感を消した。地上1階まで来ると、なにやらそれぞれに上の階に用事があるマダムたちが50人ほどどかどかと乗り込んでくる。彼女たちは身体の5倍もあるようなモフモフのファーコートの中からちょこんと顔をのぞかせて、ディオールやらシャネルやらイヴ・サンローランやらの香水を漂わせてきた。強烈な香りに少年少女たちは次々に失神してしまい、聖歌を歌う声もまばらになった。僕はというとますますエレベーターの奥の方に押し込まれて、顔に押し付けられたファーコートの隙間からなんとか呼吸していた。2階や3階になるとビジネスマンたちがカツカツ乗り込んでくる。ちょうどラッシュアワーだ、1万人ものビジネスマンが帝国軍のストームトゥルーパーのように整然と並んで入場してきた。彼らは一人残らず身長が2メートル近くあったし、一人を除いてタバコを吸っていた。残りの一人はかわいそうにどこかで中学生に襲われてしまったのだろう、真っ裸だった。エレベーター内にはあっという間にタバコの煙が充満して、聖歌隊の少年少女たちはとうとう全員気を失ってしまった。ファーコートのマダムたちは微動だにしない。おそらく元々呼吸ができていなかったのだろう。僕はというと、エレベーターの隅っこで江戸川コナンくらいのサイズまで縮こまって息を止めていた。4階や5階では外国人旅行客の集団が乗り込んでくる。彼らはタバコの煙に顔をしかめ、「オー」とか「クール」とか言いながら写真を撮っていた。はしゃぎ声とシャッター音のコーラスはさながら現代の聖歌。彼らは2万人近くいた。それだけでも十分多いのに一人あたり2個の巨大旅行トランクを引いていて、僕や少年少女やマダムやビジネスマンを圧迫した。タバコの煙が旅行トランクの中まで忍び込んで、秋葉原で爆買いした電子レンジやらエアコンやら冷蔵庫やらが次々と爆発を起こした。ポン。ポン。ポン。ポン。エレベーター内はすっかり焼け野原になってしまった。僕も、爆発音で目を覚ました少年少女らも、ディオールやらシャネルやらイヴ・サンローランやらの香りが懐かしくなったが、当のマダムたちはどこへ行ってしまったのか、ファーのみが散乱している。焼け野原と化したエレベーターは上昇を続ける。各階で何万人もの人々が乗り込んでくる。不思議なことにみんな最上階に用事があるみたいで途中階では誰も降りなかった。日が暮れる頃ようやく最上階に到着したエレベーターには100万人もの人々が乗っていた。ドアが開くと同時に、アルプス山脈の全領域で雪崩が起きたみたいな勢いで人が押し出されていく。一人あたり2個の巨大な黒い炭を引きずる外国人観光客の集団。誰一人として傷一つ負っていない屈強なビジネスマンたち。押しつぶされてマリモサイズになってしまったマダムたち。さらに圧迫されてキュビスムの絵画のようになってしまった聖歌隊の少年少女たち。そして僕はというと、マリモやキュビスムの絵画に囲まれ奇跡的に守られて、無傷でエレベーターの隅っこに丸まっていた。無傷だとは言ってもあの大混雑だ、僕は空豆ほどのサイズにまで圧縮されてしまっていた。エレベーターのドア付近の方から順々に出て行って、最初から乗っていた僕や少年少女たちがようやく出られたのは次の日の朝のことだった。やれやれ、これだからエレベーターはいやなんだ。僕は聖歌隊30人ひとりひとりと握手を交わしてから、ほんのささいな用事を済ますべくその場を去った。

僕がジョン・レノンをはじめてカッコいいと思ったときのこと

 2000年、ビートルズのベスト・アルバム『1』が発売され、瞬く間に大ヒットした。日本国内だけでも20億枚も売れたというのだから、ビートルズ人気は本物だ。

 2000年というのは実に懐古趣味な数字だ。モーニング娘。だとか、プレイステーション2だとか、そういう年。当時僕は6歳で、右足の次に左足を出せば歩けるのだということ、そして、股ぐらに何か付いている人もいれば何も付いていない人もいるのだということを、ようやく覚えたくらいの時期だった。とにかく毎日小学校に通って、支え棒にくるくる絡まって上に伸びていく馬鹿正直なアサガオに馬鹿みたいに水をやっていた。僕のアサガオは人並みに咲いて人並みに枯れてしまった。

 さて、僕の両親ももちろん『1』を買って、リビングでひもすがら流していた。僕は当時大変な読書家だったので、夕方小学校から帰ってくるとリビングに居座って一日3000冊もの児童書をパラパラとめくった。僕が膨大な児童書と向き合っている間にも当然ビートルズの『1』がバック・グラウンド・ミュージックとして流れていた。僕は「いやいや園」や「エルマーの冒険」や「ナルニア国物語」をパラパラしながら、ジョンとポールと(たまの)ジョージと(たまの)リンゴの声に耳を傾けた。「ラヴ・ミー・ドゥ」に始まり、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」で閉じる。ビートルズの有名曲をリリース順に並べただけのアルバムなのだが当然すべて名曲だ。6歳の僕は「シー・ラヴズ・ユー」や「ペニー・レイン」や「イエロー・サブマリン」がお気に入りで、子供ながらに「ラヴ・ミー・ドゥ」はちょっぴり呑気すぎやしないかなと感じていた。でもまあ、とにかくいい曲を作るおじさんたちだ。この時期に僕の中でビートルズ愛の基礎工事が完了した。

 

 話は僕が中学生になったくらいの時期まで進む。「シー・ラヴズ・ユー・イェイ・イェイ・イェイ」や「ウィ・オール・リヴズ・イン・ザ・イエロー・サブマリン」と楽しそうに歌っているのを聞くのも良いけれど、「レット・イット・ビー」のギター・ソロに浸りたいと僕の中のロックが目を出し始める時期。そして、僕の中の小さな言語世界に黒船が襲来した時期。

 英語を習い始めたことで、ビートルズを歌詞付きで歌えるようになったのだ。僕は慣れ親しんできた曲たちを、めちゃくちゃな発音で口ずさんだ。「アワナホーリョーヘーエーエーンズ、アワナホーリョーヘンズ」、「シーズガラティケトゥラアイ、シーズガラティケトゥラアッアッアイ」、「ヘイジュードンメイキッバッ」、……。そんな僕にどうしてもうまく歌えない曲があった。「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」。結局愛だよ、とジョンが歌うこの曲の、いわゆるAメロが僕にはどうしてもうまく歌えなかった。「ゼアズ・ナッシング・ユー・キャン・ドゥ・ザット・キャント・ビー・ダン」、「ナッシング・ユー・キャン・シング・ザット・キャント・ビー・サング」「ナッシング・ユー・キャン・セイ・バット・ユー・キャン・ラーン・ハウ・トゥ・プレイ・ザ・ゲーム」、「イッツ・イージー」と歌うジョン・レノン。「ゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョ、イッツ・イージー」と歌う僕。ジョン・レノンがどうして発音できているのか全くわからなかった。マジシャンだ。このとき、僕はジョン・レノンをはじめてカッコいいと思ったのだ。彼はそれまで、僕の中の「いい曲を作る人」カテゴリーにはいたけれど、「カッコいい人」カテゴリーには入っていなかった。なんだジョン、いい曲を作るってだけじゃなくて、カッコいいのか! それで、今はどうしているんだい?

 彼は1980年の冬に殺されていた。動機は嫉妬に違いない。

悲劇について

 今回はとっても悲しい話をしようと思います。

 

 僕はとっても悲しいことに気が付いてしまったのです。それは世界中でコモンに起きている出来事でもあるし、一方で当事者ひとりひとりにとっては存在が揺らぐほどキビシイ話でもあるはずです。ダイエットについての話です。

 では、僕の気付いた悲劇について、OLを例にとって説明してみますね。なんでOLかって、OLで説明するのが一番わかりやすいからです。だって彼女たちはダイエットの生き物でしょう。

 一般的にOLはダイエットをしますね。彼女たちがダイエットをする動機はいくらでもあると思います。それらについてここで詳しく触れることはしません。いずれにせよ彼女らはある日、それぞれの動機でダイエットを始めるわけです。彼女は部屋のカレンダーに『ダイエット開始‼』と書き込んでみたり、池袋のパルコにワンサイズ細いデニムを見に行ってみたりすることでしょう。あら、今のアタシにはやっぱりちょっと細すぎだわ。3か月後のアタシはどうなっているのかな? 半年後はどうかしら? ほっそりしたデニムを履いて、ほっそりした顔で笑えているのかな? OLの心は痛快ウキウキ通りを歩きます。

 ああ、ここに落とし穴があります。いま、彼女の頭にはダイエットが成功するイメージしかありません。女子高生だったあの頃のような『アタシ無敵じゃん?』感。彼女は忘れているのです、ダイエットには失敗もあり得るということを。

 もちろん誰も最初から失敗すると思ってダイエットを始めるわけではないでしょう。でもそうやって張り切って始めた人々の何割かは失敗してしまう。ここに悲劇があります。世界では/日本では/井の頭線沿いにある5階建てマンションの一室では、一日に/いまこの瞬間にも、一人の/何千人もの/何万という数のOLがダイエットに失敗しているのです。

 ほら、また一人失敗した……

 成功か失敗か、って言うと五分五分のような気がするけれども、ダイエットなんてだいたい失敗するでしょう。そもそもがフェアな勝負ではないわけです。意志の強弱なんて関係ありません。ほんの一握りの成功するOLは最初の瞬間から勝利への階段に足を掛けているし、多くの失敗するOLの前にはそんな階段なんてハナから設置されていないわけです。電車だって、乗ってしまえば次の駅に着くまで降りられませんよね。それと一緒です。OLが階段を駆け上がって閉まりかけのドアをこじ開けなんとか乗ることができた電車はなんと「失敗」行き。窓に手をついて、向かいのホームから発車する「成功」行きの電車をただただ見送ることしかできません。

 もちろん僕はダイエットという営為そのものを否定するのではありません。ダイエットに成功したOLにはおめでとうと言いたいです。彼女らはすごく頑張ったし、その努力に見合うだけの結果が得られたのだから。でも実際、多くのダイエットは失敗します。誰もが成功を夢見てはじめるのに。ダイエットは悲劇を内包しているのです。

 

 

 

「多くのダイエットがアタシを通過していったわ――」タバコ片手にOLは言うでしょう。「バナナダイエット、座布団ダイエット、炭水化物抜きダイエット、豆腐ダイエット、昼抜きダイエット、一日4食ダイエット、……色々やった。苦手な納豆だって食べた。レディオヘッドだって聴いたわ。でも、どれも効果が出る前にやめてしまったの。わかってる。続けてれば何か変わったかもしれないよね。でも、アタシには無理だった」

「ジョギングなんてどうだろう?」

「ええ、ジョギング。試したわ。でも、駄目ね」

「そうか」

 3月のある晴れた夜。僕とOLは太平洋を臨む砂浜にマツダの中型車を停めて、月の光をキラキラ反射させる海面に目を細めながら、静かに語り合います。何か探るように出す2人の声が、さざ波に溶けていきます。

「ジョギングはね、キツい」

「まあそうだよね。ジョギングは息が切れる。仕方ない」

「納豆はね、ネバネバしてる上に臭いっていう二重苦が、どうしても受け入れられなかったわ。レディオヘッドは好みじゃない」

「だよね。納豆はネバつくし臭い。最悪だ。レディオヘッドは暗いもんね。仕方ない」

「アタシ、変われないのかな」

「君は変わらないよ。変わる必要なんてない」

 

 

 

 ……そうなんです。多くのOLは変わる必要なんてないんです。ダイエットなんてしたって、どうせ失敗するじゃないですか。なんでそんな悲劇に自ら身を投じなくちゃいけないんですか? OLの皆さん、ダイエット、やめましょうよ。

 それでは今回はこの曲を聴きながらお別れしましょう。ビリー・ジョエルで、「ジャスト・ザ・ウェイ・ユー・アー」。おやすみなさい。

スリッパ

 ここ数年間というもの、僕ら一家は、冬を迎えるたびに家族全員で中型のマツダ車に乗り込んで、沼沿いのユニクロに行き、厳しい3、4か月を越すためのスリッパを買い占めていた。僕ら一家は4人構成だったが、なにぶん田舎のユニクロなもんだから、僕らが4対のスリッパを買ってしまうともう在庫がなくなってしまうのが毎年のことだった。

 

「ええ、スリッパですがねえ、ついさっき4人家族のお客さんがいらして全部買い占めていかれたんですよ、ええ4対、ええ、来年まで入荷の予定はございません、なにぶん、田舎の、沼沿いのユニクロですからねえ」

 

 そんな田舎の沼沿いのユニクロも去年の秋頃、よくわからない田舎の沼沿いのステーキ屋に変わってしまった。

 

 沼沿いのユニクロがなくなってしまったことで僕ら一家はもっと遠くまでスリッパを買いに行かなければならなくなったが、実はなんてことなく、ユニクロはどこにでも存在した。ユニクロは電車で2駅行ったところの駅ビルに入っていたし、僕らの家からちょっと行ったところにはイオンもあった(確かめたことはないけれどイオンにはユニクロは必ず存在するだろう)。それにそもそも最近はユニクロのオンラインショップもあるので、駅ビルのユニクロやイオンにあるはずのユニクロなんかに行かずとも、暖かい家の中でポチポチやれば、次の日にはクロネコヤマトかなにかが家まで持ってきてくれるのだった。おかしな話だが、オンラインショップでは在庫切れということは起こらない。たぶんインターネット回線上のどこかに月ぐらい巨大な倉庫が存在して、1千万対ものギラギラしたスリッパが出庫を待っているのだろう。

 

 とにかく去年も、冬がいよいよ正体を現す前の11月のある日、僕ら一家はオンラインショップでポチポチやって、次の日にはクロネコヤマトに乗せられた4対のスリッパが我が家に到着した。

 別に特筆するほどのイベントではない。スリッパを買うのは毎年のことだった。

 そして、僕とスリッパとの間に「おじさんのかさ」的関係が発生するのも、また毎年のことだった(「おじさんのかさ」の説明は省いていいだろう。小学一年生の国語の教科書に載っているような、一人のおじさんと一本の美しい傘の話だ)。要するに、履きつぶしてスリッパ的ふわふわ感が失われてしまったり、世界の終わりみたいな臭いがついてしまったりというようなことが嫌で、僕はあんまりスリッパを履くことができないのだ。足元がちょっと冷える程度だったら我慢するし、一日中荒野をさまよったような日に、帰ってきてから履くなんてことはモッテノホカだ。

 

 ユニクロのスリッパはそれなりに優れているものの、だいたいワンシーズン履きつくすとつぶれるようになっている。毎年春を迎える頃には父や弟のスリッパはいい感じに潰れているが、僕のスリッパはビンビンのままである。スピッツの「春の歌」がラジオで盛んにかかるようになると、冬眠から目覚めた足がスリッパを拒否し始める。そうなるともうお別れだ。僕ら一家の4対のスリッパはゴミに出される。父や弟のペタペタになったスリッパも僕のビンビンのスリッパも一様にゴミに出されてしまう。が、クリーンセンターできっと僕のビンビンのスリッパだけ選り分けられて、群馬か栃木あたりに再出荷されているに違いない。