日記(最近)

 夏前くらいからいくつかの小説を読んで思っていたことがあるので、メモを残しておきたいです。世の中の文章は実感を伴ったものと実感を伴わないものに分けられるような気がしますが、今回は実感を伴った文章についてです。実感を伴わない文章ももちろん素晴らしいですが。

 

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 文章には、自分が体験していない思い出のことさえ思い出させる力がある。

 

 前の日記で触れたスティーヴン・ミルハウザーの『エドウィン・マルハウス』という小説は、まさしく僕の体験していない思い出の宝庫だった。あの小説で描かれているのは1940~50年代のアメリカの郊外に住む少年少女の思い出だけれど、僕は廃園になった遊園地の姿をありありと思い出すことができたし、町はずれの鬱蒼とした森の中に立つあの怖い家が燃えていたときのことだって思い出すことができる。

 もうちょっと僕らに近い話で言うと、Aマッソの加納さんがWebちくまで連載しているエッセイの9月号がすごく良かった。

www.webchikuma.jp

 これは青森で中学時代を過ごしたときの思い出についての話だけれど、千葉県に生まれ一面の雪景色なんてそうそう見たことのない僕にも全部思い出せる。ああ、翔太ってやつ、そういえばいたなあ。

 

 ポイントは、どちらもフィクションであるということだ。

 『エドウィン・マルハウス』のほうは、作者のスティーヴン・ミルハウザーと作中のエドウィン・マルハウスが同じ年生まれになっていることもあって、作中で語られる無数の思い出のいくらかはおそらく実際の出来事を参考にしているのだろうと思うけれど、加納さんが青森で過ごした中学時代はまったくのでっちあげだ。

 自らも体験していない思い出について語り(/騙り)、それを読んだ側も見ず知らずの思い出を懐かしむ。これって実はすごいことなんじゃないか。

(このすごさは何も思い出について書かれた文章に限らず、フィクション全体、ひいては語るという行為全体に関わるもののような気がしているけれど、そこまで考えるとなんだか恐ろしい気持ちになってくるので、蓋をして気づかなかったふりをしよう。)

 

 そして、思い出について語る場合、抽象的で公約数的な言葉を並べるよりは、より具体的で個人的な言葉を尽くした方が、イメージが喚起されやすいのではないか。

 たとえば、夕暮れ、下町、商店街、と曖昧な単語を並べることによって、それらの単語に染み込んだイメージを想起することはできる。その場合、自分の知っている夕暮れ像、下町像、商店街像を手繰り寄せてぼんやりした全体像を形作ることになる。

 でも、そうではなく、2018年10月7日の夕方5時ごろの西日暮里の谷中よみせ通り、と具体的な情報を並び立てたほうが伝わるものが多いのではないかと思う。それは言い換えれば、思い出の輪郭を整えるということである。輪郭をできる限り確定させていく。受け手が谷中よみせ通りのことを知っている場合には、もちろん受け取る情報量がけた違いになる。知らない場合にすら効果があるだろう。知っているか知らないかが問題にならない場合も多い。架空の地名が出てくることもあるのだから。

 そうやって言葉を尽くしていくのは、書き手の側からしても大事なことだ。物語世界を丁寧に作り、その中に暮らす人々を息づかせる。細かければ細かいほうがいい、と100%言い切ることはできないけれど、そうである場合は確かに多い。言霊的な発想かもしれないし、「神は細部に宿る」的な発想かもしれないけれど、とにかくそういう気がしている。

 小説中で主人公が聴いている曲の名前がやたらと出てきたりするのも、なにもかっこつけているわけではなくて、細部を尽くすということなんだと思う。中学生の僕に言ってあげたいな。

 

 最近読んだうちだと、ミランダ・ジュライの短編集『いちばんここに似合う人』に収録された「何も必要としない何か」という、女の子二人が一緒に暮らそうとする話にとてもいい描写が出てきた。二人が喧嘩して、片方が出て行ってしまったとき、もう片方の女の子はお湯を張った浴槽に片足だけ突っ込んで、(あの子が帰ってくるまでここで私がこうして真っ裸で固まっていたら、あの子なんて思うかな、なんとも思わないかもしれないな)と考える。とても具体的で奇妙な描写だけれど、だからこそ共感を生む。

 

 言葉を尽くすことは重要だ。

 一方で、文章では何とでも書けるけれど、何も伝えることができないのかもしれない、とも思う。少なくとも、ある種の事柄に関しては。

 たとえば、無限、とか。ボルヘスの『エル・アレフ』という短編集の表題作「エル・アレフ」の中に、とっても面白いことを言っている箇所があった。エル・アレフというのは古今東西の世界のすべてを映し出す2,3センチほどの虹色の球体だ。世界のすべて(=無限)がわずか2,3センチほどの球体の中に実物大で映し出されているということについて、ボルヘスは文章で描写することの不可能性を語る。たしかに、「世界のすべてがわずか2,3センチほどの球体の中に実物大で映し出されている」と文字でつらつら書くことはできるし、それを読んで僕らはかなりぼんやりとイメージすることはできるけれど、しかしこのイメージというのは、あくまで、なんとなく、に留まる。「世界のすべてがわずか2,3センチほどの球体の中に実物大で映し出されている」って、実際にはどういうことなの、と聞かれたら僕らは黙りこくるしかない。エル・アレフがどういうものなのかは実際に目にした人にしかわからない。無限ということを文章で表現すること自体は可能かもしれないけれど、それに実感を伴わせるということは不可能なのだ。

 

 でも、すべての非現実的なものが実感を伴った文章で表現できない、ということはない。

 いま僕らがいる世界を(異論はあるだろうけれど)“最も現実的な世界”、無限を“最も非現実的な世界”とした軸を考えると、僕らはどこまでならば実感を伴った文章を書けるのだろうか。『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハリー・ポッター』の世界は僕らにとって実感を伴っていないのだろうか。

 少なくとも『ハリー・ポッター』の方には学園ものという側面があって、恋だとか、ライバルだとか、親子だとか、いろんな点で僕らの世界と繋がっている。そうやって“最も現実的な世界”にしっかり足をつけて共感を得たうえで、魔法の世界を語る。

 でも、ここからが不思議なのだけれど、実は僕らは、僕らの世界とつながっていないはずの部分、ようするに魔法の世界についても、ある程度の実感を伴ってイメージできる。僕らは9と3/4番線のホームに突っ込むときのドキドキ感や、はじめて自分の守護霊を呼び出すことができたときの全身そばだつ感覚や、空飛ぶ箒でとんでもなく高いところまで昇ってしまったときの手汗を思い出すことができる。

 なぜなら僕らはそれらを見たことがあるから。

 『ハリー・ポッター』シリーズを読み進めていくにあたって映画版の果たした役割はとてつもなく大きかった。たしか僕が小学校低学年のときに『賢者の石』の翻訳を読んで、そのちょっとあとに映画版が出て、以降、小説版と映画版がだいたい交互に発表されていった。かなり素晴らしい映画化だったと思っている。文字で読んだ魔法の世界がスクリーンで再現されていることに感極まったし、反対に、映画で目にしたイメージを小説に持ち込んで読み進めた。小説版と映画版が相互にイメージを補完し、想像をかきたてた。小説の描写に具体的な映像イメージを重ねることで、僕は魔法の世界をも実感することができるようになった。

 

 文章で表現されているイメージを映画や映像や写真や広告によって補完するということを、僕らはいくらでも行ってきた。意識的にも、無意識のうちにも。なにもファンタジーの世界だけがその対象ではない。補完は“最も現実的な世界”にまで及んでいる。さっきの『エドウィン・マルハウス』中の40~50年代アメリカの姿だっておそらく映画かなにかで目にしたものだろうし、青森の雪景色だって、僕らはすでにJRの広告やらなにやらを通していくらでも目にしている。補完なしに実感はない。

 できるだけ具体的に書いて輪郭を整えるということだって、要するに補完しやすい環境を作るということなのだろう。

 補完の材料もどんどん増えてきている。アニメーションは実写では表現しきれない世界を描くことができるし、VRやARがもっと一般化したら、実感が伴う領域はとんでもなく増大するんじゃないかと思う。技術の進歩によって文章の可能性も拡がる。10年後にはどんな文章が生まれているのだろう。

 

*****

 

 この前、こんな文章を書いた。

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 はっきり言ってしまうのはなんだかさみしい気もするけれど、これはフィクションだ。実際に目にした光景や、最近考えていたことを練り込んだつもりではあるけれど、しかし紛れもなくフィクションだ。

 この文章で実践したかったことはいくつかある。

 

  ・伝記文学のようなものを書く

  ・架空の曲のイメージを喚起する

  ・思い出を喚起する

 

 まず、伝記文学のようなもの、について。

 まったくの架空の人物や作品について語っている伝記文学が面白い、ということは去年くらいから感じていた。架空の何かについて、それが実際に存在する/したかのような重量感を伴って、つらつら書き連ねる。それはなにも伝記文学だけでなく、物語全般に言える特徴なのかもしれないけれど、しかし伝記文学には特に濃厚な狂気を感じてしまうのだ。いや、でもこれって全部嘘なんでしょ、とでも言おうものなら、真顔で「何を言っているんですか、すべて実際に存在しますよ」と返してきそうな、生真面目な狂気。

 今回特に意識したのは、ロベルト・ボラーニョの『アメリカ大陸のナチ文学』やさっきの『エドウィン・マルハウス』のように、理知的な文章の隙間から語り手のエモーションが漏れ出してくるような作品だ。というか、そもそもあんまり読んだことがないので、たまたま読んだことがあったそれらしか参照できなかった。他にいい作品があったら教えてください。

 形式については、ライナーノーツなんてイマ風で良さそうだな、と思った。当初は、知人によるライナーノーツにして、『エドウィン・マルハウス』のように語り手から語られる対象への愛憎が見え隠れするような文章にしたいなあ、なんて考えていた。けれど、僕の現在の力量的にキビしそうだと感じたので、結局セルフライナーノーツにした。客観性を保ちたいのにどうしても主観が混ざってしまっている文章、というものを意識的に書くのは、たぶん結構困難なことなのだ。それよりは、すべて主観によるセルフライナーノーツの方がちょっとは書きやすそうだった。というわけでセルフライナーノーツ。「制作まで」「各曲コメント」「制作後」の3章立てにして、時系列に沿って語っていった。

 各曲のタイトルについては、ちょうどよく聴いてきた折坂悠太の『平成』っぽさが出てしまった。ジャケットのデザインはそんなにじっくり考えたわけではないけれど、何となく風通しがいいような、BROCKHAMPTONのシングル“1999 WILDFIRE”のジャケットのようなイメージで作った。

 というわけで、この「伝記文学のようなものを書く」という点については、少なくとも形式の上ではうまくいったと思う。

 

 架空の曲のイメージを喚起することについて。

 ありもしない楽曲についてライナーノーツのみからどんな曲なのかイメージができたら面白そうだなと思った。具体的なメロディや歌詞の一言一句までイメージすることはいくらなんでもできないだろうけれど、たとえば、ああ、あの曲っぽい感じかな、みたいに、サウンドの全体的な印象が喚起できればとてもいいな、と。

 でも、この点に関しては大きな障壁があった。僕には音楽的な知識がほとんどないのだ。ドリームポップっぽく、とか、ローリング・ストーンズの“Sway”っぽく、みたいな曖昧なことは書けるけれど、コード進行やエフェクターやトラックメイキングの話になるとさっぱりダメだ。そうなるともはや音楽的な話を書くのはあきらめて、制作風景の描写に専念した方がよさそうだった。実際、「各曲コメント」においても音楽的な話はほとんどしていない。でも、これはこれで“そういう面白さ”が生まれるかなと思ったので別にいいや。

 いちおう申し訳程度に、制作にあたって参照した曲のプレイリストを付けておいたけれど、これで各曲のイメージが喚起されるとは言い難い。なので、この点に関しては失敗。

 

 思い出を喚起することについて。

 言葉を尽くすことで思い出を喚起するというのは、上の文章でも言ってきたことだけれど、実践となると話しが違う。なにごとも理論と実践では話がまったく違う、というのは有名だ。

 いくつかの箇所ではそれなりにうまく書けたはずだけれど、いくつかの箇所では失敗している。難しいっすね……

日記(8月19日)

 晴れ。涼しめ。

 

 このところスティーヴン・ミルハウザーさんの『エドウィン・マルハウス』(河出文庫)を読み進めている。

 少年が少年のことを語る伝記文学であるというところ。語られる対象であるエドウィン少年ではなく、むしろ語り手であるジェフリー少年の異様さこそが徐々に立ち現れてくるところ。そういう、物語の骨格に近い部分だけでもゾクゾクさせられるけれど、それを上回って毎シーン毎シーン染みてくるのは、少年の目から見た世界の姿だ。雪の降った次の日に輝くつららの美しさや、自分の家が見えなくなるところまで遊びに行ったときの不安と興奮や、身の回りに文字や数字が溢れていると気づいたときの居ても立ってもいられなさを、ジェフリー少年はとんでもなく緻密な筆致で捉える。ジェフリー少年が「ずば抜けた神がかり的なまでの記憶力のよさ」(p.34)によって語る風景の一つ一つを、僕は手触りを伴ったものとしては忘れてしまっているけれど、それでもたしかに思い出すことができる。アメリカの広い芝生の庭で回るスプリンクラーなんて触れたことがないのに、僕はあの意外な冷たさを思い出すことができる。

 「共感」と「驚異」によって物語は進む、っていうお馴染みの話を持ち出して言うなら、こんなに細部にまで緻密な共感を染み渡らせつつ、全体としてはとんでもない驚異の地平にまで連れていく物語というのは、ちょっとなかなか、他には思いつかない。まだ半分も読み終わっていないのにこんなことを言ってしまうのは大袈裟に過ぎるかもしれないけど、でも間違いなく、チョーすごい小説だ。岸本佐知子さんの翻訳も素晴らしい。全員読んでください。

 

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 ジェフリー少年の美しい描写に中てられて、思わず地元をサイクリングした。

 一昨日、髪を切りに行った帰りにもちょっとサイクリングしたし、今日もまたやってしまった。もうとっくにしゃぶりつくしたと思っていた地元にも、まだまだ風味が残っている。肌をかすめる涼しい空気がジトッと湿りはじめないくらいのスピードで走る。太陽は雲の向こうに、まだそれなりの高さを保っている。一昨日、夕暮れも終わる頃に通ってストレンジャー・シングスみたいだなと思った道は、明るい時間に見るときちんと舗装されていて、ちょっと辿っていくと、謎の研究所ではなくゴルフ場に続いている。そりゃまあ、そうだろうとは思っていたけれど、しかしなあ、確かめなけりゃよかった。

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 はじめて出会う道に対して、僕はなにがしかの期待を持ってしまう。「道」という名のついた原風景みたいなものを集めたファイルから、どれか一枚イメージを引っ張り出してきて、両手にしっかり持ち、心なしか足早に進む。ああいう感じだったらいいな、と勝手に想像を巡らせて、しかしほとんどの場合それは良かれ悪かれ裏切られる。想像通りの風景が広がっていることはほとんどない。まあまあ散歩して経験を積んでいるはずなのに、いつまで経っても適切なイメージを用意できない。そもそもそんな余計な期待をせずに歩けばいいのだけれど、これは軽度の呪いのようなものなので、そうはいかない。まあ、だいたい良い方向に裏切られるのでいいんですが。

 

 でもたまに、なんとなくこの先は確かめたくないな、と思うことがある。ものすごいいいイメージが描けてどうしてもそれを手放したくないだとか、どうしようもなくショボい道だったら嫌だとかっていうわけではないのだけれど、しかしなんとなく確かめたくない道がある。そういうとき、僕は確かめないままにする。その道の先を、いつまでも残しておく。

 子どものころからそう感じていて、実際にまだ一度も確かめたことのない道が、母方の祖父母の家の近くにある。僕は祖父母の家からほど近い幼稚園に通っていたし、今でもよく祖父母のところへは行くので、ちびっ子だった当時から現在に至るまで、もう何百回と目にした曲がり角だ。

 古くから並ぶ住宅街の狭い道路が二手に分かれる角。右に折れると幼稚園へと向かう、何度となく歩いた道だ。左には行ったことがない。ちびっ子の僕は幼心に、あっち側の先には何があるのかな、海かな、ジャングルかな、おしゃれ都市かな、めっちゃでっかい家かな、といろんな可能性に思いを巡らせながら、常に右の道へと曲がった。キリスト教系の幼稚園だったことも手伝ってか、左に進んだ先には、金色の光が降り注ぐ空間があるような、光り輝く何かが降臨しているようなイメージを持っていた。小学生になり、学年が上がり、海やジャングルは地理的にあり得ない、ということはわかってきたけれど、それでも光り輝く空間のイメージは残り、そんなに気になるならいいかげん確かめに行っちゃうっていうのはどうかな、という迷いもありつつ、しかし妙な頑固さが僕を左の道から遠ざけ、ふてくされてばかりの10代を過ぎ分別もついて齢をとり、おそらくこのまま光り輝く空間のイメージを抱き続け、結局左の道には行かず、そしていつか死ぬ。

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梅雨の文

いやなこと

 私は雨の日に外を出歩くのが好きじゃない。雨って、屋内から見ている分には情緒にあふれていて好きなのだけれど、外に出るとなると話が変わる。何がいやかって、濡れるのが。傘のへりからズボンに落ちてくる雨が、つま先に染み込んでくる雨が、傘をたたむ手のひらにべっとり付く雨が、私を濡らす。人類は雨が降るたび濡れている。

 荷物が重いっていうのもいやだ。私の荷物はなぜだかいつも重い。私はリュック派だから、その重みを肩だけで受け止める。肩は重みに反発するように、だんだん張ってくる。毎度毎度、思っていたよりずっと張る。重いリュックを背負って二十分も歩けば、両肩にこんもりした鉱山が出来上がっている。

 雨の日に出歩くのもいやだ、荷物が重いのもいやだ。だから、雨の日に荷物が重いっていうのは、最悪だ。いやの二乗なのです。おそらく、ほんとうは、二乗どころではなくて、三乗、四乗、いや、五乗くらいになっているのではないかという実感がある。食べ合わせが悪いものみたいに、負の相乗効果が生まれて、いやさ加減がとんでもなく増しているように感じる。

 

 そういうことを考えて、今日はずっと家にいることにしました。

(6/19)

 

 

シェイク

 目を覚ました瞬間に、今日は雨だと気づいた。カーテンを開けなくともわかる。首筋が湿り気を帯びている。部屋中の空気が床あたりまで下がってきている。耳をすませばさあさあと聞こえる。ときどき、大きな粒がベランダにぶつかって、ぼん、と弾ける音がする。

 湿気を吸い込んでしまったみたいに重い身体を、ようやく起こして台所まで歩く。空気も身体もぬめっとしているのとは反対に、口のなかはばりばりに渇ききっている。コップに水道水を注いで、軽くゆすいで、飲む。洗面所の鏡には、薄橙色のライトに照らされてぬぼおっとした肌が写る。梅雨の時期には特にぬぼおっとする。首筋にも、前腕にも、脇腹にも、背中にも、内腿にも湿気が張り付いて取れないので、シャワーを浴びる。清涼成分を含んだボディソープが、何もかもをそぎ取る。タオルで拭いてすっきりした肌に、しかしまたすぐに湿気がまとわりつき始める。パンツを穿き、髪を乾かしながら、テレビで天気予報を見る。関東地方は一日じゅう雨となるでしょう。朝はひんやりしていますが、日中にかけて蒸し暑くなりそうです。脱ぎやすい薄手の上着を羽織って出かけるとよいでしょう。僕はスーツなので関係ない。電子レンジで軽く温めた食パンに、昨日食べ残した麻婆茄子をのっけて、小さな儀式のようにゆっくり食べる。しなりきった茄子が冷たい。もう一度水道水を飲む。カーテンを開けると、隣接するビルの白色までも、雨に滲んでうっすら青が混じって見える。ベランダのサンダルに描かれたカエルのキャラクターだけが、雨を喜んで、けろけろ笑っている。

 ぎりぎりまで家にいよう。あと三十分。

 ソファーに沈み込んでアナウンサーが喋っているのをぼうっと見ながら、ふと、小さいころのことを思い出した。小学生のころ、学校に行きたくなくて僕がぐずると、母がバナナシェイクを作ってくれたことがあった。「けんくん、これ、魔法のドリンク」。はにかむ母から受け取ったコップには、薄黄色の、どろどろした液体が入っていて、さっと飲み干すと、不思議なことに元気が湧いてきたのだった。「けんくん、学校、行きたくなきゃ休んでもいいよ」と、母は不器用に微笑みながら言った。魔法のドリンクを作ってくれた本人がそんなこと言っちゃうんだ、と子供ながらに思ったけれど、たしかその日は結局学校に行った。

 だらしなく沈んだ身体を起こして、台所を調べた。

 バナナはちょうど一本残っていた。冷蔵庫には小さいカップヨーグルトも一つだけ入っていた。ミキサーも、どこかにしまってあるはずだった。

 

 バナナを一本丸ごとに、カップヨーグルトを開けて、牛乳を足してミキサーにかけてできたものは、少なくとも、色はあのときと似た薄黄色をしていた。

 味も、悪くなかった。ほどよく甘い。ほんとうははちみつもあれば良かったな、と思っていたけれど、なくてもおいしい。

 けれど、しかし……

(6/19, 21, 7/17)

 

 

傘がない

 今日、雨降るなんて知らなかった。お母さん、そんなこと一言も言ってなかった。わかってるなら言ってくれてもよくない? あたしのお母さんって、いつもそう。あの人、そういうところあるの。いっつも何も言ってくれなくて、夕方になって、あたしが濡れて帰ると、あれ、あんた傘持って行かなかったの、って。あたしが朝、自分で天気予報でも見りゃいいんだろうけどさ、それはわかってるけど、でも、どうしても忘れがちじゃない。あたしって、そういうところあるの。

 だから今日もいつも通り傘なんて持ってなかったんだけど、そうしたら五時間目あたりから、雨、ざあざあ降ってきちゃった。そのまま降りやまなくて、放課後になっちゃった。

 それで、とりあえず教科書もノートもカバンにしまって、帰る準備は済ましたけど、なにせ傘がないから、教室で外見ながら、ああ、どうしよう、ってね。雨、ざあざあ。

 ただぼうっとしていてもしょうがないから、ミーコとサヤと、くだんない話して盛り上がっちゃった。ほら、あの子たちっていっつも放課後教室にたまっておしゃべりしてるじゃない。今日も二人とも残ってて、雨、面倒くさいね、って。そうしたらそのうちミーコがね、ねえフミ、雨の日って、なんだかムラムラしない、って聞いてきたの。あたしはそんなこと考えたこともないから、そんなこと考えたことないな、って言ったんだけど、ミーコもサヤもくすくす笑っちゃって。わかってるくせに、って。あの子たち、いっつもあんな話してるのかな。ちょっと引いちゃった。それでまあ、そんなことで笑ったりしながら、雨、止まないかかあ、って待ってたんだけどね、急に、ねえ、オカザキさん、って呼ばれて、見たら、教室のドアのところにタカハシが立ってるの。

 なにせ突然なもんで、あれ、タカハシってあたしのこと、オカザキさん、って呼ぶのか、って思ってさ。でも、そうじゃなくて、問題はタカハシがあたしになんで話しかけてきたのか、ってことだよね。だからあたしは、なに、タカハシくん、って。そう。くん付けだよ。だってあたし、タカハシとまともに話したことなんて、あんまりないよ。だから、なに、タカハシくん、って聞いたらね、オカザキさん、傘持ってないでしょ、って言うの。え、持ってないけど、って言ったら、俺、持ってるからさ、一緒に帰らない、だって。タカハシ、あんなひょろっちくて眼鏡かけてるのに、一人称、俺、なんだ、とか思ったけどさ、いや、それは別にいいけど、問題はそこじゃない。だってそれって、相合傘じゃん。だからあたし、あ、とだけ返してちょっと黙っちゃった。そうしたらタカハシのやつ、まあ、オカザキさんが嫌じゃなければ、ってちょっとこっち見て言ってから、視線逸らすの。そんな見られたら、嫌とは言いづらいよ。まあ、嫌ってことはないし。だから、え、じゃあ一緒に帰る、って言ったらさ、タカハシ、うん、って。もう出られるの、って聞いてきてね、あたしも、うん、って。それで、あたしは急遽帰ることになったんだけど、あ、そうだ、ミーコとサヤはどうする、って二人の方見たらさ、二人とも机に突っ伏しちゃってるの。ねえ、やめて、そういうのじゃないよ、って言ったんだけど、サヤは声出さずに笑ってるっぽくって、ミーコが、うちらは傘持ってるからいいよ、って。はあ。タカハシもタカハシですごく居づらそうになっちゃってさ。そういうのじゃないのに。でもまあ、じゃあ、帰ろう、って言ってくれてさ。だからあたしとタカハシは一緒に教室を出て、階段を下りて、下駄箱行って、靴を履いた。あ、なんであたしが傘持ってないって思ったの、って聞いたら、うーん、オカザキさん、雨降る日さ、傘忘れてること多いじゃん、だって。恥ずかし。恥ずかしくて、あたしまた、あ、そう、としか言えなかった。それでさ、外見たら、まだ雨、ざあざあ。これ、傘なしじゃ帰れないでしょ、って言うからさ、あたしも、まあ、そうかもね、って。ありがとね、って言っちゃった。そうしたらさ、タカハシのやつ、鞄から折りたたみ傘出すの。折りたたみ、って! 人を誘うのに折りたたみ! マジか! ちっさ! まあ、ツッコミは口に出さなかったけどさ、笑いは抑えきれなくて、あたし笑っちゃって、ああダメ、笑っちゃいけない、たぶん笑っちゃいけないと思う、って、わかっちゃいるんだけど、くすくすが止まらなくなっちゃった。それ見てタカハシ、ああ、たしかに、って言ってた。ああ、たしかに、ってなにさ、と思ってあたしはそれでまた笑っちゃったんだけど、タカハシ、よく怒らずにいてくれたな。あんまり話したことないのにね。それでまあ、そのあとは、二人でそのちっちゃい折りたたみ傘入って帰りましたってだけ。知らなかったけど、タカハシん家ってあたしの家に結構近いんだね。

(6/21)

 

 

ポップコーン

 かの有名なクレイアニメ、『ピングー』のなかに、こんなエピソードがある。ある日、両親が出かけたすきに、主人公のピングーと妹のピンガはポップコーンを作ろうと画策する。大きな棚を開け、保管されていた大量のトウモロコシの粒をすべて剥ぎ取って、鍋に入れ、ストーブの上に置く。やがてポンポンはじけ出して、しばらくするとずいぶん大量のポップコーンが出来あがる。二人は夢中になって食べるけれど、なにせとてつもない量だ。二人は余ったポップコーンを近所の家に配達する。一人暮らしのおじさんも、三人の赤ん坊を抱えたおばさんも喜んで受け取ってくれる。じゅうぶん分けただろうと思って家に戻れば、しかし、まだとてつもない量が残っている。ちっとも減っていないように見える。二人は二周目の配達に出かける。今度はおじさんもおばさんも受け取ってくれない。もう飽き飽きしてしまったし、それに、ポップコーンは散らばると億劫なのだ。ポップコーンの貰い手が見つからず、あてもなくさまようピングーとピンガ。それから何十年と経った今でも、二人はポップコーンの貰い手を探して氷の大地を放浪し続けているという……

 

 え、そんな話じゃなかったよ、と私は言う。ネットフリックスで一緒に見た『ピングー』でしょ。そんな終わり方じゃなかった。たしか結局、ピングーとピンガは両親が帰ってくる前に残りのポップコーンをなんとか食べきって、お腹をこんもり膨らませつつ、何事もなかったかのようにベッドで寝てるふりをするんだよ。

 あれ、そうだったっけか、と行男はとぼける。まあでも、問題はそこではなくて。ピングーとピンガの何がいけなかったのか、僕なりに考えてわかったんだ。結論から言うと、ポップコーンというのは“ながら”の食べ物なのであります。映画を観ながら。ゲームをしながら。他愛ないうわさ話をしながら。ポップコーンって、単体で食べられることはまずなくって、僕らはいつも何かをしながら食べていますよね。つまり、“ながら”の食べ物なの。そこのところを彼らはわかってなかった。彼らは近所の人たちに、そして自分たち自身にも、ポップコーンそれだけに向き合って食べることを強要したんだ。そりゃあ、飽きますよ。やむをえない。そこで、ですよ。だったら、そのポップコーンと何が組み合わさったら面白いかな、ということを考えてきました。街歩き。ポップコーンを食べながら、街を歩く。風景や人々の生活をおかずに、ポップコーンを食べる。そういうのはどうでしょうか。良さそうですよね。そこでこのたび、「街を歩きながらポップコーンを食べる会」を発足させていただきます。メンバーは、とりあえず、僕ときみ。順次増員を予定しています。

 私は賛成も反対もせずに行男の話を聞く。賛成も反対もしていないけれど、すでに私は「街を歩きながらポップコーンを食べる会」の会員になっているみたいだ。

 行男は続ける。それでは、「会」の第一回活動だけど、駒込駅を降りたところから、いくつか商店街が連なっている。名前は忘れてしまったけれど、そこを歩くことにしましょう。この前一人で歩いたのですが、かなり最高の散策ロードでした。駅前は飲み屋が多くて、そこからちょっと行ったところの次の商店街は八百屋だったり床屋だったり、日々の営みに必要な店舗がそろっていて、素敵なんだ。ちょっと道幅が狭いのも魅力です。それで、しばらく商店街を歩いたあとは少し逸れて、そうすると大きめの広場みたいな公園と、さらに行くとなんとか霊園がある。たくさんのお墓の間を歩くのはとっても涼しくて気持ちがいい。そこも抜けると、今度は巣鴨の地蔵通り商店街。これは有名ですね。高齢者の原宿です。そこをずっと歩いていくと、都電荒川線、って、今は東京さくらトラムとかなんとか、っていう愛称がついているようですが、それの庚申塚駅がある。これまた風情のある駅です。吉澤嘉代子さんの曲のミュージックビデオに出てきた駅だと思う。そこから、そのさくらトラムに乗って移動しましょう。この行程を、ポップコーン片手に辿る。ポップコーンは、やっぱり映画館のやつが美味しい気がするので、上野のトーホーシネマズで買って、山手線で駒込まで行きましょう。どうしようかな、ではさっそく、明後日、土曜日に開催しましょう。

 私は、相変わらず賛成も反対もせず聞いている。ポップコーン片手に電車に乗ったり、ポップコーン片手に狭い商店街や墓地を歩いたりするのはいかがなものか、とか、そもそもそういうまったくの見物根性を丸出しにして商店街を歩くのもどうなんだ、とか、いろいろ思うところはあるけれど、口には出さない。土曜日は一日じゅう雨になることを、私は知っている。

 

 土曜日、果たして、朝から雨が降りしきっている。私は先に目を覚まして、カーテンを開け、灰色の空を見上げている。あとから起きてきた行男は顔をひどくしかめて言う。あーあ、中止だ中止。雨のなかポップコーンを食べながら歩くなんて無理。中止。もうやめ。「会」もとりあえず活動休止かな。ごめんね。

(6/22, 23)

 

 

ポップコーン2

 僕の部屋にはとってもちょうどいい窓がある。東京一ちょうどいい窓なのではないかと思う。縦120センチ、横2メートルくらいの、西向きの窓。元々はすりガラスだったのを、せっかくの景色が見えないのも残念な気がして、僕が引っ越してきたときに透明ガラスに変えてもらった。僕の部屋は所詮二階だし、いわゆる絶景が広がっているというわけでもないけれど、しかし、西向きの窓から見る近隣の家々も電線も、ちょっと遠くの商店街や低いビル群も、空気が澄んだときに遥かに霞む富士山も愛おしい。窓から見える家々にそれぞれの生活があって、人々がそれぞれの生活をしていて、僕もこの部屋で自分の生活を送っているという、なんでもない事実をときどきどうしようもなく抱きしめたくなる。夕暮れ時には西日が差し込む。暮れなずむ町に徐々に明かりが灯り始めるのをぼうっと眺めながら、僕は部屋でポップコーンをつまむ。

 僕は西向きの窓から見える生活を眺めながらポップコーンをつまむのが好きだった。左右にこぢんまりとぶら下がっている緑色のカーテンも含めると、窓はちょうど映画館のスクリーンのようにも見えた。スーパーでポップコーン豆を買ってきて、鍋でぽこぽこ弾かせ、軽く塩味をつけて窓の前に座るのだった。僕はスクリーンの前の唯一の客として、静粛にポップコーンをつまみ続けた。

 特に、雨の日が好きだった。雨の日には朝からポップコーンを用意した。カーテンもガラスも全開にして、雨粒が人々の傘や家々の屋根に当たって弾けるぴしゃっという音や、通りを人が歩くじゃっじゃっという音や、水たまりのはねる音や、雨どいを伝う音を楽しむのだった。ときどき部屋の中にまで雨粒が入ってくるのもお構いなしに、僕は窓の前まで持ってきた椅子に座り、ポップコーンをつまんだ。目をつむると、様々な雨の音と、ポップコーンをぼりぼり噛む音が頭の中で共鳴した。雨が降るたびにそんなことをやっていたわけではないけれど、しかしそれでも梅雨の時期には何度も何度も窓の前でぼりぼりとやった。

 

 ……こういう話を、この前たまたま、はじめて人に話したのですが、へえ、面白い、と口では言ってくれても、心の内ではすごく気味悪がっているのがこっちにも伝わってきてしまったので、それ以来、こういうことはもうきっぱりやめました。部屋に貯めこんでいたポップコーン豆は、もうすべて捨てました。窓もすりガラスに戻そうと思っています。

(6/24)

ためらい

 すっかり春!

 友だちに返そうと思って二万円を持って家を出たけれど、寝てしまってるのか、なんか他に用事でもあるのか、それとももしかしてブロックされちゃったのかしら、とにかく連絡がつかず、しかしフットワークの重いことでお馴染み、この僕がせっかく家を出て既に都内行きの電車に乗ってしまっているのですから真っ直ぐ引き返すというのもなんとなくもったいない。それにこの、ニトリのカーテンコーナーのように柔らかな陽気。そのままガタゴト揺られひとまず池袋に向かい、さて散歩でもしようかしらというところ。

 しかしいつしか名画座へ吸い込まれてしまっていた。二本立てを観る。チケット代、お金ならわざわざ口座からおろさずともポケットに剥き出しで入れた二万円がある。し、そもそもどうせ口座にはほとんどお金がない。二本立てはスペインの新進気鋭の監督の特集で、一本目は、背中から第三の腕が生えてきたという妄想に憑りつかれた中年男を描いた会話劇。本人以外にとっては幻想だったはずの背中の腕が徐々に周りの人にも見え始めるという描写にグッときてしまった。が、そこ以外はびみょー、というか、その監督がいまの僕と同じ歳の頃にその映画を撮っているということに思い当たり、そわそわしっぱなしで内容があまり入ってこなかった。二本目は砂漠に一人で住むおじいさんのもとを次々と見知らぬおばあさんが訪ね、狂おしいほどに愛を重ねては帰ってゆくというラブストーリーで、一番盛り上がるっぽいところで急に字幕が途切れてしまい、劇場スタッフが出てきて不具合を詫びていたけれど俺はそんな謝罪なんて関係なく怒鳴ってやったんよ、と、上映終了後隣に座っていたおじさんが息巻いていた。僕は観ている途中で寝てしまっていたのでそんなことは知らなかった。そんなストーリーのどこが一番盛り上がるっぽいところなのかさっぱり想像できなかった。怒鳴ってやったんよと息巻いたおじさんは、僕の肩を掴んで、黄色い歯を剥き、酒臭い息で、おめえさんなあ、昼間っからこんなところでこんなよ、エロいんだかなんだかわからんような映画観てよ、何してんだおめえさんまだ若えんだろ? ……一理ある、と思ったけれど聞こえなかったふりをし、左肩にかかったおじさんの手を振りほどき劇場を出てずんずん歩いた。

 おい待てよ、おい、腹減ってないか? と早足で追いかけてきたおじさんに、あ、え、お腹、あ~、まあ。曖昧に応えてしまったものだから二人で昼飯を食べに行くことになってしまった。ろくなもんねえなあ、言いながらおじさんは僕の袖を引っ張って池袋の街をぐるぐるぐるぐる、引っ張らないでくださいよ、引っ張らないでください、と訴える僕の声は人混みに虚しくかき消され、相も変わらずおじさんは左右を睨みつけるようにぐるぐるぐるぐる、一時間もしてから行きついたのはだいぶ初めの方に通り過ぎたカレー屋だった。ここはな、ここだけは美味いのよ池袋においても。僕もその店のことは知っていた。どうも百万種のスパイスを混合してるだとかで、ずいぶん前に雑誌のカレー特集で見て以来、いつか食べてみたいと思ってはや幾年。まさかこんな、どこのどいつかわからないおじさんと連れ立って訪れようとは思わなんだ。

 しかし、見知らぬおじさんと来てもカレーはおいしい。

 人類の作った偉大な食べ物ベストテンに満場一致でランクインするでしょう。

 僕の隣であっという間にチーズカレーを平らげ、最後にスプーンを舐め舐め、皿を抱え上げてこれも念入りに舐め舐め、鼻の頭にルーをくっつけて僕の方を向き、じゃあこれ払っとってな、とおじさん。えっ、と驚く僕をよそにさっさと店を後にしようとするので、今度は僕がおじさんの袖を掴み、おい待てって! ちょっと強気に出た。おじさんは僕の細っちい腕を秒で振りほどき、じゃあな、と立ち去ろうとしたが、何か思い返したのか身を翻して、僕の耳元へ顔を近づけ一言、おれは未来のお前だ! ……え、いやいやいや。嘘じゃないですか。こんな。こんなに文脈の分からない嘘ありますかって。あんたカレー代払いたくないだけでしょ。冗談にしたってまったく面白みなし。マジで言っているのであればそれはそれでかなりキビしい。最低最悪ですよははは。

 しかし文句をつけようにもとっくにおじさんは去っていて、僕は結局おじさんのチーズカレーと自分のエビカレーの代金を払わざるを得ず、これとさっきの映画代とで、もともと二万あったお金が一万五千。今日友だちに返そうと思っていたお金がスワスワ減りつつある。お金に関してはほんとうにきちんとしなきゃと心から思っているのにこの体たらくなのである。お金のこともそうだし、それに先ほどのおじさんの言葉もどうも小骨のように引っかかっていて、まったく僕は気苦労が多いのです。あんな歯が黄ばんでいて、ジャージはよれよれ、その下に覗くワイシャツも灰色の染みだらけ、全身からモワッと立ち上る酒臭さが目に見えるような、そのうえ誠意を込めて謝っている人の声にまったく耳を傾けずに怒鳴りつけるようなおじさんに僕はなってしまうのだろうか。なりとうない。極めつけはおじさんが禿げ散らかしていたという点だ。僕は禿げない。禿げとうない、と声に出してみたけれど、しかし絶対に禿げないなんて確証はない。あのおじさんが絶対に未来の僕じゃないとは言い切れない。あり得ないことではないな、という気がしてしまう。たとえばジョージ・クルーニーファレル・ウィリアムスのようにはなれないという確信はあるけれど、一方、さっきのおじさんの佇まいにはリアリティーがあった。ああならないとは限らないし、考えれば考えるほど、むしろ僕はああいう風にしかならないのではないだろうかという気さえしてくる。それにしてもこの陽気。

 

 

 陽気にあてられ、歩き歩いて神保町。

 見るものを悲嘆にくれさせる古本屋街。いったい僕は生涯でここに並ぶ本の内どれほどを手にすることができるのでしょう。ほんの僅か、多くてせいぜい十冊かそこらでしょうか。

 ほうほう、面白そうな本が並んでいますじゃありませんか、と神妙な面持ちを形成して店に入り、なるほど、なるほど、なるほど、なるほど、なるほど、なるほど、ふん、なるほど、と繰り返し、たまにするジャーキングによってかろうじて生きているのだと判別できる店主の視線を浴び浴び、空気中にほんのり混ざるアカデミック臭にあてられ、最初に作り上げた神妙な面持ちが徐々に崩れかけてきたところで、慌てててきとうな文庫本を買って外へ出る。『日本の公衆トイレ百選④ 江戸後期から明治初期まで』、三百円。店を出てからパラパラめくって気づいたけれど、この手の本にしては活字部分がびっしり多く、なんとなれば写真や図が一枚も出てこないのである。なんということでしょう。持ち帰ってもすぐ積ん読と化すのであろう『公衆トイレ百選④ 江戸後期から明治初期まで』をリュックにしまいながら、意味もなく唇をパクパクさせる。どうしてこんな本に三百円も。

 いつしか日は傾いてきているけれど、しかし依然としてこの陽気。

 隣の店に入ると、古今東西から一堂に集結した古本たちがすやすや寝息を立てているところに交じって、『ビビタウルスの冒けん』全4巻セットが、埃っぽい棚の隅っこに静かに、しかし見る人が見ればわかる煌めきを放って陳列されている。『ビビタウルスの冒けん』!

 皆さんはビビタウルスをご存知でしょうか? ビビタウルスは世界に遍在する微々たる差をつかさどるけものだ。長いがふにゃふにゃの角二本と、黒々としてかさかさに乾ききった羽二つと、瞼がなくうるうるに濡れそぼった眼二つを持つ、竜に似ているようでちょっとだけ違う優しきけもの。

 EDMって全部同じ曲じゃん、と吐き捨てるバンドマンあれば即座に飛んでいきひとこと、「微々たる差だけど、違うよ」

 なんだか知らねえけどそのスカートもさっきのスカートも一緒だよ、と悪態つく輩いれば肩を叩きひとこと、「微々たる差だけど、違うよ」

 ちゃんと予算内でやってもらえるんであれば我々としてはもうどっちでも同じなんでてきとうにやっちゃってください、とふんぞり返る取引先あれば眉をひそめひとこと、「微々たる差だけど、違うよ」

 ビビタウルスはあらゆる微々たる差の番人なのだ。どんなに微々たる違いであってもゼロだと見做してしまうのはあまりに乱暴ですよ、そうじゃなくて、違いはあくまで違いだということ、受け入れる受け入れないの問題ではなくて確かに存在するのだということ、それを分かったうえでそれでも並んで生きていきましょうよ、そう思いませんか? ということまで作者が伝えようとしているかどうかは分からないが、しかしとにもかくにも挿絵も文章も素晴らしい児童書であることは確かで、幼き頃の僕はたいへん勇気づけられ、ひもすがらよもすがら読み続けたものだった。でも僕がちょうど九九の掛け算を覚えた頃くらいにいつしか読まなくなって、そのまま忘れてしまっていたのだった。その『ビビタウルスの冒けん』が、いま、目の前の黴じみた本棚に小さく収まっている。

 全4巻、一万二千円。

 なるほどたしかにそれだけの値打ちがある本だが、しかしいま購入してしまうと、先ほどからスワスワ減りつつあったお金がもう取り返しのつかないくらい削り取られてしまう。友だちにどう申し開きをすればいいというの。先月も先々月も先々々月も返せていなくて、今月もてんで無理っていうようじゃそろそろ友だちじゃなくなってしまう。かといっていま購入を見送ると次いつ出会えるかわかったものではない。僕が買わずにいるうちにどこかの目ざといマダムが聡明な我が子のために買って帰ってしまうに決まっている。悩ましいっすなあ。実に悩ましい。とか言って本棚の前で行ったり来たり、手に取ったり戻したり、なんとなく屈伸したり指をぽきぽき鳴らしたりしているうちにいつしか百年の時が過ぎ去り、僕も『ビビタウルスの冒けん』も古本屋もすべて砂に帰してしまったのでした……

De Niro

 

 はあ。疲れたね、なんか。

 疲れたの? 疲れないよ。何にもしてないじゃん。

 そうだな、疲れてないな、言われてみりゃ。

 

 *

 

 アンタさあ、どうすんの? 映画。

 うーん? どうするって? 今からなんか観に行く?

 違うよ、映画どうすんのって。撮るんでしょ、映画。

 撮る? 撮んの? 僕。映画?

 映画撮ることになったって言ってたじゃん! デ・ニーロと!

 デ・ニーロ! デ・ニーロ?

 デ・ニーロってったら一人しかいないじゃん。そのデ・ニーロだよ!

 デ・ニーロが? 僕と? わかんないよ、なに?

 言ってたじゃん! アンタの書いた脚本が採用されたって! 監督も任されたって!

 え? で、主演がデ・ニーロなの?

 そう。

 え! そんなバカみたいな話なくない? 夢じゃん。ないよ。

 そう、アタシもあり得ないと思ったよ、でも、アンタがいろいろ証拠って言ってさ、見せてきたんじゃん。なんか、書類とか、金とか。自慢してきたじゃん。

 金?

 札束持ってたじゃん。

 え、現金なの? ふつうなくない? 知らないけど、ふつう口座振り込みじゃないの、そういう金って。

 知らないよ。はあ、意味わかんない。自慢してきたじゃん。デ・ニーロと撮んだぜ、って。

 そうだっけか。

 そう。思い出しなよ。

  

 *

  

 そうだったな。思い出した。嫌すぎて忘れてた。

 ほらー。どうすんの?

 どうしよう。ヤバいんだよ、全然ノウハウがわかんない。何から始めればいいんだろう。

 なんか誰かに聞けば?

 誰に聞きゃいいかもわかんないよ。きみ、知ってる?

 知らないよ、映画なんて観ないもん。

 僕だってそんな観ないよ。はあ。

 じゃあなんでアンタ監督任されたの。

 デ・ニーロたっての希望なんだってよ。

 へえ。意味わかんないじゃん。

 ね。

 なんでよ。

 知らないよ。こわいよ。しかもさ、デ・ニーロさ、もう役作り、始めてんだって。

 え! やるんだ、役作り。やっぱ。

 しかも、三か月前から。もう。

 三か月前? え、いつ?

 今から、三か月前。から。映画化の話が出た直後から。

 え、何の役なの?

 僕。

 は?

 僕の自伝的な物語だから。

 は? え? アンタ、そんな波乱万丈なアレなの?

 違うよ、別に。ふつう。

 ふつうなの? え、役作りしてんの? デ・ニーロ。

 そう。

 怖いじゃん。意味わかんない。

 怖いよ。マジで。ふつうに過ごしてても、さ、ずっと誰かに見られてる気がすんだよ。

 へえ!

 だいたいデ・ニーロが僕の脚本を気に入ったわけがわかんないよ。マジでつまんないしさ、日本語だし。

 英訳とかされてたんじゃない?

 なことないよ。マジでつまんないもん。

 マジでつまんないんだ。なるほど。

 だからさ、わかんない。なんでですか、ってデ・ニーロに聞いても、ただ笑うだけなんだもん。

 話すんだ? デ・ニーロと。

 話すよ。ずっと僕の周りにいるんだもん。たまに鉢合わせてさ、挨拶してさ。

 え、今もいる?

 今はどうかな。年末だし、帰国してんじゃない? でさ、たまに鉢合わせて、なんでですか、って聞いても笑うだけなの。『マイ・インターン』んときみたいに。

 あ、観た! あの謎の笑み!

 そう。あれ。肩すくめちゃってさ。で僕、言うのよ、映画、ちょっとまだ撮れそうにないです、って。

 なに、その言い方! どうしてやんわりなの? なんか、いずれは撮れる、みたいな。

 しょうがないんだよ、怖いもん。

 怖いか。怖いね。

 怖い。

 で、デ・ニーロ何て言うの? 映画まだ撮れません、って言ったら。

 また謎の笑み浮かべんの。別にかまへん、みたいな。イッツオーライ、って言ってんの。

 へえ! なんかもう。

 ね。

 その優しさが怖いじゃん。謎じゃん。

 ね。もうここまで来たら断るなんてあり得ないからさ、たぶんいつかは撮らなくちゃいけないんだろうけど、なかなか無理。マジで嫌。

 がんばってよ。貰ったお金もあんでしょ?

 うん。だからやるしかないけど。

 待っててもらうしかないね。

 うん、役作りしててもらうしかない。まあいいや。

 へえ?

 なんかこの状況慣れてきたな。

 へえ?

 一生このままでもいいかもしれない。

 ハハハ。

2017年よかったもの

2017年いいと思ったものを発表します。メモ程度ですが……

 

・2017年一番印象に残っている色、映画『ムーンライト』のブルーです。

 

・2017年一番かわいかったもの、フジロックビョークが連発してた「アリガットゥ!!」です。

 

・2017年最も良かった短編映画、『マスター・オブ・ゼロ』のシーズン2エピソード6「ニューヨーク、アイラブユー」です。あれを映画と呼ばずしてどうしましょう!

・『マスター・オブ・ゼロ』は全編素晴らしいのですが、上記の「ニューヨーク、アイラブユー」に加えて、エピソード8「サンクスギビング」にも震えました。『マスター・オブ・ゼロ』もそうだし、『ひよっこ』もそうだったけど、とにかく「ユーモラスさとエモーショナルさはほとんど同じもの」ということを意識させられ続ける一年でした。カート・ヴォネガットの小説や、北野武ウディ・アレンの映画なんかもそうじゃないかな。僕自身もユーモアを大切にしていこうと思います。

・もちろん『ストレンジャー・シングス』も最高でした。ふつうの少年少女が邪悪なものに立ち向かう様、とってもビリビリしました。

 

・2017年公開の新作長編映画だと、『ムーンライト』のほかには、『ラ・ラ・ランド』や、『退屈な日々にさようならを』や、『T2 トレインスポッティング』や、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』や、『メッセージ』や、『夜明け告げるルーの歌』や、『美しい星』や、『ローガン』や、『ベイビー・ドライバー』や、『パターソン』や、『ダンケルク』や、『散歩する侵略者』や、『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』や、『ゲット・アウト』や、『立ち去った女』や、『ブレードランナー2049』や、『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』や、『エンドレス・ポエトリー』がよかったです。『たかが世界の終わり』は扱っている題材がかなりよかったので、グザヴィエ・ドランじゃない人が監督したバージョンも観てみたくなりました。グザヴィエ・ドランもいいんだけど。

・『パターソン』は特によかった! パターソンという寂れた街でパターソンという男が過ごしている日常の美しさに、感極まってしまいました。僕も日常に美しさを見出す病に罹患し、10月の終わりのある夕方、巣鴨駅前で、SEIYUのレジ袋片手に、空にかかった虹をスマホで撮影していたおばさんの姿などにもグッとくるようになってしまいました。しかしアダム・ドライバーはいいですね、繊細なデカさというか。彼の背中、東京ドーム50個分くらいあるのではないでしょうか。「デカい」という身体性も重要だ。

・『メッセージ』はテッド・チャンの原作(「あなたの人生の物語」)も併せて読んだらさらにグッときました。どちらも素晴らしい。映画と小説というメディアの違いを表す好例だと思います。

・あと、『スパイダーマン ホームカミング』のピーター・パーカー(トム・ホランド)の声がめちゃくちゃ高かったのがよかったです。スパイダーマンにはああいう軽さがなくちゃいけないと思います。

・旧作映画では、エドワード・ヤンの諸作が特によかったです。ほかにも、エリック・ロメールのいくつかの映画や、『ロッキー』・『ロッキー2』や、ルキノ・ヴィスコンティのいくつかの映画や、『仁義なき戦い』や、アンドレイ・タルコフスキーのいくつかの映画や、『灼熱の魂』や、『タンジェリン』や、『シンプルメン』や、『パリ、テキサス』や、『バンコクナイツ』や、『ロシュフォールの恋人たち』や、『スーパーバッド 童貞ウォーズ』や、『お茶漬の味』や、『ミツバチのささやき』や、相米慎二のいくつかの映画や、『地獄の黙示録』や、『イン・ザ・スープ』や、『スモーク』や、『海よりもまだ深く』や、『パラダイス 愛』(今度『神』と『希望』も観ようと思います)や、『青いパパイヤの香り』や、『シティ・オブ・ゴッド』や、『ベルリン・天使の詩』や、コーエン兄弟の諸作や、『自転車泥棒』や、『ダーティハリー』や、『秋刀魚の味』や、『ミニー&モスコウィッツ』や、『ブンミおじさんの森』や、『動くな、死ね、甦れ!』や、『甘い生活』・『8 1/2』や、『イーダ』や、『インテリア』が。自分がどんな映画を好きなのか、よくわからなくなりました。

 

・いくつか美術展にも行きましたが、ソール・ライター展が一番よかったです。

 

・2017年に発表されたなかでおそらく一番聴いたアルバム、シャムキャッツの『Friends Again』です。日常に溶け込む素晴らしい曲たちでした。エレキをアコースティックに持ち替えてシンプルな音を鳴らすのって、結構尖ったことじゃないでしょうか。さらに、先日発表された新曲「このままがいいね」では、Kings of Leonにも似たスケール感も加わっていたように思います。

・ミツメも素晴らしいシングルを発表しました。「エスパー」も「青い月」も、最高にポップで、ミツメ的なラストスパートもあり、キャリアハイといってもいいかもしれません。ジャケットもMVも大好きです。『ストレンジャー・シングス』や『散歩する侵略者』との共鳴! 

・2017年びっくりしたこと、小沢健二が戻ってきたことです。「流動体について」のアウトロのうねりにはまって抜け出せなくなりました。個人的にセカオワのコラボにはピンとこなかったのですが、子どもがいる人が聴いたらすごくグッときてしまうのかもしれません。

・2017年一番よかったMV、The xxの「I Dare You」です。


The xx - I Dare You (Official Music Video)

・2017年に出たアルバム、(だいたい出た順で、)The xx『I See You』や、Kendrick Lamar『DAMN.』や、Sampha『Process』や、Thundercat『Drunk』や、Calvin Harris『Funk Wav Vol.1』や、Tyler, The Creator『Flower Boy』や、サニーデイ・サービスPopcorn Ballads』や、Cornelius『Mellow Waves』や、柴田聡子『愛の休日』や、SlowdiveSlowdive』や、Yogee New Waves『WAVES』や、ゆるふわギャング『Mars Ice House』や、D.A.N.『Tempest EP』や、Ásgeir『Afterglow』や、Real Estate『In Mind』や、Daniel Caesar『Freudian』や、Gus Dapperton『Yellow and Such EP』や、Mount Kimbie『Love What Survives』や、岡田拓郎『ノスタルジア』や、King Krule『The OOZ』や、CHAI『PINK』や、Ivan Ave『Every Eye』や、N.E.R.D『NO ONE EVER REALLY DIES』がよかったです。フランク・オーシャンが出した曲もすべて好きです。トラップはいまいち咀嚼しきれていません。Futureのアルバムは結構好きでしたが。

・2017年に出たのではないものだと、Talking Headsが一番の衝撃でした。Yo La TengoWilcoのこれまで聴いていなかったアルバムも聴きました。かなり好きでした。

 

・2017年予想外に良かったこと、ロサンジェルスラムズの躍進です。ジャレッド・ゴフもトッド・ガーリーも同い年なので応援しています。

 

・自分のカタカナとアルファベットの使い分け方がよくわからなくなってしまいました。

 

・2017年一番楽しかった本、『百年の孤独』です。マコンドという小さな村とブエンディア家という一族の百年間を描くというそのスケールのデカさにも圧倒されましたが、次々と巻き起こる驚異的なエピソード、そしてあくまで淡々とした語り口にシビれてしまいました。ガルシア=マルケスはほかに『予告された殺人の記録』と『族長の秋』を読みました。これまたシビれる傑作続きでしたが、特に『族長の秋』ときたら! 改行がほとんどなされないなかでのめくるめく視点の切り替え、むせかえるような描写の連なりに、腰を抜かしてしまいました。ラテンアメリカの風土も関係しているのでしょうが、臭いや、グロテスクなものや、汚いものに関する描写がすごい。そこらへんは大江健三郎中上健次にも影響を与えているのかな。

・あと、『コレラの時代の愛』を買いましたが、これは今のところ積読になっています。

・ガルシア=マルケスのほかにも、ラテンアメリカ文学にすっかり魅了され始めており、バルガス=リョサ『密林の語り部』やロベルト・ボラーニョのいくつかの作品を読みました。どれも物語行為について考えずにはいられない作品です。来年はもっと読みます。マジックリアリズムということで、ホドロフスキーの映画も関連させて考えることができるかもしれませんが、ここらへんも来年に持ち越しです。

・リチャード・ブローディガン(と藤本和子さんの翻訳)やグレイス・ベイリーの短編集がよかったです。カート・ヴォネガットも何冊か読みました。これらは北アメリカの文学、ということになるでしょうか。そのほか、吉行淳之介や、三島由紀夫や、高橋源一郎や、『チェルノブイリの祈り』や、J・リャマサーレス『黄色い雨』や、『吾輩は猫である』や、ケン・リュウの短編集や、『旅のラゴス』がよかったです。来年はもうちょっと本を読みます。

 

・『早稲田文学増刊 女性号』が気になっているのですが、どなたかお持ちではないでしょうか。家まで読みに行かせてください。

 

・2017年、はてなブログを始めたのですが、文章の書き方がだんだんわからなくなっていきました。自分では「遅刻はよくない、という話」が気に入っています。

 

hellogoodbyehn.hatenablog.com

 

 

・2017年、将来へのぼんやりとした不安を抱えながらのだらだらした散歩がスリリングでした。

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・2017年一番食べに行ったラーメン屋、山手です。

 

・金沢~福井~京都と、青森(白神山地)に行きました。よかったです。

 

・2017年、車の運転がうまくなりました。母の買い物の手伝いで、イトーヨーカドーへ何度も行きました。「親孝行のザワ」として、地元じゃ負け知らずです。

 

・2017年笑っちゃったもの、ハライチ岩井・フリートーク集です。何もない日常からオカルトを出現させる手腕が素晴らしい。YouTubeにあります。ラジオ「ハライチのターン」も聴き始めました。毎週木曜日24時からTBSラジオです。


ハライチ岩井 フリートーク集

 

・2017年よかったものの備忘録としてApple Musicのプレイリストを作りました。

 

Are You Lonesome Tonight? (from “A Brighter Summer Day”) / Elvis Presley

Black’s Theme (from “Moonlght”)/ Nicolas Britell

Chanel / Frank Ocean

911 / Mr. Lonely (feat. Frank Ocean and Steve Lacy) / Tylor, The Creator

Holiday (feat. Snoop Dogg, John Legend & Takeoff) / Calvin Harris

神秘的 / 小沢健二

God Doesn’t Exist (from “Endless Poetry”) / Adan Jodorowsky

Half Man Half Shark / King Kruke

Blue Train Lines (feat. King Krule) / Mount Kimbie

Provider / Frank Ocean

Coyote / シャムキャッツ

Heptapod B (from “Arrival”) / Jóhann Jóhannsson

I Dare You / The xx

Kids (from “Stranger Things”) / Kyle Dixon & Michael Stein

青い月 / ミツメ

 

https://itunes.apple.com/jp/playlist/2017%E5%B9%B4%E8%89%AF%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE/pl.u-8aEVUNde4G5

 

 

 

 

おわりです。来年は2018年ですか、はえ~!

 

12/30

・そう、Father John Misty『Pure Comedy』とLorde『Melodrama』もかなりよかったです。Father John Misty、豊潤だ。マコーレー・カルキンがカート・コベインに扮している「Total Entertainment Forever」のMVも最高です。Lordeもフジロックですごくかわいかった。あとはトラップ、というか、Migosのよさがわかってきました。3人の佇まいがすごくキャッチーだし、独特な掛け合いにハマってしまった。聴いていて楽しいです。

・映画、イングマール・ベルイマン『叫びとささやき』も衝撃でした。息苦しいコミュニケーションからの超現実的な展開の中に真実を照らし出す鮮やかさ! 年末に凄いものを観てしまった。

 

12/31

Talking Heads × ジョナサン・デミストップ・メイキング・センス』、涙が出るほどカッコよかったです。

バナ男の人生

 へえ、ご実家、バナナ園なんですか! すごい! 彼に出会った人はみな感嘆した。すごい! すっげえ! 大したもんだ! マジっすか! ヤバいっすね! へえ! ほお! グルーヴィ! 表現は様々だったけれど、みな一様に大きな声を上げ、身を乗り出した。日本に暮らしているなかで耳馴染みのない「バナナ園」というフレーズ、その得体の知れなさに興奮した。ほとんどの人にとって、バナナ園の息子と出会うのは彼が初めてだった。正確に言うと、ほとんど、ではなく、すべての人。彼がこれまで出会ったすべての人が、彼のほかにバナナ園の息子を知らなかった。売れない作家や絵が描けなくなった画家や30秒より長い曲を書かない音楽家のことは知っていても、バナナ園の息子は知らなかった。中南米の小さな国の大統領や、一年に一回宝くじを当てて暮らしている慎ましい超能力者や、スーパーマーケットのレジ打ちが日本で一番速いおじいさんのことは知っていても、バナナ園の息子は知らなかった。人々は身を乗り出し、目の前に座っている人当たりのよさそうな男が語り始めるのを待った。なにせ相手はバナナ園の息子だ、これまで聞いたことのないような類の人生を送ってきたに違いない、と人々は胸を躍らせた。

 しかしバナナ園の息子はその期待に応えられない。

 彼の実家のバナナ園は千葉県にあった。かなり大きなバナナ園だった。彼は両親が30代の終わりに差し掛かった頃に生んだ一人息子だった。幼い頃から、バナナの木と木の間を駆けずり回って遊んだ。もちろん食卓には毎朝バナナが並んだ。素バナナ。バナナ入りヨーグルト。バナナシェーク。バナナチップス。マッシュバナナ。また、母の創作バナナ料理を試食させられるのも彼の役回りだった。バナナパスタ。バナナ鍋。バナナの肉詰め。クレイジーバナナ。しかし、彼は多くの寓話の主人公とは異なり、実家で育てているものを嫌いにならなかった。彼の好物はカレーライスとバナナだった(が、母の作ったカレーバナナとバナナカレーはどうもいけなかった、と彼はのちに僕に語った)。バナナをかじり、サッカーとゲームボーイをやり、少年ジャンプを回し読みし、そしてバナナをかじって彼は育った。小学校5年のときから彼のあだ名は「バナ男」になった。バナ男はいつもバナナを持っていた。バナ男は明るく朗らかで歯のきれいな少年だった。バナ男の両親は、息子がバナナのせいで虫歯を作ったり、過度に贅肉をつけたりすることを良しとせず、きちんと育ってくれることを願い、ゆくゆくはバナナ園を継いでくれれば嬉しいと考えていた。そこでバナ男は中学受験をし、都内の中高一貫の男子校に入学する。小学校の友だちとは別れることとなったが、たまたま、彼は中学校でも「バナ男」になった。よく覚えていないけれど、自分でそう名乗ったのかもしれないし、周りの誰かが勝手に付けたのかもしれない。バナ男はサッカー部に入り、中学3年生のときにやめ、そのまま大きな抑揚のない思春期を過ごす。彼はバナナが下品な喩えに使われるのを嫌がった。教師の悪口や最近のロックの話やおっぱいの話で友だちと盛り上がるのも面白かったけれど、一方で、ひとりで映画を観に行ったり、でかい本屋をうろうろしたり、ちょっと背伸びをして種々の展覧会を覗き込んだりすることにひそかな楽しみを見出すようになった。実家のバナナ園がそのときまだとても大きかったので、彼はお小遣いをそれなりに貰っていて、ひとりであちらこちらを探索してみるのに不自由しなかった。学校が休みであっても、小さい頃のようにバナナ園の手伝いはせず、池袋まで出てきてジュンク堂を下から上まで這いずり回り、サンシャイン通りをおろおろ歩き、新文芸坐に2本立てを観に行き、うとうとして帰った。あるいは友だちと昼前に集まり、路上のあれこれにいちいち声を上げて笑いながら散歩をし、サイゼリヤミラノ風ドリアを食べ、カラオケでスピッツを歌って帰った。バナナは相変わらず好きだったし、バナナ園の向こうに沈む夕日の美しさに胸を詰まらせることもしょっちゅうだったけれど、自分がバナナ園を継いでいる姿はあまりイメージできなかった。イメージできないまま、やがてバナ男は国立大学の法学部へ進んだ。大学生になってからも当然「バナ男」だ。バナ男は文芸サークルに属し、そこではじめて恋人ができた。カールがかったショートヘアの女の子で、バナ男と同じようにビートルズのアルバムだと『ラバー・ソウル』が一番お気に入りで、そして、無類のバナナ好きだった。気恥ずかしいので両親には内緒で、バナ男は彼女を実家のバナナ園に連れていき、甘い映画のワンシーンのように木々の間でかくれんぼをしてはしゃぎ、これじゃ甘い映画のワンシーンみたいだね、と笑いあった。しかしその後の二人は甘い映画のようにはいかなかった。バナ男にとっての最良の日々は終わり、冬が来て、春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、また冬が来て、いつしか彼は大学を卒業しようとしていた。彼は両親にバナナ園を継がない旨を告げる。作家になりたいんだ。そうか、何年かやってみて、駄目そうだったら戻ってきなさい。さすが、巨大なバナナ園を治めてきただけあって、バナ男の両親は寛大だった。バナ男は田端に小さな部屋を借り、小さな出版社でバイトをしながら、小さな短編を書き続けた。やがて同じ作家志望の若者たちとも交流するようになり、互いの文章を見せ合い、褒めるべき箇所は褒め、苦々しい箇所に対しては曖昧な笑みを浮かべた。バナ男の短編のたいていは、矮小化された人と人とのすれ違いを三人称で描いたものだった。愛し合う男女がやがて別々の道を辿ったり、仲良しだった二人がいつの間にか互いに気づかない振りをするようになったり、互いを知らない男女が結局最後まで知り合うことなく終わったりするような。あまり出来がいいとは言えない。いくつかの小さな文学賞に応募したが、選考を通過する気配はなかった。バナ男の短編を、光るものがあると思う、と評してくれた友人はどこかの新人賞を受賞して遠くへ行ってしまった。それとは別の何人かの友人はいつしかいなくなってしまった。バナ男の両親はときおり息子の田端の小さな部屋を訪れたが、訪れるたび、目に見えて白髪が増えていくようだった。最近、バナナ園はどうなの? 息子は父に訊ねた。それがなあ、バナナ園、そのうち閉めなくちゃいけなくなるかもしれん。そうなの。すまんな。いや、こっちこそごめんなさい。バナ男は27歳になっていた。バイトをしていた小さな出版社でそのまま社員として働くことになった。仕事上、いろいろな人と話をすることになる。彼と出会った人はみな彼の話を聞きたがる。へえ、ご実家、バナナ園なんですか! すごい! 人々は身を乗り出して彼が話し始めるのを待つ。彼は期待に応えられない。彼は少しおどけてこう言う、「あ~、いや、そのテンションで来られると困っちゃうんですけどねえ~」